萩本創八・森田蓮次『アスペル・カノジョ』8巻のワンシーンへの違和感

 『アスペル・カノジョ』は、新聞配達のアルバイトをしながら、自分の好きなマンガを細々とウェブで発表して暮らしている男性(横井)のもとに、その作品を読んでどうしても会いたくなった女性(斎藤)がやってくる話である。

 横井は人付き合いが苦手でおそらく発達障害の可能性があるのだが、斎藤は自閉症スペクトラムの当事者で、極度の生きづらさを抱えて生きてきた。横井は、不安と苛立ちと絶望の中にいる斎藤を放っておけなくなり、依存や支配の危ういバランスを渡りながら、二人は共同生活を始めていくことになる。

 その中で、8巻に次のようなエピソードがある。

 

 

 同じ新聞配達をしている清水あずさという女性もまた発達障害なのだが、あずさのパートナー(浩介)もまた清水が放っておけないと感じて結婚し、子どもも産んで育てている。この夫婦と、横井・斎藤は知り合いになるのだが、斎藤が過去にいじめられた同級生を衝動的に殴ってしまった件で訴えられた際に、横井は浩介を頼る。

 問題が解決し、横井がお礼の電話を入れると、突然浩介から指摘される。

君が対人恐怖症に苦しんで人間社会から距離を置くのは自由だよ

でもそれは降ってくる災厄も自分で振り払うってことを意味してる

僕も人付き合いは得意じゃないし あずさちゃんなんてそれ以上に苦しんでる

それでも無理してでも人の輪に参加しようと努めてるのは いざという時に助けてもらう人脈を確保するためでもある

近所付き合いもそういうセキュリティの意味があるからね

だから鬱陶しくてもストレスに耐えながら人と接してる

僕を頼るのはいいんだよ

横井と僕は直接の友人だから

でも僕の人脈まで頭に入れて頼ろうとするのは意味合いが違う

君自身が人の輪を避けて他人への貢献を拒否してるのに

自分が困った時だけは考えてるなら

それは僕にとってかなり不愉快な心構えだ

 

 突然の指摘に横井が驚いていることはコマからもわかる。

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萩本創八・森田蓮次『アスペル・カノジョ』8巻、講談社、p.171

 ぼくはこのエピソードの浩介のセリフが突然ここで入った意味、そしてその意義が理解できなかった。

 まず浩介が言いたかったことへの、ぼくなりの感想。

 横井は浩介との「人の輪」には参加している。マンガにも出てくるが清水邸を訪問するにはかなりのハードルがあり、それを乗り越えて横井たちは清水の家にやってきたのである。そして、浩介も横井とは直接知り合いになったのだから、横井を頼ることは認めている。

 問題はここからで、浩介がストレスによって得た人脈(法律実務を知る知り合い)に横井がつながりそれを利用しようとするのは、要するにフリーライドだと浩介は言いたいのである。

 これは町内会やPTAなどでも起きることで、社会関係資本をなんの対価もなしに得ようとするのはおかしいという議論だ。

 だけど浩介が本当に「不愉快な心構え」だと思ったなら、浩介は自分が苦労して得た人脈を横井に紹介しなければよかったのではないだろうか。横井はストレスフルな人付き合いを避けていることによって、有益な人脈に直接つながれるチャンスを逃すわけだから、「ふん、いつも人付き合いを避けている、あんなやつに誰が紹介するか」と思われるリスクを当然抱えているのである。

 ぼくも町内会長をしていたのでわかるけど、まだ会費を集めて加入を呼びかけていた頃、団地の1軒1軒を訪ねて「町内会に入ってくれませんか」とお願いをしていた。そうすると「うちは入らないよ!」とつっけんどんな対応をしてくる家があった。もしも横井のような困難を抱えた家ではなく、そうした「つっけんどんな対応の家」を想定したら、「誰があんなやつに紹介するか」と思い「ごめんなさい、そういう法律関係の知り合いは思い当たりません」と嘘をつくのはとても自然だろう。そして「つっけんどんな対応の家」は「不愉快な心構え」の報いを受けるのである。

 だが、横井と斎藤の困難を直に知っているからこそ、浩介は自然な気持ちで自分の人脈を開放したのだし、「つっけんどんな対応の家」だって、ひょっとしたら困難な事情を抱えているのかもしれないから、困って頼ってきたのなら自分が持っている人脈を紹介するのもまた自然ではないか。

 人間関係のストレスを乗り越えて、多くの社会関係資本を獲得し、その中から有効なものを見つけることができるのはかなりの猛者だ。お金がある人は社会関係資本がなくても貧困から免れているし、お金がない人は、お金で解決する代わりにこのような社会関係資本を多く得ることで貧困から逃れている。お金もコミュ力もない人は、早々に貧困と孤立に陥るほかない。横井・斎藤はその典型だ。このような人たちが簡単に頼れる社会装置こそ必要なはずで、浩介がなぜここで横井にあんな説教をしたのか、まったくもって謎である。

