酒井邦秀監修・佐藤まりあ著『大人のための英語多読入門』

 英語を勉強していると書いたためであろうか、人から英語の勉強法を勧められることもある。ある人から勧められた勉強法もあるのだが、まだ読み終えていない。なので、ここでは引き続き「自己流」のものを書いていく。

 

 英文の記事を読んでわからない単語を単語帳に落としていく方式をとっていたが、たぶん同じような傾向の記事を読んでいたせいであろう、「全くわからない」という単語も少しだけ減ってきた。読むスピードも心なしか早くなり、量も増えたような気がした。

 

 そういう時に酒井邦秀監修・佐藤まりあ著『大人のための英語多読入門』を読んだ。

 

 

英語の勉強ばかりして、英語を「使わない」といつまでも使えるようになりません。素振りだけしかせずに、野球の試合やゴルフコースに出ても、さんざんな結果に終わるのと同じことです。(同書p.8)

とあるのに、揺り動かされ、もっと読んでみようと思うようになった。

 ただし、同書が勧める「多読三原則」はなかなかにシビアで、

  1. 辞書は引かない。
  2. わからない部分は飛ばす。
  3. 進まなくなった本は後回し。

というもので、2.と3.は道理があるとぼくも思ったものの、1.はキツい。同書が1.にこだわるのは「辞書を引きながら読むと『お勉強』になってしまい、『読書』として楽しめません」(p.10)という理由からだ。同書はこの原則には相当なこだわりがあり、何度もそれは説教している。さらに詳しくは展開されているのだが、ここで紹介することは省く。

 行方昭夫『英文の読み方』もやはり多読(厳密には「精読」と「多読」の並行)を進めるのだが、こちらは「ひたすら辞典を使い込む」(行方p.47)という真逆の原則を示す。

 

 

 そこでどうしたかといえば、読売や日経に載っている英語勉強のためのコーナー(英語工房・Step up English)は辞書を使う。

 しかし、次の3つは辞書を使わずに読む、ということにした。

  1. Penguin Readers(英語初心者のためのやさしい読み物)
  2. Japan Press Weeklyの記事
  3. The Guardianの記事

 

 

 1.は『大人のための英語多読入門』で紹介されていたものだが、レベル3とか4あたりだとほとんど苦痛なく、辞書なしで読める。

 『英文の読み方』でも平易な読み物を併せることは勧めている。

これは読み続ける意欲を高めるための特効薬といっていいでしょう。「自分には初級の文章は簡単すぎる」という方でも、少し行き詰まりを感じたときなど、いったん初級に戻って「多読」を試してみる価値は十分にあると思います。(行方p.18)

 オーウェルの『動物農場』とかもむっちゃ簡単な英語で書かれているので、楽しく読めた。

 

 2.は主張や報道事実をよく知っているせいであろう。これもスラスラ読める。

 3.が一番歯ごたえがある。手当たり次第、というわけにはいかないので、気候変動関連、今ならCOP26の記事ばかり追っている。電車で読むことが多いが、たいてい1記事が終わらない。

 

 そして、楽しい。

 「楽しいので続けられる」という根本原則が今のところ守られているのが大きいと思う。

 

 進歩を感じる日々なのだが、他方で、「読む」以外の機能はほとんど発達しない。

 中学生の娘に英語の宿題などを聞かれるのだが、正確に答えられない。全然英語ができないみたいな感じになってしまうので、娘から笑われる。「缶詰が必要です。なぜなら、保存がきくからです」っていう英作文を要求されるが、

「うーん…I need cans.かなあ…。缶詰ってなんだろ。それで…ええっとBecause they are keepable.か…?」

などとあやふやに答えていると、そもそもtheyで良かったのか不安になる上に、横からつれあいが「keepableってここで使うのはおかしい」と言い出すので、面目丸潰れである。

 

 

何か書かないと人生が変わらない

 「はてなブログ10周年特設サイト」で、なんと自分のブログが取り上げられておりました。

hatenablog.com

 

 ありがとうございます。

 2箇所で取り上げられました。

 一つは、「II 10年間で話題になった記事」のところで。

 ぼくが書いたこの記事ですね。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 もう一つは「III はてなブログ編集部注目のブログ」というところで、ブログ自体を取り上げてもらいました。

 そこでこのブログの短い紹介が編集部から付けられているんですが、「20年積み重ねたカルチャー、感想・考察」と書かれていました。

 

 そうですね、ブログをやり始めてもう20年近くになりますね。

 「日本とコリア」11月1日号のインタビューでも答えましたが、2003年からホームページ形式で始めていますから、正確には18年です。

 と言いたいんですが、本当はその前、2002年に楽天のブログ(楽天日記)で3ヶ月くらいやったんですね。同じ「紙屋研究所」名義で。一旦閉鎖しました。そのあたりの経緯は2004年にマルクスにインタビュー「される」という企画でちょっと話してます。

www1.odn.ne.jp

 

 ブログって人類史上例がないと思うので、ブログを20年もやっていたら、きっと人類の中でも未踏のことをやっているんだと思います。人類未踏っていうとすごい感じがしますが、よく考えると、そんなへんてこりんなことを誰もしてないんだけど…みたいなものでして、ある意味「びっくり日本新記録」みたいなもんです。

www.youtube.com

 

 実際、リアルでは「すごいですね! 続けるコツは何ですか!?」などと聞いてくる人は、まず、いません。世の中の人はみんなツイッターとかnoteとかで楽しく投稿し、楽しくなくなればやめているだけですから、無料ブログのようにお金にもならないことを意識的に「続ける」などという珍妙なことはしていないのです。賽の河原で20年間石を積んでいる人を見たら「すごいですね! 続けるコツは何ですか!?」とは聞かずに「へえ……。あー、そうですか。はーん。…ちなみに聞いていいですか? 何でそんなことをしているんですか?」とは聞くかもしれませんが、それと同じです。知らんけど。

 

 でもですね。

 ツイッターもぼくはやってますけどそういうまさしく「つぶやき」じゃなくて、一定の分量でなんか書いて世の中に投げると、ぼくの場合は、自分の中で何かが固まるんですよね。

 固まることは、いい点もあるけど悪い点もある。悪い点としては、まさしく「言霊」になってしまって、それにとらわれてしまうんです。そもそもぼくはマルクス主義みたいなものに取り憑かれてしまう人間なので、世界観としての統一的な感覚を得ようとして前に言ったこととの整合性を考えちゃうのです。そうなると、いったん一定分量の言葉として外に放つと方向転換が利きにくくなるんです。

 でもそれを避けようと思うと、ずっと黙っているのが一番いいことになってしまって、何も言わない・何も行動しないことになっちゃいます。

 他方で、「いい点」としては、第一に、曖昧になっていたことがクリアになります。最近とみにそんな感じでブログをぼくは使うようになってきたんですが、もう世の中として、あるいは自分の中でハッキリしていることは別にぼくが何か整理して考えたり、言ったりする必要はないわけですよね。モヤモヤしていることを、整理して示すことが一つの意義だろうと思ってなんか書いたりすることが増えてきました。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 で、もう一つ、ぼくが何かを言うことで、たいていは非常に小さいものですが、何らかの反響・波紋がぼくの周りで広がるので、それによって、いろんな人から声をかけられて、全然違う自分に会えるようになります。考えの違う人やグループに、いい形で会えたり、また別の出会いに連れて行ってもらえます。

 そうすると自分の人生そのものが実は小さく修正されていきます。

 小さい修正が重なると大きな修正になっていたりします。

 大きな修正は本当に修「正」だったのかどうかは確かにわかりません。じっとしていれば、もっと素晴らしい人生だったのかもしれないのですが、ぼくは現時点で自分の人生に対して自己肯定感が強いので「今の自分になるまでにそういう20年に及ぶ小さな修正の積み重ねがないと無理だった」としか思えないのです。

 義務ではないのですが、振り返ってみて、「何か書かないと人生が変わらないな」と思っているのが、現時点です。

 

 

 

「日本とコリア」(2021年11月1日号)にインタビューが載りました

 日本コリア協会・福岡が発行している「日本とコリア」2021年11月1日(253)号の巻頭で「この人に聞く」というインタビューを載せていただきました。

 ぼくは同誌で時々コラムを書かせてもらっているのですが、同誌の編集をされている方が、ぼくが上西充子教授とともに「ご飯論法」で2018年の「流行語大賞」を受賞したことを最近知り、どういう人間なのか興味を持っていただいたようなのです。

 

 次のような趣旨の質問をもらい、それに答えています。

——最初に自己紹介をお願いします。

——ペンネーム「紙屋高雪」の由来をお聞かせください。

——コミュニストになられたのはいつで、動機は何ですか。

——漫画や本の評論もされています。漫画の評論を始められたきっかけは何ですか。

——どういう漫画評論をお書きになっているんですか。

——本の書評もお書きになっていますね。具体的にどんな本を評論してますか。

——「ご飯論法」で受賞した経緯についてお聞かせください。上西教授とは面識があったのですか。

——日本とコリアの関係について、ご意見をお聞かせください。

 

というような感じです。まあ、紙屋という人物に興味がある…という人はあんまりいないと思いますが、どんなふうに紙屋が答えたのかに興味がある人はぜひご一読ください。

 

(↓日本コリア協会・福岡のホームページ。連絡先など掲載)

https://koreafukuoka.jimdofree.com

 

 

 

 

寺澤芳雄編著『名句で読む英語聖書 聖書と英語文化』

 『名句で読む英語聖書』を読んでいるとき、

Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, Iwill fear no evil.

