テスト前のわが子にイラつく

 高校生のわが子は、もうすぐ期末試験である。

 1学期はちょっとがんばっていたが、2学期の中間は全然勉強せず、テストの結果も順位も落ちていた。物理学(「物理基礎」)の出来が悪かった。

 「俺の高校時代とおんなじだなあ」と思った。

 もうね。斜面に止まっている四角い物体から矢印が出ている図を見るとと虫酸が走るんだよね。あと、滑車を引っ張ったりしている図とか。そんなもの引っ張ってないで、もっと有益なことしたら? とか思う。

 娘はそんな高校時代のぼくを彷彿とさせる物理の成績である。

 他の教科も同断である。

 

 わが子はPCの前に座って、SNSとか動画とか見たりしながら、「ワハハ」とか笑っている。

 もう長〜い時間そうしている。

 「勉強しなきゃ」とbotのようにつぶやくが、つぶやくだけだ。

 こっちがイライラする。

 「その時間、勉強すればいいのに…。今日は休日だろ? 休憩入れても10時間くらいできるはずだよね」などと心の中で思う。

 時間が無駄に過ぎているイメージが心から離れない。

 水道の蛇口が出しっ放しのまま、それを放置してPCを見て笑っているようなイメージを持ってしまう。なんか言いたくなる。「いやあ…今すごい勢いで時間が浪費されてるけど?」って。

 

 いや。

 「心の中」ではとどめておけない。3日に1回くらい、そう言ってしまう。

 「うるさい」「わかってる」と返される。(たまに「それなー」と言われる。)

 ぼくがそう言ったからといって、取り掛かる訳でもない。

 

 数学や物理はいろいろあろうが、少なくとも暗記系教科をやっておけば、驚くほど取り組んだ時間に結果が比例する。全然違うではないか。などとイラつく。

 テスト前。イライラしたり、ハラハラしたりする時間が流れている。

 

 だけど、全然勉強していない訳ではない。

 いや…それなりにやっている。

 ときどきPCから外れて、机の上で、「歴史総合」などのノートを作り出す。ちょうど「第2インターナショナル」「青年トルコ人革命」などを覚えている。「お父さん、問題出してくれる?」というので「アヘン戦争の後、1856年に、イギリスとフランスが清に対してしかけた戦争は?」などと問題をだす。1時間くらいそれをやった。

 英単語も同じように問題を出す手伝いをさせられる。

 ぼくは理数系はてんでダメなので、得意なつれあいが、夜も遅い時間に教えたりしている。

 

 そして、「学校が楽しい」と、別にぼくが報告を依頼をしたわけでもないのにつぶやいて、状況を説明する。

 その「楽しい」は、高校になってクラスの同質性が高まり、みんなふんわりと仲がよく、中学時代のような異質のグループに分かれてギスギスした感じがないから、という意味なのだが(その代わり、中学時代は部活動が彼女の居場所だった)。長い時間を過ごすクラスが落ち着けるので、うれしいわけである。

 例えば、クラスの女子が授業で「わかりません」と答えた、その答え方がすごくホワワワワンとしていたらしく、それに対して思わずクラスのある男子(少々陽キャ系)が「え。かわいい」と全く何の気なしにつぶやいてしまい、クラス中爆笑になったという。しかもただ可笑しみを楽しんだという感じで。

 そのつぶやきを、この年頃にありがちな、茶化したり、いじったりするわけでもなく、温かめに笑うというあたりが、娘が感じる人間関係の居心地の良さなのだ。

 クラス生活、楽しそうだ。

 

 それでいいではないか。

 一体何がぼくは不満なのか。

 中学の時と違って、ディープな友人が高校でいるわけでもなさそうではある。中学時代はそういう友達とずっと長い間おしゃべりしていたようだったが、今はそういう友達は同じ学校にはいない。だから、ストレスも格段に小さいようだけど、バッファーもまた小さくなったのかなと思う。その分、心の安定を得たり、ヒットポイントを回復するために、PCに長いこと向かうのかなとも思ってみたりする。

 学校は楽しそうではないか。 

 勉強も自分なりにしているではないか。

 

 そして、「勉強してない!」とぼくはイライラしているけど、本当にぼく自身は高校時代にそんなにやっていたかといえば、どこかで記憶が捏造されている気もする。ぼくは中学時代は自宅での勉強かなりやっていたし、そういう客観的記録も残っているが、高校になってからは、だんだんずる賢くなったような気もする。

 英語のリーダーなどは、テスト前日まで結局ぼくは単語を覚える作業をせず、当日になって和訳だけ必死で丸暗記したという本末転倒のことを繰り返していたという黒歴史がふと蘇る。いうほど、お前自身は勉強してねーよ。

 

 心の安寧を得ていないのは、娘ではなく、親たる自分の方なのだ。

 と自分に言い聞かせてみる。

 

大和田敢太「ハラスメント根絶のために」

 日本共産党の理論誌「前衛」の2023年6月号、7月号、8月号で上中下にわたる大型論文が載った。

 滋賀大学名誉教授である大和田敢太の「ハラスメント根絶のために——実効力ある包括的なハラスメント規制の原点」という論文である。

 ぼくはハラスメントに苦しみ、精神疾患に追い込まれている一人として、この論文を切実な気持ちで読んだ。

 

ハラスメントは個別事件ではなく組織・経営の問題

 大和田論文で重要と思われた1点目は、ハラスメントは「個別の事件」として扱うのではなく、「組織の問題」「経営的課題」すなわち構造的な問題としてとらえるという把握である(引用の典拠を示す「上」は6月号、「中」は7月号、「下」は8月号の「前衛」のページ数。強調は引用者による)。

 〔…略…〕現行のハラスメントに関する立法や政策を前提にして、その解釈や適用を試みるだけでは、ハラスメント問題の根本的な解決に到達することはできません。

 それは、現行制度の考え方やその枠内だけの解釈からすると、ハラスメントは、当事者の問題だと理解し、組織自体の問題としてハラスメント対策に取り組むことを後回しにする傾向があるからです。政党も、政策を立案したり、実現する立場からハラスメントを課題にするだけでなく組織の問題としてハラスメント問題に取り組むことは実に有意義なことです。(上p.187)

 ここに書かれている認識は実に恐ろしいことである。

 ぼくらはハラスメント問題を、必ずと言っていいほど「当事者の問題」としてとらえてしまう。というか、その組織の内部にいる人ほど、そうとしかとらえようとしないからである。逆に言えば、決して「組織の問題」にしてはいけないという力が働くからである。

 「当事者の問題」というのはどういうことかと言えば、例えば、「古い考えの、ハラスメント体質の人が、ハラスメントに敏感な人に、無思慮にハラスメントをやってしまって起こる、個別の事故」というとらえ方である。

 だから、ハラスメントを起こした個別の人を処分したり、謝らせたり、研修を受けさせたり、異動させたりして「終わり」とするのである。

 そうではなくて、組織全体がそのようなハラスメントを起こす構造・方針・現状になっていて、その組織の歪みが治らないうちは、組織のいたるところでハラスメントが起こり続ける——という「組織の問題」としての認識をもてない。むしろそのように考えることを極力拒否し、「個別の事故」だというふうに必死で落とし込もうとするのである。

 

〔…略…〕ハラスメントは当事者の個性や性格に起因する問題ではないのです。ハラスメントの原因を加害者の特異な性格や資質に帰せることは、対人関係という個人間のトラブルの問題に矮小化するものです。それは、ステレオタイプな被害者像や加害者像を作り上げることにもなり、特に、ハラスメントされる側にも攻撃されるだけの弱さや理由を抱え込んでいるといった主張を招きやすいのです。(中p.189)

