マンガの表現について共産党は2022年参院選でどういう政策を打ち出したか

 2021年の総選挙で共産党のマンガ・アニメの表現に関する政策が話題になった。

 その際に、ぼくも記事を書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 ぼくは「カジを切っていない」とは結論づけた。しかし叙述が乱暴すぎる、と批判した。

 この記事を書いた他に、共産党の中央に意見も出した。

 総選挙が終わってしばらくしてから、共産党のある街頭演説をぼんやり聞いていたとき、演説を終えた、にひ そうへい元参議院議員がぼくのところにやってきて、「紙屋さん、あなたの意見を読みましたよ! 中央の担当部署でも共有しています」と笑顔で話しかけられた。演説後の非常に短時間ではあったが、「ぜひ今度話しましょう!」と、にひ元議員から言われた「あ、読まれてるんだ」と思った。

 さらに、田村智子政策委員長が講師を務めるジェンダー問題の学習会があり、質問・意見を募集していたので、遠慮なく書いて出した。

 上記の記事のときは「児童ポルノの定義を、『児童性虐待・性的搾取描写物』と改め」ることは、共産党議員の質問を引いて、特に問題ないとしていたが、その後、永山薫「マンガ論争」編集長などいろんな人の意見も聞いて、変えるなら「描写物」ではなく「記録物」の方が間違いないと思い直した。その結果、田村議員への意見には「記録物」への改定にすべきではないかという点も付した。

 つまり出した意見は、上記のブログ記事+「記録物」への改定を求めるものだった。

 さらにこれに加えて、現実ではアセクシャルでありながら同時にフィクトセクシャルであるような人の性的指向/嗜好を含めて尊重することこそが本来的なジェンダー平等の立場ではないのか(つまりマンガの性表現を規制することは、これらの人々の性的指向/嗜好を抑圧することにつながる)という点も書いた。

 

 この意見は大要が学習会で読み上げられて(ぼくの名前はもちろん出てこない)、田村議員が回答した。「意見を深く受け止めて政策を見直すよう検討します」と言ったのである。

 ぼくは「マンガ論争24」において、荻野幸太郎・うぐいすリボン理事と対談をし、次のように見通しを述べていた。

今回ものすごい抗議が寄せられているんじゃないかと思いますね。ジェンダー関係の部門に。そういう抗議が集まれば、そこは党として普通に考慮をして、これからの政策に反映をしていくんじゃないかっていうふうに思いますけどね。全く聞く耳を持たれないってことは、ないんじゃないかと思います。(同誌p.36)

 

 


 

 それで、2022年の参議院選挙では果たしてどうなったのであろうか。

 マンガ・アニメの規制に関する政策は、文化部門とジェンダー部門で分かれていた。

 まず文化分野での政策

児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメ・ゲームなどへの法的規制の動きに反対します。青少年のゲーム・ネットの利用について、一律の使用時間制限などの法規制に反対します。

 明快である

 これは前回も明快だった。(前回2021年総選挙は「『児童ポルノ規制』を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きに反対します」だけであった。)

 

 

 そして問題のジェンダー分野の政策。

 こちらはどうなったか。

 まず、2021年の総選挙政策を振り返ってみる。

 児童ポルノは「性の商品化」の中でも最悪のものです。児童ポルノ禁止法(1999年成立。2004年、2014年改正)における児童ポルノの定義を、「児童性虐待・性的搾取描写物」(※)と改め、性虐待・性的搾取という重大な人権侵害から、あらゆる子どもを守ることを立法趣旨として明確にし、実効性を高めることを求めます。

(※)ここで言う「描写物」には、漫画やアニメなどは含みません。詳しくは下記のリンクをご覧ください。

「共産党は表現規制の容認に舵を切ったのですか」とのご質問に答えて - 日本共産党 個人の尊厳とジェンダー平等のための JCP With You

 現行法は、漫画やアニメ、ゲームなどのいわゆる「非実在児童ポルノ」については規制の対象としていませんが、日本は、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な制作国として国際的にも名指しされており、これらを適切に規制するためのより踏み込んだ対策を国連人権理事会の特別報告者などから勧告されています(2016年)非実在児童ポルノ、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。

 

 これが、今度の2022年参院選政策ではどうなっただろうか。

 児童ポルノは「性の商品化」の中でも最悪のものです。児童ポルノ禁止法(1999年成立。2004年、2014年改正)における児童ポルノの定義を、「児童性虐待・性的搾取記録物」(*「記録物」とはマンガやアニメなどを含むものではありません)と改め、性虐待・性的搾取という重大な人権侵害から、あらゆる子どもを守ることを立法趣旨として明確にし、実効性を高めることを求めます。

 日本は国連機関などから、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の「主要な制作国となっている」と批判されていますジェンダー平等をすすめ、子どもと女性の人権を守る立場から、幅広い関係者で大いに議論をすすめることが重要だと考えます。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会にしていくことが必要であり、議論と合意をつくっていくための自主的な取り組みを促進していくことが求められています。そうした議論を起こしていくことは、児童ポルノ規制」を名目にした法的規制の動きに抗して表現の自由」を守り抜くためにも大切であると考えています。

 おっ…!

 大幅に修正されているではないか!

