「Newsレッズ」の編集長を務めます

 「Newsレッズ」という新しいメディアを来年2027年1月1日に立ち上げます。

 ぼく(紙屋高雪)が編集長を務めさせていただきます。

 すでにここにある呼びかけに書かれていることなので繰り返しませんが、左翼を再生させたい、というのがもともとの問題意識です。

 どうすれば再生するかは、ぼくではなく、このプラットフォームにつどう人たちが自由に議論していくことになるわけですが、ぼくなりにぼんやり思っていることはあります。

 1990年代の終わりくらいから、自分が関わっている左派組織が、昔ながらの路線を「量的拡大」一辺倒で突き進んでいこうとしているのをみて、果たしてそこに自分のエネルギーや人生を注ぎ続けて意味のある結末を迎えるだろうかという疑問を持つようになりました。ノートにずらずらと考えを書きつけていったこともあります。

 政治的な主張としてはそれなりに信頼をおきながら、組織建設の方向性がまったく間違っているのではないかと思うようになったのです。

 もちろん「実践の結果、検証する」ということですから、実践としては従ってきましたが、実践と検証を重ねるほどに「この方向の先には何もない」という確信が深まるばかりでした。

 組織の人たちと話をしましたが、ほとんど話が通じませんでした。組織の人たちは今までの路線を当然の前提において、そこからの「微調整」、せいぜい一定の修正程度の発想で話をしようとするのです。もっとさかのぼって、根本的な考え直さないといけないのではないかと話しても、うんうんそうだねとは言ってくれるものの、その「根本」具合がまるで違うのです。

 ただ、ぼくは「何もかも否定してしまえ」「リセットしろ」と言っているわけではありません。

 東浩紀さんが『訂正する力』という本の中で「訂正する力は、現状を守りながら変えていく力です」「訂正する力とは『読み替える力』のことです」などを語っていて、なるほどと思いました。*1

 左翼政党の文化の一番大事な点は、組織を作ったことです。

 田舎の小さな町に至るまで、小さな組織があり、そこで人々の意見が集約されて政党という大きな装置を通じて政治に反映されていきました。その小さな組織の中には小さなリーダーがいて、意見や行動をまとめ上げていきました。

 こういう装置を完成させたことが、左翼政党・左翼文化の大きな功績の一つで(保守派は保守派でもちろんそういう装置を持っているが、左派のそれはオルタナティブとしての装置だった)、これが日本の民主主義を戦後に支えてきたと思います。

 木下ちがやさんは『失われたヘゲモニー』という本をかいて、左派の危機をこうした網の目が古くなってほころんで崩れてきてしまったことであるという指摘をしています。木下さんはその再興がポイントになると考えていて、それはぼくも同じなのです。*2

 

 その際に、今考えられることは「楽しく」小さな組織や運動を作っていくことだろうと思っています。

 ぼくが組織を追放された際に、ぼくをかばって同じく追放されたすなかわあやねさんは、市議会議員選挙に出るんだと言って、同年代の仲間たちとまさに自分流の政治活動を始めています。

 ぼくはほとんど何も協力できず、ただ見ているだけ、時々イベントに参加する程度ですが、ぼくのようなオールド左翼から見ると、すなかわさんたちの活動はマッチョな選挙セオリーから外れ、「必要なこと」を全然やらず、「街にベンチを」「ゴミ箱を」などと言った具合に、自分たちがやりたいことだけをやって楽しんでいるようにも見えます。

 しかし、ぼくは自分の意見や見識には全く自信がありません。「選挙セオリー」のようなものが今や通用するのか、いや、そもそも少し前でさえ通用していたのか疑わしく、最終的に「楽しんで」活動をしているすなかわさんたちのようなやり方がいいのではないかとも思えてきます。実際、すなかわさんたちの話を聞いているとぼくの知らないことがたくさんあります。

 楽しく、小さな組織が、辻々で再建されていけば、左翼という枠組みを超えて、日本の民主主義がもう一度再生することにもつながるのではないかと思えてきます。

 そんな感じです。

 「明確な羅針盤」など何もない、「こっちの方角でいいのかなあ…」みたいな頼りない船出です。「自分を疑い」「楽しく」やることがとりあえずは、左翼と日本の民主主義を再生することにつながるのではないかと思っています。

 まずは「話の通じる左翼」でありたい。

*1:余談ですが、不破哲三が若い頃に構造改革路線を否定されて自己批判までして党の中枢に戻りながら、最終的にその変奏曲によって共産党の路線全体を作り変えてしまったのはまさに「訂正する力」の見事な一例です。

*2:なお、「お前は前に東浩紀を批判していたよね」とか「木下ちがやみたいな左派とも言えない男と同じだっていうの?」とかいう意見はあるでしょう。ぼくが東さんを批判していたのはその通りですし、今でも意見の隔たりは小さくないと思います。木下さんについても似ています。しかし、問題はそうやってそこで対話を閉じてキャンセルしてしまうようなメディアにはもうしたくないと思っているのです。

それは資本の評価? マルクスの評価? 田村智子講演を聞く(続)

