ハルノ晴『あなたがしてくれなくても』

  『あなたがしてくれなくても』はセックスレスを扱う作品だ。

 

あなたがしてくれなくても : 1 (アクションコミックス)

あなたがしてくれなくても : 1 (アクションコミックス)

 

  ぼくがこういう作品になぜか読む前から望んでしまう・期待してしまう設定は「夫婦仲はいいんだけど、セックスだけがない」だ。

 渡辺ペコ『1122』は完全にコレである。

 

1122(1) (モーニング KC)

1122(1) (モーニング KC)

 

 しかし、本作『あなたがしてくれなくても』は、最初はそういう設定なのかなと思って読み始めたのだが、登場する二つの夫婦はどちらとも内実が壊れかけていることが暴露される。

 そうなると、『あなたがしてくれなくても』においてセックスというのは夫婦関係のいわば象徴的・集約的なものに過ぎず、セックスするかどうかが肝心な問題ではないことになる。

 主人公の女性・吉野と、不倫関係を結びかける男性・新名が4巻でセックスを断念して「セックスはしない」「傍にいるだけでいい」という関係を結ぼうとするのは、理解できる。

私たちの意識には性→性器→下半身というとらえ方が根強くあって性交ができなければもう性とは無縁というような考えがちですね。/ところが実際には性の快さは脳で感じているのです。ですから、たとえ性器性交ができなくなったとしても、全身にくまなくひろがる皮膚の、文字通り“肌のふれ合い”から生ずる快さをはじめ、言葉やしぐさも含め、からだのすべてを使って性を表現し、楽しみあうことができるのです。そして、それこそが人間にしかない性の姿といっていいのです。/つまり、そこでもっとも重要なことは、そんなふうにして自分の願いを表現しあう人間関係になっているかどうかということと、性にかんしてそういう考え方を身につけているかどうかということですね。/肌のふれ合いと心のふれ合いが直接結びつくという――。/この意味でいうと「生の関係の貧しさ」は「性の関係の貧しさ」に直接ひびくのでしょうし、「性の楽しさ」をうみだすには「生の楽しさ」をともにつくりだす努力を除いてはありえないことになります。(村瀬幸浩『さわやか性教育新日本出版社、p.192-193、1993年、強調は引用者)

 「性=生」というテーゼ。

 わかる。

 わかる……んだけど、ソレかよ、と思う。あるいは本当にそうなのかよ、とも思う。

 特に新名が望んでいるものは不可解だ。

 新名は、編集の仕事にのめり込んでいる妻に対してセックスを望んでいるように初めは見えるし、吉野に綺麗事を言いながら近づいていくときも、吉野を性的な対象としてみているように思える。なぜなら、悩みの相談に乗りながら、次第に吉野との関係を深め、やがてそれが“デート”然としたものに発展した時(2人は巨大水槽のあるスポットに行く)、新名から吉野の手を握ったり、車で送り際にキスをしたりするのである。

 しかし、社員旅行の吉野の部屋でセックスしてしまいそうになり、それが未遂に終わると先ほどのように「セックスはしない」「傍にいるだけでいい」という関係を結ぼうと提起するのである。

 これはアレなんだな、客観的に見ると「吉野とのセックスに失敗して、吉野が離れないようにつなぎとめている」ってことじゃないのか?

 そして、その後、新名は自分の妻に初めて不満をぶちまけるとき、「じゃあ何でセックスをずっと拒むの!?」という問題を投げかけるのだろうか。

 もしも新名にとってセックス=性器性交が重要な問題でないのであれば、新名は妻に対してセックスを拒否していることを問題提起すべきではなく、日頃の自分たちの関係について話すべきではなかろうか。妻が仕事に疲れているからセックスをしたくないと思っているのは事実なんだろうから、その事実から出発せずに、“なぜ自分のセックス要求に応じないのか”的な非難をする新名の姿に不自然さを覚える。

 

 このマンガをどこが面白いかと思って読んでいるかといえば、「同僚と不倫関係になりかけながら、(性交)ラインをなかなか超えない」というスレスレ感がベースだが、さらにその中で「男の側がその気持ちを無意識に隠蔽しながらカッコつけてしまう姿が、他人事とは思われなくて悶えてしまう」というあたりがポイントなのである。

 例えば、泣き崩れる吉野を「不用意」に抱きしめてしまったことを「お詫び」して性的ニュアンスのない「相談」をしたいという思いを告げるために、新名が選んだのはこういうバーである。

f:id:kamiyakenkyujo:20191208234807j:plain

ハルノ晴『あなたがしてくれなくても』2巻、双葉社、p.68

 いやー、これはいかんだろ。

 「しっとりしたバー」って感じすぎる。

 親密になろうという気持ちマンマンじゃね?

