『このマンガがすごい! 2024』でアンケート回答しました

 『このマンガがすごい! 2024』の「オンナ編」選者としてアンケートで回答しました。

 

 

 ぼくが選ぼうかどうか迷って結局選ばなかった作品の一つを挙げておくと『いつか死ぬなら絵を売ってから』。
 これがオンナ編18位にランクイン。

 

 


 松本清張「青のある断層」を思い出します。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 いや…ストーリー的には、「青のある断層」は、ある意味で無慈悲な結末なんですけど、なぜこの二つの作品を並べてしまうのかといえば、「(特に素人が描いたような)絵の価値が見出される」というところが好きでたまらないんでしょうね。

ストレイチー『ナイティンゲール伝』 茨木保『ナイチンゲール伝』

 佐原実波『ガクサン』で予備校講師参考書の面白さが主人公の一人から語られる。

 そこで世界史で「ざっくり歴史を要約してくれる」ような面白い講義があるのではないかと本屋でいろいろ立ち読みしてみると、『青木裕司 世界史B講義の実況中継3』が実にぼくの感性に合っていた。

 四角四面に要約してあるのはダメなのだ。

 しかも短いページにビッチリ書いてあるのも読む気が無くなる。

 その点で『青木裕司 世界史B講義の実況中継3』は語り口、ページの行間などが、まさにこれしかないというくらいぼくにフィットしていた。そのかわり、1ページあたりの進行が遅くなるので、世界史全部を網羅しようと思うと数巻にも及んでしまうといううらみがあるのだが。

 なぜ3巻かといえば、娘の「歴史総合」を読んでいてヨーロッパ近代史(19世紀前後)があやふやだったから。また、『資本論』やマルクスの本を学習したりする際に、実は自分の知識がいい加減だったりあやふやだったりすることを何度も思い知らされていたからだ。そこをざっくり整理したかったのである。

 青木裕司の本の中では、随所に岩波文庫岩波新書などがコラムで紹介されている。知的関心が広がるようにできていて素晴らしいと思った。まあ、現役の生徒たちが実際にそれでその紹介本に手を伸ばすかどうかは別だろうけど。

 『資本論』を読破した体験なども書いてある。そして、それはそのまま、大学という「膨大にある学ぶ時間をどう使うか」という手引きになっていて、ぼくのようなバブル時代の学生気質にはもう首を何度も激しくタテにふるしかないよね、というようなことが書かれている。

 

 僕は大学生のときに、1日に20ページずつ読んで、半年かけて『資本論』を全部読みました。…今まで本を読んで得た感動の中で、これは最高のものでした。…

 ついでだが、一言いっておこう。大学生活とは、読書です。本を読んで考えることをしない学生生活など“無”といっていい。

 じゃあどんな本から読むか?

 結論を言うと、その道の最高にして最大の本。

 国文学に行くのだったら、紫式部の『源氏物語』とか、夏目漱石全集とかね。

 英文学をやる人だったら、やっぱりシェークスピアかなあ。経済学だったらアダム=スミスの『諸国民の富』でもいいし、ワルラスでもメンガーでもケインズでもいいや。政治学をやるのだったら『リヴァイアサン』とかね。大著をじっくり読む時間が、君たちに少なくとも4年間は保証されているのです。大学のときに軽いものばかり読むのはダメです。すぐに役立つ本は、すぐに役立たなくなるものです。

 読むべき本を選んだら、じっくり時間をかけて読みましょう。…僕は1日20ページをノルマにして、5時半に起きて体調を整え、濃いコーヒーを飲んで、11時くらいまで『資本論』を読みました。(青木p.140)

 

 

 この本の中でリットン・ストレイチー『ナイティンゲール伝』が紹介されていた。

 

 これは読んでみたいと思った。

 そこで本屋をめぐったのがない。

 仕方なく、図書館で借りて読むことになった。

 

 

 ナイチンゲールは、子ども向け伝記のような「白衣の天使」ではないよ、というのはどこかで聞いた記憶があるのだが、具体的にどういうことであるのかはよく知らなかった。

 本書の「ナイティンゲール伝」はわずか文庫で100ページほどしかなく、実は著者ストレイチーの『著名なヴィクトリア朝人たち』というヴィクトリア朝時代の有名人の伝記をまとめた本の中の一部なのである。1918年に刊行されているので、ヴィクトリア朝が終わって20年ほどたったあとに書かれたものだ。

 ヴィクトリア時代の「偉人」の4人を取り上げているが、そこには隠れた意図があった。

通説によれば、四人は社会や国家に貢献した偉大な人物であったろう。しかし、作者は巧みな方法を用いて、隠された毒によって、通説を批判し、四人の実像を暴こうとしていた。(訳者あとがきp.193)

 現代から見れば物足りない批判でも、当時は強烈だったようだ。

『著名なヴィクトリア朝人たち』は、ヴィクトリア朝の仮面を剥いで、偉大な人たちに悪口を浴びせる本として、はげしい避難を浴びることになった。(p.194)

という。しかし、それゆえに一種の客観性を獲得し、この本は「伝記として高い評価を受け」(同前)た。

 ぼくが読んでいて、特に心に残ったのは、ナイチンゲールというのは目的遂行のためには執念ともいえる徹底性を持っていて、革命家でいうとレーニンのような政治機械を思わせた。まわりにいた、頼るべき資源となる人物を徹底的に手段として使い、目標を達成し、障害を撃破した。

 伝記的な成功譚としては面白いし、快哉を叫びたくなるが、身近にこんな人物がいてはたまったものではない。精神をやられてしまう。

 特に、陸軍大臣にまでなったシドニー・ハーバート。彼を政治上の前線に立てて、ナイティンゲールは後ろから指令を送っていた。ハーバートが体を壊しやがて死んでしまうまでこき使った。休ませてほしい、というハーバートの懇願に対して、それを罵り、休ませずに、働かせた。よく、一つの家庭を乗っ取り、支配してしまい、多くの人を殺すまで至ってしまう事件があるが、ああいう精神支配構造と似ているのではないかとさえ思い、ゾッとした。

 ハーバートは男性の大物政治家である。え、ひょっとして色恋沙汰? と思ってしまうのだが、ハーバートは妻がいたし、妻自身が熱心なナイチンゲール支持者であり、ナイチンゲール自身にはおよそ恋愛的感情に溺れてしまうような「弱さ」がない *1

 ストレイチーの伝記にはこうある。

 ハーバートほど利己心を持たぬ人はいなかった。驚くほどに慈悲と博愛の心に富んでいた。そして、常に渝ることなく良心的に生活のすべてを公共への奉仕のために捧げた。…

 ミス・ナイティンゲールと知り合っていなかったならば、彼の生涯はまったく違ったものになっていたろう。スキュタリへ彼女を派遣することに始まり、戦争中にますます密接なものとなった二人の結びつきは、彼女の帰国後、限りなく並はずれた友情に発展して行った。

 それは、公共の大目的に献身することで親密に結ばれた男と女の友情であった。もちろん、相互の愛が一役買っていたが、それは付随的なものにすぎなかった。二人の関係の真髄は、同じ仕事を一緒にしていることにあった。(p.63) 

 

 ミス・ナイティンゲールの最も熱心な讃美者の一人は、ミセズ・ハーバートであった。(p.64)

 シドニー・ハーバートとナイチンゲールの関係を、虎に射竦められた雄鹿とまでストレイチーは比喩している。

 公の場所で生きる上での資格として、ミス・ナイティンゲールには、一つだけ欠けているものがあった。成功した政治家が持つ権威と権力が、彼女にはなかった。どうあがいても、それは持てぬものであった。

 その権威と権力を、シドニー・ハーバートは持っていた。(p.64-65)

 彼女は彼をつかんだ。教えた。思うようにつくり上げ、吸収した。徹底的に支配した。彼は抵抗しなかった。抵抗しようとは望まなかった。

 生まれながらの彼の気質も、彼女の気質と同じ道を選んでいた。ただし、彼女の恐ろしい個性が、彼女独得の物凄い速さで、容赦なく大股に、彼を前へ前へと駆りたててしまったのである。彼をどこに駆りたてたのか? ああ! なぜミス・ナイティンゲールと知り合ってしまったのか?

