松竹伸幸『日韓が和解する日』

 本書にある、

日本は法的に立派に責任を果たした。韓国との間で日韓基本条約と請求権協定を結び、これまで忠実にそれを守ってきたというのは、法的責任を果たしたということである。「法的に解決済み」という日本政府の言い分にはいささかの間違いもない。(本書p.156、強調は引用者、以下同じ)

という一文を読んで、あなたは「あっ、これは右派の本だな」と思うに違いない。

 

日韓が和解する日

日韓が和解する日

 

 

 しかも本書には次のような文章もある。

日韓基本条約の締結過程で徴用工問題は議論され〔…中略…〕韓国側が「被徴用韓国人の……請求権」を求め、それをふまえた議論の末、日本側が三億ドル(残り二億ドルは円借款でありインフラ整備に使われた)を支払うことになったということだ。それを韓国側も認めているのである。大法院判決はさらに、日本が過去に支払った三億ドルについて、「請求権、強制動員被害補償問題解決の性格の資金等が包括的に勘案されたと見なければならない」として、個人の請求権問題を「包括的に勘案」したものだと率直に認めている。事実上、請求権協定が想定する個人の請求権は果たされたというに等しい。(本書p.23)

〔韓国の大法院〕判決のあと、「それでも個人の請求権は残っている」とする議論があったが、判決は事実上、そういう議論を否定したようなものだ。(本書p.25)

 もういよいよあなたは確信を深めるだろう。

 さらに著者・松竹が日本の中の論議状況について、

徴用工を支援する側の人々の間でも、「国家が請求権を放棄しても個人の請求権は残っている」という、過去の常識的な論理の枠内で議論する人が多かった。(本書p.186)

と書いているのとあわせて考えると、もうこれはどこから見ても右派系の本ではないかと思う人は多かろう。

 

 しかし、本書は「右派の本」だなどという単純な本ではない。松竹は、次の2種類の人は本書を読まなくて・買わなくていい、と初めに断り書きをしている。

 一つは、「日韓関係がこじれている原因は全て日本のかつての植民地支配を反省しない現在の日本政府にあり、被害国である韓国に対する批判はどんなものでも許されず、日本は韓国の主張に全面的に従うべきだ」という人。

 もう一つは、「日本の植民地支配も戦後の責任の取り方も非の打ち所のないものであって、韓国の主張はすべて間違っており、日韓関係の断然も辞さない」という人。

 一見松竹は後者に肩入れしているかのように見えるが、そうではない。「すべて間違っており」などと考えるのは、相当ガチガチな人で、実はあんまりいないだろう。

 他方で、前者も左派やリベラルに多そうな気もするが、「どんなものでも許されず」「全面的に従うべき」とまで言う人はほとんどおるまい。

 本書のタイトルが『日韓が和解する日 両国が共に歩める道がある』とあるように、日韓両者の主張に道理がある(正しいところがある)と前提して、その解決策を探るというのが本書のスタンスである。帯の裏表紙側には「安倍晋三首相にも文在寅大統領にも受け入れ可能な解決策を提示する」と大言壮語(?)しているように、本書の構成は日韓両政府がどういう行動をとればいいかという角度から書かれていて、そのプラグマティックな書きぶりが本書に独特のわかりやすさを生んでいる。本書の帯で内田樹が「面白かったです。一気に読んでしまいました」「これほどわかりやすい解説ははじめてでした」と書いているのは、伊達や酔狂ではない。

 しかも、両政府のうち、特に韓国政府に対して突っ込んだ提案をしている。

 韓国政府が、大法院の「正しさ」と日本政府の「正しさ」の間で迷走しており、自分たちが提起した問題の重さに気づいていないと、著者(松竹)は考えているようなのだ。だからこそ、韓国政府、とりわけ文在寅にどう行動すべきかを指南する内容になっている。

 

 ぼくも「国家が請求権を放棄しても個人の請求権は残っている」という議論に接してきて、その種の論考や記事も読んだのだが、一言で言って非常に難解で、わからないところが多いというのが率直なところだった。それが本書を読んでスッキリしたのである。

 松竹は大法院判決を読んで、冒頭に紹介したように、すでに徴用工問題で個人請求権は果たされていると大法院自体が判断していることを確認しているとして、判決がそれとは全く別の論理から構成されていることに「最大の驚き」を感じたのだという。

 しかし、その「別の論理」によって目指されているものは、大変なイバラの道であることが本書を読むとわかる。ほとんど世界的な歴史をこじ開ける作業だと言ってもいい。文在寅と韓国政府にはその自覚と行動がたりないというのだ。

 

 ぼくにとっての本書の特徴をまとめれば次のようになるだろう。

  1. 細かい論点に入り込まないで、問題が世界史的な中心点から、スッキリと理解できる。
  2. 長期にわたって交渉で解決すればいいという楽観が得られる。しかもそれを「日本政府にとってのメリット」という立場から書いていて興味深い。
  3. 個々のエピソードや事実についても、「『賠償』に限ると、日本は賠償をしてきたが、ドイツは賠償をしていないとも言える」(本書p.152)などといった認識の転覆があったりして、読んでいて爽快感を覚える。

 

 中身はとにかく読んでみて知ってほしい。

 ぼくは、ぼくのような専門家でもない人間がこうした本を書く意味について最近よく考えている。ジャーナリスト・ポジションの人間がそういう悩み方をするのかもしれない(ぼく個人の場合はさらに微妙で、いわば一介の「ネット論客」でしかない。そしてだいたいぼくレベルの書き手など「ネット論客」なんてその後ろに「(笑)」とか「()」とか「(察し)」とかついてしまいそうなものだ)。

 トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』(みすず書房)を読むと、基本的に専門知は要りますよ、民主主義の健全な基礎ですよ、ということが書かれているのだが、逆に言えば、専門知でないものは不要だと言われている気になってしまう。

 

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

 

  

 あえて、専門知でないもの、「ネット論客(笑)」レベルのぼくができることとしては、問題をわかりやすく整理することではないかと思う。

 池上彰のような人間が新たに必要とされている背景にはそれがあるし、ジャーナリストであり、日韓関係の専門家ではない松竹が本書で発揮したのもそういう役割ではなかったかと感じた。

 

『国語 六 創造』『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』

 前回、小6の娘の国語の教科書の話を記事にしたんだが、続きである。

 高畑勲「『鳥獣戯画』を読む」の後には、「この絵、私はこう見る」という節がある。今娘はここをやっている。

 

 「『鳥獣戯画』を読む」では、筆者は、さまざまな表現を用いて、私たちに『鳥獣戯画』のみりょくを伝えていました。

 みなさんも、絵を見て、読み取ったことや感じたことを伝える文章を書きましょう。(『国語 六 創造』光村図書、p.147)

 

 しかし、ぼくからみて「えー…?」と思うような中身なのである。

 

 まず、「絵を見て」というその「絵」がアンリ・ルソーの「猿のいる熱帯の森」なのだ。

www.musey.net

 教科書は、「絵を見て、読み取ったことや感じたことを書き出そう」という課題を出している。

 読み取ったことの例として、

  • 猿がたくさんいる。
  • 花がさいている。

 感じたことの例として、

  • 楽しそうに遊んでいるように見える。
  • ジャングルだから、とても暑いのだろう。

などが出されている。

 「楽しそうに遊んでいる」?

 「ジャングルだから、とても暑い」?

 いやー……そうは見えないけどなあ。

 そして、読み取ったことの、何というか、つまらなさが伝わってくる。

 「猿がたくさんいる」「花がさいている」。

 

 この絵は、小学6年生に見せるルソーの絵としては抜群につまらない絵ではないかと思う。小学生の心を動かす要素がほとんどない。

 構図や配置も平凡さしか感じられない。

 授業ではもっと大きな絵を使うのかもしれないが、教科書の小さな絵では、ルソーの特徴である「平坦化されたシンプルな描写」が伝わらない上に、この絵の中では緊張感のある要素であるはずのヘビはとても見にくい。

 

 とっかかりようがないのである。

 

 教科書は「表現を工夫して、文章に表そう」という課題を最後に出しているのだが、ご丁寧にも「書き出しの例」まで載せている。

 

  • ぼくは、この絵は、自然の中に生きる動物の心を表しているのだと思います。
  • とても暑いジャングルの中。のんびりとつりをしているサルがいる。

 

 「正解」に近づけようという臭いだけがプンプンしている。そういう誘導をしてみても、この絵で小学生の心は動くまい。

 小学生たちにとって「近代絵画とはつまらないものだ」そして「その感想を書くのは退屈・苦痛なことだ」という観念を植え付けてしまわないか心配になる。

とにかく、子供に本を読ませたとして、感想をきいてはいけない。感想とは、本を読んだだけで、胸の内に生じるもので、しかも時間がたつにつれて育ってくるものなのだから。それをすぐさま、何かうまいことを言ってごらん、と導き出すなんて、本嫌いを育てているようなものだ。(清水義範『わが子に教える作文教室』講談社現代新書、p.134)

