坂本貴志『ほんとうの定年後 「小さな仕事」が日本社会を救う』

 坂本貴志『ほんとうの定年後 「小さな仕事」が日本社会を救う』(講談社新書)はなかなか刺激的な本である。政治的に見れば日本の高齢者政策の根本的な問題点を指摘したくなることもあるが、そうした「大きな視点」をひとまず脇において、読んでみる。

 

 サブタイトルで大体言いたいことの本質を言っているとは思うが、坂本によれば、政府統計では、リタイア年齢である65歳から69歳までの世帯(2人以上)定年後の月収は年金を中心に25万円。他方で支出額は32.1万円。7〜8万円の収支差がある。

 逆に言えば、月10万円稼げる仕事があれば、貯金の有無にかかわらず、「余裕のある」生活ができるということになる。

 十分な年金を保障せず、年老いても働かせる社会が「地獄絵図」という批判は承知しているし、ぼくもそう思うところはある。

 そのためには経済の果実のうち、社会保障へ振り向ける分を、せめてヨーロッパ並みにするという政治の根本転換が必要であるが、その論点とは別に、ごく当面の「改良」策として、高齢者がプチ就業をして年金の不足分を稼ぐという方法がある。

 坂本の本は刺激的な論点が多いけど、この記事ではその論点に絞って伝える。

 

 

 坂本は、就業人口のうち、デスクワークとノンデスクワークの割合を紹介する。

 デスクワークのみに従事する人は、管理職145万人、事務職1145万人、専門・技術職284万人、合計1573万人で、就業人口全体のおよそ4分の1だ。

日々デスクに向かってする仕事は、労働市場のほんの一部分でしかないのである。(坂本p.103)

 デスクワークもノンデスクワークもする「中間職」(医療、教員、営業職など)が949万人。

 これに対して、農林水産業、生産工程関連職、販売職、理美容師、介護士、飲食店の調理、保安、輸送・機械運転、建設、運搬・清掃などノンデスクワーカーは3068万人で全体の半数以上となる。

日本人の仕事を因数分解すると、こうした現場仕事が仕事の多数派を占めるのである。(坂本p.104)

 

 高学歴を取得し、大企業などでデスクワークを中心とした管理職になっていく人と、そうでない、ノンデスクワークの現業の人たちに人間は分かれるのだ、という職業観を坂本はじっと見つめる。それは、定年後もデスクワークをしたい、しかもできれば大企業で…というよくある願望となる。生涯において、マルクスがいうところの「全体労働者」(社会全体や、ある生産部門や、ある工場でのチームとなって生産を行う労働者の集合体)の「頭脳」の部分となって、デスクワークをする人間と、ノンデスクワークをする人間に分かれる————そうした考え方を坂本はじっくり眺めた上で次のように諭す。

 

 市場メカニズムにおける競争のもとで、競争に勝ち残った能力が高い者が管理職や専門職などで働き続け、そのほかの仕事は競争社会のもとで適切に分業をすればよいと考える人もいるかもしれない。

 しかし、生涯を通じてここまで厳格に分業をする社会は、果たして望ましいといえるのか。みながみなホワイトカラーで成長を続けるキャリアを志すことが、社会的に本当に必要なことなのか。すべての人がその人の持つ能力の高低にかかわりなく、生涯のライフサイクルのどこかで無理なく社会に貢献する世の中は、あって許されないことなのか。(坂本p.104-105)

 坂本によれば、政府統計では、リタイア年齢である65歳から69歳までの世帯(2人以上)定年後の月収は年金を中心に25万円。他方で支出額は32.1万円。7〜8万円の収支差がある。

 逆に言えば、月10万円稼げる仕事があれば、貯金の有無にかかわらず、「楽」に生活ができるということになる。

 月10万円。

 レジ、警備、介護、調理、ドライバー、清掃…などといった現業的なエッセンシャルワークが想定される。それを短時間の分担で稼ぎ出せる、というわけである。もし夫婦であればなおさらだろう。

 これらは求人が多いのに人手が不足している。

世の中が本当に必要としているのに成り手がいない仕事は、飲食物調理や接客、介護、保安、自動車運転、運搬・清掃などの現場仕事であることがわかる。(坂本p.99-100)

 現役時代にデスクワーク、管理職であったり事務職であったり技術職であったりした経歴を無理に続ける必要はなく、全く新しく、社会が必要としている仕事を短時間でも分担して必要なお金を稼ぐようにしてはどうか、と坂本は勧める。

 

 このような状況のなか、一つ確実に言えることは、多くの現場仕事は世の中を豊かにするとても大切な仕事だということだ。いくら情報技術が発達し、経済が高度化しても、配達員や農業従事者の仕事が不要になることはないだろう。つまるところ私たちの生活を豊かにしてくれる仕事は、こうした人々が担っている仕事なのである。(坂本p.104)

 誰しもこうした方々の仕事によって助けられているにもかかわらず、心のどこかでこれらの仕事は自身とは関係のないものだと考え、遠ざけている現実があるのではないだろうか。

 少なくとも、現実のデータを確認すると、現場仕事は誰にとっても無縁ではない。多くの人は人生のどこかでこうした仕事で夜中に貢献するという選択を行なっているのである。

 生涯のライフスタイルのなかで、人は様々な仕事に携わる。

 職種に関するデータの数々は、現代社会における資本主義の矛盾を投げかけているような気がしている。(坂本p.105)

 

 坂本はこの節のラストに「現代社会における資本主義の矛盾」という言葉を使っている。

 知ってか知らずか、このおおむね管理的職業である「デスクワーク」と、現業であり社会の維持に必要な労働である「ノンデスクワーク」という分類と労働力の分配はマルクス共産主義論を思い出させる。生産的労働における「頭脳」と「手足」の分離。必要労働と剰余労働。

 最近、若い人たちと勉強した『資本論』第1部第15章のラストは以下のようなものである。

労働の強度と生産力が与えられたものであるならば、すべての労働能力ある社会成員のあいだに労働が均等に分配されていればいるほど、労働の自然必然性を一社会層が自己自身から他の層へ転嫁しうることが少なければ少ないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分は短くなり、したがって、個人の自由な精神的および社会的活動のために獲得される時間部分は大きくなる。労働日の短縮にたいする絶対的限界は、この方面から見れば、労働の普遍性である。資本主義社会においては、一階級にとっての自由な時間は、大衆の全生活時間を労働時間に転化させることによって産み出されるのである。(マルクス資本論 3』岩波書店Kindle No.609-615)

 ここではマルクスは労働時間の短縮と問題を結びつけているが、全社会のうち、必要労働と剰余労働をおこなって社会を支えている人と、そうした労働をせずに支えられている人との対比をした上で、もしも管理的な仕事だけで、社会を維持するのに必要な労働にたずさわっていない人が、そうした労働を担うようになれば、荷が軽くなるよね、と訴えている。*1

 わかりにくいけど、上記でマルクスが「労働の普遍性」と言っているのは、一部の人だけが汗水垂らして働くのではなく、みんなで社会の維持に必要な労働を担うという意味だ。

 まあ、資本主義のもとでは、それをギリギリの労働力でやらせようとする圧力が続くのでなかなかうまくはいかないわけだが。

 ただ、膨大に生まれる「定年後の人々」がこうしたエッセンシャルワークを短時間で担うという社会の姿は、人手不足の緩和には一定役に立つヒントにはなるだろう。

 

 「定年後の人生」は共産主義と相性がいい。

 えっ!? 何ちゅうことをお前は…と思うかもしれない。

 まあ聞けや。

 それは坂本の著書の第1部を読んでもらうとわかるが、カネや名誉を得るための激しい競争という価値観から50代くらいで限界が見え始める。一部の人を除いて、そのような就労観・人生観から降りてしまうのだ。

 そして高齢な人ほど仕事に満足を感じ(定年後に急上昇し、最高になる)、「他人のために役立つこと」とか「体を動かすこと」への価値を次第に大きく感じるようになる。

 月10万円の仕事、あるいは数万円の小さな仕事は、「地域に貢献」とか「他人に役立つ」という価値観と整合的である。「生活の百姓」「月3万円のビジネス」「半農半X」というようなスタイルが思い出される。

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 つまりだ。

 社会のために短時間の必要な労働をしながら、あとは趣味だの地域活動だの家庭のことだのに時間を割ける。

 おっと、これはマルクスが夢見た「労働時間の抜本的短縮による自由時間の創造」ではないのか…?

