サークルひまわりのたね『文学少女に食べられる』

(性的な話題が書いてある記事です)

 

 サークルひまわりのたね『文学少女に食べられる』『文学少女に食べられる2』を読む。

 文学サークルに属する男女二人はどちらも大人しく、サークル部屋で本を読んでいるだけなのだが、2人で飲みに行くことになり、耳を舐めさせてもらえないか、と恥ずかしそうに女性の方から切り出す話である。

 彼女の部屋に行った二人はセックスをすることになる。

 男性の耳をそっと舐めるプレイから始まって、体の快感と思しきスイッチをゆっくりとくり返しなぞったり触ったりしていく。女性の側が男性に目隠しをさせたり拘束をしたり、器具を使ったりして、あたかも女性側の働きかけに精確に反応する性的機械のようになる。いわば「おもちゃ」になるのである。

 しかし、女性の側は嗜虐的になるのではなく、むしろ慈愛に満ちた表情と言葉で、男性の反応に興奮し、感動する。男性を支配するような、庇護的に振る舞うような、そんなリードを終始やって、男性を快楽に導く。

 続編『文学少女に食べられる2』は、付き合うことになった二人が、1週間の「お預け」という強力な抑圧を外して爆発するという展開で、『文学少女に食べられる』では攻めなかった部位を攻める。より分解的で、より長い尺でセックスを見せるこの『2』の方がぼくは圧倒的に好みで、「犯す女性」と「犯される男性」の立ち位置がしばしば逆転して快楽に溺れるスイッチを切り替えていく様も、眩暈がするほど倒錯的である。

 

 こういうものが今自分は読みたかったのだ。

 『娘の友達』を読んだ時、「このままエロ展開になってくれねえかな」と思っていたが、女性側が母性的な立ち位置で男性をリードし支配する、庇護するというのは、畢竟ここにつながっていたのだ。『娘の友達』はそんな展開にはもちろんなっていかないのだが。

 

 ある関係性の中で、無邪気に自分を性的な対象にし、モノのように扱ってもらおうと思う欲望がここでは解除されている。そして、男性も女性も、というか、より印象的には男性(そしてそれを読んでいる男性のぼく)が豊かな諸側面を持つ全面的な人格存在であることを完全に忘れて、ただの「さかったオス」、性的な存在でしかないという断言をしている作品なのである。そして、そういうふうに扱われたい、というぼくの欲望にまことによく応えている。

 

 「本当にお前みたいな男は無邪気なんだな」と言われそうだ。

 リアルの社会で性的な眼差しを向けられ、たえず性的な対象となり、いつも性的な存在と扱われることに、ある種の女性が恐怖を抱いていて、そういう人にとってこんな開けっぴろげな謳歌はとても耐えきれるものではないのかもしれないが。 

戦争とコロナは同じか。「新しい生活様式」は吐き気がするか。

 大塚英志のこの記事を読んで思ったこと。

www.webchikuma.jp

 

戦争とコロナは同じか

 第一に、戦争と感染症(ペストとかコロナ)は同じだろうかという問題。

 大塚が「同じ」と言っているかどうかは後で触れる。

 まずぼくはマルキストであるから、人間が起こしたものである戦争は人間の手で止められるというナイーブな楽観を持っている。別にマルキストでなくても戦争と感染症は違う、という出発点になるだろう。

 しかし、例えば山崎豊子の小説を見ればわかるけども、戦争のような巨大な歴史の流れの前に、人間の良心的な行動や反抗はひとたまりもない、ということはしばしばある。大河の中に流されていく幼児のようなものに思える。

 

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

 

 この点でカミュが『ペスト』で表明した戦争とペストを「天災」と一括りにする感覚はリアルなものである。

天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。(カミュ『ペスト』新潮文庫、kindleNo.617-619)

 そこから、無力感を表明し、賢しらに何もしないほうがいいと「クール」に忠言する人もいる。『ペスト』でいう「道学者」であり、「選挙に行っても無駄」「デモなんかしても何も変わらない」と冷笑するネット民だ。

ただひざまずいて、すべてを放棄すべきだなどといっている、あの道学者たちに耳をかしてはならぬ。(カミュ前掲書No.4018-4019) 

 大西巨人神聖喜劇』の主人公・東堂が囚われた虚無主義もこのヴァリエーションである。

 

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

  • 作者:大西 巨人
  • 発売日: 2002/07/01
  • メディア: 文庫
 

 

 しかし、『ペスト』の主人公リウー、というかカミュは、こうした「天災」に打ち勝つことはできないが、自分のできることをする、というほどはできる。「保健隊」というボランティアで活動することにしたリウーは次のようにいう。

「…今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」

「どういうことです、誠実さっていうのは?」と、急に真剣な顔つきになって、ランベールはいった。

「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果すことだと心得ています」(カミュ前掲書No.2902-2906) 

 これは第二次世界大戦という巨大にもほどがある災厄と、まだ抗生物質での対抗ができなかった厄介な感染症という災厄に対して、カミュが抱いた実感であり、そこから絞り出すようにして得た人間の主体性を認めようとする結論である。

 もっと恐ろしい感染症がやってきたら(あるいは「スペイン風邪」のように非常に悪性のものに変化したら)わからないけども、少なくとも現代日本で、「戦争」や「新型コロナウイルス」への向き合い方はこれほど血の滲むような結論をしなくてもいいだろう。例えば「補償と自粛はセットだ」というデモなり運動なりによって政治を動かしているし、様々な社会資源を動員して感染症と「戦って」いる。ぼくらは政治を動かすことにカミュが描いたほどの無力感を抱いていはいまい。少なくともぼくは。

 

 大塚自身は「コロナ」と「戦争」を同じとは考えていまい

 為政者が「コロナ」を「戦争」に比喩して語っているという事実があり、同一視をした政治が「戦争」と同じように生活や身体への介入・管理を迫っている、というのだ。だから大塚に対して「コロナと戦争を同列している」と批判するのは筋違いということになる。

 

 「コロナ」と「戦争」は別のものだ、というのは、まず、辞書で引けば別々の定義があるよねという素朴な論理上の区別はもとより、比喩としてもよろしくない。

 例えば『感染症と文明』を著した長崎大学教授(国際保健学)の山本太郎は、次のようにいう。

 新型コロナは症状が出る前に広がるので、私たちが認知できた時には、根絶できる局面は過ぎていました。これに対処するには、ウイルスをなくす「戦争」ではなく、ウイルスと「共生」し、ある種の安定的な関係を築くしかありません。