 だから、「サイコパス」「マキャベリスト」「ナルシスト」といった加害者の特徴づけも、それを加害者の必要十分条件のように考えると、まさにステレオタイプな加害者像を作り上げていってしまうことになる(そのような性格の人間がハラスメントの中でも特にひどいハラスメントに起こす可能性があるにしても)。

 「個別の事故」という扱いをされたハラスメントは、ハラスメント種別ごとの定義や対策のための制度が細分化されていく。

細分化された定義と制度の結果、ハラスメントの事件は、個別紛争として扱われる傾向があり、経営的な課題として、ハラスメントを根絶するという全般的な政策課題に位置付けられることを遠ざけるという風潮さえ作り出しかねません。(下p.193)

 「進歩的組織」という看板を掲げた組織は、ふつうの企業よりもこの傾向は強くなりかねないのではないか。なぜなら、人権などを大事にする「進歩的組織」だから、構造的・経営的に組織としてそんな問題を引き起こすなどということはあり得ず、起こるとすればそれは個別の、遅れた意識の、特殊な個人による、特殊な事故に過ぎないのだ、という扱いをしがちになるからだ。

 大和田はハラスメントを個別的に捉えてしまう弊害をいくつか書いているが、そのうちの一つは、ハラスメントが構造的に起きること、すなわち連鎖し、伝播するという問題を見逃してしまうことを挙げている。

 上司の管理職が部下の中間管理職に、ノルマの未達成を叱責しながら高圧的な態度によってハラスメントをすることがあります。この中間管理職が部下の社員にノルマ達成を迫りながら、暴言によるハラスメントを行うという光景は、珍しくないのです。〔…中略…〕この連鎖しているハラスメントをバラバラに捉えては、全体像を見失います。このような連鎖するハラスメントは、業務型ハラスメントや労務管理型ハラスメントにおいて、よく見られる事例です。業務遂行と一体となっているだけに、ハラスメントの被害者が業務責任を転嫁するなかで、他者をハラスメントしている意識もなく、加害者になってしまうのです。

 ハラスメントの加害者が実は被害者でもあり、ハラスメント被害者が加害者の立場に立ってしまうという連鎖するハラスメントの全体像を捉えるべきであり、ハラスメントを細分化して個別的な事象とすべきではないのです。(中p.193)

 ぼくも、ふだんは気の弱そうな「中間管理職」(男性)が、上からの命令で自分よりはるかに年若い女性に臨むさいに、いつもでは考えられないような高圧的な態度をとり、その若い女性からハラスメントの訴えをされた事例を身近で知っている。

 そのような事例を間近で見ると確かにハラスメントはパーソナリティではなく、組織の構造的な問題が引き起こしているのだという思いを新たにせざるを得なかった。

 

 こうしてみてくると「ハラスメントが起きた」と言われた時に、ぼくらがまず抱くイメージ、「古い体質の特殊な人が起こす特殊な不祥事」という個別性のイメージがいかに問題かがわかる。そうではなく、「そうしたハラスメントを含めた無理を強圧的に押し通す巨大な力が組織全体にかかっており、その軋み・歪みがハラスメントとして現象している」という構造的な把握こそが必要なのだ。

 そう考えると、

  • そもそも非現実的なノルマと非科学的な達成方針を組織に課しているのではないか。
  • その達成に必要な人員や予算が全く足りないのではないか。

などの根本問題が見えてくる。その解決がとうてい「個別の特殊な問題児を再教育すればいい」ということでは片付かず、組織や大もとの方針にメスを入れない限り「根絶」などできないことがわかるだろう。

 大和田は、なんとこの論文の最後には、ポール・ラファルグの『怠惰の権利』の再評価、そして水木しげる的世界観「無為徒食」「働かない自由」にまで話がおよび、そのような人間的な生き方と労働の関係の見直しという、「真の働き方改革」にまで及ぶ。近代的労働観の転換まで迫るところまで行かねば「ハラスメント根絶」はできないかもしれないのである。

 

「正当な業務」であればハラスメントにはならないのか

 大和田論文で大事だと思われた第二点目は、「正当な業務であった」という言い逃れを封じていることである。

 

 ハラスメントの意図不要ということは、目的によってハラスメントが合理化されないということです。加害者がハラスメントの意図を否定する場合、正当な目的だったと主張することがあります。「業務上の指示だった」、「善意のつもりで、叱咤激励した」、「上司としての指導を行なった」、「会社の方針に従っただけだ」などという口実ですが、その通りだとしても、ハラスメントの成立を否定できないし、ハラスメント実行者と管理職や経営者の責任は免れません。指導や研修などの業務上の意図や目的があるという理由から、ハラスメントの正当性は認められるべきではありません。(中p.194)

 これはよく「加害者の主観的な意図は関係ない」という問題として扱われる。上記で言えば「善意のつもりで、叱咤激励した」的な意識である。「そんなつもりはなかったんだけど、やりすぎちゃったかな…」的な感じだ。

 しかし、ここで書かれていることは、そこをはるかに超えている。

 特にぼくが注目したのは「業務上の指示」「会社の方針」ということでさえ、否定されていることである。

 ハラスメント行為に当たるとされた行為が、仮に会社の明文ルールに根拠を持つものだったとしても、そのことは「ハラスメントではない」という理由にならないというのである。

 ハラスメントは、多くの場合、業務の中で行われ、「業務を通じたハラスメント」です。企業における通常の業務を通じた使用者の指示が原因でハラスメントになるという「業務型ハラスメント」を「業務上の範囲内」ということで、ハラスメント規制の枠外においてはならないのです。

 このように、業務上の必要性とか、「適正な業務指示や指導」によって、ハラスメントの評価を免れるものではありません。それは、事後的に主観的な判断から主張され、結果責任を否定するものだからです。(同前)

 「私の行為は組織のルールに基づくものだから、ハラスメントではない」と平気で主張する会社・組織体の幹部が数多く存在する中で、このような解明はとても大事だ。

 

 この大和田の解明は、大和田が「パワハラ」という概念を強く批判する理由の一つにもなっている。

 大和田は、「パワーハラスメント」概念を

国際的には通用しない非科学的なもので、現在のハラスメント規制制度の混迷をもたらしている(上p.187)

と繰り返し断じている。

 パワハラ概念がなぜ「非科学的」だと大和田が主張するのか、というその論点は多岐にわたっており、その全体像は論文を読んでほしいが、ここでは、

パワハラ概念の適用は、「通常の業務」によるハラスメントを容認してしまうという弊害も無視できません。(下p.195)

という点だけに絞ってみてみる。

 「パワハラ」が成立するためには3つの要件が必要になる。

 それを被害者側が立証しなければならないという苦労が付きまとうのであるが、その要件の一つが、「業務上必要かつ相当な範囲を超えたものによる」ということだ。逆に言えば、「業務上必要かつ相当な範囲」であればオッケーということになる。

 使用者(上司)が労働者に対して、「パワー」を行使することをあたかも当然視することから、「よいパワー」(教育・指導)を是認し、その行き過ぎた「悪いパワー」(パワハラ)が悪いとするもので、業務上の必要性によるハラスメントを容認するという弊害を生み出すのです。

 こうして、上司の「パワー」自体は容認されることになり、パワハラ概念を決定した厚生労働省の検討会でも主張されたように、「よいパワハラ」と「悪いパワハラ」があり、「悪いパワハラ」だけが問題視されるのです。(同前)

 この大和田の解明は、つきつめれば権力に基づく労働者支配の根源的批判と「自由な合意に基づく対等平等な労使関係」に行き着くことになる。いわば資本主義的な労使関係の根幹に触れていくことになるだろう。