 このように感じる基礎はどこにあるのかといえば、貧しいながらも年金というベーシック・インカムが支給されるからである。最低生計費のゲタを履かせてくれるのである。

 いやいや、わーってる、わーってる。そんなに目を釣り上げなくても…。

 うん、お前たちが言いたいのは、こうだろ? 「こんな貧しい年金で何が共産主義だ!」「医療や介護の費用はうなぎのぼりで『死ね』って言われているようなモンだぞ!」「しかも高齢の就労? 死ぬまで働けってことじゃねーか!」ってことだろ?

 また、「小さな仕事」が現役世代の収入を押し下げたりする危険もある。例えば「高齢者の生活の足し」ということにされて、介護職の賃金が全く上がらなくなる恐れがある。

 それはそうなんだよ。

 だけど、逆に考えてみるんだ。

 年金を充実させて、医療費や介護費用を軽減したら、けっこう面白そうな未来がそこに来ていると言えないか? って。つまり貧しいながら、元になるカタチはできている。それをあとは補強していけばいいんだということだ。

 「小さな仕事」が現役世代の収入を押し下げたりする危険については、現役世代にもベーシックインカムをやったり、あるいは、最低賃金を大幅にあげ、教育費・住居費を社会保障に移転したりするという方法もある。

 だから別に、「日本の老後はもう共産主義的未来だ!」とかいうつもりはないよ。だけど、なんかそういうものにつながっていくヒントがあると思わない?

 

 まあ、そんな点が一番心に残ったんだけど、それ以外にも先ほど述べたようにいろんなことに気づかされた本だ。

 一点だけあげとくと、さっきチラッと言ったんだけど、50代での就労観の変化ね。なんか役員とか管理職っぽいことを全部引き受けて、無理に働くようなスタイルはもういいんじゃないか。

 そんなふうに思うきっかけになった。

 

*1:マルクスは『資本論』のこのあたり(第1部13章)で、機械化が進むことで、ブルジョアの「召使い階級」が膨大に増える話をしている。統計を示して実際にイギリスでたくさん存在することを紹介するのだ。「ブルジョアの召使い」っていうとアレなんだけど、例えばブルジョアに食事を出す料理人とか、ブルジョアをマッサージする施術師とか、ブルジョアの家の清掃作業者とか、そういう人なんじゃなかろうか。19世紀にはそれらは金持ちの独占物だったけども、21世紀の現在、高めのレストランの料理人、エステやリラクゼーション、家の清掃などはサービス業化し、労働運動と修正資本主義で所得の上がったプロレタリアートも利用できるようになっている。「召使い階級」の概念が変わって、そうしたサービス業を維持するためのコストを社会が担えるようになっている。「支配階級」の概念も、昔は頭脳労働全般が支配階級の仕事だったけども、20世紀から21世紀にかけて、それらはホワイトカラーに引き伸ばされ、事務職や技術職にも引き伸ばされているように思われる。

我妻ひかり『パコちゃん』1

 30歳。カフェでバイトをしている独身女性・「パコ」が主人公である。

 パコは妻子持ちのおっさんと不倫をしている。そして捨てられる。

 寂しさのあまり、行きつけのコンビニでバイトしている10近く下の男にナンパされ、セックスをし、付き合うようになる。

 

 

 パコはフラれた寂しさのあまり、男についていき、酒に酔い、セックスして体を触れ合わせ、不本意ではあっても寂しさを紛らわせ、「よしよし」してくれる人を求める。そういう隙のある設定が、読者の欲望を刺激しそうな気がするのだが、グラフィックがそれを裏切る。一見少年かと思うようなベリーショートで、しかも服装はあまり構わない。胸もない。いわば「女の色気」的なものは一切感じさせないのである。

 だから、読者であるぼくは欲望ではなく、基本的に、パコの寂しさやだらしなさを見つめながらこの物語を読むことができる。

 …と言いたいところだが、実はそうでもない。

 というのは、例えばパコは徹底して「不細工」に描かれる訳でもないのである。どこかしら中性的な魅力とリアルな存在感があり、それゆえに、やはり多少の欲望を交えてパコを見つめることになる。

 このマンガを読むことは、つらいとか、しんどいとか、そういう気持ちではない。快楽に近い感情なのだ。

 このマンガのどこが読んでいて快楽なのかを考えてみると、一つは、パコがハタチ近い学生の求めに応じてセックスをするところ。ぼくはその男子学生の視点になっているのだ。そして隙のあるパコを「慰めている」かのような感情を得る。

 二つ目は、パコがだらしなくて不運なところ。パコの将来の見通しとか人格の高潔さとか、そういう前向きな感情が何もぼくの中に湧かない。「かわいそう」という感覚で読んでいる。なんだこの気持ちは、と自分でも思うのだが、かなり上から目線の、傲慢な気持ちではないのかな。

 三つ目は、パコやパコの友達(女性)が風俗(男性)を利用するところ。風俗によって救われている感があるのだ。これも自分としては不思議なのであるが、「フーゾクで救われている人もいる」的なものを見たい欲望があるのだと思う。

 

 なんか…、けっこう身も蓋もない感情のベースで読んでるな…>俺

幹部たちの“知的水準の衰弱”

 休みで、いろんな本を読んでいるが、読み返すものもある。

 不破哲三スターリン秘史』もその一つである。

 不破はこの著作の中で、スターリンの問題点の根源を暴いているのだが、同時に、それを描くプロセスで、スターリンという指導者が持っていた「長所」というか、ある種の明晰さにも遠慮なく触れている。

 スターリンがトリアッチ〔イタリア共産党指導者〕やトレーズ〔フランス共産党指導者〕にあたえた路線転換は、それぞれ成功をおさめて、イタリアでも、フランスでも、共産党が戦後政治で有力な地位を得ることに貢献しました。スターリンが求めた路線転換に共通しているのは、反ファシズム闘争の成果を強引に社会変革に結びつけることに固執せず、資本主義的政治体制のもとで共産党がしかるべき政治的地位を獲得するという限定的な目標を、わりきって追求した点にありました。イタリア問題で、トリアッチに、国王の即時退位要求の撤回、バドリオ政権への参加を指示したのも、フランス問題で、トレーズに、ドゴール政権の成立という新事態に適応してレジスタンス部隊の解散要求に応じるよう指示したのも、そこから引き出された指示であって、それがそれぞれの国の政治の現実的要請にあっていたことは、その後の経過が証明したところでした。(不破『スターリン秘史 5』新日本出版社、p.171-172)

 スターリンがひたすら“巨悪をたくらんだ反人民的な存在だった”という「無能な独裁者」であったとすれば、逆にあれほどの害悪をなすことは不可能であっただろうし、戦後の世界の共産主義運動に否定的影響も与えなかったであろう。

(余談だが、もしも、この記述を以って、“不破はスターリンを美化しているではないか!”というようなことをのたまうお方が万が一でもいたら大変であるが、まさかそんなことはなかろう。ただ、昨今は、誰彼の主張の特定のある部分を切り出して、「ルール違反」だの「謬論を広げている」だの、そういうことを本気で言い募る御仁がぼくのまわりにウヨウヨしているので、ついつい余計な心配をしたくなる。)

 問題は、この路線転換が、どちらの場合にも、すべてスターリンの直接の指示で、いわば“一夜漬け”でおこなわれたことです。スターリンが指示するまでは、トリアッチもトレーズも、その相談にあずかっていたディミトロフも、その国の現地の党組織と緊密な連絡をとりながら、まったく反対の、現実性を欠いた政策を立案していたのです。(同前p.172)

 現場に近いところにいても、現実に即応・適応した方針が出せるわけではない。これは事態がまったく新たな局面、これまで出会ったことがない局面を迎えているのに、これまでの延長線上で対応しようとするからである。

 これまでの延長線上で対応しようとするのは、現場に近い人間ほど起こりやすい。現場に近いことが、実情に適合しやすい条件とならずに、現実主義に拝跪し、過去の経験にとらわれる・しがみつく要因になってしまうのである。いわゆる「経験主義」というやつである。

