「交通事故負傷者は実際には減ってない」問題が国会で質問

 交通事故負傷者は実際には減ってないのではないか、という「しんぶん赤旗」の記事を読んでその感想を書いた。*1

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 その後、共産党塩川鉄也衆院議員がこの問題を国会で取り上げて質問した(6月4日、衆院内閣委員会)。今日の「しんぶん赤旗」にはその反響を書いた記事が載っていた。

 そして塩川議員のホームページにはその質問をまとめた記事が載っていた。

www.shiokawa-tetsuya.jp

 

f:id:kamiyakenkyujo:20210613111819j:plain

(2021年6月4日 衆議院内閣委員会 日本共産党 塩川鉄也 配布資料)

 

 前回記事で青野渉弁護士のコメントを紹介したが、「横ばい」と「半減」ほどに違う。「実数が違うだけで、基本的には同じ傾向」ではないのである。これは統計の意味を無効化し、それを基礎にした国策を誤らせる。

 

 乖離が生じているのはなぜかと質問。

 警察庁高木勇人交通局長は「自賠責保険では、人身事故として警察に届出がなされなかったものでも、実際に負傷したことが確認できれば支払いを行うため」と答弁。

 私は、負傷者数の実態を反映しているのは警察の統計ではなく、自賠責の統計だと事実上認めるものだと追及。

 

 要するに実際には負傷者が出ているのに「物件事故」として扱われたものは、この負傷者統計に入ってこないということを警察庁が認めたのである。

 以下は記事にはなく、動画で確認した塩川議員が暴露した、弁護士からの聞き取り部分である。

 実態をお聞きすると、交通犯罪に詳しい弁護士、青野渉氏によりますと、「警察署の事故対応として、被害者から警察に診断書が提出されると人身事故の扱いになるが診断書が提出されなければ物件事故として扱われる」ということ、「負傷した被害者に対し『診断書を出すなら事情聴取があるので警察署に来て事情聴取に対応してもらいます』『警察で人身事故扱いにしなくても、交通事故証明書は出ますし、自動車保険は出ますよ』とか『相手を処罰したいわけではないでしょう』とか、診断書を出すとデメリットがあり、診断書を出さなくてもデメリットはないかのような説明をしている」ということであります。

と追及した。

 こうした統計の乖離をただす質問に対して、

内閣府難波健太大臣官房審議官は「指摘は承知している」

 小此木八郎国家公安委員長は、乖離が生じている背景について「把握に努めるよう警察を指導する」と検証する考えを示しました。

と答えて検証を約束したのだ。

 これは塩川議員、一本である。

 

補足(2021年6月13日 午前11時30分)

 はてなブックマークに「警察としては診断書入手できてなかったら公式に人身にできないのは当たり前では?」というコメントが比較的上位にあるのだが、別のコメントも批判しているように、実際に負傷が生じて(診断書まで持ってきて)いるのに現場でそれを出させないようにしているのが問題なのである。

 前回のエントリで紹介したが、青野弁護士が指摘するように「現に負傷者がいるのに事件を検察に送致しないのは法律違反」となる。

 質問の動画(2時間46分ごろ)を見てほしいが、塩川議員は、なぜこんなことが起きているのか、現場のそのような対応が横行しているのかを質問の中で紹介している。

www.shugiintv.go.jp

 要は、国の交通安全基本計画(第8次、2006年)に「死傷者数」の削減目標がうたいこまれ(これ自体は必要だと塩川氏は言う)、それに合わせるように2007年から乖離が始まったということだ。国の政策は統計がベースになるのでそれを大きく誤ることになってしまう。

*1:前の記事のタイトルが「交通事故は本当は減っていない?」になっているが、正確には「交通事故負傷者は本当は減っていない?」だな。

「風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつ」で思い出す筒井康隆

www.kaiseisha.co.jp

 これを読んで当然この箇所に目がいく。

風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつのだと思います。

 

 そこにこの記事。

m-dojo.hatenadiary.com

 筒井康隆の風刺・パロディ論争を思い出す(「笑いの理由」/筒井『やつあたり文化論』、新潮文庫所収)。

 最近「差別語」論争について振り返る機会があって久々に読み返していたために、記憶に残るところがあったのだ。

 

 

