世界史を学んだのは高校のとき。
それ以来、本を読んでつまみ食いのようにして学んできた。
たとえばポール・ケネディ『大国の興亡』、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』、『マクニール世界史講義』、グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』のような「概史」はいくつかある。
まあ、そういう文明を俯瞰する大ざっぱなやつじゃなくて、もうちょっと世界史の事象を解像度をもう少しだけ高くして身につけさせるような、そんなものがほしいと思っている。
いっそ角川まんが学習シリーズ『世界の歴史』全20巻のようなものがいいかもしれないと思う。
あるいはクリストファー・ロイド『137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史』なども読む。
それでもなかなか身につかない。
もうちょっと、ほら、テーブルで面白く雑談するような感じで!
というわけで、『ゆげ塾の構造がわかる世界史』。
うんうん、こういう感じ。
だけど、あともうちょい解像度高く! うんちく率上げて!
というわけで、その線にピタリとハマるのはこの出口治明の本書であろうか。
いやこんな人は歴史の専門家でもなんでもない。ビジネス幹部の趣味の雑談でしょ? と言われればその通りだろう。
だけど、そういうレベルでいいんだ。
いくら専門家の本でも、読み通せず、印象に残らないのでは意味がない。
間違っていてもいいので、頭の中で基準となるような「歴史の数直線」がとりあえず大ざっぱにザーッと引けることが肝要なのである。
そのためには「おしゃべり」レベルの言葉で歴史を紡いでくれる人が必要なのである。その「おしゃべり」でわかりやすく頭に印象を残す。それで自分の頭の中に「歴史の数直線」「簡単な歴史認識」ができあがる。
だけど、その後、専門家の指摘を読んだりして、その部分を修正していけばよいのである。
大河ドラマ「どうする家康」に関連して、新書をいくつか読んだけど、たとえば磯田道史『徳川家康 弱者の戦略』(文春新書)と本多隆成『徳川家康の決断——桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(中公新書)ではどちらかが「おしゃべり」度が高いかといえば、前者である。
まあ、これはどちらも専門家ではあるが。
いや、それなら「ゆっくり」系動画でもいいじゃない…? という向きもあろう。
ある程度はそう思う。そして実際にぼくも時々見るし、よく使う。
だけど、出口の本は、もう少しそこに「理屈」をつけるのである。歴史をあるテーマで切り取るので、単に「事象をざっくり解説」というレベルにとどまらない。理屈によって説明することで、無味乾燥な羅列ではない歴史が立ち現れる。そして、出口はエピソードの使い方もうまい。印象に残る。
これはぼくが石母田正の記事でメモしていたのとは真逆の行為なのだが、認識とはそういうものなのだ。
出口の本書は10章から構成されていて、まあ、10の話題・切り口から、世界史を「切り取る」という行為をしている。たとえば
などである。
もちろんそんなテーマが、非専門家の「おしゃべり」で解明されつくすわけもないし、正確性も今ひとつだろう。
だけど、「ビジネスで話題にする程度」には、認識の最初の核(タネ)にはなる。外国人を相手にする…というようなケースでなくても、日本人同士でそういう話題になったとき、ちょっと知識を披露しながら、しかしそのグループでの話題提供にもなる…という使い方をするための本だろう。
いやらしいといえばいやらしいけども、そういう本がほしいと思うのも事実である。
本書の第9章は「アメリカとフランスの特異性」。サブタイトルは「人工国家と保守と革新」である。
アメリカという国が啓蒙思想の影響を受けた理性主義の国=人工国家であるという見方をして、アメリカ独立革命に参加・協力したフランスはその影響を受けてフランス革命を起こし、同様に理性主義にかぶれた歴史を持っているという話だ。
フランス革命が一時期宗教を追放し、「理性の祭典」をやった話は聞いたことがある。
「十字架を拝むのではない。人間の理性を拝みましょう」というわけです。(出口p.280)