 経験主義に照応した組織スタイルは官僚主義である。「官僚主義」というと「四角四面な対応」という意味のように思われるが、それは官僚主義の一面である。十年一日で以前に決められたルールや所作を決められた通りにやる態度だ。平時には優れたシステムであるが、有事や新しい情勢のもとでは、むしろ硬直する。社会運動においては、運動の生き生きした側面や新しい事態を取り入れられなくなり、大小のエラーを起こし続ける。あるいはヴィヴィッドさがなくなってメンバーが離れていくことになる。緩やかに組織が死んでいくような場合には、大きな矛盾が表面化しないので、こうした官僚主義が繁茂していても、刈り取れずに、むしろみずみずしく新しい若芽はそれに埋もれていってしまう。

 現場に近いことが現場の旧来の経験にとらわれる枷になるのは「常識」という名の対応に堕すからである。常識は従来の延長線である。そこには新事態に即した、豊かな飛躍がない。すなわち弁証法がないのである。哲学的には一面に骨化した形而上学となる。

この常識というやつは、わが家のうちの日常茶飯事にかんしては相当のしろものであるが、研究という広い世間にのりだすと、まったく驚くべき冒険に出会うのである。そして形而上学的な考え方は、対象の性質におうじて広狭の差のある、かなり広い領域で正当でもあれば必要でもあるのだが、つねにおそかれはやかれ限界につきあたるのであって、この限界からさきでは一面的な、偏狭な、抽象的なものとなり、解決できない矛盾に迷いこんでしまう。(エンゲルス「空想から科学への社会主義の発展」/『マルクス・エンゲルス選集7』大月書店p.53-54)

 スターリンにはその「豊かな飛躍」があった。現場に近いトレーズ、トリアッティ、ディミトロフには「常識」「経験主義」しかなかった。

 もちろん、そうした飛躍の視点を持ちつつ現場に入れば、現場で起きている新しい事態が、新しい法則性でとらえられることになる。現場に入ること・近いことは、それ自体はマイナスでもプラスでもないが、視点がなければいくら現場に近くても、いや、むしろ現場に近いからこそ経験や常識にとらわれていってしまう。

 

 しかし、ではディミトロフ、トリアッティ、トレーズは昔から「知的水準」が「衰弱」していたのかといえばそんなことはない、と不破はいう。

 ディミトロフはもちろん、トリアッチもトレーズも、一九三五年のコミンテルン第七回大会には、人民戦線政策の確立とその実践で、それぞれなりに指導的役割を果たした幹部たちでした。その人々が、なぜ情勢の要求にこたえる政策的立場を生みだす力をここまで失ってしまったのか?(不破前掲p.172)

 ファシズムの危機に直面した1935年にコミンテルンは、反動的右派としてファシスト、保守派、そして社会民主主義者たちを一括りにして敵扱いしていた従来の方針を転換させ、ファシズムを打倒するために立場の違いを超えて共同する「人民戦線」政策を確立したのである。そういう柔軟性をコミンテルン幹部であったディミトロフ、トリアッティ、トレーズらは持っていたはずだった。それが10年経って全く発揮されなくなったのは何故なのか? と不破は問う。

私は、そこに、モスクワでの長い亡命生活、とくに「大テロル」以後の、方針の最終的決定者はスターリンだけという専制体制下での生活と活動の中で、これらの幹部たちの“知的水準の衰弱”が現れていること、そしてそのことが、スターリン専決の体制の一つの基盤となってきたことを、強く感じるのです。(同前)

 飛躍的で豊かな方針転換を提起したスターリンがすごいということもあるが、他方で、全くそういう方針を打ち出せなかった旧コミンテルン幹部たちの「知的水準の衰弱」がはっきりしたということの重大さを不破は指摘するのである。

 知的な決定をどこかに委託してしまう。

 大事な方針の大もとはどこかの誰かが決めてくれる。

 知の源泉はいつもどこかのエラい人。

 “戦略的転換”はエラい人の仕事。私たちヒラができるのはマイナーチェンジだけ。

 新しい事態、新しい情勢が起きているのに、従来の成功体験にしがみついて、思想の飛躍、ブレイクスルーを起こさない。——

 マルクスは、『資本論』の中で、生産的労働においてかつては頭脳と手足は一体のものであったが、階級社会、そして資本主義(とりわけ「独自の資本主義的生産様式」たる機械制大工業)において「頭脳」と「手足(言いなりで黙々と作業するだけの人たち)」の分離が起きると指摘したが、そのような乖離は左翼運動の中でも起きうることを、不破の著作は警告として示している。

 そしてそれが専制の基盤となるとまで解明しているのである。

 いやー、関連するけどちょいとだけ脇道。沙村広明波よ聞いてくれ』10巻でカルト的な宗教団体の残党が、自分で立てた人質計画が完全に手詰まりになったとき、そのメンバーが急に取り始めたこの行動を描いたコマ、見て!

沙村『波よ聞いてくれ』10、講談社、p.148

 笑っちゃった。そして戦慄した。

人間は行き詰まると「とりあえず前に進んでる感のある作業」に逃避する

 戦略的な行き詰まり・戦略的な見通せなさ、という現実を直視できず、手近な戦術的前進を勝ち取ろうとするこの思考、この態度! なんか「進んでるわ〜」という小さな満足感だけを脳内報酬で受け取りながら、その実は、一歩も前に進んでおらず、状況はただただ悪化していくだけなのに。

 これぞ「知的水準の衰弱」の見事な形象化ですわ。

 さて、元に戻ろう。

 不破は、その知的な「衰弱ぶり」を示す例として、戦後にドイツが降伏した直後の1945年6月に、ドイツ共産党が出すべきアピールを、ピークやウルブリヒトらドイツ共産党幹部とディミトロフが相談して起草し、スターリンに見せるエピソードが、『ディミトロフ日記』を使って紹介されている。

 『日記』ではスターリンが「本質的な修正」を加えてきたことを記している。

 

 『日記』が「本質的な修正がくわえられた」というのは、なんと、「ソビエト制度」の要求が否定された、ということでした。ここから推定すると、ピークらが準備し、ディミトロフが編集に参加したアピールの草案には、敗戦後のドイツ人民に「ソビエト制度」の樹立を訴えることが含まれていたようです。

 たしかに一九三五年のコミンテルン第七回大会では、反ファシズム人民戦線の政府の樹立は、重大ではあるが、中間的な目標で、革命運動の最終目標はソビエト政権の樹立だ、とされていました。しかし、それから一〇年、ディミトロフもピークも、世界のさまざまな運動を経験してきたはずです。その彼らが、ヒトラーファシズムを打倒した後のドイツの政治体制について、一〇年前の頭のまま、「ソビエト制度」の樹立を訴えるアピールを平気で起草したのでした。〔…〕

 これは、すべての政治的判断をスターリンに任せきってきたコミンテルン幹部たちが、どんな政治的、知的実態におちいっていたかを、もっともあからさまな形で示したものではないでしょうか。(不破前掲p.174-175)

 ここで、マルクスの『資本論*1で引用されている、ホラティウスの『諷刺詩』の一節をご紹介。

名前を変えれば、これはみなおまえのことを言っているのだぞ!

 

桑野隆『生きることととしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』

 村西てんが『教え子がAV女優、監督はボク。』を読んでいたら、冒頭にバフチンが出てきた。

村西てんが『教え子がAV女優、監督はボク。』1、小学館、p.11

 この作品は、タイトルの「教え子がAV女優、監督はボク」という最も反倫理的と思われる状況に向かっていくストーリーやシチュエーションに対して、様々な倫理の言葉を駆使してそれに取り組んでいく…のか、それとも単にそういう建前のアクセサリーなのかはご自身で読んで判断してほしいのだが、とにかくそういうものなのである。

 もともとバフチンには興味はあった。あったけど、著作ひとつ読んだこともなく、少し前に解説らしいものを斜め読みした程度であった。

 それで結局著作そのものを手に入れられず、解説書である桑野隆の本書『生きることととしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』(岩波書店)を読み、リモート読書会の課題にもした次第である。

 

 この本には特徴がある。

 というのは、バフチンは文学研究が中心にその活動は多岐にわたる分野に及ぶために、総合的な思想家として見なされている。そういうバフチンの全体像の中で「対話論」という一部分だけを取り出して解説したのが本書なのである。バフチンそのものは「対話の哲学」のようなものを展開したわけではなく、彼の立論全体の中に「対話主義」と言われる要素があるとされているのだ。

