本くらいの分量を与えられなければ自分の説は人に示せない

 ひとの考えは会議で変わるだろうか。

 間違いなく変わる。…ことがある。

 いつも変わるとは限らないが、変わることはあるよね。

 数分の発言であっても「ああ、なるほどそうだったのか」と思って、反対が賛成になったり、賛成が反対になったりする。

 しかしである。

 そうはいっても、数分の発言、数百字の短文でひとの考えを変える、認識を覆すのは難しい。至難だと言っていいだろう。

 キレのいい発言や文章なら、ごく短い言葉で認識の急所を突くことはできる。けれども、そんな芸当ができるのはこの世でほんの一握りの人ではないだろうか。

 従来広く行き渡っていた言説や認識を覆すには、体系的な展開が必要である。旧説を断片的に外から叩いたって、そんなものはあまり力にはならない。

批判とは、なにかものを外部からたたくというのではなく、いままで普遍的だとおもわれていたものが、じつはもっと普遍的なものの特殊なケースにすぎないことをあきらかにすることです。そのものを普遍的なものの一モメントにおとし、没落させる、これが批判ということです。(見田石介『ヘーゲル大論理学研究』)

体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的ものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体をはなれては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない。(ヘーゲル『小論理学』)

 だから、展開する必要がある。

 具体的には、「本」にしなければならない

 そうでなくても、「講義」とかのような体裁を必要とするだろう。

 だから、マルクスだって、経済学批判として『資本論』という大著を書いたのである。

 

 会議でいくら自由に発言ができても、それだけでは自由な議論ができる環境とは言えない。本を出せたり、人を集めて講演をしたり、そういう体系を示す機会が与えられて、初めてひとは自由な議論ができる環境が保障されるのではないだろうか。

 ましてや従来の説が圧倒的物量で展開される中で、自分は本すら書けず、数分の発言時間しか与えられないような条件であれば、その非対称性は明らかであり、およそ「自由な議論」たりえない。

 それは、一般社会であろうが、小さなコミュニティであろうが、共通の目的で結ばれた中ぐらいのゲゼルシャフトであろうが、変わらないだろう。*1

 

 言論の自由表現の自由の一部を構成する。

 表現の自由は単に「どういう言論でも自由に述べてくださいね=どんなことでも言える」という質的側面だけではなく、出版の自由、集会の自由のような量的な側面も含んでいる。自分以外の人に広く伝え、認識を交わし合い、豊かな議論をするためには、本を出したり、講演したり、自由に集まって争論をすることは欠かせないのではないだろうか。*2

*1:“階級社会であるがゆえに出版や集会のような自由は必要だが、同じ目的を持って集まったコミュニティでは会議によって十分意思疎通できる”という考えがあるかもしれないが…。

*2:ある人が本を出すときに、その一隅に入れらる「本書は著者の個人的見解であり、著者が属している組織・企業の意見を代表するものではありません」というエクスキューズは、結社と個人の自由を両立させる、一つの知恵なんだろうなと思っている。

ドイッチャー『武力なき予言者・トロツキー』

 ドイッチャー『武力なき予言者・トロツキー』(新潮社)。1964年出版のもので、神田の古本屋で買って大昔に読んだままにしていた。

 ドイッチャーのトロツキー三部作のうち、この巻は、トロツキーソ連の権力から追い落とされ、国外に追放されるまでが描かれている。

 書評…じゃねーよなあ。

 ただの抜粋。そして簡単なメモ。

それというのも、レーニンは、何か問題が起るたびに、その説得力や手腕によってたいてい自分の提案に多数票を獲得していたからだった。レーニンの場合は、そのために政治局内になんらかの自分の派閥を作る必要はなかった。一九二二年十二月か、それとも、レーニンがついに政治局の仕事に参加できなくなった一九二三年一月に、起きた変化は、トロツキーが政治局内の多数を把握し、レーニンにとって代れるようになるのを防止することを唯一の目的にした、特殊な派閥が生まれたことだった。その派閥というのは、スターリンジノヴィエフカーメネフの三頭連盟であった。(ドイッチャー『武力なき予言者・トロツキー』新潮社、p.91)