 筒井は風刺とパロディを区別して、パロディにおいて「原典の本質を理解していない」という批判を厳しく批判する。

なぜかというと、原典の本質を衝いているというだけでは創造性に乏しいことがあきらかで、ある程度以上の文学的価値は望めない。そこで途中から原典をはなれ、その作品独自の世界を追求したり、自分の主張をきわ立たせるために原典を利用する、などというパロディもあらわれた。パロディの自立である。(筒井前掲書KindleNo.3035-3038)

 そして筒井自身の作品について触れ、原典の本質とも細部ともかかわりなく、「むしろ遊離している」とさえ主張する。「原典の本質理解」に拘泥することを、衒学趣味、悪しき教養主義だとするのである。

 他方で、風刺についても述べる。

 筒井は、笑いにおける精神的死の典型は、大新聞社の紙面を飾る1コマ風刺マンガだとする。実際に「面白くもおかしくもない」とのべ、「時にはカリカチュアライズした似顔絵だけの漫画」などとこき下ろす。このようなものを新聞社がありがたがる理由について、笑いの中核には「現代に対する鋭い風刺」が必ずなければならないという貧しい信念が大新聞社的良識があるからだ、とした。“チャップリンの方が、マルクス兄弟よりも高級だ”という風潮をあげながらこう述べる。

なぜこういう誤解があったかというと、常識の鎧を身にまとった人間というものは、笑う際にも意味を求め、意味のある漫画しか理解できない傾向があり、これはあの事件のもじりであろうとか、なるほどあのひとは誇張すればこんな鼻をしているとか、そういった卑近な連想によってのみ笑う(筒井前掲書KindleNo.2853-2856)

 対比的に筒井は、自らの「ドタバタ喜劇」の目指すものを、人間の意識の解放、常識の破壊、想像力の可能性の追求などとしている。

 

 今回の風刺マンガ(エリック・カールの絵本とオリンピック問題を掛け合わせる)は、まったく違う時事ネタをドッキングさせて笑いをとるという、異質な技術を掛け合わせるイノベーションとか、異質な学識を繋いでしまう文化革新とか、そういった異物を結合させる際に含まれるような爽快感が、ごく微量に味わえる手法である。もちろんそれはそれほど大そうなものではなく、日常の生活でもぼくら(というかオッサン)がよくやるものだ。

 無謀なオリンピック計画を批判しているので政治的には味方をしたいのだが、「マンガとして息ができなくなるほど腹を抱えて笑った」というほどに面白いものでもなかった。

 むしろ手慣れた常識感が筒井の新聞1コマ風刺マンガ批判を思い出させてしまう。

 そして、それを批判する言説(今井)についてもやはり筒井を思い出してしまうのであった。

夏目漱石『吾輩は猫である』

 リモート読書会は夏目漱石吾輩は猫である』だった。

 

 

 この超有名な小説、ぼくは読んだことがなかった。

 つーか、中学生、高校生時代に何度か読もうとして途中で挫折している。

 「面白くなかった」からである。

 11章あるけども、1章を終わらないうちにダメになってしまっていた。 

 

 ぼくは「自分では読みそうにない・読み終えそうにない、有名な小説」を読みたいというのがこの読書会への参加動機だったので、このセレクトは願ってもないことだった。『ペスト』などもそうである。

 そして読み終えた。

 なるほど、こういう小説であったか!

 ぼくは、とにかく「朗読すべき文章」としての心地よさに強い印象を受けた。

 例えば、次のような文章(猫のセリフ)は、リズムとしても気持ちがいいし、文章の内容としても「愚行権」の称揚になっていて小気味いい。

何のために、かくまで足繁く金田邸へ通うのかと不審を起すならその前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥かし気もなく吐呑して憚からざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声で咎め立てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草である。

 小学生の頃、ぼくは落語をラジオやテープでよく聞いたが、それと同じくらい文章で読んだ(偕成社『少年少女 名作落語』シリーズや興津要編『古典落語』)。

 やりとりが随所で「文章で読んだ時の落語」っぽい。

「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「何だって? Quid aliud est mulier nisi amiciti inimica……こりゃ君羅甸語(ラテンご)じゃないか」

「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」

 他方で、漢語や文語的な言い回しが入ってくる。

若し我を以て天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、若し天地を以て我を律すれば我は則ち陌上の塵のみ。すべからく道え、天地と我と什麼の交渉かある。

 まあ、しかしこの一文は、猫の主人(苦沙弥)が「なかなか意味深長だ」「あっぱれな見識だ」と絶賛するものの実は意味不明な手紙の一節なのだが。

 