 ただ、その問題をおいとくにしたって、「正当な業務であった」=会社・組織のルール・方針・指示通りでも、それ自体はハラスメント正当化の理由にはならない、という点が現時点ではポイントとなるだろう。

伊万里大橋

ハラスメントは主観的思い込みではなく客観的な基準により定まる

 このような「パワハラ」概念批判、すなわち「正当な業務で従業員の人権を侵害することの寛容さ」への批判は、大和田が、「国際的水準」でのハラスメント定義を社会合意にすべきだという主張が根底にある。

 現在のハラスメント概念が、会社都合によって成立した日本特殊の概念であることを大和田は批判する。先ほどの「通常の業務の範囲」であれば「問題なし」とされてしまうのはその典型である。他にも例えば、今の日本では「就業環境の悪化」をパワハラの構成要件の一つとしており、逆に言えば、被害者がどういう状態に追い込まれようとも「就業環境が悪化」してなければヨシ! としてしまうのである。

 つまり、被害者の被害を中心におかず、「どうしたらパワハラにならないか」という加害者(主に会社や上司)の都合から発想され、パワハラかどうかは被害者側が四苦八苦しながら証拠集めをしなければならないのである。人権問題ではなく労務管理上の問題として扱われているというのだ。だからこそ、日本政府はハラスメントのILOの国際条約を批准せず、ハラスメントを「違法」とせずに、せいぜい会社での「対策指針」作りを義務付けるに止まっているのである。

 大和田が規範として目指すのはILO条約である。

 次のように定義されている(第1条)。

仕事の世界における「暴力及びハラスメント」とは、一回限りのものであるか反復するものであるかを問わず、身体的、心理的、性的又は経済的損害を目的とし、又はこれらの損害をもたらし、若しくはもたらすおそれのある一定の容認することができない行動及び慣行又はこれらの脅威をいい、ジェンダーに基づく暴力及びハラスメントを含む。

 「目的」性だけでなく、結果としての「損害」を包括していることに注意されたい。

 これにより、

ハラスメントの判断は、行為者の主観的思い込みではなく、客観的な状況から一般に判断できる基準によらなければならないのです。(上p.199)

と言える。*1

 

 

外部の専門家・専門組織の活用

 大和田の論文の最後には、「実効的なハラスメント規制を」として立法課題とともに、職場におけるハラスメント規制の見直しの課題が挙げられている。

 詳しくはそれを読んでほしいのだが、その中で

必要に応じて、外部専門組織や専門家を活用することも検討すべきです。(下p.199)

としている。

 ぼくからすれば、この活用は、こんな程度の扱いでいいんだろうか? という疑問でさえある。

 大和田自身が述べているように、ハラスメントは個別の紛争事件として扱われるべきものではなく、経営上の組織的・構造的な課題のはずだ。

 ハラスメントに、直接・間接に組織体のトップクラスの人間が深く関与していることは十分にありうる。

www.nikkan-gendai.com

 具体的なパワハラを指示したとか容認したとかいうレベル(直接関与)だけでなく、会社の無理な方針自体がパワハラを生む土壌になっている(間接関与)という点においても「関与」がありうるということだ。

 だとすれば、「ハラスメントを行ったのが幹部連中全体であり、しかもさらに上の幹部までがそれを容認していた」となれば、組織内でそのハラスメントを認定し正すことはまず不可能だと言える。

 その場合、やはり「外部専門組織や専門家を活用すること」は「必要に応じて」どころか絶対不可欠だと言える。

 特にそんな活用をおくびにも出していないような会社・組織体のいう「ハラスメント根絶」など、まず信用してはならないし、そんなことを続ける会社・組織体は一刻も早く滅んだほうがいいだろう。

*1:この点で、単に「被害者がそう訴えたから」という基準によっているのでもないことは、別の意味で重要と言える。あくまで「客観的な状況から一般に判断できる基準」が原則である。

米田優峻 『高校数学の基礎が150分でわかる本』

 米田優峻 『高校数学の基礎が150分でわかる本』を読む。

 表題通りか、ストップウォッチで計って読んでみたよ!

 その結果どうだったか?

 まあ、あわてるな。

 まず、この「150分」っていうのはどこを読んだときなのか? という定義をしっかりさせたい。

 というのも、本文p.14に「たった150分で読める!」に注がついていて「演習問題をしっかり解いても5〜6時間で読み終わると思います」と書いてあったのだ。

 ということはだよ。

  • 演習問題
  • 確認問題
  • 確認テスト

は、やらないことにする。

 同じように、

  • コラム
  • 休憩「思考力を高めるパズルに挑戦」

も、とばす。

 つまり「本文だけを読んで、果たして150分以内で読めるのか?」ということにチャレンジすることにした(まあ、注は読みたいところだけ読み、「はじめに」「おわりに」「謝辞」などはすべて読んだ)。

 その結果…

 

 

 

合計123分20秒で読めた!

 というわけで、看板に偽りはなかった。

 少なくともぼくに関しては、ね(四大卒という条件あり)。

 

 とはいえ、疑問は残る。先にその疑問点を書き記しておこう。

 主に3点ある。

 第一に、これで果たして「基礎がわかる」とまでいえる網羅性があるのか? という点。「本書で学ぶ主な内容」として紹介されているのは、

一次関数/二次関数/指数関数/対数関数/場合の数/確率と期待値/統計/微分積分/整数の性質/数列/三角関数

ということだが、これにしぼって「基礎」とした理由はあるのだろうか。

 ぼくの娘は高校1年だが、「数学A」と「数学Ⅰ」という2つの教科書がある。

 この中には例えば「集合」とか「図形の性質」などがあるのだが、そうした要素はこの「基礎」の中にはないのではなかろうか。

 また、例えば「数学Ⅰ」では有理数無理数とか絶対値を教えているのだが、そうしたものは書かれていない。

 何を省いて、何を選択したのか。つまりなぜそれを「基礎」としたのかという問題がある。

 

 

 第二の疑問点は、理屈抜きで答えを導く公式を教えている箇所が、けっこうあることだ。

などである。

 

 第三の疑問点は、やさしい記述であることには違いないのだが、それでも数学の理屈というものは理解するのに時間を要する場合がある。「わかるまで進まない」というふうにしてしまうと、どんどん時間が過ぎていってしまう。

 少なくともその章を終えれば次の章では関係ないことが多いので、わからないところがあっても飛ばして読んでもらうのがいいのではないか。

 

 疑問は以上の3点だ。

 だが、本書は次のような点がすぐれていると感じた。

 

 何と言っても、やさしいことだ。

 言葉を難しくせず、数学にありがちな厳密な条件や言葉の定義にこだわらず、「ザクっと理解する」ことに重点をおき、言葉もやさしいままにしている。だから、数学のシロート、あるいは数学に苦手意識を抱いている人にとって、例えば「微分とはこういうことをする作業だ」と人に説明できるようにする、または、自分の中でイメージを持てるようにする、という点ではよくできている。

 それとセットなのだが、演習問題なども決して「考えさせる」ようなものではなく、本当に今そこに書いてあったことを確認する程度のものなので、挫折感を味わわずにすむ。「お! 俺って意外とやるじゃない?」という謎自信を持って次に進められるのだ。

 疑問点の2つ目で挙げたこと(理屈抜きで計算させる)は、疑問点には違いないのだが、「微分という概念さえわかってもらえることが大事で、計算方法の考え方まではここでは学ぶ必要がない」という割り切りをしていることは、ある人にとっては不満点だが、やはりぼくのようなドシロートからすれば、ホッとしてしまい、次を読もうという気力につながる。親切のつもりで計算方法の考え方まで教えようとすると、ぼくなどは「うーん…なんとなくわかるけどなあ…」となってしまい、やっぱり数学は難しいというコンプレックスに引きずられてしまうのである。