三頭連盟の者たちは彼らの動きを協定し、一致して行動しようと誓っていた。彼らが一致して行動すれば自動的に政治局を支配できた。レーニンがいない場合、政治局は三頭連盟の者たちと、トロツキー、トムスキー、ブハーリンの六人で構成しているにすぎなかった。かりにトロツキーがトムスキーとブハーリンを味方につけたとしても、依然として票は半々に分れるだけのことだった。だが、トロツキーブハーリンとトムスキーがなんの派閥も作らず、それぞれが独自の考えで投票しているかぎりは、そのうちの一人が三頭連盟に賛成票を投じるなり棄権するなりしただけで、彼らは多数票が得られるわけだった。(同p.96)

 ついに四月半ばに第十二回党大会が開かれた時には、大会の開催がトロツキーに対する敬意を自然に吐露させるための機会を提供したかたちになった。通例どおりに、議長は全国の党細胞や、労働組合や、労働者や学生の集団から送られてきた挨拶を読み上げた。ほとんどどのメッセージにもレーニントロツキーへの讃辞が書きこまれていた。ただ時折ジノヴィエフカーメネフに言及した挨拶があっただけで、スターリンの名前にいたっては、ほとんど出てこなかった。メッセージの朗読は、幾つかの会議のあいだも引き続き行われ、かりにいま党が選択を求められた場合は、誰をレーニンの後継者に選ぶかは、疑問の余地がなさそうだった。

 三頭連盟の者たちは驚き、当惑した。(同p.109、強調は引用者)

 「政治局」という互選で選ばれた少数の幹部集団の中でこそ、派閥(分派)は形成しやすかったんだなあ。そして、党全体ではトロツキーの人気は圧倒的だったんだなあ。などと読んでいて思った次第。

 そりゃそうである。少数者なら話がつけやすい・工作がしやすいから。それは自明なほどに自明。

ぽんとごたんだ『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!? 』3巻

 まだ年賀状をやめていないのだが、おそらく受け取る方はすでに「年賀状仕舞い」をしているだろう人が多く、こちらが出した後に、ポツンと返ってくることがある。そういう場合、今年出した年賀状への“反応”などが書いてあって、それはそれで楽しみではある(そうでない人は1年越しにやり取りすることがある)。

 

 今年の年賀状で「コオロギを食べてみたい」という趣旨のことを書いたら、ヘタな近況報告よりもそれに反応する人が結構いて、興味深かった。

 

 昆虫食は話題になっているからぼくも食べてみたいと思いつつ、なかなか食べられない日々が続いていた。

 先日、無印良品で「コオロギせんべい」と「コオロギチョコ」をようやく手に入れて食べた。

 うんまあ、せんべいの方は完全に「エビせんべい」だよね。

 実際コオロギパウダーだけじゃなくて海老粉も入っているようだし。

 チョコの方はもうチョコの味しかしない。

 「これなら全然いけるじゃん」とは思うけど、果たして肉や魚の代わりになるのかという視点からタンパク源としての昆虫ということを考えると、いささか疑問は残った。

 具体的に考えてみればわかるけど、例えば「コオロギせんべい」を食べることでタンパク質摂取ができるのかと考える。

 コオロギせんべいの表示を見ると、1袋でタンパク質は5.5g。

 ぼくはタンパク質を1日60g以上取りたいので、3食のうち1食に20g前後取りたいと思っている。20g取れない時もあるので、まあ、おやつで補うために食べるのはいいんだけど、それで216kcalも消費するのはちょっと考えちゃうなと思う。

 コオロギチョコの場合はタンパク質が15.9gも入っていて素晴らしいのであるが、脂質が8.6gもあり、中性脂肪の値に気をつけているぼくとしてはこれはこれでまた悩んでしまう。

 そのまま食べられて、タンパク質が多くて、しかもうまくて、飼育などにあまりエネルギーを使わない、そんな食べ物として昆虫は考えられるのだろうか?

