共産主義では労働時間の抜本的短縮がどうして可能なのか

 どうして共産主義では労働時間の抜本的短縮が可能になるのでしょうか。

 いろんな説明があります。

 

3つの説明

 一つ目の説明。労働時間が「必要労働時間」(自分が生きるための衣食住を生産する労働)と「剰余労働時間」(それを超える分)に分かれ、「剰余労働時間」を搾取されることで「自由に処分できる時間が奪われている」という説明です。だから、剰余労働時間を短くすればいい、というのがこの説明の答えです。

 

 二つ目の説明。

  1. “搾取がなくなり社会の構成員が全員生産に参加するので労働時間が短くなる”
  2. “資本主義特有の浪費がなくなりその分は労働して生産しなくていいから、時短できる”

 この二つの条件を挙げて説明をする場合があります。

 1.は搾取者=資本家が生産活動に参加するという意味です。

 2.は恐慌による破滅で商品が不要になるとか、大量生産・大量消費を煽る売り方とか、ひんぱんなモデルチェンジとか、カジノなどの社会的に害悪のあるサービスや財を売るとかです。証券業などの金融部門をこの「資本主義的な浪費」として数え上げる人もいます。

 

 三つ目の説明。生産力が上昇すると資本主義では労働者がリストラされるけど、社会主義共産主義ではそれが時短に使われる、という説明です。不破哲三は、自分が鉄鋼労連で働いていたので鉄鋼の話を例にして、生産力の上昇を時短に使うと、鉄鋼だけなら労働時間を今の5分の3に減らせるとしています。

 

3つの説明の検討(1)

 一つ目の説明について。

 もし剰余労働をすべて労働者のものにしてしまえばいい、その分を全て自由に処分してしまえる時間だと思ったら、それはとんでもない間違いです。

 社会・経済の実態から言って、労働者の労働が社会のすべての富を生み出しているのだとしたら、労働者が生活する分だけを生産したらもうそれで他の富はつくらない、なんていうことになったら大変です。

 

 大ざっぱな話ですが2022年の雇用者報酬=労働者の給料だとしてそいつは288兆円、GDP全体は549兆円ですから、労働者の給料以外は全部自由時間(つまり労働しないこと)にしたら、GDPは半分になってしまいます。

 マルクス

剰余労働一般は、所与の欲求の程度を超える労働として、つねに実存し続けなければならない(『資本論』第3部第48章)

と言っていて、搾取をなくしても剰余労働は存在すると述べています。剰余労働をゼロにしろとは言ってません。

 当たり前です。

 剰余労働は資本家自身の個人的な消費や楽しみのためだけにあるわけではないのです。

 それは社会のために使われています。

 具体的には、労働者が作り出した富は、利潤だけでなく地代や利子となります。現代ではそれだけではなく、かなりの額が税金や公金として国家や自治体に持っていかれて(それは労働者からも持っていかれます)、年金とか公共事業の原資になります。

 マルクス自身も『資本論』の同じ箇所で不慮の出来事の保険、高齢者・子どものための必要分、拡大再生産などのために剰余労働は必要だと書いています。要するに、社会保障だとか、社会資本(公共事業)だとか、安全や治安だとか、欲望の発達(文化活動や社会の水準の向上)などの経済の計画的な拡大のために、「衣食住=給料分だけでいい」とは絶対にならないからです。

 一つの目の説明では、搾取分を全部時短に回すことになり、社会保障や生活向上、蓄積の原資はどうなってしまうのか、全然考えていないのです。

 まあ、こういう単純な理解をしている人はいますけど、そういう説明を大真面目にしているような共産主義者はいません! …たぶんいないと思う。いないんじゃないかなあ。ま、ちょっと覚悟はしておけ。

 

 二つ目の説明について。

 これはマルクスを典拠にして説明されることがあります(『資本論』第1部第15章、『資本論』第3部第48章および『資本論草稿集』7)。

 マルクスの『資本論』第1部第15章では、今の生産力・経済力のままであると仮定しています。*1つまりこの二つ目の説明は「今の生産力水準を前提としたら」という条件をつけているのです。うーん、その前提、要るんですかね。

 見ていきましょう。

 具体的に言えば、2022年のGDP549兆円の経済水準と仮定して、という意味です。

 「2022年のGDP549兆円の水準でも労働時間の抜本短縮ができる」という意味だとすれば、それが1.や2.で可能になるでしょうか。

 1.を考えてみます。

 1.とはつまり「搾取者である資本家が就業者数に入る」という意味でしょう。

 搾取がなくなる→社会のすべての構成員が平等に生産活動に参加するようになる→一人当たりの労働時間は大幅に短縮されるようになる…ということです。

 マルクスは『資本論』で資本主義のもとでの剰余労働を「剰余労働の敵対的形態」として、資本家を想定して「社会の一部のまったくの無為」であると呼び、社会主義では「労働しない人々〔資本家や利殖生活者〕の扶養のための労働はいっさいなくなるであろう」と述べています。

 マルクスはこう書いたけども、それを現代でそのまま適用できるでしょうか。

 できるって?

 それはあの…豊田章男がラインで働けば時短になる、という意味なんでしょうか? まあ、それは極端だとしても、資本家階級が生産労働人口に入るから短い時間でGDPが達成できる、という意味のように聞こえます。うーん、しかしそんな未来図はあまり想像できないし、それで時短が起きるというのはあまり現実的じゃないと思います。

 橋本健二(『新・階級社会』)によれば資本家階級すなわち経営者・役員は254万人います。でもこの人たちは就業人口に算入されているんですよね。就業人口の4.1%を占めています。つまりすでにGDPの計算に入っているのです。

 利子・配当生活者というデータがあるんですが、これが全部利子・配当だけで生活している人だとしても、その総数は23万人です。

todo-ran.com

 これらの人が全部働くようになったとしても23万人ですよ…。

 例えば日本の就業者数って、2001年は6412万人で2012年には6280万人、2024年には6766万人に増えているんですよね。300万人の増加です。

 これは高齢者や女性が働きに出るようになったからです。

 つまり、「社会の一部のまったくの無為」を働かせるよりも、単純に人口の減少とかのほうがはるかに大きな要因ですし、高齢者や女性が働きに出るとか、そういうことのほうが現実的じゃないんですかね?

