『恋人以上のことを、彼女じゃない君と。』1(持崎湯葉・どうしま・胡枩遼)

 一読して双龍『こういうのがいい』を想起する。

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 が、『こういうのがいい』は一種のユートピアのように作られているのに対して、本作『恋人以上のことを、彼女じゃない君と。』の1巻は、少なくとももっとディストピア感が漂っている。

 

 なんというか、犯罪者同士とか、亡命者同士とか、展望のない、絶望的な先に結んだような関係ムードが漂っている。

 えっ、そんなにヤバい感じでもないだろうと思うかもしれないのだが、こういうコマとかには明るさがないのだ。

原作:持崎湯葉 キャラクター原案:どうしま 漫画:胡枩遼『恋人以上のことを、彼女じゃない君と。』1、小学館、p.69

 もちろん「明るさがない」ことは本作への悪口ではなく、むしろ魅力なのである。

 労働や結婚などといった「真面目に生きる」ことの全てに疲れた主人公の一人である女性がつぶやく

ただ心地良いから一緒にいようよ。

ちゃんとしようとか言わないでよ。

楽しいだけでいいじゃん。

というセリフ。これを蓮っ葉にいうんじゃなくて、男に抱きついて崩れそうな、すがる感じで訴えるのが、強烈に背徳的で素晴らしい

 

 

 『こういうのがいい』の二人と違って、『恋人以上のことを、彼女じゃない君と。』の主人公二人は、労働に追い詰められているのである。

 男性主人公・山瀬冬はソーシャル・ゲーム会社のディレクター補佐。女性主人公・皆瀬糸は建築コンサルタント会社の経理。『こういうのがいい』の主人公に比べると業務量の多さをベースにした長時間労働に苦しめられ、それが身体に影響を及ぼしている。

 二人は大学時代につきあっていたが別れてしまった。

 大学時代にただ純粋に恋愛を楽しんだ関係に懐かしさがある。

 そうした後ろ向きで、今の憂さを晴らすような、逃避的で、建設性のまるでない、会って喋って、ゲームをし、飲んで、時々セックスするような、そういう関係である。

 『こういうのがいい』の明るさは、二人の口調の軽さに表れていて、そこだけがぼくは読んでいてどうにも馴染めない。むしろ冬と糸のような「真面目に『いい加減さ』を生きようとする倒錯」の方が馴染みがある。

 サブカル的な破天荒な生き方、世間のしがらみとか知ったこっちゃねえよ! とかいうのでもない。

 日常の労働は真面目すぎるほど窮屈にこなしていて、その合間に、短時間だけ咲くようにできる、いい加減で、ただひたすら心地の良い時空間・関係というのは、大人になって家族を持つようになったぼくのような人間から見るとむしろリアリティがある。これがもし不倫のような物語でもきっと同じようなリアリティを感じただろう。

 

 本作は持崎湯葉ライトノベルが原作であるが、そちらは読んでいない。

 だから、結末がどうなるのかはわからないけど、「糸」と「冬」って合わせると「終」だから、この関係の先行きのなさを暗示してんのかな? いや知らんけど。

 

 

『しょせん他人事ですから』7・8

 裁判に関わるようになったので、身近に弁護士の方と接する機会が多い。

 つい弁護士もののマンガなんかを読んでしまう。

 本作は昨年はドラマにもなったのでそちらでご存知の方も多いはず。

 本作は弁護士のかかわる事件の中でもネットをめぐるトラブルを中心に扱っている作品である。

 最新の7巻・8巻では、男性中年サラリーマンが主人公。プロ野球選手に対する誹謗中傷をSNSで書きまくり、それを抑止するために球団から仕事を受任した弁護士を逆に懲戒請求する扇動を行う。

 やがて、この男性は情報開示請求を弁護士からされてしまうのである。

 

 

 「悪口」をかかれまくっていた選手は、この男性と弁護士を通じて対面する。

 対面した男性は、球団への愛を熱く語り、選手に対しても顔を赤らめながらサインを求めたりするのである。

 

 他の人のブログや動画を見ることがあるけど、そのブログや動画を驚くほど詳細に読み込んで実に熱量あふれる「批判」コメントを書いたりする人がいる。

 そういう他の人のブログに蟠踞している人のコメント群を見たつれあいは、「いや〜…こんなに熱心に読んでいる人、他にいないよね。完全にファン…というか一番熱心なファンでは?」と言っていた。

 よく言われるように愛憎は表裏一体のものなので、そのことはよくわかるんだけど、実際に会ってみるとこの作品に出てくる男性みたいな存在なのかも。*1

 「愛憎は一体のものであり、愛深き故の行動なんだから、実際に会ってみたら気のいい人だろう」…ということはまったくない。ただの一方的な感情の押し付けなのである。この男性は、自分の子どもに対しても勝手な「期待」を押し付け、そうでないと勝手に見放したりするのである。