 先ごろ日本共産党委員長の田村智子が「ジェンダーと『資本論』入門」という講義をしたのでその感想を大ざっぱに書いた

 他にも問題はある。ちょっと書いてみよう。

 その講演で、「機械制大工業のもとで女性たちは“未熟な労働者”とされた」という話が出てくる。

 『資本論』では、機械経営が労働者に及ぼす影響として、こう言っています。「機械が筋力を不要にする限り、それは、筋力のない労働者、または身体の発達は未成熟であるが、手足の柔軟性の大きい労働者を使用するための手段となる。だから、女性労働および児童労働は、機械の資本主義的使用の最初の言葉であった!」(『資本論』③693ページ)

 このように、機械制大工業が導入されたときに、女性と子どもは、熟練労働者としてではなく、最初から“未熟な労働者”として低賃金の働き方が出発点となっているのです。ここに職場でのジェンダーギャップの原点があると思います。

www.jcp.or.jp

 うーん。

 

小さいツッコミ:読み取りが乱暴

 まず小さなことを一言。

 読み取りが乱暴である。原文では「未成熟」と言っているのに、引用では「未熟」に変えられている。

 そして「女性労働および児童労働」を問題にするマルクスの言葉は、「筋力のない労働者」は「女性労働」、「身体の発達は未成熟であるが、手足の柔軟性の大きい労働者」は「児童労働」に対応させていると読むのが自然だろう。例えば30歳の女性が「身体の発達は未成熟」とは言われないだろう。女性労働者を「未熟」とは言ってないのである。

 まあ、それは目をつむろう。(ぼくだってそういう乱暴なことはやってしまうし。)

 

それってマルクスもそう思ってませんか?

 問題はここだ。

 田村はこれを「女性=未熟」という資本の側による不当な女性評価だとみなしているようだけど、「筋力が劣った」とか「未成熟」とかは、当時の資本の評価であるとともに、マルクス自身の評価ではないだろうか。マルクスがそれを不当だとして告発している形跡は少なくとも『資本論』の該当箇所には見当たらない。

 じっさい、田村が印象した箇所は、むしろマルクス主義フェミニストとされるヴェロニカ・ビーチイなどからは「女性の『自然な』劣った身体強度という前提」*1をマルクスが持っていた偏見として批判されているほどである(ただし、この批判はぼくにはあまり妥当なものとは思えなかったが)。

 『資本論』のこの箇所(第1部13章第3節a)はどういう箇所かといえば、それまで技術も筋力もある男性の熟練労働者にしかできなかった仕事が、機械が導入されることで、女性や子どもにもできるようになり、一人の男性熟練労働者の賃金が「分割」されてしまう(要は労働者全体の賃金が下がる)ということが論じられている。

 『資本論』のこの部分の小タイトルには「補助的労働力の取得」とあるので、女性や子どもを「補助的労働力」とみなしているのだろうとはわかるのだが、その男女の格差(「本体」と「補助」の格差)とその是正についてはマルクスはあまり注意を払っていないのである。機械の導入により労働者の中に「補助的」なものが入り込むことで、労働者全体の賃金が下がることにマルクスは強い関心を寄せているのだ。*2

 

19世紀イギリスの女性の低賃金を問題視しなかった当時の人たち

 19世紀のイギリスでは女性は男性に比べて半分、もしくは3分の1ほどの低賃金であった。以下は、吉田恵子(明治大学)「19世紀イギリスにおける女性労働と低賃金」を参考・引用したものである。

この表は産業革命以後のものではあるが19世紀よりももっと古い時代の稼ぎについてだが、吉田論文の本文には1/3〜1/2であることが紹介されている

 なぜ当時のイギリス女性はこんなに低賃金なのだろうか?

 機械の導入によって労働者全体の賃金が下げられていくのはその通りなのだが、男女の賃金格差そのものはなくならないのである。

 吉田はそのことを現代の経済史学者がどう分析しているかを紹介しつつ、当時(19世紀イギリス)では女性の賃金はどのようなものとみなされていたかについても言及している。

 一言で言えば、“家計の補助なので賃金は安くて当たり前”というジェンダーの観念が存在していたのではないか、という見方である。

 これは現代でいうところの「夫が正社員で稼いできて、主婦はパートで補助するだけなので、女性の賃金は安くて当然」という考え・現実と驚くほどよく似ている。現代日本の最低賃金の時給がとても暮らしていけないほど低かったのも、「主婦の補助的なパート」ということを想定したものだったからだ。

 問題は、このような「女性の低賃金は当たり前」という前提を、当時の学者たちは疑ったかどうかということが次に問題となる。

 『資本論』の当該箇所にも頻繁に登場する「工場ハカセ」たる政治経済学者のユアの次の言葉が吉田の論文には紹介されている。

工場の女性は男性よりもはるかに低い賃金を受け、このため哀れまれてきたが、これは浅はかな同情である。彼女達の労働の価値が低いからこそ家事労働が最も納得のいく職業になるのであり、彼女達が工場へ行ってその子供達の世話を放棄するのを妨げるのである

 「女さんが高い賃金を求めて働きに出てしまい家庭や子どもたちのことをほっぽらかす」——そんなことがないようにするためには女が低賃金なのは合理的じゃね? と言っているのである。低賃金であることを性別分業やジェンダーの角度から当然視し、何も疑っていないことがわかる。