 風邪を起こすコロナウイルスは4種類ほどあります。これらがパンデミックを起こすなかで人間は免疫を獲得しました。今の新型コロナも最終的に、人間とそういう安定的関係になればいいのですが、それまでに被害が出る。それが今の状況です。

 「戦争」には倒すべき敵があります。ウイルスは敵ではありません。*1

 

 要はワクチンの開発、集団免疫の獲得ということなのだが。*2

 つまり、コロナの具体的な問題に即して考えても、それを「戦争」の比喩で見るのは悪手なのである。

 

 

「新しい生活様式」は「気持ち悪い」のか

 

 第二に、新型コロナのもとで提唱されている「新しい生活様式」という介入は、戦時の生活介入を受容した自意識=「ていねいな暮らし」に似ているのか、という問題だ。

 

ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。それは近衛新体制の時代、これらのことばが「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。だからぼくは今も、コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが、それは「戦争」という比喩が「戦時下」のことばや思考が社会に侵入することに人を無神経にさせるからだ。

 

それら花森の提案は、翼賛体制という政治を日常の細部に、いわば女文字で落とし込んだところに特長がある。戦時下の婦人雑誌は男性のように勇ましい言葉で語る女達も多数いたが、花森は違った。政治の日常化、生活化には彼の女文字の編集こそが有効だった。

 大塚の論旨は、戦時下起源の「ていねいな暮らし」が清算されずに戦後も生き続け、その火種がコロナのもとでの「新しい日常」としてよみがえる、ということだろう。

 

 第一のところで考えたことにもとづけば、「コロナ」と「戦争」は別のものだから、むやみやたらに戦争と同一視して危険を叫ぶのはおかしいのではないか、結局事実上お前(大塚)が戦争とコロナを同じに扱っているんだろう、ということになる。

 しかし、「コロナ」対策として提唱されている「新しい生活様式」は無条件に正しいのかというのは、 そうではない。いくつか考えてみよう。

 例えばリモートワーク、テレワークである。

 それは技術発展そのものであり、クソのような通勤をなくし、オフィススペースと家賃をなくし、労働で使う無駄なエネルギーを省き、究極には「遅刻」という概念さえ消滅させるかもしれない。

 しかし、例えばメールやパソコンがぼくらの労働を軽減せずに、ますます長くて過密な労働時間に縛り付ける結果をもたらしたように*3、リモートワークやテレワークは「労働時間」概念を消滅させ、生活時間との一体化をさせてしまう危険がある。

 

労働時間短縮のためのもっとも強力な手段が、労働者およびその家族の全生活時間を資本の価値増殖のための自由に処分されうる労働時間に転化するもっとも確実な手段に急変する(マルクス資本論』第1部13章、新日本新書版第2分冊p.705)

 

資本論 3 第1巻 第3分冊 第3分冊

資本論 3 第1巻 第3分冊 第3分冊

 

 

 

 あるいは、オンライン授業。

 非常時に使えるというだけでなく、一人一人にあわせた理解と学力獲得を進ませ、「個別の学びを最適化」させる未来のツールのように扱われる。

 しかし、そうだろうか。児美川孝一郎(法政大学教授)のいうところを聞こう。

教科の学習はすべて、パソコンやタブレットを使って先端技術で「個別最適化」すればいいというのは大問題です。集団での学びでは「型」からはずれたような発想をする子がいて、そこからみんなが学ぶことで、考えが深まるということがあります。「個別最適化」で効率よく学ぶだけでは学ぶ過程が平板になり、深みがありません。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-25/2020012514_01_1.html

 

 また、児美川はこうも述べている。

また、学びへのモチベーション(意欲)をどう引き出すかという視点もありません。やる気のある子はどんどん進むけれど、そうでない子はいくら「あなたに合った学習だ」と言われてもやる気にはならない。できる子だけがどんどん進み、格差が広がります。 

 これは、プリントに埋もれたぼくの娘に起きたことでもある。「できる家庭の子」はどんどんやってんだろうなあと思った。

 

 「新しい生活様式」、特にビジネスのシーンでよく使われている「新常態」はこのように無前提に正しいものではない。社会的な扱い次第で十分それは「毒」になる。(テレワークをしてはいけないとかオンライン授業をやってはいけないという主張ではない。念のため。)

 

 「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」はどうだろうか。

 それ自体は、防疫的観点から正しいように思える。

 しかし、それは政策的な枠組み、政治の大きな枠組みを問おうとさせないこととセットになった思考様式になっていることがしばしばある。というか、ほとんどそうだ。

 例えばもしも、医療・療養資源がもっと備えられていて、検査もすぐに受けられていれば、患者は直ちに隔離され、これほど自粛や息苦しさがない生活を送れたかもしれない。また、補償と自粛がセットになっていて、しかも迅速に支給されていたら、店は、仕事は、安心して休めたかもしれない。*4

 そういう社会的・政治的な枠組みを大きく変えたらどうなるかについて、往々にして思考を停止させられ、与えられた枠組みの中で「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」というモラルに縛られていることになる。そしてそれを守れないものを憎み、叩くのである。

 これは、「社会保障制度を貧しくさせたまま、町内会・ボランティアなどの助け合いを強要し、協力・参加しない人を『ずるい』とそしる」という思考様式、「教育予算をつけないでおいて、PTAのベルマーク運動に参加しない親を叩く」という思考様式ですっかりおなじみのものである。

 戦時下で空襲の際にバケツリレーをすることは「正義」であったが、そもそもそんなもので火が消せるのかと問うこと、逃げたほうがいいのではないかと提起すること、そして戦争そのものがおかしいのではないかと問うことはできなかった。そのようなもとでの「正義」なのである。

 

 なるほど、「戦争」と「コロナ」は別のものである。

 しかし、「戦争」のもとで生まれた「ていねいな暮らし」が権力や資本の視線を無前提に身体化・生活化させてしまったのと同様に、たとえ「コロナ」下であっても、その「新しい日常」には、権力や資本の視線を無前提に身体化・生活化させてしまう「毒」が含まれており、そのことに絶えず警戒すべきなのである。