 選手は最終的に気づきを得る。

自分の想像で他人をコントロールしようとするから苦しいのかも

他人の考えなんてコントロールできないのに

 これは男性に対するコメントではなく、男性から被害を受けてきた自分自身の感情についての悟りである。

 男性に対しても、弁護士は

彼は彼のストーリーの中で生きている

関さんの言う通り

コントロールもできないし

しようとしても無意味なんです

と述べる。

 

「コントロールできない他人」と熟議民主主義の関係

 これは熟議の対極にあるもののように思える。

 その両者の関係をどう評価し整理したらいいのか。

 まず、個人での対応と、社会・組織としての対応とは、違うレベルにあるという整理が必要ではないだろうか。

 個人対個人のレベルで言えば、一応ぼくが今思っているのは「お互いに歩み寄れる人たちの中でまずは話し合ってみたらいいんじゃないか」というほどの結論を得ている。「話し合えない人」というのはどこにでもいるので、そこは待つしかないのかなと思う。個人レベルでは負担が重いので、ミュートやブロック、削除も積極的に活用していいんじゃないかと思う。

 組織や社会全体の対応としてはまた別である。

 容認できない意見も存在を許し、さらに、その多様性が(不快ではあっても)反映される仕組みを作るべきである。「みんなで選挙に行きましょう」とキャンペーンしたら、兵庫県知事選挙のような結果が出てしまった…! となっても、その「不快」さを反映する仕組みがあることはやはり民主主義にとって大事なことだ。

 

「妥協点を探る政治」と「SNSによる全員投票」

 今年の1月8日付の朝日新聞「2025 政治の行方は」という討論記事の中で、同社編集委員高橋純子の次の発言に注目した。

SNSによって選挙が「推し活」みたいになっているが、本来は違う。政治は合意形成であり、妥協だ。自分たちが望んだ答えではないが、全体を考えたらこの程度という「100点は出せない世界」。民意を集約しつつ妥協点を探る、国会審議を通じてそのような姿を見せ、有権者に対する「教育機能」も果たしていかねばならないが、SNSによって目先の人気取りにきゅうきゅうとしている印象をもつ。これが高じると、SNSによる国民投票で政策決定すればいいじゃんと、政治家不要論に抗せない。

 そうだよね、と思う反面で、いやそういう「不快な民意」を遮断する言い訳になってない? という不満も感じてしまう。

 「民意を集約しつつ妥協点を探る」と言いながら、その「探られたはずの妥協点」は、従来多くの人にとって納得しがたいものだった。だからこそ、「SNSでの全員投票」のような民意こそ可視化して突きつけてほしい、とみんな思うのだろう。

 「SNSでの全員投票」のような制度は、「不快な他者」を可視化する。そうすると、熟議側はなぜ「不快な他者」の要求は100%飲めないのかを説明せざるを得ないから、説明して納得してもらう努力をする。世の中は、この「説明して納得してもらう努力」の部分が多分圧倒的に足りないんだろうなと思う。

 「合意を形成し妥協点を探る政治」と「SNSによる全員投票」は、どちらも必要な契機であるが、どう制度設計してその両者を配置するかが肝心である。

 

 どうだろうか。

 こういう整理で行くしかないと思うけど、違うだろうか?

*1:え? お前もハタから見たらそうだって? 違うわ!…と言いたいところだが、人から見たらそうなってしまっているかもしれないことについては常に気をつけたいものである。

最悪の年にあらず

 昨年、すなわち2023年は人生最悪の年だった。と昨年の終わりに書いた。

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 今年はその最悪を更新したか、といえば、そうではなかったのである。

 え? 組織を追放され職まで奪われたのに?

 そうなのだ。

 そして、組織幹部によってズタズタにされた心はまだ戻っていない。依然として通院と投薬は続いている。今でも法廷や日常で彼らと会うことについては不安が大きい。

年越しの準備をする八幡社(愛知県)

 

いろんな人が手を差し伸べてくれたから

 にもかかわらず、最悪でないと思えるのは、一つは、いろんな人たちが手を差し伸べてくれたからである。

 本当に困った時に助けてくれる人こそ本当の友だちじゃないか!

 …というあまりにもシンプルな、道徳の教科書にでも載っていそうな人情が心にしみる。そういう単純な喜びである。

 たとえば裁判支援の「募金」という形で支援を呼びかけてみて、そこに名前が出てくるだけでも「ああ、こんな人が…」とか思う。「100円」を募金してくれる人もいて、そこにも「応援してますよ」というメッセージを感じた。切れ目なく寄せられていて本当に感謝しかない。

 もちろん、それ以外の形で助けてくれたり、声をかけたりしてくれる人もたくさんいる。SNSでちょこっと「いいね」を押してくれるだけでも、あるいは日常の何かのついででも、そういう心遣いが伝わることがあって、その度に感動してしまう。

 困った時にこそそういう情けが普段以上に身にしみるので、日々「じ〜ん」としてしまうことの連続なのである。

 