 たとえて言えば、(いや、それがわかりやすいたとえになっているかどうか知らないが)マルクスという広範な領域をカバーした人物のうちで、その思想の中にある「弁証法」だけを抜き出して解説にしたようなものである。

 

対話とは何か

 「Ⅰ  対話的人間」を読むとバフチンの「対話」とはぼくらが日常でイメージする二人で会話することではなく、個人と個人との間にある「交通」「相互関係」全体のことを指している。だから、取り立てて「対話」をするかどうかが問題ではなく、人間は誰かに依存して生きている社会的な存在である以上、必ず「対話」をしていることになる。

 ここでモヤッとしてしまう。何か特別なことを言おうとして、逆に平凡極まることを言っているような気がするのだ。

 「バフチンの対話主義」などと言えば、「対話が大事だとバフチンは言ったんだろ」という当為論ふうにとらえてしまいがちなのであるが、ここで言えば、バフチンはそのような「〜であるべきだ」的なことを言ったのではなく、客観的な状況の指摘をしたんだということになる。

 まずここ(Ⅰ-1)は狭い「対話」ではなく、個人と個人の相互関係・相互作用ということを指してバフチンは対話を捉えているという点だけをおさえる。

 その上でⅠ-2に入ると、個人と個人は相互作用のうちにあり続けるのだから、永遠に未完であり、決定づけられないことがわかる。しかしそのことを人はつい忘れて相手を固定した「キャラ」にしてしまう。モノ扱いする、物象化してしまう、ということだ。

 ぼくらはそんなふうにまずとらえないよね。そんなことはない、相手をモノ扱いなんかしていない、と言い張る向きもあろうが、キャラ化してモノ化する方が便利だから、そういうふうにとらえるのが日常だ。

 だけど、相手は相互作用の中で変化している。永遠に変化していて終わりがないのである。

 みなさんのなかには、相手の深層にひそんでいる〈人間の内なる人間〉を引きだすことができた経験を有している方もいらっしゃるかもしれません。けれども、通常、それはとてもむずかしいことです。何しろ往々にして、〈内なるもうひとりの自分〉は、当人すらあきらかにできずにあるわけですから。

 バフチン自身は、それを可能とするには、相手に「対話的に染み入るしか道はない。そのとき、真の生はみずからすすんでこちらに応え、自由に自己を開いてみせるのである」とのべています(6.70)。(桑野前掲p.21)

 相手から引き出した経験はなかなかわかるまい。相手の深層は見えないのだから。だけど、自分が変わった経験ならわかる。相手の言ったことや働きかけ、存在の在りようから作用を受けて、知らなかった自分が生成されることはある。

 つれあいがChat-GPTにハラスメントの概念を聞いたところ、Chat-GPTは巷にあるようなハラスメント概念を、それらしく答えた。しかしつれあいは、そのChat-GPTに回答を読んで静かにそれに聞き入っている自分に驚いたという。つれあいによれば、もしも同じことを「人」に言われたとしたら、おそらく賢しらな、知ったかぶりな、それでいていま自分が知りたいと思っている実践的な知がないことに苛立ったかもしれない。しかし、Chat-GPTが回答を提出したとき、「ほうほうなるほど、これが世の中の平均的な答えなんだ」という感じですっと胸に落ちたという。Chat-GPTによって自分が素直にその回答に向き合い、またChat-GPTにそのような感情を抱いたことに、つれあいは驚いたのである。

 このような心の動きは、通常公開されない。自分の中で密かに起きる変化である。しかし確かにそのような相互作用を、AIからさえ、つれあいは受けたのだ。

 桑野はここでドフトエフスキーの『白痴』の主人公・ムィシキン公爵について紹介している。

 小説の主人公でこのような相互作用について思い出させるのは、『神聖喜劇』の主人公・東堂二等兵と、大前田軍曹(班長)の関係であろう。

 戦地で虐殺をしたことを誇り、東堂の反抗的な態度をいつか料ってやるぞと東堂に目をつけている、「無学」な農民出身軍人である大前田は、しかし、東堂の予想を裏切る意外な一面を絶え間なくのぞかせる。例えば、理知的・論理的に東堂を追及したり、あるいは、農民的な実感から戦争のリアルさを対峙させて軍上層部が宣伝する非リアルな虚飾を剥いだりする。

 野砲の訓練において、二番砲手となった東堂に対し、大前田はたびたび東堂を押しのけて照準を覗く。そうすると動いている標的と照準がずれていることが確認されて「お前の操作はなっとらん」と罵声を浴びせる。これが繰り返された。

 だが、東堂は幾度か同じことをされた後、冷静に大前田に具申する。砲手の頭を押しのけている間に標的が動いてしまい、ズレはそれによって生じているのであり、かえってそのズレがあることが砲手の正確さを物語っているのだ、と。

 「ふぅむ。」大前田軍曹は、白石少尉および神山上等兵のほうへむかって、『やはりそうだったのか。』とでもいうような色合いのうなずきを一つ示したのち、また私を見下ろして明言した、「よし。お前の照準操作は不正確じゃ・ええ加減じゃ、とさっき班長がお前に言うたことは、班長のあやまりじゃった。取り消す。縦線と照準点の関係は、いまお前が説明したごたぁることじゃ。ええな。——みんなも、ええか。」

 私は、「はい。」とのみ答え、他の五人も、一斉に「はい。」と叫んだ。

 それ(大前田のその明言)は、一面においては、あたりまえのこと(別になんでもないこと)のようであっても、他面においては、めったにないこと(なかなかありがたいこと)であった。それは、「地方」〔軍隊外の一般社会のこと——引用者注〕の現実においても、そうであり、まして軍隊の現実においては、なおさらそうでなければならない。私は、その不均衡を自覚しながら、「偉大な魂が人にむかって胸襟を開くのに接することほど、真の暖かいよろこびの源泉は、他にこの世にない。」という一節をすらふと思い合わせた。かつて私は、その一節を『若きウェルテルの悲しみ』の中に見つけて肝銘したのであった。(大西巨人神聖喜劇』第四巻、光文社文庫、p.429-430)

 これは一方では「おもいのほかおおくのひとがこれに近いことをやれているのではないでしょうか」(桑野p.24)ということでもあるが、他方では、東堂と大前田がお互いに厳しい緊張と敵対関係にありながら、一種の敬意をもって相互作用を、自由な心で認め合っているという姿でもある。誰でもその相互作用に触れているはずのことなのだが、しかし、それに素直な気持ちで気づくことは難しいのだと言える。

 

ポリフォニーとキャラの自立

 続いてI-3では、ポリフォニーについて述べられている。

 ボリフォニーという概念は、言葉から受ける印象として「多数・複数の(ポリ)」という点に力点が置かれているように見える。「声の複数性」というような使い方をして「文化と文化の対話」などの例として使っているが、そのような限定は「誤解」だと桑野はいう。

 まあ…バフチンはもともとどう使っていたかという遡りだから、それはそれでいいんだけど、「対話」とか「ポリフォニー」っていう言葉を選んだ時点で、それこそ相互作用が起きているんだから、「誤解」っていうのはどうなのかなとも思う。

 でもいいや、そのことは。おいとこう。とりあえず、桑野のいうところを聞こうぜ。対話主義的に(笑)。

 ここでは現実の他者ということももちろん含まれるのだが、ポイントは自分の中にある他者ということだろう。特にバフチンドストエフスキーの小説についてこれを語っているからだ。

 小説といえば、作者が神のような存在として筋書きを作り、それに合わせたキャラクターを配置し、筋書きに沿って動かしていくように思うかもしれない。

 しかしそうではない。

 登場人物は作者にとって他者として登場し、作中人物同士で相互作用=対話をするだけでなく、作り出したはずの作者とさえ他者として対等に存在し、相互作用を行うというのである。

 なんだそれは? と思う人もいるかもしれない。

 しかし、例えば、羽海野チカの次のような作劇法をどう見るべきか。

ニコ・ニコルソン『ニコ・ニコルソンの漫画破り道場 破』白泉社、p.62

 羽海野は「気の弱いこの子がここでこんなこと言うかなあ…」と逡巡している。それに対してニコはそうしないとバトルにならないから、と言って、キャラクターにそのように言わせる・行動させようとする。