 

 2.はどうでしょうか。“資本主義特有の浪費がなくなるのでその分時短できる”っていう話ですね。

 社会的に不要な部門に資源を回す必要はないから、そこを切り捨てて必要な部門にまわせ、というのは、現代の経済政策でもよくある話です。

 例えば、大阪万博なんかにヒト・モノ・カネを投じるんじゃなくて、能登半島の復興に回すべきだ! みたいな議論です。

 これはこれであるとは思います。どこが不要で、どこが必要かは、公共的な事業ではあらかじめ人為的・計画的に、ある程度判断ができるでしょうし、現在も行われています。

 でもこれは、どこかの不要部門の資源を切って、必要な部門に回せという話じゃないんです。労働時間抜本的短縮の話なんです。つまり、ある部門をバッサリ切り捨てたら、その部門の財・サービスを生産するために社会は何もしなくていい、という、そういう話なんです。切った代わりに他の財やサービスを生産したら意味がないのです。

 例えば万博のようなムダづかいイベントを切るとします。でも、介護に人が足りない、医療に人が足りない、水道管や橋梁の老朽化を改修する原資がない……そういうところに資源を回さないといけません。

 だから、浪費部門をなくせばある程度は時短に回るとは思いますが、限界があると思います。

 生産の無政府性に基づく「浪費」はどうか。

 これは、例えば各企業がバブルに踊らされて熱狂的な生産を行い、ついに恐慌による破局を迎えて、それらが一切に売れなくなり廃棄せざるを得なくなる…というような想定です。(恐慌のような破滅的な姿をとらなければ、市場経済のもとで価格による調整が行われ、最終的には商品は売れることになります。)

 しかし、そうした恐慌がどれくらいの頻度で起こり、また廃棄量がどれくらいなのか、そして、その解決方法としてかつてソ連がやっていたような一元的な計画経済がいいのか、市場経済のもとでマクロ的な調整を行うべきなのか、そして一番肝心なことですが、それによってどれくらいの労働時間が削減できるのかはわかりません。

 前述のとおり、生産力は現在の水準を前提にしていますから、ここでもやはりある程度は時短に回るとは思いますが、限界があるということになってしまいます。

 大量生産・大量消費・大量廃棄の見直しはどうでしょうか。

 確かに儲けのために不必要な大量生産・大量消費・大量廃棄をあおる資本主義の生産・消費スタイルは見直されるべきですし、見直されていくことになるでしょう。しかし、問題は大量生産・大量消費・大量廃棄が見直されたとして、その部分に費やされていた経済資源が引き揚げられ、その生産が不要になることで労働時間の抜本的な短縮に結びつくのか、ということです。

 前述のとおり、ここでも生産力は現在の水準が前提です。

 今の日本の家庭ごみので一番量が多いのは紙ごみ(雑がみ)ですが、こういう紙ごみやプラスチックごみが、現在の生産力水準を前提とした上で、資本主義的な生産関係を改革することでどれくらい浪費が見直されるのか、それによってどれくらい労働時間が短縮されるのかはわかりません。頻繁なモデルチェンジを止めるということも同様です。ここでもやはりある程度は時短に回るとは思いますが、限界があるということになってしまいます。

 また、この話をするときに、証券業などの金融部門の大半を「不要なもの」だとしてこれを社会としての浪費部門だとみなす向きもありますが、それは本当にそうなのか、金融部門のどこまでが社会的な無駄=「浪費」と言えるのか、大半をなくしてしまって社会や経済は回るのか、などについては、社会合意もないし、科学的な見通しもありません。いずれにせよ「金融部門のリストラによって、その部分は社会資源を使わなくてよくなるので労働時間の抜本短縮ができる」などというのは、相当乱暴な見通し、非現実的な想定だと思います。

 

 二つ目の説明のイメージというのは、資本家の労働参加(1.)と浪費部門のリストラ(2.)ですよね。

 GDP549兆円はa労働人口×b労働時間×c労働生産性で計算されます。

 GDP=abcです。

 労働時間を半分にすることを目指すなら、0.5bですよね。

 aがプラス300万人(資本家階級300万人が新たに労働者として生産に加わる)だとしても、プラス4%くらいなんですよね。つまり1.04aです。

 1.04a×0.5b×c=0.52abc

 やっぱり浪費部門をGDPの半分くらい無くさないといけない。……いやぁ、無理あるっしょ。*2

 もちろん労働時間の抜本的短縮は半減じゃなくて2割削減(週労働日5日を2割減らすっていうことは週4日働くようにすること→週休3日制の実現)でいいということになれば、浪費部門の削減も2割カットでいいわけですが…。それでもGDP2割カットなのです。想像しがたい。*3

 ごちゃごちゃ書きましたが、要するに「搾取者が生産に加わる」という効果はまあ、無視していいレベル。「浪費部門を経済全体から削ぎ落とした割合≒社会全体が労働時間を短縮できる割合」ということになります。3割時短したけりゃ、GDPの「ムダ」を見つけて経済を3割マイナスする。5割時短したけりゃ経済のムダを5割減らす。そういうことです。

 ヒジョーにキビシー!

 

 結局この二つ目の説明は「今の生産力水準を前提にして時短をするとしたら」という仮定を置いているので、それが説明に無理を生んでいるように思われます。

 

3つの説明の検討(2):三つ目の説明が一番自然

 三つの目の説明について。

 この解明が一番自然だと思います。

 不破哲三は2004年に若い人(民主青年同盟)を相手に行なった講演で次のように述べています。

 私は、日本共産党の本部の仕事に移る前、鉄鋼労連という労働組合に十一年ほどいましたから、そこで親しみのあった鉄鋼産業での発展を追ってみました。

 調べてみると、日本の鉄鋼の生産量は、一九六〇年から二〇〇一年までの四十一年間に、二二一四万トンから一億〇二八七万トンに、四・六倍に増えました(粗鋼生産量)。ところが、労働者一人当たりの生産量は、同じ期間に、七四トンから五七六トンに、七・八倍に増加しました。生産力がそれだけ発展したのです。

 生産量の増える割合より、一人当たりの生産量(生産性)の方がより急速に増えたということは、資本主義のもとでは、その分だけ、労働者の数を減らすことができる、ということです。実際、生産量は四・六倍にも増えたのに、鉄鋼産業に働く労働者の数は、この期間に、三〇万人から一八万人にまで減らされました。

 では、生産力が発展したという条件を、労働時間の短縮に活用したら、どんな結果が生まれるかを、考えてみましょう。生産性が七・八倍になったんだから、労働時間を七分の一にしろとは言いません。労働者を減らさないで、三〇万人という数のままで、一億〇二八七万トン(四十一年前の四・六倍)の鉄鋼が生産できる、という計算になります。これは、週六日の労働を三日半に減らせる、ということです。〔…中略…〕

 資本主義社会では、生産力が上がったら、その分だけ労働者を減らして、職場に残る労働者は、これまで通り目いっぱい働かせる、それで社会の失業がひどくなっても、仕方がない、というのが、当たり前の理屈になっています。生産力の発展を、労働時間の短縮に活用するなどという考えは、利潤第一主義からは生まれてこないのです。

 社会が生産手段をにぎって、社会全体の利益、人間の生活と発展を第一とする未来社会では、そのおおもとが違ってきます。生産力が発展したら、その条件を、社会の富をより豊かにする目的にどれだけ活用するか、そして労働時間を減らして労働者の自由時間を増やす目的にどれだけ活用するか——そういう段取りを計画的に組めるような仕組みが生まれてくるのです。(不破「新しい世紀と新しい綱領/『報告集 日本共産党綱領』所収、p.258-260)