 しかし、これは子ども、すなわち中学生が読むにはあまりにも歯ごたえがありすぎる文体ではなかろうか。

 しかも、改めて読んでわかったことだが、この作品には筋らしい筋がない。

 あえていえば登場人物の一人、寒月と金田令嬢・富子との結婚話が、か細い筋となっているのだが、そんな筋はあってないようなものだ。だから何かストーリーの面白さを頼りに読み進めるということができない仕組みになっている。読書会に参加したAさんは「自分は中学時代に読んだつもりでいたが、今回改めて読んで、どうも1章で挫折していたということがわかった」と告白した。ぼくと同じである。

 Aさんは「これは高校生…いや大学生でないと難しいかも」と言った。

 Aさんがいうには「そもそもここに出てくる登場人物は、なんだか50とか60のような年齢に思えるのだが、たかだか20代、30代、ぜんぶ私たちより年下だ。苦沙弥は漱石だろうけど、その人は無聊を囲って鬱々としていてそういう悩みは20代、30代の悩みだと思う。だからこういう小説は本当は大学生とか、20代が読むほうがいいはずだ」と言った。

 なるほどぼくが手にしたのは「子どもとおとなのための偕成社文庫」であり、全国学図書館協議会選定図書の一つとしての『猫』であった。ぼくも、この小説を中学生に読ませるというのは乱暴だと思った。自分も挫折しているし。

 ぼくなどは、「こういう時代の女性観、子ども観、用語感覚に触れさせることに激怒するような、ポリティカル・コレクトネスに目を光らせている人」がいるんじゃないかとハラハラする。ウソかホントか、「僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」などという話も出てくるし…。(参加者のBさんは「いや、この本の女性観はむしろ当時としてはずいぶんさっぱりしている。ほとんど苦にならなかった」と発言し、Aさんもこれに同調した。)

 『吾輩は猫である』をまず文体として楽しむなら、大人になってからの方がいい。

 ところが、大人になると『吾輩は猫である』は手に取らない。そういうものは、「中学生か高校生の時に読むもの」だとされているからだ。だけど、今回読んでみて、これは大人でこそわかる面白さではなかろうかという思いを強くした。特に、その文体を朗読する味わいは。

 

 中身についてはどうだろうか。

 よくこの作品は「文明批評」だなどと評される。日常が「猫」の目によって、あるいは登場人物たちによってラジカルで意地悪い批判に晒されるからだろう。先ほどあげた愚行権としての煙草などはその一つだ。この種の「批評」はこの作品に無数にあるが、例えば鏡を通じて自分の容姿を把握するということはこんなふうに書かれる。

鏡は己惚れの醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念をもってこれに対する時はこれほど愚物を煽動する道具はない。昔から増上慢をもって己を害し他を損*1うた事蹟の三分の二はたしかに鏡の所作である。仏国革命の当時物好きな御医者さんが改良首きり器械を発明して飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も定めし寝覚のわるい事だろう。しかし自分に愛想の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。妍醜瞭然だ。こんな顔でよくまあ人で候と反りかえって今日まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほど尊とく見える事はない。この自覚性馬鹿の前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は昂然として吾を軽侮嘲笑しているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。主人は鏡を見て己れの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる痘痕の銘くらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心の賤しきを会得する楷梯にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。

 

 こういう観察って、今はブログに行ってしまったんじゃないかと思う。

 例えばこういうブログの文章がある。この記事のタイトルは「押し売りこそが人間」である。

このところ一軒家を買う人が増えているそうだが、セールス対策への意識が薄れていると思われる。コロナが完全になくなったら対面営業が復活するかもしれず、そこは不明瞭だが、インターネットでいろいろと調べられる時代だと、営業マンと顧客の情報格差も縮まってしまうし、コロナ禍を大きな曲がり角として営業職は荼毘に付されるのかもしれない。昭和の頃だと、「さっき刑務所から出てきた」と前口上を述べる押し売りが本当にいた。あと、新聞勧誘員(拡張団)に恫喝されるのは日常茶飯事であった。昔だとそう簡単に警察は来ない。相手が刃物を取り出したとして、それが腹部の表皮を掠める程度では甘く、内臓まで到達したらようやくお巡りさんがやってくる。穏健になった今日では、粗暴性で牙を向いてくる営業は廃れているが、営業マンは面子ををかけて向かってくるのだから、面子を潰さないように苦慮せねばならない。(以下略)