たといわれ死の蔭の谷を歩むとも禍害(わざわい)をおそれじ

旧約聖書詩篇」)

という有名な句が出てきた。

 古い英語Yeaが入っているので分かりにくいが、現代の英語ではevenに置き換えられている。

Even though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil

 

 

 ぼくがこの句に初めて接したのは、クリスチャンであったつれあいの祖母が亡くなったときである。その葬儀で神父が読んでいたのである。

 鮮烈で印象に残った。

 

 文語での表現がやはりシビれる。

主(エホバ)はわが牧者なり、われ乏(とも)しきことあらじ。主は我をみどりの野に伏させ、いこいの水際(みぎわ)にともないたまう。主はわが霊魂(たましい)をいかし、名(みな)のゆえをもて我をただしき路(みち)にみちびきたまう。たといわれ死の蔭の谷を歩むとも、禍害(わざわい)をおそれじ。なんじ我とともに在(いま)せばなり。なんじの笞(しもと)なんじの杖われを慰む。なんじわが仇(あた)のまえに我ために筵(えん)をもうけ、わが首(こうべ)にあぶらをそそぎたまう。わが酒杯(さかづき)はあふるるなり。わが世にあらん限りは、かならず恩恵(めぐみ)と憐憫(あわれみ)とわれに添い来らん。我はとこしえに主の宮に住まん。

 これではよくわからないと思うので、英語から訳して勝手な説明を加えた我流の超訳を以下につけておく。

神は私の羊飼いであって、羊である私には不足していると思うものはありません。 神は私を緑の牧場で寝ころがらせ、休憩できる水のそばに連れて行ってくださいます。 神は私の魂をいきかえらせ、み名のために私を正しい道に導かれます。 たとえ私が死の陰の谷を歩むとも、私はわざわいを恐れません。なぜなら、あなたが私と共におられるからです。害獣と戦うためのあなたの鞭と、危険なところに行かないように羊を導くのに使うあなたの杖は、私を安心させてくれます。 あなたは、私を惑わす敵に私が直面したとき、私にごちそうを用意して元気づけてくれます。そして、あなたは私の頭に聖油をそそがれます。私の心の杯はあふれます。 私の人生の日々には、必ずあなたの優しさと慈しみとが付いて回るに違いありません。私は永遠に神の家に住むでしょう。

 ぼくにとって何が鮮烈だったのかといえば、第一に、死の危険が迫っているというときに「神様が一緒にいるから恐れることはないよ」という宗教観である。

 もしぼくが同じ立場だったらそんなことを思うのだろうか、安心を得られるのだろうか、と遠い気持ちになったことだった。深く共感したのではなく、自分とキリスト者との違いのようなものを強く感じたのである。

 例えば、いかにもクリスチャンに入信した死刑囚が、執行の直前に教誨師から読み上げられそうな章句ではないだろうかと思った。

 ただ、以下の動画を見たとき、「創世記」が読み上げられていて(4分5秒あたりから)、それはそれで遠い気持ちになった。実際にはいろんなところが読まれるんだな。

www.youtube.com

 第二に、この名句の周辺にある喩え、つまり神を牧者(羊飼い)にたとえ、自分を羊にたとえ、その安心を詩的に描き出すその宗教観にやはり遠い気持ちになった。

 神ってそんなに安心できるものなの…? 的な。批判や不信じゃなくて、「ぼくはよく知らないけど、そうなんですか」というニュアンスである。知らないことをのぞきみるような。「我はとこしえに主の宮に住まん」という信仰の告白は、もう全面降伏というか、信頼しきっているというか。そしてその永遠の感覚。なんだか自分にはないものばかりなのである。

 

 こういう遠い気持ちになってからずっとあと、『ペリリュー 楽園のゲルニカ』に関連してペリリュー戦に参加した米兵の手記『ペリリュー・沖縄戦記』を読んでいたら、この言葉が出てきた。

私はかつて見た第一次世界大戦のニュース映像を思い出した——西部戦線で、放火のなかを連合軍の歩兵部隊が攻撃を仕掛けていた。歯を食いしばり、カービン銃の銃床を握りしめながら、私は何度も繰り返し祈りの言葉をつぶやいた——「主は私の牧者であり、私に乏しいものはない……死の陰の谷を歩みながらも、災いを恐れはしない。あなたが私と共におられるから。あなたの鞭と杖が私の慰め……」(ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』講談社学術文庫p.123)

 つまりまあ有名なのである。

though I walk through the valley of the shadow of death, Iwill fear no evilは、この有名な詩篇の中でもとくに親しまれ、現代英語の成句the valley of the shadow of death「死の蔭の谷」として、「病気や危険なことで死に直面している状態」や「禍にみちたこの世」などの比喩的意味に用いられ、葬儀の際にもしばしば引用されている。(寺澤p.237)

 

 本書では欧米圏で『エレファントマン』、『わが谷は緑なりき』などの映画、そして911事件の際のブッシュ大統領の緊急演説などでこの詩篇の部分が使われていることを紹介しつつ、日本での文学的影響などを振り返る。

 一方日本文学では、島崎藤村『落梅集』(1901)に収められた「めぐり逢う君やいくたび」には「吾命暗の谷間も 君あれば恋のあけぼの」の一節があり、徳冨蘆花『死の蔭に』(1917)や堀辰雄風立ちぬ』(1937)の終章「死のかげの谷」などにはこの詩篇の影が濃く出ている。また、大岡昇平『野火』(1948-51)でも「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも」が題詞として選ばれている。

 ちなみに、いわゆる免田事件で死刑の判決を受けながら、再審の結果冤罪として死刑台から生還した免田栄氏が、獄中でキリスト教に入信したのは、たまたま独房の食器口から放り込まれたチラシに記されたこの聖句がきっかけであったと聞く。(p.239)

 免田がこの章句に出会って入信をした、というくだりは、ぼくが葬儀で聞いた時のインパクトに似ている。それくらい詩としての力を持っているのだろう。

 

 ところが、本書を読むとびっくりするようなことが書いてある。

the shadow of deathに対するヘブライ語の原語ṣalmāweth(ツァルマーヴェス)は、(子音文字は同一で母音符号を異にする別語ṣalmūth(ツァルムース)の)誤読によるもので、正しくは「真暗闇」と解するのが今日ほぼ定説となっている。そこでRSV〔改訂標準訳聖書Revised Standard Version〕は正確な訳としてはdeep darknessをとるべきところを、the shadow of deathを含むこの句があまりにも人口に膾炙していることを考慮し、本文にはあえて変更を加えず、脚注に正しい解釈を示すという妥協策をとったものと推測される。(p.237、強調は引用者)

 

 あらま。

 聖書をよく読んでいる人にはもう常識なのかもしれないが。

 誤読が名句となり、それが力を持ってしまい、入信をさせてしまうというのは考えてみればすごいことである。

 

 ちなみにこの本を読んでいると「へー、この文句は聖書が出どころだったのか」と思うものがいくつもあった。

 例えばこれ。

Vengeance is mine. 復讐するは我にあり

 いやもうすっかりバイオレンスな言葉かと…。

 5人殺害の西口彰事件を題材にした佐木隆三の小説のタイトルであるが、下記の記事長江俊和の解説)を読むと、

復讐するは我にあり』と言う小説の題名も、西口がクリスチャンであることに関係している。「復讐するは我にあり」とは、以下の新約聖書の一節からの引用されている。

「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」(ロマ書12・19)。

その意味は「悪人に報復を与えるのは神だけであり、我々は決して復讐を行ってはいけない」というもの。作者の佐木隆三は、「復讐する〔は〕我にあり」の言葉通り、西口という一人の犯罪者の足跡を淡々と描いた。彼の行動を肯定も否定もすることなく、「悪の申し子」「史上最高の凶悪犯罪者」と言われた、その犯行の動機さえも、まさに「神のみぞ知る」と言うかのごとく。

ということで、しっかり聖書の解釈が織り込まれとるやん。

野党共闘は「見直す」べきだ(4年ぶり2回目)

 夏に都議選を手伝った。そのとき立憲民主党議席を伸ばして8→15、共産党は野党第二党という高い水準ではあったがほぼ議席を維持した(18→19)。

 