沈黙を強制されず社会的に公然と声を上げられた

 もう一つは、裁判という形で声を上げることができたからである。

 ぼくの組織追放はそれ自体がぼくの尊厳を奪い去るものであったが、この追放は解雇とハラスメントをともない、その全体が組織内にとどまらない人権侵害であった。

 来年は巳年だが、もし「蛇の生殺し」みたいにさせられていたら、自分はずっと組織ルールを守って生きていっただろうから、かなり長い期間(ヘタをすれば一生)、誰とも交流できないような部署に押し込められたまま、自分が受けてきた仕打ちを沈黙させられ続けたかもしれない。…とか思うとゾッとする。

 裁判というたたかいを起こして、広く社会に訴え、自由に人と交流できるようになって、ある種の解放があるのだ。

 そのような倒錯を感じさせてしまう組織のありよう自体が間違っているのだと言えるし、それがまさに幹部が組織を私物化していることの結果なのである。

 幹部は反省もせず、逆に内部から声をあげようとする人たちをシラミ潰しのように弾圧して回っているようだけど、そういうやり方は長期的には続かないと知るべきだし、そのような内部の圧殺をいよいよ加速する幹部のやり方を見てますます(不本意な始まりではあったが)裁判という外からのたたかいにぼくが立ち上がったことは、自分の生活と尊厳を取り戻すこととあわせ、組織を変えるために一番有効なカードを得たようにも思える。

 そこに集まってきてくれる人たちは、どちらかといえば「こう変えようぜ!」という、社会運動の原初にある、自主的で前向きなエネルギーを強く感じる。ははは、なんだかそういう運動を始めた高校生の頃に戻ったみたいじゃん、と思うことさえある。

 担当の弁護士のお二人をはじめ、たくさんの新たな人たちに出会うこともできたし、これからもそういう予感しかない。

 自分の身の上に起きたことが公然となり、それへの闘いが「裁判」という形になって現れたことで、やはりここでも感動や元気をもらう局面がまことに多いのである。

 だから最悪の年ではなかったと言える。

 

 

 そして、これはかなり重大なことだが、自分の係累にかかわってのことも昨年末に比べて大きく改善した(依然として根本的な心配は除去されていないが)。まあそれは完全にプライベートなこと。

 

 自分が始めたたたかいが、多くの人の期待を担っていることもわかった。

 来年は、さらに前向きになれるようないい年にしたい。

今井むつみ『学力喪失』

 以前(というかもう10年前)、ぼくが無料塾で教えている子*1が「偶数と偶数の和は偶数である」がどうしてもわからない、それをどう教えていいかわからない、ということをブログで書いた。

 

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 その「子」が成人して、ぼくも参加している『資本論』の学習会*2に参加するようになり、なんとまあ素晴らしいことではないかと喜んでいたわけだが、『資本論』に出てくる分数・割合・%が全くわからない。『資本論』には次のような文章が頻出する。

精紡工は、一二時間で二〇重量ポンドの糸を生産するのであるから、一時間で一2/3重量ポンドの糸を生産し、八時間では一三1/3重量ポンドの糸、すなわちまる一労働日中に紡がれる綿花の総価値に相当する部分生産物を生産する。同じやり方で、次の一時間三六分の部分生産物は二2/3重量ポンドの糸であり、したがって一二労働時間中に消耗された労働諸手段の価値を表す。(マルクス『新版 資本論 2』新日本出版社、p.383-384)

この仮定のもとでは、五〇〇人の労働者を一〇〇%の剰余価値率または一二時間労働日で使用する五〇〇ターレルの可変資本は、一日に、五〇〇ターレルまたは6×500労働時間の剰余価値を生産する。(同前p.538)

 ここでは貨幣の単位、分数、パーセント、比、時間単位を自由に行き来できる力がないと読めないことになる。それ自体は簡単な算数でしかないが、そもそも分数がわからなければ、全く読めそうにない。事実、彼はわからなかった。

 彼だけではなかった。

 四大卒の人もいたけど「わからない」である。

 1/2を%になおせる?

 割合ではわかる?

 …わからないのである。

 四大を出ていてもわからない、というのはぼくにとっては衝撃だった。

 その人は共産党事務所で働いていて、共産党は「党員と『しんぶん赤旗』読者の第28回党大会時比『3割増』…を、2028年末までに達成する」という方針を掲げているが、おそらくまともに理解していないのだ。

 

分数や割合ができない子どもたちの話が

 今井むつみ『学力喪失 認知科学による回復への道筋』をリモート読書会で読んだ。

 本書にはそのような子どもたちの現状がまずは登場する(第Ⅰ部「算数ができない、読解ができないという現状から」)。

 

 例えば割り算の理解ができていないことを示す次のような問題への誤答。

250g入りのおかしが、30%増量して売られるそうです。おかしの量は、何gになりますか。

 30%増量…! (さあ、「読者を130%に増やす」という意味がわからなかったであろう、四大や高校を出た彼らは果たして解けるのだろうか?)