 

 なんでも食べる雑食…というか悪食マンガ、ぽんとごたんだ『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!?』(双葉社)の3巻には、コオロギの佃煮が出てくる。

 この記事にもあるように、多くの人が昆虫食を避けたいと思っている。

www.j-cast.com

調査結果によれば、さまざまな食品に対する選択肢「絶対に避ける」「できれば避ける」をあわせた数字が最も多かったのは「昆虫食」(88.7%)だったという。  

 記事には「なぜ昆虫食に対して抵抗感を示す人が多いのか」という問いが立てられているものの、原因は分析するほどでもないだろう。ビジュアルとそことリンクした食感だ。

 ぽんとごたんだ『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!? 』3巻に、コオロギの佃煮を食べる話が登場するけども、ビジュアルと食感をネタにしている。

ぽんとごたんだ『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!? 』3、p.15、双葉社

 

前掲書、p.35

 嫌悪感をネタにしているわけだから、当然そこがポイントとなる。上記の通り「フニャッ」という半ナマの食感に激しく嫌悪感を抱いている先生に対して、桐谷さんが馬鹿げた食感レポをするのが可笑しい。

 『桐谷さん』がすごいのは、こうした取材マンガにありがちな衛生管理された養殖コオロギを食べるんじゃなくて、野生の日本のコオロギを食べていることだ。マンガにポイントが書いてあるが、そのまま食べると臭みがひどいそうなので下処理が必要になる。(その仕方は実際に読んでほしい。)

 

 ぼく自身は、イナゴの佃煮やハチノコなどを居酒屋で食べたりするので、見た目・食感などにそれほど嫌悪感は持っていない。

 いや、さすがに手塚治虫の『火の鳥』に出てくるゴキブリは、衛生管理されていてもちょっと嫌かな。手塚はまた、それをビジュアル的にすごく嫌そうに描くんだわ…。軽いトラウマ。

手塚治虫火の鳥・太陽編』p.287、KADOKAWA

 「ザラザラ」じゃねえwww

 コオロギせんべいに入っているコオロギパウダーってどうやって作るのか知らないけど、もしただコオロギを乾燥させてそれをマッシュしているだけなら、まあそれでいいわけである。問題はそれをどう美味しく食べるかということなのだが、海老せんべい的に食べると他の不要なカロリーを多く取らないといけないなと思った。チョコもまた然りである。

 例えばコオロギパウダーがエビのような味だけであるなら、そのまま味噌汁に入れて食べたいと思うんだけど、そういうふうな売り方はしていないのだろうか? あったら買いたい。

 自重筋トレはいまだに続いているのだが、やった後にプロテインを飲む。その時に、コオロギパウダーを使ったプロテインが飲めればいいんだけど、それは製品開発的に無理そうだな。

 

 ところで上述の記事の中で

昆虫食が受け入れられるためにはどのようなきっかけが必要になるのか。吉田氏によれば、(1)昆虫があくまでも嗜好品であると認知されること(2)美味しい昆虫が広く食べられること――が重要だという。

と識者(食用昆虫科学研究会の吉田誠)が指摘しているが、「昆虫があくまでも嗜好品である」という意味が少しわからない。もともとエネルギーをふんだんに使う肉などの代替品として考えられているわけだから、「嗜好品」=「栄養の摂取を目的としてではなく、好き好んで摂取する飲食物」ということではアカンのではないか。

吉田氏は、「昆虫は採捕にせよ養殖にせよ、安いタンパク源ではなく、高価な嗜好品です。タイではコンビニのお酒のおつまみコーナーで売られており、食べたい人が食べるものです」と説明した。

 しかし、吉田の話をあえて解釈してみると、

  • 昆虫は代用品として「イヤイヤ食べる」イメージがある
  • しかしそうではなく、美味しくて好き好んで食べるものと考えるべきだ

という意味になる。吉田が言いたいことのポイントは、「イヤイヤ食べるな。うまいんだ」「食べなきゃと思うから強制感が強くなる。そこをやめてほしい」ということを強調したかったのではなかろうか。