出口はこのフランス革命における理性主義のラディカル化について、他のエピソードも紹介する。
さらに旧体制の影響力を払拭するために、革命暦を作成しました。革命暦は、1793年に実施され、ナポレオンが皇帝になった後1805年まで12年間、使われ続けました。この暦は徹底して合理精神で貫かれており、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒と定めています。また月の名称からもジュライ(シーザー)とか、オーガスト(アウグストゥス)とか、歴史色を全部取り去って、代わりに花月(フロレアール)、霧月(ブリュメール)、熱月(テルミドール)などと名付けました。これらの諸改革はこれまでの人間の生活習慣などをまったく無視したものでした。(出口同前)
ロベスピエールのもとでのゆきすぎた人工性=理性主義は反感を買い、結局ジャコバン独裁は崩壊し、ナポレオンが登場する。
こうした人工性をつきつめた理性主義によって国家を設計したアメリカやフランスを批判的に観察したのが、トクヴィルであり、バークであったとする。彼らは理性主義を批判して、保守主義を主張する。
〔…略…〕バークやトクヴィルの保守主義とは何か。大前提になっているのは、次の認識だと思います。
「人間は賢くない。頭で考えることはそれほど役に立たない。何を信じるかといえば、トライ・アンド・エラーでやってきた経験しかない。長い間、人々がまあこれでいいじゃないかと社会に習慣として定着してきたものしか、信ずることができない」
こういう経験主義を立脚点として次のように考えます。
「そうであれば、これまでの慣習を少しずつ改良してけば世の中はよくなる。要するに、これまでやってきたことでうまくいっていることは変えてはいけない。まずいことが起こったら、そこだけを直せばいいだろう」
こういう考え方が、バークやトクヴィルの「保守」の真の意味だと思うのです。したがって、理性を信じ人間が頭で考えることが正しいと慢心した人工国家に対する反動として、近代的な保守主義が生まれたのではないか。(出口p.284)
この議論の流れ、最近読んだ本で立て続けに見た。
一つは、古谷経衡『シニア右翼』。
バークの考えは、フランス革命の「自由・人権・平等」の理念を否定するものでは無い。バーク自身がそれらの理念に同調する自由主義的政治家であったからである。ただし社会の改良は設計的な理性にのみ基づいて急進的に行われるのではなく、既存の伝統や慣習をある程度尊重したうえで漸次的に(ゆっくりと)なされなければならないし、そうでないと失敗すると説いた。これが「保守主義」「保守思想」の誕生である。政治的な文脈の中での「保守」という言葉もこれと共に(厳密な定義がないまま)生まれたと考えて大きな間違いはない。(古谷Kindle、p.125)
そして
まさしくバーク自身が懸念した急進的改革を良しとするのが「革新」であり、その後の政治的文脈の中でそれは「共産主義(者)」を指す。(古谷同前)
もう一つは、東浩紀『訂正する力』。
「じつは……だった」という訂正の精神が、本質的に保守主義に近いものであることはたしかです。過去との連続性を大切にするからです。そもそも、過去をすべてリセットし新しく社会をつくろうというのは、フランス革命や共産主義などの左派の発想です。その点で、訂正する力の導入をリベラル派に勧めても、なかなか受け入れがたいだろうとは思います。
ただ、結局のところ、そういうリセットの試みは歴史的に見て失敗に終わっているのです。フランス革命はすべてをリセットした。宗教を排し、暦を廃し、新しい理想を打ち立てた。それが偉大だということになっていますが、実際は共和政はあっというまに崩壊し、ナポレオンの短い帝政を経たうえで王政が戻ってしまった。ハンナ・アーレントのように、そのような限界をきちんと見据えた思想家もいます。
もっとわかりやすいのがソ連の失敗です。ロシア革命のリセットがいかに無効だったか、いまのロシアを見るとよくわかります。東、Kindlep.73
この2つはどちらも「共産主義批判」をあわせて込めている。
共産主義・共産主義革命=理性主義という理解とセットになっているわけだ。
ただ、共産主義、とりわけマルクス主義(科学的社会主義)は理性主義の批判者である。理性主義の批判者であると同時に保守主義の批判者でもある。そして両者に対する批判的継承者である。