 また吉田はスミスの『国富論』を引用しながら次のようにもいう。

そもそも19世紀イギリスの経済的行動に大きな影響を与えた古典派経済学者たちは、男性の賃金とは家族の生計費であると考えていた。…一方結婚した女性の賃金は、「彼女が、子供の世話をする必要があるため、彼女自身の必要を維持するだけのものと想定される」のである。

 吉田は、賃金全体の高低を問題にしても、女性の低賃金それ自体が問題視されることはあまりなかったことを指摘する。

このように、イギリス社会において女性の低賃金を問題だとする考えは、ほとんどなかった。

 吉田は現代の歴史家の一人であるJ.バーネットが当時のイギリスの女性の低賃金を「合理化」する理由として「肉体的力を必要とする職種が多く、これをもっていないという点でも男性に劣る」と述べていることも紹介しながらバーネットを批判している。なんだかマルクスの記述に似てません?

 だとすれば、ここで大事なことは、マルクスが果たして女性の低賃金(男女の賃金格差)そのものを問題視し、例えば平等な賃金を掲げているなどの視点を持っていたかどうかであるが、少なくとも田村が引用した箇所ではそのような記述は見当たらない

 むしろビーチイなどから“19世紀の男性だったマルクスにはそういう視点はなかった”的な批判を浴びるのは無理もないような気がする。*3

 

 だから田村のいう「このように、機械制大工業が導入されたときに、女性と子どもは、熟練労働者としてではなく、最初から“未熟な労働者”として低賃金の働き方が出発点となっているのです。ここに職場でのジェンダーギャップの原点があると思います」という説明は、「うーん、いやあマルクスはここではあんまりそんな話をしていないのでは…?」「むしろマルクスも女性の賃金の低さをあまり疑ってないように読めるんだけど…?」とモヤモヤしてしまうことになる。

 

田村はジェンダー平等の角度からマルクスを批判的に吟味してみては?

 吉田の論文を読んだ後に、批判的な気持ちで『資本論』を読むことのほうが面白いと思うが、そういう講義スタイルはどうだろうか。

 吉田の論文を読めば、19世紀イギリスにおける女性労働力の「補助労働力扱い」ぶりがなんと現代日本と似ていることか! と学習会で盛り上がることは間違いないと思う。その賃金の決まり方が、「市場」ではなく「慣習」つまりジェンダーによって決められているということも強く実感できるだろう。

 目先の資本主義(つまり利潤第一主義)的な「合理」性から言えばそのような特定の性だけの低賃金は「合理的」であると言えるが、田村が講義で述べているように、近代的な合理性から言えば全く不合理なもので、女性が働きやすく(つまり労働力として搾取されやすく)、どのような性であっても「一人で暮らす」という想定をした場合は、「補助的労働力の低賃金」という考えは不合理なものであるし、資本主義の「永続」にとっても都合が悪いことが、議論の中でつかまれるのではないだろうか。

 共産党が資本主義を乗り越える社会主義の前に「資本主義の枠内での民主主義革命」をやろうというポイントもつかんでもらうことができるはずである。いわば「資本主義のもとで最大限に公正なルールを」というスローガンに近いものだからである。

 

 『資本論』やマルクスを、いや志位をはじめとする男性幹部の「理解」を絶対の枠組みにすることを、田村はやめるべきである。

 『資本論』やマルクスもジェンダーから見ると先進的な部分と、遅れた部分があるんですね、と講義した方がよほど刺激的で面白いではないか。もし田村がそういう抗議をすれば、「じゃあそんな遅れた『資本論』を読むのなんかやめた」となるのではなく『資本論』を現代の目で、聖典視することなく自由に議論できる手がかりを与えてくれるものになるのではないだろうか。

*1:クーン、ウォルプ編著『マルクス主義フェミニズムの挑戦 第二版』勁草書房、p.171。

*2:ついでに言えばマルクスのもう一つの関心は、女性については、独立した契約者として資本家に相対するのではなく、夫から売り飛ばされるようにして働かされるという非人格的な扱いや、まともな教育や教養を得られない問題(「精神的な萎縮」)である。

*3:なお『資本論』第1部第13章第9節では「鉱山特別委員会報告書」をマルクスが引いて、鉱山における成人男性と比しての「少女」たちの低賃金を問題にするくだりがあるが、これは要するに監督者によって「中抜き」がされていることを告発する文脈であって、男女の賃金格差一般を問題にしているわけではない。

創作物に没入している顔

 『海が走るエンドロール』を読み返していて、7巻で、PFF(ぴえフィルムフェスティバル)のプロデューサーをしている古田という女性に目がいく。

 シゴデキ感がある女性が何がしかの審美眼を持っているというストーリーに憧れるからだろうか、カナダに来た主人公(茅野うみ子)の映画を二人きりの時に高く評価しているシークエンスが好きだ。

 特に、うみ子が作った映画に見入ってしまっている何気ないコマが、没入している感じがさりげなく出ていてとてもいい。

たらちねジョン『海が走るエンドロール』7巻、秋田書店、p.117

 没入。

 そういえば『スキップとローファー』12巻でも、学園祭で「フランケンシュタイン」を聡介が演じ、それを見ていた多くの登場人物がその劇に没入する様子を描くシーンが登場する。