 って思ってつれあいに「どう思う?」って聞いたら「うーん、まあ、落ち着いて話したいと思ったんじゃないの? スタバとか居酒屋だとうるさいでしょ」と意外に寛容な意見。うむ、そういう考えもあるのか(狼狽)。

 

 完全に自分=新名目線。

 新名が吉野と言葉の上でやり取りするのがとても「いやらしい」。エロい。言葉でセックスしている感じ。そういう関係になろうとすまい、と表では取り繕いながら、精神的には乳繰り合っているというような。

 だからぼくにとってはこのマンガはエロマンガなのである。

 エロマンガといっても、完全妄想モードではなくて、もっと現実に近い話として受け取るのだ。

 そうなると、2人の関係の危うさとか、その中に性暴力的な要素があると、「現実問題」のように気になってしまうのである。

 さっき書いた「手を握る」「キスをする」ってシーン。

 現実世界では、同意なしに同僚とか旧同級生とかにこうやっちゃう案件って結構多いよな、と思う。

web.archive.org

www.asahi.com

 酔っていきなり手を握ったり、キスしたりする案件。相手を性的な対象としてみるという話。

 そういう社会背景の中で、新名が「キスしていい?」とか「手を握っていい?」って同意を求めずにキスしたり、手を握ったりするのは、「それ、性暴力では?」と気になる。明らかに吉野と新名は気持ちが通じ合っているから、結局OKになっているんだけど、これ、もし男の側の「勘違い」だったら、相当痛いな、とか思ってしまうのだ。

 「お前は虚構にすぐポリティカルコレクトネスとかジェンダーチェックをするのか。貧しい読み方だな」という意見がすぐ返ってきそうだ。

 だけど、こればっかりは不思議なのもので、非現実感が強い作品、例えば、『娘の友達』には自分の中で作品にそういうチェックを働かせないんだよね。

 

娘の友達(2) (モーニングコミックス)

娘の友達(2) (モーニングコミックス)

 

 

 だけど、作品の描く領域が自分の現実に近ければ近いほど、何かのスイッチが入ってそういうチェックを働かせてしまうのだ(作動しないこともある)。いじめに悩んでいる人が作品中のいじめの描写をおよそ虚構として読めないのと同じである。だから、そういうチェックが作動していることを以て、「貧しい作品批評だ」と言うのは一概にどうかと思う。

 

子育てにおける人生最後の瞬間

 小学6年生の女の子が誘拐され、命に別状なく戻ってきたときに母親が彼女を抱きしめたというニュースを聞く。

府警によると、母親は女児を抱きしめて号泣していたという。

https://www.asahi.com/articles/ASMCS36B7MCSPTIL001.html

 

 小6の娘を持つ身として安堵するとともに、自分が娘を「抱きしめる」ということは、こうした娘の無事が確認されたというようなケースでもない限り、もはや自分の人生にはないな、と思った。

 

 娘が保育園の頃、他の子のお母さんが、「この子には高3の兄がいるんですが、この前、その息子から『お母さん抱きしめさせて』というので抱きしめさせたことがあったんですよ〜」と話す話をクラス懇談会の場で聞いて、「そんなこっぱずかしい要求が」などと思ったものであったが、今になって妙に思い起こされる。

 後になって思い返せば、「あれが人生で最後の子どものハグだった、もうそういう瞬間は人生においておそらくやってこないであろう」という、当たり前だけど、無意味とも思える感慨。

 そんなことを言えば子育てにはそうした瞬間が無数にあるのである。特に異性間の親子の場合。

 

 娘は手をつないで歩きたがったが、それは小5までだった。小6になった最近はもうない。人生最後に娘と手をつないで歩いた瞬間があったはずで、「今日のいまこの瞬間だ」とは思わずにその日を終えた。

 前に、風呂に一緒に入ることについてのエントリを書いたが、それも同じである。

 オムツを替えたとか、哺乳瓶でミルクをあげたとか、そういうことも「あー、今日のこれが娘のオムツを替える人生最後の瞬間だ」とは思わずにそれを終えた。

 肩車をしている写真があるが、今娘を肩車したらこっちの腰が滅亡してしまう。肩車にも人生最後の瞬間があったはずである。

 

 そんなことを言えば、別に子どもとの関わりがあろうがなかろうが、人生とはそういう瞬間の連続ではないか、とも思う。

 家族そろって上海に旅行に行くのはこれが最後なのだというような話は言うに及ばず、日常の些事一つ一つがそうではないか。41歳の春だから、という例の歌ではないが、41歳の4月1日は今日が人生で最後なのだという瞬間はあったはずである。

 などという一般論に仕上げてみて、今自分を襲ってしまっている無意味な寂寥感を紛らわせてみるが、やはりどうも子育てにおける「人生最後の瞬間」というカテゴライズに過剰な意味づけの気持ちから逃れられないでいる。

 これが娘に宿題を教える人生最後の瞬間かもしれない、とか。

 これが娘と一緒にマンガを買いに行った人生最後の瞬間かもしれない、とか。

 

 じゃあさぞかし「これが人生最後の子育ての〇〇の瞬間かもしれん」という一期一会的な気持ちを梃子にして、日々の子育てに全力を挙げていることでしょうね、などと言われそうだが、全然そんなことはない。もう小学校を卒業しようかという、しかも特に今悩んでいるわけでもない自分の子どもに「全力」などで当たったら子どもの方こそいい迷惑だろう。ただぼんやりとそんなしょうもないことに思いふけっているだけの、非生産的な気持ちなのである。

 