 

 アルテイシアの文章を読んでいるときにもこうした「文明批評み」を感じる(上述のブログ主とは真逆の立場だが)。

先日、性的同意をテーマにした番組の中で、26歳の女性アナウンサーが「女性がリテラシーを高く持てばいい話で、家に行かなければいいだけの話。その人とそういう関係になりたくないのであれば、2人で飲みに行かなければいい」と発言して、ネット上で批判の声が広がった。

私はその言葉の裏に「賢い女は自衛する」「(自衛できないような)バカな女は被害に遭っても仕方ない」というニュアンスを感じて、性被害者をおとしめる発言に怒りを覚えた。

同時に「おじさんウケする言動が染みついてしまったのかな」と痛々しさも感じた。

その女性アナウンサーは、サバサバ系キャラとして人気だそうだ。それ系の女性は「こいつは中身おっさんだから」と褒め言葉のように言われがちだが、それは「名誉男性」という意味である。

男社会で生き残るには「姫」になってチヤホヤされるか、「おっさん」になって同化するかの二択を迫られる。

そうやって出世した女性たちは、後輩からセクハラ相談されても「そんな大げさに騒ぐこと?」「おじさんなんて手のひらで転がせばいいのよ」と返して、困っている女子をさらに追いつめる。

「人間よ、もう止せ、こんな事は」と、我は高村光太郎顔で言いたい。男社会で女が分断されるのは、もう終わりにしようぢゃないか。(以下略)

 

 あるいは、『猫』の登場人物たちが「首縊りの力学」だなどといってくだらないことを大真面目に議論しているのは、『空想科学読本』シリーズを通り越して、日常系ギャグのマンガを思い出す。

togetter.com

 つまり、『猫』の時代には面白かった「文明批評」とか「日常をラジカルに、しかしコミカルに解体する」要素というのは、現代ではブログとかコミックに分解してしまったのではないかと思った。

 だけどこういう評価は、読書会参加者にはあまりウケがよくなかったし、『猫』が好きだという左翼活動家に話をした時も「ええー? もっと『猫』は面白いもんだよ?」と疑問を投げかけられた。

 

 漱石はこのころ鬱状態のようになってしまって、自分を客観視するという、いわば治療的なプロセスとして本作を書いた、みたいな話はよく見た気がする。

 

 結局のところ、この作品とどう向き合えばいいのだろうか。

 児童文学者の佐藤宗子偕成社文庫に解説を載せていて(子どもを対象にして)、まず「あざやかな細部」という話を書いている。

 

話の筋といったものはちっともつかめないけれど、作品のあちこちに出てきた目新しいことばや、こまやかな場面が、意外にくっきりと浮かびあがる——という人が多いのではないかと思います。(p.387)

 

心配することはありません。この『猫』と読者の向きあう姿として、それはむしろ自然な姿とみることができます。(p.388)

 

読み手の人が、自分なりの興味・関心をもってページを開く——、それでじゅうぶん作品とつきあうことができます。(p.389)

 

 ストーリーにこだわらず、気に入った場面を楽しむ。という付き合い方が奨励されている。読書会参加者は大体この点は共通していた。

 こうもある。

そして、どこか気に入った箇所を、口のなかで結構ですからつぶやいてみてください。むずかしい漢語やカタカナ表記の語がまじるから読みにくい、と思われるかもしれませんが、意外にも、声にのり、耳に親しみやすい文章であることに、おどろかされることでしょう。(p.393)

 これも先ほどぼくが文体が小気味いい、朗読して楽しい、といったことに全く合致する。読書会参加者は誰もが今回読んでみてみんな良かったといっている。正しい付き合い方をしてますね、とお墨付きをもらって安心した気分だ。

 

 そういえばBさんは、この小説について「描写がいちいち具体的で、情景がよみがえるかのように書き込まれているのがいい」と言っていた。Bさんがときどき見かける同人小説は全然具体的でなく、独りよがりな決意が語られてチューショー的に終わってしまうのだ、と愚痴っていたのが可笑しかった。

*1:※「爿+戈」、第4水準2-12-83

「ナショナル・ペンション」を「国立の宿泊所」か何かだろうと思っていたでござるの巻

 英語、それも読むことを毎日少しだけやっていると書いた

 今日この記事を書こうという時に「あらかじめ内容をよく知っている日本のニュースはすぐわかるけど、内容をよく知らない外国のニュースはなかなかわからない」という趣旨のことを書こうと思ったが、よく考えるとそうでもないと思った。