 パンミュア卿〔ナイチンゲールの改革の妨害者〕がバイソン(野牛)であったとするなら、シドニー・ハーバートはもちろん雄鹿であった。森の中を跳びはねる、美しく雄々しい生き物であった。しかし、森は危険な場所であった。雄鹿の見開いた眼は、獰猛な獣にあっという間に射竦められてしまう。一瞬息を呑むと、次の瞬間には、雌の虎がふるえる尻に爪を立てていたるのだ。そうして……!(p.65) 

 ハーバートだけではない。

 このようにしてナイチンゲールにからめとられてしまった人物は他にもいる。叔母のメイやサザランド博士である。

 疲れを知らぬ弟子として、〔サザランド〕博士はついにナイティンゲールを見棄てなかったからである。休むこともできず、我慢しきれぬ時があっても、博士はとどまった。「ものの考え方が治しようがないほどだらしない」と彼女は博士のことを言ったが、そのために最後まで彼女に仕えつづけることになった。一度は確かに、休暇をとろうとしたことがあった。しかし、直ぐに呼び戻されて、二度とこの実験は繰り返されなかった。

 博士は階下にいて呼び出しを待っていた。階下に坐って、事務を処理し、手紙の返事を書き、客に面接した。階上の見えない権力者と数かぎりなくメモをやりとりした。時には、ミス・ナイティンゲールの気分がよいから、訪問客の一人と会うという言葉が降りてくることもあった。運のよい男は、階上に案内され、顫えながらカーテンの引かれた部屋に通される。もちろん、この拝謁を生涯忘れなかったろう。(p.92)

 

 この本を読み終えて、現代ではどう書かれているだろうかと思い、まず子ども向けの伝記マンガを手にした。

 『まんが人物伝 ナイチンゲール 看護に生きた戦場の天使』(KADOKAWA)。ハルヒシリーズで有名な「いとうのいぢ」がコミカライズをしている。監修はナイチンゲール看護研究所所長の金井一薫だ。

 

 

 表紙の雰囲気、サブタイトルの付け方などから、この本がナイチンゲールをどう扱おうとしているかがわかるだろう。

 ハーバートなどとの関係もソフトにではあるが、ストレイチーが描いた部分は出ている。しかし、やはり、最良のパートナーとしての美談風になっている。

 もちろん、これはこれで手際よくナイチンゲールの生涯を知る上では便利な本である。

 

 これに対して、ストレイチーのナイチンゲール観をさらに徹底させたコミックが、茨木保『ナイチンゲール伝 図説 看護覚え書とともに』(医学書院)だろう。

 茨木保については過去に取り上げたことがある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 ストレイチーの見解をさらに徹底したのが下記のコマである。

 

茨木保『ナイチンゲール伝 図説 看護覚え書とともに』(医学書院)p.79

 だが、そう聞いて、本書を「ナイチンゲール批判」と受け取るのは早計である。

 茨木のマンガを読むと、ナイチンゲールがいかにすぐれた病院改革者であるかがわかるのだ。病院の衛生や看護についての意見だけでなく、組織の内外でどのように動けば実現するのかが実にたくみ。

 下記はナイチンゲールがいかに統計の利用・視覚化をたくみに行ったかを示すコマである。

 

茨木前掲p.80

 茨木の本を読むと、彼女が著した『看護覚え書き』とあわせ、19世紀にここまでできたことに驚嘆するのである。

 しかしながら、彼女がその目的遂行のために他人を支配し、徹底的に手段として扱ってしまった側面は、リアルな負の側面として読む者に伝わる。にもかかわらず、それは19世紀の制約としてぼくは受け止めたし、この伝記マンガの率直さ・美点として感じられた。こうした側面がないほうがおかしいのだとすら思う。

*1:悩む一面はある。また、その感情の抑圧の仕方がいびつで、それはそれで別の弱さのように思われた。

更科功『若い読者に贈る美しい生物学講義』

 リモート読書会で更科功『若い読者に贈る美しい生物学講義』を読む。

 この本は、生物学に興味を持ってもらいたくて書いた本である。タイトルには「若い読者に」と書いたけれど、正確には「自分が若いと勝手に思っている読者に」だ。好奇心さえあれば、百歳超の人にも読んで欲しいと思って、この本を書かせて頂いた。(p.5)

 高校の生物で6点を取った歴史を持つ男として、「ほう、興味を持たせられるなら持たせてもらおうではないか」と思って読み始めた。

 更科本人による章立て紹介は次のとおりである。

 簡単に内容を紹介しておこう。まずは、生物とは何かについて考えていく(第1章および第3章〜第6章)。そのなかで、科学とはどんなものかについても考えてみよう(第2章)。生物学も科学なので、その限界についてきちんと理解しておくことが大切だからだ。それから実際の生物、たとえば私たちを含む動物や植物などの話をする(第7章〜第12章)。それから生物に共通する性質、たとえば進化や多様性について述べ(第13章〜第15章)、最後に身近な話題、たとえばがんやお酒を飲むとどうなるかについて話をする(第16章〜第19章)。(p.5-6)

 二つの角度から本書に関心を抱いた。

 一つは、書かれている内容について、実際に興味を覚えたことがある。

 もう一つは、啓蒙書としてのわかりやすさについて。

 

 最初の点、「書かれている内容について、実際に興味を覚えたこと」をいくつか記しておこう。

 第一に、「生物とは何か」という点についてであった。

 p.49に有名な「生物の定義」として満たすべき3条件が挙げられている。

(一)外界と膜で仕切られている。

(二)代謝(物質やエネルギーの流れ)を行う。

(三)自分の複製を作る。

 読書会参加者によれば、高校の教科書などでは、昔は「定義」だったが、今はそこは「次の条件を備えている」みたいなふんわりした書き方になっている、とか「ウイルスは昔は明確に生物扱いしていなかったが、今は微妙な書き方に」…という趣旨の発言があった。

 本書にも地球外生命体の話などが少し書かれているけども、生物についての究明が進むごとに、あるいは新しい種類が加わることで、定義が揺れ動いて豊富化されていくという様が「定義」というものの便利さと不自由さに思いをいたさせる。弁証法の議論でよくあるやつだ。悟性としての定義。

 「定義」というものの意義と限界については後で少しおしゃべりしておく。

 

 第二に興味をひかれたのは進化の「高等・下等」という問題だった。

 これはよく聞く話ではあるが、あまり深く考えたことはなかった。

 進化の系統図(系統樹)を書くとき、哺乳類を鳥類や爬虫類よりも右側に書くことがある。そうすると、いかにも哺乳類は鳥類や爬虫類よりもより進化した生物だというような印象を与える。

 しかし更科はそのような考えを批判する。

 鳥類や爬虫類の方が、哺乳類よりも陸上生活に、より適応している一面があることを尿素・尿酸の話で次のように記す。

陸上にすんでいる動物にとって、水を手に入れるのは大変なことである。だから、水はなるべく捨てたくない。それなのに、私たちは結構たくさんの尿を出して、水をたくさん捨てている。もったいない話である。一方、ニワトリやトカゲは、尿をあまり出さない。ニワトリやトカゲが、イヌみたいに大量の尿を出している姿を見た人はいないはずだ。それは、尿素を尿酸に変える能力を進化させたからである。つまり、哺乳類は両生類よりも陸上生活に適応しているが、爬虫類と鳥類は哺乳類よりもさらに陸上生活に適応しているのである。(更科Kindle版p.220)