 これが一番しっくりきます。

 例えば、AIなどの各種技術革新が導入されると、労働者が仕事を失うかもしれない、という不安は今世界中を覆っています。(下記記事が「社会主義」を標榜する中国の話だというのはまことに皮肉な話ですが、ここではまさに資本主義的な関係そのものですね。)

www.fnn.jp

 生産力の上昇は今後必ず起き、ある意味で無限なわけですから、これから労働時間の抜本短縮を展望できることは無理な話ではありません。

 そして、これは遠い将来の話ではなく、資本主義のもとでも同じ労働時間でたくさんの経済価値を生み出せるようになれば、その分を労働時間の短縮に使うということもできるし、時短ではなく社会保障の原資としてもいいわけですし、労働者の生活向上——つまり賃上げに使ってもいいわけです(資本主義下では大闘争が必要ですが)。

 ただ、日本共産党関連の文献からはこのタイプの言い回しは2004年のこの講演を最後になくなってしまいました。どうしてなのかはわかりません。

 

剰余労働の処分が資本家の独占物ではなくなることが本質

 共産主義の目的は、労働時間の抜本的短縮によって自由時間を創造し、人間の全面的発達を獲得することだ、というのはぼくもそのとおりだろうと思います。

 しかし、「どういう条件で労働時間の抜本的短縮が起きるか」が未整理であり、なおかつ「搾取がなくなるとはどういうことか」ということを考え抜いていないために、そこには理論的な混乱があるとさえ言ってよいと思います。

 前に述べたように、人間は自分が生きるための衣食住を生産する労働を「必要労働」と言います(マルクス主義者の中では)。これを超える分を「剰余労働」というわけですが、階級社会では、この剰余労働は支配階級のものにされてしまいます。剰余労働をどのようにするか(その結果生まれた剰余生産物をどう処分するか)は、その時代ごとの支配階級の独占物であるわけです。

 かつてはその剰余労働分は、すべて支配階級がその処分を決定し、根こそぎ奪われていきました。これが「搾取」です。したがって、贅沢な生活も、自由な時間で知的・身体的に全面発達できるのも、支配階級でしかかなわない夢でした。

 しかし、時代が進むにしたがって、剰余労働をどのように処分するかということに、労働者階級が口を出すようになりました。賃金を上げろ、ということはもとより、老後や傷病時の給付=社会保障に使えということが広がりました。民主政治の進展で、資本家が手にしていた剰余労働分は税金として国家に納められ、その使い道は、基本的には資本家のためのものではあるとはいえ、公共事業にもっと使えとか、こういう社会事業に使えとか、そういうことを、労働者をふくめた民衆が声を上げ始め、それが反映されるようになりました。

 その中で、「剰余労働のうち、一定の部分は剰余労働をさせずに、時短をせよ」ということも資本主義のもとで広がりました。その結果、資本主義下であって労働時間は短縮へ進み、ヨーロッパなどでは週休3日の動きが進んでいます。

ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋)より

 ぼくは前に、置塩信雄を紹介しながら、次のように書きました。

 搾取がなくなる、とは一体どういう事態なのか。
 置塩は、搾取の廃止とは剰余労働の消滅を意味するのだろうか、と問いをたて、そうではない、と結論づける。
 「問題なのは、剰余労働を行うのかどうか、どれくらい剰余労働を行うのか、剰余労働で生産された剰余生産物をどのような使途にあてるのかなどについて、労働者がその決定を行うのでなく、誰か他の人びとが決定し、労働者はそれに従わねばならないという点にある。そして、そのようなとき、労働者は搾取されているのである」「剰余生産物の処分の決定を誰が行うか」
 つまり、ここにたいして社会が決定にくわわれれば、搾取は存在しないのである。

 搾取された分を、時短に使うのか、生活向上に使うのか、社会保障や蓄積に使うのか。置塩信雄が言ったように、搾取の廃止とは剰余労働の処分の決定が資本家の独占物ではなく、労働者・社会が関与できるようになること、という整理が必要なのです。 

 そして、剰余労働の処分に対して労働者や社会が関与する割合を増やしていくということは、社会主義になって初めて起きるのではなく、資本主義のもとでも進みうるし、社会主義は労働者党が政権を握ることでそれを抜本的・合理的に進ませるものであって、その限りでは資本主義下での改革・闘争と地続きであること、時短だけでなく社会保障の充実や賃上げと同じ平面の問題であることが明瞭にわかります。 

 

日本では

 日本でも労働時間は短縮しています。

厚生労働省労働経済分析レポート No.4」2024 年2月2日

 しかし『男女共同参画白書 令和5年版』で、「フルタイム労働者の一人当たり労働時間は、90年以降の景気後退期全体を通してみても大きな変更はない」「非正規・パート職員の増加が労働時間減少の主な理由となっている」と述べているように、日本で起きている労働時間の短縮はいびつです。

 フルタイム労働者が長時間働き続けることはあまり変化がなく、パートや派遣のように短時間しか働かせず安い賃金で雇用の調整弁にされている非正規労働者が激増しているということが相まって全体の「労働時間の短縮」が起きているわけですから。誰も幸せになっていないのです。

 

 ただ、もし、非正規労働者の時給を他の先進国並みに、例えば時給1700円に引き上げ、人生の3大資金と言われる「教育費」「住居費」「老後資金」を社会保障によって充実すれば(教育無償化、公営住宅の増設・住宅手当の創設、最低保障年金など)、短時間労働者であっても家庭や子どもを持って「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることができるようになります。

 短時間労働者であることが幸せな人生を送れる水路になりうるというわけです。

 

 共産党の田村智子は次のように言っています

日本の労働者の労働時間はヨーロッパ諸国に比べて、年間400~600時間も長い。正社員には、残業や休日出勤をやってでも仕事をこなす責任を押し付ける。非正規で働けば、低賃金が押し付けられる――これでは、「自由な時間」を奪われるか、人間らしい生活を支えるお金を奪われるか、どちらかを選べというのと同じではないでしょうか。

 先ほどぼくが述べたような意味で、この二つの対比はポイントをついていると言えるでしょう。

 

*1:労働の強度と生産力が与えられているとすれば、そして労働が社会の労働能力あるすべての成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、また、ある社会層が労働の自然的必要性を自分自身から他の社会そうに転嫁することができなくなればなるほど、社会的労働日のうちで物質的生産のために必要な部分がそれだけ短くなり、したがって、諸個人の自由な精神的および社会的な活動のために獲得される時間部分がそれだけ大きくなる」(日本共産党中央委員会社会科学研究所監修 カール・マルクス『新版 資本論3』p.920)

*2:金融・保険業界の名目GDPに占める割合は4.6%ですから、まあ、全部無くしても5%ほどしか「浪費」は節約できません。

*3:でもエコロジカル・フットプリントのデータを見ると、世界全体では1990年くらいに「地球1個分」の資源を使う経済を超えちゃっているんですよね。ということは1990年の経済水準以上のものは「浪費」であり、経済を1990年までに戻す必要があるということもできます。1990年の日本のGDPは437兆円。あっ…だいたい8割、つまり2割減じゃん!