 だからどうしたというオチもないし、特別な気持ちでもない。1年生になってランドセルを買いました、とかいう記事とそう選ぶところのない、子育ての中では掃いて捨てるほどある話である。突然夜中に目が覚めて、カッとなって書いただけ。後悔はしていない。

 

倉本一宏『戦争の日本古代史』

 知り合いの研究者が10年前に韓国で学会(理系)に参加したときと、今回参加したときではその水準がまるで違っていて、「ああ、日本は今抜かれつつあるというか、抜かれたんだなと思った」と話していたのを印象深く聞いた。

 

 韓国のことに詳しい同僚が「前衛」(2019年12月号)所収の加藤直樹の「なぜ日本のメディアの韓国報道は歪むのか」などを紹介しながら、「もともと韓国や朝鮮に対する蔑視・格下視があった(日本の)人たちは、80年代末に韓国が民主化を果たして経済を成長させていき、今急速に日本を抜いていく姿を見て、『格下に抜かされる』という焦燥感から断末魔のように嫌韓感情を吹き出させているのでは」という考えをぼくに語った。*1

 

 同僚が語っていた加藤論文には、朝鮮半島に対する根深い蔑視の出発点に、「神功皇后三韓征伐」神話があるという旨のことが書かれていたと述べた。

 その話を聞いて、ぼくは最近読んだ、倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書)のことを思い出さずにはいられなかった。

 

 

 

 この本はサブタイトルが「好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」とあるように、まさに日本と朝鮮半島の戦争という角度から日本古代史を書いている。そして、日本における朝鮮半島への蔑視が古代の支配層の中に起源を持っている問題を「神功皇后三韓征伐」神話(それに対応する史実)にポイントを置いて論じているのだ。倉本はそれを「近代日本のアジア侵略の淵源」(p.280)と見ている。

 

 もちろん、「三韓征伐」論は出発点にすぎず、古代全体を通じて日本の支配層にあった地政学的感覚は「東夷の小帝国」(石母田正が提起したカテゴリー)という発想だったという。

つまり、日本(および倭国)は中華帝国よりは下位だが、朝鮮諸国よりは上位に位置し、蕃国を支配する小帝国であると主張するというものである。(p.281)

 倉本は、このような帝国思想が全く荒唐無稽だったかというとそれなりに「歴史的根拠」を持っていることを7点に渡って記している。

 その出発点になるのが、好太王碑に記されているように「百済加耶新羅」を「臣民」にしたという認識だ。これが「神功皇后三韓征伐」的な認識として神話になってしまったというのである。

実際には、百済の要請を承けて半島に出兵し、百済(や加耶)と一時的に軍事協力関係を結び、新羅に攻め入っただけなのであろうが、その過程において、百済加耶新羅を「臣民」としたという主張は、倭国の支配者層の間に根強く残った。(p.281)

 あとの倉本の挙げた6つの点は、いちいち書かないけども、例えば中国の王朝が朝鮮半島に対する日本の軍事指揮権や上位の位置付けを(全く形式的に)認めてしまったこととか、百済新羅が「調(みつき)」を御都合主義的に日本に贈ったために「うはww俺の方が格上www」という日本のカンちがいを誘ってしまったことなどがある。

 間違いが是正されずに累積していきながら、平安時代には、朝鮮側とは国としての外交をやめた上に朝鮮側の海賊行為から敵視思想だけが大きくなっていったことなどが書かれている。

 

 ぼくが住んでいる福岡県、その中でも福岡市周辺はこうした朝鮮半島の古代史に馴染みが深い。

 先日、九州大学(伊都キャンパス)周辺の遺跡をめぐるツアーにつれあいとともに参加したのだが、一番興味深かったのが、大学の移転による開発とともに鉄滓(スラグ)が大量に発見されていたという話だった。

 近くの今津の浜から取れる砂鉄(この辺りの浜辺の砂は時々黒い)を原料にしており、鉄の生産者集団のリーダーと考えられる古墳もいくつもある。日本では鉄の生産が6世紀まではできず、それゆえに鉄の生産地であった伽耶地方、すなわち「任那」に日本側は利権的な関心を抱いていた。しかし、この九大周辺ではちょうどその前後から鉄の生産が始められている。

 本書には鉄に関する話が繰り返し出てくる。

 国内で鉄が生産できるようになる六世紀までのあいだ、朝鮮半島南部の加耶地方の鉄をめぐって、倭国朝鮮半島と深く関わることになる。(p.9)

すでに『三国志』魏書東夷伝弁辰条に、「弁辰(弁韓加耶のこと)は、また十二国有る。……国は鉄を産出する。韓・濊・倭は皆、従ってこれを取る。」と記されているように(『後漢書東夷伝辰韓条にも同様の記事がある)、倭国も6世紀まではこの地域の鉄生産に依拠していた。(p.21)

五世紀までは高句麗に従属していた新羅も、六世紀に入ると急速に国家体制を固めた。成長の背景には、鉄生産の確保があると見られている。(p.67)

 九大キャンパスのある糸島の西端には「伽倻山(かやさん)という糸島富士があり、芥屋(けや)は「かや」の訛りではないかという話もある。

 ツアーに行った時のガイドの話では、藤原仲麻呂新羅征伐準備における兵器生産のロジスティクスとも関連があるのではないかとしていた。本書でも仲麻呂時代に築城された「攻撃的陣地」としての「怡土城」(九大キャンパス周辺地域にある)が紹介されている。