 では、鳥類や爬虫類の方がより「高等」なのかといえばそうではない。適応の仕方が違っているというだけで、そこには高等・下等の区別はない。

 我々がつい「原始的な生物」と呼んでいる、太古からあまり姿が変わっていないような生物についてもそれが適応しているからそういうスタイルや姿なだけであって、高等・下等という問題ではないという。

 更科はそのことを、次のようにたとえる。

伝統の味を守り続ける老舗の和菓子店と、新作のスイーツが話題の新しい洋菓子店。どちらの売り上げが多いかとか、この先どちらが長く繁盛するかとか、そういう問いには意味がある(答えがわかるかどうかは別にして)。しかし、どちらが高等な店で、どちらが下等な店か、という問いに意味はないだろう。(更科Kindle版p.167)

 これは進化の問題を考える上で、感覚的にわかりやすい比喩だと思う。

 進化を「変わらなくてはいけない」という人生教訓的メッセージとして読み替えることがあるが、つどつど検証して「このままでいいじゃない?」という選択をすることも立派な進化=適応だと言える。もちろん、検証せずに漫然と同じことを繰り返していれば滅ぶわけだが。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 次に、本書の「啓蒙書としてのわかりやすさ」について書いてみる。

 残念ながら、「生物学初心者」のぼくにとっては、それほどわかりやすい本ではなかった。読書会参加者の中には「紙屋さんのレベルでは難しかったというだけで、例えばこれから生物学に向き合う高校生や大学生にはそれほど難しくないと思うよ?」という意見を述べる人もいた。

 一理ある。

 しかし、そのような若者だけでなく、ぼくのような年配者にも向けて書かれているのだからそのような人間が読んでわかりにくいと思うならやはり問題があるのではないかと思う。

 具体的にどこが?

 例えば第15章「遺伝のしくみ」のところだ。

 私たちヒトの細胞には、核膜で包まれた核という構造がある。その核の中に、四六本の染色体が入っている。染色体はおもにタンパク質とDNAでできている。生物の遺伝情報は、このDNAという分子に書き込まれている。

 タンパク質もDNAも、ひものように長い分子である。タンパク質は、アミノ酸がペプチド結合でたくさんつながったもので、DNAはヌクレオチドがホスホジエステル結合でたくさんつながったものである【図15-1】。ヌクレオチドは、糖とリン酸と塩基が結合した分子だ。糖とリン酸の部分は、DNAを構成するどのヌクレオチドでも同じだが、塩基は四種類ある。この四種類の塩基の、DNAの中での並び方が、後で述べる遺伝情報になっているのである。(p.231)

 ホスホスとかヌクヌクとか、もういけない。

 頭が痛い。

 そもそもここで「ホスホジエステル結合」という言葉を出す必要があるのだろうか? 「ホスホジエステル結合ってなんだろう…」「難しそう…」という漠然とした不安がよぎり前に進めなくなってしまう。

 「糖とリン酸の部分は、DNAを構成するどのヌクレオチドでも同じだが、塩基は四種類ある」という表現。素人であるぼくは「糖」はなんとなくイメージできるが「リン酸」というものに全く親しみがない。どんなものかわからない。読み飛ばしていい気もするがぼんやりとしたわからなさがつきまとったままになる。「前に説明したでしょ」と言われたとしても、いちいち覚えていない。説明されていない気もする。

 そのような不安だらけの言葉に囲まれて、「糖とリン酸の部分は、DNAを構成するどのヌクレオチドでも同じだが」という意味が頭に入ってこない。これが「塩基は四種類ある」という文節に接続されている。この文章を最初に読んだとき、何を言っているのかわからず、文意は取れた後でも、どういうイメージなのかよくわからなかった(学習をした今ではわかるけど)。

 引用文の冒頭にある「私たちヒトの細胞には、核膜で包まれた核という構造がある。その核の中に、四六本の染色体が入っている。染色体はおもにタンパク質とDNAでできている。生物の遺伝情報は、このDNAという分子に書き込まれている」も、いきなりこの文章を読んだときには、核膜・染色体・タンパク質・DNA・遺伝情報というものが物理的にどういう位置関係になっているのかが全然理解できなかった。学習をした今となっては確かにこの文章の通りだなとわかるのだが。

 

例えばAATCGGAという塩基配列を持つDNAを鋳型にして、TTAGCCTというDNAを作ることができる。さらにそのDNAを鋳型にすれば、最初のDNAと同じ塩基配列を持つDNAが新しく作ることもできる。(p.236)

 これもAATCGGAの後にTTAGCCTが繋がると思ってしまっていたので、なんだかさっぱりわからなかった。AATCGGAのすぐ横にTTAGCCTがドッキングしているというイメージがあれば簡単にわかる話だったのに。

 「そんな初心者中の初心者を相手にしておられんよ」と言われそうだ。実際、読書会でも笑われた。さすが高校生物で100点満点中「6点」を取った猛者だけのことはある。

 要するに、ぼくのようなど素人からすれば、本書への不満はこうだ。

 

  1. 図が少ない。
  2. もっとていねいに説明してほしい。
  3. 一度出した概念でも繰り返し説明してほしい。同じページへの注記でもいい。
  4. その後にあまり使わない概念(ホスホジエステル結合のようなもの)はできるだけ出さないでほしい。それだけで敬遠したくなる。

 2.は「ちゃんとやさしい言葉で説明しておるだろう」と言われるかもしれないが、違うんだな。理系学者の啓発書にありがちなことだが、導入は思わせぶりなくらいゆったりと、たくさんの比喩、卑俗とも思えるくらいのわかりやすさをふんだんに盛り込んでいくのだが、途中から急に猛スピードで進んでいってしまう。みるみるうちに米粒のように遠くへ行ってしまう。おーい。置いていかないでくれー。

 最初に見せてくれたあなたのあの「やさしさ」はどこへ行っちゃったの? とまるで別れ際のカップルみたいな気持ちになる。

 

 結局遺伝と免疫のところは、受験用動画と参考書で補足した。

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 読書会の今回のファシリテーターから「まあ、結局いろいろ生物学について勉強するきっかけになってよかったですね〜♪」と言われてしまった。著者(更科)の意図通りではないかと。

 う、そりゃまあその通りですけど…。

 

補足:定義について

 「生物とは何か」を定義する話を上記で書いた。

 ヘーゲルはこのような人間の思考のあり方の意義と限界を記している。その解説本(鰺坂真・有尾善繁・鈴木茂編『ヘーゲル論理学入門』有斐閣新書)から「定義」批判をご紹介する。

 「定義」は、分析的方法によってえられた抽象的普遍、類のことです。特定の特殊な対象は、この類に種差をくわえていくことによって、とらえられます。したがって定義は、具体的な特殊な事物からその特殊性を捨象してえられた、ただの共通性にすぎません。だから幾何学のように、純粋に単純化された、抽象的な空間の諸規定を対象とするものには、よくあてはまります。

 ところが、定義は、たとえば生命・国家などのように、多面的な諸側面からなる生きた全体をとらえるには、きわめて不十分です。というのは、対象の諸側面が豊富であればあるほど、その対象の定義も、ひとそれぞれの見解によってますますさまざまになるからです。定義という普遍的な規定は、事物の質的な差異を捨象してえられるものであり、多様なものの共通性です。定義は、現実の具体的なもののどの側面が本質的なものなのか、という規準を、どこにももってはいません。だからしばしば事物は、表面的な特徴とか指標で定義されたりします。たとえば、人間と他の動物との区別を耳たぶに求めるというようなことも、その一例です。