桐野夏生『燕は戻ってこない』

 本作はオンライン読書会で読んだ。

 NHKでテレビドラマにもなっている。やっていることは知っていたが、読書会が終わった後で、一度だけ観た。

www.nhk.jp

 桐野夏生の原作についての感想をここでは書いておく。

 貧しい派遣社員の生活を送っているリキは、卵子提供をして報酬を得るという話を同僚から聞く。卵子提供を受け付けている会社で面接を受けたところ、担当者から「代理出産」をしないかと相談される。リキは元バレエダンサーの草桶基・悠子夫妻の子どもを産む「代理母」となる。

 読書会ではお互いに感想を言い合ったのだけど、ある女性は後半のリキをめぐる「シスターフッド」の描写がとても印象に残った、と発言した。

 えっ! と思った。

 確かにそういうことを感じる瞬間はあったけども、それをこの小説の最大の印象というふうに考えたことはなかった。

 やっぱりぼくのような男性はそういうあたりが鈍感なのかしらとぼんやり思ったものだった。

 

 ぼくが印象に残ったのは、なんといっても、リキの貧しさである。キャリアを積み上げることができなかった人生を自己責任のようにかぶせられたリキは、お金がほしい、お金の心配をしなくて済む生活がしたい、という気持ちに追い詰められていた。

 リキの職場の同僚であるテルも同じだ。奨学金という形で数百万の借金を背負わされ、社会に投げ出されて、うまくいかなければ非正規、風俗、という形で望まない貧困に絡め取られる。

 リキもテルも本当にそこらに転がっている、圧倒的に平凡で普遍的で無数に存在する貧困の形をしている。

 卵子を差し出す、自分の体を他人の出産——しかも自分の遺伝子を残したいというお金持ちの一種のエゴイズムのために差し出すというマクロの構図がストレートに読むものに迫ってくる。

 ミクロでは全然違う論理もある。

 お互いに納得ずくでやることではないか、とか、お互いの利益のためではないか、とか、人助けではないか、とか。もっと言えば、自分の体を自分の意思と尊厳に基づいて使うことをなぜ他人から「追い詰められているんだ」とか「搾取されている」とか勝手に言われなければならないのかという憤りが、個々のレベルではあるだろう。

 だけど、社会全体として見たときに、やはり、追い詰められて、社会の必然として強制されてそのビジネスに手を出さざるを得ないということではないか。そういう作者の主張がストレートに伝わってくる。

 このマクロとミクロの構図は、風俗や売買春をめぐる問題ともよく似ている。

「ビジネスって、もっと対等な感じがするけど」

という悠子の言葉が本質的によく表している。

 ぼくは桐野の小説をたぶん初めて読んだのだが、フェミニズム的な視点を強く感じた。しかし、フェミニズムが訴える社会問題の視点はそのまま男性にも共通する社会告発の視点になっている。

 例えば、「だって、ランク付けされるのって、女として屈辱に感じる」という悠子の言葉に基が笑い、

「だってさ、この資本主義の世の中は、すべてランク付けされるのが宿命じゃないか」

と切り返すのは、その一つだろう。女性は容姿や能力、それらをからめたランク付けの最前線にいるけども、確かに男性も絶えず労働力商品としてのランク付けをされ、同窓会はその市井での決算の場として機能している。

 

早く早く早く。早くしないと、間に合わない。叔母の佳子は、いつも急いていた。『力ちゃん、女は、だらだらしていたら、間に合わなくなるんだよ』。いったい何に間に合わなくなるのか、なぜ焦らなければならないのか。叔母は理由をはっきりとは言わなかったが、その無言の風圧は、常にリキの背中を押し続けた。(p.414)

 リキは「間に合わない」とは初め容色のことだと思っていたが、それは生殖能力の限界のことだと気が付く。

確かに、女の人生には、「間に合わない」がついて回る。(p.414)

 女性の場合、容色や出産のことで最も極端に「間に合わない」と言われ続けのだろうと思う。他方で、男性も「間に合わない」と言われ続けるような気がする。受験を念頭に必要な学力を身につけることが要求され、その期間内に身につけなければ「間に合わない」とされる。それは人生というバスに乗り遅れるかのように厳しく叱責される。

 休んだり、ぼーっとしたり、学校に行かなかったり、そういうことは「多少」許されても、結局「間に合わない」という枠の中ではそこからはみ出すことは許されていないのだ。

 もちろんそれは男性特有のものではない。だが、資本主義体制下で「間に合わない」と急かされ続けているのは、最も極端には女性であるが、男女ともに同じような焦りを抱かされている。

 

 というわけで、この小説を読んだ時、貧富の差によって身体を切り売りしなければならないところまで追い詰められた存在があり、他方で、自分の欲望やエゴイズムをお金で買い、札束で頬を張るようなことができる存在がいる、という対比が一番印象に残った。

 

 本作は、コミカライズもされている。

 マンガを描いているのは『シジュウカラ』『ヒヤマケンタロウの妊娠』の坂井恵理である。原作の乾いた感じと、何かを告発しようと怒っている感覚に合っている気がする。

矢寺圭太『ずっと青春ぽいですよ』

 こりゃあいい。

 最近本作を何度も見返してしまっている。

 高校のアイドル研究会に集うさえない3人の男子生徒(山田・杉森・河野)が、ギャル2人(渡辺・鯖戸)をアイドルとしてプロデュースさせてくれないかと頼み込むところから唐突に物語は始まる。

 もちろん断られるのだが、杉森を女装させたら美少女っぽく仕上がってしまい、そこから物語が次々と回転していく。

 オタクに優しいギャル…を裏切るのかと思っていたら、オタクに優しいギャルになっていくではないか。

 

 いいマンガ、この場合、ぼくがずっと見返してしまうマンガの条件として、

  1. コマやキャラに見とれてしまう。それを何度も見たい。
  2. セリフがクセになる。脳内で反芻してしまう。
  3. シチュエーションが甘い。ついそのページを見てしまう。

というものがたくさんあることだ。まさにこれである。

 

 まず1巻。

 

 やっぱり女装した恥ずかしそうな杉森。そして、ふだんの杉森。何度も見たくなる。いや、かわいいんだよ。

 

 うちらが断ったけどそのあと誰かアイドル引き受けたやついるの? といって、杉森の写真を見てショックを受ける鯖戸と渡辺。ここへ呼んで来い、と河野に命じた時、川のが

杉森くんをここに呼び出す!?

そ…そんな事したら……

闇鍋カリフォルニアロールになっちゃうよ…

と妄想する、その妄想の絵面。エッチなのか、シュールなのか、かわいいのか、わからんけど、このからまった絵柄、ついつい見たくなる。

 

 本屋でアイドルの(水着というか下着的な)写真集を買っているところを見られる山田。を見つめる渡辺の顔とセリフ。

へー……

そういうの

買ってるんだ

やっぱり……

 その、さーーーーーっと引いていく感じがもうね。

 そのわりに、その直後に一緒にゲーセン行く、そして、なんでうちらに声をかけたのって聞いて、あーさっきみたいなエロいかっこうさせようとしたんだろと追及したクセに、山田がとってくれたクレーンゲームのキャラをカバンに渡辺がつけるって…いや、妄想だろそれ! と思うけど、意外と現実はそんなものかもしれん。などと脳内変換してしまう自分がコワい。

 

 ギャルが理由もなく部室に居座ると、「こいつ俺のことが好きなのか」とすぐ勘違いする山田=オタクに既視感が…。

 

 河野の膨大なメモ。高校の女子(と一部男子)のことが詳細につけすぎてあって引く。しかし本当にそんなものがあったら…というやべーものを見る気持ちでついそのページを見てしまうのであった。

 

 ドル研のカラオケに闖入する渡辺と鯖戸。オタクのカラオケにギャルが理由もなく入ってくるとかいうのが、いかん。いかんなあ、まったく。

 そして、恥ずかしげにアニソンを歌って、中途半端にノリが必要なセリフを張り切って言ってしまってスベる渡辺。というシチュが見たくてページを繰る。

 

 楽しそうなドル研の活気を見て、本当は山田を受験をさせたい顧問の先生が、感動して、山田の受験断念を支援するのかと思いきや

よしみんな これからも今まで通り山田に協力しないように!!