 

わが子に教える作文教室 (講談社現代新書)

わが子に教える作文教室 (講談社現代新書)

 

 

 ルソーの中で題材に使うとすれば「眠れるジプシー女」だと思うが、

curlchigasaki.hatenablog.com

マンガやアニメを、あるいは大量の写真や映像を見慣れてきている現代の小学生たちに近代絵画の面白さの入り口になるものを示そうと思ったら、やはりシュール・レアリスム、それもダリがいいのではないか。「目覚めの直前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢」などはどうだろう。

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 中学生の時、初めてこの絵をみて、生物を自由にデザインすることの面白さを感じた。特に後方にいる足の長いゾウに目がいった。

 ヌードが「わいせつ」だというなら(最近どこかで聞いた話だ)、有名な「記憶の固執」でもよい(娘はこれを推薦していた)。

www.musey.net

 

 シュール・レアリスムの絵画がなぜいいのか。

 例えば、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」は「絵、うまいね!」とは思うかもしれないのだが、写真を見慣れた子どもたちには物足りないかもしれない。

bijutsufan.com

 セザンヌマティスピカソのような絵は、対象を描くというより、色・形を主観的に再構成するという革新性が理解されないといけない。それは西洋絵画の歴史とか流れの理解が必要になる。

 

 西洋絵画の歴史に触れることなく、例えばルソーの絵の革新性を歴史の中で実感するようなことではなく、それを知らずに、絵そのものから強い印象をわかりやすく引き出すものがいい。

 だとすれば、この役割を果たせるのはシュール・レアリスムの絵画なのである。

 東京藝術大学大学美術館館長の秋元雅史は次のようにいう。

 ダリのように奇妙な世界を具象的・写実的に描いた画家たちの特徴は、無意識の世界を「デペイズマン」と呼ばれる方法で具象的に描いていることです。

 デペイズマンは「異なる環境に置く」と訳されます。わかりやすくいうと、あるものが本来あるべき場所ではないところに存在したり、あるべき形状やサイズと異なる形や大きさのものを画面上に描いたりすることで新しいイメージを創り出す方法です。

 最初に驚きを与えることによって、鑑賞者のそれまでの物の見方や感じ方、常識、固定観念を白紙にさせ、新しい思考回路や新たな感覚を鑑賞者の内に新たに呼び起こさせようとすることを狙って用いられています。(秋元雅史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』大和書房、p.186-187、強調は引用者)

 

 

武器になる知的教養 西洋美術鑑賞

武器になる知的教養 西洋美術鑑賞

 

 

 この章・節は、事実と感想を分けて記述させることに狙いがあるようだが、心を動かさないような題材を使うことに違和感を覚える。

 ネット上に、この章・節の授業「指導案」が転がっているが、ルソーの絵でなくてもいいよとしている指導案もある。その方がいいと思う。

関連図書として、名画を解説しながら紹介している図書を紹介し、子どもたちに解説文に触れさせたい。「この絵わたしはこう見る」では,「猿のいる熱帯の森 アンリ=ルソー」が紹介されているが、自分が選んだ絵について解説文を書くにあたり、関連図書から絵を選んで自分なりの解説文を書いてもよいことにする

http://www1.iwate-ed.jp/db/db2/sid_data/es/kokugo/esko_2015/esko2015605.pdf

 

こうの史代『ギガタウン』

 娘の保育園時代のクラスで毎年集まりを持っているのだが、小学校を卒業する今年で終わりとなる。

 そこで記念として、カップに絵を描こうということになった。

 最近は専用のマーカーがあって、電子レンジで温めるだけで絵が固定してしまう便利なものがある。

 

エポックケミカル らくやきマーカー 16色セット

エポックケミカル らくやきマーカー 16色セット

 

 

 何を描こうか迷ったのだが、全く何の根拠もなく「鳥獣戯画が描きたい」と思って、何の準備もなく、何の参照物もなく、「うろ覚え」でいきなり書いてみた。つれあいは「青海波」を模様付けした。

 その作品がこちらです。

 

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 これはひどい……

 という諸兄の声が聞こえてきそうだが、描いた当時はなかなかうまくできたと悦に入っていたものである。

 そもそもこれが「うろ覚え」なのは、「そういやあ、なんかススキか何か持ってウサギがカエルを追いかけてなかったかなあ…」というほどの、いい加減な情報で描いているからである。絵のディティールに至っては何も覚えていない。

 違う。逃げているのは猿である。

 カエルはウサギと一緒に猿を追っているのだ。

kosanji.com

 そのあと、どうも「鳥獣戯画」をちゃんと描いてみたくなって、こんな本を買った。

 

筆ペンでなぞり描き 国宝・鳥獣戯画と国芳の猫、北斎漫画

筆ペンでなぞり描き 国宝・鳥獣戯画と国芳の猫、北斎漫画

 

 

 この本を使って「なぞり書き」をしたのがこちらである。

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 カップに描いたやつとは、全然違うわ

 なぞり描きだから当たり前だが。

 

 そして、次になぞり書きでなく横に手本を置いて描き、次に手本を見ずに描いて……ということを繰り返した。

 現在ではこれくらいを見ずに描けるようになった。

 

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 ちなみに、職場で使っている手書き手帳の端っこに書いている。仕事をしろよ。

 そして、相当に高速で描けるようになった。

 だいたい1分くらいで描いたのが下図である。

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 お茶目にするためにカエルの口を意図的に大口にした。

 こんなものが上達しても何の役にも立たないが、きっとどこかで鳥獣戯画を披露する機会があるはずだ。その時は、役に立つ。そんな時がくるかどうか知らんけど。

 

 娘の小6の国語教科書に高畑勲の「鳥獣戯画」についての説明文(「『鳥獣戯画』を読む」)が載っている。

 ぼくがこのウサギの絵を、家にある備忘録用のホワイトボードに落書きしていると、娘が「鳥獣戯画」について今国語で勉強していると話しかけてきて、「このウサギは投げ飛ばされて笑っている、って高畑勲は言ってたよ」などというではないか。つまり遊びで相撲をやっているのだ、と。

 

 調べてみると高畑は確かにそう言っている。

もんどりうって転がった兎の、背中や右足の線。勢いがあって、絵が止まっていない。動きがある。しかも、投げられたのに目も口も笑っている。(高畑前掲、/『国語 六 創造』光村図書所収、p.139)

 「だからもっと笑っているふうにしたい」などと言って娘はペンを取り、ウサギの顔を細工し、オノマトペを付け加えた。

 目を離して戻ってくると、ウサギの体が真っ二つになっていた。

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 「きゃ〜」じゃねえよ……。

 しかし、あれだ。

 高畑の「鳥獣戯画」について言うところの、

筆で描かれたひとつひとつの絵が、実に自然でのびのびしている。描いた人はきっと、何物にもとらわれない、自由な心をもっていたにちがいない。 (高畑前掲/『国語 六 創造』光村図書所収、p.142)

という精神を本当に広げていったら、むしろ娘のような遊び方かもしれないと思った。

 その高畑的精神を究極で体現したのが、つまり「自由でのびのび」、鳥獣戯画のキャラで遊んでしまったのが、こうの史代の『ギガタウン』であろう。

 

ギガタウン 漫符図譜

ギガタウン 漫符図譜

 

 

 鳥獣戯画に登場する動物たちが、マンガのお約束的な記号である「漫符」で遊ぶ、4コママンガだ。

 高畑は鳥獣戯画漫符的な表現があることを次のように指摘している。

まず、兎を投げ飛ばした蛙の口から線が出ているのに気がついたかな。いったいこれはなんだろう。けむりかな、それとも息かな。(高畑前掲書p.138)

  「漫符」は暗黙の記号のはずであるが、それをあえてネタとして引き摺り出し、矛盾としてあぶり出してみたり、ゲシュタルト崩壊をさせるような酷使をしたりする。

 「マンガの読み方がわからない」という、作者(こうの)の母のために描いたのだが、連載中に他界してしまう。ぼくの義母も同様のことを言っていた。解説をするという体裁を借りて、漫符というものへの批評的な行為を試みたものだ。

 

 高畑は「鳥獣戯画」の精神を「自由」だと見た。

 しかし、すでに教科書の題材として扱われ、古文書に収まった「古臭い絵柄」として見せられていては、本当の意味で「鳥獣戯画」は自由にはならないのではないか。

 この教科書がやっている、子どもたちへの課題設定は次のようなものだ。

 

絵を見て読み取ったことや感じたことを、どのように表現を工夫して書きましたか。(前掲『国語』光村図書、p.150)

 絵の批評を文字でやることも必要だけど、真に自由にするためには、娘が無意識な態度としてやったように、そしてこうのが自覚的かつ本格的に展開したように、絵そのもので遊ぶことが必要なのではないか。