 さらに現実の事物は、多様であるとともに、多数の不純なものとか、できの悪いものをふくんでいます。定義どおりのものは、どこにも存在していません。そのばあい、定義はその処理に苦慮し、対象があらわれるたびに定義をかえねば説明のつかないことになります。そうするとさまざまな定義がうまれ、どれが事物の真の定義かわからなくなります。逆に、さまざまなものを全部、一つの定義にふくめようとすると、定義それ自体が不明瞭なぼんやりとしたものになります。

 「定義」には、このような制限性があります。(同書p.169-171)

 

 これはまさに生物の定義をめぐって起きていることである。

 多様さを捨象して、共通性という貧しい側面だけで抽象的にまとめようとする精神の表れ(悟性)が、事物を生き生きととらえずに、むしろ平板な把握に落としていってしまうことがあるのだ。

テスト前のわが子にイラつく

 高校生のわが子は、もうすぐ期末試験である。

 1学期はちょっとがんばっていたが、2学期の中間は全然勉強せず、テストの結果も順位も落ちていた。物理学(「物理基礎」)の出来が悪かった。

 「俺の高校時代とおんなじだなあ」と思った。

 もうね。斜面に止まっている四角い物体から矢印が出ている図を見るとと虫酸が走るんだよね。あと、滑車を引っ張ったりしている図とか。そんなもの引っ張ってないで、もっと有益なことしたら? とか思う。

 娘はそんな高校時代のぼくを彷彿とさせる物理の成績である。

 他の教科も同断である。

 

 わが子はPCの前に座って、SNSとか動画とか見たりしながら、「ワハハ」とか笑っている。

 もう長〜い時間そうしている。

 「勉強しなきゃ」とbotのようにつぶやくが、つぶやくだけだ。

 こっちがイライラする。

 「その時間、勉強すればいいのに…。今日は休日だろ? 休憩入れても10時間くらいできるはずだよね」などと心の中で思う。

 時間が無駄に過ぎているイメージが心から離れない。

 水道の蛇口が出しっ放しのまま、それを放置してPCを見て笑っているようなイメージを持ってしまう。なんか言いたくなる。「いやあ…今すごい勢いで時間が浪費されてるけど?」って。

 

 いや。

 「心の中」ではとどめておけない。3日に1回くらい、そう言ってしまう。

 「うるさい」「わかってる」と返される。(たまに「それなー」と言われる。)

 ぼくがそう言ったからといって、取り掛かる訳でもない。

 

 数学や物理はいろいろあろうが、少なくとも暗記系教科をやっておけば、驚くほど取り組んだ時間に結果が比例する。全然違うではないか。などとイラつく。

 テスト前。イライラしたり、ハラハラしたりする時間が流れている。

 

 だけど、全然勉強していない訳ではない。

 いや…それなりにやっている。

 ときどきPCから外れて、机の上で、「歴史総合」などのノートを作り出す。ちょうど「第2インターナショナル」「青年トルコ人革命」などを覚えている。「お父さん、問題出してくれる?」というので「アヘン戦争の後、1856年に、イギリスとフランスが清に対してしかけた戦争は?」などと問題をだす。1時間くらいそれをやった。

 英単語も同じように問題を出す手伝いをさせられる。

 ぼくは理数系はてんでダメなので、得意なつれあいが、夜も遅い時間に教えたりしている。

 

 そして、「学校が楽しい」と、別にぼくが報告を依頼をしたわけでもないのにつぶやいて、状況を説明する。

 その「楽しい」は、高校になってクラスの同質性が高まり、みんなふんわりと仲がよく、中学時代のような異質のグループに分かれてギスギスした感じがないから、という意味なのだが(その代わり、中学時代は部活動が彼女の居場所だった)。長い時間を過ごすクラスが落ち着けるので、うれしいわけである。

 例えば、クラスの女子が授業で「わかりません」と答えた、その答え方がすごくホワワワワンとしていたらしく、それに対して思わずクラスのある男子(少々陽キャ系)が「え。かわいい」と全く何の気なしにつぶやいてしまい、クラス中爆笑になったという。しかもただ可笑しみを楽しんだという感じで。

 そのつぶやきを、この年頃にありがちな、茶化したり、いじったりするわけでもなく、温かめに笑うというあたりが、娘が感じる人間関係の居心地の良さなのだ。

 クラス生活、楽しそうだ。

 

 それでいいではないか。

 一体何がぼくは不満なのか。

 中学の時と違って、ディープな友人が高校でいるわけでもなさそうではある。中学時代はそういう友達とずっと長い間おしゃべりしていたようだったが、今はそういう友達は同じ学校にはいない。だから、ストレスも格段に小さいようだけど、バッファーもまた小さくなったのかなと思う。その分、心の安定を得たり、ヒットポイントを回復するために、PCに長いこと向かうのかなとも思ってみたりする。

 学校は楽しそうではないか。 

 勉強も自分なりにしているではないか。

 

 そして、「勉強してない!」とぼくはイライラしているけど、本当にぼく自身は高校時代にそんなにやっていたかといえば、どこかで記憶が捏造されている気もする。ぼくは中学時代は自宅での勉強かなりやっていたし、そういう客観的記録も残っているが、高校になってからは、だんだんずる賢くなったような気もする。

 英語のリーダーなどは、テスト前日まで結局ぼくは単語を覚える作業をせず、当日になって和訳だけ必死で丸暗記したという本末転倒のことを繰り返していたという黒歴史がふと蘇る。いうほど、お前自身は勉強してねーよ。

 

 心の安寧を得ていないのは、娘ではなく、親たる自分の方なのだ。

 と自分に言い聞かせてみる。

 

大和田敢太「ハラスメント根絶のために」

 日本共産党の理論誌「前衛」の2023年6月号、7月号、8月号で上中下にわたる大型論文が載った。

 滋賀大学名誉教授である大和田敢太の「ハラスメント根絶のために——実効力ある包括的なハラスメント規制の原点」という論文である。

 ぼくはハラスメントに苦しみ、精神疾患に追い込まれている一人として、この論文を切実な気持ちで読んだ。

 

ハラスメントは個別事件ではなく組織・経営の問題

 大和田論文で重要と思われた1点目は、ハラスメントは「個別の事件」として扱うのではなく、「組織の問題」「経営的課題」すなわち構造的な問題としてとらえるという把握である(引用の典拠を示す「上」は6月号、「中」は7月号、「下」は8月号の「前衛」のページ数。強調は引用者による)。

 〔…略…〕現行のハラスメントに関する立法や政策を前提にして、その解釈や適用を試みるだけでは、ハラスメント問題の根本的な解決に到達することはできません。

 それは、現行制度の考え方やその枠内だけの解釈からすると、ハラスメントは、当事者の問題だと理解し、組織自体の問題としてハラスメント対策に取り組むことを後回しにする傾向があるからです。政党も、政策を立案したり、実現する立場からハラスメントを課題にするだけでなく組織の問題としてハラスメント問題に取り組むことは実に有意義なことです。(上p.187)

 ここに書かれている認識は実に恐ろしいことである。

 ぼくらはハラスメント問題を、必ずと言っていいほど「当事者の問題」としてとらえてしまう。というか、その組織の内部にいる人ほど、そうとしかとらえようとしないからである。逆に言えば、決して「組織の問題」にしてはいけないという力が働くからである。

 「当事者の問題」というのはどういうことかと言えば、例えば、「古い考えの、ハラスメント体質の人が、ハラスメントに敏感な人に、無思慮にハラスメントをやってしまって起こる、個別の事故」というとらえ方である。