 「描写物」は「記録物」となり、「非実在児童ポルノ」という表現は撤回されている。

 国連の動きについては記述が残っているが、規制に着目した記述はなくなった。

 そして、「非実在児童ポルノ」として扱われたマンガなどが「子どもの尊厳を傷つけることにつながる」と断定した記述も削除されている。

 一方的な規制のための世論形成ではなく、ジェンダー平等を訴える側からの問題意識と、表現の自由を訴える側からの問題意識に両方目を配り、議論と合意を呼びかける政策になっている。

 文化分野での「規制反対」の政策とあわせて読めば、その意図はいよいよ明快になるだろう。

 少なくとも「2021年の総選挙政策以前の共産党」には戻ったと言える。*1

 

 もちろん、ぼくはさらに言えばこれまでのマンガなどの創作物への敬意もしっかり表現された大々的な政策発表をさらにお願いしたいとは思うし、虚構以外の表現についてはどうかなどの問題は依然として残されていると感じている(議論が足りていない印象)。

 

 だけど肝心なことは、共産党が政策を出して、世論や組織内外から反発があり、対話や議論があって、一定の見直しをした——そういう一連のプロセスがちゃんと機能したということである。(その間、ぼくが共産党から非難されたり、吊るし上げられたり、そういうことは一切なかった。逆である。むしろ敬意をもって接されたと言ってよい。)

 

 政党なので、間違えたり、行き過ぎたりすることはある。

 だけど、そうなったときに民主主義的なフィードバックが働き、修正できるかどうかがポイントだ。

 今回それが果たせた。

 それは共産党にとっても、日本の民主主義にとっても大事なことだったのではないか。

 

 ちなみに、フェミニズムジェンダー平等を掲げる立場から、特定の表現に対して批判することも旺盛に行われていいと思う。それ自体が言論の自由表現の自由なのだから。そして、ぼくは自覚の乏しい男性の一人として、そうした批判を受け止める責任は一定程度あると考えている。この点については、繰り返しぼくは表明してきたところである。

 

*1:ぼくとしては1970〜2000年代の共産党の政策よりもよくなったと感じる。

『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』

 唐鎌直義が紹介していたので読んでみた。

 サブタイトルが「理念なき資本主義の末路」であることからもわかるように、資本主義批判ではある。

 その主張をぼくなりに解釈すると、資本主義が無限の膨張をやめずに、人々がいつまでも満たされないのは、うまく社会の目的設定ができていないからだと考えて、古典からヒントを得た「よい暮らし」を提案する。その「よい暮らし」とは7つの基本的な価値を実現することであり、その価値を実現することを社会の目的にすれば、経済成長はその必要にあわせたものになる、とする。「理念なき資本主義」を逆さまにすれば、「理念のある資本主義」ということになろうか。

 このプロセスで、資本主義の自動進化論、反成長論、「幸福」を目的にする議論を退ける。

 

 自由主義が浸透し国家の「中立化」が進む現代では、そのような基本的価値を社会の目的に設定することはほとんど不可能に思えるかもしれないと筆者(ロバート&エドワード・スキデルスキー)は問いかける。「これがキホン」などとやることは押しつけ以外のなにものでもなく、個人の内心に踏み込むものではないか? と。

 だけど、実際には踏み込んでるじゃん、とスキデルスキーは言う。

 うん、まあそりゃそうだ、と思う。

 なんでもいいけど、例えば福岡市の「子ども医療費助成条例」の第1条「目的」にはこうあるよね。

この条例は,子どもの医療費を助成することにより,その保健の向上を図り,もつて子どもを健やかに育成することを目的とする。

 どんな政策にだってこれくらいの「基本的価値」は目的として設定されている。

 「俺は保健の向上なんぞ求めていない。思想信条の自由を侵すのか」といいたくなる人もいるが、このような条例は許されて、税金がそこに注ぎ込まれているのだ。

 

 「社会主義」(共産主義)の運動に足りないものはこれではないのか、とぼくは常々思っている。「社会主義とは生産手段の社会化である」と辞書的に定義したとき、経済を社会が管理・運営することであることはわかるが、では経済を社会のために使うとして、それで何を実現する(どんな価値を実現する)というのだろうか、と人々は不思議に思うだろう。

 かつてこの価値は「平等」だと思われていた。

 しかし、昔のソ連や中国を見て、それは悪平等を意味するものではないのか、というイメージが付着し、もはやこの理念を口にするものはあまりいない。

 

 日本共産党の綱領には、

生産手段の社会化は…すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。

生産手段の社会化は、…環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。

という規定が登場する。

 こうした規定を「実現すべき基本的な価値」と読み替えてはどうか。

 つまり社会主義とは、

  • すべての人の「健康で文化的な最低限度の生活」
  • 労働時間の抜本的短縮
  • 環境破壊などへの有効な規制

という基本的価値を実現するものだということだ(このような「基本的価値」の使い方はスキデルスキーの使い方とはやや違っているのだが)。

 もっと簡単に言えば「社会主義になったらこうなる」という理念である。

 

 スキデルスキーののべる7つの基本的価値は、

  1. 健康
  2. 安定
  3. 尊敬(「尊厳」に近い)
  4. 人格
  5. 自然との調和
  6. 友情(「社会資本」に近い)
  7. 余暇

である。

 1.と2.と3.と4.と6.は「健康で文化的な最低限度の生活」に含まれると考えてもいいのではないか。

 そして7.は「労働時間の抜本的短縮」。

 5.は「環境破壊などへの有効な規制」。

 

