クリストファー・ロイド『137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史』

歴史とは論理である

137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史 歴史は中学生までは「得意」で「好き」なものであり、そういう意識でずっときていたけど、高校・大学・社会人になってロクに知識の更新をしなければ、「得意」で「好き」なものではなくなる。まあ、「えーっと南北朝時代って鎌倉時代の前だっけ? 後だっけ?」とか言っているつれあいほどではないけど、「歴史オタク」とよばれている人のフリークぶりにはもう足元にも及ばない。はい。
 でも、別に細かい歴史知識を詰め込みたいわけじゃないんだよな。
 いや、そりゃ、「七本槍ってもともと秀吉が家臣を宣伝するために作ったカテゴライズなんだぜ」(cげんしけん)とか言ったら「へえ! 面白いねぇ!」とか思われるし、合コンではモテるし、得意先にはウケて100億円の商談もまとまるし、いいことづくめかもしれないんだけど、つまりまあ「神は細部に宿る」的なアレかもしれないんだけど、細部に宿りすぎて神だらけのような気がしないでもないけど、細かい歴史知識をしゃべったほうがリアリスティックだという錯覚が世の中にはあるわけだけど。

 じゃあ、細かい歴史知識を詰め込みたいんじゃなくて何がしたいのかっていうと、歴史を論理的に語りたいということ。

 「歴史なんて偶然の集合だろ?」とか言っているお前。お前だよ。お前は人生わかったふりをしてシニカルなことを言いたがる東大生か。東大駒場の1年生か。お前みたいなのがいるから「歴史には法則があるんだよ」とか俺がしゃべるとき俺が笑われて迷惑するんだ。バカちん。


 歴史とは論理であり、論理とは歴史である。

単純なカテゴリーから複合的なカテゴリーへと上昇する経済学の方法は、たんに論理の歩みを示すだけでなく、同時に客観的過程の発展にも照応している、そういう意味で論理と歴史の本質的な一致が、経済学の科学的な方法の特色であり、マルクスの方法の特色である(見田石介「論理=歴史説とマルクスの方法」/『資本論の方法I』p.51)

ヘーゲルからマルクスに受け継がれた弁証法の真髄:引用者注〕その見解というのは、われわれが事物を正しく認識するためには、あたええられた〔ママ:引用者注〕ものをばらばらにみるのではなく、事物の発生史をその萌芽からたどらなければならないということです。そうすることによって、個々の事物が秩序だった体系的一体のうちに正しく位置づけられ、個々の事物がそれぞれところをえて意味をもつことになるのです。(鰺坂・有尾・鈴木編『ヘーゲル論理学入門』p.193)

 そういうわけで歴史は論理なのである。
 歴史をできるだけ論理的に再発見したい、しかも平易に。という要求にこたえるものはないだろうかと常々さがしていた。それも断片でなく、できるだけ体系的に。……と、そういう要求にもろにこたえてくれたのが、本書、クリストファー・ロイドの『137億年の物語』である。

論理的。平易。体系的。

 論理的。平易。体系的。
 本書はこの3つをすべてかねそなえている。

 本書の成立については、この年末に、当のロイドが日本のマスコミのインタビューにこたえて次のように述べている。

出発点は9年前。英国で、知識偏重の学校にやる気を失った7歳の娘に自宅教育を始めた。…「世界を理解するのに必要なのは細切れの知識ではない。あらゆる分野が有機的につながって歴史を編むのだと知ること」。そんな思いが異例の歴史書に結実した。(朝日新聞2012年12月20日付)

 つまり7歳の娘に語るようにやさしく、そして断片的でなく、体系的で、論理的に。ユニークなのは、人類史だけでなく、宇宙誕生という自然の歴史を一体にしていることだろう。人間がこうした自然史のプロセスのどこにあるのかということを否応なく読者の我々は意識させられる。
 よくいわれるように、人間が人間たらしめられる際の脳や二足歩行や道具の使用というところはもちろんそういうことを感じさせる部分なのだが、それ以上に、その前に生物のさまざまな種類の進化戦略が論理的に描かれる。そのことによって、ぼくらは、人間が進化上の戦略が「うまくいった」(たかだか数百万年にすぎないが)存在であることを意識させられるのである。