 

 もともとぼくはなぜこの本を手に取ったのか。

 娘が中学校のうちは、数学の問題を聞かれても、応じることができた。

 しかし高校に入ってからは、すでに概念すら忘れていて解けない。教科書を見て概念を思い出すが、とても問題は解けない。解答を見せてもらってようやく理解するというほどのものだが、理解できないものも多い。もはやすっかり役立たずになってしまっているので、娘はぼくなどあてにせず、もっぱらつれあいに訊いている。

 チクショー。

 そこでまず、「教科書を見てその数学的概念を思い出す」あたりを省略できないかと思い、本書が出た時「ほうほう」と思って買った次第である。

 だが、まあ、そのような当初の目的の役に立つには少し距離があったかな。

 例えばさっき挙げた無理数有理数などは本書ではわからなかった。

 しかし、三角比・三角関数はこれを読んでいれば「どういう概念だったか」を思い出せたのである。

 

 まあそういうぼく自身も当初の目的はおいておくとしても、「高校の数学ってだいたいこういうものだよ」ということを俯瞰し、思い出すには、役に立った。

 そして、わからなかったことがわかったこともある。一例を挙げると偏差値については標準偏差の計算方法の考え方は理解できなかった(教えてくれなかった)が、偏差値というものがどういう考えで作られているか、などはイメージすることができた。

 

 高校数学を知るというより、ぼくにとっては、「わかりにくいものをどうわからせるか」という一つの見本であり、そのさいに思い切った削ぎ落としをすべきであること、日常の言葉のまま理解してもらうことなどについて考えさせられた。

 

出口治明『仕事に効く教養としての「世界史」』

 世界史を学んだのは高校のとき。

 それ以来、本を読んでつまみ食いのようにして学んできた。

 たとえばポール・ケネディ『大国の興亡』、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』、『マクニール世界史講義』、グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』のような「概史」はいくつかある。

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 まあ、そういう文明を俯瞰する大ざっぱなやつじゃなくて、もうちょっと世界史の事象を解像度をもう少しだけ高くして身につけさせるような、そんなものがほしいと思っている。

 いっそ角川まんが学習シリーズ『世界の歴史』全20巻のようなものがいいかもしれないと思う。

 あるいはクリストファー・ロイド『137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史』なども読む。

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 それでもなかなか身につかない。

 もうちょっと、ほら、テーブルで面白く雑談するような感じで!

 というわけで、『ゆげ塾の構造がわかる世界史』。

 うんうん、こういう感じ。

 だけど、あともうちょい解像度高く! うんちく率上げて!

 というわけで、その線にピタリとハマるのはこの出口治明の本書であろうか。

 

 いやこんな人は歴史の専門家でもなんでもない。ビジネス幹部の趣味の雑談でしょ? と言われればその通りだろう。

 だけど、そういうレベルでいいんだ。

 いくら専門家の本でも、読み通せず、印象に残らないのでは意味がない。

 間違っていてもいいので、頭の中で基準となるような「歴史の数直線」がとりあえず大ざっぱにザーッと引けることが肝要なのである。

 そのためには「おしゃべり」レベルの言葉で歴史を紡いでくれる人が必要なのである。その「おしゃべり」でわかりやすく頭に印象を残す。それで自分の頭の中に「歴史の数直線」「簡単な歴史認識」ができあがる。

 だけど、その後、専門家の指摘を読んだりして、その部分を修正していけばよいのである。

 大河ドラマ「どうする家康」に関連して、新書をいくつか読んだけど、たとえば磯田道史徳川家康 弱者の戦略』(文春新書)と本多隆成『徳川家康の決断——桶狭間から関ヶ原大坂の陣まで10の選択』(中公新書)ではどちらかが「おしゃべり」度が高いかといえば、前者である。

 まあ、これはどちらも専門家ではあるが。

 いや、それなら「ゆっくり」系動画でもいいじゃない…? という向きもあろう。

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 ある程度はそう思う。そして実際にぼくも時々見るし、よく使う。

 だけど、出口の本は、もう少しそこに「理屈」をつけるのである。歴史をあるテーマで切り取るので、単に「事象をざっくり解説」というレベルにとどまらない。理屈によって説明することで、無味乾燥な羅列ではない歴史が立ち現れる。そして、出口はエピソードの使い方もうまい。印象に残る。

 これはぼくが石母田正の記事でメモしていたのとは真逆の行為なのだが、認識とはそういうものなのだ。

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 出口の本書は10章から構成されていて、まあ、10の話題・切り口から、世界史を「切り取る」という行為をしている。たとえば

  • 歴史は、なぜ中国で発達したのか
  • 神は、なぜ生まれたのか。なぜ宗教はできたのか
  • キリスト教とローマ教会、ローマ教皇について

などである。

 もちろんそんなテーマが、非専門家の「おしゃべり」で解明されつくすわけもないし、正確性も今ひとつだろう。

 だけど、「ビジネスで話題にする程度」には、認識の最初の核(タネ)にはなる。外国人を相手にする…というようなケースでなくても、日本人同士でそういう話題になったとき、ちょっと知識を披露しながら、しかしそのグループでの話題提供にもなる…という使い方をするための本だろう。

 いやらしいといえばいやらしいけども、そういう本がほしいと思うのも事実である。

 本書の第9章は「アメリカとフランスの特異性」。サブタイトルは「人工国家と保守と革新」である。

 アメリカという国が啓蒙思想の影響を受けた理性主義の国=人工国家であるという見方をして、アメリカ独立革命に参加・協力したフランスはその影響を受けてフランス革命を起こし、同様に理性主義にかぶれた歴史を持っているという話だ。

 フランス革命が一時期宗教を追放し、「理性の祭典」をやった話は聞いたことがある。

「十字架を拝むのではない。人間の理性を拝みましょう」というわけです。(出口p.280)

 出口はこのフランス革命における理性主義のラディカル化について、他のエピソードも紹介する。

さらに旧体制の影響力を払拭するために、革命暦を作成しました。革命暦は、1793年に実施され、ナポレオンが皇帝になった後1805年まで12年間、使われ続けました。この暦は徹底して合理精神で貫かれており、1日は10時間、1時間は100分、1分は100秒と定めています。また月の名称からもジュライ(シーザー)とか、オーガストアウグストゥス)とか、歴史色を全部取り去って、代わりに花月フロレアール)、霧月(ブリュメール)、熱月(テルミドール)などと名付けました。これらの諸改革はこれまでの人間の生活習慣などをまったく無視したものでした。(出口同前)

 ロベスピエールのもとでのゆきすぎた人工性=理性主義は反感を買い、結局ジャコバン独裁は崩壊し、ナポレオンが登場する。

 こうした人工性をつきつめた理性主義によって国家を設計したアメリカやフランスを批判的に観察したのが、トクヴィルであり、バークであったとする。彼らは理性主義を批判して、保守主義を主張する。

〔…略…〕バークやトクヴィル保守主義とは何か。大前提になっているのは、次の認識だと思います。

「人間は賢くない。頭で考えることはそれほど役に立たない。何を信じるかといえば、トライ・アンド・エラーでやってきた経験しかない。長い間、人々がまあこれでいいじゃないかと社会に習慣として定着してきたものしか、信ずることができない」

 こういう経験主義を立脚点として次のように考えます。

「そうであれば、これまでの慣習を少しずつ改良してけば世の中はよくなる。要するに、これまでやってきたことでうまくいっていることは変えてはいけない。まずいことが起こったら、そこだけを直せばいいだろう」