 だから、ハラスメントを起こした個別の人を処分したり、謝らせたり、研修を受けさせたり、異動させたりして「終わり」とするのである。

 そうではなくて、組織全体がそのようなハラスメントを起こす構造・方針・現状になっていて、その組織の歪みが治らないうちは、組織のいたるところでハラスメントが起こり続ける——という「組織の問題」としての認識をもてない。むしろそのように考えることを極力拒否し、「個別の事故」だというふうに必死で落とし込もうとするのである。

 

〔…略…〕ハラスメントは当事者の個性や性格に起因する問題ではないのです。ハラスメントの原因を加害者の特異な性格や資質に帰せることは、対人関係という個人間のトラブルの問題に矮小化するものです。それは、ステレオタイプな被害者像や加害者像を作り上げることにもなり、特に、ハラスメントされる側にも攻撃されるだけの弱さや理由を抱え込んでいるといった主張を招きやすいのです。(中p.189)

 だから、「サイコパス」「マキャベリスト」「ナルシスト」といった加害者の特徴づけも、それを加害者の必要十分条件のように考えると、まさにステレオタイプな加害者像を作り上げていってしまうことになる(そのような性格の人間がハラスメントの中でも特にひどいハラスメントに起こす可能性があるにしても)。

 「個別の事故」という扱いをされたハラスメントは、ハラスメント種別ごとの定義や対策のための制度が細分化されていく。

細分化された定義と制度の結果、ハラスメントの事件は、個別紛争として扱われる傾向があり、経営的な課題として、ハラスメントを根絶するという全般的な政策課題に位置付けられることを遠ざけるという風潮さえ作り出しかねません。(下p.193)

 「進歩的組織」という看板を掲げた組織は、ふつうの企業よりもこの傾向は強くなりかねないのではないか。なぜなら、人権などを大事にする「進歩的組織」だから、構造的・経営的に組織としてそんな問題を引き起こすなどということはあり得ず、起こるとすればそれは個別の、遅れた意識の、特殊な個人による、特殊な事故に過ぎないのだ、という扱いをしがちになるからだ。

 大和田はハラスメントを個別的に捉えてしまう弊害をいくつか書いているが、そのうちの一つは、ハラスメントが構造的に起きること、すなわち連鎖し、伝播するという問題を見逃してしまうことを挙げている。

 上司の管理職が部下の中間管理職に、ノルマの未達成を叱責しながら高圧的な態度によってハラスメントをすることがあります。この中間管理職が部下の社員にノルマ達成を迫りながら、暴言によるハラスメントを行うという光景は、珍しくないのです。〔…中略…〕この連鎖しているハラスメントをバラバラに捉えては、全体像を見失います。このような連鎖するハラスメントは、業務型ハラスメントや労務管理型ハラスメントにおいて、よく見られる事例です。業務遂行と一体となっているだけに、ハラスメントの被害者が業務責任を転嫁するなかで、他者をハラスメントしている意識もなく、加害者になってしまうのです。

 ハラスメントの加害者が実は被害者でもあり、ハラスメント被害者が加害者の立場に立ってしまうという連鎖するハラスメントの全体像を捉えるべきであり、ハラスメントを細分化して個別的な事象とすべきではないのです。(中p.193)

 ぼくも、ふだんは気の弱そうな「中間管理職」(男性)が、上からの命令で自分よりはるかに年若い女性に臨むさいに、いつもでは考えられないような高圧的な態度をとり、その若い女性からハラスメントの訴えをされた事例を身近で知っている。

 そのような事例を間近で見ると確かにハラスメントはパーソナリティではなく、組織の構造的な問題が引き起こしているのだという思いを新たにせざるを得なかった。

 

 こうしてみてくると「ハラスメントが起きた」と言われた時に、ぼくらがまず抱くイメージ、「古い体質の特殊な人が起こす特殊な不祥事」という個別性のイメージがいかに問題かがわかる。そうではなく、「そうしたハラスメントを含めた無理を強圧的に押し通す巨大な力が組織全体にかかっており、その軋み・歪みがハラスメントとして現象している」という構造的な把握こそが必要なのだ。

 そう考えると、

  • そもそも非現実的なノルマと非科学的な達成方針を組織に課しているのではないか。
  • その達成に必要な人員や予算が全く足りないのではないか。

などの根本問題が見えてくる。その解決がとうてい「個別の特殊な問題児を再教育すればいい」ということでは片付かず、組織や大もとの方針にメスを入れない限り「根絶」などできないことがわかるだろう。

 大和田は、なんとこの論文の最後には、ポール・ラファルグの『怠惰の権利』の再評価、そして水木しげる的世界観「無為徒食」「働かない自由」にまで話がおよび、そのような人間的な生き方と労働の関係の見直しという、「真の働き方改革」にまで及ぶ。近代的労働観の転換まで迫るところまで行かねば「ハラスメント根絶」はできないかもしれないのである。

 

「正当な業務」であればハラスメントにはならないのか

 大和田論文で大事だと思われた第二点目は、「正当な業務であった」という言い逃れを封じていることである。

 

 ハラスメントの意図不要ということは、目的によってハラスメントが合理化されないということです。加害者がハラスメントの意図を否定する場合、正当な目的だったと主張することがあります。「業務上の指示だった」、「善意のつもりで、叱咤激励した」、「上司としての指導を行なった」、「会社の方針に従っただけだ」などという口実ですが、その通りだとしても、ハラスメントの成立を否定できないし、ハラスメント実行者と管理職や経営者の責任は免れません。指導や研修などの業務上の意図や目的があるという理由から、ハラスメントの正当性は認められるべきではありません。(中p.194)

 これはよく「加害者の主観的な意図は関係ない」という問題として扱われる。上記で言えば「善意のつもりで、叱咤激励した」的な意識である。「そんなつもりはなかったんだけど、やりすぎちゃったかな…」的な感じだ。

 しかし、ここで書かれていることは、そこをはるかに超えている。

 特にぼくが注目したのは「業務上の指示」「会社の方針」ということでさえ、否定されていることである。

 ハラスメント行為に当たるとされた行為が、仮に会社の明文ルールに根拠を持つものだったとしても、そのことは「ハラスメントではない」という理由にならないというのである。

 ハラスメントは、多くの場合、業務の中で行われ、「業務を通じたハラスメント」です。企業における通常の業務を通じた使用者の指示が原因でハラスメントになるという「業務型ハラスメント」を「業務上の範囲内」ということで、ハラスメント規制の枠外においてはならないのです。

 このように、業務上の必要性とか、「適正な業務指示や指導」によって、ハラスメントの評価を免れるものではありません。それは、事後的に主観的な判断から主張され、結果責任を否定するものだからです。(同前)

 「私の行為は組織のルールに基づくものだから、ハラスメントではない」と平気で主張する会社・組織体の幹部が数多く存在する中で、このような解明はとても大事だ。

 

 この大和田の解明は、大和田が「パワハラ」という概念を強く批判する理由の一つにもなっている。

 大和田は、「パワーハラスメント」概念を

国際的には通用しない非科学的なもので、現在のハラスメント規制制度の混迷をもたらしている(上p.187)

と繰り返し断じている。

 パワハラ概念がなぜ「非科学的」だと大和田が主張するのか、というその論点は多岐にわたっており、その全体像は論文を読んでほしいが、ここでは、

パワハラ概念の適用は、「通常の業務」によるハラスメントを容認してしまうという弊害も無視できません。(下p.195)