 正倉院に残っているこの地域の豪族と思しき人物「肥君猪手(ひのきみいで)」の戸籍を見ると、たくさんの妾や奴隷を擁した大家族であった。

http://inoues.net/study/mokkan.html

 まーそれもぼくの勝手な妄想だけど「ひのきみ」だから「火の君」で、鉄生産に関連のあった家じゃねーのかなとか思う。

 

 そして、本書に登場する刀伊の入寇元寇で侵略された地域というのは、まさにこの九大キャンパス付近なのである。

じつに有史以来、日本が外国勢力に大規模に侵攻されたのはこれ〔刀伊の入寇――引用者注〕がはじめてで、以降も鎌倉時代の蒙古襲来、そのつぎは太平洋戦争の空襲までないのであるから、いかに重大な出来事であったかがわかる。(p.234)

さらに重い影響は、〔蒙古襲来という――引用者注〕外国からの全面的な侵略をはじめて経験した日本人の異国観に、決定的なゆがみを生じさせてしまったことである。「清浄」な「神域」である日本と、その外の「汚穢」に満ちた「異域」、という図式は、深く日本列島住民の心理に根ざしてしまったのである(新井孝重『蒙古襲来』)。/そして異国に対する屈折した心理は、世界帝国であるモンゴルそのものよりも、その尖兵となって日本侵攻を進言し、多くの艦船を作って日本に攻め寄せた高麗に対して、より強く及んだものと考えられよう。(p.267-268)

 何が言いたいのかといえば、古代日本の朝鮮侵攻史と朝鮮・大陸からの侵攻史に、自分がよく知っている地域が深く関わっていることを、近くの遺跡・遺物からも、そして本書からも感じ取ってしまったということである。

 どれも倉本の推察の積み重ねに過ぎないといえばそうなのだが、現在の「嫌韓」の淵源が「三韓征伐」神話に相応する朝鮮介入史を起点としており、それが自分のよく知る地域の歴史現実に符合したために、なんだか「ものすごい客観的な根っこ」のようなものを感じてしまったというわけである。

 

 倉本は、本書の終章で近代の日韓(日朝)の国民感情について触れている。

「自己(朝鮮)は中国よりは下位にあるが日本(倭)よりは上位にある」と思いつづけてきた朝鮮が、「自己(日本)は中国よりは下位にあるが朝鮮よりは上位にある」と思いつづけてきた日本の植民地支配を受ける。これほどの屈辱感は、その国の人でないと、我々日本人にはとうてい理解しがたいことだったであろう。/一九四五年に植民地支配から解放された朝鮮(韓国・北朝鮮)の人びとが、あいかわらず自己を韓国・北朝鮮の上位と認識している戦後日本に対して抱きつづけている感情は容易に想像できよう。(p.288)

 

 倉本は「同様に、これは韓国(もちろん北朝鮮も)の人びとにも考えてもらいたい問題である」(p.288)としているが、この格下・格上的な見方、蔑視感こそが問題の根源にあると言える。

*1:加藤自身は劣位・上位という単線的な進歩主義による見方そのものを批判している。冒頭のぼくの知り合いやぼく自身を含めてそういう気持ちが韓国に対してあることは間違いない。また、加藤は同論文で「断末魔」という同じ表現を使っているが、加藤のいうえ「断末魔」は、「近代日本の歪んだ韓国・朝鮮認識の断末魔」であって、ここでいうニュアンスとは違う。

『女ともだち』と『82年生まれ、キム・ジヨン』

 共産党が主催するジェンダー問題の学習会に参加した。講師は共産党中央委員会 政策委員会事務局次長・坂井希である。

www.jcp-kyoto.jp

(上記の京都の講演会ではないが、各地で行われている同趣旨の講演に参加した)

 

 会場では「年配者の多い党支部では、どう学習したらいいかわからない」という質問がいくつか出ていた。坂井はあまり難しく考えずに学習会をやってみると、参加している活動家たちの、男女を問わない(ジェンダーに関する)積年の思いなどが出てきて、そこに自分史や政治・政党参加のきっかけの話に発展し、思わぬ「共産党を語る集い」みたいになるよ、という趣旨のことを述べていた。

 また、坂井は、「ジェンダー平等」という課題は安倍政権をはじめとする政治に問題の根源があるものの、それを批判して終わるものではなく、むしろ社会の中の課題として解決される側面が大きく、たとえ共産主義者といえども(だからこそ?)どうしても自分の生活や考えを見直すことがなければ掘り下げた話にはならないと強調していた。

 そのような話はぼくにとっても興味深かったのだが、ぼくと同世代くらいの女性活動家が、そうしたジェンダー学習会がうわっすべりな「(自分とは関係のない)政策学習会」にならぬようにするために、「チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んでもらうといいのでは」と語っていたことを思い出した。

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

  個人史の中に随所にあったはずの、女性としての生きづらさを、読んだ韓国の女性はもとより、日本の女性たちも想い起すようである。

 