 そうであるとすれば、肉の代わりに(安く、環境負荷が小さく)タンパク質を摂取する役割はいささかも変わらない、と。

 でも、もしそうなら「嗜好品」という強調は、やはりおかしいと思う。

 

 

 

たらちねジョン『海が走るエンドロール』4

 村上春樹『女のいない男たち』も結局メモをアップしただけになったんだけど、マンガの感想も何かまとまらない。まとまらないうちに、熱量が下がっていって、アップする機会を失ってしまう。そういうのってもったいないと思う。

 断片でもいいから上げておこうと思った。

 もちろん、断片を煮詰めて形にすることは大切だから、むやみにアウトプットしないほうがいいという考えもある。

 どっちだかわかんない。

 わかんないので、今日のところは、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくってみようと思う。

 

 

 65歳の主人公が大学に入って映画を撮る話。

 主人公・うみ子と知り合った学生・海(カイ)が監督となって映画を撮るくだりで、海の余裕のなさゆえに撮影現場の空気がめちゃくちゃ悪くなる。

 俳優の稼業も始めている海は、後日、自分も出演する映画での、有名なプロの監督と会った際に、「監督に必要なことってなんだと思いますか」と尋ねる。

 監督は

めちゃくちゃ気を遣えること

と述べる。何か創作的な心構えや技術的なコツのようなものが来るのかと思いきや、実は海が一番欲しい答えを的確に返す。

まず 怖い監督の下で最高のパフォーマンス出せなくない?

俺がダサいとかいい人だとじゃないのよ

コスパが悪いでしょ 純粋に

 「なんか夢がないなあ」と監督のそばにいた人が笑いながらつぶやくのだが、海は「ありがとうございます」と頭をさげる。「響いたっぽいよ」と監督はにこやかに傍の人に言う。

 そして、海は翌日、自分が監督をしている撮影の現場で、スタッフたちに謝るのである。

 海が素直にこの言葉を受け取るのがいい。

 なんだろう。なぜ今俺の心にこれが響くのか。

 全体を仕切る人が「めちゃくちゃ気を遣え」て、スタッフの「最高のパフォーマンスを引き出す」って、うん、当たり前だけど大事なことだよねと思った。威圧したり、攻撃したりするような環境で働きたいとは思わない。怖い人のもとでは働きたくないんだよ。

 海がいつもは無表情で、少し笑ったりして、感情が出てくるのがかわいい。そのかわいさが、ぼくが他人に求めているし、今自分にない素直さなんだよ、とか思ったりしているんだ。

たらちねジョン『海が走るエンドロール』4、秋田書店、Kindle67/165

 「求められること以上のことを返す」、そういう人しかいない現場。それがプロの現場だと海は気付くけども、「求められること以上のことを返す」というパフォーマンスを引き出せるような「気の遣い」方をするのが監督ってことだよね。もちろん、個々のスタッフはそういう能力を持っていることが前提なのだろうけど、そこまでいかなくてもその人の最高のパフォーマンスを引き出せるようにすることが役割だ。

 スタッフは自分の思い通りに引き回す道具じゃないのである。

 そりゃあロジックで監督が描く通りの動きをしないとイライラするのかもしれない。だけど、別に映画のような創作に限らず、集団で物事をするということは、監督者の思惑さえ乗り越える、個々の力の合成力なのだから、全く予期せぬ力を引き出すために監督者は存在する。そういう弁証法を理解できなければ、監督者としては失格なのだろう。

 自分の思い通りに引き回そうとして怖いだけの監督者。困ったものである。

 

 うみ子が映画を撮ることを、いろんな人が応援したいなと思うシーンもある。

 そこでうみ子は

「物語」を人は応援したくなる

と感じる。

 これはマーケティングなどでよく聞かれる話だけども、最近リモート読書会のために読んでいる加藤陽子奥泉光『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』での次の一文を思い出す。

われわれは物語の枠組みなしに現実を捉えることができないという問題がある。たとえば、こうなってああなって、だからこうなってああなったんだ、といった因果性の物語からわれわれは逃れられない。物語ぬきに現実を捉えることができない。(奥泉・加藤『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』p.13、河出書房新社