 

 例えば読売新聞系の「Japan Times」の2021年5月22日付の記事の一つを読む(もとは「The Korea Herald」の記事)。

www.koreaherald.com

 韓国では政府がテコになって大企業の技術を国内の中小企業に移転しているという記事だった。見出しの「tranfer 500 techs」って何だろうと初めは思ったが、本文を読み始めてだいたいわかった。500件の技術が移転された、という、まあ、「そのまんま」の意味だった。

 また、中小企業が「small and medium enterprises」っていうのは知っていたが、「SMEs」がまさかその略語とは思わなんだが(初めはSamsungのグループ名なのだろうかと思った)。

 これは外国の話であり、外国の人が書いた記事であったがだいたい読めた。

 

 ところが、日本で書かれた日本の話なのに、初めはさっぱりわからなかったものがある。

 福岡市の外郭団体は「Fukuoka City International Foundation」というニュースレターを作成していて市庁舎においてある。

 何気に一つとって、記事を読んでみる。

http://www.fcif.or.jp/wp-content/uploads/20210506eng.pdf

 「Special Natinal Pension premium exemption for students」と記事の題名にある。

 「ナショナル・ペンション」とあるから、何か国立の宿舎のことであろうと思った。マジで。

 留学生宿舎のようなものがあって、そこに「プレミアム」、何か特別な優待のようなもので宿泊したり、生活できる仕組みがあるのだろう、などと目星をつける。ついてねえけど

 exemption for students…うーむ、なにか学生は除外されているものがあるようだが、何だがわからない…。

 こんな気持ちで読み始めたが、どうも要領をえない。

 宿舎・宿所に対する話だと思い込んでいるから、それに合わせてストーリーを作ろうとしてしまうのだ。

 1節読んでさっぱりわからないので、辞書を引くと「Natinal Pension」とは国民年金のことであり「premium」とは保険料のことであった…。

 年金保険料の免除など、自分が日常的にやっている左翼運動の中心課題の一つなのに、英語での表現は全く知らなかったわけである。

 ウィキペディアを見ると(2021年5月31日時点)、

 「Pension」とは元来、英語では、「年金」の意味である。英語圏でペンションといっても宿の意味では通じない。

 なおフランス語ではpensionに年金の意味はなく、宿、寮をさす。

って書いてあんな…。

山本直樹『田舎』

 「福岡民報」2021年6月号(No.1711)に「マンガから見えるジェンダー」という3回連載の第2回目が載った。山本直樹『田舎』を入り口にしながらエロマンガについて書いている。エロマンガというポルノが問題だと思う人はなぜそれが問題なのか答えられる(言語化できる)かどうかを書いた。

webcomic.ohtabooks.com

 「民報」で書いた論点自身は拙著『不快な表現をやめさせたい!?』ですでに書いている。

 『田舎』について書いたというより、『田舎』を入り口にして、ジェンダーやポルノを語ったというものだ。

 『田舎』そのものについては作品自体の「楽しさ」をもう少し書きたかったが、とても紙幅が足りなかった。

 そこで、ここに少しメモ程度に『田舎』について記しておく。

 

 山本の前単行本にしてエロマンガである『分校の人たち』については以前に書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 『分校の人たち』についてそこで書いた魅力は、『田舎』でも踏襲されている。

 永山薫が「ユリイカ」(No.728)の山本直樹特集で書いたことであるが、永山は

 『分校の人たち』は、いずことも知れぬ地方の分校を舞台に、生徒たちが延々とセックスを繰り返すだけの長編漫画である。…そこには成熟した、世知に長けた、欲望に貪婪な男女はいない。そこにあるのは性器というより泌尿器であり、即物的に反応する敏感な粘膜である。

 性器には最低限の修正しか施されていないが生々しさはなく、派手な反応もない。ただただ事は静かに進行する。(「ユリイカ」p.42)

と述べている。

 永山が言うところのポルノグラフィの根本原理、

過剰さの追求(前掲p.42)

を山本は少なくともこの『分校の人たち』では、しない。

 

 山本が、「森山塔」のペンネーム時代に培った原点について永山は、

森山塔は情熱的では無い。少なくとも情熱をむき出しに迫るようなことは描かない。森山塔のセックス描写は即物的で、まるで生物学者が、とある生物を冷静に観察しているように見える。(p.38)