 ただ、やはり韓国の話ということもある。男性であるぼくなどは、真っ先にまずは韓国と日本の比較に目が行ってしまった。

 また、小説を読んでもらうというのはそうはいっても学習会参加者全員にお願いできるわけではないので、ぼくなどは柴門ふみ『女ともだち』を読んでもらったらどうだろうかと思いついた。

 

 

 『女ともだち』は1982年から1988年まで「別冊漫画アクション」に連載された短編集である。柴門が1994年の双葉文庫版あとがきで次のように述べている。

 「女ともだち」のシリーズを開始したのは一九八二年、今から十年以上昔のことです。当時の女性をとり囲む状況は今よりずっと悪かったように思います。職業選択の幅も狭く、(男女雇用機会均等法も実施されていなかった)社会に参加しようにも多くの困難を抱えていました。

 だから、当時青年コミックを読むおとなの男性の多くの女性に対する認識は、〈妻か、水商売の女か〉ぐらいの認識しかできていないのではないか、という疑念が私に生じたのでした。(柴門『女ともだち』5巻、双葉文庫、p.249)

 

 一読、その息苦しさに唖然とする。 ぼくは2003年にそのことをネットに書いたが、すでに16年前にして当時の女性たちの閉塞に愕然としている。

www1.odn.ne.jp

 

 まずこのマンガを素直な「昭和史の記録(?)」(柴門同前p.250)として読んでみる。そういう読み方は邪道だと思われるかもしれないのだが、あたかも当時の空気と倫理と感性を冷凍保存したかのような見事な「記録」になっているのだ、これが。もちろん、それはこの作品集の瑕疵ではなく、逆に時代をなんと見事に剔出しているのだろうと唸らされる要素なのである。

 

 たとえば、下図は『女ともだち』双葉文庫版、5巻所収の「夢のつづき」という短編からの抜粋(p.14)である。

f:id:kamiyakenkyujo:20191119230402j:plain

 この係長の行為は、当時としてもすでにかなり緊張感のある「コミュニケーション」ではあったが、全体として「ギリギリ」のところで「戯れて」いる「粋な・クールな」仕草として描かれている。

 もちろん、そんなものを描いている柴門ふみはけしからんという話では毫もなく、この時代の空気が見事な缶詰になっているということが言いたいのだ。

 他にも、女性に当然のように命じられるお茶汲み、「なんで結婚しないの?」という平然とした質問、エレベーターで後ろからブラジャーを外す「悪ふざけ」、「飯は?」と当然のように命じる夫、課の女性について「やりやり女」「誰とでもやる」と平気で評価する課長……。すごいなと思って改めて読み直す。

 

 ぼくの2003年当時の文章を再録しておく。

 たとえば、「縁談」という短編がある。
 同窓会名簿が送られてきて女性の場合、右側にカッコがついて、旧姓を書くことになっている。そのなかに、「石橋(石橋)」というのがあって主人公は不思議におもうのだが、それはたまたま同じ姓の人と結婚したのに、既婚であることをわざわざ知らせるためにカッコでくくったのだという。

「かっこでくくられた旧姓の数がわたしをせっついてくる
おいてゆく、おいてゆくぞと警鐘をたたきながら」

 主人公は結婚をあおられ、あせらされる。
 そして、母親がもってきたお見合いの話の相手が、主人公いわく「白ブタ」「あの人にも性生活があるなど想像もできないタイプね」。

 しかし、主人公は、毛を刈り込んで、メガネをかえ、ひげをはやさせ、メンズビギを着せたら、なんとかなるのではと「前向き」に考えはじめる。
 主人公は、大学時代にとろけるような恋愛をしたが、卒業とともにそれが消えたことを思い出としてしまいこんでいる。
「おかあさんて、とろけるほど人を好きになったことないんじゃないかな?
それを思うとね、あたしは幸せ者だわ。
人生の宝物を味わったから、
もう……
もう、いいわ。
別に美人でもないし、格別の才能もないし、
あたしなんか……
白ブタとときめきのない結婚でもいいかなと思っちゃう」
とあきらめの言葉を吐く。
 聞いていた義姉も、
「あたしも恋を途中で置いてきたみたい。
結婚生活て恋の緩慢な死なのよね」
とつぶやく。

 ぼくは、ここまで息苦しい生き方を当時の女性が考えていたことに、ちょっとした衝撃をおぼえる。
 社会に出ていく道を閉ざされ、結婚にしか道がないという時代は、ここまで重苦しいものなのか、と思う。

 

 『女ともだち』の主人公たちはほとんどみんな20代であり、特に20代後半である場合が圧倒的だ。この当時20代後半は「結婚」というステージへ移行する「最後」の年齢であり、結婚という「墓場」に入るか、結婚・家庭・子どもをあきらめ「名誉男性」となって生きるかという選択肢しかないように描かれている。

 現在のアラサーがどうのとか、アラフォーで大変とか、思いもよらぬ世界なのだ。もし当時の柴門ふみに『東京タラレバ娘』を読ませたら、泡を吹いて倒れるのではないか?