 こういう考え方が、バークやトクヴィルの「保守」の真の意味だと思うのです。したがって、理性を信じ人間が頭で考えることが正しいと慢心した人工国家に対する反動として、近代的な保守主義が生まれたのではないか。(出口p.284)

 

 この議論の流れ、最近読んだ本で立て続けに見た。

 一つは、古谷経衡『シニア右翼』。

 バークの考えは、フランス革命の「自由・人権・平等」の理念を否定するものでは無い。バーク自身がそれらの理念に同調する自由主義的政治家であったからである。ただし社会の改良は設計的な理性にのみ基づいて急進的に行われるのではなく、既存の伝統や慣習をある程度尊重したうえで漸次的に(ゆっくりと)なされなければならないし、そうでないと失敗すると説いた。これが「保守主義」「保守思想」の誕生である。政治的な文脈の中での「保守」という言葉もこれと共に(厳密な定義がないまま)生まれたと考えて大きな間違いはない。(古谷Kindle、p.125) 

 

 そして

まさしくバーク自身が懸念した急進的改革を良しとするのが「革新」であり、その後の政治的文脈の中でそれは「共産主義(者)」を指す。(古谷同前)

 

 もう一つは、東浩紀『訂正する力』。

 「じつは……だった」という訂正の精神が、本質的に保守主義に近いものであることはたしかです。過去との連続性を大切にするからです。そもそも、過去をすべてリセットし新しく社会をつくろうというのは、フランス革命共産主義などの左派の発想です。その点で、訂正する力の導入をリベラル派に勧めても、なかなか受け入れがたいだろうとは思います。

 ただ、結局のところ、そういうリセットの試みは歴史的に見て失敗に終わっているのです。フランス革命はすべてをリセットした。宗教を排し、暦を廃し、新しい理想を打ち立てた。それが偉大だということになっていますが、実際は共和政はあっというまに崩壊し、ナポレオンの短い帝政を経たうえで王政が戻ってしまった。ハンナ・アーレントのように、そのような限界をきちんと見据えた思想家もいます。

 もっとわかりやすいのがソ連の失敗です。ロシア革命のリセットがいかに無効だったか、いまのロシアを見るとよくわかります。東、Kindlep.73

 この2つはどちらも「共産主義批判」をあわせて込めている。

 共産主義共産主義革命=理性主義という理解とセットになっているわけだ。

 

 ただ、共産主義、とりわけマルクス主義科学的社会主義)は理性主義の批判者である。理性主義の批判者であると同時に保守主義の批判者でもある。そして両者に対する批判的継承者である。

 ぼくはそのことについて何度かブログで書いている。たとえばこれ

フランス革命の後「理性主義」を批判してバークのような「保守主義」が登場したが、頭の中でこしらえただけの「理性」でもなく、単純な今あるものを肯定する「保守」でもなく、現実の中から新しい理想の萌芽が生じるというまさに科学的社会主義マルクス主義の真骨頂がここにあるのではないのか〔…中略…〕世界の現実の中から必然的な理想が生まれ、それに基づいて世界に働きかけるという態度は、マルクス主義であり〔…略…〕

 これはまさにエンゲルス『空想から科学へ』で展開されている。

 エンゲルスは、フランス革命啓蒙思想に基づく「理性によって社会を改造する革命」であったとする。しかし、エンゲルスもやはり、その「理性主義のゆきすぎ」をあれこれ面白おかしく紹介している。

要するに、啓蒙思想家たちのすばらしい約束と比較して、「理性の勝利」によって打ちたてられた社会的・政治的諸制度は人々を激しく幻滅させる風刺画であることがわかった。(『マルクス・エンゲルス8巻選集7』大月書店、p.43)

 そして、社会変革が何によって推進されるかを次のように説く。

〔…略…〕あらゆる社会的変化と政治的変革との究極の原因は、人間の頭のなかに、永遠の真理や正義についての人間の洞察がますます深まってゆくということに、求めるべきではなく、生産および交換の様式の変化に求めなければならない。それは、その時代の哲学にではなく、経済に求められなければならない。現存の社会諸制度は非理性的で不正であり、道理が非理となり、善行がわざわいとなったという洞察がめざめてくるのは、生産方法と交換形態とのうちにいつのまにか変化が起こって、以前の経済的諸条件に合わせてつくられた社会制度がもはやこの変化に適合しなくなった、ということの一つの徴候にすぎない。このことは、同時に、あばきだされた弊害をとりのぞくための手段も、やはり変化した生産関係そのもののうちに——多かれ少なかれ発展したかたちで——かならず存在している、ということを意味する。これらの手段は、けっして頭のなかから考えだすべきものではなくて、頭をつかって、眼前にある生産の物質的諸事実のうちに発見しなければならないのである。(同前p.60)

 つまり、「人間が頭で描き出した人工的な理性ではなく、社会の中で現実に育っていく法則的に生じてくる新しい萌芽が、現状の中から生まれながら現状を変えていく理想としての力なのだ」という表明がある。そうした現実の社会発展の法則を認識して、新しい社会を展望するところに「科学」の所以があり、そのために「空想的社会主義」(理性主義的社会主義)ではなく、「科学的社会主義」と自称するのである。なんなら「保守主義社会主義」と言ってもいいだろう(笑)。

 ここには、人工的な理性主義でもなく、さりとて、現状維持をベースとする保守主義でもない、その両者を批判しつつ新しい段階で継承しようとするマルクス主義のスタンスがわかる。

 

 左翼のみなさん、特にマルキストのみなさんは、『空想から科学へ』などを勉強しておられることだろう。

 たとえば最近共産党中央決定でも紹介されている「若い世代・真ん中世代の地方議員会議」で井上ひろし大阪市議は

先日、真ん中〔の世代である現役世代の〕党員に道でばったり会いました。彼女は「まんちゅうプラス」〔大阪での真ん中世代向けの党員と非党員向け取り組みの愛称〕で初めて科学的社会主義を学んだ方で、カバンからおもむろに「空想から科学へ」の本を取り出し、「次の学習会にむけて勉強しているんです」と話すのでびっくりしました。(「議会と自治体」2023年10月号p.42)

と発言している。

 もし『空想から科学へ』を勉強しようと思うなら、こうした「理性主義」と「保守主義」について話してみてはどうだろうか?

 こうした理性主義の批判者たる「保守主義的な色彩」でマルクス主義をとらえることは、なかなかないだろう。その視点が出口の本書から得られるのである。

 

 ありもしない「攻撃」への反撃*1ではなく、「現実に世の中に出版されて広く読まれている本の中にある『共産主義』のイメージ」との格闘をしてみることの方が、数千倍有効だろう。

 そのためにも本書は役立つ。

 いやまさに、「仕事に効く教養としての『世界史』」ではないか?