 ある小学生は、次のように書いた。

(式)250×0.3=750

(答え)750g

 今井は次のように誤りに至る過程を説明する。

図1-6の誤答例では、30%というのは0.3であることはわかり、問題文にある250と0.3をかけている。「増量」が増やすことだ、ということは理解している。しかし、0.3をかけるとお菓子の量は減ってしまう。「増量」とあるから、減ってしまうのはおかしいことはわかる。だから1桁増やして計算の結果の量を10倍にしてしまったのである。(p.10)

 こうした誤答例とそこに至る思考の流れの解説が正直読み物として面白い。なるほどそう考えるんだ…!という新鮮な発見にもなるからである。

 

従来の教育方法への批判

 第Ⅰ部では、従来のやり方への批判がくり返しでてくる。

大人の側が、学ぶ内容を子どもが理解できない本質を捉えず、局所的な対処療法のみが繰り返し試みられてきたことに尽きる。(p.22)

〔大人の側にある問題の列挙として〕4   子どもの躓きの本質を理解しないまま、わかりやすく教え、その問題を何度も何度も繰り返して解く練習をさせれば子どもは理解し、知識が定着するはず、という信念をもって大人(行政、教師、保護者など)が教育を続けてきたこと。その結果、局所的な対処療法だけが考案され、試みられてきたこと。(p.23)

わからない問題を繰り返し解かせ、繰り返し跳ね返されることは、「わかること」には絶対につながらない。(p.28)

 

問題の究明を読んだ後に感じた不安

 次に第Ⅱ部は「学力困難の原因を解明する」である。

 

 「こんな営業がダメにする」というようなタイプの本をよく読むけど、じゃあ、どうすればいいのかはあまり説得力がなかったりすることがある。

 「ここがダメだよ」はすごく共感する。そうなんだよなーと激しく頷く。

 しかし、どうすればいいかはなかなか出ていない。「ここがダメだよ」を読むポルノになってしまう。 今井の本の場合は算数ができない子どもたちはここが理解できていないんだよ!」という部分がすごく面白い(第Ⅰ部)。

 しかし第Ⅱ部は果たしてここが分かったからといって、一体どういう処方をすればいいのかが不安になった。例えば今井の本書にある「数をシステムとして理解できていない」 ということを教育者側が分かったとしてそれにどんな教育を施せばいいかが問題になるだろう。 

 

記号接地と正しいスキーマの形成…は結構これまでも実践があるのでは?

 本書はその処方箋を第Ⅲ部で示す。「学ぶ力と意欲の回復への道筋」。

人間の記号接地とは、記号を外界の対象に紐づけすることだけではなく、そこから抽象的で本質的な概念に自分で到達していく過程なのである。その過程を経験することが「生きた知識」を生む。(p.232)

どうしたらこれらの概念を接地できるだろうか。まずは概念を、生活経験に紐づけることからはじめるべきである。(p.236)

 「記号接地」というキー概念を使って今井は説明する。具体的にはどのようなことか。

生活の中では、食べ物の取り分け、お菓子の配分、料理での調味料の割合など(例えば三杯酢を作るのには、酢・醤油・みりんの割合は1対1対1、濃縮ジュースを希釈して飲むときの基本は原液1に対して水4倍くらいの割合だが、濃い味にしたければ水の量を減らし、薄くしたいときはそれより多くして調節するなど)。こういう経験は、多くの子どもにとって学校で高い壁となっている分数や割合の概念を接地するための基盤をつくる。(p.236-237)

 ここで今井は磯田道史が小さい頃に自宅で古墳を作ったという例を紹介する。100mの古墳を200mにすると8倍の土が必要になることを磯田は体験し、長さと体積の関係について体感したという(p.237)。

 これは…?

 まさに、戦後の(左派系)教育学の中でいろいろ議論されてきた「経験と概念の分離」の問題ではないだろうか?

 この問題は前に以下の記事で書いた。

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 前近代では、職人などがそうであったが、概念は経験と一体に生まれてきた。しかし、近代になり、学校教育が始まると大勢の子どもたちが経験をしないままに概念を知るようになっていく。このような「概念と経験の分離」が大規模に起こるのが近代の特徴である。

 マルクスは生産的労働と教育の結合を、教育の未来として構想したが、マルクス主義的な教育学、戦後の民主主義的な教育学はその意味をずらしていき、生活体験にもとづく学力といった実践を主張するようになる。

 

 何が言いたいのかといえば、今井は本書の初めで、これまでの教育の実践ではほとんどこうしたものは行われてこなかったかのように書いているのだが、いやそんなことはないんじゃないのか、今井が紹介しているような生活の実感・遊びの実感に基づいて概念を紡ぎ出していかせるような教育実践は、教育運動や教員組合の教研集会の実践の中で無数にあるんじゃないのか、ということを強く思ったのである。

 じゃあ具体的にどんな実践があるのか指摘してみろよと言われると、いやたぶんいっぱいあるんじゃないの、というめちゃくちゃ曖昧な話なんだけど。

杖立温泉(熊本県

教える内容が多すぎる問題が解決しないと今井の処方箋は活かせない

 ただ、そうであるにしても、今井の出している処方箋の方向は正しいとぼくも思う。

 ある種の生活感覚を基にして、自然観・社会観に関するスキーマ(経験から導き出した暗黙の知識の塊)をその子どもの中に形成させていくことこそが、分数や割合のような知識を自由自在に使いこなす基礎になるように思う。