 

 

 そして、『女ともだち』の主題は明確に「恋愛」である。

 上記の引用において「おかあさんて、とろけるほど人を好きになったことないんじゃないかな? それを思うとね、あたしは幸せ者だわ。人生の宝物を味わったから、もう……もう、いいわ。」というセリフに見られる通り、恋愛至上主義ともいうべき価値観が貫かれている。このテーゼは繰り返し『女ともだち』で語られる。

 それは1980年代という制約でもあるし、同時に青年誌という男性読者を対象にした女性像の展開という限界でもあるし、柴門個人の当時の価値観の反映でもある。しかしそれこそがまさに柴門が優れた描き手であることの証左だ。時代を、思想や空気まで含めて、そのまま切り取っているからである。

 単に自然主義的な描写をするだけではそれはできない。

 感情の中にある、曰く言い難いものの中から、本質的なものを選び出す力が必要なのだ。柴門のそのような力について、関川夏央は次のように述べている。

彼女は生活感情を因数分解し、いわゆるホンネをたくみに比喩してみせる。(関川『知識的大衆諸君、これもマンガだ』文春文庫、p.80)

柴門ふみのマンガにはくだんの拡大辞的物語マンガ(「劇画」旧派)の方法は片鱗もうかがえない。一方、「私小説」や「私マンガ」「純マンガ」にままある卑小辞的世界ともなんら関係がない。しいていうなら、考えぬかれた等倍のダイアローグと、それらが組みあげた等倍のドラマを持っている。それは現代日本の知識的都市生活者あるいは知識的大衆の意識や現実と等倍ということであって、すなわち彼女のドラマにはわたしたち自身が登場するのである。(同前p.81)

 

 だからこそ、『女ともだち』は当時の冷凍保存であり、そこにあらわされた思想から自分がどれほど今も影響を受けているか、あるいは距離をとっているかがわかるのである。

松竹伸幸『日韓が和解する日』

 本書にある、

日本は法的に立派に責任を果たした。韓国との間で日韓基本条約と請求権協定を結び、これまで忠実にそれを守ってきたというのは、法的責任を果たしたということである。「法的に解決済み」という日本政府の言い分にはいささかの間違いもない。(本書p.156、強調は引用者、以下同じ)

という一文を読んで、あなたは「あっ、これは右派の本だな」と思うに違いない。

 

日韓が和解する日

日韓が和解する日

 

 

 しかも本書には次のような文章もある。

日韓基本条約の締結過程で徴用工問題は議論され〔…中略…〕韓国側が「被徴用韓国人の……請求権」を求め、それをふまえた議論の末、日本側が三億ドル(残り二億ドルは円借款でありインフラ整備に使われた)を支払うことになったということだ。それを韓国側も認めているのである。大法院判決はさらに、日本が過去に支払った三億ドルについて、「請求権、強制動員被害補償問題解決の性格の資金等が包括的に勘案されたと見なければならない」として、個人の請求権問題を「包括的に勘案」したものだと率直に認めている。事実上、請求権協定が想定する個人の請求権は果たされたというに等しい。(本書p.23)

〔韓国の大法院〕判決のあと、「それでも個人の請求権は残っている」とする議論があったが、判決は事実上、そういう議論を否定したようなものだ。(本書p.25)

 もういよいよあなたは確信を深めるだろう。

 さらに著者・松竹が日本の中の論議状況について、

徴用工を支援する側の人々の間でも、「国家が請求権を放棄しても個人の請求権は残っている」という、過去の常識的な論理の枠内で議論する人が多かった。(本書p.186)

と書いているのとあわせて考えると、もうこれはどこから見ても右派系の本ではないかと思う人は多かろう。

 

 しかし、本書は「右派の本」だなどという単純な本ではない。松竹は、次の2種類の人は本書を読まなくて・買わなくていい、と初めに断り書きをしている。

 一つは、「日韓関係がこじれている原因は全て日本のかつての植民地支配を反省しない現在の日本政府にあり、被害国である韓国に対する批判はどんなものでも許されず、日本は韓国の主張に全面的に従うべきだ」という人。

 もう一つは、「日本の植民地支配も戦後の責任の取り方も非の打ち所のないものであって、韓国の主張はすべて間違っており、日韓関係の断然も辞さない」という人。

 一見松竹は後者に肩入れしているかのように見えるが、そうではない。「すべて間違っており」などと考えるのは、相当ガチガチな人で、実はあんまりいないだろう。

 他方で、前者も左派やリベラルに多そうな気もするが、「どんなものでも許されず」「全面的に従うべき」とまで言う人はほとんどおるまい。

 本書のタイトルが『日韓が和解する日 両国が共に歩める道がある』とあるように、日韓両者の主張に道理がある(正しいところがある)と前提して、その解決策を探るというのが本書のスタンスである。帯の裏表紙側には「安倍晋三首相にも文在寅大統領にも受け入れ可能な解決策を提示する」と大言壮語(?)しているように、本書の構成は日韓両政府がどういう行動をとればいいかという角度から書かれていて、そのプラグマティックな書きぶりが本書に独特のわかりやすさを生んでいる。本書の帯で内田樹が「面白かったです。一気に読んでしまいました」「これほどわかりやすい解説ははじめてでした」と書いているのは、伊達や酔狂ではない。