*1:まあ、もしそのような「ありもしない」ものへの「反撃」が「ある」として、ですね。あくまで仮定として。

埜納タオ『保健師がきた』1

 以前、全日本民主医療機関連合会(民医連)にかかわるところで、職員の方にお話をさせてもらったことがある。

 そのときに、自分の講演をする前に、職員のみなさんのがグループごとに分かれて、いわゆる困難事例についてディスカッションをしているのを聞かせてもらったことがある。

 「困難事例」というのは、支援が困難な事例ということだ。

 ごみ屋敷などを想起してもらえばいいと思うが、複合的な要因が重なって、「行政のこの窓口につなげて、こういう制度を活用すれば救済される」という具合にはいかず、支援や解決が非常に難しいケースである。

 たとえば下記は厚生労働省のサイトに置かれている「支援困難事例の検討」という資料からの引用だ。 

https://www.pref.kanagawa.jp/documents/74504/jireia.pdf

 父親(80 代)と娘(40 代)の 2 人世帯、主たる相談者は父親。

 父親は狭心症(身障手帳 4 級)とC型肝炎で通院治療中、歩行不安定。数年前までは板金業と農業で多少の収入を得ていたが、現在は年金収入(約 5 万円/月)のみ。所有する 600 坪の田畑を人に貸し収穫米を受け取っている。持家、預貯金なし、借金なし。運転に不安が出てきたため移動の際は公共交通機関を利用している。外出時は常に娘が付き添う。
 娘は高校卒業後、祖母や母親(20 年前に死亡)の介護と家事全般を担ってきた。収入なし、就労経験なし、運転免許なし。ずっと家に居たため、他者との関わりに不安がある。頭痛・耳鳴り・めまい・腰痛・腹部膨張感等の体調不良を訴え関連各科に検査通院中。MRI結果は問題なし、現状特に病名がつくような異常は見つかっていない。年金及び国民健康保険税等の滞納なし。病院SW支援のもと、医療費はお金のある時に少しずつ支払っている。担当民生委員が時々様子を見に来てくれる。

 「生活が苦しい」との訴えがあるも、具体的なお金の話になると口をつぐんでしまう。娘は大人しく、必要な時以外はあまり話をしない。就労に少し関心を示しているが、父親の意向に沿わないことはしたくないと考えている様子。父親が○○月以降も入退院を繰り返しており、娘もずっとそれに付き添っているため、ゆっくり話をする時間をとるのが難しい。主に父親の支援担当として地域包括支援センター、娘の支援担当として保健師、世帯の生活全般の支援担当として自立相談支援機関が定期的に訪問しているが、状況確認や情報提供、傾聴に留まっている。病院SWも含め、支援者間で情報はその都度交換・共有し、連携をとっている。

 これ以外にも障害が絡んだりするケースなどが事例集として多くまとめられている。

https://www.pref.kanagawa.jp/documents/74504/jireia.pdf

 民医連関係の病院には、そういう人が患者として「どうにもならない」状態でやってくることがある。そうした場合にどうしたらいいかというのをお互いにアドバイスしあっていた。

 ぼく自身、議員などの生活相談でときどきそうしたケースを知っていたし、書籍も読んだことがあるけど、民医連関係の現場というのは、そうした生きた事例がこんなにもあるんだなあと驚いた。そして、やはり一筋縄では解決しない話が多かった。

 

 埜納タオ保健師がきた』は、新人保健師の成長物語で、エピソードごとに基本1話完結型の構成になっている。ある意味、非常にオーソドックスな形式だ。 1巻は保健師の仕事を一つ一つ紹介しながら、物語化していくような形をとっている。

 

 

 

 まず、保健師といって思い浮かぶ「新生児訪問」。ぼくも実際に保健師に会った記憶といえばまずこの仕事をあげる。

 次に地域の「健診」。

 そして、「ごみ屋敷」。

 ごみ屋敷問題は、市町村で言えば、環境部局の仕事である。本作でも主人公(保健師)たちは初めは介入できない。

 しかし、住民に質問をしていくうちに、栄養が取れていないことや、全身にダニの噛み跡があることがわかり、

健康レベルが明らかに低下=保健師が介入できる!!

と考えて関与を始める。

 主人公・三御(さんご)たちは仲間の職員たちとともに、部屋を掃除し、掃除することで住民に「快い」という感情を抱いてもらい、次の支援を受けやすいようにする。

 住民である女性は発達障害なのか? という原因探しをしたくなるが、それを優先させるのではなく、どういう生活を本人が望み、それをどうしたら支援できるかを優先させていく。

 三御たちが課題と考えたのは、女性が住む団地が古くなり「呼吸をしていない」、つまりコミュニティが機能していないと考えたことである。

 高齢化が進み、以前のような団地自治会の役割が発揮できず、「迷惑住民」を安易に排除するような形でしか「自治」を行使できない。

 三御たちは、ごみ出しなどの指示をわかりやすくしたり、回覧板を工夫したりして、女性が暮らしやすいように自治会にも協力してもらうとともに、自治会の活動を団地内カフェのような「ゆるやかな交流」を重点にしたものに切り替え、もともと女性がいた世帯を気にかけていた同じ団地の知り合いなどの援助を得やすいようにした。

 女性はカフェを手伝い、人とのつながりを取り戻し、入院していた母親が戻ってくる予定が知らされ、女性が望む「おだやかな暮らし」を実現できそうな予感で幕を閉じる。

 これは出来すぎではないか?

 安易ではないか?

 困難事例の困難さから見ればそう思うかもしれない。

 それはその通りかもしれない。

 しかし、保健師などの行政が地域の資源と連携して、解決したり支援をしていく道があるんだよ、と短く、そして希望としてそれを示していくことで、今困難に置かれている人たち、もしくはそれを支援したいがどうしたらいいかわからない人たちに、一筋の道を示す意味がありはしないだろうか。

 「保健所に相談したらいいんだろうか」「自治会を見直せばいいのかもしれない」などのように。「ごみ屋敷=排除」という短絡から少なくとも思考を一旦変えさせることができるかもしれないのである。

 1話完結でオーソドックスな物語を示そうとする本作にはそうした役割があるのかもしれない。

 

『最新版 図解 知識ゼロからの現代農業入門』

 日本の農業をどうしたらいいんだろうか。

 福岡市でもちょうど高齢化した農家が世代交代の時期となり、田んぼがどんどん消えて宅地に変わっていっている。自分の近く、目の前でそうした現実を見せつけられる。素朴な素人感覚で申し訳ないが、そういう事態が進行していってこのまま日本の食料は大丈夫なのかという思いに駆られるのだ。

 

福岡市内を流れる川と田んぼと宅地

 知り合いの農学者が2050年にむけた日本農業の政策提言を考えていて、それを見せられる機会があった。食料が足りなくなるという危機意識をもとにいろんな方策が書いてあるのだが、水田は畑と違っていったん宅地にすると元に戻すのが難しいということや、ひこばえを使った収量の増加などは興味を惹かれた。

www.agrinews.co.jp

 他方で、物価高騰である。日々ぼくらが買う食べ物は、輸入にモロに影響を受ける構造なんだとなあという現実を嫌というほど示してくれた。

 ぼくが今のところ考えているのは、結局食料の生産+国土保全機能をあわせた死活的な役割を農業が担っていることを公に認めて、そこに税金を支出して支えるということである。

 ビジネスを支えるのではなく、農業+国土保全機能(田んぼ・水路・里山などを維持する)をやってくれる多様な担い手の生活を支えるために、お金を払うということだ。一種の公務員とみなすつもりで。

 共産党の提言を見ると、農業所得に占める政府補助金の割合は、スイス92.5%、ドイツ77%、フランス64%にに対し、日本が30.2%にすぎないという。

 「農業なら生活ができる」という見通しを持ってくれれば、担い手は増やしやすい。大きな法人や組織体だけでは限界があるし、農業は日本(の国土)のごく一部しか占めないものになってしまうだろう。

 

 さて、そんなふうに農業のことを、農業をやるわけでもないぼく(ら)が考える上では、あまりにも農業についての知識、それもごく基本的な知識がない。

 そこで、何かいい本はないだろうかと思っていたが、本書『最新版 図解 知識ゼロからの現代農業入門』(家の光協会、八木宏典監修、2019年)はなかなかいいのではないかと思った。