 なお、上記のシーンへの不満をこのように書いたけども、『アスペル・カノジョ』は、ある種の発達障害を抱えた人の生きづらさとそれを受け止めようとする人・受け止めようとする活動の危うさをスリリングに描いた傑作である。

 

 

伊東順子『韓国 現地からの報告』

 リモート読書会で伊東順子『韓国 現地からの報告──セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)を読んだ。

 

韓国 現地からの報告 (ちくま新書)

韓国 現地からの報告 (ちくま新書)

  • 作者:伊東 順子
  • 発売日: 2020/03/06
  • メディア: 新書
 

 

 韓国に住んでいる著者が話題ごとに書いた短い文章の集まりなので、当然様々なことを考えたのだが、一番印象に残ったのは、実は「慰安婦」問題での日韓合意と徴用工判決というド硬派な部分だった。

 

通俗に流されない、基礎にある確かなロジック

 「慰安婦」問題での日韓合意は、岸田外相(当時)の声明をきちんと載せていたということだ。改めて読んで、そこに

安倍内閣総理大臣は、日本の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒し難い傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。

という文言があり、新しく設立する財団には日本が予算を一括して拠出することが書かれている。

 この声明自身は政府が予算を出し、総理大臣が「おわびと反省」を表明するというのは、河野談話の路線であり、決して悪いものではないことが説得的に示される結果になる。

 伊東は、街場の議論では日本の市井にいる「ふつうの」人々が、この声明をろくに読んでいないことをあげて、「心からのおわびと反省」に反する行動が日本政府側にあるのではないかという点で丁寧にその矛盾をついていく。

 つまり、伊東の議論は緻密なのである。

 こうした「現場・現地」レポートというのは、ざっくりとした感覚を紹介することに主眼が置かれるために、その基礎にある認識が粗雑になる場合がある。しかし、伊東の場合はそこに厳密さがある。それがこの本の揺るぎなさ、確かさの源泉になっているように思われた。

 徴用工問題でもそうだ。

 左翼的論調ではこれを「個人の請求権は失われていない」という問題にしていってしまう。

 しかし、伊東は、個人請求権が消滅していないという弁護士のコメントや西松建設での和解のケースなどを紹介した上で、

「法律的には解決済みでも、人としてやることは終わっていない」──というのが、私の意見だった。一企業と昔の従業員という関係の中で、謝罪や和解が行われるべきだと思ってきた。ところで今回の判決文をじっくり読んでみて、その「解決済み」が危ういものだということに気づいた。(伊東KindleNo.1268-1271)

として、判決文をよく読み直す。そして問題の核心が日韓基本条約だとして次のように述べるのだ。

「条約」には、日韓双方で根本的に合意していない部分がある。それは、「日韓併合」が「合法」か「非合法」だったかという点だ。そこを一致させないまま、あいまいな文章で条約を締結し、国交を回復したのが一九六五年のことだ。(伊東KindleNo.1273-1275)

 

 日本政府の立場は、「日韓併合」は「合法」であり、したがって請求権協定によって支払われた「無償供与の三億ドル、有償の二億ドル」は「賠償金」ではなく、「独立祝い金」(当時の椎名悦三郎外相の言葉)だとした。つまり、日本政府は賠償の義務を否定していた。なので、今回の件でも散見する「解決済み=賠償は終わっている」という意見は、逆に日本政府の立場とは相反することになる。

 今回の訴訟は「原告らは被告に対して未払賃金や補償金を請求しているのではなく、上記のような(強制動員への)慰謝料を請求している」(判決文)のである。不法な強制動員に対する慰謝料は一九六五年の請求権協定に含まれておらず、それは当時の日本政府自身が認めていたではないか、となる。(伊東KindleNo.1275-1283)

 

 「合法」前提で払われた過去のお金ではなく、植民地支配(併合)そのものが違法であったことを前提にした判決なんだよということを実に正確に見抜いている。これはすごい、と思った。

 この視点は、松竹伸幸の本を読んだ時に、ぼくもはじめて知って感動したポイントである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 伊東が「現地」の市井の声・感情を紹介しながら、通俗感覚で済ませるのではなく、その基礎にしっかりとしたロジックを置いている。そのことが本書(『韓国 現地からの報告』)の白眉であると感じた。

 

 ぼくは、今年の夏休みにいろんな人と会う機会があったが年配の人たち、いわゆる「そのへんのおじちゃん、おばちゃん」と話した時に、なぜか日韓関係の談義となり、「韓国はなんでいつまでも謝罪や賠償を要求するのかね?」「何回謝れば向こうは気がすむんだ?」という趣旨のことを別々に・何度か聞かれた。

 ぼくが今のところ結論として出したのは、

自分たちが本当に求めている謝罪を日本がしていないと、韓国側が考えているからです。 

というものだった。これはつまり日本が韓国を植民地にしたこと、あの植民地支配が違法だったという認識があるかどうかということだ。

 いくつかの問題は結局ここに行き着くと思えた。

 なぜそう言えるのか、は別の記事で改めて書きたいと思う。

 

