日本共産党が“社会主義の目的は労働時間の短縮による人間の全面発達である”と2004年に綱領を変えた(志位和夫はその変奏を現在やっている)。
オスカー・ワイルドの本書の表題評論は1891年に発表されたもので、マルクスが死んで10年はたっていないし、盟友のエンゲルスはまだ存命だった頃のものだ。
簡単に言えば、社会主義が生きるためのさまざまな経済上の苦痛から人間を解放したら、個性の発達というか個人主義が花咲くんだぜ、という主張で、その中でも芸術の開花について詳しめに論じている。
目指すべきは、貧困の存在しえない基礎の上に、社会を作り直そうと試みることである。(p.10)
社会主義そのものは、それが個人主義に通じる道を準備する限りで、価値あるものとなる。(p.11)
日本共産党が新しい綱領でめざすとした社会主義像に似ていることがわかるだろう。
本書には、それから半世紀経ったのちのジョージ・オーウェルの書評が載っていて、
ワイルドの社会主義観は、おそらく当時ワイルドほど上手く文章を書けない多くの人たちも共有していたものであろうが、ユートピア的で、アナキスト的なものだ。ワイルドいわく、私有財産の廃止によって、ひとびとは個性を十全に発展させることが可能になり、「他人のために生きるという低劣な義務」から解放される。(p.119)
と、この時代(19世紀末)の社会主義の共有されたイメージを語っている。
まあ要するにそういうことだ。
だから、マルクスがこの約束の地(目指すべき地点)に注目したとて、それほど驚天動地のことではないが、経済学的な裏付けをもってそこを展望したことには大いに意味があったと言える。
その書評をオーウェルが1948年に書いていることに一つの皮肉がある。
1948年といえばソ連とスターリンがナチスドイツを打ち破った英雄として世界中から称賛されたのが冷めやらぬ時期であり、「社会主義(=ソ連)では食うものに困らない」的なイメージがはびこっている時代だ。そんな時期に、オーウェルはこのワイルドの書評を再び取り上げて、高く評価したのである。
1960年代でさえ、共産主義(社会主義)の「すばらしさ」を、「いっぱいモノがある!」ということで「グヤーシュ・コミュニズム」(ハンガリー式の、国民の豊かさに主眼を置いた共産主義)が大手を振っていたというのに。
以下は、当時の中国共産党幹部(譚震林)の主張である。
結局のところ、共産主義とはどういう意味だろうか? (中略)第一に、単に腹を満たすだけない、良い食事をとること。毎食、肉を摂取して、鶏肉か豚肉か魚か卵を食べること。(中略)猿の頭、燕の巣、白トリュフといった珍味が「必要に応じて各人に」提供される。(中略)第二に衣服。人々が欲しがるものはすべて手に入るはずだ。大量の青い服[だけ]でなく、さまざまなデザインやスタイルの衣服が。(中略)労働時間が終われば、人々は絹やサテン(中略)狐の毛皮がついた外套をまとう。(中略)第三に住居。(中略)北部では集中暖房、南部では空調設備が与えられる。だれもが高層ビルで生活する。言うまでもなく、そこには電灯、電話、水道、テレビがある。(中略)第四に輸送路。(中略)あらゆる方面への空路が開かれ、各国に空港が備わる。(中略)第五に、万人のための高等教育。(中略)これらすべてを合わせたものが共産主義である。
(フィリップ・ショート『毛沢東 ある人生』白水社、山形浩生・守岡桜訳、下巻p.163-164)
オーウェルはまずは皮肉から入る。ソ連の現実は、ワイルドが望んだような社会とは真逆になっていたからである。
いまこの楽観的な予測を読むとたいそう暗い気持ちになる。もちろんワイルドは社会主義という運動には権威主義的な潮流もあることを知っていたが、それが支配的になるとは思わず、皮肉にも予言みたいに響く調子でこう書いている——「視察官が毎朝、市民を戸別訪問し、各人がきちんと起床し八時間の肉体労働をこなすよう監督するといったことを真面目に提案する社会主義者が昨今いるとは考えにくい」。残念ながら、まさにこんなことを提案しそうな社会主義者が今では掃いて捨てるほどいる。どこかで方向を誤ったとした考えられない。(p.120)
オーウェルはワイルドの評論を2つの点で批判した上で、ソ連の現実と対比した際に、何が社会主義として目指されるべきか(つまり個人主義が輝くということ)を指摘した意義を再確認している。
「2つの点で批判」は、今日的なものでもある。
一つは、「もう生産は足りている。あとは分配だけだ」という議論について。オーウェルは、“これはヨーロッパだけしか見ていない。アジアやアフリカなどを忘れているね。まだまだ増産が必要だよ”と述べている。
この問題は、今日、気候危機と関わって、成長を抑制すべきだが、発展途上国にはその権利を認めるべきだという議論と似ている。プラネタリー・バウンダリーが問題になる時代に、生産(=成長)がさらに必要か、基本は富の分配が問題かは、科学が決めることである。問題は、「どちらにせよ経済を制御する仕組みが世界的に必要である」ということになる。これはマルクス主義が提起し解決策を提示している問題であるが、その「解決策」は四角四面な「計画経済」ではなく、現代の資本主義の中に「市場経済をコントロールする各種の手段」として族生しているものだ。