という点だけに絞ってみてみる。

 「パワハラ」が成立するためには3つの要件が必要になる。

 それを被害者側が立証しなければならないという苦労が付きまとうのであるが、その要件の一つが、「業務上必要かつ相当な範囲を超えたものによる」ということだ。逆に言えば、「業務上必要かつ相当な範囲」であればオッケーということになる。

 使用者(上司)が労働者に対して、「パワー」を行使することをあたかも当然視することから、「よいパワー」(教育・指導)を是認し、その行き過ぎた「悪いパワー」(パワハラ)が悪いとするもので、業務上の必要性によるハラスメントを容認するという弊害を生み出すのです。

 こうして、上司の「パワー」自体は容認されることになり、パワハラ概念を決定した厚生労働省の検討会でも主張されたように、「よいパワハラ」と「悪いパワハラ」があり、「悪いパワハラ」だけが問題視されるのです。(同前)

 この大和田の解明は、つきつめれば権力に基づく労働者支配の根源的批判と「自由な合意に基づく対等平等な労使関係」に行き着くことになる。いわば資本主義的な労使関係の根幹に触れていくことになるだろう。

 ただ、その問題をおいとくにしたって、「正当な業務であった」=会社・組織のルール・方針・指示通りでも、それ自体はハラスメント正当化の理由にはならない、という点が現時点ではポイントとなるだろう。

伊万里大橋

ハラスメントは主観的思い込みではなく客観的な基準により定まる

 このような「パワハラ」概念批判、すなわち「正当な業務で従業員の人権を侵害することの寛容さ」への批判は、大和田が、「国際的水準」でのハラスメント定義を社会合意にすべきだという主張が根底にある。

 現在のハラスメント概念が、会社都合によって成立した日本特殊の概念であることを大和田は批判する。先ほどの「通常の業務の範囲」であれば「問題なし」とされてしまうのはその典型である。他にも例えば、今の日本では「就業環境の悪化」をパワハラの構成要件の一つとしており、逆に言えば、被害者がどういう状態に追い込まれようとも「就業環境が悪化」してなければヨシ! としてしまうのである。

 つまり、被害者の被害を中心におかず、「どうしたらパワハラにならないか」という加害者(主に会社や上司)の都合から発想され、パワハラかどうかは被害者側が四苦八苦しながら証拠集めをしなければならないのである。人権問題ではなく労務管理上の問題として扱われているというのだ。だからこそ、日本政府はハラスメントのILOの国際条約を批准せず、ハラスメントを「違法」とせずに、せいぜい会社での「対策指針」作りを義務付けるに止まっているのである。

 大和田が規範として目指すのはILO条約である。

 次のように定義されている(第1条)。

仕事の世界における「暴力及びハラスメント」とは、一回限りのものであるか反復するものであるかを問わず、身体的、心理的、性的又は経済的損害を目的とし、又はこれらの損害をもたらし、若しくはもたらすおそれのある一定の容認することができない行動及び慣行又はこれらの脅威をいい、ジェンダーに基づく暴力及びハラスメントを含む。

 「目的」性だけでなく、結果としての「損害」を包括していることに注意されたい。

 これにより、

ハラスメントの判断は、行為者の主観的思い込みではなく、客観的な状況から一般に判断できる基準によらなければならないのです。(上p.199)

と言える。*1

 

 

外部の専門家・専門組織の活用

 大和田の論文の最後には、「実効的なハラスメント規制を」として立法課題とともに、職場におけるハラスメント規制の見直しの課題が挙げられている。

 詳しくはそれを読んでほしいのだが、その中で

必要に応じて、外部専門組織や専門家を活用することも検討すべきです。(下p.199)

としている。

 ぼくからすれば、この活用は、こんな程度の扱いでいいんだろうか? という疑問でさえある。

 大和田自身が述べているように、ハラスメントは個別の紛争事件として扱われるべきものではなく、経営上の組織的・構造的な課題のはずだ。

 ハラスメントに、直接・間接に組織体のトップクラスの人間が深く関与していることは十分にありうる。

www.nikkan-gendai.com

 具体的なパワハラを指示したとか容認したとかいうレベル(直接関与)だけでなく、会社の無理な方針自体がパワハラを生む土壌になっている(間接関与)という点においても「関与」がありうるということだ。

 だとすれば、「ハラスメントを行ったのが幹部連中全体であり、しかもさらに上の幹部までがそれを容認していた」となれば、組織内でそのハラスメントを認定し正すことはまず不可能だと言える。

 その場合、やはり「外部専門組織や専門家を活用すること」は「必要に応じて」どころか絶対不可欠だと言える。

 特にそんな活用をおくびにも出していないような会社・組織体のいう「ハラスメント根絶」など、まず信用してはならないし、そんなことを続ける会社・組織体は一刻も早く滅んだほうがいいだろう。

*1:この点で、単に「被害者がそう訴えたから」という基準によっているのでもないことは、別の意味で重要と言える。あくまで「客観的な状況から一般に判断できる基準」が原則である。

米田優峻 『高校数学の基礎が150分でわかる本』

 米田優峻 『高校数学の基礎が150分でわかる本』を読む。

 表題通りか、ストップウォッチで計って読んでみたよ!

 その結果どうだったか?

 まあ、あわてるな。

 まず、この「150分」っていうのはどこを読んだときなのか? という定義をしっかりさせたい。

 というのも、本文p.14に「たった150分で読める!」に注がついていて「演習問題をしっかり解いても5〜6時間で読み終わると思います」と書いてあったのだ。

 ということはだよ。

  • 演習問題
  • 確認問題
  • 確認テスト

は、やらないことにする。

 同じように、

  • コラム
  • 休憩「思考力を高めるパズルに挑戦」

も、とばす。

 つまり「本文だけを読んで、果たして150分以内で読めるのか?」ということにチャレンジすることにした(まあ、注は読みたいところだけ読み、「はじめに」「おわりに」「謝辞」などはすべて読んだ)。

 その結果…

 

 

 

合計123分20秒で読めた!

 というわけで、看板に偽りはなかった。

 少なくともぼくに関しては、ね(四大卒という条件あり)。

 

 とはいえ、疑問は残る。先にその疑問点を書き記しておこう。

 主に3点ある。

 第一に、これで果たして「基礎がわかる」とまでいえる網羅性があるのか? という点。「本書で学ぶ主な内容」として紹介されているのは、

一次関数/二次関数/指数関数/対数関数/場合の数/確率と期待値/統計/微分積分/整数の性質/数列/三角関数

ということだが、これにしぼって「基礎」とした理由はあるのだろうか。

 ぼくの娘は高校1年だが、「数学A」と「数学Ⅰ」という2つの教科書がある。

 この中には例えば「集合」とか「図形の性質」などがあるのだが、そうした要素はこの「基礎」の中にはないのではなかろうか。

 また、例えば「数学Ⅰ」では有理数無理数とか絶対値を教えているのだが、そうしたものは書かれていない。

 何を省いて、何を選択したのか。つまりなぜそれを「基礎」としたのかという問題がある。

 

 

 第二の疑問点は、理屈抜きで答えを導く公式を教えている箇所が、けっこうあることだ。

などである。

 

 第三の疑問点は、やさしい記述であることには違いないのだが、それでも数学の理屈というものは理解するのに時間を要する場合がある。「わかるまで進まない」というふうにしてしまうと、どんどん時間が過ぎていってしまう。

 少なくともその章を終えれば次の章では関係ないことが多いので、わからないところがあっても飛ばして読んでもらうのがいいのではないか。

 

 疑問は以上の3点だ。

 だが、本書は次のような点がすぐれていると感じた。

 

 何と言っても、やさしいことだ。

 言葉を難しくせず、数学にありがちな厳密な条件や言葉の定義にこだわらず、「ザクっと理解する」ことに重点をおき、言葉もやさしいままにしている。だから、数学のシロート、あるいは数学に苦手意識を抱いている人にとって、例えば「微分とはこういうことをする作業だ」と人に説明できるようにする、または、自分の中でイメージを持てるようにする、という点ではよくできている。