 リモート読書会では、「だけど伊東の本では、韓国の若い人たちや世論一般はデフォルトではそれほど歴史問題に関心がいないように書いてあるけど。例えば徴用工問題は歴史問題としては微妙な顔をしていて、ホワイト国問題として激昂したって書いてあるよね。ただし、報道されて時間が立つと歴史問題としての認識が広がった、みたいなことが書いてあるよね」と指摘された。言われてみればそう書いてある。

 確かにそうなのかもしれない。

 だから韓国の一般市民がいつでも植民地支配の合法・非合法を世論感情としてこだわっているとは限らないとは思う。しかし歴史問題として繰り返されるのはなぜか、という問いにしてみたら、やはり植民地支配(併合)の合法・非合法問題に行き当たるということになるのでは、と修正したい。

 

検察の力の大きさ

 伊東の本ではそれ以外に気になったことがいくつもあったので以下、列挙しておく。

 韓国の検察には「絶対権力」「腐敗」のイメージがつきまとっていることが驚きだった。曺国のことは「文政権の腐敗」として日本でも話題になったが、韓国では「検察改革をしようとして検察側から追い落とされた」という話として広がっている。陰謀論かもしれないが、それが信じられるほどにまで検察が大きな権力を持っている。

 そう言われて初めて次のような記事にも目がいくようになった。

www.jiji.com

 リモート読書会でも「秘密の森」という韓国の検察ドラマが紹介された。

 

 

 日本の検察の負のイメージは「独善」ではあるが「腐敗」ではない。また、政治を支配するというほどの「絶対権力」性もイメージとしてはない(もちろん冤罪によって被告の生殺与奪を支配しているというイメージはあるが)。

 韓国好きの職場の同僚からは、韓国の金持ち学校を描いたドラマで、エリートの肩書きとして「検事総長の息子」というのがある、と聞かされた。そういうものなのか。

 

韓国の民主主義は遅れているのか? 進んでいるのか?

 伊東の本で他に気になったのは、韓国の民主主義を不当に持ち上げたり、逆に遅れた国だとみなしたり、そうしたアンビバレントな日本の感覚だ。これはぼくも以前書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

学生人権条例は日本でも欲しい

 また、韓国の中学生・高校生たちが学生人権条例によって、不合理な校則から自由になっていることは「日本でもこれは、やりたい!」と切に感じた。といっても、受験競争・推薦競争が相当にきつく、教育全体はおよそ窮屈そうで、とてもそこで学びたくはない、子どもを学ばせたくはない、と思ってしまったのだが。

 

 伊東の本には韓国のテレビの取材で伊東が同行した南阿蘇鉄道の話が出てくる。

 「このエピソードは面白かった。紙屋さんは九州ですから行ったことがありますか!?」とリモート読書会で聞かれたが、その箇所はなんの感興も催さなかったところであった(笑)。

 

 

 

 

横山旬『午後9時15分の演劇論』1巻

 美大の夜間部学生が集まって、1本の演劇を仕上げる話である。

 一度も舞台経験がない2年生の古謝タダオキが自分なりにカンペキと思うビジョンをもとにいきなり演出の役割を買って出るところから物語が始まる。

 根拠のない自信で出発し、空回りし、周囲から浮いていく…という話なのかなと思って読んでいくのだが、違う…違うな。

 

午後9時15分の演劇論 1 (ビームコミックス)

午後9時15分の演劇論 1 (ビームコミックス)

 

 

 そもそもメンバーは、古謝の演出指導にあからさまな不満を言わない。部分的には言うのだけど、古謝の言っていることが全くの空回りではなく、それなりに支持を得られているのだろうかと思う。

 古謝は途中から「やっつけ」の指導になってしまう。効率的に練習が進むような「前向き」な指導なのだが、こだわりが捨てられ、古謝の演出を舞台美術として支えようとしていた宮本から「チキン」と罵られてしまう。

 しかし、照明も舞台美術も役者もそれぞれなりに頑張る。頑張った結果、ゲネプロの段階でみた芝居は、古謝の目から見ても「これはこれでいいんじゃないのか」というものに仕上がっていく。台本を書いた教授からも絶賛される。

 だが、それは古謝がもともと演出として求めていたものではない。

 宮本もあれでいいのか、もともとのお前の演出と違うのではないかと意見を言うのだが、古謝自身は迷ったまま、その方向を変えられない。

 そして本番が幕を開けて、予想外のことが起きる。そこで1巻が終わる。

 

 どんな展開になっていくのか全くわからないのだけども、自分の想定・演出の完全なコントロール下に置こうとしていた演劇は、自分の思惑と違うさまざまな力や要素の合成力として出来上がっていき、さらにこれに観客を加えた舞台は、ハプニングやその場での相互作用によって新たな変数を生み出すので、もはや演出家から見て完全に制御不能の「いきもの」になっていくようだ。

 自分の描いた演出の中に劇を収めこもうとした理想の力と、集団が作り上げる芸術であり観客とのインタラクティブな作用として、当初の想定を次々に食い破っていく現実の力と、どちらが正しかったのか、2巻でその勝負がつくということだろうか。あるいはその問題設定すら超えていくのだろうか。