 しかも、両政府のうち、特に韓国政府に対して突っ込んだ提案をしている。

 韓国政府が、大法院の「正しさ」と日本政府の「正しさ」の間で迷走しており、自分たちが提起した問題の重さに気づいていないと、著者(松竹)は考えているようなのだ。だからこそ、韓国政府、とりわけ文在寅にどう行動すべきかを指南する内容になっている。

 

 ぼくも「国家が請求権を放棄しても個人の請求権は残っている」という議論に接してきて、その種の論考や記事も読んだのだが、一言で言って非常に難解で、わからないところが多いというのが率直なところだった。それが本書を読んでスッキリしたのである。

 松竹は大法院判決を読んで、冒頭に紹介したように、すでに徴用工問題で個人請求権は果たされていると大法院自体が判断していることを確認しているとして、判決がそれとは全く別の論理から構成されていることに「最大の驚き」を感じたのだという。

 しかし、その「別の論理」によって目指されているものは、大変なイバラの道であることが本書を読むとわかる。ほとんど世界的な歴史をこじ開ける作業だと言ってもいい。文在寅と韓国政府にはその自覚と行動がたりないというのだ。

 

 ぼくにとっての本書の特徴をまとめれば次のようになるだろう。

  1. 細かい論点に入り込まないで、問題が世界史的な中心点から、スッキリと理解できる。
  2. 長期にわたって交渉で解決すればいいという楽観が得られる。しかもそれを「日本政府にとってのメリット」という立場から書いていて興味深い。
  3. 個々のエピソードや事実についても、「『賠償』に限ると、日本は賠償をしてきたが、ドイツは賠償をしていないとも言える」(本書p.152)などといった認識の転覆があったりして、読んでいて爽快感を覚える。

 

 中身はとにかく読んでみて知ってほしい。

 ぼくは、ぼくのような専門家でもない人間がこうした本を書く意味について最近よく考えている。ジャーナリスト・ポジションの人間がそういう悩み方をするのかもしれない(ぼく個人の場合はさらに微妙で、いわば一介の「ネット論客」でしかない。そしてだいたいぼくレベルの書き手など「ネット論客」なんてその後ろに「(笑)」とか「()」とか「(察し)」とかついてしまいそうなものだ)。

 トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』(みすず書房)を読むと、基本的に専門知は要りますよ、民主主義の健全な基礎ですよ、ということが書かれているのだが、逆に言えば、専門知でないものは不要だと言われている気になってしまう。

 

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

 

  

 あえて、専門知でないもの、「ネット論客(笑)」レベルのぼくができることとしては、問題をわかりやすく整理することではないかと思う。

 池上彰のような人間が新たに必要とされている背景にはそれがあるし、ジャーナリストであり、日韓関係の専門家ではない松竹が本書で発揮したのもそういう役割ではなかったかと感じた。

 

『国語 六 創造』『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』

 前回、小6の娘の国語の教科書の話を記事にしたんだが、続きである。

 高畑勲「『鳥獣戯画』を読む」の後には、「この絵、私はこう見る」という節がある。今娘はここをやっている。

 

 「『鳥獣戯画』を読む」では、筆者は、さまざまな表現を用いて、私たちに『鳥獣戯画』のみりょくを伝えていました。

 みなさんも、絵を見て、読み取ったことや感じたことを伝える文章を書きましょう。(『国語 六 創造』光村図書、p.147)

 

 しかし、ぼくからみて「えー…?」と思うような中身なのである。

 

 まず、「絵を見て」というその「絵」がアンリ・ルソーの「猿のいる熱帯の森」なのだ。

www.musey.net

 教科書は、「絵を見て、読み取ったことや感じたことを書き出そう」という課題を出している。

 読み取ったことの例として、

  • 猿がたくさんいる。
  • 花がさいている。

 感じたことの例として、

  • 楽しそうに遊んでいるように見える。
  • ジャングルだから、とても暑いのだろう。

などが出されている。

 「楽しそうに遊んでいる」?

 「ジャングルだから、とても暑い」?

 いやー……そうは見えないけどなあ。

 そして、読み取ったことの、何というか、つまらなさが伝わってくる。

 「猿がたくさんいる」「花がさいている」。

 

 この絵は、小学6年生に見せるルソーの絵としては抜群につまらない絵ではないかと思う。小学生の心を動かす要素がほとんどない。

 構図や配置も平凡さしか感じられない。

 授業ではもっと大きな絵を使うのかもしれないが、教科書の小さな絵では、ルソーの特徴である「平坦化されたシンプルな描写」が伝わらない上に、この絵の中では緊張感のある要素であるはずのヘビはとても見にくい。

 

 とっかかりようがないのである。

 

 教科書は「表現を工夫して、文章に表そう」という課題を最後に出しているのだが、ご丁寧にも「書き出しの例」まで載せている。

 

  • ぼくは、この絵は、自然の中に生きる動物の心を表しているのだと思います。
  • とても暑いジャングルの中。のんびりとつりをしているサルがいる。

 