 タイトルの通り「知識ゼロからの現代農業入門」で、例えば農業をやる際の技術的な意味での入門書ではなく、日本の農業が産業としてどういう姿をしているのかということを本当に大ざっぱな柱で示してくれる。こういう本を必要としていた。

 基本的なことだけど、改めて読んで「へえ…」と思うことがいくつもあった。章ごとに少し紹介したい。「ぼくにとって新事実というくらいの発見」もあれば、「知ってはいたけど改めて他の知識と関連づけられてそういうことだったのかという発見」もある。あるいは「知ってたけど、忘れていて、この情勢下でもう一度聞かされて新鮮」というようなことも。

 第1章は「農業の成り立ち」。

 栽培する種子や苗はどうなっているか。

種子は、各農家が前年に収穫した作物から採種するのだろうと連想する人は多いかもしれません。(p.25)

 しかしそれは昭和35年くらいまで。

 今は、多くの農家が種苗店やJAから購入する。

現在、一般に市販されているのが交配種=F1品種です。F1品種は、異なる品種同士の交配から生まれるため、雑種とも呼ばれます。/性質の異なる親をかけ合わせると、その子は雑種1代になります。その1代には、両親の性質のうち優性なほうが現れ、劣性のほうは発現しません。そして、両親のどちらよりも丈夫で生長もよく、品質もそろって収量も多くなります。…しかし、親の持つ優れた性質が子に発現するのは1代かぎりです。交配種から種子を採っても親と同じようには育たず、形や性質が不ぞろいになるため、種苗会社は毎年交配させて雑種1代を作らなければなりません。そして農家も、毎年のようにその種子を購入することになるのです。(p.25-26)

 

 第2章「農業を支える人・組織・制度」。

 農家の定義や様々な種類の農業者が分類されていることや、日本の農政史などがわかりやすく書かれている。

 販売農家の平均所得は、526万円で、このうち農業所得は191万円です(2017年)。北海道を除き、都府県の農家の多くは兼業農家で、農外所得のほうが高くなっています。

 一方、農業所得が5割以上を占める主業農家だけでみると、平均総所得が802万円、うち農業所得が668万円となっています。(p.50)

 営農タイプ別で見ると、1戸当たり水田作は69.6万円、畑作は347.8万円、施設野菜は507.1万円、養豚は1928.8万円、酪農は1601.7万円(2017年)。

 わー全然違うんだなと思う。

 

 第3章「稲作経営の基本と米作り」。

 農業といえば「米作」というイメージがあるので、それがどういう成り立ちをしているのかがわかるし、茶碗によそって食べる主食としてのコメ以外にどういうものが作られているかを知る。

米作りだけで食べていくには10haほどの面積が必要です。(p.82)

 さっきも見たけど、米作農家はあまり儲かるイメージがない。なのに、「なぜ、一定の規模がないと収益が見込めず、かつ、減反が進むなかでも全国的に米が生産されているのでしょうか」?

それは、機械化や省力化が進んで、比較的手間がかからず、労働力や労働時間が少なくて生産できる作物だからです。兼業しながら代々米を作ってきた水田を守り、定年後は家業として農業を引き継ぐという例は少なくありません。(p.83)

 米作りは農業の中でも相対的に手間がかからないというイメージはなかった。

 他にも、

大規模化ができる地域では、種籾を直接田んぼにまいて、そのまま栽培ができる直播栽培が広がってきました。育苗や植えつけに手間のかかる田植えがなくなるため、コストを減らし、より大規模化を進めることができます。(p.83)

という事実は興味深かった。弥生時代みたい。

 

 第4章「野菜・果樹・花卉」。

 最近、若い人が果物を食べなくなった、という話をきく。いや、若い人だけでなく、全国民的に。「剥くのが面倒」「後始末が…」「味が不ぞろい」など様々あるけど、やっぱり「高い」ということだろう。賃金が追いついていない。

 本当に、ぼく自身、実家では果物をたくさん食べていた。

 りんごは送られてくるもの・買ったものが箱であったし、梨畑が近くにたくさんあって夏は大量に買い付けた。これらを子どもであったぼくは自在に箱から取り出して、ナイフで皮をむいて無制限に食べていた。

 中でもみかんはめちゃくちゃ食べていた。

 冬にこたつに入りながら、手が黄色くなるまで食べていた。

 しかし、大人になった今、相変わらず果物は好きではあるが、そこまで食べてはいない。

果樹の生産が盛んに行われるようになったのは戦後からで、1970年代半ばにピークを迎えますが、以降は減少の一途をたどっています。輸入自由化や生産者の高齢化の影響もあって、栽培面積は75年の38万haから、2007年には21万haにまで激減しました。(p.110)

 農民作家・山下惣一はみかん農家をやっていたけど、結局やめてしまった。その流れと、重なる。

www.nhk.jp

 

 第5章「畜産経営の基本」。

 家畜は「成長期間が長いほど費用がかかる」(p.130)。鶏肉、豚肉、牛肉に差があるのはそのせいかと思ったのだが、味の良さ(効用)で価格が違うわけではないのかと思った。労働価値説の凱歌であろうか。

 鶏・豚・牛のサイクルはどれほどなのか。

 乳牛はオスの場合22か月齢で「食肉加工に回されます」(p.132)。メスは2年余りで初産。4〜5産して6〜7歳で「食肉処理場に送られます」(p.133)。

 豚は子豚を入荷してから7か月で出荷する。

 鶏は卵用種の場合「500日齢前後になり産卵率が下がったところで処分」(p.145)。肉用種(ブロイラー)の場合56日齢で出荷している。地鶏は80日。

 記述を見るとさらにそういう気持ちになるのだが、本当に「工場」だなあ。システマチックに生産し、活用が終わると処分、更新を繰り返しているわけだ。

 採卵用のオスのひよこは直ちに殺処分されるけども、それはこの本には書いていない。

sippo.asahi.com

 家畜の飼料の分類。「粗飼料」と「濃厚飼料」の違いなど。

 飼料自給率は10%しかない。にも関わらず、国産飼料の作付け面積は98.5万ha。これは山形県の面積に匹敵する。(p.128)

 それだけ多くの農地を使いながら10%しか自給できないというのは、畜産というものの成り立ちについて考えさせられてしまう事実だ。

 

 第6章「世界と日本の食料事情」。

途上国は農業がメインの第一次産業の国で、先進国はおもに工業やサービス業、IT関連業などを中心とした第三次産業の国。そんなイメージでとらえている人が多いのではないでしょうか。(p.158)

 はい。ぼくはそうですね。

 しかし、農産物の貿易に的を絞ってみると、途上国が農業国で、先進国が脱農業国という構図は当てはまらなくなります。…純輸出すなわち輸出超過の地域は、北米、EUオセアニアなど、先進国の地域に当たります。反対に純輸入の地域は、アジアやアフリカとなっていて、前項で述べた栄養不足人口が集まる地域と重複しているのです。ここから、穀物は先進国から途上国へと流れていく姿がみえてきます。(p.158)

 あらま。

 本書は先進国が持つ穀物を余剰として作り出す3つの力を上げている。

 1つ目は労働生産性で、投入した労働力当たりの生産量です。先進国を100としたとき、途上国はわずかに6。17倍近い格差となっています。

 2つ目は土地生産性で、面積当たりの収量の比較です。同じく先進国を100とした場合、途上国は49。ほぼ半分の値にしかなっていません。

 3つ目は土地装備率で、労働力1人当たりの農地面積です。農業機械を駆使して大規模な農地を耕作できる先進国が100なのに対して、途上国は11。途上国では人や家畜に頼ることが多く、1人が耕作できる面積は狭くなるわけです。(p.159)

