エーリッヒ・フロム『愛するということ』

 リモート読書会でエーリッヒ・フロム『愛するということ』を読む。

 知らない人は、さてこれは一体どういう本なのだ、と思うかもしれない。

 何を求める人が読む本で、それは端的にどういう内容なのか、と。

 第一章「愛は技術か」はなんともキャッチーで、この章だけを読むと、うわあどんな話を展開してくれるんだろうと期待感が嫌が応にも高まる。だいたい本書の紹介はこの第一章の文章を引いていると思われる。

たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、つまり愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。(本書Kindle56-57)

 愛することほど易しいものはない、というこの思いこみは、それに反する証拠が山とあるにもかかわらず、いまもなお愛についての一般的な考え方となっている。これほど大きな希望と期待とともにはじまりながら、決まって失敗に終わる活動や事業など、愛の他には見当たらない。もしこれが何か他の活動なら、人は失敗の原因をぜひとも知りたいと思うだろうし、どうすればうまくいくかを知りたがるだろう。さもなくば、いっさいその活動をやめてしまうはずだ。でも、愛することをやめてしまうことはできない。だとしたら、愛の失敗を克服する適切な方法はひとつしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである。

 そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。どうすれば人を愛せるようになるかを学びたければ、他の技術、たとえば音楽、絵画、大工仕事、医学、工学などの技術を学ぶときと同じ道をたどらなくてはならない。(本書Kindle No.106-114)

 しかし、それは出だしだけ。

 文章は、やさしいものが続くのだが、期待とは違うものが展開されていく。

 そもそも「愛」といってイメージされるものは、恋人や夫婦での「愛」、親子の「愛」、同胞や人類への「愛」、神への「愛」などさまざまなものがあって、例えば人類愛と恋愛は全然違うじゃん、そんなものが統一したモノサシで語れんのかよ、と。

 じじつ、頭の中に「恋愛」をイメージしてフロムの話を聞いていると、「人類愛」っぽかったり、「人類愛」をイメージしていると今度は「親子の愛」だったり、混乱してしまう。

 つまり、タイトルと序章に惹かれて読むと、「期待はずれ」に終わってしまう。この本を「愛するためのノウハウ本」だと思ってしまうと、もっと言えば「恋愛のためのノウハウ本」だと思うとしくじる。

 アマゾンのカスタマーズレビューなどを見ると

彼女とどう上手く付き合えるかを考えて読んだ。読み続けていると何がいいたいのかわからなくなる。難しいところは飛ばし読みし理解できる部分だけ考えるようにした。
付き合い方を考えるきっかけにはなった。
他の本でもよかったなと思う
今の自分の読解力では、良かったなと思える本では決してなかった。

とかいう感想があって、えー…そうなんだ…そういうつもりで読んだんだ…とか複雑な気持ちになる。

 ぼくは、本書のキモとなる部分は以下の部分ではないかと思っている。

すなわち、人間には可能性があるので、適当な条件さえ与えられれば、平等・正義・愛という原理にもとづいた社会秩序を打ち立てることができる、という理念である。人間はまだそうした秩序を打ち立てるにはいたっていないが、だからこそ、きっと打ち立てることができるという確信を抱くには、信念が必要なのである。しかし、理にかなった信念がすべてそうであるように、この信念も願望的思考ではない。人類がこれまでになしとげてきたことや、個々人の内的経験、つまり自分の理性や愛の経験によって裏づけられているのだ。(本書Kindle2017-2022)

 相手——それは恋人だったり、家族だったり、子どもだったり、同胞だったり、そして世界全体だったりするのだが、その「相手」に対して、自分の中にある理性にもとづく理想の気持ちから何かをしてあげようと働きかけることが「愛」だとフロムは言っている。

 「理性」というのは、「神」である。「神」といっても、それは自分を救済してくれる神様ではなくて、早い話が正義や真理のようなものだが、上記の引用の言葉で言えば「理にかなった信念」ということなのだ。ここでは「神」と自分は一体化している。

 もうちょっとやさしく考えてみよう。

 自分が生きてきた中で培ってきた「こういうことが相手にとって理想的なことなのではないか」という信念にもとづいて無条件に相手に対して働きかけること、それが愛だということなのだ。

 そのような信念がちゃんとしたものとして出来上がるためには、土台として、まず「自分への愛」、自己愛がしっかりしないとダメだとフロムは言っている。これは今日的な言葉で言えば「自己肯定感」だろう。

自分を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。(本書Kindle1995)

 フロムが

現在すでにある力を信じるということは、まだ実現されていない可能性の将来を信じないということであり、いま目に見えるものだけにもとづいて未来を予想することだ。これはとんでもない見当ちがいであり、人間の可能性と成長を見落としているという点で、まったく道理にかなっていない。権力にたいする理にかなった信念などはありえない。あるのはただ権力にたいする屈服である。(本書KindleNo.2029-2033)