 

ぼくのかんがえたさいきょうのてんのうせい

 日本国憲法第1条は

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く

 っていう具合に「日本国民の総意に基く」わけだから、天皇という制度自体はそもそも基本的人権や平和主義のように「永遠に」動かせない原則じゃなくて、国民の意思で憲法を変えて制度をなくしたり根本的に変更したりすることもできる。

 だけど、憲法を変えず、今の憲法の範囲内でも、「日本国民の総意に基」いて、天皇のあり方をもっと自由にデザインできるし、してもいいんじゃねーか。

 めざすところは、

  1. 天皇個人・皇室のメンバーをもう少し自由に生きさせてあげたい。人としての尊厳=人権を保障するというか。
  2. 明治憲法を引きずるような神的性格・権威的性格を削って、実権のない、しかし親しみと実感のわくシンボルとしての役目=「1日駅長」「〇〇県ぶどう大使」くらいのゆるさにしたい。
  3. 政治家が政治利用をできないようにしながら、同時にその地位が国民の総意に基づくことを制度上きちんと組み入れたい。
  4. 「こいつこそ、ニッポン!」的な統合象徴性はできれば大事にしたい。

といったあたりだ。憲法で定まっていないことは、法律や皇室典範を変えたらいいんだから、思い切ってそこをゆるやかにやるべきだということである。

 

天皇をやめられる・キョヒれる

 まず、天皇がイヤになったら・しんどくなったら交代できる、お休みできる。そういう制度にしたい。即位も拒める。老舗の跡継ぎじゃないんだから「将来はお前に店をまかすぞ」ってな具合に人生を縛られるのは誰でもイヤだろう。

 そこで、女性天皇女系天皇などを取り入れる。

 だけど、それでも順番を強制的に回される方はたまったもんじゃない。「え、〇〇宮がイヤって言ってんの? じゃ、じゃあ次は俺しかいないじゃん!! ちょ、待って待って待って待って。やだよ、おれ……やりたいことあるもん」。

 町内会の輪番、PTAの役員と同じである。 

 

養子をOKにする

 しかし、そこでネックになるのが第2条だろう。

皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

 世襲かあ。世襲じゃあなあ。

 たとえ女子や女系を許容しても、受け継げるメンバーは限られてしまう。

 そこで養子ですよ。

 皇室典範第9条、

天皇及び皇族は、養子をすることができない。

 を変えればいい。まあ、養子構想ってすでにあるみたいなんだけどね。

 民間人で天皇になりたい人がいたら手を挙げてもらって、民主的な手続きでそれを決めて、養子縁組をするのである。歌舞伎の芸養子っぽく。

 AKBメンバーとか、スーパーボランティアの人とか、清原和博とか、ホリエモンとか、イチローとかが手をあげるのである(決め方は後で言う)。

 そして、そういう民間人出身の天皇は、退位後天皇家にいたくなければ離脱する(養子離縁)。

 

天皇を休める

 「しばらく天皇、休みたい」。

 そういう場合は、摂政にやってもらうのである。

 摂政は皇室典範第16条で

第1項 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。
第2項 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。

となっているんだけど、これでは摂政を置く条件が狭すぎる。これを例えば「天皇が、やむを得ない事情で、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」とかに改正したらいいのでは。

 

天皇について選挙する

 今の天皇の制度は、天皇になる順番をあらかじめ厳格に決め、有無を言わさず生物的に死ぬまで天皇をやらせるところがあって、それゆえに政治が介入する余地が少ない。つまり首相などの政治家が国民にウケるタイミングで即位させたり、気に入らない天皇を退位させたりといった具合に、皇位継承や退位などで政治利用しにくいのである。

 これを皇族や天皇の自由意志でやらせたり養子を取ったりするようになると、今度は政治利用の可能性が高まってしまう。

 そのあたりのジレンマをどうするか。

 そこで、天皇の選挙、もしくは信任投票をしたら?

 3人くらいの候補者の中から選ぶ。

 もしくは1人について信任投票する。

 最高裁裁判官みたいに、直近の国政選挙のときに一緒にやる形で。

 まあ、元来皇室の人は信任投票にして、民間人出身で養子を取る場合は選挙にしたらいいのでは。

 こうすれば、政治家による政治利用も防げて、「日本国民の総意に基く」も制度に組み入れられるわけですよ!

 本当は退位もそういう選挙で認めるかどうか決めるのがいいんだけど、そこまでやると「もうしんどいからやめさせて……」的なことが無理になるので。そこは内閣が出したオッケーが政治利用でなかったかどうかを国政選挙で審判下すしかないわな。

 

 ここまでで、「ぼくのかんがえたさいきょうのてんのうせい」はだいたい終わり。

 あとは、「できれば実行したら?」程度のプラスアルファの提案。 

 

プラスアルファ1:国事行為だけやってね

 天皇の仕事は、本来、憲法に定められた「国事行為」だけにすべきだ。

 それ以外は「公的行為」とされている。例えば共産党だって、公的行為は“憲法の範囲を逸脱しないものはいい”という形で認めている。「公的行為」を認めるという憲法学者は「国事行為の憲法のリストはあくまで『例えば』ってことだから、それ以外もやっていい」と言っている。

 しかし、「公的行為」なんて憲法には規定されていない。「公的行為」なんて認めない、という憲法学者も少なくない。

 憲法第4条はわりとはっきり書いてある。

天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

 だから国事行為以外をやめさせたほうがいい。

 

プラスアルファ2:ニッポンの象徴にふさわしく

 「これぞニッポン」的な象徴のあり方を模索してほしい。

 さてここが難問である。

 例えば、民間養子天皇の場合、AKBメンバーが天皇になったり、スーパーボランティアが天皇になったりする。「オタクこそ今の日本だ」と思えばAKBのメンバーがやってもいい。スーパーボランティアの精神こそ日本的だと思うなら、尾畠さんみたいな人がやってもいい。天皇の仕事は憲法通りだから、国事行為しかやることはない。それ以上はやらなくていい。やってはいかん。でも、こういう元民間人の養子天皇の場合はすでにイメージがあるので、国事行為だけこなしていても大丈夫である。

 しかし、もともと皇室の人、つまり生まれながらに天皇家の人は、なかなかそういう具体的な象徴性を示しにくい。

 「天皇家の人というだけでいいじゃないか」という人がいるかと思うが、前天皇明仁)はそこから脱却し、狭義の「国事行為」のみならず、いろいろ「公的行為」を駆使して動き回って、「感情労働」をこなすことで「平和憲法の理念を受け継ぐ象徴」という、国民全体はもとより、左翼の中でもけっこう人気の統合イメージを得たわけだから、「公的行為」を禁じた上で「天皇家の人というだけでいいじゃないか」とするのは、何となく抵抗を覚えてしまうのである。

 だけど、しょうがないよね。そこは、がまんしてください。

 まあ、どうしてもっていうなら……「公的行為」を多少認めてもいいけど。

 

プラスアルファ3:元号をやめる

 「明仁天皇やめるってよ」みたいなことが頻繁に起きるかもしれないので、元号はコロコロ変わってしまう可能性がある。

 昔の元号みたい。ウィキペディアとかで確認しただけど、2年とかで変わるもんな。特に鎌倉時代のひどさに草。2年で終わった元号が12もある。「天福2年」だってw   三波伸介かよ。

 だから元号の公式利用をもうやめる。混乱するだけなので。西暦だけにする。

 元号は、天皇家が私的に発表するだけにしておく。LINEのメッセージとかでさりげなく使うと、「お、マニアなもん、知ってるね」みたいに、ちょっとおしゃれでプレミアなクール感☆が漂うかも!