 しかし、その一方で都民ファースト立憲民主党の倍の議席を残した(45→31)。

 けっこう取ったなあ、と思った。

 あのときもメディアの予想は途中で大きく覆され、「小池百合子が最後は出てきた効果」などとぼくの周りでは言われていたがのだが、実際には、それは立憲民主や共産には行かない層、一言で言えば「中道」、もっと正確に言えば「非自民の保守」がたどり着いたところであった。

 立憲民主党は「リベラル・左派」として評価されていたのだと思う。

 

 総選挙では、この構図が再現された。都民ファーストのポジションに維新の会が来た。そういうことである。

 

 ぼくの周りでは維新が伸びたことに過剰な意味づけをしすぎる人が多い。日本人が反動化しているとか、維新が大阪でこれこれのことをやっていることが評価されたとか、あるいはかくかくしかじかの悪行が知られていないとか、緊縮派の台頭であるとか、そういう意味づけである。

 しかし、もっとシンプルに、立憲民主党共産党を中心にした野党共闘が全体として「リベラル・左派」色が強くて、そこに乗り切れない層が出てきて、それが維新に行った、というほどに見るのが正解なのではないかと思う。維新の躍進に、あまり過剰な意味づけをしなくてよい。

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ウイングを右に伸ばせ

 政治学者の菅原琢が次のように言っているのは正鵠を射ている。

 

 野党共闘は、一定の効果を発揮した。そこにあまり疑問の余地はない

 62の小選挙区で競り勝ち、多くのところで惜敗まで持ち込んだ。これは実証的に見てもそうだ。

 

www.jcp.or.jp

 

 立憲民主党は、旧希望の党や旧国民民主党などからの合流で膨らんでいたので、そこは「改選直前から減った」ということだけであまり評価しない方がいい。また、小選挙区で1つだけの議席を争うものだから、議席に実らなかったことだけから見ない方がいいとも言える。

 では課題なしなのかといえば全くそうではない

 問題は、惜敗した大量の選挙区があるわけで、自民・公明がこれを恐れたのであるが、にも関わらず、そこを伸ばしきれない原因があるとすれば、「野党共闘が左派・リベラル色が強かった」ということになる。

 惜敗を打ち破り、実際に勝利するためにはどうしたらいいのか。そこが考えどころなのである。

 野党共闘を解体したい人たちは、そこから「共産党を切れ」ということになるのだが、それは論理的にもおかしいのである。今度は左の票がなくなってしまう。

 そうではなくて、左が固められたのだから、右へウイングを伸ばすべきなのだ。

 野党共闘からは、国民民主党がそっぽを向いている状態であるのはその意味で惜しい。前原誠司細野豪志のような色合いの人も同様である。

 以前紹介したが、政治学者の山本健太郎は『政界再編』(2021年7月刊行)という本の中で「最も多くの有権者は中道の穏健な政治を好む」として「自民党よりやや左の中道保守」というポジショニングを「政策位置のことだけを考えれば、これは至って合理的な選択」(山本p.228-229)と述べている。

 これは、2020年に安倍政権が倒れた時に、松竹伸幸が「安倍政権に見習うべきだ」といって野党共闘の陣営に向かって勧めていたことだった。

 松竹は2020年10月に書いた『安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない ——野党共闘の可能性を探る』で安倍政権のしたたかさについて、こう言っている。

 つまり、これまで見てきたように、安倍政権は、右派の岩盤支持層を固めつつも、右派が嫌うことにも触手を伸ばし、リベラル・左派にウィングを広げてきたのである。右寄りの岩盤支持層は〔中略〕数としても多い。その支持が当てにできるのであるから、政権が安定するには大きな要素である。

 その上で、安倍政権は、これもそれなりの数がいるリベラル・左派が共感するようなアプローチをとってきた。岩盤支持層には不満の残るやり方なのだが、だからといって岩盤支持層がリベラル・左翼政党に支持を移すことはないので、安倍氏は自由に動き回ることができたのである。

 こういうやり方は、リベラル・左派こそ学ばなければならない。例えば、護憲という課題のことを考えても、護憲政党自衛隊の問題について、侵略性を増しているとか、反人民的な軍隊だとか、いくら自衛隊を否定するような言葉を証拠を羅列しても、護憲派が内部で喜び、内部で盛り上がるだけであり、外への支持は広がらない。そういうやり方ではなくて、護憲政党の側から、自衛隊を肯定する人たちが共感するようなアプローチを考え、実践しないと、改憲派護憲派の声に耳を傾けることすらない。そんなことをすると、従来型の護憲派は不満を高めるだろうが、それは無視していいのである。なぜなら、そういう護憲派は、そんなことで護憲派の立場を放棄することはないからだ。安倍氏がいくらリベラルに寄った言動をしても、岩盤支持層が逃げていかないのと同じである。(松竹p.63)

 

 実際、今度の選挙戦で、ぼくのまわりの共産党員・共産党支持者でも、いざ選挙区での一本化合意がされて他の党の候補者を推すことになったら、選挙区によっては「あんな人を推すの!?」という不満を言う人がいたのだが*1、それでも公示後は選挙カーでその候補の支持を訴えていたし、電話で支持のお願いをしていたのである。左派、特に共産党の場合、大義の旗がきちんと立っていれば、岩盤支持層は逃げていかない。

 

 ぼくも、ずいぶん前の段階だが、旧民主系にいる、共産党との共闘に否定的な人たちは、むしろ積極的に共闘の中に入ってきて、自分たちの理想や政策を共闘に盛り込み、議論の力で共産党を凌駕して乗り越えるようにすべきだと述べてきた(4年ぶり2回目)。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 特にそれは防衛・軍事政策の分野である。

 松竹は、この本の中で野党共闘が取るべき防衛・軍事政策として、「核抑止抜きの専守防衛」を提唱している。

 共産党に対しては、「もし志位氏が防衛大臣になったらどうなるのだろうか」と提起し、専守防衛を正式に認めて、政権を担当したらしっかり運営できるようにしろ、と注文をつけている。共産党は連立・連合政権の場合「違いは持ち込まない」としていており、もしも共産党が閣僚になれば内閣の一員として当然安保法制の前まで自民党が運営していた自衛隊運営のやり方を踏襲することになる。これは共産党自身もそう言っている。ここまではいい。それはそれでいいのだが、松竹としてはそれだけでは弱いと考えたのだろう。共産党は将来国民が「もういいかな」と思えば自衛隊を段階的に解消するという方針をとっているのだから、「それまでの間、自衛隊をこう運用する」と積極的に言えた方がいいのである。

 

 要するに、〔一九〕九八年の連立政権論〔不一致点は持ち込まず、その不一致点は前政権のものを踏襲し改悪をしないという1998年に共産党が打ち出した主張〕では想定されなかった事態への対処が求められているのだ。従来型ではない思考方法が共産党には求められる。

 そのために大事なことの一つは、自衛隊専守防衛に対する考え方を発展させることである。簡単なことである。〔中略〕現在については、国民が自衛隊を必要と考えているという段階であるというだけでなく、共産党の国民と同じく専守防衛自衛隊が必要だと考えている段階だという考え方を明確にすればいいのである。国民が自衛隊について考えていることを、そのまま共産党が受け入れればいいのである。将来、自衛隊を解消するという点では野党との間に深刻な意見の違いがあるが、現段階では野党と基本的に同じだとすればいいのである。(松竹p.112-113)

 松竹は共産党の政策委員会にいただけあって、よくある単純な「共産党は現在の方針を捨てて自衛隊を認めろ」論ではない。将来の自衛隊解消とその中間段階の立場という「現在の共産党の理想・方針の論理の方向でこの発展が可能だ」ということを説得していて非常に面白い。

 

 今回、防衛・軍事政策の打ち出しは、立憲民主党では弱かった(共産党は「外交」方針はあったが、いわゆる「防衛」政策はほとんど聞こえなかった)。

 そこは多くの国民が不安に感じているところだ。50代以上では景気対策とともに、外交・安保を今回重視したことが以下の表からもわかる。

 

 

 そこに応える、というのが、野党共闘を「右」に伸ばしていくという政策分野のコアにあると思う。もちろん、それ(安全保障政策の強化)だけじゃないけど。

 

野党共闘を「見直す」とは「共産党を切る」ことなのか?