と言っているのは、世界に対する働きかけが、単なる現実に屈服している悪しき現実主義に流れることを戒め、今ある世界を理想に基づいて変えることを説いているのだと受け取った。

 そのさいの理性・理想というのは、単なる頭で考えた理想ではなく、現実の観察に基づいてその先にある「理性・理想」である。「理にかなった信念」とはそういうことである。フランス革命の後「理性主義」を批判してバークのような「保守主義」が登場したが、頭の中でこしらえただけの「理性」でもなく、単純な今あるものを肯定する「保守」でもなく、現実の中から新しい理想の萌芽が生じるというまさに科学的社会主義マルクス主義の真骨頂がここにあるのではないのか、と読みながら思った。

 世界の現実の中から必然的な理想が生まれ、それに基づいて世界に働きかけるという態度は、マルクス主義であり、その態度を単に世界一般にとどめずに、同胞・家族・親子・恋人・夫婦・自分、つまり個人のようなミクロのレベルにまで広げて(落とし込んで)説明したところに、マルクスフロイトを融合させた「フロイト左派」たるフロムの面目躍如がある。

 先ほどのフロムの言葉を見れば、ロシアのウクライナ侵攻を前にして、悪しき現実主義に流されて、それに屈服し、抑止力一辺倒になっている風潮へのラジカルな批判だということもわかる。ロシアのウクライナ侵攻とは、まさにソ連崩壊以後のロシアに対する軍事同盟政策の根本的失敗、抑止力政策の劇的な破綻であって、それ以外の現実を知らない人にとっては「軍事力と抑止力しか世界では役に立たない!」というなんともみっともない結論にすがりつくことになっているのである。

 恋人に対しても、そして子どもに対しても、まず自分自身への肯定感を基礎にして、「こういうふうに相手にあってほしい」という理想・理性の立場から働きかけることになる。

 もちろん、それはお節介や押し付けではない。例えば子どもへの「愛」は、

子どもが独立し、やがて自分から離れていくことを願わなくてはならない。(本書Kindle739)

 そのような意味での理性に基づく働きかけなのである。

 だから、ぼくは本書をこれこそマルクス主義者が本来持っているメンタリティのはずだし、それをミクロからマクロまで貫徹することこそが求められている、と思いながら本書を読んだ。

 マルクス主義者は世界を愛している、というのが本書を読んだぼくの結論である。

 

「チーム・夫婦」を批判するフロム

 読書会では、自分がキモだと思う箇所を出し合った。

 子どもへの「愛」や夫婦への「愛」について出した人がいて、確かにそれはそれで議論の材料になった。本書はもともと大学時代に読んだという参加者の一人があげたもので、大学時代に読んだ時と今読んだ時で印象が大きく変わったという。注目する箇所が変わったというか。

 谷川俊太郎が本書に「『愛するということ』を、若いころは観念的にしか読んでいなかった。再読してフロムの言葉が大変具体的に胸に響いてくるのに驚いた。読む者の人生経験が深まるにつれて、この本は真価を発揮すると思う」という一文を寄せているが、確かに本書のどこに注目するかが、読む人の年齢や人生経験によってだいぶ違うのだろうという気がした。だから一筋縄ではいかない本なのである。

 本書では「チームとしての夫婦」という概念が批判される。これは参加者から「えー、チームとしての夫婦っていいと思ってるんだけどなあ」という声が出た。

 チームとしての夫婦は、「世界の荒波から避難するためのプラグマティックな共同」という側面が強く押し出されている。ぼくなども、そういうつもりで自分の「結婚を祝う会」で宣誓した覚えがある。

 フロムは、夫婦が誠実に相手に向き合うことを求めているので、この「チーム・夫婦」は、あまりに「トラブルを避けるための『なあなあ』の集まり」になりすぎていると批判するのだ。ケンカをまともにしないのはお互いのことを真面目に考えていないからだというわけである。

 まあ、確かにフロムのいうことを四角四面にやっていると疲れちゃうんだろうけど、本来的にはそうあるべきものだろう。

 ハルノ晴『あなたがしてくれなくても』は、セックスレスからやがて夫婦の亀裂、夫婦が正面から向き合うという問題へ物語が発展しているが、最近の展開はこのあたりの話題を取り扱いつつあると言える。

 

 ちなみに、フロムの本書を読むと、これが1950年代に書かれたものだろうかという現代性を帯びているが、他方で同性愛批判などが当然のようにさしはさまれている。「父親的」「母親的」は個別の体験ではないにしても、やはりジェンダーを反映している。そのあたりは時代的限界と言えるし、注意して読んでほしい。

 

 次回のリモート読書会はハンス・ロスリング『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』だ。