 ぼくの振る舞いはどのような「物語」として把握されるのか、にいま関心がある。

 

 海が俳優をしていることについて、実家の両親(というか父親)に怒られ、それを説明しに実家に戻るシーンがある。そのとき、うみ子は衝動的に一緒に実家へ行く電車に乗ってしまう。

 夜中に海とともに神奈川の田舎駅に着いたうみ子は次のように感じる。

衝動は大事にすべきだ

 少し前までぼくはそういうことにあまり同意できなかった。今でも十分に同意はできないけども、衝動的に感じたことの中には確かに大事な成分が含まれている。そのことを押さえつけてしまっていいのか、取り出して向き合うべきなのか、今も定まらない。

 

 最後に、うみ子と海の関係。

 ぼくはすぐに脳内で性愛や恋愛の話にしたがる。

 しかし、この2人は、そこに行きそうで行かない。いや…そもそも行きそうにない。ぼくの頭の中だけで「そこに行くかも。行ってほしい」という願望があるだけなのだが、作品はそれを強く拒んでいる。

 セックスのようなものに還元したがるぼくの脳に強いブレーキをかけながら読まされているのである。

 恋愛や性愛に持ち込まない関係を描こうとする作家(特に女性作家)は少なくないように思うが、「そういう読みができるようにしてね」とたしなめられれているような気がする作品だ。

 

 

村上春樹『女のいない男たち』

 リモート読書会でやった村上春樹『女のいない男たち』。

 感想をメモっていて、それをどうにか形にしようと思ったんだけど、どうにも形にならないまま日が過ぎてしまった。だから、このまま埋もれてしまうのは少々もったいない気がして、本当にメモみたいなものだけどアップしておく。

 ぼくにとっては、村上春樹の小説はたぶん初体験。読んだとしても昔々過ぎてもう忘れてしまったからだ。

 だから、村上春樹をたくさん読んでいる人には「なんだ今更」とか思うこともあるだろうし、「いや、それは違う」と思うこともあるだろうけど。

 

 うん、文体や会話がおしゃれだね。

 こういう会話をしてみたいと思った。

 鴎外や漱石を読んだ時は「朗読をしたい」なと思ったけど、そういう「朗読をしたい」と思えるような文章ではない。でもリアルの会話はこんな感じで言いたいと思った。

 一番おしゃれだと思ったのは、いくつかの短編の返事で「もちろん」と答えるのがおしゃれだった。

  • 「ひとつ質問していいですか」「もちろん」(ドライブ・マイ・カー)
  • 「ねえ、谷村くんにちょっと相談があるんだけど。聞いてくれる?」 「もちろん」と僕は言った。そして、やれやれ、困ったことになりそうだなと思った。(イエスタディ)
  • 「キスをしたら、そのもっと先に行きたがるものよね」「普通はまあそうだけど」「あなたの場合もそうだった」「もちろん」(イエスタディ)
  • 「君はそこで何かを考えていたんだ」「もちろん」(シェエラザード
  • 「ひょっとして君は、胎内にいたときのことを思い出せるの?」「もちろん」とシェエラザードはこともなげに言った。(シェエラザード

 

 小道具的な名刺がおしゃれ。

二人組はテーブル席で、オー・メドックボルドーの一地域の名前)のボトルを飲んでいた。彼らは店に入ってくると紙袋からワインの瓶を取り出し、「コルク・フィーとして五千円払うから、これをここで飲んでかまわないか?」と言った。前例のないことだったが、断る理由もなかったので、いいですよと木野は言った。(木野)

 「持ち込み料」じゃなくて、「コルク・フィー」ってかっこよくない?