 世論の中で野党共闘の「見直し」が増えているという。

mainichi.jp

www.sankei.com

 

 「多様性の中の統一(団結・連帯)」というのは、先ほど述べたような幅広さを示すことだ。共産党のような「左」から、中道や保守をカバーする「右」がまでがいるということである。野党共闘が見直され、進化・深化するとすればこの方向だろう共産党としても、それは「方便」や「戦術」ではなく、「必ず立場の違う人と、一致点での統一戦線を組んで少しずつ・段階的に理想に近づけていく」という共産党が持っている戦略=綱領のど真ん中である。

 「立憲共産党」というのは、野党共闘が左がかり過ぎたことへの揶揄であるが、ある意味そうなのだろう。しかし、結論は、「野党共闘をやめる」というのではなく、「野党共闘を右へ伸ばしていく」というのが発展の方向なのだ。

 もちろん「見直し」の中には、共産党と手を切れ、という意見としての「見直し」が含まれている。

 野党共闘をやめる…? やめる、それはつまり共産党を切れという意味なのだろう。

 やめてどうするのか?

 そこは単に「いつか来た道」でしかない。

 共産党を切って、維新と旧民主党系が連立する世界があるとすれば、何のことはない、民主党+維新=民進党成立の時代である。このときは共産党が「第3の躍進」と自己規定しているほどの増え方をした時で、共産党はその「おいしいポジション」を捨てて野党共闘路線にやってきた。切れば、そこに戻るだけだろう。この日本社会の現実の中に現時点でも左派的要求が一定の割合で厳然と存在するという事実に目をつぶることは不可能なのである

 要するに維新+旧民主党のような発想では「左の受け皿」にはなれないのである。(いやまあ、ひょっとしたらなれるかもしれない。それは相当に思い切った転換があった時だろう)

 

 善意で「共産党を切るしかない」と思っている、その思考の陥穽は、「右と左は一緒になれない」と考えていることだろう。「一致点で共闘し政権を運営する」「不一致点は持ち込まない」ということに想像が及ばないという致命的な弱点を抱えている。

 

 

 

共産党の比例票について

 ところで野党共闘(つまり小選挙区での闘い)とは別に、共産党そのものの票(つまり比例代表での争い)については上記の話とは別のことを考える必要がある。野党共闘の話と、一緒に考えてはダメだ。

 共産党は、事前に「伸びる」と言われながら、伸びなかった。

 特に比例で。

 終わってみれば416万票。ほぼ固い支持層が残ったという印象である。「共産党は票を伸ばしたが、例えば維新が最終盤それを圧倒的に抜いた」…とかいう話ではない。「伸びるかもしれんぞ」というマスコミの事前調査などのデータ的裏付けがありながら、それが実らなかったというのは、「『一見さん』が大量に店をのぞきにきたけど、買わずに帰って行った」という可能性が高い。

 共産党にやってきていた票が「どこかに行った」とみるべきではなかろうか。

 どこに行ったのか。

 実証的な根拠はないけど、それは「れいわ新選組」と「維新」ではないかと思う。以下は単なる「推測」である。

 劇薬を期待する人は、共産から、勢いがあると報道された維新に行った。

 「れいわ」は0〜1という予想を覆し、4まで行った(諸事情で3になったが)。共産党が伸びるというアナウンスのもとでそちらに行った。短期的には。しかし、長期的には「消費税廃止」「障害者の党」というようなラジカルなイメージを「れいわ」が持つようになって、それは共産党のかつてのイメージの一部にダブっている。つまり共産党に行くと思われていた票は「れいわ」に行ったのではないか、というのがぼくの「推測」である*2

 といって、共産党側は「れいわはけしからん!」として「れいわ」批判をする必要などはない。実際に「れいわ」はけしからんことをしたわけでもなんでもない。

 他方で、共産党は(現時点では)立憲民主党とイメージが被っている。「別に立憲でいいやん」という具合になる。

 共産党としてのブランド力を出す戦略を考えた方がいいということだ。

 今回の総選挙で、共産党が考えていた共産党のイメージの押し出しは「野党共闘に一番熱心で誠実な党」ということだろう。これはそうなのだが、比例をうんと伸ばす力にはならなかったと言えるのではないか。もう少し考える必要がある。

 もちろん、比例票を押さえる組織力——共産党の用語でいうところの「自力」が足りないという問題は、これとは別にあるとは思うが、ここではその問題には触れない。

 

 そして、もう一つは、新規顧客の開拓である。

 特に、若い世代での共産党の支持をもっと開拓した方がいい。

 ここで考え方の整理をしてみたい。

 共産党は、総選挙後の簡単な選挙総括で、

とくに、暮らし、平和の問題とともに、〝気候危機打開〟〝ジェンダー平等〟という新しい世界と日本の大問題を、選挙戦の大きな争点に位置づけて訴えぬいたことは、若い方々を含めてこれまでにない新しい方々への共感を広げる、重要な意義をもつものとなりました。

としている。しかし、先ほど述べたように、日テレの調査では、「気候危機」や「ジェンダー」は若い世代全体の関心から言えば非常に低い

 選挙戦になった時に、若い人に訴える施策として、果たしてジェンダーや気候危機がよかったのかは反省する必要がある。

 ただし。

 それは「選挙戦になった時」の話である。いわば短期間に、宣伝などで支持を広げなくてはいけない時の話だ。

 しかし、もっと日常ではどうだろうか

 共産党の選挙中の実感として、志位和夫も「とくに、暮らし、平和の問題とともに、気候危機打開、ジェンダー平等という新しい世界と日本の大問題を、選挙戦の大きな争点に位置づけて、訴えぬいたことは、若い方々を含めてこれまでにない新しい方々への共感を広げ、重要な意義があったと確信するものです」と言っているが、本当に・実際に反応があったのだろう。ぼくの近くにいる共産党の地方議員も宣伝の際のこのような反応について語っていた。立ち止まって聞く、とか、ビラを取りに来る、とか、対話になって強く共感する、とかである。

 問題は、それが若い世代の「多数」なのかどうかということだ。そういう反応があったことは逆に観察者にバイアスをかけてしまう危険がある。

 しかし、これは見方を変えれば、ジェンダーや気候危機といった問題では、自分が運動に飛び込んでくる・行動をするという積極性を持つような若い世代が共産党の訴えに反応してきた、と言える。この人たちは、運動を起こしたり、行動を起こしたりするような、アクティブな人になってくれる可能性が高い。

 むしろ日常的にはこういう人たちに依拠して、気候危機やジェンダー共産党に信頼を寄せる若い人たちの核をつくっていき、そこから若い人自身が一歩ずつ共産党への若い世代の人たちの支持を広げていくというふうに問題をたてるなら、間違っていないと思う。

 

 なお、共産党は「4つのチェンジ」として、「経済」「気候変動」「ジェンダー」「外交・平和」でのチェンジを訴えたのだが、上記のような有権者の関心のありようからすれば、4分野を柱にして打ち出したこと自体は良かったとしても、実際の演説や訴えの比重としてはもっと考えるべきことがあったと思う。上記の「共産党としてのブランド」を訴えることを加えるとすれば、4分野のすべてを語っていたら、とてもではないが時間はない。候補者の演説を聞いていたが、一部の人については、時々「羅列」のように聞こえる部分があった。

 ぼくは、財源(富裕層・大企業への応分の課税)とあわせて、消費税減税を主軸に経済・暮らしをもっと訴えるべきだと思った。

*1:まるで安倍首相のような「あんな人」とは右寄りの人、とか、野党共闘に全く不熱心そうな人とか、いくつかのバージョンがあった。安倍と根本的に違うのは、そう言いながら実際にはお互いの違いを認めて共闘したことである。

*2:とにかくこれは推測。共産党の比例票はどこから来てどこに去っていったのか、あるいはそういう動き方をしたのかは、どっちみち実際の調査が必要だし、それによってぼくのこの結論も変わることは言うまでもない。

共産党はマンガ・アニメの規制にカジを切ったのか

 日本共産党がアニメやマンガの表現規制に「方向転換」したのではないかと、ネットの一部で話題になっている。

togetter.com

 

 共産党は今回の総選挙政策

児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きに反対します。

と明確に言っている。それなのに、なぜこんな騒ぎになるのかといえば、ジェンダー分野で書かれている政策がこれと矛盾するのではないかという疑惑を招いているからである。

 

 結論を言っておくと、「表現の法的規制ではない」というのがぼくの受け止め。しかし、政策としての叙述の仕方として最悪のものだと思う。どこかの政権党っぽく言ってしまうと、見事に「誤解を招く」。書いた人のセンスを疑う。

 

 問題の、ジェンダー分野における共産党の該当政策はこの部分である。

―――児童ポルノは「性の商品化」の中でも最悪のものです。児童ポルノ禁止法(1999年成立。2004年、2014年改正)における児童ポルノの定義を、「児童性虐待・性的搾取描写物」と改め、性虐待・性的搾取という重大な人権侵害から、あらゆる子どもを守ることを立法趣旨として明確にし、実効性を高めることを求めます。

 

 現行法は、漫画やアニメ、ゲームなどのいわゆる「非実在児童ポルノ」については規制の対象としていませんが、日本は、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な制作国として国際的にも名指しされており、これらを適切に規制するためのより踏み込んだ対策を国連人権理事会の特別報告者などから勧告されています(2016年)。非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。