 

 暗い中で舞台からの光に集中し、全てを忘れる。

 面白いように口が半開きになっている。古田の表情に似ている。

高松美咲『スキップとローファー』12巻、講談社、p.168

同前p.171

同前

 そして、再び『海が走るエンドロール』に還ってくる。

 カナダに行った主人公のうみ子ともう一人の主人公である濱内海が、受賞作が上映されて拍手が沸き起こった瞬間に

「誰が撮ったとか

なんのために撮るとか

嫉妬とか

劣等感とか

あの瞬間

あの空間では

どうでもよくなって

それが」

「メチャクチャ

ゾクゾクしたっすよね」

と二人の掛け合いの言葉でその気持ちが綴られる。

 それは「映画を観ている瞬間」なのである。

 これはやはり没入なのだ。

 全て忘れるのである。

 現実を増幅させて強く思い出させる作用もあるけど、全てを忘れて没入することも多い。『スキップとローファー』でも作り手である演劇部の部長がその瞬間を感じて自分がやってきたことは良かったんだと噛み締める。それはうみ子と海の振り返りにも似ている。

 今日もぼくは没入できる作品が読みたくてマンガを読んでいるし、映画を観ている。


 

「田村さんと学ぶジェンダーと資本論入門」を聞く

 共産党委員長の田村智子が「ジェンダーと『資本論』入門」という講義をするというので聞いてみた。

www.youtube.com

 例えばQ2で「手取りを増やす」と「給料を上げる」を対立させて、

減税などで「手取りを増やす」との主張と「給料アップ(賃上げ)」との違いは「搾取と闘うかどうか」にあると語りました。(「しんぶん赤旗」日曜版26年6月21日号)

 そしてスシローでの賃上げストライキでせめて他と同じくらい賃上げしてくれという要求をかかげたことを紹介し、この企業の大儲けに切り込むべきだと主張するのである。

 だが、田村はマルクスの次の言葉を読んだことがあるだろうか。

労働者階級はこれらの日常闘争〔賃上げ闘争〕の究極の効果を過大視してはならない。自分たちはもろもろの結果とたたかいはしているが、それらの結果の原因とたたかっているのではないこと、〔賃金の平均以下への〕下向運動に抵抗はしているが、その運動の向きをかえているのではないこと、一時おさえの薬をもちいてはいるが、病根をなおしているのではないことを、彼らは忘れてはならないのである。したがって彼は、一時の休みもない資本の侵害や市場の変化からたえず発生してくるこれらの避けがたいゲリラ戦〔賃金闘争〕だけに頭をつっこんでしまってはならない。現在の制度は、彼らにあらゆる困苦をおしつけるが、それと同時にそれが社会の経済的再建に必要な物質的諸条件と社会的諸形態〔新しい社会の要素〕をも生みだすものであることを、彼らは理解すべきである。「公正な一日の労働にたいして公正な一日の賃金を!」という保守的なモットーのかわりに、彼らはその側に「賃金制度の廃止!」という革命的な合言葉を書きしるすべきである。(マルクス『賃金・価格・利潤』/『マルクス=エンゲルス8巻選集 第4巻』大月書店、p.154)

 要するに、賃上げ闘争に没頭して「公正な賃金」を求めることは、搾取制度と闘うことではない、とわざわざ釘を刺しているのである。

 あるいは盟友エンゲルスも全く同じ主張をしている。

 公正な一日の労働にたいする公正な一日の賃金だと!…この古い合言葉が通用した時代はすでに過ぎさって、今日ではほとんど役に立たなくなっていることは、かなりに明瞭である。経済学が今日の社会を支配する諸法則を真に規定するものであるかぎり、この経済学の公正〔「公正な一日の賃金」という要求〕は、もっぱら一方の側に——資本の側にのみ有利である。だから、この古い標語を永久にほうむりさって、別の標語と置きかえようではないか。すなわち、

 労働手段——原料、工場、機械——を、働く人民自身の所有に移せ!(エンゲルス『公正な一日の労働に対する公正な一日の賃金』/前掲第7巻、p.81)

 マルクスと同じ主張をしているのがわかるだろう。エンゲルスはイギリスの労働組合新聞でこの種の主張をなん度もして、新聞のトーンと合わなくなってきて寄稿を打ち切ってしまったほどである。

 マルクスやエンゲルスが生きていたその時代には、賃上げ闘争とはどんな意義があるのか、その延長線上に社会主義はあるのかという論争があり、マルクスとエンゲルスはその「意義と限界」、特に「限界」を強調することに腐心していたのである。賃上げだけしてしても新しい社会は作れない、賃金奴隷であること自体をやめるようにたたかわないと、というわけである。

 もともと田村に寄せられた質問は「給料が安くて困っています。これは搾取ですか?」というものだった。田村がこの講座を「『資本論』入門」と銘打つなら、田村はこう答えるべきだったはずだ。

(ぼくが考えた架空の回答)