 だから、歴史を振り返ってみて、今の問題を具体的に検証してみたら、そのような警戒が浮かび上がる。(大塚の主張を直截に信じて、戦時下起源のものが今そのまま問題になるということではないと思うが、大塚の警戒は今を見る上で参考になる、というほどの意味だ。)

 この意味で無前提に「新しい生活様式」を取り入れようとする風潮には、確かに「吐き気」がするというのはよくわかる。

 

*1:しんぶん赤旗日曜版2020年5月24日号。

*2:ただ山本は『感染症と文明』の中ではそれほど能天気には「共生」をとらえていない。「共生は、そのためのコスト、『共生のコスト』を必要とする。喩えて言えば、「ミシシッピ川における、堤防建設以前の例年程度の洪水」といったものかもしれない」「共生もおそらくは『心地よいとはいえない』妥協の産物として、模索されなくてはならない(山本前掲書KindleNo.1848-1860)

*3:統計における長期的な労働時間の縮減はいろんな要因があるので、ここではあまり深入りしない。

*4:本当にそれが可能かどうかは別個に検証されねばならない。ここでぼくが言いたいのは、「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」を要求される時、そういう外側の議論は封殺されている場合が多いということだ。

カミュ『ペスト』

 Zoom読書会をやっている。

 このコロナの状況下なのでせっかくだから『ペスト』を読もうということで読んだ。

 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 

記憶について

 いろいろ思うことはあるんだけど、とりあえず、この箇所。

 ペストによって閉ざされた街で、ペスト被害に対するボランティアとして組織された「保健隊」でともに活動したタルーについて、その死後、医師リウーが思いをはせるシーン。

 

彼がかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思い出すことになるということである。ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。(カミュ『ペスト』、新潮文庫Kindle の位置No.5187-5190)

 

真実のところ、リウーにはなんにもわからなかったし、そんなことは別に問題ではなかった。彼の心に残るであろうところのタルーの唯一の面影は、彼の自動車のハンドルを力いっぱい握りしめて操縦している男の面影であり、あるいは、今はもう身動きもせず横たわっている、このがっしりした体の面影であるだろう。一つの生の温かみと、一つの死の面影──知識とは、つまりこれだったのだ。(同前No.5202-5206)

 

 カミュはペストも戦争も、人間に降りかかる不条理を同列に見なしている。「ペスト」を「戦争」に替えて読んでもいいと思う。

天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。(同前No.617-619)

 カミュが『ペスト』で示している態度は、ペストが災厄全体を代表していることに見られるように、人間がそれに抗って勝利できるかどうかはわからない、というか敗北し続ける。

 しかしそれでも、リウーたちは「保健隊」に参加して「自分にできることをやる」という最小限のことをやろうとした。

 だがペスト=災厄とか不条理とかいったものが繰り返されるだろうから、それでも自分にできることは何かと言えば忘れないこと、つまり記憶することなのだ。

 

黙して語らぬ人々の仲間にはいらぬために、これらペストに襲われた人々に有利な証言を行うために、彼らに対して行われた非道と暴虐の、せめて思い出だけでも残しておくために、そして、天災のさなかで教えられること、すなわち人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くあるということを、ただそうであるとだけいうために。/しかし、彼はそれにしてもこの記録が決定的な勝利の記録ではありえないことを知っていた。それはただ、恐怖とその飽くなき武器に対して、やり遂げねばならなかったこと、そしておそらく、すべての人々──聖者たりえず、天災を受けいれることを拒みながら、しかも医者となろうと努めるすべての人々が、彼ら個々自身の分裂にもかかわらず、さらにまたやり遂げねばならなくなるであろうこと、についての証言でありえたにすぎないのである。(同前No.5511-5519)

 

こうの史代を思い出す

 すぐに、こうの史代この世界の片隅に』を思い出す。

生きとろうが 死んどろうが
もう会えん人が居って ものがあって
うちしか持っとらん それの記憶がある
うちはその記憶の器として
この世界に在り続けるしかないんですよね
晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない
じゃけえ 笑うたびに思い出します
たぶんずっと 何十年経っても

こうの史代この世界の片隅に 下』双葉社p.126)

  こうの史代は『夕凪の街 桜の国』から、戦争体験における「記憶」についてくり返し描いてる。主人公の一人が、原爆の体験を回想するシーン。

わたしが忘れてしまえばすんでしまう事だった

(こうの『夕凪の街 桜の国』双葉社p.26)

  この直後に、この諦念を否定するように記憶の象徴としての原爆ドームの大ゴマが入る。

 

 カミュは「忘れてしまう」ことを断罪してはいない。忘れてしまうのである。

 そのことを、ペストから解放された人々が、ペストによって犠牲になった人たちを忘れて騒いでいることを次のように書いて表している。

暗い港から、公式の祝賀の最初の花火が上った。全市は、長いかすかな歓呼をもってそれに答えた。コタールもタルーも、リウーが愛し、そして失った男たち、女たちも、すべて、死んだ者も罪を犯した者も、忘れられていた。爺さんのいったとおりである──人々は相変らず同じようだった。しかし、それが彼らの強味、彼らの罪のなさであり、そしてその点においてこそ、あらゆる苦悩を越えて、リウーは自分が彼らと一つになることを感じるのであった。

カミュ前掲No.5504-5508)

 だからこそ記憶、というか、記録をしなければいけない、とする。

 

「あきらめ」から「自分にできること」へ

 この記憶・記録の問題とは別に、不条理に対して人間は所詮抗えないという「あきらめ」、アパシーをいったん受け入れてしまった後で、しかしその上で何か自分にできることはないのかと考える様子は、大西巨人神聖喜劇』を思い出させた。

 

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

  • 作者:大西 巨人
  • 発売日: 2002/07/01
  • メディア: 文庫
 

 

 戦争の反動的な性格を認識しつつどこにも変革の可能性を発見できなかった主人公・東堂は絶望に陥る。その結果「世界は真剣に生きるに値しない」「本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい」という「若い傲岸な自我が追い詰められて立てた主観的な定立(テーゼ)」にたどり着く。その上で「私は、この戦争に死すべきである」という実践的な結論を得る。

 しかし、軍隊生活を送るうちに、この虚無主義的なテーゼは侵蝕されていく。同年兵たちの中に人間的な連帯を自然な感情として感じ取り、本当に必然として、言い換えれば至極自然な成り行きとして連帯を形にした大胆な「反抗」に及ぶのである。