が笑った。

 

 次に2巻。

 2巻の方がよく見返す。

 同じく女装した山田をやはり女子と勘違いした河野が、

急にドル研の女子比率がヤバい事に!?

ハーレムラブコメ始まった!?

と妄想するときの「陰キャのオレが☆アイドルと!?」というハーレムラブコメっぽい絵柄が大写しになるコマ、好きすぎる。

 

 鯖戸が山田のクラスに行って、カーテンの陰で陰鬱な作業をしている、そのカーテンの中に入っていくシークエンスがいい。特に鯖戸がかわいく描けていると思う。

 鯖戸は「ドル研手伝ってあげようか?」と提案するコマも好きだし、バイト先のゼオンタウンにドル研が下見に来たときの姿もいい。

うちらの初ライブ決定ー

今週の日曜日空けといてねー

フフ…どんな衣装を着せてみようかなー

っていう勝手な感じもすごくいい。

 

 ゼオンタウンで初ライブ。ハンパにしか注目されないモールのライブって、考えただけでも胃がきゅうううっっっってなるわ。

 ライブシーンはほとんど描かず、終わってからの山田と杉森の失敗感だけを描きながら、渡辺の回想の中ではなんだか汗だくで青春っぽい感じに仕上がっているのが、いいよな。オレから見ても、グラフィックとしてキモい山田と渡辺がなんとなく接近しているのがワクワクする。

 スタバならぬスタボで山田に、鯖戸と渡辺が無防備に「ちょっと味見する?」と全然間接キスとか気にしないことを気にしまくるオタク3人。

 

 山田のお母さんが、杉森を見て、自分の推しのアイドルに似てないって大騒ぎするのも何度でも見たい。「はわわわ…」「キャハア…」「興味ある!? 動画見る!?」っていうはしゃぎよう。かわいいだろ。このお母さんのコマ、特に、「キャハア…」「興味ある!? 動画見る!?」が脳裏に焼き付いて離れない。

 

 渡辺の父親の車で渡辺と一緒に帰る山田のシチュもいい。

 山田が慌てふためいてお辞儀をする様を父親が「角度すごいね…」とびっくりしながら見つめる導入は、父親の、ニュートラルな、しかしどちらかといえば山田に好意的な感じを絶妙に表している。ような気がする。「角度すごいね…」というセリフのセンスに脱帽する。

 父親が「ニコがいつも話題にしている」という趣旨のことを言って「黙れ」とか「盛るな」とか恥ずかしがっているんだぜ。口のきき方が、ぼくと娘に似ている。

 

 きわめつけは、モブキャラ扱いのはずの鈴原舞が、見出されて、楽曲をつくるくだりも好きだ。

 「聴かないでください…」と恥ずかしがる様子とか、「河野くんて部室ではこんなに喋るんだ…!!」と驚いたりとか、鯖戸が近寄ってきて「いいニオイがします…」とつぶやいたりとか、そして、

はじめて誰かのために曲を作った

自分でもびっくりするくらいにすぐ曲ができた

早く聴いてもらいたくて

思わずかけこんでしまった

という、ちょっと上気しながらの鈴原の独白はまさに青春ではないかと思わしめる。

 

 オタクとギャル、という個人体験については、かつて『イジらないで、長瀞さん』のところで少しだけ書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 しかし、ギャルがオタクの領域にまで侵入し、その文化に理解を示し、あまつさえ恋愛を繰り広げてしまうかもしれないという体験はさすがにない。そんな体験、成立しようがないだろ。と思うくらいアクロバティックなことだ。

 ギャルがオタクに侵入してその優しさを示す場合はあまりにも突飛だったりする。それ以外に手の施しようがないからであろう。

 あるいはギャルがオタクであることを隠しているというパターンで、その隠れオタクのギャルが橋渡しにもなって他のギャルがオタクの文化圏へ侵入を果たすようなケースもある。

 

 

 『ずっと青春ぽいですよ』では、そのフックがほとんどない。

 いや…ないことはない。

 鯖戸が実はアイドルをやってみる(人前で衣装を着て歌ってみる)ことは満更でもないと思っているし、何よりもメイクや写真にこだわりがあって、ふだんは1行でラインでしか返さないのに、メイクや写真の映りのことになると途端に饒舌になったりするわけだし。

 だけどだからと言ってオタクの文化圏には入ってこないだろう。

 交わらないはずなのだ。

 交わらないはずなのに、やがてオタクの圏内に侵入を果たすという、そこをどう不自然でなく、自然な流れで、オタクの夢を壊さずに実現しているのかを見ているような気がする。

 

 

 

斎藤幸平+松本卓也編『コモンの「自治」論』

 本書は、「自治研究会」と題された研究会のなかで、各章の著者がそれぞれの現場の「自治」論をもちより、討論を行って完成させたものである。(本書p.277)

 現代資本主義が地球をはじめ人民の共有物=コモンを食いつぶし、切り売りしながら「略奪による蓄積」をすすめるもとで、「自治」の力でコモンを再生しようとする。その問題意識を持った7人の論者による論集である。

 

 

 

 まず白井聡。「大学における『自治』の危機」。

 大学自治論であるが、主に学生自治について書かれている。

 簡単に言えば1990年代初頭くらいまで多くの大学に存在した学生自治のようなあり方がなければ大学の空間は貧しいものになって、若者の主権者としての成熟を阻害してしまう、という議論。

 実は、これはぼくの素朴な実感にピッタリ一致する。

 そうだそうだ! と言いたい。

 だが。

 それは単に、オッサンの「昔はよかった」論ではないのか?