 つまりこのような価値の実現のために経済が使われるべきであり、この実現にあわせて経済は用いられるべきであろう、という点でスキデルスキーと一致する。

 社会主義共産主義は、もっと「実現すべき価値」の形で論じられていいものだ。

 

私有財産について

 唐鎌が本書で評価していたのは「私有財産」が人格・自己の確立にもたらす不可欠の役割である。該当部分を引用しておこう。

己を確立し人格を守るには、私有財産が欠かせない。私有財産が認められて初めて、人は出資者・後援者の専横や世論の圧力を免れ、自分のやりたいことや理想とすることに従って生きていける。フランスの経済学者マルセル・ラボルデールは、ケインズに宛てた書簡の中で、「安定した財産……は無形の社会資産であり、どのような種類の文化も大なり小なりこれに依存している」と書いた。「個人の生計の財政的安定は、計画的に余暇を楽しんだり思索にふけったりする必要条件である。そして計画的な余暇や思索は、独創に富む真の文明を形成する必要条件なのだ」。(本書p.273-274)

 そして、わざわざ、所得と資産の違いをのべる。

ここで、人を自由にするのが所得ではなく財産であることに注意してほしい。旧ソ連共産党政治局員はあらゆる消費財を手に入れることができたが、資本は与えられず、個性を伸ばす自由はなかった。ウォール街のトレーダーたちも、その点では変わらない。彼らの巨額の報酬は、「必要経費」のためにあっという間に消えてしまう。経済的自立は贅沢とはちがうし、贅沢よりはるかに重要である。(同p.274)

 私有財産を所有せよという主張は、社会主義批判のようにも見えるが、実は資本主義批判でもある。資産を独占し、多くの人がそれを形成できない資本主義のもとで、分配によって資産を形成せよ、という主張になるからだ。

このような人格尊重に基づく私有財産の擁護は、現代のキリスト教的社会思想の柱となっており、資本主義と社会主義の両方に対する間接的な批判を形成している。(同前)

人格尊重の立場からすれば、財産の少数集中は財産本来の機能に反する。財産の本来の機能は、所有者と家族に独立した生計を可能にすることである。財産はひろく分配されなければならない。(同p.275)

 岸田政権は「資産所得倍増計画」を打ち出した。3世帯に1世帯が金融資産がゼロという事態の中で、これが本当に財産の分配を意味するのであれば、その意義は革命的と言えるかもしれない。しかし実際には、どうもそんなことではなく、単に金持ちをますます金持ちにする政策でしかなかった。

 唐鎌はスキデルスキーが説く「私有財産の重要性」に注目して次のように述べた。

戦後日本の歴史的大事業・農地改革のことを想起せずにはいられない。農民による小土地零細所有の実現(寄生地主制の廃止)こそが戦後日本の民主主義の岩盤だったのではないか。(「前衛」7月号p.185)

 地主が来れば這いつくばってペコペコしていた小作人は、小さいながらも農地を分け与えられ、人格的な従属から解放されて、「一国一城のあるじ」としての独立性から自分の頭で考え行動する人間になっていった。そうした改革が日本の後進性を打破して、民主主義を根付かせる根元になったのではないかということだ。

 いま日本で民主主義がうまく機能していない、としたら、思い切って国民に資産を形成させるほどに富ませることが基本なのだ。

 

 なお、マルクスは若い頃は私有財産一般を批判し否定していたが、『資本論』の頃には生産手段と生活手段を区別し、前者の社会化によって後者を富ませて個人所有を再興することを打ち出した。この精神を引き継いで、現代社会主義は、個人を豊かにするような私有財産・資産の形成をめざすことは当然であろう。

川崎昌平『売れないマンガ家の貧しくない生活』、木村イマ『シュガーレス・シュガー』1

 ネットで川崎昌平『売れないマンガ家の貧しくない生活』を読んでいるつれあいは、マンガ家の妻の視点でマンガ家自身がマンガ家のことを描くというこの作品の奇妙さを口にしていた。

 

 

 作品の中の話題が、マンガ家の本業労働(編集者)、副業としてのマンガだけでなく、家庭生活や家事とのバランス、最終的には出産・育児という大仕事にまで及ぶために、その広いフィールドを客観的に見て語る視点がほしかったのだろうと思うが、確かに奇妙ではあり、可笑しみがある。客観視するとはそういうことなのだろうけど。

 川崎はマンガ家としては売れていないが、「貧しくない生活」をしている。マンガ家を副業*1にしている、つまり兼業マンガ家だからである。本業の収入があるために、マンガ家としての生活に精神的な余裕があり、それがマンガ家の創作にもいい影響を与え、さらに本業にも反射があるというのである。いわば本書は「兼業マンガ家のススメ」のようなものだ。もちろん、専業マンガ家を否定しているのではなく、「兼業マンガ家という生き方もあって、それは結構素晴らしいものですよ」という賛歌である。

売れないマンガ家だからこそ自由につくれる!