 久々に買った、電子でない紙のマンガということもあるかもしれないが、グラフィックの過剰さが「演劇」というものの過剰さによく合っている。

 2巻を楽しみに待つ。

日米同盟=核の傘の下での核兵器禁止条約参加は可能か

 核兵器禁止条約が発効の見通しとなった。日本の世論調査でも、日本政府に批准を求める声は大きい。

www.asahi.com

14、15の両日に、朝日新聞社が実施した全国世論調査(電話)で核兵器禁止条約について尋ねると、日本が条約に「参加する方がよい」は59%で、「参加しない方がよい」の25%を大幅に上回った。(朝日11月16日付)

 

 そもそも日本の自治体の99.5%が加盟する平和首長会議は、すべての国の批准を要求している。

 自民・公明政権があくまで批准を拒んでいる現在、政権が替われば批准する政府ができるのではないかという期待は大きい。ぼくのまわりの野党連合政権支持者は、当然に批准する政府ができるものと考えている。だが、そう単純でもない。

 自公政権が批准を拒否しているのは、アメリカの核抑止力に依存する安全保障政策をとっているからである。「核兵器の力で守られている」という政策を持つ国が、核兵器禁止条約を結べるのだろうか。

 

立憲民主党核兵器禁止条約

 松竹伸幸『安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない』はこの問題に触れている。

 

安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない

安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない

  • 作者:松竹 伸幸
  • 発売日: 2020/10/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 8月5日に枝野代表が広島で開かれたイベントで「条約に参加するための具体的ロードマップを描く」と語ったことなどを紹介して、松竹は次のように言う。

 

枝野氏が、「米国との同盟関係を維持しながら核兵器禁止条約に参加する」とか、その両者を「矛盾せずに解決する道」に言及しているのは、現在の立憲民主党の本質的な矛盾を象徴している。それは鳩山時代から変わらない。…立憲民主党が、一方でアメリカの抑止力に頼ることを防衛政策の基本として維持しようとしていることと、他方で核抑止力の否定の上に作成された核兵器禁止条約に参加することとは、本質的に対立しているのである。だから、枝野氏のようなものの言い方になってしまう。(松竹p.105)

 

 立憲民主党集団的自衛権行使を否認している。

 集団的自衛権はダメってことにして、あとは変わらない政権ができたらどうなるか。結果的に2015年以前の自民党政権の安全保障政策と同じになる。つまり、核兵器禁止条約は参加せずに核抑止力に頼った日米同盟が維持され、(本当の意味での)専守防衛となるわけである。

 松竹はこれ「だけでも意味のあること」(p.106)だと述べる。

 これはぼくもそう思う。そもそも、集団的自衛権の行使容認という現憲法下で絶対にありえない状態を放置しないことが解消されるだけでも大いに「意味のあること」だ。アメリカの戦争に巻き込まれるリスクも大いに低減する。それこそが「今そこにある危機」なのである。

 しかし、と松竹は続ける。彼は「どうせなら抑止力問題を徹底的に深め、専守防衛政策に新たな魂を吹き込んではどうだろうか」(同前)として、「抑止力」概念を批判的に検討して新しい防衛政策に転換することを提案している。つまり核兵器禁止条約に参加する専守防衛政策、「核抑止抜きの専守防衛」(p.108)を訴える。それがどんなものかは松竹の同書を読んでみてほしい。

 

共産党の「安保条約下での禁止条約参加」論

 同じ問題は共産党にも突きつけられている。

 共産党はすでに野党連合政権をつくるさいに、日米安保条約は廃棄せず、安保条約通りに発動させることを明言している。つまり日米同盟そのものは「維持」するとしているのである。

 そうなれば当然米軍の「抑止力」、すなわち核抑止力は維持されるのか、という問題が生じてくる。

 この問題について、共産党の理論誌「前衛」2020年12月号で川田忠明(共産党平和運動局長)が「発効する核兵器禁止条約をどう力にするか」という論文で「日米安保条約下での(核兵器禁止)条約参加」という問題に言及している。

前衛 2020年 12 月号 [雑誌]

前衛 2020年 12 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/11/07
  • メディア: 雑誌
 

  川田は、

日米安保条約によって、「日本に米軍の『抑止力』が提供される」、と一般には解されています。その中で核兵器によるものが「核の傘」です。別の言い方をすれば、アメリカが提供する「抑止力」の中の一つが「核抑止力」だと言うことです。私たちは、軍事的な「抑止力」という考え方は、日本の安全にも、アジアの平和にも有害だと考えますが、そこで考えが違っても、「日本の防衛のために、アメリカは核兵器を使わないようにする」ということは、日米安保条約と矛盾する話ではありません。したがって、理論的には、日米安保下での禁止条約参加は可能だと考えます(前掲誌p.45-46)