 それとセットなのだが、演習問題なども決して「考えさせる」ようなものではなく、本当に今そこに書いてあったことを確認する程度のものなので、挫折感を味わわずにすむ。「お! 俺って意外とやるじゃない?」という謎自信を持って次に進められるのだ。

 疑問点の2つ目で挙げたこと(理屈抜きで計算させる)は、疑問点には違いないのだが、「微分という概念さえわかってもらえることが大事で、計算方法の考え方まではここでは学ぶ必要がない」という割り切りをしていることは、ある人にとっては不満点だが、やはりぼくのようなドシロートからすれば、ホッとしてしまい、次を読もうという気力につながる。親切のつもりで計算方法の考え方まで教えようとすると、ぼくなどは「うーん…なんとなくわかるけどなあ…」となってしまい、やっぱり数学は難しいというコンプレックスに引きずられてしまうのである。

 

 もともとぼくはなぜこの本を手に取ったのか。

 娘が中学校のうちは、数学の問題を聞かれても、応じることができた。

 しかし高校に入ってからは、すでに概念すら忘れていて解けない。教科書を見て概念を思い出すが、とても問題は解けない。解答を見せてもらってようやく理解するというほどのものだが、理解できないものも多い。もはやすっかり役立たずになってしまっているので、娘はぼくなどあてにせず、もっぱらつれあいに訊いている。

 チクショー。

 そこでまず、「教科書を見てその数学的概念を思い出す」あたりを省略できないかと思い、本書が出た時「ほうほう」と思って買った次第である。

 だが、まあ、そのような当初の目的の役に立つには少し距離があったかな。

 例えばさっき挙げた無理数有理数などは本書ではわからなかった。

 しかし、三角比・三角関数はこれを読んでいれば「どういう概念だったか」を思い出せたのである。

 

 まあそういうぼく自身も当初の目的はおいておくとしても、「高校の数学ってだいたいこういうものだよ」ということを俯瞰し、思い出すには、役に立った。

 そして、わからなかったことがわかったこともある。一例を挙げると偏差値については標準偏差の計算方法の考え方は理解できなかった(教えてくれなかった)が、偏差値というものがどういう考えで作られているか、などはイメージすることができた。

 

 高校数学を知るというより、ぼくにとっては、「わかりにくいものをどうわからせるか」という一つの見本であり、そのさいに思い切った削ぎ落としをすべきであること、日常の言葉のまま理解してもらうことなどについて考えさせられた。

 

出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』

 世界史を学んだのは高校のとき。

 それ以来、本を読んでつまみ食いのようにして学んできた。

 たとえばポール・ケネディ『大国の興亡』、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』、『マクニール世界史講義』、グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』のような「概史」はいくつかある。

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 まあ、そういう文明を俯瞰する大ざっぱなやつじゃなくて、もうちょっと世界史の事象を解像度をもう少しだけ高くして身につけさせるような、そんなものがほしいと思っている。

 いっそ角川まんが学習シリーズ『世界の歴史』全20巻のようなものがいいかもしれないと思う。

 あるいはクリストファー・ロイド『137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史』なども読む。

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 それでもなかなか身につかない。

 もうちょっと、ほら、テーブルで面白く雑談するような感じで!

 というわけで、『ゆげ塾の構造がわかる世界史』。

 うんうん、こういう感じ。

 だけど、あともうちょい解像度高く! うんちく率上げて!

 というわけで、その線にピタリとハマるのはこの出口治明の本書であろうか。

 

 いやこんな人は歴史の専門家でもなんでもない。ビジネス幹部の趣味の雑談でしょ? と言われればその通りだろう。

 だけど、そういうレベルでいいんだ。

 いくら専門家の本でも、読み通せず、印象に残らないのでは意味がない。

 間違っていてもいいので、頭の中で基準となるような「歴史の数直線」がとりあえず大ざっぱにザーッと引けることが肝要なのである。

 そのためには「おしゃべり」レベルの言葉で歴史を紡いでくれる人が必要なのである。その「おしゃべり」でわかりやすく頭に印象を残す。それで自分の頭の中に「歴史の数直線」「簡単な歴史認識」ができあがる。

 だけど、その後、専門家の指摘を読んだりして、その部分を修正していけばよいのである。

 大河ドラマ「どうする家康」に関連して、新書をいくつか読んだけど、たとえば磯田道史徳川家康 弱者の戦略』(文春新書)と本多隆成『徳川家康の決断——桶狭間から関ヶ原大坂の陣まで10の選択』(中公新書)ではどちらかが「おしゃべり」度が高いかといえば、前者である。

 まあ、これはどちらも専門家ではあるが。

 いや、それなら「ゆっくり」系動画でもいいじゃない…? という向きもあろう。

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 ある程度はそう思う。そして実際にぼくも時々見るし、よく使う。

 だけど、出口の本は、もう少しそこに「理屈」をつけるのである。歴史をあるテーマで切り取るので、単に「事象をざっくり解説」というレベルにとどまらない。理屈によって説明することで、無味乾燥な羅列ではない歴史が立ち現れる。そして、出口はエピソードの使い方もうまい。印象に残る。

 これはぼくが石母田正の記事でメモしていたのとは真逆の行為なのだが、認識とはそういうものなのだ。

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 出口の本書は10章から構成されていて、まあ、10の話題・切り口から、世界史を「切り取る」という行為をしている。たとえば

  • 歴史は、なぜ中国で発達したのか
  • 神は、なぜ生まれたのか。なぜ宗教はできたのか
  • キリスト教とローマ教会、ローマ教皇について

などである。

 もちろんそんなテーマが、非専門家の「おしゃべり」で解明されつくすわけもないし、正確性も今ひとつだろう。

 だけど、「ビジネスで話題にする程度」には、認識の最初の核(タネ)にはなる。外国人を相手にする…というようなケースでなくても、日本人同士でそういう話題になったとき、ちょっと知識を披露しながら、しかしそのグループでの話題提供にもなる…という使い方をするための本だろう。

 いやらしいといえばいやらしいけども、そういう本がほしいと思うのも事実である。

 本書の第9章は「アメリカとフランスの特異性」。サブタイトルは「人工国家と保守と革新」である。

 アメリカという国が啓蒙思想の影響を受けた理性主義の国=人工国家であるという見方をして、アメリカ独立革命に参加・協力したフランスはその影響を受けてフランス革命を起こし、同様に理性主義にかぶれた歴史を持っているという話だ。

 フランス革命が一時期宗教を追放し、「理性の祭典」をやった話は聞いたことがある。

「十字架を拝むのではない。人間の理性を拝みましょう」というわけです。(出口p.280)

 出口はこのフランス革命における理性主義のラディカル化について、他のエピソードも紹介する。

さらに旧体制の影響力を払拭するために、革命暦を作成しました。革命暦は、1793年に実施され、ナポレオンが皇帝になった後1805年まで12年間、使われ続けました。この暦は徹底して合理精神で貫かれており、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒と定めています。また月の名称からもジュライ(シーザー)とか、オーガストアウグストゥス)とか、歴史色を全部取り去って、代わりに花月フロレアール)、霧月(ブリュメール)、熱月(テルミドール)などと名付けました。これらの諸改革はこれまでの人間の生活習慣などをまったく無視したものでした。(出口同前)

 ロベスピエールのもとでのゆきすぎた人工性=理性主義は反感を買い、結局ジャコバン独裁は崩壊し、ナポレオンが登場する。

 こうした人工性をつきつめた理性主義によって国家を設計したアメリカやフランスを批判的に観察したのが、トクヴィルであり、バークであったとする。彼らは理性主義を批判して、保守主義を主張する。