 労働者は一日に生み出した富のうち、「給料」「賃金」という看板で、自分が明日も生きていき働けるための分しか渡されず、残りの富を全て「儲け」として資本家が持っていって好き勝手に使われています。これを搾取と言います。あなたが「安すぎる給料」から「安くない給料」を求めることは、「せめて明日も馬車馬のように働けるだけの衣食住を買うお金をください」というのと同じで、生きていく上で最低限の控えめな要求にすぎません。

 でも単に「お金を増やして」というだけでは、それは搾取と闘うということではありません。

 大事なことは「もうけとして持っていく分は、資本家が勝手に使い道を決めるな。それは私たちが生み出したものであり、私たちの生活向上や時短、社会全体を良くするために使うべきものだ。私たちにもその使い道を決めるのに参加させろ!」ということです。

 それが搾取と闘うということです。

 どうしてそういう答えができないかと言えば、「搾取を廃止するとはどういうことか」という点で理論的に整理されておらず混乱しているからである。

 搾取とは、剰余生産物の処分を資本家だけが行い、それを生み出した階級や他の多くの階級が排除されていることだ。搾取の廃止は、逆に、その処分の決定に、労働者をはじめ国民の多く=社会が関与することである。

 「せめて他と同じような賃金を」という闘争は、IをⅡにする闘争である。要求が最低限であるだけに、共感を得て広がりやすいものだ。「労働力をその社会的価値通りに支払え」という運動でもある。

 そうした運動の切実さやすぐれた点とは全く別に、賃上げ闘争は基本的にはv部分をどうするかという性格の運動である。剰余価値(m)を誰がどう処分するかの決定権をめぐる闘争に発展させなければならない、というのがマルクスやエンゲルスの指摘の根本だ。

 莫大なm部分がなぜ放置をされているのか、という問題が残されている。質問者はダンピングされた労働力価値の販売だけを「搾取」と理解してしまわないだろうか。労働力が資本主義のもとで「公正」に販売されても、それどころか多少高く売られたとしても、依然として「搾取」は続いているということを理解しただろうか。そこが肝要な点である。

 この視点がないために、「手取りを増やす」と「賃上げをする」ことが何か対立的なものののようにとらえて「モヤモヤ」(田村)してしまうにすぎない。「賃上げ闘争」をして資本と「直接対決」していれば、それが何か「搾取とたたかっている」かのように思い込んでしまうわけである。

 「手取りを増やす」こと、例えば、児童手当を増額して子育て世代の「手取りを増やす」ことは「搾取とたたかう」ことではないのだろうか。児童手当は社会保障予算の一環であり、その原資は資本家のもうけをふくめた「剰余生産物」から成り立っている。その労働者(国民)への支給額をもっと増やすように国会を通じて闘争することは、剰余生産物の処分を(資本家だけの言いなりでなく)社会全体の意思で決定させることであり、「搾取の廃止」に向けた闘争の一環たりうるのである。*1

 「手取りを増やす」が国民民主党のスローガンだからケチをつけたかったのかもしれないが、いかに「反動的思惑」から始まったものであろうと、それが社会の進歩を開くのは、まさに過酷な児童労働や女性労働が、新社会の構成要素となっていくという『資本論』が説いていることであり、田村自身がその話を別のところでしているではないか。なぜ話が現代に及ぶと、そのような弁証法的柔軟さを切り捨ててしまうのだろうか。もっと『資本論』に田村は学ぶべきだろう。

 

 田村は具体的有用労働と抽象的人間労働の話から始まる教室的な「搾取」解説を何が何だかわからない早口でまくしたてた上で、8時間労働のうち半分は賃金、半分は搾取されていると説明するのだが、このままでは「じゃあ搾取をなくして給料を倍もらうってことなのか?」などという理解になっていくのではないのだろうか。

 

 田村講義は全体として、このような不十分さ・不正確さが目立つ上に、『資本論』とはあまり関係のない話が多いただの「ジェンダー」の話であって、『資本論』にあまりからんでいないのである。

北海道で出会った水路(紙屋撮影)

 田村講義のような粗雑さが生まれてしまう根底には、『資本論』そのものと格闘するのではなく、志位和夫のテキスト(青本・赤本・緑本)の域を出ていないからである。志位の赤本(『Q&A いま『資本論』がおもしろい』)は、『資本論』の解説としてある程度は役に立つとは思うが、「昔の労働学校の説明に現代的な例示をくっつけただけ」+「労働時間の話」というほどなので、これだけで勉強している人はそこに散らばっている粗いテーゼを繰り返すしかないのだ。

 搾取をなくすとはどういうことかという整理がない。

 あるいは、資本主義と地続きなものとして共産主義でどう時短が進むかという合理的な考察がない。

 現代的な問題そのものと正面から格闘していないので、深みがなく、変化球の質問には耐えきれない。志位の本は「Q&A」形式だがその質問自身がおそらくあらかじめ本人によって綿密に準備されているのはそのせいであろう。「草稿」だのディルクだのそういう学問的・学者的「粉飾」はその本の値打ちとはあまり関係がない。

 

 田村にアドバイスするとすれば、志位のテキストだけで講義を組み立てるというのをやめて、自分で『資本論』をよく読むことから始めてみてはどうかと思う。「そんな時間はない」というのなら初めから講義などしないことだ。この時間、ここに造詣の深い研究者の話を聞いた方がよほどためになると思う。