もう一つは、「不快な仕事は機械が何でもやってくれる」という議論について。ワイルドはそのような世界のためには奴隷が必要だが、現代では機械がそれをやってくれるんだぜ、と楽観している。しかしオーウェルは、いや機械で代替できる労働は一部しかないよ、と述べている。
ぼくはもともと、「そんなにあくせく働く必要があるのか? もう生産力はそんなことをしないでもいいくらい高まってるんじゃないの?」という気持ちがある。だから経済の果実を儲けではなく社会のために還元するという社会主義を支持しているのである。
ぼくが高校時代に感銘を受けて、左翼の道に進んだある一冊の本がある。
樋渡直哉という高校教師の教育実践のエッセイのようなものだ。
その中に、チェコスロバキアのアニメで「おくれたさん」というアニメについて書いている文章がある。何をやっても遅刻ばっかりの「おくれたさん」は、寝坊の若者を起こすという適職を見つけて終わる。自分が変わるのではなく、社会がその人に相応しいものを用意したり、社会自体が変わるという結論を樋渡は「愉快」だとした。
それはぼくにとってコペルニクス的転回だった。
おくれたさんは、おくれたさんのままでいい。そのままで心配はいらない。世の中は捨てたものではないとの結びは素敵だ。
日本にも昔はこんな話があった。「三年寝太郎」、「放蕩一代男」「与太郎」。民衆は笑いながら、自分と世界の人間らしさを再発見したに違いない。
定められた時間内に解答がなければ学力はないと判定され、レポートや課題の提出がわずかでも過ぎれば「世の中甘くない」と一喝される。
本当に世の中が甘くないとしたら、そうしたのは人間だ。魔物ではなかろう。ならば皆で甘くしたらいい。甘く楽しい、ゆとりに満ちたおだやかな生活をしたらいい。生産力はそこまでとうに高まっている。古代ローマ帝国の市民は、年間の休日が二百二十日にも及んでいたのだ。奴隷がいたのではないかと言われる。しかし今、機械にコンピュータ、単位面積当たり収穫量の劇的増大があるのだ。
資本論の論理の前に、人間の論理は出る幕を失っている。
(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか 現場からの管理主義教育批判』p.221、1986年、地歴社)
確かに、現時点でAIを含め、機械が何でも労働を代替してくれるわけではない。
今起きているのは、代替できる労働はAIや機械で、現時点で代替できないものに人間の労働力をというシフトである。「現時点で代替できないもの」はおそらく技術の発展で刻々と変わっていく。
ここでも問題は、「AIや機械が代替した労働時間を、資本家が独占するか、社会のために徐々に還元してく仕組みがあるか」ということになる。これも1か0かではない。そのような仕組みが次第に資本主義社会の中に生まれ育っているのである。
ぼくらはワイルドの目指した社会主義を継承するし、オーウェルの懸念もまた継承する。
その上で里程標や地図を作るとすれば、まずは、「すべての人が健康で文化的な最低限度の生活ができるようにすること」だろう。その中に労働時間が含まれているとは思うが、狂乱的とも言える物価高騰が国民を襲っている中で、主要な問題は、まずは「安心できるカネ・モノを用意すること」だろう。
「ダブルワーク、トリプルワークで子どもの面倒が見られないシングルマザー」には労働時間の規制が一見必要なように見えるが、「1日4000円の賃金があれば子ども3人は面倒見られる」という公的な現金給付、あるいはベーシックな住宅、教育、必要なら食事(現物給付)が用意されれば、そんなに働かなくても、一息はつけるのである。
「労働時間かカネか」という二者択一ではないにせよ、重点を置くべき順番を間違えないことだ。
そして、当の社会主義者——例えば日本共産党自身が「個人主義」や「個性」と縁遠い「権威主義」の存在だと思われているうちは、ワイルドのような考え、オーウェルのような批判を乗り越えることはできない。言葉で説明するのではなく、存在自体がそのように映らないうちは、社会主義とは個性を開花させる存在だとは思われないだろう。
少なくとも、組織内で幹部自身や特定の贔屓の人たちの言動だけは「市民活動には干渉しない」などと野放図に許しながら、自分たちのお気に召さない党内の議員や党員についてはその実名・匿名アカウントでのSNSの発信を、党職員を動員して日夜チェックし、それを大量にプリントアウトして「証拠」として突きつけ、密室で1対多数で何時間も説教して「変節」を迫っているうちは、「視察官が毎朝、市民を戸別訪問し、各人がきちんと起床し八時間の肉体労働をこなすよう監督するといったことを真面目に提案する社会主義者」だと思われてしまうのではないだろうか。