 しかし羽海野はキャラクターがどんなふうに動くのかを考え抜くうちに、筋書き自身が大きく変わり、それはラストさえ変えてしまう。

 神としてキャラクターに筋書きを押し付け、それに服する行動をさせようとするが、キャラクターが、神である作者に、他者として反逆するのである。

 羽海野にとってキャラクターは結局は「自分の分身」なのだと述べている。しかし、それでもキャラクターは自立する。自立するがゆえに、自立したキャラクターと対話するために、作者である羽海野は「ガラスの仮面」をつけてその自立したキャラクターを演じることになる。る。その時初めてキャラクターは自分の分身であることをやめ、自立するに違いない。

 

 桑野はドストエフスキーの中編小説「分身」を挙げて次のように述べる。

〔…〕バフチンによれば、これは「もはやホモフォニー(単声音楽)ではない」ものの、かといって「ポリフォニーでもあり」ません。「これらの声は十分に自立した実在的な声、十全な権利をもった〔…〕意識にまだなっていない。そうなるのは、ドストエフスキーの長編においてのみである」とことわっています(2.119)。(桑野p.30)

 そのポイントは何か。

バフチンとしては、作者だけが特権を駆使していることこそが問題なのです。(桑野p.34)

 作者でさえ作用を受け、変化を免れない。そのような特権が解体されて初めて、ポリフォニーとしての創作が成立するのである。

 作者=演者一人が監督から俳優までを受け持ってしまう落語やマンガのような創作では特別な困難がある。全て作者・演者である自分が取り仕切ってしまい、あらゆるものを自分の想定に従属させてしまう特権性——モノローグ主義に向き合えないからである。

 他方で、演劇はそうではない。このようなポリフォニーとしての特徴が顕著で、舞台監督や演出に対して、演者が、観客が、そして舞台全体が、極めて容易に反逆する。それについて横山旬『午後9時15分の演劇論』を題材にして、以前書いたことがある。*1

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 今「モノローグ主義」という言葉を使ったが、これはI-5にバフチンの定義出てくる。

ノローグ主義は、極端なばあい、みずからの外部に、対等な権利をもち対等に応答しようとするもうひとつの意識、もうひとつの対等な〈わたし〉(〈なんじ〉)が存在することを否定する。(極端なかたちや純粋なかたちの)モノローグ的アプローチのさいには〈他者〉は、もうひとつの意識ではなく、全面的に意識の対象にすぎないのである。モノローグは完結しており、他人の応答に耳をかさず、応答を待ち受けず、応答が決定的な力をもつことを認めない。モノローグは他者なしですまそうとしており、またそれゆえに現実全体をある程度モノ化している。モノローグは、最後の言葉であるかにふるまう。モノローグは、描かれた世界や描かれた人びとを閉じこめる。(5.350-351)

 桑野はこれを受けて人々が異論=他者との出会いを楽しむ能力・余裕を失わせているとして、次のように記す。

ノローグ支配の強まりは、異論を唱えることすら許さない不寛容さなどにもあらわれています。(桑野p.51)

 その通りである。

 こうして桑野の第I部が閉じられる。第I部はバフチンの対話論の「基本的特徴」を述べたのだというから、バフチンの対話論、対話主義とは何かを知りたければ、ここで(桑野流の説明において)概要はつかんだことになる。

 桑野によれば第Ⅱ部は「〈意識〉や〈真理〉など個々の問題にたいするバフチンの対話的アプローチ」、第Ⅲ部は「主として〈ことば〉にかんするバフチンの見解をとりあげた」ということらしいが、ぼくからすればいずれも第Ⅰ部の基本からの応用問題である。

 あとは、読んでいて重要だと思った点をいくつか紹介し、ぼくなりの考えを述べておきたい。

 

真理と政治集団

 まず真理論。

 世界に対する相対的ではあるが、客観的で正確な反映である、というのがマルクス主義者であるぼくの真理論である。

 あらゆるものを含み、そして完全である「絶対的真理」があるとして、人間はそこに到達することができない。しかし、類としてその接近を行い、相対的に無限のプロセスとして一歩ずつ近づいていく。

 このプロセスは、バフチンが唱える〈対話〉とはきわめて相性がよい。また、科学や民主主義とも親和的であることも言うまでもない。「実践による検証」を制度設計する場合も、それが現代的に適切な形をとるなら、このような真理接近の制度たりうる。

 ゆえに、Ⅱ-8の「真理も対話のなかから生まれる」という章は、まったくその通りであろう。

 だけどそれは建前だ。

バフチンはいかなるテーマについて論じるときも、〈生成〉や〈可変性〉に与しています。(桑野p.83)

というほどには、ぼくにおいては徹底していない。

哲学的モノローグ主義の土壌では、意識どうしの本質的な相互作用は不可能であり、したがって本質的な対話は不可能である。じっさいには、観念論は意識間の認識的相互作用のひとつの種類しか知らない。知っている者、真理を所有している者が、知らない者、誤っている者に教える、すなわち教師と生徒の相互関係、またしたがって教育的な対話である。(2.60-61)

 バフチンはここでは教師と生徒の関係を想定しているが、例えば政治集団においてもこうした関係は生じやすい。「真理を所有している」とされる指導者・指導部と、「知らない者」「誤っている者」=一般的な構成メンバーという対比である。

 指導者・指導部と一般的なメンバーの間に、教育的な対話(これも対話の一つではあるが)以外に、〈生成〉や〈可変性〉を生じるようなバフチン的な対話の関係が生じるのはどのような場合だろうか。

 それは「ソクラテス的な対話」だとバフチンはいう。

対話にくわわった人びととのあいだの関係のカーニヴァル的な無遠慮さや、人びとのあいだのあらゆる距離の撤廃を前提にしている(6.149)

 桑野はこれを解説して次のように言う。

ソクラテスの対話〉は「真理そのものへの関係の無遠慮さを前提としている」というのです。思考の対象への馴れなれしい態度です。不動のものであるかに押しつけてくる〈真理〉にたいしては、「無軌道」や「ちぐはぐ」を対置することも必要かもしれません。(桑野p.86)

 このような「無遠慮」は、政治集団を想定してみれば、相当に自由な関係であることがイメージされる。例えば書籍ほどの分厚い内容を、広範な他のメンバーに届けて活発に議論するようなイメージもそこには含まれるだろう。それだけでなく、それらが相互に結びついて研究会をしたり、話し合ったりすることもまた当然である。

 これは、桑野がバフチンのポイントとして、「距離の廃棄」「無遠慮さ」として繰り返し強調している点に、よく見合ったものに違いない。

 ぼくは『資本論』の学習会をやっていて、そこでチューター的な役割を与えられている。ここで「教育的な対話」の関係が存在していることは間違いない。

 そのときに、まず例えばダイレクトに、参加者から「その解釈は違うのではないか?」と指摘されることがある。ぼく自身が学者でもなんでもないただの素人——参加者よりは多少読んだことがあるという程度のアドバンテージしかない存在だから、そう指摘されれば「あー…なるほどそうですね」と思わざるを得ない。

 また、参加者がどこに感銘を受けて、どこに反応するのかということから、自分の学習会の進め方を見直したりする。それも相互作用の一つではあろう。ただ、やはり抜本的な立ち位置の見直しが迫られるような、そういう相互作用はこの学習会では考えにくいのだろうが。

教育の場にかぎらず、対話をするからには、双方ともいままでとはちがう自分へと変わる覚悟も欠かせないのです。〈対話〉は〈闘い〉でもあるのです。(桑野p.89)

 これは例えば政治的な共闘や、逆に政治的な対決にも言える。「対話」は狭い意味での「話し合い」ではなく、相互作用であるとすれば、例えば、野党共闘のあり方が根本的に変わったりすることや、自民党公明党のような現在の与党からも何らかの作用を受けて、自分自身が変わったりすることも含まれる。

 

 もっとも、バフチンのいう〈闘争〉はたがいをつぶしあうものではありません。すでに見たように、「理解しようとする者は、自己がすでにいだいていた見解や立場を変える、あるいは放棄すらもする可能性を排除してはならない。理解行為においては闘いが生じるのであり、その結果、相互が変化し豊饒化するのである」ということでした。

 たがいに豊かに変化するための〈闘争〉です。(桑野p.108)

 

 