 この政策は2つの段落から成っているが、一見すると単に段落分けしているだけで同じ話題のように見える。

 

前段の「描写物」はアニメ・マンガの話ではない

 で、前半の段落にある、“児童ポルノの定義を「児童性虐待・性的搾取描写物」に改めろ”という政策のうち「描写物」という文言が、実写でなくアニメやマンガなどの虚構物を指すのではないかという心配を高めているのである。

 その説明がほとんどと言っていいほど、なんにもないもん。そりゃそういう心配を起こすよな、とぼくなど思ってしまう。

 共産党は、この「描写物」という文言を入れろとなぜ言っているのかと言えば、簡単に言えば、現在の児童ポルノ規制法における「児童ポルノ(もちろん実写)」の定義が「性欲を興奮させ刺激するもの」に限定されているんだけど、そうでないもの(性欲を興奮させ刺激するとは必ずしも言えないもの)も「児童ポルノ(もちろん実写)」の範囲に入れるべきだと主張しているのである。

 大騒ぎになって、共産党Q&Aを出したようだが、その中に

児童ポルノ」という言葉については、日本共産党は従来から、被害実態をより適切に表す「児童性虐待描写物」などに改めることを提起してきました(2014年6月17日、参院法務委員会議事録参照)。

と書いてある。けど、素っ気なく書いてあるので、わけがわからない。この政策を書いた人は説明したつもりだろうけど、「被害実態をより適切に表す『児童性虐待描写物』などに改めることを提起してきました」という文言は、よく事情を知らない人からすれば、「うん。ウチは前から児童ポルノに描写物=マンガ・アニメを入れるべきだと言ってきましたよ? 今更じゃないんですよ? だってアニメやマンガでも子どもが傷ついてるんだもん」と共産党が開き直っているように読めちゃうんだよ。そこがわかっていない書き方である。共産党に怒ってこのQ&Aを読みにきた人は、ますます怒り心頭になってしまう。

 しかし、そうではないのである。

 ここで参照されている2014年6月17日の参院法務委員会(共産党の仁比聡平参院議員)のやり取りを読めば、性欲の刺激をイメージさせる「児童ポルノ」から「児童性虐待描写物」に変え方がいいじゃねーの? と共産党が言っていた意図がすぐわかると思う。

 長いけど引用してみよう。

 大事なことなので。

 結論だけ辿りたいという人、面倒くさい人は飛ばしてもらって結構。「描写物」と共産党議員が言っているのは1箇所だ(赤字にしてある)。

 我らが「山田先生」も登場するよ!(笑)

○仁比聡平君 … そこで、本法案の保護法益についてまず確認をしたいと思うんですが、その前提として法務省刑事局長に、現行法にも定義をされています性欲を興奮させ又は刺激するものというこの法の要件は構成要件ということだと思いますが、先ほど来、これは一般人を基準に判断すべきという答弁が衆議院でもあったという紹介がありましたが、改めて、この性欲を興奮させ刺激するものという定義、そしてこれがどのように判断されるのかという基準についてお答えいただきたいと思います。

○政府参考人(林眞琴君) 今御指摘の性欲を興奮させ又は刺激するものというものでございますが、御指摘のとおり、これは一般人を基準に判断すべきものと解しております。
 その判断につきましては、個別具体的な事案の内容にはよるものの、一般論として申し上げれば、その判断要素といたしましては、性器等が描写されているか否か、あるいは動画等の場合にその児童の裸体等の描写が全体に占める割合、あるいはその児童の裸体等の描写方法、こういった諸般の事情を総合的に検討して、それを一般人に当てはめて、その基準で、性欲を興奮させ又は刺激するものに当たるかどうかを判断するものと解しております。

○仁比聡平君 そうしますと、先ほど山田議員始めとした方々の議論にもありましたけれども、一般人が性欲を興奮させ又は刺激されないものであれば、たとえそれが性的虐待あるいは性的搾取という観点から見たときに許されないものであったとしても、この構成要件には該当しないということになるわけでしょうか。

○政府参考人(林眞琴君) 性的搾取あるいは性的虐待、こういったものを防止するという法の趣旨があるわけでございますが、その中で個々具体的な刑罰を科す条文を見ますと、それぞれに例えば今の性欲を興奮させ又は刺激するというものが構成要件としてございます。したがいまして、これに当たらなければ刑罰は科せられないということになります。

○仁比聡平君 例えば、イングランドウェールズのこうした児童ポルノに関する事件の量刑について量刑諮問委員会というのがあるそうで、もちろん前提とする法制度が改正案のような趣旨かはいろいろ、国それぞれだと思いますけれども、この中でも参考とされている欧州におけるペドファイル情報ネットワークの闘いという、コパインスケールと言われている、児童ポルノと今のところ申し上げておきますけれども、この中身を分析している基準があります。この中で、例えば下着姿、水着姿などの子供を写したものだと、エロティックでも性的でもないというレベル一、暗示的なものに始まってレベル十まで、最も厳しいあるいは許し難い、そうした画像としてレベル十、こんなふうな定義が示されているわけです。子供が縛られ、拘束され、殴られ、むち打たれ、又は痛みを暗示するその他の行為を受けているところを写した写真、子供を対象とした何らかの形態の性的行為に動物が関与しているところを写した写真。これは、ウェールズにおいては、つまり量刑事情として重く見られなければならないという考え方かと思うんですけれども。
 先ほど山田議員の質問にもありましたけれども、私もこうした画像というのは吐き気がする思いだと思います。一般人がそうした画像によって性欲を興奮させ、刺激されるのかという基準でいうと、これはそれには当たらないということになりかねないわけですが、これ、一般人の性欲をということで基準とすると、そういうことになるのではありませんか。局長。

○政府参考人(林眞琴君) 今御指摘の外国のコパインスケールでございますか、こういったもので幾つかの分類があるわけでございます。これについては、詳細は承知していないわけでございますが、外国の研究者が児童ポルノをその虐待性の観点から幾つかの段階に分けた指標であろうかと思います。
 したがいまして、これがどういう形で日本の今回のこの児童ポルノ禁止法に当てはめになるのかというのは、具体的な詳細な対応関係というのはもちろんないわけでございまして、結局のところ、そういった各外国での分類のものがこの児童ポルノに該当するか否かにつきましては、こういった個別具体的な証拠関係に基づいて判断すべきでございまして、結局、そういった写真等が法の二条三項各号の要件を満たすかどうか、そういった場合には児童ポルノに該当することとなり、全ての場合にそれが児童ポルノに該当するわけではないというふうに理解しております。

○仁比聡平君 結局、性的虐待あるいは性的搾取による児童の自由や人格、あるいは身体、生命の安全が保護法益、それが保護されなければならない、ここに対する侵害を抑止しなければならない、そういう立法の意図が貫かれるのであれば、別の定め方が私は十分あり得ると思うんですね。
 御存じかどうか、インターネットアーカイブを参照しますと、インターポールが、この児童ポルノという今国際的に使われている名称はこれは不適切ではないのかと。実際に保護されるべき児童の虐待やあるいは性的搾取という、ここの実態を表していないのではないのかという批判がされています。既に二〇一一年の十月にそうした認識がインターポールのホームページに掲載をされておりまして、呼び方として、チャイルドアビューズ・イズ・ノット・ポルノグラフィー、ポルノではなく児童に対する虐待物と認識を一致させるべきではないかという趣旨が示されているわけです。
 本法をめぐっても、我が国でも児童性虐待描写物という表記を使ってはどうかという議論もあったように思うんですけれども、そうした考えを取らなかったというのはどうしてなんでしょうか。提案者。

衆議院議員遠山清彦君) 仁比委員にお答えを申し上げます。
 先ほども山田太郎委員から類似の御質問がございました。おっしゃるとおり、ポルノという言葉だけ考えますと、成人の場合はそれは認められているわけでございまして、それが対象が成人ではなくて児童になった場合に児童ポルノということでございますから、委員が御指摘のとおり、ポルノという言葉イコール性的虐待という含意がないのではないかという御指摘についてはそのとおりでございますし、恐らく、インターポールが、そういった意味でチャイルドポルノグラフィーという英語の中にはアビューズという、虐待という意義が必ずしも入っていないのではないかと、そういう趣旨からの御提言と私どもも理解をしております。
 他方で、今回、法律の名前を児童ポルノのまま、つまり十五年前の制定時のまま維持をするとした理由につきましては、既にこの児童買春と並びまして児童ポルノを、今回の本改正前にも提供罪等は既に処罰化の対象にしてきた、つまり犯罪化してきたわけでございまして、そういった意味で、児童ポルノという用語が、その字義の元々の意味を考えれば必ずしも虐待という意味を含んでいるとは言えなかったものの、この法律が制定されてから十五年間の間に社会で定着また浸透していく中で、今回の法律の三条の二にも明確に書かれておりますとおり、誰人も児童に対する性的搾取あるいは性的虐待に係る行為をしてはならないという精神の下にこの児童ポルノ禁止法が作られているという趣旨が社会に十分浸透しているという点に鑑みまして、実務者協議におきましても本法律の名前の変更は取らなかったと、こういうことでございます。