 1つ目と3つ目はかなり関連していると思うが、違いが今ひとつよくわからない。

 

 第7章「これからの日本農業」。

 ここは現状の水準で政府や自治体が行なっているような農業振興策が取り上げられている。

 農産物輸出のレポートが面白かった。片山寿伸というりんご輸出農業者の話である。

片山さんは「輸出してわかったことは、国によって農産物の評価基準がまったく違うこと」だと言います。イギリスに売り込む際、最初にサンプルとして『ふじ』の大玉を送ると、輸入業者から「こんな大きなリンゴは加工用しか使えない」と言われ、だんだんサイズを落とし、ついに日本では加工にしか使えない小玉を送ると「君もやればできるじゃないか」と言われたそうです。皮をむかず、丸かじりする習慣から小玉が好まれるのです。(p.211-212) 

 というわけで、これは本書のごく一部である。

 手元においておいて参照するには悪くないなと思った。

 

 なお、こういう本の常であるが、監修者はいるけども実際にはたくさんのライターが書いている。巻末にそれが記されている。

田んぼの中のクリーク

 冒頭に述べた提言。執筆した一人に話を聞いたけど、大事なことは国民の中での合意だと思う。農業・食料にどういう位置付けを与えるのか、ってこと。

 「安い食料を外国から買えばいい。だから田んぼは潰していいし、農業の担い手を広げる必要はない。ビジネスとしてやりたい人がやればいい。税金を投じるなんてもってのほか」ということなのか。

 「農業者は食料生産だけでなくて、国土を保全する仕事をやってほしいし、田舎のいろんなことの担い手になってほしい。だから税金をそこに投じて、農業の担い手を増やして田舎で生活できるようにすべきだ。田舎への公共事業での再分配でなく、そうやって地方にお金を回せばいい」ということなのか。

 いやその中間で「この本読むと日本の農業は面積あたりでかなり高付加価値の生産物を作っているからそういうモードでいいんじゃないの? それにカロリーベースで見ても『自給率』は低いけど、イモと穀物だけでカロリー計算したら自給できるし(いわゆる『自給力』)。だから自給率はもう少しあげる努力をするけど、あんまり極端なことはせずに…」ということなのか。

 そのコンセンサスをつくる作業が政治・選挙を通じて必要なのだ。

 

『西村賢太対話集』

 「長い休み」はまだ終わらない。いつ終わるともしれない。なんの見通しもなく、いつ終わるのか聞いてもその返事さえない。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 なんのための時間なのかさえ、具体的に示されない。

 治療と投薬へ追い込まれ、ぼくの精神が蝕まれていく。

 そうすれば音を上げるだろうと思っているのだろうか。スターリン時代のNKVDのように。

 

 高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」が思い出される。

何が面白くて駝鳥を飼うのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢゃないか。
頚があんまり長過ぎるぢゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
腹がへるから堅パンも喰ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢゃないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

 中学生で読んだときは「なんだこの詩は。動物愛護の詩か。高村光太郎はあえかなる駝鳥の身を思って詠んだのか」とぼんやり思っていたのだ。優等生だったぼくは国語の授業でそんなような感想を言った記憶がある。

 しかし50を超えて再読すると、びっくりするほど切実に読める。言葉の意味するものが自分とはぴったり重ならなくても胸を打つってあるんだなあと思うのだった。別の状況の人には、別の形で心を打つこともあるんだろう。詩っていうのは、もっと自由なもんだったのだ。

これは駝鳥ではなくエミュー。自転車旅行中にエミュー養殖場に出会う。

 詩の面白さを理解しない・してこなかったぼくは、まるで朝吹真理子と対談している西村賢太だ。

 

朝吹 〔中略〕西村さんは、詩とかお書きにならないんですか。

西村 いやぁ、僕は詩はダメですね。決して嫌いというわけじゃないんですがね。でも詩人の方には失礼だけど、小説を書いていると、そういう詩みたいなのを書くっていうのが、言葉は悪いけど、ちょっとバカバカしくはならないですか。

朝吹 ……ン? ウーン。どうなんだろう。

西村 だって、あまりにも約めすぎだし、どう言ったらいいのかな。「ずいぶんと楽なことを、しかつめらしくやっていらっしゃいますね」ぐらいに思っちゃうんですけどね。朝吹さんは小説を書かれながら詩にも理解がおありで、たとえば『流跡』は長文詩みたなところがありますよね、もちろん、いい意味で。でも、『きことわ』みたいにストーリー性のあるものを書かれると、詩にはもう、バカバカしてく戻れなくなるんじゃないかという気がするんですけれど。(『西村賢太対話集』p.151)

 

 失礼だな、と思いつつも直截すぎて笑ってしまう。

 ぼくが今おかれている状態は、しかしそうは言っても監獄ではないので、自分で生活のリズムをつくり、心身を侵されないように自分で努力するしかない。

 時には、自転車で何百キロも遠くに出かけたりする。


 自転車で一日どこまでいけるかわからないので、ホテルもあらかじめ取れず、宿がないとラブホに泊まったりする。

 ここはどこだ。という田舎に来る。

 そのような場所で公立の図書館に入ると、廃棄本を無料で持っていってもよい、というコーナーがあったりする。

 古い推理小説やノウハウ本に混じって、『西村賢太対話集』(新潮社)はおいてあった。それをもらって、自転車をこぐ休憩時間などで読んだりした。憂き世を忘れて楽しい時間である。

「除籍図書」の刻印。除籍…。

 石原慎太郎との対談では、石原の第一声がいかにも石原である。

石原 君の受賞作第一作は駄目だな。面白くないよ。

西村 石原さんが「寒灯」(『新潮』二〇一一年五月号掲載)を読んでくださったというのは驚きです。いや、失礼しました。有り難い御言葉です。

石原 俺は君の熱心な読書のひとりで、非常に期待してたんだ。受賞前の、借金地獄の話は実に面白かったけどね。

西村 「小銭をかぞえる」ですね。いやぁ……あんなものを読んでいただけたとは。

石原 あれを推したの、僕だけじゃないかな。(前掲p.115)

 西村は対談者によって調子がかわる印象があり、石原の前ではやっぱりペコペコしている。そういう通俗さがいかにも西村のイメージ通りである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 島田雅彦と、芥川賞を同時に受賞した朝吹・西村の鼎談は、西村と朝吹が堅苦しい挨拶を交わすので、島田が

お二人とももっとリラックスして話されたほうがいいです。そういう余所行きの挨拶はもうやめましょう(笑)。(前掲p.46)

などと叱る。

 その時、島田が二人の会話を促すために持ち出したエピソードが面白かった。

島田 こういう同時受賞とかでもない限り、人生のなかですれ違いようのないお二人でしょ。昔、そういう人同士を、あえて選んで対談させる「異色対談」という企画が「11PM」というテレビ番組であったんです(笑)。その中で私が覚えているのは、ボクサーの輪島功一と詩人の金子光晴の回ですね。金子光晴はボクシングになんか何の興味もない。輪島功一も詩なんか読んだことがない。そんな二人がテレビで対談する。しかも放っておかれるので、お互いがお互いのインタビュアーになるしかないんですね。そのなかで恐る恐る、「普段、何時頃起きるんですか」とか「好物は何ですか」とか、そんな話から始めていくわけです。それがすごくおかしくてね。だから、お二人もまずそういうふうに話せばいいんじゃないですか(笑)。

朝吹・西村 ………(笑)

 お見合いかよ、とツッコミを入れたくなる光景を、純朴そうな輪島功一と強面の金子光晴がぎこちなく演じているのかと思うと、可笑しくてたまらない。