感情移入と連帯

 次に、感情移入について。

 バフチンが作品の鑑賞や批評において感情移入に低い価値しかおいていないことは興味深かった。

 ところが、バフチンは感情移入にきわめて否定的でした。「貧窮化」とすら呼んでいます。一+一の内実が一のままでは貧しいといったところでしょうか。

 ただ感情移入するだけでは、二人(以上)が出会った意味がないというわけです。〈他者〉として出会うのでなければ、両者のあいだにあらたな意味が生まれうる貴重な機会がみすみす失われてしまうばかりか、ばあいによっては当人の自己喪失にもつながりかねない、といいます。感情移入する者は、他者としての自分の特権を存分に活かしていない、他者としての責任を十分に果たしていないといったところでしょうか。(桑野p.101)

 これはすでにバフチンの「対話」概念からすればよくわかる話だ。

 自分とは違う他者と出会い、相互作用し、自分を永遠に変えていく相互作用の中に置くことが「対話」であるとするなら、他者性を捨て相手と同一化してしまうのだから、ありゃりゃ貧しくなったちゃったよ、と残念がるのも無理はないのである。

 しかし、ミクロにその行為を見つめてみれば、どうだろうか。

 まったく境遇が違うと思った物語のキャラクターに感情移入してしまうのは、他者としての距離をおいていた存在から、そこに自分との共通項を見つけて近くに引き寄せるわけで、その時本当に、完全な同一化をしているのではないはずである。いわば自分が変化するフックとして感情移入があるわけで、そっくりそのまま他者になってしまうわけではあるまい。他者に自分との共通をみる「連帯」と同じ行為である。

 初めは、完全に相互作用なき他者だった。そこに自分との共通性を見出し、自分に引き寄せる。そのとき自分は、自分を俯瞰し、客観視し、自分を変えているのではないだろうか。例えば性被害者の声を聞いて、自分は性被害者ではないけども、自分が受けた暴力の被害、あるいは抑圧の被害を俯瞰することができて、自分は被害を受けていた存在だったと気づくのであればそれは感情移入をしつつ、他者を媒介にして自分を変化させていることになる。

 桑野の本では、この感情移入の後に「外在性」(外部に位置していること)について説明するくだりがある。他者に対して完全に外在している自分がいるとすれば、それは他者に対して「モノ」と扱うきっかけにもなりうる。桑野はこのような外在性は、他者との自立において必要なものではあるが、悪用も可能ではないかと述べている。

 これは矛盾である。

 その矛盾をどう解決するかといえば、バフチンは「余剰」という概念で解決する。

 一体化せず、つまり相手に感情移入せず、相手に見えないものが自分には見えているという〈余剰〉を生かすべきだというのである。

 これは今ぼくが述べたことを角度を変えていっているのではないかと思う。

バフチンのこうした姿勢からは、ハンナ・アーレント(一九〇六—七五)の「暗い時代の人間性について」(一九五九)が思い起こされる。アーレントは、政治空間においては〈同情〉は〈距離〉を廃棄し、その結果〈多元性〉をも破壊するため、他者にたいする相互承認の基礎たりえないと考えていた。〈同情〉は〈連帯〉とはちがうというのである。バフチンもまた〈同情〉ではなく〈友情〉を、〈統一〉ではなく〈連帯〉を志向していたといえよう。(桑野隆『増補版 バフチン カーニヴァル・対話・笑い』p.52、平凡社ライブラリー

 

 他にもいろいろな触れたい論点があるが、これくらいで。

 バフチンの対話主義のエッセンスは、本書の「おわりに」のラストに示されているように、

 

世界では最終的なことはまだなにひとつ起こっておらず、世界の最後の言葉、世界についての最後の言葉は、いまだ語られてはいない。世界は開かれていて自由デリ、一切はまだ前方にあり、かつまたつねに前方にあるであろう。(6.187)

 

ということになる。永遠に未完であり、相互作用を受け、変化し続けているということだ。

 でもそれって弁証法の世界観じゃないのか?*2

 

 

*1:バフチン自身は「劇というものはその本性からして真のポリフォニーとは無縁である。劇は、多面的たりうるが、多世界的たりえないのであって、複数の計量システムではなくひとつの計量システムしか許容できない」!と言っている(バフチンドストエフスキイ論』)。しかし、これは劇といっても古典的な劇を念頭に置いており、そこでは作者が主人公を統御しているイメージを強く持っているのだろうと思う。

*2:「以上のようなバフチン的対話原理は、弁証法とどのような関係にあったのだろうか。/じつは、つぶさに見た場合、この点に関するバフチンの見解はけっして一貫しておらず、著作によってニュアンスの相違が見られる。しかし少なくともバフチン本人名の著作においては、弁証法(特にヘーゲル[一七七〇—一八三一]の弁証法)に否定的である」(桑野隆『増補版 バフチン カーニヴァル・対話・笑い』、平凡社ライブラリー、p.157)。バフチンが否定しているのは、ヘーゲルが、後輩たちによって歪められてしまった予定調和な「正反合」の図式に押し込められた弁証法ではないのか、と思った。だって、バフチンの対話主義ってホント、モロ弁証法だもん。

2年たった英語の勉強はどうなったのか

 「英語を勉強している」という記事を書いて2年過ぎた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 一応続いている。

 その間に、何人かの方から「こういう勉強をするといいよ」ということを教えてもらったりした。中にはご自身の著作をくれた方もいた。恐縮である。

 2年。

 2年も勉強しているからさぞペラペラだろうと言われそうだが、まったくそんなことはない。

 2年前の記事にも書いたのだが、

とにかく単語とリーディング。これだけをひたすらやっているのである。

ということなのだ。これを変えていない。「ペラペラ」、つまり会話したり、聞いたりする要素はほとんどない。読むことにほぼ特化しているのである。

 自重筋トレの合間(インターバル)に、簡単な英文の記事を読んで、わからない単語を単語帳に記す。ちょっとだけ時間の空いた時に、その単語帳を見返す。こんなことだけである。

 あ、風呂場で『神聖喜劇』を読んでいると前に書いたことがあって、それもやっているけど、ときどき英文の記事を読んだりする(この場合の「読む」は「声に出して読む」である)。やらない日もある。

 英文の記事というのは、

  1. 毎週月曜日に読売新聞に載る「えいご工房」
  2. 毎週水曜日の日経新聞夕刊に載る「Step Up English」
  3. Japan Press Weekly

の3つである。他の媒体のものも少しやってみたが定着しなかった。1.と2.には和訳がついている。1.と2.はコピーして風呂場で読んで、まあ、わりとつっかえずに読めるようになったら、ファイリングしておく。風呂で読むのでブヨブヨ(笑)。

 それでどれくらい読めるようになるのかと言えば…

 3.はだいたいわかるようになった。

 闘争や運動で使っている用語が「英語ではこんなふうにいうのか」というのは毎回読んでいて楽しい。

 ただこの「わかるようになった」は、逆に言えば、ぼくがその話題を日本語(しんぶん赤旗の記事)で熟知しているからである。

 例えばこの記事。

www.japan-press.co.jp

 「あー、G7を受けての志位和夫の声明だな」ということで、内容がすでに頭にある。

 そして、実は文章もわりとパターンで、しかもおそらく日本人が考えた日本人的な平易さにもとづく英語であるから、本当に読みやすい。「スラスラ読める」とはこのことだ。(「だいたい読める」というのは、それでもわからない単語が時々あるからである。)

 1.と2.は3.ほどでないが、一応読める。

 1.には2つの英文記事(記事・社説)と1つの英語に関するエッセイが載っている。社説の方は、読売の社説を英訳したものなので、話題も文体もよくわかっていて難しくない。英文の記事の方は、イギリスの王室の話題とか、トランプの裁判とか、ミャンマー情勢などで、こっちは事情をよく知らない上に、日常の関心としてはそんなに高くないものばかり、しかもおそらく外国人が書いた文章であろうから、読みにくい。まあ、でもなんとか読める。使われる単語にも少しクセがあるのが、「あ、また出てきた」という感じで慣れてくる。

 2.は主に日本の経済記事である。経済記事というのもに日常的にあまり目を向けないのだがないのだが、「ブリが世界的に人気」とか「ニトリが24年ぶりに減益」など記事として面白いので興味が尽きない。こちらは、当該英文記事を読み上げたラジオ番組もあって一度だけ聞いたが、続かなかった(続ける気もなかったが)。これもまあ、1.の英文記事程度である。なんとか読める。