とする。つまり“米軍の抑止力一般は否定しないが、日本の防衛のために核兵器を使わないようにすることを、新しい日本政府の防衛政策にする”ということになる。

 具体的にはどういうことか。

 川田は、核兵器禁止条約の条文と解釈を読み込んで、次のように結論づける。

私は、アメリカの核兵器の使用とその威嚇を「要請」したり、「援助」「奨励」したりせず、核兵器の配備も「許可」しない、という点で一致できれば、連合政権は条約の義務を基本的に果たすことはできると考えます。(前掲p.46)

 つまり日本政府から核兵器使用・威嚇・配備などについてアメリカに「言わない」「手伝わない」ということである。

 これはぼくの解釈だが、逆に言えば、アメリカが核兵器を使用することについて手を縛る日米間の取り決めはしないということでもある。

 具体的に考えてみよう。

 A国と日本が戦争状態になる。その時に、日本からアメリカに「核兵器を使ってやっつけちゃってくださいよ」と「お願い」することはしないのである。核兵器以外の兵器でやっつけることは「お願い」するけど。他方で、アメリカが日本の防衛と無関係に、勝手にA国に核兵器を使うことについては手を縛らないということである。

 いや、「使うな!」と言うと思うよ。新しい日本政府は。だけど、条約上の整理は上記のようになるってことだろう。

 

リアルなところは

 アメリカは「核兵器を使う」という自国の選択肢が制約されるのを嫌う。だから、アメリカとして日本との間で「核兵器は使用しない」という取り決めはしないだろう。その取り決めをアメリカに求めれば、日米同盟は維持できない。

 しかし、日本政府が決意することはできる。核兵器使用には頼りません、と。

 この方式は、「核の傘」とか「核抑止力」をどう解釈するか*1、という難問を避け、禁止条約を条文通りに履行する方式で問題を解決するもので、なかなかよく考えられている。

 アメリカが核を使うかどうかは、リアルなところで言えば、日本防衛などという「チンケな理由」で使うことはあるまい。日本から要請があろうがなかろうが、日本が危うかろうが安全であろうが、使うときは使うつもりだろう。それがいいかどうか別にして。

 

 ただし、この方式を利用する際に待ち受けるハードルは、アメリカの日本(の米軍基地)への核兵器持ち込みを厳格に否定する手立てを、日本政府としてとるということだ。

それを担保するためには、日本への核兵器の持ち込みを容認した日米核密約を正式に破棄し、非核三原則を厳守、法制化することが必要です。(同前)

 核兵器を持ち込んでいい、という日米間の取り決めは「秘密」になっていて日米ともに公然と認めていないから、仮にそうした手続きを日本政府のイニシアチブで進めても、アメリカは公式には文句は言えないことになる。文句を言えば「え、やっぱりそんな取り決めがあったの!?」ということになってしまうからだ。

 だから、密約を破棄し、非核三原則を法制化したとしても、表面上は問題ない。

 水面下では相当な妨害が予想される。

 しかし、川田は「米政権の核による『拡大抑止』政策も変化しつつあります」(p.46)としているように、米政権は必ずしも日本への持ち込みにこだわるとは限らない。持ち込めないなら持ち込めないで、柔軟に他の道を探るんじゃないかということだ。そのあたりは松竹の本にも言及がある。

 この方式が現実的かどうか、国民の間で大いに議論が盛り上がればいいと思う。

 

 はじめはこうした議論をすることは、政権合意もないのにあまり意味がないのではないかと思った。しかし、こういうふうに「どうしたら条約に参加できるか」という形で問題を立てていけば、それは現在の自公政権も含めて参考になるはずである。建設的な議論だと言える。

*1:例えば「あくまで抑止だから、核兵器を使用しなければいい」などという解釈。

結びつけられない

 玉虫で装飾された馬具が福岡県内(古賀市)の古墳の出土品から確認されたという記事を読んだ。

 

www.nishinippon.co.jp

 「玉虫装飾」という見出しに何の感興ももよおさずに、ぼーっとした頭で記事を読み始めた。「国内で玉虫装飾の馬具が確認されたのは初めて」などという記事の一文を読んでも「ふーん」と鼻くそをほじっていた。

 しかし、記事を途中まで読み、そのうち次の画像をちらりと見て、初めて事柄を理解した。

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西日本新聞2020年11月15日付


 「あっ、これは本物のタマムシを装飾に使っているということではないか!」と。形がタマムシの羽そのものだったからである。

羽はほぼ完全な形で残っており、昆虫専門家が玉虫であることを確認している。……調査を指導した今津節生奈良大教授(保存科学)は「埋納坑内の土壌が湿潤だったため鉄類が早い段階でさび付き、さびに守られる形で玉虫などの有機物が残った可能性がある」と指摘する。

 すごくないですか、昆虫(甲虫)の羽を装飾に使うなんて!