ぼくはそのことについて何度かブログで書いている。たとえばこれ。
フランス革命の後「理性主義」を批判してバークのような「保守主義」が登場したが、頭の中でこしらえただけの「理性」でもなく、単純な今あるものを肯定する「保守」でもなく、現実の中から新しい理想の萌芽が生じるというまさに科学的社会主義=マルクス主義の真骨頂がここにあるのではないのか〔…中略…〕世界の現実の中から必然的な理想が生まれ、それに基づいて世界に働きかけるという態度は、マルクス主義であり〔…略…〕
これはまさにエンゲルス『空想から科学へ』で展開されている。
エンゲルスは、フランス革命が啓蒙思想に基づく「理性によって社会を改造する革命」であったとする。しかし、エンゲルスもやはり、その「理性主義のゆきすぎ」をあれこれ面白おかしく紹介している。
要するに、啓蒙思想家たちのすばらしい約束と比較して、「理性の勝利」によって打ちたてられた社会的・政治的諸制度は人々を激しく幻滅させる風刺画であることがわかった。(『マルクス・エンゲルス8巻選集7』大月書店、p.43)
そして、社会変革が何によって推進されるかを次のように説く。
〔…略…〕あらゆる社会的変化と政治的変革との究極の原因は、人間の頭のなかに、永遠の真理や正義についての人間の洞察がますます深まってゆくということに、求めるべきではなく、生産および交換の様式の変化に求めなければならない。それは、その時代の哲学にではなく、経済に求められなければならない。現存の社会諸制度は非理性的で不正であり、道理が非理となり、善行がわざわいとなったという洞察がめざめてくるのは、生産方法と交換形態とのうちにいつのまにか変化が起こって、以前の経済的諸条件に合わせてつくられた社会制度がもはやこの変化に適合しなくなった、ということの一つの徴候にすぎない。このことは、同時に、あばきだされた弊害をとりのぞくための手段も、やはり変化した生産関係そのもののうちに——多かれ少なかれ発展したかたちで——かならず存在している、ということを意味する。これらの手段は、けっして頭のなかから考えだすべきものではなくて、頭をつかって、眼前にある生産の物質的諸事実のうちに発見しなければならないのである。(同前p.60)
つまり、「人間が頭で描き出した人工的な理性ではなく、社会の中で現実に育っていく法則的に生じてくる新しい萌芽が、現状の中から生まれながら現状を変えていく理想としての力なのだ」という表明がある。そうした現実の社会発展の法則を認識して、新しい社会を展望するところに「科学」の所以があり、そのために「空想的社会主義」(理性主義的社会主義)ではなく、「科学的社会主義」と自称するのである。なんなら「保守主義的社会主義」と言ってもいいだろう(笑)。
ここには、人工的な理性主義でもなく、さりとて、現状維持をベースとする保守主義でもない、その両者を批判しつつ新しい段階で継承しようとするマルクス主義のスタンスがわかる。
左翼のみなさん、特にマルキストのみなさんは、『空想から科学へ』などを勉強しておられることだろう。
たとえば最近共産党の中央決定でも紹介されている「若い世代・真ん中世代の地方議員会議」で井上ひろし大阪市議は
先日、真ん中〔の世代である現役世代の〕党員に道でばったり会いました。彼女は「まんちゅうプラス」〔大阪での真ん中世代向けの党員と非党員向け取り組みの愛称〕で初めて科学的社会主義を学んだ方で、カバンからおもむろに「空想から科学へ」の本を取り出し、「次の学習会にむけて勉強しているんです」と話すのでびっくりしました。(「議会と自治体」2023年10月号p.42)
と発言している。
もし『空想から科学へ』を勉強しようと思うなら、こうした「理性主義」と「保守主義」について話してみてはどうだろうか?
こうした理性主義の批判者たる「保守主義的な色彩」でマルクス主義をとらえることは、なかなかないだろう。その視点が出口の本書から得られるのである。
ありもしない「攻撃」への反撃*1ではなく、「現実に世の中に出版されて広く読まれている本の中にある『共産主義』のイメージ」との格闘をしてみることの方が、数千倍有効だろう。
そのためにも本書は役立つ。
いやまさに、「仕事に効く教養としての『世界史』」ではないか?
*1:まあ、もしそのような「ありもしない」ものへの「反撃」が「ある」として、ですね。あくまで仮定として。