と川崎は高らかに宣言する。

 またこうも言う。

オレは兼業マンガ家だから、マンガ家の収入でメシが食えなきゃいけないわけじゃない。つくることが楽しいかどうか、それだけだよ

「会社からのお給料のおかげでなんとかマンガ家を続けていられるわけだし」

マンガ家としての収入は会社員としての給与所得があるから精神的に余裕をもってマンガ家をやれている——夫はそう語ります

 川崎よりさらに、そしてはるかに少ない副収入を得ている「売れないモノ書き」であるぼくはこれらの点に深く共感する。

 もう一つの「仕事」があり、それに打ち込んでいるということは、精神のバランスを取る上でなんと重要なことだろうか。

 ぼくの場合は、仕事でダメであったとしても、あるいはあまり役に立った仕事ができていないと思った時でも、いつもでモノを書く仕事のことの方に思いをいたし「でも自分はモノを書いて自信が持てている」とすぐにその軸をスイッチできる。そして、本業が存在することでモノを書くことを安心して続けられる。

 他方でモノ書きの仕事があることで、本業の方でどれだけひどいことを言われたりされたりしても精神的に余裕ができる。「どうしても嫌ならやめてしまえばいい」と思っているのである。もちろんモノ書きだけで生きていくことは少なくともぼくの場合厳しい。にもかかわらずなぜかそのようなゆとりが生まれるのである。

 兼業というものがこれほど心にゆとりを生むのか、とぼくは痛感している。

 共産主義の目的は多くの自由時間をつくりだし、人間の全面発達を勝ち取ることで人間を解放することである。

各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を発達させることができる共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるというようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批評家になることなしに、私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批評をするということができるようになる。(マルクス・エンゲルスドイツ・イデオロギー』)

 マルクスはこの初期の見地をのちに修正したというのだけども、自由時間でいろんな人間の能力を発達させるという見地は変わっていまい。

 副業(兼業)の世界は、実は共産主義の世界を垣間見せてくれる、その第一歩である。

 娘が小学生だったとき、自分の職業紹介をしてくれる人がいないか、学校が保護者全員に照会をかけていたけども、ぼくは手をあげたいなと思っていた。

 それは本業について語りたかったのではなく、「副業としてモノを書いて収入を得ている」という職業選択を小学生に語りたかったのである。当時(数年前だが)、娘の小学校の「なりたい職業」欄には「YouTuber」がかなり上位に来ていた。「プロゲーマー」も多かった。しかし肝心のキャリア教育の方は「好きなことをやってそれを副業としてやってみる」という選択肢は示されないままであった。これは何としても、と思ったものだったが、残念ながら、目立つことを嫌がる娘が頑強に反対したのでこの応募をあきらめた。

 

 さて、この川崎の本の中に、売れないマンガ家を続けるコツとして「『わかりやすさ』と距離を置くこと」というテーゼが示されている。

 わかりやすさはある方向への偏り(偏向)かもしれないし、もっと深く考えられる主題を浅くしてしまっている危険をはらんでいるのかもしれない、と川崎は警戒するのだ。

わかりやすい表現はマンガ家の寿命を縮める

とまで言う。

 『ブルーピリオド』12で主人公が興味を抱いたアートコレクティブのリーダーのアジテーションが「わかりやすく」、主人公が「シンプルな存在になれる」と感じてしまうその危険な魅力を描いていたことをぼくは紹介した。

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 わかりやすくしたい、というのはぼくの基本的欲求であるので、このテーゼはむしろぼくと対立する。しかし、言いたいことはわかる。物事はそれほど単純ではないのである。しかし、その単純でなさが多くの人を問題から遠ざけてしまっているのであればやはりわかりやすくすることには大義がある。

 だが、ここではあえてこの川崎のテーゼを考えてみたい。

 最近そのことを感じたのは、木村イマ『シュガーレス・シュガー』1を読んだ時であった。

 

 

 昔は小説に応募して入選したこともあり作家にもなりたかった平凡な主婦・柴田業(しばた・ごう)は新進気鋭のSF作家・弦巻融(つるまき・とおる)と喫茶店で知り合う。弦巻との交流に刺激を受けてモノを書くことに目覚めるが、そこにのめり込む様子を見て柴田の夫は不安を感じる。夫のいる妻の行動としておかしくないか? 昼間の主婦に行動として逸脱してはいないか? と疑問をぶつけるのである。

結婚している女性が家族でもない男と会っていたらおかしいでしょ

 柴田はキレる。夫は自分の書いた小説をロクに読みもしない、つまり自分そのものに何の興味も示さなくなっているくせに、妻や母や主婦としての役割だけを形式的に求めようとするからである。

結婚して子供がいても私だよ!!

母親やって妻やってもも私は私だよ

役割のために生きてるんじゃない

 泣きながら飛び出して、しかしすぐに柴田は反省をする。

女性の一生を乗りこなすのは容易い

女性というパッケージに妻というパッケージ 親というパッケージ それさえ用意できれば主体性などなくても乗りこなしていける

SNSに以前投稿した小賢しい自分の一文を読み直しつつ

何をのぼせているんだろうか

今までパッケージに頼って生きてきたのは私じゃないか

自己批判をするのだ。

帰りたくない…

このまま全部やり直したい

 しかしこのような「役割」を破壊したくなる衝動はあっても、そんなに単純に「役割」という檻を壊せるものではない。

 柴田は結局「役割」に戻っていこうとする。

 だが、それを壊そうとする衝動は常に自分の中に蓄積していく。

 「役割」を壊そうとする「私」たらんとする衝動と矛盾は解決していない。一体この矛盾とどう折り合いをつけるのか、と不安に満ちた展開を示して1巻は閉じられる。

 一体どうする気なんだ、と思う。

 その「わかりにくさ」がこの作品の矛盾に満ちた推進力になっている。

 