 

 

大塚英志の問題提起

 大塚英志は『感情天皇論』(ちくま新書)のなかで、前天皇が「象徴としてのお務め」をビデオメッセージで発し「お気持ち」を表明した時、国民がそのメッセージを事実上スルーしたという旨のことを次のように書いていた(強調は引用者)。

 

この「お気持ち」発言をめぐって顕わになったのは、私たちが戦後憲法下における天皇について「考え」たくないという、「意志」でなく「感情」の国民的共有であった。それは、象徴天皇日本国憲法の定める「国民の統合の象徴」であるのなら、天皇が可能にする「国民の統合」という公共性のあり方について主権者である私たちはそもそも考えたくないぞ、というサボタージュの選択だった、と言える。(大塚前掲書、Kindle の位置No.83-87)

 

 大塚はこの本の中で、統合の象徴という公共性のあり方を主権者としてもっと議論しろよ、という問題提起からまず始めている。天皇は統合の象徴であることを担わされているのに、国事行為しかできないのではその役割は果たせないじゃん、という矛盾を指摘している。

 

感情天皇論 (ちくま新書)

感情天皇論 (ちくま新書)

 

 

 大塚は「公共性」を、近代になって生まれた課題だとして、

「村から東京にやってきたら、隣の人が何を考えているかも分からない。そういう状態から、社会はどうあるべきかという公共性をつくらなければいけなかった」(東京新聞2019年5月18日付)

と捉えているから、むしろドライに国事行為だけをこなす存在にしてもいいと思っているのかもしれないけど。でもそうすると「統合の象徴」という文言が死文化しちゃうんだよね。被災地に行く天皇をマスコミが映す、平和の慰霊をする天皇の姿をメディアが流すから、そして明仁は必死でそこに努力(大塚の謂で言えば、「感情労働」)したから「統合の象徴」っていうのは平成になってもなんとか保たれてきたわけだ。

 大塚は本書の終わりで、こうした矛盾を解決せず、人間疎外を引き起こす「感情労働」を天皇個人に課し続ける天皇制を「断念」すること、天皇を日本から切り離してバチカン化する方向を示している。詳しくは大塚の本を読んでほしい。

 大塚がそう言わざるを得ないのは、天皇制について国民の総意を確認する方法がないからである。

「国民の総意」に基づく「統合の象徴」としての天皇が置かれてしまった。「総意」を確かめる手続きは憲法に示されない。これは、大きな問題だ。難癖をつけているのではない。手続きを経ない合意形成は、議会制民主主義が目指す公共性形成の手続きと相容れないからだ。(大塚前掲書、Kindle の位置No.3341-3344)

 ぼくがあげた「さいきょうのてんのうせい」のモデル(天皇選挙)のようにすれば、その確認の手続きはできるのではないか?

 

 まあ、ぼくがあげた「さいきょうのてんのうせい」のモデルには「それは現行憲法では無理だよ」というものもあるかもしれない。あるいは「この点は許せない」「さらに問題がひどくなる」というのもあるかもしれない。むしろそういうツッコミが聞きたいような気がする。

 

 いずれにせよ、現憲法下の天皇のあり方は固定的に考えずに、もっと自由に議論してもいいんじゃなかろうか。今のくらいで十分じゃない? 親しみやすいよ、という結論になってもそれはそれでいい。

『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスター問題を考える

 『宇崎ちゃんは遊びたい!』を使った献血ポスターとそれをめぐっての太田啓子弁護士のコメント・行動が炎上しているな。

togetter.com

 太田は詳しくは述べていないようだが、要するに宇崎ちゃんの「巨乳」強調のイラストが「無神経」であり「公共の場での環境型セクハラ」であるからという理由で赤十字に何らかの苦情を言ったものと思われる(くりかえすが、この理由は推測に過ぎない)。

 

 これに対するツイッターなどのネット上のコメントを見ると、「あいちトリエンナーレ」の騒動と重ね合わせて、これも表現の自由に対する攻撃ではないのか、という意見がけっこう目立った。

 

「巨乳強調」は女性の人権を侵すか

 そもそもの問題として、巨乳を強調したイラストを大勢の前に掲示するのは女性の人権を侵すこと、「環境型セクハラ」になるのか。

 

 結論から言えば、「環境型セクハラ」=法令上の人権侵害とは思えないが、女性を性的な存在とのみみなし、部分化・パーツ化した存在とみなす意識を強化するかもしれない。(ただ、どんな虚構作品でも政治的にみて公正でない意識を強化する可能性はありうる。)そして、その不公正を批判する意見を述べることはありうる、ということである。

 

 「環境型セクハラ」ではないことについては弁護士の吉峯耕平が書いている。ぼくなりに思うことについてはこの記事の末尾にまとめておくので、読みたい人はそちらをどうぞ。

 

 ただ、太田の言いたかったことは、『ゆらぎ荘の幽奈さん』問題以来一貫していると思うけど、“個別女性の多くは豊かな全体性を備えた一人の人間であるのに、それを巨乳=胸だけ強調して性的なパーツのように扱い、部分化された、性的な存在としてのみ扱うことは、女性全体の尊厳を傷つけるもので、多くの男性(女性や他の性を含めた)の女性観に歪みをもたらす”ということなのだろう。たぶん。太田の気持ちを「忖度」*1して言えば。

 法的にみてアウトではないものの、政治的には公正ではないジェンダーの加圧を高くするものだ、というのがおそらく太田の主張じゃねーのか。

 

 これもぼくはこの種の性的なコンテンツを「楽しんでいる」一人として、前から言っているが聞いておくべき・受け止めておくべき警告ではあると思う。

 宇崎ちゃんは虚構の人物であり、性的パーツ化を「楽しんで」おけるのは虚構の領域だけだ。*2 そして、そういう虚構コンテンツがひょっとしたら、ぼくらの現実の意識の中にこっそりと侵入して、女性への偏見・誤解を広げるかもしれない可能性についてもきちんと認識すべきだ。

 

 そして、これも前から言っているように、その種の政治的公正さから外れたもの、いわばポリティカル・コレクトネスを備えていないと思われるものは、性的なテーマだけでなく、まさに無限に存在する(家族、戦争、犯罪、宗教、暴力、年齢などなど)。そうした無数の警告の一つひとつに、どれくらいの「注意」の資源を割けるかは、まさにその人次第なのだろう。

 

 例えば中川裕美は最近「しんぶん赤旗」で「少女漫画とジェンダー」の連載をやったけど、『NANA』『星の瞳のシルエット』『神風怪盗ジャンヌ』といった少女マンガの中にジェンダー上の不公正がどのように忍び込んでいるかについて語っている。

 

 あるいは、政府が最近、映画『宮本から君へ』に麻薬取締法違反で有罪となったピエール瀧が 主演 出演していることをもって、「国が薬物を容認するようなメッセージを発信する恐れがある」として補助金の不交付を決定した。政府による不交付の是非とは全く別に、作品の中にそういう不公正が入り込んでいると主張することは、一般的にありうるのである。

www.yomiuri.co.jp

 

 そして、もうまったくいま手近にあるだけだから例に挙げさせてもらうだけなんだけど、たかぎ七彦アンゴルモア 元寇合戦記』であっても「元・高麗軍の残虐さを創作上過度に強調することが、モンゴル人や朝鮮人の民族性に対する偏見を助長する可能性がある」という批判も成り立ちうる(ちなみに、ぼくはこの作品を「楽しんで」いる)。

 

 つまり、創作物はほとんどのものが大なり小なり政治的不公正を含んでいる。どこかで誰かを傷つけていることは避け難いと言ってもいい。

 しかし、これにすべて対応して不公正を除去しようとすれば「政治的に正しいおとぎ話」になってしまう。

 

政治的に正しいおとぎ話

政治的に正しいおとぎ話

 

 

 創作が成り立たないのである。

 政治的不公正を批判する指摘というものは、当たっている場合もあれば、外れている場合もある。また、当たっていても、影響がほとんどないという場合もある。

 「不公正だ」という指摘に対して、ひとつひとつ実際に不公正かどうかを検証していけばいい。そして、作家は、その指摘や検証(議論)を受け止めて、そのままにしておくか、作品を修正するか、撤回するか決めればいい。そしてその態度に対して……という無限の連鎖が続く。それが表現や言論の自由というものだ。

 

 「宇崎ちゃん」については「女はおっぱいだよな」的な見方、「女性は性的な存在である」「女性は性的なパーツである」という見方を強化するおそれはある。環境型セクハラではないが、不公正さが含まれていると思う。だから、そうしたポスターに「これはジェンダー的に不公正ではないか」と意見を言うことはありうる。というか、言うべきだ。

 

もっとていねいに説明すべき

 ぼくが思うのは、指摘する側(つまり太田)の「雑」さである。

 「環境型セクハラ」という形で指摘すれば、「厳密に言えばそうではない」という批判が返ってくるのはわかりそうなものだし、そうなれば「環境型セクハラでないから、太田の主張は間違い!」で話が止まってしまって、「女性は性的な存在であるというジェンダー上の不公正を助長する」という肝心な部分が聞いてもらえなくなる。

 「女性は性的な存在である」という主張・メッセージがなぜ不公正か、ということも、いつでもていねいに説明する必要がある。普通に考えると、セックスする場合、女性は性的な存在になる。おっぱいという「パーツ」を味わうセックスをする人だっている。「その一面を示すことがなぜいけないのか?」と思う人はいるはずだ。

 性的な存在だという側面は、ぼくらの人格の大切な一部だが、一部に過ぎない。その一部を切り取って誇張する(文学や創作とはそういうものだと思うけど)ことが、あまりにナイーブであればあたかもそれが女性の(あるいは男性や他の性の)全体であるかのような錯覚を広げてしまうことがある。

 そこを丁寧に説明してほしいのである。

 「なぜ説明の手間を我々が取るのか? 自分で考えろ!」という主張をする人がいるけど、ぼくはまったくそうは思わない。いくら虐げられた人であっても、社会運動をする側はいつでも理解が及ばない人にていねいに説明しなければ理解は広がらない。と、コミュニストの一人として思う。