 え、そこからかよ? と別の意味で驚く貴兄は、さらに基本的な事実に無知な紙屋に驚くに違いない。「だって、法隆寺の玉虫厨子ってウルトラ有名じゃん? 教科書とかで習わなかったの?」。

 そうなのだ。たぶん学んだはずなのだが、「ふーん」としか思ってなかったのである。聞いても本当の昆虫を使っているという事実を頭の中で最初から除外していたのだと思う。

 

 九井諒子ダンジョン飯』に、コインに擬態した「コイン虫」というのが出てくる。

 

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九井前掲書2巻(KADOKAWA

 


 人工のコインにそっくり(上図参照)だというのがSF的であるが、コイン虫が炒って食べられるという設定にクラクラすると同時に、コイン装飾がコレクターの間で高値がついているという設定にもSFだなあなどと思っていた。

 

ダンジョン飯 2巻 (HARTA COMIX)

ダンジョン飯 2巻 (HARTA COMIX)

 

 

 だけど、「虫を炒って食べる」というのは、今世界的に昆虫がタンパク源として注目されている流れからすれば当たり前であるし、虫の装飾が現実に宝物として珍重されるというのは、まさにこの「玉虫装飾」なのである。

 こんな簡単な結びつきに気がつかなかった。

 

「頭がいい」とは言えない人の演説

 今回は本当にアホみたいな例だったのだけど、「頭がいい」という人の一つのパターンは、「あれ」と「これ」を結びつける人なのだろう。ぼくはなかなかそれができない。

 全く違うものを結びつけることで技術思想が革命されるということはすでに「イノベーション」として言われていることであるが、もっと広く言えば、前に学んだことと今学んだことが様々なコネクターによって結びつけられる人がきっと「頭がいい」ということになるのだろう。特に文系的学問ではこれは必須だし、理系ではこういうことができる人がパラダイムシフトと言われるくらいの大転換をやってしまえるのだろう。

 逆に言えば、「頭がいい」とは必ずしも言えない人は、これがなかなかできない。「大転換」はおろか、本当にすぐ気づくような結びつきさえ気がつかないのである。「タマムシ」はまさにそれであった。

 政治演説などを聞いていても、こういう「結びつき」がわからない人のそれは、「結びつけ」がなっておらず、訴える内容について、やたらと柱や要素が多くなってしまう。悪い意味で教科書のようであり、スタティックなのである。訴えが生き生きしていない。死んでいるのだ。ぼくも気をつけていても、往々にしてそうなる。

 まあ、これ自体、よく考えるとすでに外山滋比古が『思考の整理学』で言っている「セレンディピティ」とか「思考のカクテル」とか「知のエディターシップ」のような話ではあるのだが。

発想のおもしろさは、化合物のおもしろさである。元素をつくり出すことではない。(外山前掲書Kindlepp.63-64)

 

 

参考

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

大きな枠組みに目を向けさせないようにする

 

なぜ「自分のできること」の範囲に限定するのか

 娘(中1)が「環境新聞」というのを学校の宿題で作っていて、横から眺めていた。

 温暖化について書いている。

 「結論は自分ができることを書かないといけないんだ」と言って、ムダな電気を消すとかそういうことを書いていた。

 その後授業参観で、クラスの壁に貼られた、クラスの生徒たちがそれぞれつくった「新聞」を見る機会があったが、温暖化だけでなく、ごみの減量とか、プラスチックごみの縮減とか、さまざまな環境問題についてまさに「自分ができること」で締めくくられていた。例外なく全て。徹底した指示・指導なのであろう。

 なぜ「自分のできること」の範囲に限定するのだろうか。どうして「2030年に8%という低すぎる福岡市の再生可能エネルギー普及率の戦略を引き上げる」とか「プラスチック全般に拡大生産者責任を徹底する」とか、そういう「大きな話」を書いてはいけないのだろうか。*1

 大きな社会の枠組みを変えない限り、「自分ができること」は全くムダになってしまうことがある。大きな社会の枠組みを変えることと結びつけて個人の行動を考えない限り、それはウソを教えているか、「大きな枠組みは個人ではどうしようもないもの」というあきらめを、これでもかと「教育」しているか、どちらかである。

 

自治体の審議会でも

 先日、ある共産党の議員から、自治体の環境問題の審議会の話を聞いた。

 最近出席した審議会で、その自治体の廃棄物の計画素案が出されたという。その議員が「この計画素案では、自治体のごみの総量は計画期間の最後に減らすのですか? 増やすのですか?」と聞いたら、素案を取りまとめた事務局が、それはこの素案では答えを出さず、次の案——「計画案」の方で計算をして出すのだと答えた。

 その議員は「細かい計算はそれでいいと思うけど、ごみを増やすのか減らすのかを判断もしないのでは戦略になっていない。こんなものは素案とは言えない。撤回すべきだ」と発言し、座がシーンとなってしまったという。

 この議員の言っていることは当たり前だと思う。

 大きな枠組みについて判断をしないまま、何を承認しろというのだろう。

 自治体の審議会に出される計画というのは、こういうものが多い。

 大きな方向についてはすでに決まっているか、審議会委員は事実上、口が出せない。形式的に口を出しても、ちゃぶ台返しをするほど大きな労力を払わねばならないが、数十人いる委員がみんな発言をするのにトータルで2時間ほどしかない会議では無力という他ない。結果的に大きな方向を多数決でお墨付きを与える場になっている。