*1:川崎に言わせれば「会社員」の方が副業なのだが。

「週刊ポスト」6月24日号でコメントしました

 「週刊ポスト」2022年6月24日号で「夫婦で『やめる』と幸せになる111の秘訣」特集のうち「ほんとに面倒な人間関係10と『距離を取る』『縁を切る』これが正解!」の章(すごいタイトル…)で、『“町内会”は義務ですか?』の著者としてコメントしました。

 町内会関係の本を出していることから、なぜかリタイア後の人間関係の「断捨離」という角度からのコメントを求められることがしばしばあります。

 これだけ繰り返し特集が組まれるのは、本当にみんな悩んでいるということですね。

 「町内会」という角度とは全く別に、リタイアと引越しを一体にして、それまでのしがらみを一気に断ち切ってしまうという「リセット」をやる人をけっこう見てきました。その条件さえあればこれが一番効くとは思いますね。

 人間関係の断捨離ができないのは、現存する人間関係との間で軋轢やストレスなしにそれを解消したいというのがいちばんの欲求であって、だからこそ「しがらみ」なわけです。軋轢が怖くない人は、堂々と町内会も退会するし、地域団体などの不要な「役」も遠慮なく断るでしょう。そういうきっぱりした選択ができない人は、フェードアウトするしかない。

 その上で、引越しは「まあ引越しじゃしょうがないね」というわけで、円満に「断捨離」できる最強の武器です。しかしこれをやれる条件のある人は本当に少ないですよね。家や土地なんぞ持っていたら、なかなか難しい。

 

 

 ところで、この号には「参院選大予測」として各党の議席予想が載っています。

 個人的には共産党議席予想が気になるわけですが、「どうしてこういう数字になるんだ?」と不思議な気持ちです。

 

 

 

唐鎌直義「高齢者の貧困と社会保障緊縮政策」

 「前衛」2022年7月号の唐鎌直義「高齢者の貧困と社会保障緊縮政策」を読む。

 

 

 何と言ってもこの表である。

「前衛」2022.7より

 高齢者の全体の貧困率が26%で、日本全体では15%くらいだから、トンデモなく高いことがわかる。

 しかし「高齢者」といってもいろいろだ。

 そこで世帯状況で分けると、さらに解像度が上がる。

 女性の単独世帯の貧困率は53.5%と群を抜いている。世帯の絶対数も256万人いて、世帯数としては高齢世帯の中では最も多いグループである(人口では「高齢夫婦のみ世帯」よりもわずかに少ない)。

 男性の単独世帯の貧困率も37.1%と高い。

 唐鎌はこう述べる。

公的年金制度等の社会保障制度が存在する先進工業国で、これほどまでに高齢者の貧困が放置されている国は日本だけであろう。(同誌p.176)

 生活保護を受給しているのは、高齢世帯全体の13%であり、87%は漏れている。

 ここでも唐鎌は、

漏救率がこれほど高い先進工業国は日本以外には存在しない。(同p.177)

と辛辣である。

 貧困率が非常に低いのは三世代世帯だ。つまり子どもや孫に引き取られて暮らしている高齢者は貧困に陥っていない。このことを踏まえて唐鎌は、

日本の年金制度は個人単位の支給制度でありながらも、すべての高齢者個人を守り切ることはできておらず、世代的再生産の「順調」な世帯にいる高齢者の老後を保障するに足る性格のものでしかないことが判明する。「家」の順調な存続に組み込まれた高齢者は貧困に陥りにくいということである。…日本の現行公的年金制度は依然として「家」と「家族」の存続を前提とする家族内扶養の優越という後進性を色濃く反映した制度なのではないか。(同p.179)

と指摘する。子どもがどのようなライフスタイルを送るか、あるいは親がどういう生活を送るかを自由にさせてくれない。子どもが親の面倒を見る、という前提で年金が組まれている。

 早い話、年金が少なすぎるのである。

 特に単身で生きようと思えば年金だけで生活することはできない。

 唐鎌はこの後、総務省の「家計調査年報」のデータを使って、収支差をえぐり出していく。

 高齢単身無職世帯では、実収入を100として家計赤字率は13.6にもなる。収入はほとんど社会保障給付、つまり年金しかない。

公的年金給付に若干の資産収入や仕送り金を足した実収入では毎月の生活を送ることができない現状が示されている。…預貯金の取り崩しやクレジット購入による支払いの先送り、借金等でやり繰りしなければならない単身高齢者の金銭事情が窺える。(同p.180)

 高齢夫婦無職世帯も同じようなものなのだが、次のような特徴を挙げている。

しかし最も大きく異なる点は、可処分所得の対実収入比が高齢単身無職世帯よりも一段と低い点である。これは高齢夫婦無職世帯に課せられている非消費支出(公租公課負担)がかなり重いことを物語っている。…年収二七〇万前後の無職の高齢夫婦世帯に一五%近い税・社会保険料負担を課し、その可処分所得を保護基準スレスレ(年収二二六万円)にまで低下させることは、高齢者政策として理にかなうことであろうか。「世代間の公平」を政策の指針に置くあまり、高齢者世帯への風当たりを強くしすぎているのではないか。(同p.182)