 今井は、これにゲーム要素を加味したフルプレイ・ラーニングという実践も提唱している。

記号接地が難しい抽象的な概念の接地を定着させ、身体化するところまでもっていくには、多様な形で楽しみながら概念を使う練習をすることが必須なのだ。…これまでの教育実践ではその観点が足りなかったように思う。(p.255)

 一例として時間概念によるフルプレイ・ラーニングを紹介している。

 ふだんは10進法に慣れている子どもたちは、そこに1時間=60分という60進法が入ってくると混乱してしまう。「わかっているつもり」の子どもでも、つい410分を「4時間10分」とか「4時10分」とかと混同したりしてしまうのだ。

 1時間=60分の六角形、30分の台形(六角形の半分)、20分の菱形、10分の三角形(20分と10分を合わせると30分の台形になる)のピースを使ってゲームをするのであるが、間違えていても大人は正さない。ゲームをしているうちに自分たちで気づくようにさせる。

失敗は学びにとても大事だ。これはきれいごとではない。認知心理学的にとても意味のあることなのだ。学習科学で今とてもホットな話題は「プロダクティヴ・フェイラー」という理論だ。…自分で考えて、仮説を立てたり予想をしたりする。実験などで実際に試してみて誤りだとわかる。するとその経験は通常よりも深く記憶に刻まれ、失敗しなかったときよりも高い学習効果が得られる。(p.251)

 これは前述の料理における「三杯酢」のような生活実践とともに、かなり根気のいる実践である。

 そこで一つの問題、というか、今井の主張する実践を成り立たせる前提のようなものが見えてくる。

 それは、記号接地をして正しいスキーマを子どもたちの中に育てるためには、かなり十分な時間と余裕が必要である、という問題である。

 この問題は「教えることが多すぎる問題=学習内容の精選」問題だとも言える。

特に昭和五十年代の教育課程の改訂は、学校生活における「ゆとりと充実」の実現を目指すものであった。それまでの教育課程が科学・産業・文化などの進展に対応して、教育内容の充実を図り、国際的にも高い学力水準を達成させたが、反面、学習内容の量的な増大を来し、また程度も高くなり過ぎているとの指摘を招いた。五十二・五十三年の学習指導要領の改訂は、このような状況を改善するために行われたものであり、知識の伝達に偏りがちな状況を改め、自ら考え主体的に判断し行動できる児童生徒の育成を目指して、教育内容の精選と授業時数の大幅な削減が行われた。

https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318311.htm

 俗に「ゆとり教育」といわれるものである。この学習指導要領の第4回改訂(1977年)から第6回改訂まで(2000年)のうち、学習内容を精選する方向性は間違っていないように思うのだが、一体これは文部科学省としても、そして教育学としてもどう総括されているのだろうか?

 ぼくの素人考えでは、この時代の精選の度合いは、まったく生ぬるいもので、もっと徹底して精選すべきものであった。余計なことを教えすぎなのである。もちろん、今はこの時代よりもさらに多くのことを教えるようになっているのだろうから、いっそうひどい状況になっているはずである。

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 今井が提唱しているような記号接地や正しいスキーマの形成というものは、本当にゆとりがあってじっくりと付き合うような余裕がなければ生み出されないものだろう。

 最近中央教育審議会の答申が出た。

news.yahoo.co.jp

教える内容が減らないまま授業時間が短縮されれば教員の負担感が強まりかねず、現場には工夫が求められそうだ

 内容の精選に踏み込まないままの時間の削減は全く小手先の負担軽減でしかない。

 

 

「ざっくりとわかる」という直観を育てる

 学びはどこに導かれればいいのだろうか。

 記号接地して、正しいスキーマを形成するとは具体的にどんな状態なのか。

 ぼくは少なくとも小学生・中学生については、直観(直感)によってざっくりとした答えの見通しが持てるという身体化ができるようになることではないかと思う。つまり細かい知識ではなく、一定の(正しい)自然観・社会観がその子どもの中に備わるということだ。

 これは今井の次の記述に対応している。12/13-11/12の引き算の答えで一番近い整数を求める問題について

正解した子どものほとんどは、直観的に一瞬で解いていた。(p.205)

 これは12/13と11/12を通分するという記号操作をするのに手間取るのではなく、どちらもだいたい1だと瞬間に判断することが必要であり、それは初歩的な分数についての正しいスキーマが頭の中にあるからである。

この量的直観こそ、実は、中学・高校で数学を学習していくために不可欠な要素なのである。(p.206)

 ぼくは、実はこれこそが本書のキモではないかと思っている。これは数学に関してのみのものだが、正しいスキーマが育っていると、「だいたいこんな感じかな」というものがざっくりと得られる。