 すらっと出したいね。飲み屋とかで。

 「ここで飲んでいい? もちこ…じゃなくて、ほら、なんだっけ、アレ、なんとかフィー…持ち込んでお金…そう、そう! コルク・フィー!」とかにならないようにしたい。練習したい。

 短編「木野」に出てくるこのヤクザっぽい男たちとカミタとの絡みもおしゃれですよね。声を荒げた乱暴なセリフじゃないのに、おしゃれに粗野な感じが伝わる。オシャレな粗野。

 

 逢坂冬馬『同志少女よ敵を撃て』を読んだとき、情景描写やセリフがすごくラノベみたい、って思った。雰囲気を一生懸命作ろうとしてしているんだけど、なかなか生硬さな抜けない。『同志少女よ…』の良さはそこじゃないところなんだけど、そこではあまりうまくいってないよな、ということが、なぜだかこの村上のオシャレ感創出の成功を味わいながら感じた。

そうね、と母は優しい顔で笑った。「昔あなたが好きだった演劇のように」「うん。戦争が終わったら、必ず外交官としてドイツとソ連の仲を良くするの」(『同志少女よ敵を撃て』)

いつもあの場所へ行くと、アントーノフおじさんが薪を割る音が聞こえる。その奥さんで、小麦粉を運ぶナターリヤさんは、必ず手を振ってくれる。昔、町で調理人をしていたゲンナジーさんは獲物を上手に捌いて、肉の部位と毛皮をつくってくれる。ミハイルの妹エレーナは、その肉をあげると、お返しに、町で男の子にもらった甘いお菓子を分けてくれる。(『同志少女よ敵を撃て』)

 

 

 短編「女のいない男たち」はさっぱりわからなかった。意味不明だ。

 

 短編「ドライブ・マイ・カー」におけるドライバーの渡利みさきのぶっきらぼうさがとても良い。

 これは映画で三浦透子が演じていたぶっきらぼうさがちょうどよくハマっていた。つっけんどんではなく、実務的で必要なこと以外は喋らない感じ。それが染み出して話し始める感じが確かに好き。

「みさきは平仮名です。もし必要なら履歴書を用意しますが」、彼女は挑戦的に聞こえなくもない口調でそう言った。家福は首を振った。「今のところ履歴書までは必要ない。マニュアル・シフトは運転できるよね?」「マニュアル・シフトは好きです」と彼女は冷ややかな声で言った。まるで筋金入りの菜食主義者がレタスは食べられるかと質問されたときのように。「古い車だから、ナビもついていないけど」「必要ありません。しばらく宅配便の仕事をしていました。都内の地理は頭に入っています」「じゃあ試しにこのあたりを少し運転してくれないかな?天気が良いから屋根は開けていこう」「どこに行きますか?」  村上春樹. 女のいない男たち (Japanese Edition) (pp.18-19). Kindle 版.

「とくにありません」。彼女は眼を細め、ゆっくり息を吸い込みながらシフトダウンをした。そして言った。「この車が気に入ったから」そのあとの時間を二人は無言のうちに送った。修理工場に戻り、家福は大場を脇に呼んで「彼女を雇うことにするよ」と告げた。  村上春樹. 女のいない男たち (Japanese Edition) (p.23). Kindle 版.

 

 この短編集には、セックスってどこでも出てくる。それなのにあまり本質的じゃないように描かれるのは一体どうしてなのか。そんなことないだろ。こんなに頻繁に出てくるくせに。

セックスはあくまでその延長線上にある「もうひとつのお楽しみ」に過ぎず、それ自体が究極の目的ではない。  (Japanese Edition) (p.105). Kindle 版.

彼女たちと親密な時間を共有できなくなってしまうことかもしれない。女を失うとは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが彼女たちが提供してくれるものだった。

二人の飲み方には性行為を連想させるものがあった。

 いろんなマンガでも、結局セックスって大層なものでも本質的なものでもないように描かれることが多いんだけど、そうかなといつも思う。セックスって人生の一大事だよ。

『マンガでやさしくわかるアサーション』(『違国日記』10にも触れて)

 ある市議の応援演説をした公民館で、帰り際に貸出図書をパラパラと眺めていた。その時に見つけた本である。読みふけってしまった。

 面白そうだったので借りたかったのだが、その公民館に来られるのがいつになるかわからず、購入した次第。

 アサーションはassertionで主張、それも「自己主張」というニュアンスの英語である。そこから適切なコミュニケーションとして自分の主張を伝える技術をあらわす言葉として使われている。