*1:なお田村は確かにスシローを運営する会社の儲けの問題に少しだけ言及しているが、こうした腑分けの説明はないし、そもそも「手取りを増やす」と「賃上げ」を対立させる言われはない。また、社会保障での給付額をめぐる闘争だって、剰余生産物の処分の決定に社会(労働者)が関与するという視点が欠落していけば同じことではある。

ブルボン小林『有名人の愛読書、読んでみました』

 書評みたいなことを書いている身として、短い文章でどう書くかを勉強し直すつもりで読んだ。

 「女性自身」の連載なので、一つ一つは短い。

 加えて、「有名人」、芸能人だけでなく、首相やスポーツ選手なども取り上げている。

 本を書評するだけでなく、「あの有名人が愛読書としてあげている」という要素が正面から絡んでいるので、「その有名人」論にもなっていないといけない。これを短い文章の中でどう両立させるかがまさに「文の芸」として読みどころである。

 例えば坂口健太郎。

 ぼくが坂口に興味を持ったのは、「鎌倉殿の13人」で北条泰時役が妙に心に残ったからである。しがない田舎のいち豪族の次男だった北条義時(小栗旬)が鎌倉政権の樹立とともに残忍な粛清を繰り返す冷酷な独裁者に闇堕ちしていく中で、それを理性的に批判する次世代の希望の光として、視聴者の共感の砦となってきたドラマ中唯一の存在が、坂口演じる北条泰時であった。そら、あたいの印象に残るわ。

 坂口は『聖の青春』をあげている。

 ブルボン小林は同書が難病と戦った夭逝の棋士・村山聖の伝記であることを簡単に伝えた上で、

命の有限性を強く実感していた聖の将棋への打ち込みぶりは熱いもので、門外漢をも感動・落涙させずにはおかない。(p.97)

と規定し、すぐに坂口論に入っていく。

 ただ坂口さんは「彼の真似をしようとか、彼のようになりたいとはまったく思わないんですよね」と、安易に共感してみせない。

 「飽きっぽい性格の自分にはないものなのだなと思い知らされるというか」とどこまでも冷静だ。対象への畏敬の念ゆえ、自分を飽きっぽいと「下げて」同列に並ばないようにふるまったようにもみえる。

 これまでの彼の出演作では、どこまでも落ち着いた彼を「少し困った目に合わせる」ような役柄が多いような気がする(p.97-98)

 「ふるまったようにもみえる」という具合に、「そこは芸能人のオトナの事情でこう言ってるだけでしょ」という意図のようにも読める。雑誌で公開される有名人論になるので、居酒屋談義のようにあけすけに書くわけにもいかないところに、一種の面白い制約がかかっていてそれをどうクリアするのかも読みどころである。

 

『社会主義下の人間の魂 オスカー・ワイルド評論選』(町田亮大編訳)

 日本共産党が“社会主義の目的は労働時間の短縮による人間の全面発達である”と2004年に綱領を変えた(志位和夫はその変奏を現在やっている)。

 オスカー・ワイルドの本書の表題評論は1891年に発表されたもので、マルクスが死んで10年はたっていないし、盟友のエンゲルスはまだ存命だった頃のものだ。

 簡単に言えば、社会主義が生きるためのさまざまな経済上の苦痛から人間を解放したら、個性の発達というか個人主義が花咲くんだぜ、という主張で、その中でも芸術の開花について詳しめに論じている。

目指すべきは、貧困の存在しえない基礎の上に、社会を作り直そうと試みることである。(p.10)

社会主義そのものは、それが個人主義に通じる道を準備する限りで、価値あるものとなる。(p.11)

 日本共産党が新しい綱領でめざすとした社会主義像に似ていることがわかるだろう。

 本書には、それから半世紀経ったのちのジョージ・オーウェルの書評が載っていて、

ワイルドの社会主義観は、そらく当時ワイルドほど上手く文章を書けない多くの人たちも共有していたものであろうが、ユートピア的で、アナキスト的なものだ。ワイルドいわく、私有財産の廃止によって、ひとびとは個性を十全に発展させることが可能になり、「他人のために生きるという低劣な義務」から解放される。(p.119)

と、この時代(19世紀末)の社会主義の共有されたイメージを語っている。

 まあ要するにそういうことだ。

 だから、マルクスがこの約束の地(目指すべき地点)に注目したとて、それほど驚天動地のことではないが、経済学的な裏付けをもってそこを展望したことには大いに意味があったと言える。

 

 その書評をオーウェルが1948年に書いていることに一つの皮肉がある。

 1948年といえばソ連とスターリンがナチスドイツを打ち破った英雄として世界中から称賛されたのが冷めやらぬ時期であり、「社会主義(=ソ連)では食うものに困らない」的なイメージがはびこっている時代だ。そんな時期に、オーウェルはこのワイルドの書評を再び取り上げて、高く評価したのである。

 1960年代でさえ、共産主義(社会主義)の「すばらしさ」を、「いっぱいモノがある!」ということで「グヤーシュ・コミュニズムハンガリー式の、国民の豊かさに主眼を置いた共産主義)が大手を振っていたというのに。