○仁比聡平君 今の御答弁にありますように、改正案三条の二において児童に対する性的搾取又は性的虐待に係る行為を禁ずるのだと、抑止するのだということが現行法も含めたこの法の趣旨であるということが明確にされるのだという御答弁なのであれば、今回の案ではないんですけれども、その趣旨を明確にするという法改正や、あるいは広報、周知も含めて検討をこれからすべきではないかと申し上げておきたいと思います。〔以下略〕

 

 アニメやマンガを規制しろと微塵も言っていないことはわかると思う(この質疑の後半でCGなどの話は出てくるが、それは実写をどこまで加工して曖昧にしていくかという線引きの問題)。

 仁比議員は「子供が縛られ、拘束され、殴られ、むち打たれ、又は痛みを暗示するその他の行為を受けているところを写した写真、子供を対象とした何らかの形態の性的行為に動物が関与しているところを写した写真」を例に出しているが、“そういうものは常人からすれば「性欲を刺激しない」けど明らかに「児童ポルノ(虐待された児童が写り込んだ、規制されるべき実写物)」だよね?”と問いただしているのである。

 

 今回の共産党の上記の引用政策のうち、前半部分、つまり第一段落は、児童ポルノ(もちろん実写)」という言い方は性欲を刺激するという狭い捉え方になってしまうので、「児童性虐待・性的搾取描写物」に変えろと言っているのである

 性欲を刺激するかどうか=性道徳を乱すかどうかという問題は、権力がわいせつ性を問題するから起きてくる定義の狭さであって、そういうことじゃねーんだよ、子どもの人権が侵されてるかどうかなんだよ! という立場から、この問題を結構重要な問題として共産党は提起しているのである。

 アニメやマンガという「描写物」を規制しろと言っているわけではない。

 

 …が、そんなことがわかるようには書いてない。「なんだろう?」とか「描写物ってマンガやアニメのことだろ?」とか思っても、不思議ではない。こんな雑な書き方すんじゃねえ! 選挙で躍進したくねーのかよ?

 

 しかも、そのすぐ下の段落にアニメやマンガの性描写が現実に影響を与えるという話が書いてある。しかも、政策や話題を変えた時の記号であるダッシュ(——)がない。どう考えても上の段落の続きに見える。

 これは誤解するわ

 誤解を誘導していると言ってよい。

 

後段は法的規制ではなく、社会合意=世論形成で悪影響を減らしたいということ

 そして下の段落の構成は、こうなっている。

 “アニメやマンガは基本的に虚構物だから、実在の直接の被害者はいない。だけど、「女性を性的なモノのように見ていい」みたいな影響を与えるから、率直に言って有害だと思う。だけど法的・行政的に上から表現規制すべきではないから、関係者でよく話し合って合意をつくっていきましょう”というものだ。

 これは共産党の伝統的(?)なやり方で、*1法的・行政的規制ではなく社会運動と世論形成によって、共産党として有害だと考えているものを抑えていきたいという一つの「知恵」である。

表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。

とはそういう意味だ。

 だから、同時に、このジェンダーの分野での政策と別に、文化の分野の政策のところに

児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きに反対します。

とうたっている政策とは両立するわけである。

 もしも。

 もしも共産党が、「社会合意ができたと思うので、ひどいマンガやアニメの法的規制に踏み切ります」もしくは「ひどいマンガやアニメの法的規制へ向け社会合意を目指します」と言い出したら、それは明らかに「方向転換」だと言える。しかし今回はそのような方向には言っていない。

 

 ただ、共産党としては、例えば子どもと大人がセックスするアニメやマンガは子どもの性的なモノ化を進ませる危険があると考えているのだろう。そう主張する運動家は少なくないし、なんらかの悪影響があるという点ではぼくも認めざるを得ない。しかしその影響の排除・削減を、表現の法的規制によって達成するのではなく、言論活動によって、つまり世論づくりによって達成したいというのが、表現・言論の自由を命がけで守ってきた共産党の編み出した「知恵」である。まあ、「苦肉の策」とみる人もいるだろうが、表現の自由を守りながら、高まるジェンダー平等の流れにもきちんと応えたいという、政党として節度を持ったやり方だと思える。

 

 運動団体が、ある性的な表現についての是非を言うことを問題視する意見がある。最近も話題になった。

 デリケートな問題だから単純ではない。だけど、いきなり表現の削除を求めず、自分たちとしてどういう悪影響があるかということをきちんと伝えるなら、「アリ」だとぼくは思っている。むしろ健全な言論活動だ。

 そういう社会合意をつくるのを始めよう、と共産党は言っているのだと考える。

 

それにしても叙述が乱暴すぎる

 それにしても。

 政策の叙述としては乱暴である。乱暴すぎる。

 およそ丁寧さが足りない。

 

 この政策は国連勧告が法的規制を求めていることは現状としてあげているだけで、「よく読めば」共産党としては、日本における法的規制を求めてはいない。しかし、そこはかとなく法的規制を求めているんではないのかなと思わせてしまう。

 そして、非実在である虚構物のポルノが「現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります」という書きぶりは、あんまりだと思う。

 繰り返すが、ぼくは、ポルノにそういう影響(この記述ほどはひどくはないが、女性や若い人=子どもをすぐ性的な対象としてとらえたりモノ化したりしがちであること)があることは否定しない。人ごとではなく、ぼく自身の中に侵入している観念である。だからこの政策を起草した人はそう書いたのだろう。悪い影響をなんとかしたいから、法規制に頼らないで社会合意で…と思ったに違いない。そこはわかる。

 しかし、創作物の評価を共産党が一律にこうとらえているように読めてしまう。もし本当に創作物全体をこう評価しているのだとすれば、表現に対するあまりにも貧しい捉え方だ。少なくとも表現というものを一面的に捉えているという印象は拭えない。

 子どもが性の対象として登場するポルノは全て「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります」というのなら、なぜ「しんぶん赤旗」は『分校の人たち』で子どもたちのセックスを描きまくっていた山本直樹という素晴らしいエロ作家を一面にドーンと載せたのだろう。説明してほしい。

 この政策の書きぶりには想像や空想が人間を解放する側面、想像や空想が文化に果たす役割については一切記述はない。そこに思いを馳せた形跡もない。

 空想で人を殺したり、想像で暴力や戦争を起こしたりする物語を紡いだり、それを読んだり、そういうグラフィックを描き・見ることが、誰かを救うかもしれないことを考えてほしい。また、ヘテロセクシュアルエロマンガボーイズラブのようなマンガが、文化の壮大な揺籃の役割を果たしていることをこの政策の書き手は知らないのか。

 本気で社会合意をつくっていこうとするなら、なぜ創作物の描き手の側の気持ちを聞かないのか・書かないのか。それをまじめに文化として捉え、リスペクトした痕跡がどこにもないのだ。「ポルノ表現は子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つける悪いもの」という一面性からだけ問題に迫り、最初から反対の意見など聞かず、相手に自分の立場をできうる限り飲み込ませようというギラつきだけがひしひしと伝わる。本当の意味での社会合意をつくる気などさらさらないんだな、と思われても仕方がない。

 

 いや、そこまで言わなくてもいい。せめて。せめて、表現の価値には踏み込まずに、しかし現実の影響については心配しているという書き方ができないのか。

 デリケートな問題であるという自覚もなく、ぶっきらぼうな叙述。炎上するわ、そら。油をかけて自分から火に飛び込んでいくスタイル。

 表現の自由を傷つけるかもしれないという大きな問題だという自覚をもって、もっときちんと分量をとった政策提言としてまとめるべきだし、マンガやアニメの表現の自由という問題にも同じように分量を割くべきだろうと思う。

 

*1:例えば2003年前後に少年事件がマスコミをにぎわせたときの共産党の提言を見るといい。https://www.jcp.or.jp/web_policy/2003/09/post-202.html  ここでは「メディアやゲームの映像などにおける暴力や性のむきだしの表現が、子どもにたいして野放しにされていることにも、多くの国民が心を痛めているが、この分野の自己規律も、わが国は国際的にきわめておくれている」という認識を示しつつ(まあ、この認識の是非はあるんですけどね)、その結論は「この分野での日本社会の異常な立ち遅れを克服し、子どもの健全な成長を保障する社会の自己規律を確立することは、急務である」「社会的道義の問題は、モラルの問題という性格からいって、上からの管理、規制、統制、押しつけを強めるという立場では、解決できないどころか、有害な作用をおよぼすだけである」と述べている。

マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

才能も努力もガチャだと思う

 親ガチャが話題であるが、才能はガチャだと思う。

 本人が努力して得たものもあるだろうけど、努力できるのも才能の一つだ。ロールズの次の意見は正しい。

努力しよう、やってみよう、そして通常の意味で称賛に値する存在になろうという意欲さえ、それ自体が恵まれた家庭や社会環境に左右される

 そして、先天的なものだけに限らず、生まれてからどんな社会資源を利用できたか、利用できる環境にあったかも重要である。生まれつきと、みんなで寄ってたかってつくったものと、わずかばかりの自分の努力が「私の才能・能力」だ。

 マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んでそういう気持ちになった。

 

 

 

 いや、上に述べたことは実は、サンデルが本書で言おうとしていることの中心軸ではない。だけど、本書を読んで、改めて能力とか才能とかいうものがどのように得たのかについて考えてみるところがあった。加えて自分が得ている所得についても。

 ぼくの社会的評価というものは考えてみると微妙で、学歴に比して収入は高くない。民間の男性サラリーマンの平均年収よりはずっと低い。社会的ポジションも高いとはいえない。同窓会などに行って「ほう、いま紙屋は〇〇をやってるんだ! へえ!」と感心され、羨ましがられ、「自慢」できるようなものでもない。職業を聞けば、どちらかといえば憐れまれるだろうか。

 他方で、自分の書いた本を世に問えたことは自分にとって望外の幸せである。

 そう見たときに、ぼくは自分の能力を肯定的に評価しているのだった。

 だから「なぜ俺はこんなに能力がないのだ」という問いは立てない。「このような能力を得られたのはなぜか」と考える。そしてそれは、この本を読んで、生まれつきと、みんなで寄ってたかってつくったものと、わずかばかりの自分の努力が「私の才能・能力」だ、とやはり思ったのであった。

 自分の能力を総括し、わりと謙虚な結論を出せたことは、実は本書を読んでの一番の収穫だったかもしれない。(くりかえし念を押しておくが、別に本書の主軸はそういうところにはない。)

 

 

本書の前半

 本書は、リモート読書会で読もうということで読んだ本である。

 本書の前半は、アメリカ社会を覆う能力主義の現状や歴史が描かれる。

 アメリカでトランプを勝利させた要因の一つとして、能力主義価値観にリベラル側も乗っかってしまっていることが挙げられている。

 能力(功績)と所得は比例するかしないかといえば、サンデルは比例しないと考えているが、世の中では比例していると思われている。高所得の人は能力があり、低所得の人は能力がなかった、というふうに見られる。

 だからアメリカのリベラルは「誰でも能力を得られる機会をつくろう」といって、教育機会の均等政策に力を入れる。

 しかし、これは裏を返せば、「貧しい環境にいるあなたは能力が低かったのだ」と言われているようなものである。能力主義以前の社会、例えば貴族しか高い地位につけない時代には「私は貴族ではないから」と考えることができたが、今はそうではない。高い地位、高い所得が得られないのは「能力が低いせいだ」とレッテルを貼られてしまうし、自分でもそう思い込まされる。

 そして、能力を生み出す源泉として大学があり、学歴偏重主義の様子が描かれる。

 

本書の後半がキモ——能力主義をどう批判するか、対案をどうするか

 後半は能力主義を批判するさまざまな哲学的立場が登場する。

 ぼくは本書のキモはこちらだと思った。(そして、サンデルの主張は、他の立場と区別して理解するのが少しわかりにくいと思うので、ぼくなりの理解をここに書きながら感想を記したい。)

 能力主義が問題があるとしても、それをどの立場からどんな角度で批判し、どういう社会対案を示すのかということが問題となるからだ。それこそが解明するに値する難問である。

 能力主義の批判者として2つのリベラリズムがある。

 第一に、自由市場リベラリズムハイエクである。

 第二に、福祉国家(平等主義)リベラリズムロールズをその代表格とする。

 これらはどちらも自由主義の枠組みを使うために、何か特定の価値観をたたえて、それを優先させるようなやり方を批判する。自由主義とは多元的社会であるから、すべての価値観は平等な立場で競い合うようにすることこそが、自由主義にとっては正義の枠組みになる。

 自由市場リベラリズムは、「能力(功績)により経済的報酬を手にいれる」という考えを擁護していそうに思えるが、そうではなく、両者は何の関係もないとする。能力ではなく、ただ需要と供給で決まった価値なのだとする。能力と所得は何も関係ない、と主張することは能力主義への批判となるが、能力のある人が何かの事情で手に入れた所得や資産は需給で決まったものだとして、手をつけないのである。解釈を施すだけで、何もしない。

 他方で、福祉国家リベラリズムは、「能力(功績)により経済的報酬を手にいれる」という考えを認める。しかし、与えられた能力は生まれつきに差があるから、それを再分配によって是正する。能力主義は「機会の平等」を前提にしているものの、実は機会は平等ではない、と福祉国家リベラリズムは批判するのである。

 サンデルは、より立ち入った批判を福祉国家リベラリズムについて行う。現代のアメリカで能力主義への批判として影響を持っているのは福祉国家リベラリズムであり、オバマなどの「進歩的」立場もこの福祉国家リベラリズムに近く、トランプを支持するような層はそれを憎んでいるからである。

 サンデルの福祉国家リベラリズム批判のポイントは3箇所ある、とぼくは読んだ。

 一つは、福祉国家リベラリズムは再分配をする根拠を持たないという点だ。

 あくまでも福祉国家リベラリズムリベラリズムの仲間だから、価値が多元的である枠組みを守ろうとするからである。

福祉国家リベラリズム*1〕コミュニティがこのお金、あるいはその一部を要求する正当な道徳的権利を持つことを立証するわけではない。…福祉国家リベラリズムは、それが必要とする連帯を形づくるのにふさわしい共同体意識を生み出せない。(サンデル本書KindleNo.2915-2942)

 そして、第二点は、再分配を受ける際には、「自分では制御できない不運」に見舞われたものに対してでなければならないという主張を福祉国家リベラリズムは行うために、「選択と責任」ということを強調するようになる。

 しかし「自分では制御できない不運」が狭くとらえられてしまえば、それは日本の「自己責任」論に近くなり、「今貧困に陥っているのは努力できる条件がありながら努力しなかったせいであり、能力・功績がなかったんですね」という能力主義にあまり対抗できなくなっていってしまう。

 第三点は、福祉国家リベラリズムが前提にしている「所得の不平等は才能の結果であり、才能には運不運がある」というテーゼは、前半がおかしいとする。

 サンデルは、才能と所得は関係ない、と断言している。

金儲けでの成功は、生来の知性には──そういうものがあるとすればの話だが──ほとんど関係がない(サンデルKindleNo.3391-3392)

 今べらぼうに金を儲けているような奴らに追いつこうとして教育の機会均等に力を入れて、それでできるというのか? ヘッジファンド・マネージャーと高校教師は知性の先天性とは何も関係ないぜ、というわけである。

 

 

サンデルのリベラリズム批判

 こうしたリベラリズムに対して、サンデルはどういう立場をとるのか。

 サンデルは、才能がガチャであることは認める。福祉国家リベラリズムと同じように能力主義的なヒエラルキーの支配には反対しているが能力を発揮させることには賛成している。しかし、才能=所得とは思っていないので、才能・能力・功績を個人が成し遂げられるような措置にはあまり関心を払わない。大学が過度の選別装置になることについては、さすがに大学解体は唱えないが、過度の意味づけを解体させるような緩和策=ある条件のもとでのくじ引きを提案する。

 サンデルが一番関心を持っているのは、エッセンシャルワークのような労働をしている人がコミュニティに不可欠の貢献をしている価値を認められるような仕組みづくりである。「エッセンシャルワークのような労働をしている人がコミュニティに不可欠の貢献をしている価値」はまさに、コミュニティが共通して持つべき善=共通善である。この枠組みを提出することは、「どの価値も優遇してはならない」という多元主義という「正義」の枠組みを絶対にしているリベラリズムにはできないことである。

 サンデルの提示する具体策は2つである。

 一つは、低賃金労働者への賃金補助である。コロナはエッセンシャルワーカーこそが低賃金であることを可視化した。コミュニティへの貢献を称揚していることを政策で示せというわけである。

 もう一つは、課税の重点を労働から、消費・金融取引(投機)に移すことである。社会のメッセージとして、労働を重視し、消費や金融はあまり役に立っていない、と発信しろということである。

 

ぼくのサンデル評価(1):教育の役割の意義と限界

 ぼくはどう思ったか。

 冒頭にも述べたように、才能はガチャだと強く思った。自分で達成できる部分の方が小さい。社会の力を得て形成された自分が持っている能力や才能は、「本当の自分のものではない」などと萎縮する必要は毫もなく、存分に発揮すればいい。しかし、その能力や才能は、自分個人の功績であるから誇りに思うのではなく、親・周囲・社会の力で得られた能力や才能で、何かしら社会に貢献できたことに満足を覚えるべきであろう。何かにたとえて言えば、他人の荷物を運ぶために、誰かから借りた自動車で、予定より早く目的地に着けて、誰かの役に立てたようなものだ。