 

 

表現を批判することと表現を撤去させることの差

 「環境型セクハラ」というふうに言えば、法令上の違反であることをイメージさせ、ほぼ自動的にその表現を封じ込める力が生まれる(かのようである)。

 ある表現を批判することは自由であり、旺盛にやるべきだ。しかし、表現を消させることは慎重でなければならない。「いま自分は一つの表現を取りやめさせるかもしれない」という自覚もなく、法令上のレッテルを、「便利な道具」のように扱われては困るのだ。

 

 憲法学者である志田陽子は表現の自由の前提として次のように述べている。

 

人類の発展には真理の探究がつねに伴ってきた。これを塞がず前進させていくためには、国が上から「正しい答え」を押し付けず、人々が自発的に切磋琢磨できる言論の場(思想の自由市場)が必要である。(志田「芸術の自由と行政の中立」/「議会と自治体」第258号所収p.45)

 

 「思想の自由市場」というイメージからすれば、流通を規制せず、できるだけ自由に流通させて、しかしその中で切磋琢磨して、価値のないものを淘汰していったほうがよいはずだ。

 ヘイトスピーチはその典型だけど、ヘイトスピーチ解消法はヘイトスピーチ(本邦外出身者に対する不当な差別的言動)そのものを「許されない」(前文)としつつも、それを罰則による禁止や規制はせずに、啓発や教育によって、つまり国民一人ひとりが「思想の自由市場」でよい「商品」を選び取る力をつけさせることで「解消」をめざしている。

 これが将来規制法・禁止法になったとしても、基本的な構成は同じだろう。緊急避難で規制することがやむをえないもの以外は国民一人ひとりの啓発や教育に待つことが根本なのである。

 つまりヘイトスピーチに対するポリコレ棒を国民の内側にビルトインすることが大切だというわけだ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 同じように、安易に表現を抹殺してしまうのではなく、それを批判することによって克服していくことがこの問題での「大道」だと言える。 言い換えれば、表現そのものの存在を否定(展示取りやめ・撤去・公刊中止・回収など)することを求めるのは相当慎重であるべきだ。特に、左派やリベラルは「表現の自由」の価値を高く称揚しているだけに、安易に撤去や中止を求めるべきではない(あくまで「安易に」であって、撤去や中止を絶対に求めてはいけないわけではなく、効果的な場合もある)。

 

 前にも言ったけど、ある人の表現に対して批評する権利は当然にある。それを口にするのも自由だ。もちろんその中身が、政治的公正さを求めることを動機にしていたとしてもである。

 そして、政治的公正さから表現を批評することはただ権利として存在するだけでなく、その角度からの批判が正鵠を射ている場合もある。ぼくもよくやる。

 だから、太田が政治的公正さの角度から、民間団体である赤十字にポスターについて意見を述べたこと自体は、間違っていないと言える。

 

 ただ、単に批評にとどめず、「表現そのものをやめろ(公刊したり発表したりするのをやめろ)」というのはどうか。結論から言えばそのように要求することは権利としては存在するし、たとえ表現が法に触れていない場合であってもそれはありうる。言ったほうがいい場合すらあるだろう。

 しかし、民・民の関係の中で言えば、その表現が政治的公正さから言って非常によくないものですよ、と伝えるだけですでに十分に役割は果たしているはずだ。あえて表現そのものをやめろ・撤回せよと要求して、その表現の存在を「抹殺」してしまう必要はないのではないか。

 自民党がつくるポスターについて「戦争を正当化し煽るものだ」「ジェンダー上不公正だ」と仮にぼくが考えたとしても、それを「撤去せよ」とは、ぼくはあまり言いたくない。*3

 

 先に挙げた中川は『神風怪盗ジャンヌ』が処女信奉という不公正を忍ばせていると批判した。『ジャンヌ』が少女に与える影響の方が、おそらく宇崎ちゃんポスターより大きいだろうが、中川は決して「だから『神風怪盗ジャンヌ』は絶版にすべきだ」とは要求すまい(いや、もししてたらビックリだが)。

 

 今回のケースで言えば、「宇崎ちゃんの巨乳の強調は、女性蔑視である。このポスターを私は支持しない」と表明し、赤十字に伝えればそれで終わり(目的を十分に果たしている)であって、「ポスターを撤去せよ」とまでいう必要はないのだ(太田がそこまで求めたかどうかは知らないが)。

  民間団体や民間企業にとっては、批判されること自体が、この表現を不快に思う人がいるのだなという単純な投票になり、その結果、その民間団体・企業は勝手にポスターの撤去・存続を判断するからである。(ただし、それは「江頭2:50をポスターで使うと嫌悪する人が多いので使わないでおこう」という判断と同列なのだけど。)*4

 

公の場の表現だからいけない?

 次に、「公の場の表現だからいけない」という意見について。

 市民の批判を受けて、大勢の人がよく見るような表現(駅のポスターなど)を撤去することはある。しかし、それはあくまで作家や民間団体の自主的な判断に過ぎない。作家や民間団体は表現の自由を行使して、表現を公表し続ける権利はある。表現の自由はそれくらい重いものだ。政治的な不公正があったからという程度の理由で当然に撤去されるべきものだと批判する側が考えるのは、根拠がない。

 ちなみに、公的団体のポスターについてはどうか。

 赤十字は「日本赤十字社は国の関連機関ではなく、あくまでも独立した民間の団体」である。なので、当然それは表現の自由の行使の主体となる(出版社や政治団体表現の自由の保護を受けるのは当たり前であるように)。

 となれば、太田が赤十字にモノを言ったというのは、民・民での関係ということになる。市長や首相に請願して、ある表現活動をやめさせるように要請したわけではないのである。

 太田の行為はいかなる意味においても表現の自由の侵害ではない。

 

 公的な団体のポスターを、公的団体に要請して撤去させる行為はどう考えるべきか。

 先に紹介した志田陽子の次の指摘を読んでほしい。

 この「表現の自由」は、一般人に保障される自由である。「公」はこれを保障するための仕事をする側に立っている。……その一環として、自治体が「自然豊かな郷土」とか「非核都市宣言」とか「ヘイトスピーチは許さない」など、その自治体の価値観や政策方針を打ち出し、これを告知するための表現活動をおこなうこともできる。これを広めるために自治体の長がみずから発言することもできる。これは行政サービスの一環としておこなわれることであって、一般人と同じ「表現の自由」によるものではない

 憲法の言葉で言えば、「公」は憲法尊重擁護義務のもとに、「自由」ではなく職務を進めるための「責任」として、さまざまな説明や啓発をおこなっている。公人が公人の立場において発言をするときには、この仕事の一環として発言をしていることになる。

 とくに公人が、正当な権利を行使している人を指してその行為の価値を貶める発言をしたり、排斥的な発言をすることは、人権擁護のための責任(憲法尊重擁護義務)を負う公職として、慎むべき事柄である。(志田前掲p.46-47、強調は引用者)

 一般的に啓発ポスターを公の機関、例えば福岡市がつくったとしよう。それはものすごく単純化して言えば市長が公職として作成していることになる。そして市長は忙しいし、絵が下手なので、職員に任せ、職員も絵が下手なので、それを作家に委託した……というほどのものである。つまりできあがったポスターは、市長の仕事としての成果物であり、それは「表現の自由」を適用しないものである。

 となれば。

 市の責務を果たすものとしてのポスターに対して、市民が政治的公正さの角度からモノを言い、そのポスターをやめるように言うことは十分ありうることだ。市に対する請願と同じであり、憲法で保障された行為である。公権力によってポスターを撤回させることになるが、これは民間に対するものとは区別される必要がある。

 例えば『はだしのゲン』をポスターに使うことを、何らかの「政治的公正さ(自虐史観はおかしい)」を理由にして市長がやめる場合は、「表現の自由を侵す」からけしからんのではなく、市長が考えた「政治的公正さ(自虐史観はおかしい)」が間違っているのではないか、という角度から批判することができるのみである。

 これに対して、美術館に展示されたイラストは違う

 その場合、そのイラストは市長ではなく、あくまで作家のものであるから、市民の意見があったからということを理由に市長の指示で外したりすることは、その作家の表現の自由(厳密には、行政の一定の支援を受ける芸術における「芸術の自由」)を侵すことになる。

 もし、「宇崎ちゃん」が福岡市の美術館に展示されていて、「あれはセクハラだ」という意見をもとに市長がその撤去を命じたら、その市長の行為は文化芸術への干渉になる。

 

このポスターはアウト? セーフ?