 以下は、当時の中国共産党幹部(譚震林)の主張である。

結局のところ、共産主義とはどういう意味だろうか? (中略)第一に、単に腹を満たすだけない、良い食事をとること。毎食、肉を摂取して、鶏肉か豚肉か魚か卵を食べること。(中略)猿の頭、燕の巣、白トリュフといった珍味が「必要に応じて各人に」提供される。(中略)第二に衣服。人々が欲しがるものはすべて手に入るはずだ。大量の青い服[だけ]でなく、さまざまなデザインやスタイルの衣服が。(中略)労働時間が終われば、人々は絹やサテン(中略)狐の毛皮がついた外套をまとう。(中略)第三に住居。(中略)北部では集中暖房、南部では空調設備が与えられる。だれもが高層ビルで生活する。言うまでもなく、そこには電灯、電話、水道、テレビがある。(中略)第四に輸送路。(中略)あらゆる方面への空路が開かれ、各国に空港が備わる。(中略)第五に、万人のための高等教育。(中略)これらすべてを合わせたものが共産主義である。

(フィリップ・ショート『毛沢東 ある人生』白水社、山形浩生・守岡桜訳、下巻p.163-164)

 オーウェルはまずは皮肉から入る。ソ連の現実は、ワイルドが望んだような社会とは真逆になっていたからである。

いまこの楽観的な予測を読むとたいそう暗い気持ちになる。もちろんワイルドは社会主義という運動には権威主義的な潮流もあることを知っていたが、それが支配的になるとは思わず、皮肉にも予言みたいに響く調子でこう書いている——「視察官が毎朝、市民を戸別訪問し、各人がきちんと起床し八時間の肉体労働をこなすよう監督するといったことを真面目に提案する社会主義者が昨今いるとは考えにくい」。残念ながら、まさにこんなことを提案しそうな社会主義者が今では掃いて捨てるほどいる。どこかで方向を誤ったとした考えられない。(p.120)

 オーウェルはワイルドの評論を2つの点で批判した上で、ソ連の現実と対比した際に、何が社会主義として目指されるべきか(つまり個人主義が輝くということ)を指摘した意義を再確認している。

 「2つの点で批判」は、今日的なものでもある。

 一つは、「もう生産は足りている。あとは分配だけだ」という議論について。オーウェルは、“これはヨーロッパだけしか見ていない。アジアやアフリカなどを忘れているね。まだまだ増産が必要だよ”と述べている。

 この問題は、今日、気候危機と関わって、成長を抑制すべきだが、発展途上国にはその権利を認めるべきだという議論と似ている。プラネタリー・バウンダリーが問題になる時代に、生産(=成長)がさらに必要か、基本は富の分配が問題かは、科学が決めることである。問題は、「どちらにせよ経済を制御する仕組みが世界的に必要である」ということになる。これはマルクス主義が提起し解決策を提示している問題であるが、その「解決策」は四角四面な「計画経済」ではなく、現代の資本主義の中に「市場経済をコントロールする各種の手段」として族生しているものだ。

 もう一つは、「不快な仕事は機械が何でもやってくれる」という議論について。ワイルドはそのような世界のためには奴隷が必要だが、現代では機械がそれをやってくれるんだぜ、と楽観している。しかしオーウェルは、いや機械で代替できる労働は一部しかないよ、と述べている。

 ぼくはもともと、「そんなにあくせく働く必要があるのか? もう生産力はそんなことをしないでもいいくらい高まってるんじゃないの?」という気持ちがある。だから経済の果実を儲けではなく社会のために還元するという社会主義を支持しているのである。

 ぼくが高校時代に感銘を受けて、左翼の道に進んだある一冊の本がある。

 樋渡直哉という高校教師の教育実践のエッセイのようなものだ。

 その中に、チェコスロバキアのアニメで「おくれたさん」というアニメについて書いている文章がある。何をやっても遅刻ばっかりの「おくれたさん」は、寝坊の若者を起こすという適職を見つけて終わる。自分が変わるのではなく、社会がその人に相応しいものを用意したり、社会自体が変わるという結論を樋渡は「愉快」だとした。

 それはぼくにとってコペルニクス的転回だった。

 おくれたさんは、おくれたさんのままでいい。そのままで心配はいらない。世の中は捨てたものではないとの結びは素敵だ。

 日本にも昔はこんな話があった。「三年寝太郎」、「放蕩一代男」「与太郎」。民衆は笑いながら、自分と世界の人間らしさを再発見したに違いない。

 定められた時間内に解答がなければ学力はないと判定され、レポートや課題の提出がわずかでも過ぎれば「世の中甘くない」と一喝される。

 本当に世の中が甘くないとしたら、そうしたのは人間だ。魔物ではなかろう。ならば皆で甘くしたらいい。甘く楽しい、ゆとりに満ちたおだやかな生活をしたらいい。生産力はそこまでとうに高まっている。古代ローマ帝国の市民は、年間の休日が二百二十日にも及んでいたのだ。奴隷がいたのではないかと言われる。しかし今、機械にコンピュータ、単位面積当たり収穫量の劇的増大があるのだ。