 自民・公明政権は「全世代型社会保障」などと称してあたかも従来の社会保障が高齢者に手厚かったかのような印象を振りまいているが、高齢者にも若者にも冷たかっただけなのである。唐鎌の指摘するように、世代間の負担と給付の問題にすり替えることで、社会保障に対する国家および企業の負担責任というテーマは消えてなくなってしまう。

 高齢者と現役・若者世代との間に分断を持ち込む企てを許さず、本当の意味での全世代にわたる普遍的なベーシックサービスをつくらせることが必要だ。例えば居住で言えば公的住宅建設、家賃補助、住宅手当の支給などである。

 とはいえ、「年金」はすべての世代がやがて通る道ではある。

 「働けばいいじゃん」という戦慄すべき「対案」も聞こえてくるが、75歳の後期高齢者にさらなる就労を促すことは地獄のような選択肢というほかない。「高齢者就労促進政策は、政府の年金原資の節約に利用されている」(唐鎌p.178)。

 

やはり老後は、公的年金だけで「望ましい生活」を送れるようにすることが年金政策の基本に据えられなければならない。ゴールなき就労は高齢者の心身を荒廃させる。…高齢になればなるほど就労機会は乏しくなっていく現実を踏まえるならば、後期高齢者の貧困は就労促進政策では防止できない。後期高齢者加給年金」のような仕組みを新たに導入するよりほか、単身後期高齢者の貧困を防止する手立てはない。(同前)

 

余談

 唐鎌論文を読んでいて、2点ほど気がついたことを。と言っても単なるメモのようなものだが。

 一つは、高齢単身無職世帯の持ち家率がおかしいという話。家計調査では2002年から2019年までに持ち家率が72%から84%まで急上昇しているのだが、そのような事情はその間なかった。調査対象が単に相対的に余裕のある層に偏ってきているのではないかという疑惑だ。現に、「高齢社会白書」(内閣府)の方の調査では高齢単身者の持ち家率は65%であり、18ポイントも開きがあるのだ。統計をいじっているのではないか? と疑いたくなる。

 もう一つは、唐鎌が紹介している本、ロバート&エドワード・スキデルスキー『じゅうぶん豊かで、貧しい社会 理念なき資本主義の末路』(ちくま学芸文庫)は大変面白そうであり、すぐに買った。どこかで感想を書きたいと思う。

 

 

 

 

山口つばさ『ブルーピリオド』12

 左翼運動、というか理想を掲げる社会運動にハマる理由の一つは、「たまり場」じゃないか、と1980年代に青春を過ごしたオールド左翼のぼくとしては力説したいところである(以下、年寄りの昔話っぽくなるのだが、そこはご勘弁願いたい)。

 大学のサークルボックス(サークル部室・サークル部屋)や自治寮の部屋はその典型だ。高校までは見たことがないようなユニークな面々がいつ行ってもくだを巻いている。そういう中で尊敬すべき先輩とか同級生を見出して、こんな本があるんだぜとか教えられてうかうかと読んでしまうのである。

 カリスマっぽい先輩でもいようものなら、その空間の虜だ。

 何気にしゃべること、語ることがいちいち眩しい。

 すげえ。面白え。こんな人がいるんだ。

 美大生の物語『ブルーピリオド』は12巻で主人公・矢口八虎(やぐちやとら)が反権威主義芸術集団「ノーマークス」のたまり場に行くことになり、その魅力にハマってしまうが、そのハマりように、ぼくは既視感ありまくりだった。

 

 

 八虎は「たまり場」の居場所感を、はじめ「新興宗教」「マルチ」「ルームシェア」などのワードで解釈しようとする。警戒しているのだ。もちろん、それらの要素が一定含まれていることをぼくも否定しない。「ハマって居着く」ということの心地よさが共通しているからこそ、中毒になる。

 入り口として大事なことは、親密であること。それなのに、閉鎖性がない。開かれていること。ここがとても大切である。

 「ノーマークス」の事務所は、「誰でも出入り自由な場所」を掲げているが、これを実践することは実は至難である。

 

 知らない近所の小さな飲み屋に入って行ったとき、一瞬談笑が途切れ、そこにいる常連が一斉にこちらを見る。気まずい空気が流れ、店の人が取り繕うように、新参のぼくに話しかける……というような、「親密であるが閉鎖的な空間」は逆にいたたまれない。そして親密であることは、その親密性を維持するために、よほど注意していなければ閉鎖し排除をともなってしまう。

 

 だが、「ノーマークス」はそうではない。

 作業を手伝いながら八虎がうっかり終電を逃して「ノーマークス」の事務所に泊まることになるのだが、常連メンバーの態度は開かれている。

 午前1時のうますぎる手作りカレーを食べ、寝床に入る頃に八虎は思う。

なんか

俺 昔からここに住んでるみたいに

みんな優しすぎるなあ…

 もちろん理想をかかげる芸術集団であるからトガった人はいる。トガっている人は毒を吐くけども、それを補う優しさや気さくさがあったり、他方で、毒を吐いた時に、他の人(ここではリーダー)が自然に・やさしくたしなめる。