 よく宇崎ちゃん献血ポスター擁護派が「じゃあ美術品のヌードはどうなんだ」と持ち出す。

 そうすると「美術館に飾られた芸術作品とは違う」「公衆の面前ではなく限定されている」式の反論が返ってくる。

 しかし、例えば、以下のような新聞広告はどうか。

 

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15日付西日本新聞夕刊

 モローは女性を「男性を誘惑する邪悪な存在」として描き続けた。そのような女性観をモロ出しにした(シャレではない)こんな「歪んだ女性観」にもとづく「扇情的ヌード」を何十万人もの人が読む新聞に載せるというのは「環境型セクハラ」ではないのか?

 

 そして、次のような広告はどうか(架空のものです。念のため)。

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 おそらくこの2つは太田からは批判されまい。

 なぜだろうか。

 それは、美術作品として扱われていることによって、この広告には作品に対する自覚的な取り扱いがある、と考えられているからである。つまり批評的に取り扱われていることがわかるパッケージなのだ。

 逆に言えば、「宇崎ちゃん」の性的なメッセージを無自覚に使っている献血ポスターには太田はモノを言いたくなるのである。「女はおっぱい」というメッセージを強化している可能性について製作側は毫も考えていないかのように思えるから。

 そして、そのような太田の心配はよくわかる。

 「ジェンダー上の不公正を助長する恐れがありますよ」という意見を知っておいてほしいのだろう。言われた方は「あっ、そうなんだ」と思ってくれれば、それで太田の目的は達成されるはずである。

 いや、もしこの2つも太田が「けしからん!」って言ったら、それはどうかしていると思うけど。

 

批判は旺盛に 表現はできるだけ自由に

 先の「思想の自由市場」という比喩からすれば、表現の領域はできるだけ自由であったほうがいい。

 だから批判はどんどんやればいいと思うけど(それは太田による宇崎ちゃん批判も、「平和の少女像」への批判も同様である)、撤去要求は慎重にすべきだ(くりかえすが、民間団体や作家に対しては、絶対にしてはいけないということはない。撤去判断をするのは畢竟作家なのだから)。

 

 左派やリベラルが「政治的不公正を含んでいるからその作品を撤去せよ」というふうに主張するのはあまりうまくない。まあ、世論喚起の問題提起としてはなくはないけど、表現の自由を損なう可能性についてよく考えた上で、要求してほしい。

 政治的不公正を含んでいるという批判の表明は旺盛にすべきだろう。しかしその説明は丁寧に。

 そして根本的には、政治的不公正、例えばジェンダー上の不公正さを批判するポリコレ棒を国民の中にビルトインするような啓発・教育・学習の方にもっと重点をおくべきじゃないのか。そうなれば、自然にそうした不公正な表現は減るし、もし出てきてもそれが虚構上のネタだと受けてもすぐにわかる。

 「地球環境にいいことをしよう」という意識が広がれば、地球環境にやさしい商品が売れて、良くない商品が淘汰されていくようなもので、環境に悪い商品をわざわざ差し止める必要はなくなる。

 

 

付録:ぼくなりに考えた「環境型セクハラ」とまでは言えない理由

 最初に述べた、今回の太田のツイートで言うところの「環境型セクハラ」には今回の「宇崎ちゃん」が該当しないのではないかと考える理由を以下に述べておく。

 以下、必要のない人は別に読まなくていい。

 ILO第190号条約「仕事の世界における暴力とハラスメントの除去に関する条約」では、ハラスメントは「人権を侵害し、あるいは人権を損なう可能性」があるもので環境型セクハラはその一形態であり、働く人の人権を侵す(可能性がある)。

 「『仕事の世界』の問題じゃないだろ」というツッコミはその通りだけど、同条約第3条では職場だけじゃなくて「(f)往復の通勤時」というのも入っているので、まあ、ここはそういう話として進める。*5

 環境型セクハラでよく例にあがるのは次のような「ヌードポスター」の例である(厚生労働省の事業主用啓発パンフから。もともとは「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置についての指針」による)。

 

「環境型セクシュアルハラスメント」とは

労働者の意に反する性的な言動により労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなどその労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じることです。

●典型例

……事務所内にヌードポスター掲示しているため、その労働者が苦痛に感じて業務に専念できないこと。

 

 しかし、例えば、「上目遣いにアヒル口で媚びている女性のポスター」はどうか。「女性を男性に媚びる存在として強調しており、女性の尊厳を侵している」ということから「苦痛であり仕事に集中できない」という訴えがあったら、それは「環境型セクハラ」と言えるだろうか。

 「言えない」と感覚的に思うのではないか。

 つまり「ヌードポスター」から「上目遣いにアヒル口で媚びている女性のポスター」までの間に「水着の女性」「服を着てはいるが、あられもないポーズをしている女性」「巨乳で服を着ている女性」など様々なバリエーションがある。

 

 そして、「『服を着て、巨乳を強調している女性のイラストが掲示されているポスター』が通勤途中にある」というだけでは、法的な意味では「環境型セクハラ」と言えないのではないか(条約による国内法が仮に整備されたとして、このイラスト掲示をハラスメントと断じることはできない)。

 こういうものは社会的な風潮、人間関係などで決まるものだから、一概に言いにくいけども、社会的にこれを「能力の発揮に重大な悪影響が生じるなどその労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じる」ものとするのは難しいだろう。

 「不快」を感じる人には、通勤途中ではなく、職場に貼ってあったら「不快」さの度合いはさらに増すと思うけど、それでもやはりセクハラと断じるまでは難しかろう。

 したがって、環境型セクハラとはまで言えない

*1:言葉の正確な意味で。

*2:現実の人間関係に持ち込んでも良い。許されると合意された現実の人間関係なら。例えば、ある種のセフレみたいな関係は、普段の全面的な人格など関係なく、お互いを性的な存在(さらに言えば巨乳だからセックスしたいと言う理由だけでも十分)とだけ認識しあって関係を楽しむように合意しているわけで、それを他人からとやかく言われる筋合いはない。

*3:くりかえすが「絶対に言わない」とは言い切れない。

*4:なお、「宇崎ちゃんはオタクねらいで効果を上げているんだから問題ない」という意見もあるかもしれないが、赤十字の調査では献血者数(延べ人数)は2010年度の533万人から2017年度473万人と12%減少しており、同期間に16-69歳人口が8878万人から8472万人と5%しか減少(総務省人口推計より)していないことと比べると、献血者数は人口一般の倍以上のペースで減っている。つまりもし今年度のデータが出て献血者数が減っていた場合、“オタクは吸い込まれてきているが、他の層はドン引きしている”という仮説が成り立ってしまう可能性がある。まあそこまで言わなくても、検証なしには「宇崎ちゃんでオタク層が献血にきているから問題なし!」と単純に言うわけにもいかないのである。

*5:ちなみに日本は賛成したが未批准。条約にもとづく国内法は整備されていない。

「不自由展」には入れなかったけど「あいちトリエンナーレ」は観てきた

 あいちトリエンナーレに行った。むろん再開された「表現の不自由展、その後」に行くつもりだったのだが、3回抽選に挑戦し、結局当選できなかった。

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 抽選を待っている間、愛知芸術文化センター内にある、「表現の不自由展、その後」以外の展示を見て回った。

 これは、ぼくの目的からすると、実際に鑑賞してみて、とてもよかった。それは「政治的」であることときわどい境目を接している作品、あるいは「政治的」そのものである作品をたくさん見ることができたし、あるいは「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねないような作品をたくさん見たからである。

 その二つの非難はいずれも「表現の不自由展、その後」の作品、とりわけ「平和の少女像」をはじめとする2、3の作品に向けられている言葉である。その非難の境目を曖昧にし、解体してしまう作用をぼくのなかでもたらした。

 

 現代のアートと言われるものが、人の感性に入り込んでそれをざわつかせようと思えば、政治に触れないわけにはいかない。企業あたりが作った「人畜無害」な「絵本」のような“ふんわりしたもの”だけに限定することなどできないはずである。そのような「政治的」かつ「これがアートなの?」的な作品をたくさん見ることができた。

 そして、「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねないような作品。〇〇にはいろんな言葉が入る。「プロパガンダ」「インタビュー動画」「描きなぐり」「広告」「いたずら」「教育フィルム」「朗読」……。

 山口つばさ『ブルー・ピリオド』に出てくるこの言葉を思い出す。

 

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンKC)

 

 

 主人公が同じ講習生が「あれも工夫の一つじゃん」と指摘したのを聞いて、反省する。

また表面的なところで思考停止するところだった

画材って絵の具とオイルのことだと思ってた

絵って思ってたよりずっと自由だ

 

政治的なもの

 例えばこういう作品を見た。体制に反対するなどして暴力を受け、母国や移動先の国にいられなくなった人たちのインタビュー動画である(キャンディス・ブレイツ「ラヴ・ストーリー」/A33)。あまりにも長すぎるので全部を「鑑賞」することはできなかった。

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 これは、ベネズエラのチェベス政権に反対し、しかも同性愛者である教授のインタビューである。それ以外にもシリアから逃れた女性のインタビュー動画があり、この教授と交互に映像が流れる。