 この展開に、リウーやタルー、あるいはランベールといった登場人物たちが「保健隊」に入って、決してペストという絶望そのものには打ち勝てはしないのだけども、自分にできることをやる姿は、カミュがこの後具体的に明らかにした「反抗的人間」のように思われた。

 リウーと東堂は別の生き様であるが、共通する理性をそこに感じた。

 

コロナ禍の下での届くプリントが嫌いでクリスタが好きな娘

 新型コロナの感染拡大による学校の臨時休校はまもなく終わる。

 中学に入ったのだが一度も学校に行っていない娘は、1日1回「散歩」または「サイクリング」をする以外、ずっと家にいて、ずっとPCの前にいた。ラインと、クリスタ*1と、にじさんじと、ツイッターである。

 「絵が上手くなりてえなあ」というのが口癖で、1日に30回くらい言っている。

 ついで多いのが「学校早く始まらないかなあ」「友だちに会いたいなあ」である。

 そして「夜空メルが…」とぼくが話題を振ると、食いついてくる。入れ食いである。お前は夏の堤防にいるハゼか。そしてコミュニティにおける親和と闘争、炎上や賛美などについてまるで我が事のように悩んでいる。お前が運営しているわけではないぞ。

 そういう彼女にとって、中学校から送られてくるプリントは、まったく「外的」なものである。封筒で届く不気味なプリントの束は、彼女の生き様とは何も交錯しない、彼女の生活への闖入者である。

 

娘にとって切実なこと

 「前衛」6月号の佐貫浩(法政大学名誉教授)の「今こそ、民主主義を生み出す学校と教育を ——危機に対処することのできる教育とは何かを考える」を読む。

 

 危機の時代に、自分の思っていることをまずは表現するという力が本質的に重要なものだとして、さらにそれを共同的な判断へと高めていく必要を説き、佐貫は次のようにのべる。

 

とするならば、一人ひとりの力を引き出し、その力を社会的な力として作用させる方法として、表現をみんなののもの、大人のもの、子どものものにすることが、決定的な課題になる。(「前衛」2020年6月号p.103)

 

 まあ、ここで佐貫論文の全体像はおいておこう。

 表現といった場合に、ぼくらは絵や文章のようなものを思い浮かべるが、佐貫は自分の思いの表出のようなもっと広いものを想定している。

 だが、ぼくはこの文章を読んで、ただちにコロナ禍の中で絵ばかり描いている娘のこと、その娘の「イラスト」のことが思い出された。

 

そのためには、自己の思いに共感してくれる他者による承認とケアが不可欠となる。ジュディス・L・ハーマンは、自己の表現を遮断された孤立状態を脱して心的外傷から回復するためには、自己の思いや表現に共感してくれる他者の支えとケアによる「人間の共世界」(human commonality)——共に生きる世界——の回復が不可欠であることを指摘している。(同p.104)

 

 特別に成績が悪いわけではないが、教科的な学力が抜きん出ているわけでもない。自信の根拠のようなものを明確に持たない娘は、何かによってキャラが評価される「社会」の中で決定的ではないにせよ不安を抱いている。そこから抜け出す一つの道として彼女が考えているのが「絵」のような気がする。「絵が上手い自分」というキャラの獲得だ。

 そういう思考自体が未熟だとは思うけど、しかし理由のあることであって、そこに彼女の今の切実な表現がある。

 そのことと隣り合わせているのだが、Vtuberに「なる」ことは、彼女の職業的選択肢の一つになっている。彼女にいくつかの「推し」がいるということと相まって、そこで起きているコミュニティのいざこざは、娘にとって他人事ではない。何か、自分にとって切実な課題なのである。

 絵が上手くなることバーチャルでの紛争をどう原理的に解決したらいいかを考えること——こうしたことが今の彼女にとって「考えるべき切実なもの」なのである。

 

 佐貫は、学びにとって課題が主体的に把握されることが大事なことだとした上で、こう述べている。

真に考えるためになにより必要なことは、自分にとって切実な課題を、考える対象に据えることである。(同p.105)

  そして現状を批判する。

避けられない課題に立ち至ったとき、誰でもが必死に、すなわち主体的に考える。その必死に考えることを教育の場で直ちに始めれば良いのである。しかし現在の学校教育には、考えるべき切実なことを考えるという学びの様式が大きく失われているのではないか。(同p.104)

  どうなっているかといえば、こうなっている。

獲得すべき能力が提示されて、その能力——知識と共に思考力や表現力などの、いわゆるコンピテンシー——を獲得するために考える(頭脳を使いこなすこと)が課題として提示されているという様式なのである。(p.104)

 これは例えば少し話題になった次のツイートで紹介されていたような例である。

 

 これは同調させて喜ばせるという話ではなくて、「思考力」というものを養成するために、「思考力」を分解して「比較」(「AとBの共通点は何ですか」的なもの)を行わせようとしているのである。また、それを発言することで「表現力」を養おうとしているのだ。写り込んでいる教科書のテキストをよく見るとそれがわかる(違いについても述べることを求めている)。

 だが、これは佐貫が指摘するように、先にまず獲得すべき能力があり、それを身につけるために課題が設定されるという逆立ちした様式をとっていて、「子どもは本質的には課題そのものを主体的に把握していない」(p.105)、もっといえば子どもにとって何ら「切実な課題」ではないのだ。相手の服装とか見て、「共通点を探そう」なんて…どうでもええやん

 

 自分にとって切実でもなんでもない課題を与えられて、抽象的に思考の練習をする……「思考力」なんていうものは、たぶんそんなふうには身につかない。いくら読んでも身につかない自己啓発本とか他人の成功談を読んでいるかのようだ(まさにコンピテンシーだ)。

 

 娘は、「絵が上手くなること」「バーチャルでの紛争をどう原理的に解決したらいいかを考えること」を切実に考えている。本来ならそこは表現力や思考力を鍛えるため宝庫のはずである。娘はまさに「切実な課題」としてそれを考えるであろう。

 

しかし、競争の教育の中で、それらの関心事は学習と無関係な余計な事柄として無視され、学習空間から排除される。そして現実の課題から隔離された空間の中で、与えられた課題に主体的に取り組む難行苦行を求められ、心ここにあらずの状態のまま学ばされるのである。(同p.105)

 