 

町内会でも

 町内会でもそういうことが多い。

 初めから行政資源は限られていることにされているから、「公助」を求めることはできない前提が押し付けられている。その狭い枠の中で、どうやって住民が「助け合い」「自分のできる努力」で問題を解決していくか——まさに「自助と共助」の枠組みで思考させられるのである。その「自助と共助」に参加できないメンバーが責められるのだ。

 

 大きな枠組みを問わないという罠に警戒すべきだ。

 

“「やってる気分」になってむしろ有害”

 先日、「民主青年新聞」(2020年11月9日号)を読んでいたら、東京農工大学大学院の多羅尾光徳准教授が、気候変動や淡水の利用、生物多様性の損失などにかかわって、「プラネタリー・バウンダリー」という「人の活動による自然への働きかけがこれ以上になると回復力を越え、取り返しがつかなくなる限界」について次のように書いていた。

 

人の活動が「プラネタリー・バウンダリー」を越えないようにするにはどのような社会のしくみが必要でしょうか。SDGsを実践しましょう」のような生ぬるいスローガンでは何一つ変わりません。「やってる気分」になって社会の在り方に目を向けなくなるので、むしろ有害です。(「民主青年新聞」前掲、強調は引用者)

 

 「有害」とまで言い切る辛辣さである。

企業の自主的な行動に任せても、今の社会の在り方を問わないため、成果はさほど期待できません。(同前) 

 

 多羅尾が必要だとするしくみは2つである。

 

必要なしくみの一つは、自然を汚染・破壊したり、自然の回復力を損ねる活動を行なった人・企業に対して、自然を修復するために必要な費用や、被害を受けた人々への補償の費用を支払わせることです。これは「汚染者負担の原則」と呼ばれます。この原則を徹底すれば、人や企業は自然の汚染・破壊に伴う費用負担を避けるために、それらを防止するとりくみを行うようになります。そのほうが負担する費用が少なくてすむからです。(同前)

もう一つのしくみは、自然の回復力を維持したり高めたりする活動を行なっている人や企業に対しては、その活動に対する対価を支払うことです。(同前) 

 

 多羅尾はこのようなしくみは、「資本主義という制度の下では大変困難であると、私は思います。なぜなら、資本主義では生産手段が資本家に私有されており、生産の目的は利潤を獲得することにあるからです」とする。

 多羅尾は、

「プラネタリー・バウンダリー」を越えない社会の在り方を求めるならば、生産の仕組み(生産関係)を根本から見直す必要があるのではないでしょうか。すなわち生産手段を資本家から人々の手に移し、生産を人々の共同で民主的に管理する経済の在り方が、いずれは求められると思います。(同前) 

と結論づける。

 社会の大きな枠組みに向かわない限り、本当に問題は解決しないのだとする。それは資本主義制度にまで及ぶのだ。娘の「環境新聞」はそこまで考えねばならなかったのかもしれない。別に娘が資本主義を乗り越え社会主義を、と書かなくてもいい。問題はそういうことがいいかどうかまで思考が及ぶことなのだ。

 社会主義の可能性を考えることがイデオロギー教育なのではない。社会の大きな枠組みに目を向けさせないようにすることが、実は立派なイデオロギー教育であるということだ。

*1:例に挙げたこの2つの命題が正しいかどうかはおいておこう。

救援新聞インタビュー「検察は、何故有罪に固執するのか」

 国民救援会の機関紙「救援新聞」2020年11月5日号で、「検察は、何故有罪に固執するのか」として、検事の経験のある市川寛(弁護士)が、笹倉香奈(甲南大学法学部教授)のインタビューに答え、その一部が紹介されている。

 大変興味深く読んだ。

 

 わからない人のために簡単に解説しておくけど、刑事裁判で無実の人が「有罪」とされ、刑務所に送られてしまう(あるいは死刑になってしまう)ということがこの日本ではたくさん起きている。「冤罪事件」と呼ばれるものだ。

 裁判はふつう3回までやることができるけど、それが終われば有罪か無罪かが決まり、刑も決まる。だけど、その後でも裁判をやり直す道がある。それが「再審」と言われているもので、「再審法」という法律で定められている。

 しかし、その「再審」にこぎつけるのは、針の穴をラクダが通るように難しいとされている。

 そうした中で、「再審法の改正を」ということで社会的な運動を広げているのが、国民救援会であり「再審法改正をめざす市民の会」なのだ。このインタビューはその運動の一環であるWEBセミナーの中で行われたものである。

 

 犯人を探して捜査をするのは警察の仕事のように思うかもしれないが、それはあくまで「この人があやしい」という目星をつけるところまでであって、犯人と思しき人が分かって(つかまって)、警察がざっと調べたものを引き継いできちんと捜査し、裁判にかけるところまでやる正式な機関は検察なのである。*1