 という気持ちがどうしても拭えないのである。

 ぼくらの頃とは全く違う、学生たちの新しい環境やあり方によって、古い世代にはわからない感覚が育っているのではないだろうか? という気持ちがどこかにあるのだ。だから、学生をめぐる現状の総否定に近い白井の議論は、ちょっと躊躇してしまう。

 

 次に松村圭一郎。「資本主義で『自治』は可能か?——店がともに生きる拠点になる」。

 店、商店とか個人が開くあの「店」。

 店が資本主義を考え直す自治の第一歩になるというのだ。

 本書の中では、彼の議論が一番参考になった(刺激を受けた)かもしれない。

 資本主義とか、市場の新自由主義イデオロギーとか言われると、私たちはひとりでそれにどう立ち向かっていけばよいかわからず、途方に暮れると思います。個人がひとりで資本主義を倒したり、組織的な政治運動を始めたりするなんて、とても自分にはできそうにない。難しくてよくわからない問題に関わるのは面倒なので、人任せにする。その態度の裏には、そんな絶望感が関係しているように思います。

 でもグレーバーがいうように、社会全体がひとつのシステムに覆われつくすことがないならば、すでにその巨大なシステムとは別の動きや働きをしている「すきま」のような小さい場所に目を向けることが、システムそのものに対抗する最初の一歩になりうるのだと思います。

 資本主義のただなかにありながら、資本の論理とはまったく違う形で営まれている店から「自治」を考えてみる。それは、そもそも政治とは、国会や国連総会などの大きな組織的な場でのみ起きていることではない、と発想の転換をすることでもあります。(p.75-76)

 

 岸本聡子。「〈コモン〉と〈ケア〉のミュニシパリズムへ」。

 言わずと知れた杉並区長である。

 ミュニシパリズム(自治体主義)を解説し、そこに〈コモン〉と〈ケア〉の概念をつないでいる。

 実は「参加型予算」について知らなかった。

 バルセロナの例が書いてあるが、住民自身が地域で必要とする事業を提案して、住民投票で選ばれたものが執行されるという。2020年には600をこえる住民投票

 杉並区でも行われており、岸本によれば「日本でも導入している自治体がいくつかあり」(p.111)ということだ。

www.city.suginami.tokyo.jp

 その評価はまだよくわからないが、ぼく自身が調べてみるきっかけにはなった。

 

 次に、木村あや。「武器としての市民科学」。

 市民科学と自治についてだが、専門家独占・官製化した科学ではなく市民が主体となる科学の意義や限界を論じながら、そこに生じるジレンマについて述べる。「科学の民営化ではないか」という批判だ。

ここで述べてきたような新自由主義のジレンマは、市民科学に限られるものではなく、自治的な運動や取り組み一般に言えることかもしれません。というのも、自治的な運動には行政や自治体ではカバーできないような社会問題を、自分たちで解決していこうという側面が強くあるからです。ところが、自分たちの問題を自分たちで解決したり運営したりする運動が、結果的に公的な制度の不足を補完する役割を押しつけられるだけになってしまう。あるいは自己責任の論理に回収されてしまう。市民科学もまた、その例外ではありません。(p.136)

 これは自治会・町内会などで強く感じることだし、「自治」を強調する市民運動が、自助・共助論と親和性を高めてしまうのもよく見かける光景だ。思わず本に「まさに!!」と書きつけてしまった。

 特に明瞭な解決策が木村から提示されるわけではない。

 両者(公的なものと、私的・自治的なもの)の関係を原理的に示すことは本書の役割だったはずだが、そこはあまり成功したとは言えない。

 

 松本卓也。「精神医療とその周辺から『自治』を考える」。

 精神医学から反精神医学運動を経て、ポスト反精神医学(半精神医学)の現在を解説する。まさに弁証法的な発展と言えるが、多くの運動はテーゼからアンチテーゼをへてジンテーゼへと発展してきた。そこに自治という契機が入ってくるのだ。

それは、異質な他者(マイノリティ)を迎え入れはしても自分自身は決して変化することのない社会、つまり「多様性」を単なるお題目として肯定しているに過ぎない社会ではなく、異質な他者を歓迎することによって自分自身が変化する可能性に開かれた社会を構想することにもつながっていきます。(p.176)

はどうにも耳が痛い話である。どんな人・コミュニティでも全く変わらないということはないだろうが、ここで求められている変化は社会の変化と言えるところまでのラディカルな変化だろう。ぼく自身がそのような変化をしているとは到底思えない。

 

 藤原辰史。「食と農から始まる『自治』——権藤成卿自治論の批判の先に」。

 食と農と自治を考える際に、権藤成卿という思想家を取り上げ、この批判的克服を呼びかけている。

 藤原の議論は自治論としてはあまり得るところがなかったのだが、食と農の運動を考えていくうえでは、参考になった。具体的には「食堂付大学」という藤原自身の試みに興味を持った。

 

 最後に斎藤幸平。「『自治』の力を耕す、〈コモン〉の現場」。

 うーん。ここはなかなか微妙であった。

 まず、自治・自由・自律をキーワードにして、現状を批判するありさまは、どうも自己責任や自助、「強い個人・市民」を想起させてしまう。そういう立派な人にならないと社会は改革できないのだろうか?

 社会変革において政治改革に重きをおく思想や行動を「政治主義」として批判するのだが、その際に下からの運動、保守化した世間の価値観を変えさせていく主体の確立を目指そうとする。

 ぼくは「思想を変えさせる」ということや「マイノリティをマジョリティにする」ということに軸が置かれてしまう運動や思想にはどうにも懐疑的になる。いわば教育による人間改造によって社会を変えようとしており、それは無理だろうと思わざるを得ない。

 コスパ思考を批判する言説は心地よい。

 しかし、それで本当に社会が変わるだろうか、と思う。

 いや、そういう思想を無条件に肯定せよとは思わない。しかしそれを否定することで社会変革をするという描き方には無理がある。

 斎藤は中央集権型の運動(民主集中制をそこでは取り上げている)を20世紀型として批判し、水平型の運動を提起する。

 しかし、「水平型」の運動が単純にうまく機能するかと言えば、必ずしもそうではない。実際にオキュパイ運動の失敗などから、斎藤自身もそれを修正せざるを得なくなっている。完全水平は完全分散になってしまい、力が発揮できないのだ。

 結局、斎藤が修正して落ち着いた地点というのは、ネグリ・ハートのマルチチュード概念を足場にして、“戦略は指導部、戦術は現場”ではなく、戦略を大衆が考え、指導部がそれを代表して動く、というものだった。

 しかし斎藤が批判する「20世紀型の前衛党」であっても、「いやあ、それならうちもやっていますよ」とたぶん言うだろう。実態がそのようになっていないではないか、という批判はあるかもしれない。しかし、原理的・理論的にはそのような方向を向いているのである。

 だから、まったく新しい組織を無から作り出すべきなのかと言えば、そうではなく、現在ある政党や団体を改良・改造してそういうものにしていっても全然いいんじゃないかと思った次第。

 ただ、それでも斎藤が紹介している自律的市民像は、少なくとも左翼が政党を運営していく際には必要なメンタリティではないかなとは感じた。民主主義において本当に自分の頭で考える市民でなければ、21世紀に対応した政党運営などできはしない。上が言ったことだからと言って無批判に従うクセ、自分で考えたと言いながら自分では何も考えていない怠惰、戦略を考えるのは上の人の仕事で自分は現場で戦術を考えるだけという悪慣れ、大勢に逆らって意見を言うことのできる勇気のなさ……こうしたものの克服は実際には並大抵のことではない。

 斎藤が紹介した哲学者カストリアディスの言葉が重い。

カストリアディスは言います。宗教も伝統も環境も、人間が自分たちでつくり出したものとして反省できるのが近代の自律の特徴である。ところが、規範や法を、神や自然、t歴史、先祖などによって与えられたものとみなしてしまう社会が今でも多い。そんな社会は、他律的な社会である、と。(p.264)