 そうしてみると

  • 日本語で情報的に知っていることは英文でもわかるようになる。
  • このような新聞の同じコーナーに頻繁に接していると、似た内容や似た表現に繰り返し出会うこととなり、このコーナー自体が一種のコミュニティ(ご近所さん)になる。そのコミュニティ(ご近所さん)の中では意思疎通ができるようになる。
  • 単語については書いたり、喋ったりはできないが、読める能力は上がる(「同僚」を英語で言ってみろ、と言われても言えないがcolleagueがあったら「同僚」とわかる)。

ということがわかる。まあ、当たり前と言えば当たり前である。

 だから、ふだん全然接しない話題、例えばイギリスのドラマの話をThe Guardianの無料記事で読んでもよくわからない。(そもそも興味がない。)

 あるいは、娘から「『明日、私は仕事を休もうと思います』ってなんていうの?」と聞かれて答えられない。日常的な言葉、特に動詞を英語でひねり出せない。ぼくが受験をしていたはるか昔にはその訓練をずいぶんやったものだけど、もう全然出てこない。

 

 2年もやったのにそれかよ、と言われれば悔しいが、そういうものだろうと思うしかない。隙間時間に少しだけやる、ということだから仕方ないし、そもそも「読むこと」に特化しているので、これはもう致し方ないのである。

 「読むこと」に特化するデメリットは、読むこと・話すこと・聞くことが総合的に行われると、理解が飛躍的に高まるはずだが、それが行われないのだから、その分、定着は遅れる。むろん「声に出して読む」というアウトプットを添えることで「耳に入る」というインプットもあわせて一定の効果があるが、「自分で英語を探してアウトプットする=考えて喋る」には及ばない。これをやり出したら時間が足りないのでほぼあきらめている。

 いま長い休みに入っているけど、ゆっくり過ごしたいので、何か課題を自分に課すような負荷はかけたくない。

 

 だけど。

 日常で使う動詞くらいは、なんとかしたいなとは思う。

 例えば「発表する」「休む」「準備する」とかよく使うけど、一体どう言えばいいんだ? というのはある。パッと出てこない。頭に浮かぶのはpresent? rest? ready?とか…である。

 前に買った曽根田慶三『1日の会話で使う動詞のすべてを英語にしてみる』(ベレ出版)があるのでチラチラ見ている。

 「発表する」にも様々ある。「みんなの前で発表する」的なのはgive a presentation、「仕事の休みを取る」はtake the day off、「準備する」はprepare…それが出てこねえ。

 まあ、風呂場で簡単な英作文を2つ、3つやるくらいはいいだろ、と思って、クイズと答え合わせ程度にやってみている。すぐ忘れるが。

 

 

長い休み

 長い休みに入った。

 休み明けの日は一応決まっているけども、本当にその日に休みが明けるのかどうかはよくわからない。これまでの人生では、そんなことはなかったのである。

 休んでいる今、思い出し、読み返すのは大西巨人神聖喜劇』だった。

 戦争が始まって対馬の部隊に入隊し、そこで出会った様々な事件を物語を描いた、『神聖喜劇』には、主人公・東堂が、入隊して間もない頃に、朝の呼集時間を知らされておらず、呼集に遅れてやってきて、そのために同じく遅刻した他の4人の新兵とともに、軍曹から厳しく追及されるシーンがある。

 

 〔…〕「わが国の軍隊に『知りません』があらせられるか。『忘れました』だよ。忘れたんだろうが? 呼集を。」

 上官上級者にたいして下級者が「知らない」という類の表現を公けに用いることは固く禁物である、——入隊前にもいつかどこかでそういう話を聞いたうろ覚えが私にあったし、十日足らずの直接見聞によってある程度その事実を私はたしかめていた。とはいえ私一個は初めて今朝この問題に面と向かったのである。

「東堂は知らないのであります。」〔……〕

「チェッ。わからん奴じゃなあ。お前は、『忘れました』が言われんのか。」

 しかしここで仁多〔軍曹〕は、私の答えを待たずに、鋒先を他の一人に転じて、「お前は、どうだ?」と詰問した。相手はただちに「はい、谷村二等兵、忘れました。」と公認の嘘を叫んだ。仁多軍曹は、他の三人にも次ぎ次ぎにおなじ詰問を突きつけ、真赤な嘘を大声で吐かせておいて、ふたたび私にむかって、「どうだ? お前は。」とそれまでの問いの主部と術部との位置を逆さまにした言い方で迫った。

 つめたい恐怖が初めて私の胸を走った。軍隊の常道として、今度こそ仁多は「忘れました」以外の答えを断じて予想も予定もしていないのであろう。それが私にもさすがにわかった。四人の証人を手近に設けた彼の理詰めのやり口は、私を、そしてまた彼自身をも、どたん場に追い詰めたということになろう。もし私が私の以前に変わらぬ返答を繰り返すならば、彼は、立つ瀬を失い、暴力に訴えるよりほかには、この場の収拾策を持ち得ないのではないのか。

 野間宏『真空地帯』は軍隊を、一般社会と隔絶した無法と暴力の空間として描いた。これに対して大西は、軍隊は一般社会と隔絶しているどころか、法や規則によって動かされている一般社会と連続している、しかし特殊な社会であるという側面を描き出した。『神聖喜劇』はダンテの『神曲』のことである。『神曲』には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という有名な章句があり、地獄と世界は全く別のものであるかのように一見とらえられるが、実はその地獄は世界と地続きなのである。

 ここでも軍曹はすぐに暴力は振るわず、主人公・東堂を追い詰めるべく「四人の証人を手近に設けた彼の理詰めのやり口」が示される。

 ぼくは、今自分の近くにある理不尽に、このシーンを読みながら思いを致す。

 もし自分の行為が「ルール違反だ」と非難され、「罰をくらわせるぞ」と振りかざされたとしたら。

 ルールの明文、あるいはルールを運用するマニュアルの明文にはどこにも規定されておらず、また、規定されている文言からの類推や拡大の解釈からは導き出されようもなく、それどころか、マニュアルの存在さえもどうやらないらしい中で、「ルールを破ったことを反省しろ」と言われたとしたら、「そんなルールは聞いたことがありません」と言いたくなる。すなわち「知りません」である。しかし耳元で叫び続けられるのは「ルールを破ったことを反省しろ!」「ルールを忘れたのか、お前は!」なのだ。

 「知りません」と言うな。「忘れました」と言え。

 このシーンを読みながら、ぼくは自分の身近に存する理不尽についてどうしても思い出さざるを得ない。続く東堂の内心は、まさにぼくの心そのものである。

 戦争に対して何も抵抗できない自分の運命に自暴自棄になり、軍隊に入って「一匹の犬」となることを一旦は決意した虚無主義者・東堂は次のように思う。

 〔……〕私が「忘れました」を言いさえすれば、これはまずそれで済むにちがいなかろう。これもまた、ここでの、現にあり、将来にも予想せられる、数数の愚劣、非合理の一つにすぎない事柄ではないか。これに限ってこだわらねばならぬ、なんの理由が、どんな必要が私にあろうか。一匹の犬、犬になれ、この虚無主義者め。それでここは無事に済む。無事に。……だが、違う、これは、無条件に不条理ではないか。……虚無主義者に、犬に、条理と不条理との区別があろうか。バカげた、無意味なもがきを止めて、一声吠えろ。それがいい。——私は、「忘れました」と口に出すのを私自身に許すことができなかった。・・・・・顔中の皮膚が白壁色に乾上がるような気持ちで、しかし私は相手の目元をまっすぐに見つめ、一語一語を、明瞭に、落ち着いて、発音した。

「東堂は、それを、知らないのであります。東堂たちは、そのことを、まだ教えられていません。」

 他人から見れば東堂のこだわりは馬鹿げたことのように見える。

 「忘れました」と言いさえすればいいのだから。そして、言わなかったとして、それで帝国陸軍の何かが変わるということでもない。ただの東堂の中での小さなこだわりのようにも見える。

 東堂は、「大東亜戦争」(アジア・太平洋戦争)の開始において、虚無主義者になった。軍部や戦争を嫌悪していたにもかかわらず、他方で徴兵拒否・忌避のような「抵抗」をする気もなくそれをした人々に敬意も感じていなかった。東堂は

世界は真剣に生きるに値しない(本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何をなさなくてもよい)