…どんなアイデアを投入しようが、森山塔は登場人物の誰にも感情移入をしない。突き放して見ている。無情であり、非情でさえある。(p.39)

として、

山本直樹の『分校の人たち』を読んだ時、「ああ、森山塔が帰ってきた」と感じた。(p.40)

と評した。

 だけど、『分校の人たち』と『田舎』には違いはどこだろうか。

 『分校の人たち』に登場する男女3人の生徒がセックスにハマっていく。

 ハマっていく際に、3人は確かに「まるで生物学者が、とある生物を冷静に観察しているように」お互いの体を探り合い、開発を繰り返していく。

 そこには、「観察」や「突き放し」に徹しきれない、微妙な感情の交錯、貪婪さが見えてしまう。例えば、男女2人の生徒がセックスしている間にもう一人の女の生徒が感じるわずかな嫉妬心、あるいは好奇心のようなものである。

 「観察」や「突き放し」のレベルを極限まで高めていくことで、「ただただ事は静かに進行する」ものの、それゆえに、本当に微細な登場人物の感情の上下が電撃のように読むものの欲望を刺激する。

 下図は、学校のトイレで男女二人の生徒がセックスをしている間、ただの成り行きで疎外されてしまったもう一人の女の表情である。この女の生徒にこそ、『分校の人たち』の中では、読者の欲望を集中的に刺激する要素が詰め込まれている。

f:id:kamiyakenkyujo:20210529112551p:plain

山本直樹『分校の人たち』2、太田出版Kindle版No.111/195

 

 探求するかのような『分校の人たち』の男女3人に対して、『田舎』に出てくる、田舎の親戚に滞在する受験生(フーちゃん)と、滞在先の親戚の少女(キーちゃん)とのセックスには「観察」というニュアンスが退く。

 「観察」という行為の中にある、対象に淫する感情、対象にのめり込み所有し支配しようとする姿勢が薄くなっているのだ。

 『田舎』でのセックスはますます「即物的」となり、「突き放し」が徹底されていく。

 欲望的な感情については、微妙であっても揺れ出す瞬間はほとんどない。代わりに、「キーちゃんはひょっとして亡者ではないのか」とか「夏が終わってしまう」とか、そういう感傷ともいえる感情が揺り起こされるシーンが入っていて、むしろ全体としては抒情が漂う。

 ぼくからすると『田舎』は実験作のように見える。突き放そうという山本の態度を研ぎ澄まして、いくところまでいってしまった、とさえ見える。

 

 だから、ぼくにとって『田舎』と『分校の人たち』はどちらも十分にエロいのだけど、どっちがオカズ性が上かといえば後者の方なのである。

 

 山本は『田舎』で突進した徹底性に「気が済んだ」のかもしれない。最新作の連載では、また4人の少年少女たちによる性的な感情の交錯をテーマにしたものに戻っているからだ。

交通事故は本当は減っていない?

 2021年5月17日付「しんぶん赤旗」には、青野渉弁護士が4月17日に行った講演「交通犯罪の裁判の現状と問題点」の要旨が紹介されている。

 その中で、警察が人身事故を人身事故として扱わないために、統計上、倍ほどの差が出ているという驚くべき話が載っている。

 問題点の二つ目は、警察の統計上、人が負傷しても「人身事故」にしない事案が最近増加していることです。警察の統計上、交通事故の負傷者数は最近15年ほどで半減したことになっています。しかし自賠責保険の統計では、負傷者数は横ばいで変化はありません。

 そのため、かつてほぼ同数だった二つの統計の負傷者数が、今では極端に乖離し、2018年には、自賠責保険の統計では負傷者数が108万人、警察の統計では負傷者数が52万人となっています。

 

 どんなプロセスでそんなことが起きているのか。青野は次のように述べている。

警察官が被害者に診断書を提出しないように勧め、「人身事故」扱いにしないケースが増えているのです。

 警察がそんなことをする“動機”は一体なんであろうか。

 青野はそれらしいことについてこう述べている。

物損事故であれば、警察官は、事件記録を作成して検察に送致する手間が省けます。

 えっ、手間のために?