 進化や繁栄の論理的な有様は、まあ、別にこの本でなくてもいろいろ読めるよね。
 でも、やっぱり、それを論理に焦点をあてて、平易に、そして、体系的に示してくれている本というのは、やっぱり少ない。
 たとえば、第1部「母なる自然」のなかの「6 生物の協力体制」という章では、まず植物がどうやって登場してきたのかが描かれる。最初に、「木」というシステムがいかにそれをつくりあげるまで「大変」であるかが書かれている。

大地にそそり立ち、豊かに葉を茂らせる木を創るのがどれほど大変か、考えてみよう。まず、しっかりと直立する幹が必要になる。理想をいえば、高さは40メートルほどで、ハリケーンに耐える強さがほしい。次に、水分と養分を、全体に休みなく届けるシステムもいる。エネルギーを作り出すのは枝先に生えている葉の役割なので、この葉をできるだけ太陽に近づける必要がある。うっそうとした森で日光を確保するには、他の木より高くなったほうがいいのだが、背が高くなれば、地中にある水を先端まで吸い上げるのが大変になる。このジレンマをどう解決すればいいのだろう。最後の難問は、子孫をいかに繁栄させるかということで、下の地面に種子をばらまくだけではだめだ。そんなことをすると、芽吹いた若木は、親木と日光や養分や水分を競い合って、早晩枯れてしまうからだ。そこで、種子は遠くにまきたいのだが、どうすればそんなことができるだろう。木は歩くことも泳ぐこともできないのに。/このように、木を一から創るのは簡単なことではない。(ロイドp.47-48)

 子どもに諭しているような調子が目に浮かぶだろう? ロイドは、このように、木をつくりあげる「大変さ」をクソていねいに書いたあとで、こんな面倒くさいことをしなくてすんだ最初のころの植物、スギゴケ、ゼニゴケなどの話をする。シンプルな配管のしくみ、繁殖のしくみこそが、これら最初期の植物の進化上の戦略であった。
 ロイドは、そこから「木と葉という発明」「菌類との共生」「蒸散作用と種子の登場」「昆虫の登場」「生物が土をつくる」という節をもうけ、その進化の歴史を論理によって説明する。

イスラムの説明

 人間の歴史についてもこのように論理的である。
 もちろん、「暗記もの」としてぼくらを悩ませた、あの固有名詞もたくさん登場する。しないとは言わない。でも、論理の中で登場するそれらの固有名詞は、「別に覚えなくてもいいもの」だということをぼくらに悟らせる。これらの固有名詞は、論理の中で役割を演じている一つの結節点でしかないからである。

 歴史好きであったぼくでさえも「暗記もの」という印象が強かった時代・地域は、イスラム世界の黎明期・繁栄期だったなあ。アブド・アッラフマーンだのアル=フワーリズミーだのムハンマドイブン・アル=ハイサムだの、極東の島国で暮らす偏狭さ丸出しの中高生にとって、そこに出てくる覚えにくいことこのうえない名前の束や似たような王朝の名前を覚えるのに四苦八苦した。
 しかし、本書では、まずイスラムの教義の説明から入る。それがユダヤ教キリスト教とどういう関係にあるのか、という説明である。一応、イエス預言者の一人として扱われるのね、とか、ユダヤ人とアラブ人は同じ先祖っていう認識なんだーとか、ムハンマドってユダヤ人コミュニティに裏切られたとか。そういうことが簡潔に、しかも興味深く書かれている。

イスラームの教えは理解しやすい。ユダヤ人の大工の息子が奇跡を行う神の子だと信じる必要もなかったし、「三位一体」という、天にいる神を、死者の復活や聖霊と結びつけようとする複雑な概念も無視してよかった。イスラーム教では、信者はコーランを通じて神と直接つながることができるのだ。聖職者も、教会の複雑な儀式も、必要とされなかった。(ロイドp.289)