 ネットを切れと親に説教され、中学校から届く不気味なプリントを、いやいややっている娘の姿はまさにこれだ。

 彼女が切実な課題として本当の意味での学力を獲得するのは、実はクリスタを使って絵を描くことであり、「にじさんじ」やそれに伴うツイッターの反応を見ながらみんなでラインで語り合うことのはずなのだ。

 

むしろ余談:オンライン授業という問題から考えたこと

 書きたいことは以上で、以下は佐貫論文を読んで考えたメモであり、いわばこの記事からすれば「余談」である。

 コロナ問題で「オンライン授業」がもっとやれるようにすべきだという意見があった。

 各家庭に、あたかも電話レベルで、もしそういうインフラがきちんとあれば、確かにそれは役立つだろうな、という思いを抱いた。自分もZoomで読書会をやってみて、一部実感するところであった。

 他方で大学の教員の知り合いを見ていて、オンライン授業を受けるにしても学生側にインフラがなかったり、契約の上限があったりしてそれはそれで一筋縄ではいかないんだな、というのも見てきた。

 しかし、こうしたオンライン授業で国連子どもの権利委員会が各国政府にコロナ問題で次のように求めたのはなぜなのだろうか。

オンライン学習が、不平等を悪化させず、生徒・教員間の相互交流に置き換わることがないようにすること

 「個別最適化された学び」という触れ込みのもとで、福岡市でも補正予算が組まれて子どもに1人1台の端末を渡す「GIGAスクール構想」の予算がばらまかれたのだが、「プリントを配る」というほどの教育思想のままの「個別最適化された学び」であれば、結局「やる奴はやるけどやらない奴はやらない」という程度の「不平等の悪化」しか招かないなと、この臨時休校のわが娘の様子を見ていて実感した。

 表面的には、このコロナ禍を奇貨として(まさに「ショック・ドクトリン」として)、巨大資本はこれを「ビジネスチャンス」にして「個別最適化の学び」のビジネスを売り込み、同時に教育の民営化と公教育のスリム化を押し付けようとする。そのかげでわからない子どもは置いてけぼりになってしまうのである。

 だけど、それは表面的なことだ。

 佐貫が言うように、半面で次のようなことも明らかになった。

学校の突然の「休校」要請——首相の独断による学校機能の一斉の停止——が、逆に子どもの生存と権利実現にとって決して停止してはならない社会的、共同的機能を、学校が担っていることを鮮明に示した。学校は単に学習権に止まらず、人間的な共同性を実現する場、貧困対処、栄養の摂取、障がいや発達の困難への特別の支援、等々、総じてそれなくして子どもの権利実現も社会の営みもできない高度で不可欠な仕組みであることが再認識されつつある。(p.97)

 娘から発せられていた「友達に会いたい」「学校に行きたい」という切実なつぶやきはまさにこういうことだったのだろう。

  そして先程来述べてきたように、本当なら、学校での学びは、単に個人個人が勝手に「最適化」という名の下に与えられたプリントをこなして得るような知のあり方ではなくて、その人のとって切実な課題を表現して、それをみんなで考えて解決するという民主主義の問題であり、その民主主義の機能が学校で失われているというのが佐貫論文の核心である。

 そしてそれこそが国連の子どもの権利委員会が述べているように「生徒・教員間の相互交流に置き換わることがないようにすること」という意味であろう。

 しかし、先ほどから述べてきたような、「個々人にとって切実な課題」を、どうやって「みんなの課題として考えていくのか」、ということは、少し理屈が必要になる。そこはぜひ佐貫論文を読んでみて、そこに答えがあるかどうかを実際に考えてほしいと思う。

*1:クリップスタジオというお絵かきソフトのこと。

「コナン」と70年代的な教育・文化運動の子ども観

 「未来少年コナン」の第3回目を見る。

 

未来少年コナン Blu-rayボックス

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  • 発売日: 2013/07/26
  • メディア: Blu-ray
 

 

 コナンがジムシーと出会う回で、「はじめての仲間」というタイトルが付いている。

  • 自然の中にいる子ども。自然と触れ合う子ども。
  • 見知らぬ相手と遭遇して喧嘩や競争を経て得られる相手への敬意。
  • 逸脱を通じて仲間になる儀式。

 観ながらずっと感じていることだけど、ここで展開されている子ども観は、1970年代の教育・文化運動にある子ども観で(1970年代のアニメだから当たり前だが)、そのころを一つの隆盛期として記憶に持っている教育・文化運動の中で、今日でも依然として引き継がれているものでもある。

 娘が小学校の6年間を通じてかかわっていた少年団的な団体(今年卒業し退団した)で親のぼくが「学習」をしたり、「講座」のようなものを受けたり、議論したりする際に、そうした子ども観の称揚をよく感じた。

 例えば以下はその少年団の学習会で使ったテキスト(増山均『大人と子どもの向き合い方 子どもの権利条約の視点から』2018年)の一部である。

(4)自然とのかかわりをたくさん持ちましょう

 子どものからだそのものが、自然の一部です。夜になると眠る。朝になると起きてからだを動かす。大地を踏みしめ、風に吹かれ、太陽の下で遊ぶことが、からだとこころの成長にとって、不可欠の栄養素です。自然の姿が見えにくくなり、季節感を感じることができにくくなった都会でも、窓辺の植木鉢や、道端の小さな植物に自然の営みを見つけることができます。移ろい行く雲・光・夕焼け、虫や鳥たちの姿にも目を向けてみましょう。そして、時には、近くの広場や郊外の公園に出かけてみましょう。田舎に暮らしている祖父母や親類があれば、親子で出かけてみたいですね。自然と人間のかかわりの苦労や知恵を学び、自然に働きかけて作物を生産する努力も伝えたいですね。(前掲p.29)

 

(3)子ども同士でもっと遊ばせてください

 子どもの世界は遠慮のないきびしい世界です。やられたらやり返されるし、いじめあいだってあります。そこから子どもを引き離すのではなく、その中でその子らしくたくましく生活できるように、少し親は距離を置いて見守ってほしいですね。小さいうちは子どもの間にトラブルが起こっても、彼らは仲直りできます。許し、許されるという経験を積み重ねることで、人は他者への信頼感と思いやりを身につけることができますが、そういう体験を子どもは仲間との遊びの中でくり返します。(同前p.28)

 