 要するに「面倒くさい」ってことなのだろうか。

 しかしそんなことをしていいのか。法律上の問題になるのでは、と読んでいて不安になる。当然青野はこう指摘する。

現に負傷者がいるのに事件を検察に送致しないのは法律違反です。

 そりゃそうですよね……。

 そうなると政策のベースさえ変わってくる。

また、警察統計は、政府の交通安全基本計画の前提となっていますが、誤った統計をもとに計画が策定されていることも問題です。

 第11次交通安全基本計画(計画期間:2021年度~25年度)の記述を見ると、

https://www8.cao.go.jp/koutu/kihon/keikaku11/pdf/kihon_keikaku.pdf

近年、死傷者数と交通事故件数については、平成16年をピークに減少が続いており、令和元年中の死傷者数は464,990人、2年中は372,315人となり、第10次計画の目標を2年連続して達成している。

とされている。第8〜10次計画にはあった「死傷者数」の抑制目標(p.10参照)は第11次では消えて「重傷者数を令和7年度までに22,000人以下にする」という目標に変わっている(p.12)。

 

 この問題は、ネットで検索するといくつか記事や書籍が出てくる。

webronza.asahi.com

 

交通事故は本当に減っているのか?:「20年間で半減した」成果の真相

交通事故は本当に減っているのか?:「20年間で半減した」成果の真相

  • 作者:加藤 久道
  • 発売日: 2020/12/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 非常に気になるのでもう少し調べてみることにする。

 

斎藤幸平のSDGs論を西日本新聞の対談で読む

 16日付の西日本新聞で斎藤幸平が江守正多(国立環境研究所・地球システム領域副領域長)と対談していた。

 斎藤幸平は、『人新世の資本論』の冒頭で

SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。

とはっきり述べ、

SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。

と断言した。これを読んで頭にきた市民活動家や左翼も少なくなく、ぼくの知っている左派雑誌も斎藤幸平とは名指ししないものの、明らかに斎藤のこの発言を念頭に“SDGsには意義がありますよ”特集を大規模に組んでいた。

 しかし極論を言って読む人の反応を引き出すのは斎藤の「手法」のようなもので、あまりそういうこの人の言葉尻にかかずり合わない方がよろしい。前にも書いたけど、斎藤は自著でボロクソに書いているバスターニの『ラグジュアリーコミュニズム』の推薦文を(ライバルとしての立場から)書いているような人で、そのへんは「いい加減」、文字通り「適切な加減」なのである。

 

 その思いをこの西日本の対談を読んでますます強くした。

 斎藤は対談でこう述べている。

 

経済界が熱心な持続可能な開発目標(SDGs)にしても、社会経済の抜本的な変革が必要だとの根本にある精神を無視し、経済成長、金もうけの手段にしようという形での議論の盛り上がり方に懸念を抱いている。

 

 ちゃんとSDGsの根本精神は「抜本的な変革」だと述べているのである。

 さらに斎藤はこの対談で、

温暖化対策を求めるグレタさんらの運動の中にも、成長にブレーキをかけて別の形の経済を回そうという脱成長の考えがある。SDGs「それを使って成長しましょう」ではなく、そういう動きの第一歩にすべきだ

とも述べている。SDGsの根本精神は斎藤の「脱成長論」と整合的であるという立場を表明しているのだ。

 現状では、自民党政権SDGsを前面に立てて、浪費的経済成長や監視型資本主義を煽っている。

 あらあら、まあまあ、うふふふ。

 その現状からいえば、現状としては「SDGsはまさに現代版『大衆のアヘン』」という一面がまかり通っているのだと言えよう。そこにあまり目くじらをたてる必要はない。

 

 むしろ、前もぼくが書いたことだけど、斎藤のいう「脱成長」は発達した資本主義国での成長を基本的に否定してるかどうか、それは公正な結論なのかを気にかけたほうがいい。

 また、この対談では対談相手の江守が

資本主義の下で、市場の力を使って、排出を減らす技術を普及させることがないと、限られた時間の中での脱炭素は実現しないのではないか。

と述べているように、資本主義と市場経済との混同が見られる。これは広範囲に見られる混同であり、この混同こそが資本主義を手放せない限界を世の中で生み出しているのだと言える。

 斎藤はこの江守の発言に対して、「市場への介入が必要」という趣旨の発言しかしていない。ぼくが懸念したように社会主義とは市場の廃止なのかどうかを斎藤は明確に答えるべきなのだ。ぼくは資本主義の克服と市場経済の廃止は別の問題であり、市場経済を活用した社会主義こそ必要なのだと考える。

 そこを整理することの方が、より重要な左翼(マルクス主義者)の役目だと思う。