 そうなんだよ。

 小学校の時から規範や法をあたかも所与のものとして、神や自然、歴史のような変えられないものとして教えられる。

 左翼の中でさえこれはある。「そんなことはない。俺たちは歴史や社会の変革に挑んでいる」と言うかもしれないが、組織決定や組織ルールをあたかも「神や自然、歴史のように(自分には)変えられないもの」と思っているふしはないだろうか。

 「人の作ったものは人が変えられる」という近代草創期の楽観を今こそ取り戻すべきだ。

 斎藤は自治の精神、自治アントレプレナーシップを強調する。

 うん、活動家の心構えとしてはわかるけども、これは広く社会を変える力になるかどうかはわからない。あまり強調しすぎれば、やはり教育による人間改造を社会変革の契機にしてしまうことになる。

 ただ、斎藤は、そのような自治をまずは身近なレベルから始めてみようではないかという、岸本や松村の議論の立場に立ち返る。まあこれはぼくも賛成だ。政治や社会を変えるという確信をまずは小さなレベルから始めてみるし、それが運動にとっても大事なことだというのは同意できる。

 

 というわけで、書いてあることは同意できることばかりではない。

 しかし、いろいろと考えることが多い本ではあった。

 

『室外機室 ちょめ短編集』『人はどう死ぬか』

 タイトルの通り、著者ちょめの短編集である。初出を見ると5編のうち「個人出版物」が4編だから、ほとんど同人誌からのものであろう。

 

 軽い気持ちで読む。

 2つ目の短編「21gの冒険」は、交通事故と思しき事情で亡くなってしまった27歳の女性の魂が事故現場から、やがて昇天するまでを描いている。

 体が軽くなりビルの上に浮き上がったり、地面に降りていったりと自由自在だ。

 巨大になったり、子どものように小さくなったりもできる。

 花畑で寝そべった後、自分が収まるであろう墓を見て、最後に大気圏の終わりのあたりまで舞い上がり、宇宙なのか地球なのかわからないがあたかもそれらと一体になるかのように薄れていって消えてしまう。

 「へえ…魂って死んだ後こんなふうにさまよって、溶けていってしまうんだ…」

などとしみじみしてしまう。

 いや、そんなはずはないんだけどさ(笑)

 でもそんなふうじゃないのかなという空想を提示して、そうかもしれないですねとつきあって想像するような楽しさがある。

 家族が泣いているシーンは1コマだけ挿入されているが、本人はそれでちょっとだけ気鬱になるだけで、総じて楽しそうなのだ。

 それでいてどことなく寂しい。

 福岡アジア美術館で開かれている「谷川俊太郎 絵本★百貨展」を見にいった時、谷川・合田里美『ぼく』という絵本と原画が展示してあった。

 解説に次のようにある。

死んでも、限りない宇宙の中でも生きている

子どもの自死をめぐるこの絵本は、構想から約2年の歳月を経て出版された。谷川さんは、自死について、直接的な理由だけではなく、もっと深い何かがあり、わからないものなのではないかと考えていた。この絵本を「より深く死を見つめることで、より良く生きる道を探る試み」と位置づけ、谷川さんは言葉、そして絵についても推敲を重ねた。透明感のある明るい絵の世界の中で「ぼく」は浮遊するように描かれる。画中にあるスノードームは「ぼく」の内面をシンボリックに表す。人は死んでも「ひいては限りない宇宙の中を生きている」。死を否定的なものと考えない谷川さんは、この絵本を明るいものにしたいと願った。「ぼく」のノートに書いてある「いきていて」という詩にその気持ちが託されている。(林綾野)

 「透明感のある明るい絵の世界の中で『ぼく』は浮遊するように描かれる」とか「人は死んでも『ひいては限りない宇宙の中を生きている』」とか「死を否定的なものと考えない」とかいう文言は、本作を思い出させた。

 最近、自分や自分の周りの人の死について考える機会が幾度となくあった。

 久坂部羊『人はどう死ぬか』は、医師としての患者の死に向き合ってきた体験や自分の肉親の死に立ち会ってきた経験などから死について書かれた本である。死を受け入れることについて書かれた本であるといってもよい。

 老衰で死ぬというのを人は理想のように思うかもしれないが、体の自由が効かなくなっていつ死ぬか、そして自我と他者の境界さえ曖昧になるような状況が長く続くことは本当に幸せだろうか。ガンで死期を告げられるのは、死と直面することにはなるけども、残りの期間をどうやって生きるかを主体的に選択し、周りとの関係も意思的に形成していけるではないか。

 

 確かにこれを読んで、自分の生死感が少し変わってしまったようにさえ感じた。

 死を恐れない方法は二つある。

 一つは、死のことを考えないようにすること。

 もう一つは、死と向き合い、出来るだけリアルに意識して、「死の恐怖に慣れる」という方法だ。と久坂部は言う。

 先に人はどんなことにも慣れると書きましたが、恐怖も同じです。何度も繰り返し思い浮かべていると、徐々に迫力もなくなり、死のいろいろな側面を考えるうちに、さほど恐れる必要もないことがわかり、自分が幻影に振りまわされていたことも実感できて、死の恐怖が薄れてきます。

 そうなれば死を見据えた人生がはじまり、死ぬべきときが来れば、従容としてそれを受け入れ、上手な最期を迎えることができるでしょう。

 苦しみから目を逸らして、最後にツケを払うか、早めに苦しい思いを乗り越えて、人生をうまく仕舞うか、いずれかということです。(久坂部羊『人はどう死ぬのか』p.79 Kindle 版)

 「死を否定的なものと考えない」とは自分としてはあまり深く考えたことのない境地だった。

 全然悟れたわけではないけども、死についていろいろ考えることのあったマンガ、展示、新書であった。

澤田誠『思い出せない脳』

 リモート読書会で澤田誠『思い出せない脳』を読む。

 研究関係の人が参加していて、「またどうせわかってもいないことをわかったように素人相手に書いた本だろ…」的に思って読み始めたそうである。

 ところがである。著者はわかっていないことについては「わかっている」こととしては書かずに、しかし、「わかっていること」(しかも素人が読んですぐわかるレベルのようなこと)を使いながら、素人がそれで満足してもらえる書きぶりでどんどん進んでいく。よく読めばメカニズムや理由づけ、厳密な因果は書かれていないのだが、それでいいのである。啓発や教育として、興味を持ってもらい、不正確なことは言わない、ということに徹すれば、こんなふうに言えるのか(書けるのか)! とびっくりしたということである。腐しているのではなく、叙述の仕方として工夫されていることに感じ入ったというのだ。

 別の参加者から、巻末に謝辞が捧げられているライター(寒竹泉美)や編集者(井本麻紀)の役割が大きいのではないかという指摘もあった。

 それがどれくらいの比重かはわからないが。

 ぼくも、「文系の素人が聞きたい脳の話」という点で、非常に読みやすく分かりやすい本だと思った。比喩などが適切だなと。

記憶というと、詰め込むというイメージが強いかもしれません。…私たちが記憶を「忘れた」と感じるときのほとんどは、この散らかった部屋の例と似ています。記憶がなくなったのではなく引き出せない状態なのです。私の知り合いの部屋のように、脳のどこかには存在していますが、見つけられないので活用できないのです。(p.15kindle)