というテーゼを打ち立てた。「聖戦」の欺瞞的本質をほぼ正しく理解し社会・国家の現実を全く肯定しないけども、その変革の可能性をどこにも見出し得なかった東堂が、追い詰められて打ち立てた主観的なテーゼであった。

 そのような虚無主義者に陥ったまま、東堂は軍隊に入った。この戦争で自分は死ぬ・死すべきであるという予感を抱き、「一匹の犬」となるつもりで。

 ところが、東堂は、その虚無主義に自分を浸かり切らせることに抵抗した。「忘れました」と言わず「知らなかった」と言い続けた。意識的・計画的に反抗したのではなく、些事のような、あまりにも小さな出来事であるかのような事件をめぐって東堂の中に「意識あるいは直観の雲」が生まれたと形容する。

 「雲」。まさに明瞭な形ではなく、自分自身にとってもとらえどころのない、不定形ではっきりしないものだったのだろう。その「雲」と、軽蔑すべき上官上級者を相手に子どもじみた抵抗を続けようとすることへの「自己嫌悪」とがせめぎ合う。

意識あるいは直観の雲が私に生まれ、または目覚め、さてそれが私を統制したからであった。……この自己嫌悪の情緒も私として嘘いつわりではないけれども、それと同様に、もしくはそれより以上に、あの何か強大な物に挑むような情念は私として真実切実である。ただこの二つの心的活動は、いずれもそれぞれ例の「一匹の犬」的表象からしばらく懸け離れているらしいが。もしここで私が、前者——自己嫌悪の情緒——に私自身を任せて、後者を一時の小児病的な血気の類として葬り去るならば、何かが、ある重大な何かが、私において最終的に崩れ落ち、潰れ滅ぶであろう。してまた私の仮りにもそこいらの下司某を貫いて挑むべき・挑むに足りる何物かがこの世に存在するのならば、その私の守り立てるべき・守り立てるに足りる何物かも私の内外になお存在するのであろう。この自己嫌悪を捩じ伏せることが、何はともあれ、いま私に必要である。

 

 もしぼくが仮に東堂と同じような状況であったとして、「理不尽な言いがかりかもしれないが、ここは一つ、ルール違反であることを認めしまえ。大したことではなかろう」「嘘も方便だ」と言って、そこで抵抗することを自己嫌悪の感情で片付けてしまえば、やはり同じように「何かが、ある重大な何か」が、ぼくのなかで「最終的に崩れ落ち、潰れ滅ぶ」かもしれない。

 見解が異なったものを保留する権利があるとぼくは考える。

 にもかかわらず、自分の見解を捨て、「すべて私が間違っておりました。あなた様のいう通りです。許してください。助けてください」と作文をして嘆願しなければ、罰せられる——そんな馬鹿げた枠組みが、仮にあったとして、それにぼくが屈するようなことがあるならば、「何かが、ある重大な何か」が、ぼくのなかで「最終的に崩れ落ち、潰れ滅ぶ」ことは疑いないように思える。

 

 ぼくの友人の一人に若い女性がいるが、その女性が自動車運転中に別の自動車との交通事故に遭った。明らかに相手側のミスである。車から出てきた相手の高齢男性は理不尽を怒鳴り散らすが、女性は全く動じない。その様子に業を煮やした高齢男性は、無言で力を込めて拳を振り上げるしぐさをして、目をカッと見開き、威嚇した。もちろん女性は「出るところへ出よう」と全く意に介さなかった。

 若い女など威嚇すれば「ごめんなさい!」と震え上がって言いなりになるだろうというジェンダーまみれの思い込みがその高齢男性に染み付いていて、しかも自分の中では効果のある威嚇をしたと信じ込んで実際に演じている情景が、ひどく滑稽で印象に残った。

 ぼくの身近にある理不尽も、おそらく端から見れば、そのような滑稽極まる情景なのだろうと想像して可笑しかった。

 ぼくたち、あるいは、ぼくたちの人生は、老人男性の玩具(おもちゃ)ではない。

 

 理不尽そのものに対してもそうなのだが、それ以上に「理不尽とわかっていても認めてしまえ」という「親切」や「現実主義」を装った使嗾こそが自分にとってはより苦しいものだと気づく。

 そんなルールは聞いたことがない、「知らない」と言い続け、知らせるように要求し、ルールの正確な理解を質問し続けようとする東堂に、上級者(神山上等兵)による「肉体的制裁」=暴力の危険が迫る。

 質問をやめ「知りません」を自らに禁じれば、その危険は去り、安寧が手に入る。しかしそのような恭順を自分は示したくない、という葛藤が東堂の中に生まれる。

 

 〔……〕もしただこのまま私が沈黙の恭順を装っていさえしたなら、その「望外の幸福」はすぐにも私の物となりおおせるであろう、と私は理解した。しかしそれと同時に、神山らの言い分を私は黙認することができない(かかる不条理、かくのごとき仮構前提に屈従することを私は私自身に許し得ない)、という圧倒的な衝動が、私の中に現れ出ていた。しかも二派に分裂した私の心と心とが、凄まじい速力で鬩ぎに鬩いだ。……『切り出そうか。』、『だまっていようか。』、『切り出そうか。』——神山が、ちょっと伏し目をした。……『言うまいか。』、『言おうか。』、『言うまいか。』、『言おうか。』——伏し目の神山が、たぶん何か最後の指示を与えそうな気配になった。……『言うまいか。』、『言おうか。』……『ええ、おれは言わねばならない。言ってしまえ。』……大きな氷の固まりが、私の胸板に押し当てられたかのようである。

 ……私は、強大な何物かに挑むような情念で、『東堂は、質問があります。』と切り出さずにはいられなかった。それまで短時間の私を無言無為の方向に引き留めようとした何物かの正体が、案外にも主として私の虚無主義ではなくて、いっそ主として私の損得の打算、暴力への恐怖、それほどでもない物事にも怖じ恐れてくよくよしがちな生まれつきの小心の類であったということを、私は、とうとう口を切ったとき、今更に見つけて知ったのである。

 東堂はここで自分の逡巡を「虚無主義」によるものだとカッコつけていない。そうではなくて、単にもっと単純な自分の臆病から来ていることを微細な心の動きをとらえて、正確に理解している。ぼくにも思い当たることがある。

御徒町鳩『男友達が激甘カレシになりました』

 御徒町鳩『男友達が激甘カレシになりました』がいつまでたっても電子にならないもんだから、とうとう書籍で買っちゃったぜ。

 

 内容はタイトルが語っている通りだけど、主人公である大学生・ちえが、男友達だった豪太から告白されて付き合うようになるという話だけど、主にセックスが描かれる。「いやそうじゃないよ」と言われるかもしれないけど、中心テーマはセックスだよ。

 そんなに難しい物語じゃないんだよ。

 豪太のセックスがとにかくていねいで優しいので、それまで雑に扱われてトラウマになってきたちえのセックス観を、ひっくり返してしまうのである。

 マンガとしては、2回目に描かれる、二人が結ばれるセックスの描写が、読んでいて「あー、すごく気持ち良さそうだな」とか「幸せそう」とかそういう気持ちが素直に起きる。「完全平等」というわけでもなくて、男性側にやや征服感・操作感があるという軽い歪みがある感じが、ぼくの心を捉えて離さないのである。

 個人的に、ちえの白眼がちな表情が好みで、マンガ的には美少女に描かれているちえの親友のみさきに比べると、その「白眼」部分にリアリティを感じてしまう。

 第6話で豪太とちえが最初に出会ったエピソードが描かれるんだけど、そこで最初に出てくる、ちえがハンバーガーとおぼしきものを食べている無防備さのコマで、「あー、ちえ、かわいい」と印象付けられた。

御徒町鳩『男友達が激甘カレシになりました』大誠社

 もともとめちゃコミの宣伝としてぼくのSNSなどにネット広告として流れてきたのだが、無料2話を読んでそれ以上課金できなかったために、読むのをあきらめていた。そこへきて、書籍化の情報に接したためAmazonに行ってみたのだが、電子書籍はない。仕方なく、GWで出かけている最中に出先で買ってしまったのである。

 

 御徒町鳩は、特殊な能力で犯罪者の心を読む少女を描いた『ファンタジー』で魅了された。以後いろんな作品を読んだが、セックスが物語の中で重要なポジションを占めて、しかもわりと気持ちのいいものとして描かれていることに好感を持った。