 資本論の論理の前に、人間の論理は出る幕を失っている。

(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか 現場からの管理主義教育批判』p.221、1986年、地歴社)

 確かに、現時点でAIを含め、機械が何でも労働を代替してくれるわけではない。

 今起きているのは、代替できる労働はAIや機械で、現時点で代替できないものに人間の労働力をというシフトである。「現時点で代替できないもの」はおそらく技術の発展で刻々と変わっていく。

 ここでも問題は、「AIや機械が代替した労働時間を、資本家が独占するか、社会のために徐々に還元してく仕組みがあるか」ということになる。これも1か0かではない。そのような仕組みが次第に資本主義社会の中に生まれ育っているのである。

 ぼくらはワイルドの目指した社会主義を継承するし、オーウェルの懸念もまた継承する。

 その上で里程標や地図を作るとすれば、まずは、「すべての人が健康で文化的な最低限度の生活ができるようにすること」だろう。その中に労働時間が含まれているとは思うが、狂乱的とも言える物価高騰が国民を襲っている中で、主要な問題は、まずは「安心できるカネ・モノを用意すること」だろう。

 「ダブルワーク、トリプルワークで子どもの面倒が見られないシングルマザー」には労働時間の規制が一見必要なように見えるが、「1日4000円の賃金があれば子ども3人は面倒見られる」という公的な現金給付、あるいはベーシックな住宅、教育、必要なら食事(現物給付)が用意されれば、そんなに働かなくても、一息はつけるのである。

 「労働時間かカネか」という二者択一ではないにせよ、重点を置くべき順番を間違えないことだ。

 そして、当の社会主義者——例えば日本共産党自身が「個人主義」や「個性」と縁遠い「権威主義」の存在だと思われているうちは、ワイルドのような考え、オーウェルのような批判を乗り越えることはできない。言葉で説明するのではなく、存在自体がそのように映らないうちは、社会主義とは個性を開花させる存在だとは思われないだろう。

 少なくとも、組織内で幹部自身や特定の贔屓の人たちの言動だけは「市民活動には干渉しない」などと野放図に許しながら、自分たちのお気に召さない党内の議員や党員についてはその実名・匿名アカウントでのSNSの発信を、党職員を動員して日夜チェックし、それを大量にプリントアウトして「証拠」として突きつけ、密室で1対多数で何時間も説教して「変節」を迫っているうちは、「視察官が毎朝、市民を戸別訪問し、各人がきちんと起床し八時間の肉体労働をこなすよう監督するといったことを真面目に提案する社会主義者」だと思われてしまうのではないだろうか。

品田遊・南十字明日菜『そういう人もいる』

 前に何度かこのブログには書いたが、「数学の宿題をやっていない夢をよく見る」と時々書いているが、また最近よく見るようになった。

 それだけでなく、連続して「自分が通った大学の入試の願書を自分だけ出していないことが当日わかって受験できない」という夢を見た。

 つれあいが「かわいそう」と気の毒がる。

 数学の方は、「俺、ホントになんも数学最近やってないな。やってないから全然やれる感触がないもん」というのが夢の中でありありと感じられて、そこが嫌なのである。つまり「やらなけならないことと薄々気づきながら、ずっと放置して大変なことになっている。早くやればいいだけのことなのに」という状態が、行き詰まって行き詰まって完全にパンクしている状況なのだ。

 願書の方も似た感じなのだが「あれだけ前から、超重要な日程としてやっておけばいいとわかっていながら結局放置してその日を迎えて、他の人に指摘されて絶望し、絶望しながら『わかってたんだ。忘れてたわけじゃないんだ』と言ってもせんのない言い訳を頭の中でする」という感覚がありありと残るのである。

 数学も願書も、「まわりの人が要領よく追えている」感覚につきまとわれる。

 日頃の生活でも「え? そんな便利なもの知らないの?」とか「みんなやってますよ? 紙屋さんも前ちょっと言ってましたよね」とか言われる感じがすごくイヤなんだが、そういう感覚がシャワーのように夢の中で降り注がれる。

 いや今現実がそういう感じなので、単純に夢にそれが反映しているだけなんだと思う。

 というのは、雇用されていて、しかもだいたい仕事の先行き・見通しがわかっていたときは、期日ややっていないことへの不安があまりなかった。

 ところが、今、新しい職をして一つ一つの仕事の見通しがよくわからない状態な上に、副業としてやっていることも多く、裁判がこれに加わってくるので、「忘れているかもしれない」「見通しが甘すぎるかもしれない」という変数をいっぱい抱えている状況なのである。

 

 

 

 有能そうだがズボラでクセのある編集者・美澄(みすみ)と、レンタル彼氏をやっている幾翔(いくと)の夫婦を1〜数ページで描くマンガを読んでいて、いいオトナであるはずの美澄がいまだに

「ナップザック持って帰ってくるの忘れた!!」

という夢で目がさめるというエピソードが出てくる。

 小学生の自分の座っていた机の横に、永遠にナップザックがかかっているのだ。

 笑うところであって、かわいそうがるシーンではないが、かわいそうである。

 ぼくの場合は永遠に数学の宿題を忘れ、永遠に願書を出し忘れているのである。