 この話題はかなり前から知っていたが、あまり熱心に追ってはいなかった。まあ、今回だってこの本読んだだけなんだけど。

 だが、今自分にとってわりと切実な課題になっていたので、きっと琴線に触れたのだろう。

 自分の考えや気持ちを言わず、言いたくても自分を抑えてしまうCAの出雲三江を主人公に

 本書では、

  1. 自分の考えや気持ちを言わず、言いたくても自分を抑え、結果として相手の言うことを聞き入れてしまう「非主張的自己表現」
  2. 自分の考えや気持ちを伝えることはできるが、自分の言い分を一方的に通そうとして、言い分を相手に押しつけたり、言い放しにしたりする「攻撃的自己表現」
  3. そのどちらでもないアサーティブな自己表現(アサーション

の3類型に分けられている。

 肝心のアサーションは、長く学ぶ技術として示されているので、ぼくがここでまとめてしまうのは僭越なのだが、本書を読んだだけで感じた「アサーション」というのは、

  • 自分が尊厳ある状態と、それにもとづく自分の気持ちを基礎にして、
  • それを表現し、
  • 相手を尊重しながら交渉して、
  • 妥協点や折り合いを見つける技術

というふうに理解した。

 「相手を尊重しながら」が難しそうで、つまり相手を操作せずに、相手の話を聞いて自分も変わることが前提となる。自分が変わるということは相手に抑圧されることの言い換えになってしまう危険性があるが、「自分の尊厳」が基礎にあれば、つまり自己肯定感があればそれは揺らがない。逆に「自分の尊厳」を相手の抑圧の上に成立させようとすると操作的になってしまうわけで、それも「自己肯定感のなさ」の裏返しだと言える。

 

 とりわけ自分の今の課題は「非主張的自己表現」である。

非主張的自己表現は、気持ちや考えを表現できないとか、しないことなので、自分の状態を知らせていないことになります。また、したとしてもひとり言のような言い方をすると、聞こえなかったり、伝わらなかったり、無視されたりする可能性があります。たとえば、三江さん本人は渋谷部長や先輩を立て、思いを大切にし、相手が不愉快にならないように自分の主張を抑えて譲ったつもりでいます。しかしそのことは伝えていないので、デートや自分の時間を犠牲にしている配慮は伝わりません。そのため、相手には、「三江さんが自分に同意してくれ、不満はない」と受け取られます。(平木典子・星井博文・サノマリナ『マンガでやさしくわかるアサーション 』、日本能率協会マネジメントセンターKindle 版pp.50-51)

 ぼくにはいま、大勢に抗して言いたいこと、どうしても変えたいことがあるのだ。「非主張的自己表現」を克服したい。

 

 

 「自分の尊厳」を出発点にしているので、これは密接に人権と関わっている。

 本書では、意見表明権としての側面を強調しながら、人権としてのアサーションを解説する。

 最近読んだヤマシタトモコ『違国日記』10で主人公の一人・高校生の田汲朝に対して、社会科の教師が自己肯定感と基本的人権の関係を説き出すのが新鮮だった。物語では、「基本的人権」「価値」「自由」というような一見生硬な言葉を使わないことを選ぶはずなのに、あえてそれを使っている。しかも、やわらかく(下図)。

ヤマシタトモコ『違国日記』10、祥伝社、Kindle149/232

 特に、『違国日記』はまるで日常の会話を動画で切り取ったような、脈絡が取りづらい「ナマ」の会話を並べている調子が続くだけに、この箇所はいい意味での違和感を覚えながら、読んでしまう。

 自分の尊厳は客観的なものである。自分の気持ちにかかわりなく本来備わっているものだが、それを感じ取り、自分のものとして守ろうとする感情は自己肯定感と密接に結びついている。しかしそれは自分だけで生まれる感情ではなく、自分を尊厳ある存在として扱おうとする家族・社会・国家の客観的状況によって左右されるに違いない。