 無料塾で教えていた時、数学や算数の問題を解かせると、あり得ないような大きい/小さい答えを出してしまう子がいたが(うちの娘もそうだった)、それは、算数や数学を「記号操作の手順」としてしか理解せず、それを間違えるためにケタ違いの誤答が出てきても全く不思議に思わないのである。(本書でもそういう例が登場する)

 

 社会観においても例えば日本国憲法第54条は

衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。

と定めてあるが、例えばテストで「衆議院が解散されたときは、解散の日から何日以内に、衆議院議員選挙を行わなければならないか」と問うのは愚かしい質問ではないだろうか。そんなことはスマホで調べればいい。それよりも、内閣が不信任を突きつけられた時に、どっちが正しいか、国民に聞いてみようじゃないかといって衆議院を解散して選挙で聞いてみる、という民主主義の大雑把な仕組みを知ってもらうことこそが大事なのだと思う。

 そのような「大ざっぱな自然観・社会観」を育てることに義務教育は使われるべきだろう。

杖立温泉(熊本県

深刻な人権問題が起きているという認識を教育行政は持て

 「学校の授業がわからない」「わからないことが積み重なっていって、わからない時間がえんえんと続いていく」というのは子どもにとってもっとも深刻な問題だと思う。学校に通う子どもの人権の中核をなしているといってもいい。

 しかし、そのようなことは「子どもの権利」としては認識されていないし、子どもたち自身も、自分たちに起きている深刻な人権侵害とは決して認識されないように仕組まれている。

 SDGsのターゲットの一つ、

4.1  2030年までに、全ての子供が男女の区別なく、適切かつ効果的な学習成果をもたらす、無償かつ公正で質の高い初等教育及び中等教育を修了できるようにする。

4.6  2030年までに、全ての若者及び大多数(男女ともに)の成人が、読み書き能力及び基本的計算能力を身に付けられるようにする。

に反することをあなたたちはされているんだよ、とは誰も教えてくれないだろう。

 福岡市の小学校・中学校は、AIを用いた教育やデジタルを用いた教育に熱心なようだが、本書でそうした方向性への警告が最後になされている。あくまでそれは補助であって、肝心の記号接地や正しいスキーマの形成が多くの子どもたちの中で放置されている問題を置き去りにしている。学習内容を精選して、じっくりとした対応ができるようになることを、教育委員会がどうやって保障していくのか、そこに腐心すべきである。中央のいうことにヒラメのように従っているだけでは、多くの子どもたちが人権を侵害されたまま取り残されていく実態には全く無力でしかない。

*1:ちなみにこの「子」はその後高校に合格し、今は成人してぼくが参加してきた『資本論』学習会にもきていた(その学習会は弾圧により解散させられたのだが)。

*2:この学習会は共産党幹部の激しい弾圧により潰されてしまった。

今井雅子「涙のエスニックおせち」

 脚本家・今井雅子が「しんぶん赤旗」でエッセイを連載している。

 今日付の今井のエッセイは「涙のエスニックおせち」。「十年あまり前の大晦日、夫の実家で鍋を囲んでいた」という状況を描いている。

 冒頭に、義母と自分の会話を描く。

 義母と自分の関係がドライであることを、会話から伝える。

 義母はねちねちと嫌味ったらしい感じではなく、サクッと皮肉を言ったり、矛盾を突いたりする、そういうサバサバさがある。他方で、今井の方も、それに過剰に突っかかるというほどはないが、負けじと言い返すタイプである。

 おせちを作らないといけないので帰る、と今井は宣言する。義母は皮肉とも驚きともつかぬ調子でおせちなんか作るの? と聞き、今井は作りますよと意地を張る。しかし本当はおせちなど作らないのである。

 そこに義母が一言。

 

 「エスニック?」

 次の瞬間、涙がダバーッとあふれた。アニメ脚本のト書きで「滝涙(たきなみだ)」という表現がある。キャラクターの目から滝のように涙が流れる様子を指す。アニメならではの大げさな表現だと思っていたが、リアル滝涙に我ながら驚いた。

 もし、「本当に作れるの?」と挑発されたら、「おせちくらい作れますよ!」とムキになって言い返したはずだ。ところが、不意打ちの「エスニック」に緊張が緩み、隙ができた。そこに涙が流れ込んだ。予定調和を崩して会話にメリハリを生む「ずらし」の手法。これを義母は無意識にやってのけだ。「あなたがおせちを作るとしたら、さぞ風変わりでしょうね」というスパイスも利かせ、お見事である。

 あの日のわたしには「エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます」と笑い飛ばす余裕はなかったが、今は講演や脚本講座でネタにしている。

 

 脚本の技法としての「ずらし」として興味深いとともに、日常の会話やコミュニケーションの一つの手法としての「ずらし」にも思いが及んだ。会話の緊張を緩ませて隙をつくる上で、こういう手法があるのかと。(ただヘタにやると、相手をいっそう激怒させそうではある。)

 義母にキレてかかるのでもなく、涙を滂沱と流したあたりも、今井が本当にテンパっていたのだということが伝わり「姑vs嫁」ではなく、やさしく同情や共感を誘う文章に変わる。文章としてだけでなく、実際にその場に居合わせたら、「大変そうだな…」という思いを、側に居て思ったに違いない。