桃太郎は、なぜ家を出たか

 親離れ、子離れの苦労は、きっと昔からあったんじゃないかといます*1。 その代表があの「桃太郎」の昔話ですよ。…大切に育ててきた子どもを、危険な世界に親は簡単に送り出したくはないと思います。…とても納得できるものではないけれども、おじいさんは自分の思春期を思い出し、桃太郎の気持ちもわからなくはない。一人前にするには、一度家から出さねばならない。…(同前p.44-45)

 

13歳になるまでに親ができること

…このエネルギーが弱い子どもは、大人っぽく見せるためにタバコをすったり、服装を派手にしたり、「目立つ」ことをしてみたりします。後ろ向きだけれど、そこには「自立したい」という願いが込められていると思うのです。(同前p.45-46)

 

 前の記事の注でぼくは

義母は左派系の教員「活動家」であった。当時新日本婦人の会などの女性団体が「低俗」なアニメや番組を批判する運動を展開していて「健全」で大人も子どもも共有できるようなアニメの制作を提案していた。その成果としてNHKのアニメの枠があり、「コナン」がある…と1990年代後半に、ある新日本婦人の会の大物幹部を取材した時に聞き、資料を見せてもらったことがある。

 と書いたのだが、あるブログでこれを裏付ける記事を書いてくれていた。

 1998年5月23日・24日付「しんぶん赤旗」に掲載された「子どもとテレビ」という座談会で、新日本婦人の会の井上美代とアニメーション映画監督の有原誠治が対談して次のように述べていた。

井上 コマーシャリズムに走らない、よいアニメを放送してほしいとNHKに要望して、78年にNHKで初めてのアニメ「未来少年コナン」が誕生しました。

有原 こちらの「コナン」は、未来の地球を舞台に主人公のコナンが仲間と出会い、さまざまな冒険をしていきます。宮崎駿さんらが演出しました。

  (「こちらの『コナン』」とは『名探偵コナン』との比較を指している。)まあ、これは運動側からの証言なので、さらなる裏付けは別に必要なのだろうが、ともかくこのような時代背景があることを踏まえて「コナン」を見ると、そこに1970年代の教育・文化運動、それも左派的なそれの影響を見ないわけにはいかない。

 「コナン」はこれから「都市と農村の対立」(『共産党宣言』)、そこにおける民衆の蜂起という問題を扱うことになる。

 

 ぼくはこれらの教育・文化運動に半身を突っ込ませる反面で、それをなんだか白けてみている自分もいることに気づく(だから前掲の増山の本には、ぼくの疑問的注釈がいっぱいメモにして書き込まれている)。

 拙著『マンガの「超」リアリズム』(花伝社)の「あとがき」でぼくは次のように述べました。

 ぼくは、子ども劇場のような、折り目正しい文化運動の主張も理解できます(だからこそ、子どもを預けているわけですが)。

 他方で、殺し屋とヤクザの女子高生が首都圏を舞台に壮絶な殺戮ゲームを繰り広げる、高橋慶太郎のマンガ『デストロ246』(小学館)をぼくと娘で楽しんでいるという風景もまたリアルな現実なのです。(前掲p.198-199)

 

 

デストロ246(1) (サンデーGXコミックス)
 

 

 

 だから、「コナン」をみていると、オタクとしての蠱惑的な欲望と、コミュニストとしての正論と、その分裂を味わうような気持ちになるのである。

 

マンガの「超」リアリズム

マンガの「超」リアリズム

  • 作者:紙屋 高雪
  • 発売日: 2018/04/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

*1:原文ママ。「思います」のミスであろう。

異議は自分にとってどうしても必要なことだし、社会をよくすることでもある

 つれあいがにわかに近所に売りに出された中古の家を見に行きたいと言い出してびっくりした。今ぼくらは賃貸のマンションに住んでいるのだが、仮に戸建てや分譲マンションを買うにしても、それは定年間際でゆっくりと研究してからくらいに思っていたので。

 数年前にもこういうことがあったのだが、物件の広告を見るのが好きなつれあいは、いったんそこにハマりこむと抜け出せないくらいの熱中を示してしまう。

 居住者がいるお宅にお邪魔し、内覧させてもらう。いい家で「あそこで生活している自分たちがすぐに想像できた」(つれあい)というくらいピッタリの生活感があった。加えて、そこのおばあちゃんが披露してくれた話が*1興味深く、つい聞き入ってしまった。

 しかし、あまりにつれあいの強引な展開に不安と若干の腹立ちを覚えていた。

 ぼくは自分の人生設計で家を所有する可能性——家を買うことは何年も研究したり、実際にいろんな地に住んでみたりして結論を出すことで、こんな1週間やそこらで結論を出すべきではない、という趣旨——について話し、それでも家を買いたいのであれば、君の資産の範囲でやるべきだ、引っ越して住むことは最小限了承するけど、と告げた。

 1円も出さないのか、とつれあいが言うので、出さないと明言した。

 そもそもぼくは全くその気がないのに強引に巻き込まれていて絶対反対してもいいのに、君の資産の範囲なら君の権利だからそれは認めるし、今の賃貸での生活も終了させて引っ越しもしていい、という譲歩までしている。なのに購買決定にまで責任を持たせられてお金まで出させられるのはおかしいではないかと主張したら、納得したようだった。

 その後、ぼくも中古住宅に関する本を急いで読んで進言したし、彼女なりにランニングコストなどを計算してかなり冷静になり、結局この話はご破算とはなった。

 

異議を唱えよう

 何が言いたいのかというと、自分の意見、特に異議についてきちんと表明すべきだということ。

 家のことだけでなく、ぼくはそれ以外のところでも「どうも納得できないけども、まあ徹底して逆らうほどまでには反対しませんが…」程度に収めてしまうことが少なくない。いや、実際、ぼくは例えば職場において最終決定権限を持つようなポジションにいないので、「とりあえず意見は言っておきましたからね」という程度で構わないといえば構わないのだ。

 しかし、本当に異議を唱え、それを貫いておかないとまずいなと思うことについては、言わなければならない。言うべきだ。言いにくいけど言わないといけない。なんとなくで巻き込まれていくと大変なことになる。

 特にいま、新型コロナウイルス対策で国や自治体が行うことに「異を唱える」ことを抑えるような、まるで戦時中のような雰囲気が(一部に)あるだけに、自分の権利、特に命や健康に関わることには、意見を明確に述べ、そして現実を変えさせるべきなのだ。