 実は、これは演者が語っている「再演」である。*1

 この部屋の後ろに、同じ語りを、本人が語っている映像がある。「語る」という行為が客観視され、批評的になる。「語り」に共感し過ぎている自分や、逆に「演技だろう」と距離を置いてしまっている自分を発見することになる。

 ただ、奥の部屋の方は吹き替えも字幕もないので、(ぼくのような英語ができない日本人には)その意図があまり果たせていなかった。人も表の部屋ほどいない。ただ、声のトーン、容姿はわかる。写真の同性愛者である教授は、こんなに若く、たくましくない。むしろ年老いて、貧相なのである。演者の見た目、声質に左右されている自分を発見する。

 しかし、現実にその鑑賞室はどんなふうになっていたかというと、そんなキレイに、作者の意図通り、鑑賞者たちは“踊らせ”られないのである。

 鑑賞する人はこの部屋に釘付けになっていって、人の出入りが他の展示に比べて小さく、このインタビューを長い時間聞いている人が多かったように思えた。つまり暴力を受けた人間のインタビューに強く惹きつけられている状態になったのである。いわば普通のドキュメンタリーを見ていた状態のまま無批評にそこを出る人も少なくなかったように思われる。

 この作品は、例えばベネズエラやシリアの最も熱い「政治的なもの」を取り扱っている。政治的であるがゆえに、ぼくらはこの演者の再話映像の前でナイーブに聞き入ってしまわないかどうかテストされるのだと言える。

 そして、表の部屋だけで出ていく人がいれば、これは一種の「プロパガンダ」でしかない。あるいは、「ただのドキュメンタリー映像」に過ぎない。

 この作品一つをとっても、政治的なものを避けたり、「これは単なる〇〇であって、アートではない」式の非難をしたりすることは、説得力を失ってしまう。

 

 

 あるいはこれ(タニア・ブルゲラ「10150051」/A30)。

 鑑賞者は入り口で手にスタンプを押される。解説を読まない限り、その説明はない。

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 この数字は2019年に国外へ脱出した難民の数と、脱出が果たせずに亡くなった難民の数の合計だ。

 だがそんな数字を見せられても何も心は動かされないだろ?

 そこでこの作家はメントールの充満した部屋に鑑賞者を入れて無理やり涙を流させる。実際、俺も「泣いた」。「人間の知覚を通じて『強制的な共感』を呼び起こし、客観的なデータと現実の感情を結びつけるよう試みている」というのだが、この試みが大失敗している(結びつかない)ことによってむしろ数字=抽象化が引き起こす問題を突きつける。

 岡崎京子が『リバーズ・エッジ』で語ったように、オゾン層破壊をいくら数字で示しても「だけどそれがどうした? 実感がわかない 現実感がない」(p.13)というのがぼくらの中に絶えず起こる問題なのだ。

 「広島を『数において』告発する人びとが、広島に原爆を投下した人とまさに同罪と断定することに、私はなんの躊躇もない」と詩人の石原吉郎(「三つの集約」)は怒りを込めて告発し、その告発の系譜を、こうの史代『夕凪の街 桜の国』も引いているのだ、とする見方もある。

 タニア・ブルゲラは、そのような異常を、メントール部屋を企画することで表現している。

 

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

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海を流れる河―石原吉郎評論集

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夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

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  人によっては、「これがアート? ただのこじつけでは…?」と思うんじゃないか。少なくとも、河村市長を熱烈支持し、大村知事を非難した、うちの親はそう言うに違いない(決めつけ)。

 「難民」の扱いは日本では極めていま「政治的」な問題である。

mainichi.jp

 ここでも、冒頭に述べた、焦げ臭いほどの「政治的」な臭いと、「これがアート?」的な摩擦がある。

 

 

 あるいは、これ。

aichitriennale.jp

 袁廣鳴(ユェン・グァンミン)「日常演習」(A20)という作品で、ドローンで都市の上空を飛ばした映像である。

 全ての作品をそのように鑑賞したが、まず解説を読まずに展示を見る。その後、戻って解説を読み、再び作品を鑑賞した。

 この作品も、まず鑑賞してみた。すると、どこかで見たことがある光景だなあ…という思いが生じ、ビルの文字でどうも中国のようだと思うのだが、ぼくは中国本土に行ったことはない。しかし台湾になら行ったことはある。「ひょっとして台北では?」と思っていたら、河川敷の映像を見て、あっ、これは台北だとほぼ確信する。

 台北は人がたくさんいたから、街に一人も人がいないというこの映像がいかに異様かを実感する。早朝に撮ったのかな、とも思ったが、それにしても一人くらい外にいてもよさそうではないか。しかし一人もいないのである。

 鳥だけはいる。

 まるで、人間だけがいなくなったかのようなSF的な、そして不気味な光景である。

 実は、「台湾で1978年より続く『萬安演習』という防空演習を捉えたものです。この演習は毎年春先に実施され、日中の30分間人々は屋内へ退避し、自動車やバイクなどの交通も制限され」るのだという。

 ぼくは解説を読んでただちに福岡市で最近行われた北朝鮮のミサイル落下の避難訓練を思い出した。

www.youtube.com

 

 この不気味さ、異様さは、政治的なものと直ちに結びつく。

 なぜなら、高島市政を支持する人や安倍政権を支持する人なら、こう言うのではないか? 「北朝鮮のミサイルが飛ばされていて、そのことに備えるのは当たり前ではないか」。なるほどそれはそうかもしれない。少なくともこの当時はそうだった。

 しかし、それを「異様」と感じることまで、その人たちはおそらく文句を言いたいのではないか。「訓練は当たり前・当然なのだから、異様と感じる方がおかしい」と。

 だが、例えば、この福岡市での訓練は、核が炸裂して大量の死者が出るというシナリオは決して採用しない。そんなことをすれば世論が大騒ぎになるからである。あくまで政権のシナリオにそった範囲での「訓練」であり、そのために身体と精神を馴致させようとするものなのだ。

 その意図だけが強烈に迫ってきて、不気味さ・異様さを覚えるのである。

 この作品はある種の「政治的なもの」なのだ。そして、人によってはただ上空をドローンで飛ばしているだけの記録映像であり、「こんなものがアートなのかよ」と思うのではなかろうか。

 

 

「これがアートなの?」

 「政治的なもの」との際どい境界の上にある、もしくはどっぷりと「政治的なもの」に浸かっている作品はまだまだたくさんあった。紹介しきれないほどである。

 「政治的」かどうかは全然別にして、「これがアート?」と思うような作品はたくさんあった。

 まあ、もともと現代アートってそういうこと言われがちなもんだろ?

 例えば、文谷有佳里の一連の展示作品(A16)は、いかにも素朴にぼくらが想像する「現代アート」である。これはもうぼくにはまったく分からなかった。

 

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 ぼくが面白いと思ったのは、例えばこれ(澤田華「Gesture of Rally #1805」/A29)。

 あるオフィスの写真に写り込んだ「正体不明のぶよぶよした何か」をあれこれ想像し、その想像結果や調査結果をディスプレイしたという作品で、スライム状のおもちゃでは? とか、鶏肉では? とか、なんだか「オモコロ」あたりのネタブログを読んでいるような気分になった。

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アマゾンなどネットからプリントアウトした紙も展示してある…。

  

 他には、石場文子「2と3、もしくはそれ以外(わたしと彼女)」(A09)

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 「これ、ただの俺の家の写真やん」と笑い出しそうになる。

 輪郭線が写真の上からでなく、現実の物の上に描かれているらしい。すぐに「こんなもんがアートなのかよ」と思うわけだが、そういえば娘が水彩画で絵を描く時、輪郭線をつけたりつけなかったりするとふと思い出す。ぼくも水彩画を描くときに迷う。

 黒い縁は現実には存在しないよな、と。

 しかし、黒い縁取りを入れたくなるのだ。

 色ではなく、縁取り=輪郭線によって世界を再構成しようとする。

 輪郭線を入れることで、確かに変な認識の揺らぎがあることは認めざるを得ない。

 

 これらはほんの一部だ。

 要するに展示会場には、「政治的」な作品、あるいは「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねない作品が溢れている。

 会場に行って実際に他の作品を見てみれば、「平和の少女像」だけを区別して「排除」するということの正当性が揺らいでしまうだろう。

 

最後に

 会場には、「日本のアジア侵略を正当化もしくは正当化に利用された戦前のアジア主義の言葉」が「展示」されている(高山明『パブリックスピーチ・プロジェクト』/A60b)。