 アサーションはその家族・社会・国家と渡り合う技術だと感じた。

 そして、それは単なる「調整術」ではない。それは紛争や摩擦がないように自分を調整=抑圧してしまう「非主張型自己表現」への道である。

映画・マンガ「かがみの孤城」

 映画「かがみの孤城」を観て、そのあとに同名マンガを読む。原作小説はまだ読んでいない。(以下、ちょいネタバレあります)

 マンガでは、集まった7人の事情、初めは距離を置いていた7人が次第に打ち解けていくプロセスなども丁寧に描かれている。

 これに対して、映画は時間が足りないせいだろうが、そのあたりはずいぶんざっくりとしてしまっている。

 しかしそうした一人ひとりの事情に代わりに、ぼくが映画で強く印象に残ったのは、「孤城」での居心地の良さである。

www.youtube.com

 現実は自分を苛む様々な攻撃に満ち溢れている。つらい現実から防御された皮膜の中。その皮膜の中は安心できる人間関係だけがある。その人間関係は確かに何がしかのトラブルや軋轢を経て得られたものなんだけど、観ているぼくとしては、その安心感だけが快楽的に迫ってきて、甘美を覚えてしまった。

 特に映画では、こころを「抱きしめる」シーンが2回ある。「抱きしめる」なんて、手垢のついたような「感動盛り上げ手法」と思うかもしれないが、これは映画の中で白眉というべきで、「抱きしめる」ということのケア的な役割が観るぼくに強く迫ってきた。

 ああ、この城に行きてえ…。

 映画は、マンガ版で読んだ時に感じたいろんな要素を犠牲にして、「孤城での居心地の良さ」に徹底してフォーカスしたんじゃないか?

 っていうのは、ぼくの心が弱っているせいであろうか。

 もちろん、マンガにもその位置付けはある。(下図参照)

辻村深月武富智かがみの孤城』1、集英社、Kindle219/225

 しかし、マンガではこの設定自体を揺らがせたり、さらに深みをつけたりする。それがマンガ版の良さではあるが、逆に「居心地の良さ」としての一面性は後退する。

 

 それにしても…そんなにぼくの心は弱っているのだろうか。

 うん、間違いなく弱っている。

 お前そんなに働いてないだろ? と言われたらその通りだけど、いろいろあって弱ってんだよ。そういうときに「外界から超然とした、現実の嵐から自分を守ってくれる、仲間たちとの城」っていうイメージがどんだけ快楽に響くのか、あんたにわかる?

 保健室に誰もこないという一件は、「城」が現実ではないという否定、そんな甘美な城はこの世には存在しないのだという否定を一旦を行う。

 しかし、世界は歴史においてつながっており、歴史は社会として存在し、我々が依拠すべき「依存」先もまた、現実の社会と歴史のつながりの中に実はあるのだ、というメッセージを放っている。

 映画で、7人がどこかで交わっている様子を見せるのは、そのメッセージを強く意識させるものだ。

 が…それよりも、「城」だよ。

 ああいう城に行きたいんだよ。俺は。

 

 

こころの造形

 マンガの方で武富智の描くグラフィック、特に主人公・こころのそれは、良くも悪くも意志的である。武富の描く描線の強さは特にそれを感じさせる。

 葛藤をしたり不安に苛まれたとしても、「もがき苦しんでいる」という強さを感じるのである。

辻村深月武富智かがみの孤城』5より

 これに対して、映画の方のこころは、はかなげで、強さがない。不安や攻撃に満ちた現実世界に対して、いかにも脆弱そうな精神を持っているキャラクターを想定させる。

 ぼくはマンガ『かがみの孤城』を読みながらやはり涙してしまったから、マンガはマンガで独自の良さがあるのだけど、こころの造形についてだけ言えば、映画の方が好きだ。うーん、それは「女性、かくあるべし」というジェンダーが反映しているような気もするが、それはよくわからない。そういうこころが、仲間のために立ち上がろうとするのだから、そこにギャップ萌えのようなものが生まれているんじゃなかろうか。