 そして時間が経ってみれば「あの日のわたしには『エスニックおせちって、お義母さん面白すぎます』と笑い飛ばす余裕はなかった」という総括もできる。対立で頭がいっぱいの今にはあまりそういうことを考えられないだろうが、やはり寝かせておけばそういう感情を持てるんだろうかと、ふと裁判をたたかっている身として思いがよぎる。

 

 とまあそんなことをあれこれ思いいたさせるエッセイであった。

熊本県・杖立温泉の紅葉橋

 

永田カビ『これはゆがんだ食レポです』

 もうすぐ雑煮の季節だ。

 雑煮といえば、モチがどういう状態なのかが気になる。

 というのも、ぼくは雑煮に入っているモチがグダグダに煮崩れてもうスープと一体化しているかどうかというくらいのやつが大好きなのだ。

 そんなぼくが永田カビの本書『これはゆがんだ食レポです』を読む。

 その中に

麺が極限に汁を吸い切って ぶよぶよにふくらみ ふやけ 汁がほぼ無くなった状態こそ 私のカップ麺におけるベストな状態である(もちろん冷めている)

他にも基本的に水分を吸った炭水化物が好きだ

などという記述があり、「サンドイッチのレタスやトマトの汁を吸ってぶよぶよになった食パン」への愛などが語られている。

 これは職場に昔いた人で、カップ麺を食べていて電話の応対をして戻ってきたら麺が器からはみ出すほどに膨張していて「汁、誰か飲んだー!?」と騒いだという「伝説」が残されているのだが、もちろんそれはめちゃくちゃな振る舞いとしての話なのであって、決して「自分の好み」の話ではなかった。ところが、永田にあっては、この「ぶよぶよの炭水化物」が彼女の食品愛なのである。

 ただ全く理解できないかといえば、冒頭のようなモチの嗜好がぼくにもあるので、決してわからないわけではない。煮溶けてしまったもの、境界がわからなくなりつつあるものの美味しさというものは確かに存在する。

 

 本書は実は、過食嘔吐をする永田の「ゆがんだ食レポ」である。しかし、過食嘔吐の具体的記述は最初にはほとんどない。

 初めは、アルコール依存になった時の食生活の様子が書かれているのだが、食事と一体にひたすらハイボールを飲み続ける有様は、はっきり言って「あ、美味しそう」と思ってしまう描写なのである。

 特に朝起きて「磯丸水産」に行き、まずハイボール赤海老の串焼きを注文している様子などは、あ、ちょっとやってみたいと思える。

 ぼくはハイボールはあまり飲まないのだが、永田はひらすらハイボールで、それが青さ入り卵焼きのようなものと一緒に飲んでいるので、とにかくぼくには美味しそうに見えた。

 

 次のぶよぶよの炭水化物は上述の通りであるが、これは自分の「煮溶けた雑煮」のことを思い出して、たぶん似たような話なんだろうなと想像する。

 そして、その次は「弁当用冷食1パック一気食い」。

 いつも娘の弁当に入れているのでお世話になっている。春巻きなどはうまそうなんだが、それ以外は、もちろん美味しいとは思うが、「一気食いしたい」というような衝動に駆られたことはない。いや、普通のつまみでええやん…としか思えないので、このあたりから、永田と読者たるぼくの間に次第に距離ができ始める。

 そして、無限に実家のカレーと実家のスパゲティを食べ続ける話。

 ここからももう理解不能な領域に入る。

 だんだん薄気味悪くなってくる。

 そして最後の方は、過食嘔吐しやすい食べ物&料理の探索。もうここは本当に「みてはいけないものをみる」というホラー的な興味で読む。

 前にも書いたかもしれないけど、「嘔吐」という行為は、ぼくによって本当に気力も体力も奪われるもので、下痢などと比べると格段に嫌悪感のハードルが上がる(汚い話ですいません)。

 そんなものをするために目を輝かせながら食事を描くこと。なんという歪みだろうと思わざるを得ない。

 

 こんな作品を世に出してはいけないのではないか、という読後感をもって終わろうとした最後の章で、永田の心情が吐露される。

ズバリ 食べ物をおしいく食べられていて

そして吐けていればそれでOK!!