 市川の証言が貴重なのは、10年以上の検察経験を持ち、その組織の内部の空気や論理をよく知っているからである。無理やり犯人に仕立て上げて、何としても有罪にしてしまおうとする空気がどうやって生まれるのかがリアルにわかるかもしれないのだ。

 

 市川は検察とはどういう組織なのかと聞かれて次のように答える。

一言でいえば、保守的な組織です。裁判員裁判が始まっても、取り調べの録音・録画が始まっても、「できることなら、ずっとこのままでいたい」と願っている組織です。検事は証拠を全部見ているため、「本当のことを分かっているのは検察だけだ」と思っている独善的な組織だと言っても良いと思います。

 権限を使っていろんなところに立ち入って証拠の品々をおさえ、証言を集めるのは検察だけができることだ。弁護人(弁護士)は、その証拠を見たいと求めることはできるけども、それを全部見せる義務は検察側にはない。だから、弁護士は、自分たちで独自に弁護のための証拠を集めるしかないのである。

 証拠が全部検察にある。

 そうなると、市川がここで述べているような「驕り」が生まれるのは、うなずける。

 

検察は、起訴する前と起訴した後でスタンスが全然違います。起訴する前は、結構融通が利くことがあります。しかし、一旦起訴してしまった後は、主任検事一人の問題ではなく、検察組織全体の問題となるので、組織を挙げて絶対に有罪を取ろうとしてきます。

 

 起訴、つまり正式に裁判にかけますよと宣言してしまうと、もう組織のメンツの問題になってしまうのである。

 検察からすると、起訴というところまでやったのは、組織を挙げて相当自信をもって「こいつは有罪だから裁判するぞ」と決定したのだから、それを覆す方がおかしいという理屈になる。

強制捜査までして証拠をすべて集めて、とことん分析して、起訴するかをまず担当の検察官が起訴すべきと判断し、上司が決裁という形で2段構えの慎重な判断をして起訴しているので、検察にとっては有罪は99%ではなく100%が当然なのであって、無罪判決を出した裁判官はおかしいし、出させる弁護人がおかしい、もらってきた公判担当検事は無能だということになるわけです。

 これは、まさに「自信」なのだろう。証拠を全部知っている上に、何度も慎重に判断したのだから、「全容」を知らない裁判官や弁護士ごときが分かるはずがない、という、ある意味で正当性のある「自信」だ。ぼくもその組織にいたら、そういう「自信」を持つかもしれない。

 この証拠の開示の範囲には法律のルールがなく、裁判官が決める。だから「いい裁判官」に当たらないと、証拠の全面開示を検察に命じてくれないのである。

 

 そして、再審をはばむもう一つの問題は、裁判所が「もう一度裁判しようか」と決めても、検察が「そんなのおかしい」と抵抗することができる。不服の申し立てであり「抗告」だ。最高裁が決めたことは他の誰も覆せないが、それにさえ不服を申し立てることを「特別抗告」と言う。これをやるのはよほどのことなのだ。

最近の事件でいうと、3月31日に再審無罪判決が出た滋賀・湖東記念病院人工呼吸器事件では、最新の前に検察は、特別抗告までして抵抗しました。それから、鹿児島・大崎事件では複数回の再審開始決定が出ているのに、その都度抗告をして抵抗しました。第3次にいたっては、結論として最高裁が検察を勝たせてしまいました。最高裁の決定を読みますと、検察の特別抗告そのものには理由がないと述べているのに、最高裁が検察を勝たせたことで、検察にとっては成功体験になりました。理由がなくてもごねていれば、有罪判決が維持されるということになったわけです。最近では検察の有罪判決に対する執念のボルテージが上がっているように思えます。

 

 その上で、市川は証拠の全面開示による法改正を求める。

まず、証拠の全面開示です。これは通常審の段階から実現すべきです。再審は誤判究明のための手続きなので、全部証拠を出して審理をするのは当然だと思います。……実は、証拠の全面開示は、現場の検事にとって楽なんです。……証拠を全部開示にして無罪判決が出たのであれば、証拠によって無罪が出たのだから、それで良いと思うのです。

 

  そして市川は、もう一つの論点である「検察の不服申し立ての禁止」についても提言している。

 再審法改正の課題そのものについては、下記で、映画監督であり、「再審法改正をめざす市民の会」共同代表の周防正行がわかりやすく語っている。

www.nhk.or.jp

 

分けて考えろ

 検察庁法改定問題では、検察の独立性を守るために国民の中で大きな運動が起こった。

www.jcp.or.jp

 検察がある意味で「優秀」でありその独立性が守らねばならないと考えることと、その検察が「独善的」であることは全く両立しうる。今学術会議そのものを攻撃する声が一部にあるが、学術会議にいろんな問題があり改革すべきということと、その独立性を死守することとは、全く別の問題である。

*1:「警察官と検察官ってどう違うの?」「いろいろな事情を考えて裁判にするかを決めるよ」など、このあたりのところをやさしく解説しているのは、山崎総一郎『こども六法』(弘文堂)の「刑事訴訟法」の箇所である。