 

 そして何よりも魅力的なのが、代表である不二桐緒(ふじきりお)である。ソファーに寝そべって気だるそうにしているのが常態だが、話しかけて喋らせたときに不思議な魅力がある。

 八虎とフジの間で美術館論議になる。

 フジは美術館がもつ権威性がアートの鑑賞にとって邪魔になっていることを平易な言葉で説く。そのうえでアートが時代の中で生まれてきたことをざっくりとした歴史において語り、アートが生活の中に置かれなければならないという理念を語る。

 「ノーマークス」の理念にとって最も本質的なことなのだろうが、それを大上段な演説ではなく、しかし、歴史を人に沿うように語ることで八虎の意識を変えてしまう。

 フジとの対話を終えた後、ソファーから手を振るフジを見ながら八虎は思う。

この人と話していると

自分がシンプルな存在になれたような気がする…

 複雑さをそぎ落として本質をつかんだ瞬間だとも言えるし、逆に世界の多様性を切り捨ててしまい、アジられてオルグされた危険な瞬間だとも言える。しかし、これは社会運動に出会う人間にとってとても大切な瞬間だ。正直、この瞬間の快楽にぼくは抗えない。

 レーニンは、経済要求を取り上げて闘争するだけでは単なる労働組合の活動家でしかない、として、それとは違う理想的な共産主義者(当時は「社会民主主義者」とレーニンは言っていた)のスタイルを次のように語っている。

社会民主主義者の理想は、労働組合の書記ではなくて、どこでおこなわれたものであろうと、またどういう層または階級にかかわるものであろうと、ありとあらゆる専横と圧制の現れに反応することができ、これらすべての現れを、警察の暴力と資本主義的搾取とについての一つの絵図にまとめあげることができ…る人民の護民官でなければならない(「レーニン10巻選集」2巻、大月書店、p.82)

 「一つの絵図にまとめあげる」。世界に起こる事象を、自らの世界観の体系のここ・そこに位置づけることが共産主義者の任務なのである。眼前に広がっている事件や闘争が、自分たちがすすめる世界変革にとってどのような位置を占めているのかを語ってこそ、宣伝・扇動は果たされる(日本共産党が「綱領を学び、語る」ことを強調するのは、単に共産党を知ってほしいというにとどまらず、本当はこのような意味からであろう)。

 フジがやっていることはまさにこれであろう。

 展示場所に美術館ではなくDJブースを選んだことについての八虎の小さな驚きや違和感をすくい上げて、アートの歴史を「ざっくり」語り、結論としての美術館の権威性が歴史的なものにすぎないことを批判するフジは、まさしく「ありとあらゆる現れに反応」し、「一つの絵図にまとめあげる」ことをやってのけている。

 それを、人に沿うように。

物質的な力は物質的な力によってたおされなければならない。しかし理論もそれが大衆をつかむやいなや物質的な力となる。理論が大衆をつかみうるようになるのは、それが人に訴えかけるように論証をおこなうときであり、理論が人に訴えかけるように論証するようになるのは、それがラディカルになるときである。ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむことである。(マルクスヘーゲル法哲学批判序説」)

 今まさに八虎はラディカル=根本的になろうとしているのだ。

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 そして、(おそらく)異性愛者であろう八虎にとって、フジが異性(女性)であることの性的な魅力がここに加わっていることは否定できまい。

 長い髪。大きな胸。頭髪の刈り上げを見せてそれを触らせる仕草。横から手を差し出して八虎の手に触れながら八虎のカレーのスプーンを自分の口に運ぶ「だらしのなさ」。

 そして、八虎の素直な感想にこの表情。

山口つばさ『ブルーピリオド』12、講談社、kindle131/196

 女性を何でもかんでも性的な存在としてみるのはどうかと思うよ、と批判されるかもしれないが、ぼくは性的な存在としてのフジを意識せずにはいられない。ぼくから見てものすごくフジは性的な魅力に溢れている。これは…これは居着いてしまうわ。

 

 作者が今後この集団をどのように描くかはわからない。たぶん最終的には批判的に描くんじゃないかと思うんだけど、この巻までで描かれたこの芸術集団のたまり場としての危険なほどの魅力はぼくには十二分に伝わった。つうか、ここに行きてえ。

  

 

中北浩爾『日本共産党』

 中北浩爾『日本共産党 「革命」を夢見た100年』(中公新書)を読了。細かい評価は別にして「本としてどういう印象を持ったか」をざっくり書いておきたい。

 組織構造や政策などを論評するという「ヨコの軸」での本ではなく、100年の歴史を振り返ることで「日本共産党」という政党を論じる「タテの軸」での本である。

 日本共産党は世界的にみて資本主義国では共産党という名前の政党が極端に小さくなったり消滅する中で「かなりの踏ん張りをみせている」(p.24)という評価をしている。

 そのような「かなりの踏ん張り」はなにゆえ生じているかをみたときに、一言で言えばソ連や中国の影響を脱して、「宮本路線」、つまり1961年に現在の原型となる綱領を確定し、指導者であった宮本顕治が率いてきた自主独立の路線によるものだと、中北は考えているのである。くわえて中北は、武力闘争(暴力革命)路線を完全に捨てて、「平和革命路線」に変化したことをもう一つの重要な共産党の変化だとしている。自主独立と平和革命——この2点を資本主義国に適合した政党に変わる上での重要な変化だと見ているのである。