〔…略…〕バークやトクヴィル保守主義とは何か。大前提になっているのは、次の認識だと思います。

「人間は賢くない。頭で考えることはそれほど役に立たない。何を信じるかといえば、トライ・アンド・エラーでやってきた経験しかない。長い間、人々がまあこれでいいじゃないかと社会に習慣として定着してきたものしか、信ずることができない」

 こういう経験主義を立脚点として次のように考えます。

「そうであれば、これまでの慣習を少しずつ改良してけば世の中はよくなる。要するに、これまでやってきたことでうまくいっていることは変えてはいけない。まずいことが起こったら、そこだけを直せばいいだろう」

 こういう考え方が、バークやトクヴィルの「保守」の真の意味だと思うのです。したがって、理性を信じ人間が頭で考えることが正しいと慢心した人工国家に対する反動として、近代的な保守主義が生まれたのではないか。(出口p.284)

 

 この議論の流れ、最近読んだ本で立て続けに見た。

 一つは、古谷経衡『シニア右翼』。

 バークの考えは、フランス革命の「自由・人権・平等」の理念を否定するものでは無い。バーク自身がそれらの理念に同調する自由主義的政治家であったからである。ただし社会の改良は設計的な理性にのみ基づいて急進的に行われるのではなく、既存の伝統や慣習をある程度尊重したうえで漸次的に(ゆっくりと)なされなければならないし、そうでないと失敗すると説いた。これが「保守主義」「保守思想」の誕生である。政治的な文脈の中での「保守」という言葉もこれと共に(厳密な定義がないまま)生まれたと考えて大きな間違いはない。(古谷Kindle、p.125) 

 

 そして

まさしくバーク自身が懸念した急進的改革を良しとするのが「革新」であり、その後の政治的文脈の中でそれは「共産主義(者)」を指す。(古谷同前)

 

 もう一つは、東浩紀『訂正する力』。

 「じつは……だった」という訂正の精神が、本質的に保守主義に近いものであることはたしかです。過去との連続性を大切にするからです。そもそも、過去をすべてリセットし新しく社会をつくろうというのは、フランス革命共産主義などの左派の発想です。その点で、訂正する力の導入をリベラル派に勧めても、なかなか受け入れがたいだろうとは思います。

 ただ、結局のところ、そういうリセットの試みは歴史的に見て失敗に終わっているのです。フランス革命はすべてをリセットした。宗教を排し、暦を廃し、新しい理想を打ち立てた。それが偉大だということになっていますが、実際は共和政はあっというまに崩壊し、ナポレオンの短い帝政を経たうえで王政が戻ってしまった。ハンナ・アーレントのように、そのような限界をきちんと見据えた思想家もいます。

 もっとわかりやすいのがソ連の失敗です。ロシア革命のリセットがいかに無効だったか、いまのロシアを見るとよくわかります。東、Kindlep.73

 この2つはどちらも「共産主義批判」をあわせて込めている。

 共産主義共産主義革命=理性主義という理解とセットになっているわけだ。

 

 ただ、共産主義、とりわけマルクス主義科学的社会主義)は理性主義の批判者である。理性主義の批判者であると同時に保守主義の批判者でもある。そして両者に対する批判的継承者である。

 ぼくはそのことについて何度かブログで書いている。たとえばこれ

フランス革命の後「理性主義」を批判してバークのような「保守主義」が登場したが、頭の中でこしらえただけの「理性」でもなく、単純な今あるものを肯定する「保守」でもなく、現実の中から新しい理想の萌芽が生じるというまさに科学的社会主義マルクス主義の真骨頂がここにあるのではないのか〔…中略…〕世界の現実の中から必然的な理想が生まれ、それに基づいて世界に働きかけるという態度は、マルクス主義であり〔…略…〕

 これはまさにエンゲルス『空想から科学へ』で展開されている。

 エンゲルスは、フランス革命啓蒙思想に基づく「理性によって社会を改造する革命」であったとする。しかし、エンゲルスもやはり、その「理性主義のゆきすぎ」をあれこれ面白おかしく紹介している。

要するに、啓蒙思想家たちのすばらしい約束と比較して、「理性の勝利」によって打ちたてられた社会的・政治的諸制度は人々を激しく幻滅させる風刺画であることがわかった。(『マルクス・エンゲルス8巻選集7』大月書店、p.43)

 そして、社会変革が何によって推進されるかを次のように説く。

〔…略…〕あらゆる社会的変化と政治的変革との究極の原因は、人間の頭のなかに、永遠の真理や正義についての人間の洞察がますます深まってゆくということに、求めるべきではなく、生産および交換の様式の変化に求めなければならない。それは、その時代の哲学にではなく、経済に求められなければならない。現存の社会諸制度は非理性的で不正であり、道理が非理となり、善行がわざわいとなったという洞察がめざめてくるのは、生産方法と交換形態とのうちにいつのまにか変化が起こって、以前の経済的諸条件に合わせてつくられた社会制度がもはやこの変化に適合しなくなった、ということの一つの徴候にすぎない。このことは、同時に、あばきだされた弊害をとりのぞくための手段も、やはり変化した生産関係そのもののうちに——多かれ少なかれ発展したかたちで——かならず存在している、ということを意味する。これらの手段は、けっして頭のなかから考えだすべきものではなくて、頭をつかって、眼前にある生産の物質的諸事実のうちに発見しなければならないのである。(同前p.60)

 つまり、「人間が頭で描き出した人工的な理性ではなく、社会の中で現実に育っていく法則的に生じてくる新しい萌芽が、現状の中から生まれながら現状を変えていく理想としての力なのだ」という表明がある。そうした現実の社会発展の法則を認識して、新しい社会を展望するところに「科学」の所以があり、そのために「空想的社会主義」(理性主義的社会主義)ではなく、「科学的社会主義」と自称するのである。なんなら「保守主義社会主義」と言ってもいいだろう(笑)。

 ここには、人工的な理性主義でもなく、さりとて、現状維持をベースとする保守主義でもない、その両者を批判しつつ新しい段階で継承しようとするマルクス主義のスタンスがわかる。

 

 左翼のみなさん、特にマルキストのみなさんは、『空想から科学へ』などを勉強しておられることだろう。

 たとえば最近共産党中央決定でも紹介されている「若い世代・真ん中世代の地方議員会議」で井上ひろし大阪市議は

先日、真ん中〔の世代である現役世代の〕党員に道でばったり会いました。彼女は「まんちゅうプラス」〔大阪での真ん中世代向けの党員と非党員向け取り組みの愛称〕で初めて科学的社会主義を学んだ方で、カバンからおもむろに「空想から科学へ」の本を取り出し、「次の学習会にむけて勉強しているんです」と話すのでびっくりしました。(「議会と自治体」2023年10月号p.42)

と発言している。

 もし『空想から科学へ』を勉強しようと思うなら、こうした「理性主義」と「保守主義」について話してみてはどうだろうか?

 こうした理性主義の批判者たる「保守主義的な色彩」でマルクス主義をとらえることは、なかなかないだろう。その視点が出口の本書から得られるのである。

 

 ありもしない「攻撃」への反撃*1ではなく、「現実に世の中に出版されて広く読まれている本の中にある『共産主義』のイメージ」との格闘をしてみることの方が、数千倍有効だろう。

 そのためにも本書は役立つ。

 いやまさに、「仕事に効く教養としての『世界史』」ではないか?

*1:まあ、もしそのような「ありもしない」ものへの「反撃」が「ある」として、ですね。あくまで仮定として。