 そういうマンガを思い出す。『凪のお暇』とか『ケムリが目にしみる』のような。

 

凪のお暇 7 (A.L.C. DX)

凪のお暇 7 (A.L.C. DX)

 

 

 

感染症と軍隊と異議

 そして、きょう、「しんぶん赤旗」の藤原辰史(京大准教授)インタビューを読んで、大西巨人神聖喜劇』を思い出してますますその思いを強くした。

 

 「歴史的事件 スペイン風邪から学ぶ 異議抑えず 医療・弱者守り成熟した厚生・文化・経済を」という藤原のインタビューの次のくだりである。

 

 …すでにアメリカで流行し始めたインフルエンザは、狭い兵舎で、あるいは、輸送中の換気の悪い船の中で蔓延を始め、次々に若い兵士たちの生命を奪っていきました。このとき重要だったのは、上官の判断でした。優れた上官は兵士に無理をさせないようにして、早めの隔離を上に訴えて、大きな感染爆発を防ぐことができました。しかし、多くの場合は、戦争に勝つという目的が最優先で、兵士のインフルエンザ対策は後ろに回ってしまいました。

 また、兵士は通常の法ではなく、軍規に従わなければならないので、異議申し立てが極めてやりにくく、それがまた感染拡大の原因となりました。(「しんぶん赤旗」2020年5月6日付)

 

 そして思い出したのは、対馬での冬の軍隊生活を描いた大西巨人神聖喜劇』において、兵士たちに、各々の実家から送られてきた防寒用の衣服を着用させるように、主人公・東堂太郎が上官上級者に要求するシーンである。

 

神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)

  • 作者:大西 巨人
  • 発売日: 2002/08/01
  • メディア: 文庫
 

 

 実家から送られてきた肌着・胴着・腹巻きなどの防寒用衣服は、受け取るや否や、「無条件に」班長に提出させられていた。被服庫にしまわれてしまうのである。「軍隊内務書」つまり生活規定というかマニュアルの、第20章第190但し書きなどに、

下士官以下ノ私物被服着用ヲ禁ズ

とあるのだが、この規定そのものよりも、「官給品以外身につけてはいけない」という常識がすでにルールとなっており、「『帝国軍人が、寒いから私物のシャツを着らせてくれとは、何事か。まして教育中の新兵の身分で、誤差が太い。』などと怒鳴りつけられる」*2可能性が高いからであった。

 このシーンの鮮やかさ、痛快さは、何と言っても東堂が「内務書」を読みこなし、上記の規定の後に

但シ慰問品、家庭追送品、酒保販売品等ニシテ主ニ冬季衛生保健ノ必要上之ヲ着用セントスルトキハ所属隊長ノ許可ヲ受クベシ。

という一文があり、この活用を思い立ったことである。

 まさに、感冒(かぜなど)を防ぐために家から送られてきた防寒具をつけることを「内務書」は認めているのだ。

 しかし同僚新兵(室町・曾根田ら)たちはためらう。

「そげな規則があるとか。ばってん、また怨めしいことになるだけじゃなかろうか。だいたい日ごろからおれは、あんまりようは思われとらんじゃから。」*3 

「いちおう規定はそうなっとっても、上からは何も指示されとらんとに、こっちから先にそれを言い出したりした日にゃ、たいがいろくなことはなかろうばい。」*4

 

 そして次のくだりである。

 

 私は、もしも新兵(室町)がおずおずと卑屈にではなく堂堂といさぎよく申し出たならば、この件はいざこざもほとんどなしにおおよそ必ず受け入れられるであろう、ということを強調し、さらにもしも室町が成功したならば、それが突破口となって新兵たちはめいめい必要なときに私物の肌着、胴着、腹巻の類を心安く着用し得るようになるであろう、ということを力説した。これはわれわれ兵隊の権利である、と私は言った。そこで私は「権利」の語を使用したが、私の考えにおいては、それは兵隊の(滑稽なほどに貧しいにしても)権利なのであって、その着用申し出とその着用実行とはその権利の主張ないし行使なのであった。そういう私の頭に、イェーリンクの「もし私人がその権利の不知よりすると、もしくは安逸ないし怯懦よりするとを問わず、なんらかの関係で継続的かつ一般的にこれを等閑に附するとすれば、法規は事実上無力になってしまう。そこでわれわれは、次ぎのように言ってよい。私法の諸原則の現実性、その実際的な力は、具体的権利の主張のうちに、かつその主張にあたって、確認せられるのであって、権利は、一面においてその生命を法規から受け取ると同様に、他面において法規にその受け取ったものを返し与える。」あるいは「権利侵害の苦痛を感じる能力と行為力と、換言すれば、攻撃を撃退する勇気と果断とは、健全なる法感情の二つの規矩である。」というような言葉も蘇生していたことを、私は否定しない。*5

 様々な事情から結局この申し出は東堂が行うことになるのだが、上級者(神山上等兵)は、ある日の食事のあと、「藁半紙」のプリントを新兵たちに配り、「内務書」の別の規定の部分、すなわち日ごろのどのような注意と鍛錬で感冒を防ぐかということを書いてある部分を渡し、むやみに厚着をするな、楽をしたがるな、ということを付け加えながら、家から送られてきた肌着・胴着・腹巻の類を、許可を受けて着用できることを告げたのである。

 このやり取りの後、さらに上級者である大前田軍曹が、最近の兵士は軟弱になってしまったという趣旨の嫌味を言うのとあわせて、上官上級者たちのメンタリティは、今の企業組織そっくりだなと思う。

 つまり「風邪をひくのは気合いが足らない」とか「風邪くらいで休むな」とかいったメンタリティである。そして、健康の保全や感染防止のために気軽に休ませるというような、「冬季衛生保健ノ必要上」をちっとも顧みないところだ。

 

 …毎年のインフルエンザ大流行の要因は、ウイルスの型や気候のせいだけでなく、私たちの社会にあることがわかる。

「風邪でも、絶対休めないあなたへ。」

「インフルエンザだったら休めるけど、カゼだと休めないので」

「皆勤賞のため」

 これらの考え方を社会として見直していかない限り、大流行は毎年毎年繰り返されるだろう。

 インフルエンザであるか否かにかかわらず、体調不良の場合は、自分自身の安静のためにも、周囲への感染拡大を防ぐ意味でも、何をおいてもまず休む、何よりこの認識を徹底すべきだ。(木村知『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』角川新書p.50)