 ぼくはこの本を脳について体系的に何か学ぶ本ではなく(当たり前だが)、「脳についての面白いエピソードを拾って役に立てる本」として扱い、そのプロセスで何か脳についてのイメージが塗り変わればいいなという感じで読んだ。

 p.203くらいから「思い出せる脳を作るには」としてそれをまとめてある。

 その1。神経細胞をなるべく減らさず、健康な血流を保つこと。要は健康な生活をということである。アホみたいなことを書くなと思うかもしれないが、ぼくは説得力を感じてしまった。結局それが第一なんだなあと。

 その2。覚えたいことに意識を向けること。そうなんだよ。今ぼくは毎日薬を飲んでいるんだけど、その日、飲んだかどうか忘れてしまう。ボーッと飲むからだ。筋トレも「あれ、今何セット目だったっけ?」となる。そうではなく「いま今日の分を飲んでいるぞ」「いま3セット目だぞ」と意識を向けることなんだよな。そして、この本の他の箇所に書いてあるように、エピソード記憶と結びつけること。例えば「朝ドラを見ながら飲んだぞ」とか、「3セット終了」と声に出してみるとか。これもアホみたいだけど、短期記憶としていいのである。

 その3。思い出せそうで思い出せない名前は抑制をやめてみること。似たものを紐付けないために、一旦名前が記憶の倉庫から引き出されると、他の記憶が出てこないように抑制をかけるのだという。「検索誘導性忘却」とか「周辺抑制」っていう名前がついているとは思わなかった。一つ別の名前が出てしまうと、本当に思い出さないといけない名前を忘れてしまうように抑制が働くのだ。それで逆にその抑制を解くために、がんばることをやめる。やめた途端に、あるいはしばらくして、抑制が取れて思い出す。

 その4。がんばって思い出すことよりも、ネット検索で思い出したほうがいいこと。筋トレとは違うというのだ。それよりもネットで調べて、調べた時に新鮮な感動を何か覚えた方が、その感動的な情動とともにより鮮明に記憶に残る。ネットで調べても「ふーん」で終わらないようにすべきだと。

 

 それから、生物としての人類は太古に食べる・逃げる・子孫を残すための脳のしくみを実装しているので、現代ではそのシステムは古臭いものになっているか、何かのバグになってしまうということ。

 あっ、これは前に他の本で読んだぞ、と思った。

 ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』だ。

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 人間が今のような文明社会を築くはるか前に、自然選択によって生まれたもので、例えば砂糖がけのドーナツを物欲しそうに次々求めてしまうような甘いもの好きはそうした方がカロリーを集め生きるために有利だったからで、しかも「あま〜い、おいし〜」という満足感の報酬が長く続かないのは、いつまでも満足してもらっていては生存戦略上困るからだという。「ああ、もっと甘いものはないかな」といつも不満足に甘いものを求めていないと生き延びられない。
 しかし、現代の文明社会ではこれは余計なものになってしまっている。
 過剰なカロリーを取り、健康を損ねるからだ。
 だから、人は何か欲望したこと、理想としていたことが満ち足り続きはしないという。いつも不満であり、飽き足りないと。

 ぼくがこの本を紹介したとき、他の参加者から「そんなの精神のコントロールで克服できんの?」と問われたが、「いや、別に明確に克服できるよとは書いてないけど」としどろもどろで答えたが、さっき読み返しても、そんな感じだった(笑)

 

 身体の状況で情動をコントロールするという話も出てくる。表情を笑わせていると心も笑ってくるのだというやつ。

 あっ、あれは高島宗一郎・福岡市長が言っていた話じゃないかと思い出す。

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 同じような気もするし、違う話のような気もする。

 

 夢は頭を整理するための入れ替えのプロセスの映像なので、それ自体に意味はないのだとも書いてある。

 著者はだから整理するためにもよい睡眠をとることが大事なんだよと主張し、睡眠学習はダメだけど、勉強した後にぐっすり寝るのは意味があると。そして、運動や演奏の練習の記憶は寝ている特定の時間帯に整理されて定着するからその時間が大事になるとも。寝具の宣伝に運動選手が多く出てくるのはそのせいかなと思ったりする。

 よい睡眠をとろう、と素朴に感じた。

 ちなみに、昨日、高島市長とずっと過ごす夢を見た。高島市長のこと考えすぎだろ。いや、この本によれば意味はないのだ。

 

 そして認知予備能。

 細胞が死んでも周囲の細胞が代わりになることで認知機能が保たれることである。詳しいメカニズムはまだ解明されていないがこういうことは言えるのだという。

認知予備能は、高齢になっても人との交流を絶やさなかった人に見られることが分かっています。人との交流は脳の複数の部位を活性化させます。専門的で高度な仕事をしているだけでは、脳は限られた箇所しか使われません。長い間使われなかったシナプスは刈り取られ、細胞も死んでしまいます。普段とは違う余暇活動や、人との交流を絶やさないことによって、さまざまな部位の脳を活性化させておけば、細胞の数が減っていっても機能を保つことができるでしょう。(p.202kindle)

 老後、本ばかり読んでいてもダメだなあ、いろんな人と交流したりいろんな体験をしたいなあ、などと思う。

 

 マルチタスクは適度な負荷ならいいけど、常にやっていると脳が疲れてしまうのでやめろとも。集中した方が効率がいい。

 

 他にもいろいろ思うことはあったが、総じていろんな体験をして心を動かして感動すると、記憶も情動に紐づけられるし、忘れないよという感じなので、それは心がけたい。

 

 「最近名前が思い出せない」とぼやいていた同僚がいて、まさにこれじゃん、と思い勧めたら早速読んで「面白いねこれ」といってくれた。面白いのである。

KUJIRA『ハグ キス ハグ』

 既婚者との不倫に始末をつけた木原蓉子が、同じマンションに住む(そしてかつて同じ職場で働いたことがある)年下の男性・藤原広海と新しい恋愛をはじめる話である。

 KUJIRAはさあ、『ホンノウスイッチ』や『ガールズノート』なんかもそうだけど、セックスを丹念に、いやらしく、そして幸せそうに描いてくれるのが嬉しい(もともとアダルトなコミックを描いていたようだが、ぼくは『あたたかな針』の頃からしか知らない)。

 

 本作もセックスの描写のそういう幸せそうな感覚、あるいはいやらしい感じが好きが読んでいる。あわせて、同棲しているベッタリ感も。3巻がそういう描写が続いていて、特に好き。

 

 各話の扉絵も肉感的で素晴らしい。

 波乱なんか起きなくていいよ。こういうベッタベタの日常をずっと描いていてほしい。

 エロってことですか? と聞かれると、うーん。いや間違いなくエロいんだけど、隠微な感じじゃないんだよな。例えば感じている表情で征服感があるとか、体のパーツが強調されているとか、そういうのではなく、キスやハグしあっている関係性がグラフィックから伝わる。つまり二人の関係が全体性をもって描かれて、それが「幸せそう」という印象を与えるのである。まあだからタイトルなんだろう、とは思うけど。