 現在の路線はこの「宮本路線」の延長であり、その遺産で食べていると見る。だから逆に言えば、この路線の延長ではさまざまな限界があるのだとも見ている。したがって中北は今後日本共産党が生き残って発展していくためにさらなる変化の方向を示している。それは2つの道なのであるが、どんな方向を用意しているかは本書を具体的に読むべきであろう。

 自主独立の「宮本路線」が生まれてくる前史として、戦前の未熟な活動、およびソ連・中国に振り回された戦後初期の歴史が対比される(1章と2章)。

 もちろん、日本共産党としてはこの部分はとりわけ反論したくなるものばかりに違いない。

 ただ、日本共産党の綱領においても例えば戦前の活動を

党の活動には重大な困難があり、つまずきも起こったが、多くの日本共産党員は、迫害や投獄に屈することなく、さまざまな裏切りともたたかい、党の旗を守って活動した。

と叙述し、不破哲三でさえ、戦前の党史については

いまから見たら考えられないような間違いをおかした歴史もありました。(不破『日本共産党史を語る 上』p.34)

と述べており、中北の1章(戦前史)の叙述は、その部分を中北流に徹底的に拡大したものだとも言える。

 そして2章における、戦後当初のソ連や中国への「従属」ぶりについては、不破も体験的に次のように書いている。*1

ソ連覇権主義の問題は、私たちの現在の認識であって、当時の私たちは、ソ連スターリンにたいするその種の見方は、一かけらも持っていなかった、ということです。

 レーニンがつくった党で、その後継者であるスターリンが先頭にたち、世界大戦でヒトラー・ドイツを撃破して反ファシズムの戦線を勝利にみちびいた、その時、連合国の一員だったアメリカが反動の側に転じた時に——そのことは、日本の占領政策の変質で、私たちが日々身をもって体験していたことでした——、世界政治の舞台で平和と民主主義の陣営の大黒柱として頑張っている、これが、ソ連にたいする私の当時の見方で、おそらくこの点は、日本の共産党員の多くが共有していた見方だった、と思います。(不破前掲p.190)

全体としてスターリンへの信頼は絶大で、こういう人物が間違うはずはない、と本気で思っていたものです。(不破前掲p.191)

 1章・2章はこうした部分の中北による拡大辞であって、日本共産党としては反論したいことはいっぱいあろうが、まったくの「根も葉もないデタラメ」ではない。

 それにしても1章の戦前の未熟きわまる活動の叙述、2章のソ連・中国に振り回されついには武装闘争にのめり込んで壊滅的な打撃を受ける叙述は、それが深刻であればあるほど61年綱領を確定してからの自主独立路線がいよいよ光るとは思うのだが、1章・2章の「日本共産党ダメっぷり」の叙述は胸が悪くなるほどなので、熱烈な共産党ファンとか最近共産党に入ったばかりの人は耐えられないかもしれない。(逆に言えば3章3節以後は「ぼくらがよく知っている日本共産党」である。)

 

 まとめるけど、

  1. 日本共産党は自主独立・平和革命の「宮本路線」によって先進資本主義国の共産党として飛躍し、現在もその遺産で食べている。しかしそろそろその遺産は尽きつつつあり、生き残りと飛躍のためにはさらなる発展が必要だ。
  2. このような自主独立・平和革命の「宮本路線」が生まれるまで、戦前の未熟極まる活動と中ソに振り回されてついには暴力革命をふりまわすに至る苦い戦後史をもっている。

というのが中北が描く「共産党の100年」なわけだ。

 

 日本共産党としては公式にはこの本のあれこれにいろいろ反論はしたくなるとは思う。それは仕方がない。ただ、1.と2.のような骨格として本書をまとめてみれば、一つの見識、フェアな見方ではないかとぼくは思うのだがどうだろうか。

 2.の記述にイライラしてしまうかもしれないが、2.の酷さを脱却して、1.が非常に高く評価されているとみることもできるのだ。

 中北の言っていることの枝葉末節ではなく、その核心を取り出して耳を傾け、中北の主張のコアの部分と「対話」を行って、真摯な回答をしてみる——というような対応を日本共産党には期待したいところである。

 

 余談であるが、ここで書かれた歴史の中で、

  • 野坂参三ソ連のスパイではないよ。
  • 「人民的議会主義」方針の採用は、平和革命路線において、けっこう大事な発展じゃねーのか。

という2点は注目した。

 人民的議会主義は、議会の内部で全てを考えて完結させてしまう「ブルジョア議会主義」でもなく、かと言って議会を軽視する「暴力革命」路線でもない、共産党独自の議会に臨むスタンスである。国会・議会の外の社会運動と結びついて政治を動かす(改良と政権獲得)という点にエッセンスがあり、国会でも地方議会でも、日本共産党に寄せられている信頼の多くはこの方針に基づいているもので、ここへの着目は慧眼である。

 詳しくは別の機会に。

 

 

 

 

*1:ネットなどで、この時代の「アカハタ」とかの記事を貼って「ほうら日本共産党は実はソ連スターリン万歳だったんだぞ」と言っている人がいるが、まあなんと言おうか、別に日本共産党もそのことは公式に認めているのである。