 こういう教義解説のあとに、王朝の名前がくるとわかりやすいし、他方で、それ自体が「どうでもいい」ことなのかなと思えてくる。
 そして、「世界の文化の中心」という節が来て、イスラムが科学の先進地であることの説明がはじまる。中国の技術者を捕虜にして、製紙技術を獲得し、知識を蓄えるベースとした。
 そういうイスラム世界の躍進ぶりにくらべて、ヨーロッパ世界の貧弱さや行き詰まりぶりは、「32 中世ヨーロッパの苦悩」「33 富を求めて」であざやかに対比される。6世紀くらいまでは、寒冷期で生産性が低く、疫病も大流行して、ものすごく貧しい場所だったんだなあとか。温暖期に入って農業革命が進行すると今度は、すさまじい森林破壊をやっていったのだなあ、とか。

ヨーロッパは、文字通り八方ふさがりの状況にあった。北は氷に覆われ、西には果てしなく思える大洋が広がり、東と南は異教徒に占領されていた。(ロイドp.341)

 こうした行き詰まりが、逆に言えば、「大航海」による略奪の時代を準備することになる。
 ぼくがロイドの本のなかで一番印象に残ったのは、この略奪、とりわけアメリカ大陸を略奪していく様であった。
 ロイドはさらに詳しく学ぶための本として、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』をあげているように、この部分の叙述はかなりそこからヒントを得ているようである。アメリカ大陸の略奪・侵略については、ぼくはこれまでもたとえば本多勝一『マゼランが来た』とか、ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』などで多少は知っていた。


 今回、ロイドの本書では、侵略のひどさという点もさることながら、やはりここでも侵略の成功の論理が貫かれていることが特徴だった。

スペインからやってきた数百名の人間と馬が、いったいどうやって、上陸からわずか数年のうちに、合わせて2500万人の人口を擁していた諸帝国を制圧したのだろうか。長いあいだ、歴史学者たちは、それはアステカ帝国インカ帝国の人口が非常に少なかったためか、あるいは、アステカやインカの社会があまりに原始的だったので、初歩的な銃や鉄の剣で簡単に圧倒できたのだろう、と推測していた。けれども、19世紀末から20世紀初頭にかけての調査で、両文明が高度のな水準に達していたことが明らかになるにつれ、この問題は再考され、激しい議論が交わされるようになった。(ロイドp.353)

 

マルクスはどう扱われているか

 コミュニストたるぼくは、マルクスがどう扱われているかも気になるところだ。
 マルクスは「41 資本主義への反動」というところで詳しく紹介される。宗教をのぞくと、これほど個人の思想に焦点をあてて紹介しているのは珍しいのではないかと思えるほどの紹介ぶりである。主に『共産党宣言』からの引用である。しかし、マルクスが始めた資本主義の反動としての社会実験は「悲惨な結末」を招いたものとして描かれている。
 同時に、最終章「42 世界はどこへ向かう」でも、マルクスは冒頭に紹介される。

カール・マルクスの亡霊は、資本主義は最もすぐれた経済システムだと信じ込んでいる人にまとわりついている。(ロイドp.463)

 これが最終章の最初に書かれていることからもわかるように、マルクスが設定した課題が、依然として現代的なものであることを、ロイドは認めているのだ。グローバル化が貧富の格差を広げているという認識のもとで、資本主義はマルクスにのろわれているとし、他方で、人口爆発が環境を収奪しているとして、ロイドはそれをマルサスの呪いだとみなしている。
 資本主義が確立された19世紀にマルクスマルサスが立てた課題を、いまだに人類は克服していない、というのが、ロイドの最後の問いかけであろう。ここにはいかにもヨーロッパ人らしい論理がつらぬかれている。そして、ぼくもこの問いを共有する。

原発はどう扱われているか

 本書の最終章では自然収奪の一つの形態として、原子力発電がとりあげられる。

2011年3月を迎えるまで、原子力発電を支持する人々は、エネルギー問題に関する議論において、一歩先を行っているように見えていた。ところが、3月11日に、マグニチュード9.0という巨大地震が日本の東北地方の太平洋沿岸を襲い、福島第1原子力発電所にレベル7という大事故を引き起こした。原子力が世界を救うという考えは、果たして正しかったのだろうか。このような大惨事に直面して、原子力発電を推進しようとする政党など、日本にあるだろうか。これほど自身が多い国で、原発が安全だと信じる人がまだ残っているだろうか。(ロイドp.474、強調は引用者)