と思っている

 

ちなみにこれは昔お世話になった摂食障害専門のカウンセラーさんも同じようなことをおっしゃっていた

「苦しまずに吐けていればそれで良いんですよ」

 つまり症状自体の苦しさだけでなく、自分を責める苦しみ、他からの理解の得られにくさを抱える病気なので、幸福感が得られない。しかし、どんな状況であれともかく「食べ物が美味しい」と思えるのであればそれは一歩前進なのではないかという理解なのだ。ハームリダクション的なものだろうか。

 

 もちろん、「摂食障害専門のカウンセラー」の意見として書かれているからと言って、これは摂食障害への付き合いとして普遍的に正解かどうかはわからない。一応本書にはエクスキューズが入れてあるのだが、それがあればいいんだろうか、とも思ってしまう。

 要は「だって永田カビの本に書いてあったもん!」ということで言い訳にしないでほしい、自己責任でこの本を読んでほしい、ということなのだろう。

 そういうわけで非常に危険な本であるが、そういう危険な本として「魅力」を感じずにはいられないものであった。

 

(本書は双葉社様からご恵投いただきました)

田村智子の描く共産主義の企業形態と「おひさま進歩エネルギー」

 24年12月22日付「しんぶん赤旗」に共産党の田村智子委員長の共産主義についての講演が載っている。

www.jcp.or.jp

 この中で

 田村氏は、“もうけ競争”の利潤第一主義から自由になるには、生産手段の社会化が必要だとし、その形は多様だとのべました。

 田村氏は本紙連載(12日から全8回)の再生可能エネルギー事業「おひさま進歩エネルギー株式会社」(長野県飯田市)に注目しました。

 住民が出資して太陽光パネルを設置し、利益は地域に還元しています。「利潤第一主義とはまったく違うもの。生産手段の社会化の一つのヒントになるのでは」と提起しました。

に注目した(正確には京都大学大学院教授の諸富徹へのインタビュー)。

 この連載はぼくも同じように注目していた。

 というのは、「おひさま進歩エネルギー」は「協同組合」や「NPO」ではなく、「株式会社」だとしたからである。諸富の話によれば、初めはNPOであったがそれを株式会社に変えてる。利潤追求を第一原理におく組織形態をわざわざ採用しており、諸富はそのことをこの事業の枠組みの重要なフレームとしてあげているのだ。

 田村のまとめ方では、協同組合やNPOのようなものでもいいような気がしてくるのだが、諸富の話によれば、補助金や寄付ではなく、ビジネスとして成り立つ(自立する)という点を重視するために株式会社という形態が必要だったことがわかる。

 つまり「儲け話」として他企業や人が自然と寄ってくる、という点が重要だと思う。この点について「それは資本主義下の制約だ」ととらえるのか、社会主義の下でも生かされる枠組みだと考えるのかで、このモデルへの評価は大きく変わる。

 

 ぼくは、社会主義の下でも、市場経済の存在はもちろんことの、株式会社などの多くの私企業が存在し、そこでは競争による利潤追求が行われると考える。そして、個々の企業を見れば相変わらず株主への配当などの形で利潤第一が貫かれている場合も少なからずあるだろうと思う。

 問題は、社会として、そうした私企業のあり方にどのようにして利潤第一主義を抑える仕組みを絡ませていくか、ということだ。

 企業としては利潤第一主義で儲けてもらった上で、「あがり」、つまり利潤を税金の形で社会が一定取り上げて再分配することも、生産手段の社会化の一つの形態である。

 あるいは、この「おひさま進歩エネルギー」のように、住民が参加したり、住民や地域に利益を還元する仕組みを、自主的運動として下から関与させることもあろうし、ある程度支援する制度を作ってそれを応援することもあるだろう。このような社会の仕組み全体が生産手段の社会化であり、利潤第一主義の制御のはずである。

 

 逆に言えば、田村の答え方は、あいも変わらず、生産手段の社会化を、やれ国有化だ、協同組合だなどといった企業形態だけに執着して見てしまう見方を離れていないように思う。

 別の言い方をしてみよう。

 確かに自然エネルギーのような分野では、こうした住民参加や地域還元というのが、ビジネス段階から想定しやすいのだが、それ以外の分野でもこうした形ができるのかどうかはよくわからないはずなのだ。例えば豆腐を作るビジネスで、生産手段の社会化において、同じようなことができるだろうか? 

 ここは田村にも共産党にももっと議論を深めてほしい点である。

熊本県小国町の温泉を利用した蒸し場(杖立温泉)

自治体が一企業にプラットフォームを委ねられるのか

 このこととは別に、飯田市の担当者が、市として一企業にゆだねるようなやり方をしてしまっていいのだろうかと諸富に相談するエピソードがこの連載では紹介されているのにも注目した。

 一つの自治体が、あるエネルギーという分野の事業において、一つの株式会社をプラットフォームにして住民が参加し地域に利益を還元させる仕組みを構築するというのであるから、共産党の地方議員団の中には「けしからん!」と猛反対する向きもありそうだ。

 しかし諸富は別にそれもアリだと答えているのである。これはぼくもびっくりした。

 残念ながら、連載の紙面では「それはなぜなのか」という理屈があまり詳しく書かれていない。この点についてはぜひ続報を待ちたいところである。あるいは「前衛」や「議会と自治体」誌などで詳しく論じてほしい。

 

 そして、共産党の地方議員はこうした取り組みこそ、自治体に持ち込むべきだし、また党員はこのような取り組みにこそ参加して新しい形での大衆運動を広げていくべきではないだろうか。

 

 田村ほど普遍的な意味ではないが、こうした取り組みのひとつひとつが、社会主義のパーツを構成していくことは間違いないのだから。