 

 

 そして、東堂のこの申し出は、上官上級者の中で激論になったのだが、その中で東堂の意見を強く擁護したのが、新興帝国主義的合理性を持つ少壮将校・村上少尉であった。

ちょうど村上少尉殿が、別の用事で入って来られとって、東堂の意見は至極もっともじゃ、中隊は新兵の私物被服着用希望を一も二ものう規則どおり承認せにゃならん、と熱心に言われたとげな。認めるにしても病人だけにしちゃどうか、とか、そげに甘やかしたら衛生上逆効果になるだけじゃろうとか、ほかにもいろんな違う考えの出とったとを、村上少尉殿が、それ一本槍で押し切らっしゃったとたい。*6

  これはまさに、藤原の言う、

優れた上官は兵士に無理をさせないようにして、早めの隔離を上に訴えて、大きな感染爆発を防ぐことができました。

 に対応する。

 空気に流されずに異議を唱えることは必要なことであり、それは個別に自分の命を守るというにとどまらず、法と権利そのものに生命を吹き込む。つまり人類社会を前進させるのである。逆に「等閑に附す」ことで、法と権利は死に一歩近づいてしまうのである。

 異議を唱えることは自分にとってどうしても必要なことだし、社会をよくすることでもある

 

余談・「御苦労さん」

 余談だが、東堂はこの取次の「労苦」をとってくれたと恩着せがましくのべる神山上等兵にお礼を言うシーンがある。

私は、これ(私物被服所持着用の件)は私が彼に礼を述べねばならないような筋合いでもなかろう、と思ったけれども、「はい。御苦労さんでありました。」と新兵が上官の労を犒〔ねぎら〕う場合の通り言葉で言いつくろって、早早に引き取った*7

  「ご苦労様でした」がよくマナー本などで「目上から目下の人にのべる場合の言葉」として紹介されているが、ぼくが東京の活動家の中にいた時はこれが目上だろうが目下だろうが、事実上「さようなら」という挨拶であったし、少なくとも戦時中の軍隊では一般的な「通り言葉」として「ご苦労様(御苦労さん)」という言葉が使われていたことがわかる。

*1:もともと田畑しかないようなこんなクソ田舎に来た数十年前は寂しくて寂しくて、もといた公団団地が懐かしくて引っ越し後も見に行ってしまい、団地の知り合いに会わないように注意深く昔の部屋を遠くからチェックし、ついに彼女が住んでいた元の部屋に洗濯物が出され始めた日に、「ああもうあそこには帰れないんだ」とひどく落胆した…という話。いやいやいや、洗濯物があろうがなかろうが、もう帰れませんからwww

*2:大西『神聖喜劇』第二巻、光文社文庫p.337。

*3:前掲p.341。

*4:同前。

*5:前掲p.341-342。

*6:大西前掲p.355-356。

*7:大西前掲p.353

飯田ヨネ『ケムリが目にしみる』

 26歳、中堅IT企業で事務職をする葉山かすみは「正しいこと」を欲している。

 「正しいこと」……? 葉山にとって「正しいこと」とは「普通」のことであり、つまり多数の人たちが従っている枠組みである。ここでは「正しいこと」はなんと多数派の空気を読むことに置き換えられてしまっている。

  葉山にとって「正しくないこと」をする瞬間、すなわちタバコを吸う時だけその「正しさ」から逃れられる。ゆえに独特の解放感を味わえるのである。

 

 飯田ヨネ『ケムリが目にしみる』はそのような「正しさ」に苦しめられている葉山かすみの物語である。

 

ケムリが目にしみる (1) (芳文社コミックス)

ケムリが目にしみる (1) (芳文社コミックス)

  • 作者:飯田ヨネ
  • 発売日: 2020/03/05
  • メディア: コミック
 

 

 その「正しさ」は物語の初めに出てくる話題でいえばジェンダーに関わるものが多い。

 女の子の淹れたお茶の方がいいとか、子どもは苦手なのに子どもがいることに憧れるなどの話題に同調してみるとか、タバコを吸う女には引くわとか、そういうことにいちいち傷つきながら、我慢をするのである。

 しかし空気を読まず、まわりに同調しない同僚の女性・牧村真帆に反発を抱きながらも憧れるようになる。牧村になんとなく服装や行動を近づけてみるが、元彼にそれを見透かされて、自分はどういうスタイルをしていたかったのかわからなくなり、また揺らいでしまうのだ。

 

 この作品では、自分に自信がないということが「正しさ」に押しつぶされる原因、すなわち同調圧力に屈し、ジェンダーの加圧に負け、流され、やり過ごしてしまう原因として現れている。

 これはちょっとユニークな回路である。

 ジェンダーの問題をジェンダーそのものの問題として格闘するというより、自分に自信を持てるような根拠を築くことで自分を貫けるようにしよう(すなわち世間の圧力に屈せずに「私は私」と闘争できるベースを作る)というのだから。

 総務の仕事だけでなくIT関係の資格を取ることで自らに専門性を与え、それによって開発のサポートに抜擢される。それはこの会社では、葉山の彼氏が「正直悔しかった」と思うほどに役割的に大きい部署なのである。

 長時間労働のような「男性並みの働き方」をするルートではないが、総務畑の視点から新たな提案をすることで自信の根拠を得ていく。

 ラスト近くで、かつて葉山の提案をジェンダー的な意味で小馬鹿にしていた男性社員が、退社にあたって葉山に「俺はそんな風に正しくなれないから」と言う。葉山が「正しい」と言われる側に回るのである。

 これは、企業内の現実が変革され、かつて「正しくなかった」ものが「正しい」もの、つまり中心的な現実になったことを意味する。葉山にとって当初「正しい」ものとは自分にとって落ち着かない世間の風潮であったのだが、今度は自分にとって居心地のいいものが「正しさ」へと変わったのだった。

 

 

 

 このように一つひとつ小さな提案をして行動を起こしていくことを、この作品では「声を上げる」と称している。

 声をあげて現実を変えていくのである。

 これはぼくがよく接するような社会運動において「声を上げる」ということとは違う。社会を変えていないではないか、という批判があるかもしれないのだが、ぼくは本作を読んでみて、自分の中の最も身近な現実、すなわち企業の中で現実を変えていくというある種のリアルさをとても実感を込めて描いていると思った。