 はっはっはっはっは。あーっはっはっはっはっはっはっはっは。

 実は、ロイドは最初からこういう考えの持ち主ではなかった。

原発に、地球温暖化解決の可能性をみて、本の初版にもそう記した。だが福島の原発事故に考えは覆され、「自然の恵みの範囲内で暮らしを」と、今年、改訂に踏み切った。(朝日新聞前掲)

 これが歴史に学ぶという、正しい、というかまともな、というか、当たり前の感覚じゃねーのか!?

小学校高学年は読めるのか?

 ところで、本書の帯には「小学校高学年から大人まで」とある。
 本書が小学校高学年にわかるんだろうか?

 
カブトムシ・クワガタのひみつ (学研まんが ひみつシリーズ) 正月に実家に帰った際に、倉庫をあらして、学研まんがシリーズを探し出してきた。『けいおん!』にハマって1冊だけ持ってきた娘がそれだけだと飽きてしまうのではないかと思い、娘に読ませようと思ってのことだった。
 この版の学研まんが「ひみつシリーズ」は、1992年に大幅な改訂をおこなっている。そのさいに、たとえば恐竜シリーズはマンガの描き手をはじめ内容が大きく変わっている。恐竜についての知見が大幅に更新・変更されたせいであろう。旧版の表紙でティラノザウルスが「直立」に近い形で描かれているのは、いかにも昔の恐竜観である。


 しかし、昆虫やカブトムシはほとんどかわらず、旧版をほぼそのまま載せている。

昆虫のひみつは旧版と新訂版に大きな違いがなく、どこが違っているか探すのが大変である。宇宙や科学と違って、昆虫に関する学問は20年ぐらいでは大きく変わらなかったということであろう。

http://www.h2.dion.ne.jp/~yatte/himitu.html


 いま読むとセリフがすごく多いな。
 それはともかくとして、この『カブトムシ・クワガタのひみつ』(学研)には、よく読むと、昆虫の進化戦略についてかなりくわしく書いてある。Q&Aのコーナーがあって、その中に、いつごろからカブトムシやクワガタはいるのか、という質問が出されているのだ。

 それにたいして、解説者たる「はかせ」は、昆虫という種が、地上の生物のなかでいかに繁栄しているかから説き始める。なぜ昆虫はそれほど栄えたのか、なーんてことを子ども相手にしゃべっている、その様子が実にわかりやすい(右図参照、同書、p.107、p.109)。3つの理由をしめすけど、それにとどまらず、その一つ一つをくわしく解説し、適応できなかったものは、生き残れなかった様もマンガにされているのだ。

 「カブトムシはいつからいるの?」なんていう問いに、「化石が見つかったのは●●億年前」とか書いときゃいいじゃん。なのに、昆虫の進化戦略とその繁栄についてまで書いているこのマンガはただもんじゃねーなと思った。

 でも。
 「よく読むと」と書いたのは、小さいころは、そのことが全然わからなかったんだよ!
 大人になってから、気づいたのだ。
 小さいころには、気づかない。
 だいたい、今回だって5歳の娘にこのマンガを与えたら、喜んでいたのは、日本のカブトムシの王様が、外国のカブトムシに出会って、その覚えにくい名前をむちゃくちゃにしゃべるそのコマなんだよ(右図参照、同書、p.71)! おれ、「ちょwwwwwトリカゴ・ゴムフウセン・マルタンボウだって!wwwwwww」って娘が話しかけてきたのを50回くらい聞いたよ!

 っていうわけで何が言いたいのかっていうと、子どもはまあロイドの500ページもある本なんか読まないかもしれないし、読んでもそこに論理がつらぬかれていることなんか、気づきもしないかもしれないんだよ。
 でも、大人は読むべきだ。
 じっさい、500ページもあるんだけど、一瞬で読めてしまった。