 岡倉天心『東洋の理想』、孫文『大アジア主義』、柳宗悦『朝鮮の友に贈る書』の3つである。映像でテキストが流れ、それを朗読するのが聞けるのである。

 このうち、孫文柳宗悦を聞いたり見たりしてしまった。

 とりわけ柳宗悦

 娘が持っていた小学校の歴史教科書に紹介されているのだが、ぼくは全文を読んだことがなかった。

 しかしこれは……まさに「あいトリ」のテーマだし、「あいトリ」をめぐって起きた問題だよね!? とびっくりしてしまう。ちょっと紹介してみる。

この頃日に日に貴方がた〔朝鮮〕と私たち〔日本〕とは離れてゆく。近づきたいと思う人情が、離れたいと思う憎しみに還るとは、如何に不自然な出来事であろう。何ものかの心がここに出て、かかる憎しみを自然な愛に戻さねばならぬ。力の日本がかかる和合を齎し得ない事を私は知っている。しかし情の日本はそれを成し就げ得ないであろうか。(カッコと強調は引用者)

想えば私が朝鮮とその民族とに、抑え得ない愛情を感じたのは、その藝術からの衝動に因るのであった。藝術の美はいつも国境を越える。そこは常に心と心とが逢う場所である。そこには人間の幸福な交りがある。いつも心おきなく話し掛ける声が聞えている。藝術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。藝術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである。美は愛である。わけても朝鮮の民族藝術はかかる情の藝術ではないか。(強調は引用者)

 しかし、解説では、孫文・柳・岡倉の3つの文章を次のように紹介している。

アジアの友情と連帯を志し、現代人の情にも訴える名文だが、他者を同化する危険を孕むものでもある

 これはあくまで「素材」であって、作家はこれを使って「その後2ヶ月半かけて、3つのテキストは複数のラッパーによって変奏されると同時に、アジア3都市のヒップホップ・コミュニティにも持ち込まれ、それぞれの言語とスタイルに変換される」のだという。

 これこそ「政治的」なものそのものであろうが、だからと言ってそこに干渉することは許されない。

 「アートは政治的なものやアートでないものとの境界がないのだから、アートには一切公金を支出すべきではない」という主張になれば、一種の論理一貫性は保てる。だけどそれは畢竟「美術館廃止運動」とならざるを得ない。

 

 行政は専門家に選定を委ね、市民は是非をふくめて心を騒がせながら鑑賞するという「行政の中立性」を確保することが一番いいと思う。

 

 ちなみに、会場では津田大介が歩いているのを何度も見た。鑑賞している市民に声をかけられて気さくに話していたり、握手をしていた。

『韓国の小学校歴史教科書』を読了してぼんやり思うこと

 また、前の記事の続き。

 きょうは、『韓国の小学校歴史教科書』(明石書店)を読み終わった。

 

韓国の小学校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)

韓国の小学校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)

 

 

抵抗や民族のエネルギーの記述多いなー

 現代史は、『まんが朝鮮の歴史』と比べて顕著な特徴がある。

 それは、「日本帝国主義に対する朝鮮民族抵抗の歴史」が書いてある分量が多いということだ。それも圧倒的に

 もっと言えば民族のエネルギーの強調。

 『まんが朝鮮の歴史』の方は、苦しめられる朝鮮の庶民の生活がこれでもかと描かれているのだが、教科書の方は「これは……?」と思うほどに植民地支配被害の具体的叙述が少ない。いや、もちろんあるよ。あるけど、抵抗の動きと比較してみるとホント少ないんだわ。これは副読本『社会科探求』の方も同じ、というかいっそう顕著。

 韓国併合から日本降伏までの期間の記述で、目につく見出し・項目を拾ってみる。

 

  • 銃とペンをとって戦った先祖たち
  • 義兵運動
  • 民族の力を養う努力はどのように展開されたか
  • 3.1運動
  • 日帝が我が民族をどのように弾圧したか調べてみよう(ここで具体的被害が描かれるが4分の1ページほどである)
  • 大韓民国臨時政府
  • 韓国光復軍
  • 代表的な武装独立運動
  • 国内での独立運動
  • 日帝の民族抹殺政策(ここで戦争期の被害が描かれる)

 

 『まんが朝鮮の歴史』は1992年ごろの教科書をもとにしている。これに対して、『韓国の小学校歴史教科書』は2005年である。この十数年の間に、韓国政府の国定教科書に対する方針転換が起きたのだろうと考えるのが自然だ。

 なんか、被害に苦しむ弱々しい存在じゃなくて、こう、抵抗し、自国文化に誇りを持ったエネルギッシュな民族、みたいな。そういう描き方。

 

 そして、子どもたちに考えさせる課題もなかなか日本では見られない(強調は引用者)。

  • もし、自分が日帝強占期に生きていたとしたら、日帝にどのような方法で抵抗したか話し合ってみよう。(p.123)
  • 自分が独立戦争に参加したと思い、その日に起きたできごとを一篇の日記に書いてみよう。(p.125)
  • つぎは、独立軍が命をかけて独立運動をしながら歌った独立軍かの一部分である。この歌にこめられた独立軍の心を思い、歌の続きを完成させてみよう。(同前)

 まあ、これだって2005年、今から14年も前の話だから、きっと今はまた別の方針があっても不思議ではない。

 

日本の小学生の教科書で「朝鮮」は?

 ところで、日本の小学校の教科書ではどうか。

 娘のを借りて読む(日本文教出版)。

 

小学社会 6年上 [平成27年度採用]

小学社会 6年上 [平成27年度採用]

 

 

 

 実は近代史での朝鮮・韓国の叙述は、関東大震災での朝鮮人虐殺を含め、あちこちにあるが、植民地支配について書かれたのは2ページほどである。

 一つは、「日露戦争後の朝鮮」(p.122)。

 日露戦争後、日本は韓国に対する支配を強め、1910年(明治43年)に韓国を併合して朝鮮とし、植民地にしました。朝鮮の人々のなかには、日本がおこなった土地調査により、土地を失う人もたくさんいました。そのため、仕事を求めて日本や満州に移り住む人がいました。また、朝鮮の学校では、日本語や日本の歴史の授業がおこなわれるなど、朝鮮独自の教育をおこなうことがむずかしくなりました。

 1919年(大正8年)3月、朝鮮の独立をめざす人々のあいだで、大きな抵抗運動がおこりました。日本は、この運動をおさえましたが、その後も独立運動は続けられました。

  そして、美術評論家柳宗悦が朝鮮にシンパシーを抱いていた文化人としてあげられ、日本の朝鮮支配を批判する柳の文章をコラムで紹介している。

 二つ目は、第二次大戦期についての記述で、「朝鮮や中国の人々と戦争」というコラム(p.138)。

 朝鮮では、朝鮮の人々の姓名を日本式に改めさせたり、神社をつくって参拝させたりする政策をおし進めました。さらに、朝鮮や台湾では、徴兵をおこなって日本の軍人として戦場に送りました。また、戦争が長引いて日本国内の労働力が不足すると、多くの朝鮮や中国の人々を、日本各地の鉱山や工場などで働かせました。

 まあ、分量としてはがんばっているのかもしれないが、やはりこの記述だけでは、朝鮮半島の人々がどれだけ苦しんだかとか、なぜ抵抗運動に立ち上がったかがよくわからないだろう。

 

断髪令と整形

 しかし、まあ、あれだ。

 韓国も日本も、これはあくまで教科書である。

 韓国についていえば、韓国人の考えそのものではないし、ましてや韓国人個人個人がどう思っているかということでもない。あまりそこはリンクさせすぎないことだ。「韓国人は民族主義的な歴史教育でガチガチだ」的な。

 例えば、この韓国の小学校教科書にだって、1895年の高宗の断髪令について次のようにコラムにはある。

父母から譲り受けた身体を大切にすることが孝行のはじまりだと考えている民衆は「私の首を切ることはできても髪を切ることはできない」として断髪令に激しく反発した。(p.100)

 ……とくれば、現代の韓国人の美容整形の「軽さ」にすぐに考えが及ぶであろう。ぼくも美容整形をしていようがしていまいがどうでもいいと思うタチなのだが、ある研究論文に次のような一節があった(強調は引用者)。

咸基善[「韓国における美容成形の推移」『化粧文化』36、1997 年、78-81 頁]によれば、韓国でも近代外科医学定着以前には、「身体髪膚」という儒教理念のために外科手術に対して拒否感を持っていたが、朝鮮戦争後外国人との交流が増加するにしたがって一部の階層から美容整形が始まった。筆者の聞き取り調査では、韓国では儒教規範に反するから美容整形はすべきでないとする意見はほとんどなかった。身体髪膚言説との関連については、川添[2003 年 前掲論文]を参照されたい。 なお韓国では当初から大学病院でも美容医療が実施されている。(川添裕子「流動的で相互作用的な身体と自己 日本の美容整形の事例から」/国立歴史民俗博物館研究報告 第 169 集 2011 年 11 月所収、p.52)

 

 だからまあ、歴史は歴史として学ぶし、教科書は教科書として読むけど、韓国人一人一人はまた別ですよっていうほどのこと。