 

 斗比主閲子が親ガチャについて記事を書いていて、その中でやはり才能や能力の問題に話が及び、

努力を過信しすぎです。

と言っていたが、まあそうだよなとぼくも思う。

topisyu.hatenablog.com

 多分、斗比主閲子以上に強く思っている。

 

 社会の力で得た才能や能力を使って、個人の資産(だけ)を増やしたり、社会に役だたぬ個人の趣味(だけ)を実現したりすることは、恥ずかしいものだ・悪いことだとまでは思わなくていいだろうが、積極的に自慢すべきことではない。あくまで個人のお楽しみ、という話なだけである。

 他方で、才能・能力と所得の結びつきは、完全にはないけども、一定あるという点は踏まえたい。ヘッジファンドのマネージャーと高校教師という対比では確かにサンデルの言うように才能・能力と所得の結びつきはあまりあるまい。しかし、例えば中卒の人と、医者になった人では、能力が所得の差になって現れることは疑いないだろう。

 最近、ぼくは、議員の生活相談に関わる機会を持った。生育環境のために高校を卒業できなかった人が中年になってから生活保護を受けたのだが、保護を終わらせる自立するために、高卒の資格が必要な、ある福祉資格を得たいと考えた。そこで通信制高校を短期で卒業したいとケースワーカーに相談したのだが、にべもなく断られ、「働け」と指導されたという。福祉事務所も、最終的に法律解釈として“中年になってからの高校進学はダメ”と結論づけた。一般的な話としてもひどい話だなとぼくは思ったのだが、実はその人が保護を受ける前に働いてきた職業と、その福祉資格は非常に近いもので、このケースについていえば、いよいよ高卒の資格を得させるために保護が活用されるべきだと言う強い実感を持った。本当に恒常的な自立のための手立てには保護費を使わせず、アルバイトでもなんでもいいから働けと急かして保護費をケチるという、保護行政の一番悪いところが現れたなと思った。

 そういう人にとって、「能力」と「所得」は切実に結びついている。この人は高校卒業という学歴を得ることこそ必要なことだ。

 だから、ここではサンデルにはぼくは同意しない。

 もちろん、教育に過度な期待をしすぎる昨今の貧困対策の罠には陥りたくない。福岡市の子どもの貧困対策は「学習支援」がトップにきて、高校進学率をまず問題にする。

https://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/75159/1/dai5jikeikaku_mokuhyou3.pdf?20200419175908

 大きな貧困対策の中で、教育の占める位置は、ざっくり言ってしまえば、大事なものだが、部分的なものでしかない大きな貧困対策の中で、教育の占める位置は、ざっくり言ってしまえば、大事なものだが、部分的なものでしかない。

 そのことは前に書いたことがある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 そういう意味では、サンデルに賛成する。

 

ぼくのサンデルの評価(2):学校群制度で感じた「くじ引き」の力

 大学を過度の選別装置にしないために、一定の試験条件をクリアした人についてはあとはくじ引きにしたらどうか、というサンデルの案は面白いと思う。

 何を隠そう、ぼくの行った高校は学校群制度のもとにあった。偏差値ヒエラルキーを緩和するために、高校を複数でセットにして「学校群」にして、受験生は「学校群」を受験し、くじ引きで振り分けられるのである。したがって、ぼくは「くじ引き」で自分の行く高校を決められた。もちろん「不本意」な方に行かされることになったのだが(笑)。

 今この学校群制度は無くなった。有名校進学者の数だけを競う視点からは「失敗」だったのだろうが、学校間格差を緩和する上では役に立ったのではないかと実感する。

 もちろん、これはサンデルの提唱している制度とは違う。

 しかし、「くじ引き」で学校が決まる感覚は、面白いまでに学校のブランド力を消してしまった。ぼくが行っていたA高校は当時学校群を組んでいたB高校と「同じ」という感覚が強くあった(学校群がなくなった今では受験ランク上、A高校は「凋落」し、B高校は圧倒的なブランドを誇っている)。だから、たぶんサンデルの言うようなくじを入れたら、ハーバード大であっても、「ああ、くじね…」という感覚が付きまとうようになるし、行けなかったとしても「くじに落ちただけだもんな」という感覚が生じるだろうと、予感できるのだ。

 だから、ぼくはサンデルのこの大学受験改革は面白いんじゃないかと思う(実際の是非は制度導入する際に詳細が加わり、それによって検証されるだろうが)。あくまで「多少の緩和」程度のものであるが。

 

ぼくのサンデル評価(3):根本的には共産主義の方がよくね?

 さて、最後に、サンデルの根本的な改革案である賃金補助と消費・金融課税強化について。

 賃金補助については、日本では、例えば保育士・看護師・介護職員・福祉施設職員・スクールソーシャルワーカーのようなものは公定の単価が決められており、政治がコントロールしやすい。医療・教育・福祉に従事する人たちは「エッセンシャル」でありなおかつ「専門性」を有しているから賃上げの根拠とされている。

 他方で、スーパーの店員とか清掃とか配達員のような仕事は「エッセンシャル」といえるが「専門性」がある仕事だとはなかなか言いにくい。例えば、公契約法・公契約条例のようなもので、行政が発注する仕事に関わる人の賃金を保障するという政策があるので、それによって賃上げを図ってはどうかと一瞬思ったが、それは「公的に発注する仕事でワープアをつくってはならない」というメッセージであって、サンデルの言っていることとは少し違う。サンデルは、共同体にとって不可欠の仕事だと評価して、職種は広くなり、膨大になるだろうが、そこは思い切って補助をすべきだという提言をしているのだから。

 サンデルのような政策をすることで、「政治は〇〇という職を社会に不可欠のものとして評価している」というメッセージを出すことになるから、例えばそこにスーパーのレジ打ちの仕事が入ってこなかったら「レジ打ちはエッセンシャルなのかそうでないのか」という議論が起きることになり、その議論が起きること自体が、世の中に「レジ打ちはエッセンシャルかどうか」を考えさせる契機となる。

 

 課税の方はどうか。

 これは考え方としてはあまり賛同できない。

 労働よりも投機に重く課税すべきだという点は賛成できる。他方で、消費と労働(生産)を対立させて消費に課税すべきだというのは、「消費税は逆進性云々」の話は措くとしても、あまりに労働を称揚しすぎるきらいがある。

 マルクス主義者でもあるポール・ラファルグが言うところの「怠ける権利」を否定することになるからだ。

自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない。(ポール・ラファルグ『怠ける権利』KindleNo.355-357) 

 

 サンデルの言いたいことは、「低賃金であっても社会に不可欠の労働をしているその尊厳を誰がどういう形で承認してくれるのか?」ということだろう。それを承認せず、能力がないんですね、もっと所得が欲しければ能力を身につけましょう、という能力主義の論理はトランプを招いてしまうよとサンデルは特にリベラル派に言いたかったのだろう。

 当面の政策としては、確かにサンデルの言うような賃金補助はあり得るだろうと思った。しかし、もっと根本的な考えがある。

 共産主義となり、経済が利潤のためではなく国民の必要のために使われるようになれば、ベーシックインカムなりベーシックサービスが提供され、すべての人に健康で文化的な最低限度の生活が保障される。加えて、共産主義によって労働時間の抜本的短縮による自由時間の創出が行われる。そうなると、低賃金だから尊厳がないとか、収入があるから尊厳があるとかいう感覚が乏しくなり、そのような議論自体が不要になるのではなかろうか。才能がもっと伸ばしたい人は社会資源を使って伸ばせばいいし、不要だと思う人は伸ばさなくていい。怠ける権利もある。

 結局コミュニタリアニズムを乗り越えるのはコミュニズムしかない。

 

平野啓一郎とサンデルの対談

 平野啓一郎とサンデルが対談している。本書のエッセンスを要約したものだと言える。

 例えばサンデルは本書で能力主義の積極的役割もきちんと論じているが、その立場は対談でもきちんと述べられている(平野も)。

 しかし、本書と比較すると、理解するのが難しいリベラリズム批判の部分はあまり論じられていない。

 能力主義の話の後は、リベラリズム批判の部分を飛ばして、サンデルの解決策の部分、すなわち大学改革におけるくじの導入、課税の重点について議論される。

 平野が最後に、労働者としての評価の比重をむしろ低下させるべきだと言っており、労働以外の趣味の世界などので評価がされるような社会のほうがいいのではと述べている。そして、サンデルもそこに賛意を表明している。コミュニティへの無償の奉仕などの評価がされるべきだという話だ(日本で言えばボランティア活動のようなもの)。

 

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*1:引用者注。