 「正解」に近づけようという臭いだけがプンプンしている。そういう誘導をしてみても、この絵で小学生の心は動くまい。

 小学生たちにとって「近代絵画とはつまらないものだ」そして「その感想を書くのは退屈・苦痛なことだ」という観念を植え付けてしまわないか心配になる。

とにかく、子供に本を読ませたとして、感想をきいてはいけない。感想とは、本を読んだだけで、胸の内に生じるもので、しかも時間がたつにつれて育ってくるものなのだから。それをすぐさま、何かうまいことを言ってごらん、と導き出すなんて、本嫌いを育てているようなものだ。(清水義範『わが子に教える作文教室』講談社現代新書、p.134)

 

わが子に教える作文教室 (講談社現代新書)

わが子に教える作文教室 (講談社現代新書)

 

 

 ルソーの中で題材に使うとすれば「眠れるジプシー女」だと思うが、

curlchigasaki.hatenablog.com

マンガやアニメを、あるいは大量の写真や映像を見慣れてきている現代の小学生たちに近代絵画の面白さの入り口になるものを示そうと思ったら、やはりシュール・レアリスム、それもダリがいいのではないか。「目覚めの直前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢」などはどうだろう。

www.musey.net

 中学生の時、初めてこの絵をみて、生物を自由にデザインすることの面白さを感じた。特に後方にいる足の長いゾウに目がいった。

 ヌードが「わいせつ」だというなら(最近どこかで聞いた話だ)、有名な「記憶の固執」でもよい(娘はこれを推薦していた)。

www.musey.net

 

 シュール・レアリスムの絵画がなぜいいのか。

 例えば、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」は「絵、うまいね!」とは思うかもしれないのだが、写真を見慣れた子どもたちには物足りないかもしれない。

bijutsufan.com

 セザンヌマティスピカソのような絵は、対象を描くというより、色・形を主観的に再構成するという革新性が理解されないといけない。それは西洋絵画の歴史とか流れの理解が必要になる。

 

 西洋絵画の歴史に触れることなく、例えばルソーの絵の革新性を歴史の中で実感するようなことではなく、それを知らずに、絵そのものから強い印象をわかりやすく引き出すものがいい。

 だとすれば、この役割を果たせるのはシュール・レアリスムの絵画なのである。

 東京藝術大学大学美術館館長の秋元雅史は次のようにいう。

 ダリのように奇妙な世界を具象的・写実的に描いた画家たちの特徴は、無意識の世界を「デペイズマン」と呼ばれる方法で具象的に描いていることです。

 デペイズマンは「異なる環境に置く」と訳されます。わかりやすくいうと、あるものが本来あるべき場所ではないところに存在したり、あるべき形状やサイズと異なる形や大きさのものを画面上に描いたりすることで新しいイメージを創り出す方法です。

 最初に驚きを与えることによって、鑑賞者のそれまでの物の見方や感じ方、常識、固定観念を白紙にさせ、新しい思考回路や新たな感覚を鑑賞者の内に新たに呼び起こさせようとすることを狙って用いられています。(秋元雅史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』大和書房、p.186-187、強調は引用者)

 

 

武器になる知的教養 西洋美術鑑賞

武器になる知的教養 西洋美術鑑賞

 

 

 この章・節は、事実と感想を分けて記述させることに狙いがあるようだが、心を動かさないような題材を使うことに違和感を覚える。

 ネット上に、この章・節の授業「指導案」が転がっているが、ルソーの絵でなくてもいいよとしている指導案もある。その方がいいと思う。

関連図書として、名画を解説しながら紹介している図書を紹介し、子どもたちに解説文に触れさせたい。「この絵わたしはこう見る」では,「猿のいる熱帯の森 アンリ=ルソー」が紹介されているが、自分が選んだ絵について解説文を書くにあたり、関連図書から絵を選んで自分なりの解説文を書いてもよいことにする

http://www1.iwate-ed.jp/db/db2/sid_data/es/kokugo/esko_2015/esko2015605.pdf

 

こうの史代『ギガタウン』

 娘の保育園時代のクラスで毎年集まりを持っているのだが、小学校を卒業する今年で終わりとなる。

 そこで記念として、カップに絵を描こうということになった。

 最近は専用のマーカーがあって、電子レンジで温めるだけで絵が固定してしまう便利なものがある。

 

エポックケミカル らくやきマーカー 16色セット

エポックケミカル らくやきマーカー 16色セット

 

 

 何を描こうか迷ったのだが、全く何の根拠もなく「鳥獣戯画が描きたい」と思って、何の準備もなく、何の参照物もなく、「うろ覚え」でいきなり書いてみた。つれあいは「青海波」を模様付けした。

 その作品がこちらです。

 

f:id:kamiyakenkyujo:20191028001604j:plain

 

 これはひどい……

 という諸兄の声が聞こえてきそうだが、描いた当時はなかなかうまくできたと悦に入っていたものである。

 そもそもこれが「うろ覚え」なのは、「そういやあ、なんかススキか何か持ってウサギがカエルを追いかけてなかったかなあ…」というほどの、いい加減な情報で描いているからである。絵のディティールに至っては何も覚えていない。

 違う。逃げているのは猿である。

 カエルはウサギと一緒に猿を追っているのだ。

kosanji.com

 そのあと、どうも「鳥獣戯画」をちゃんと描いてみたくなって、こんな本を買った。

 

筆ペンでなぞり描き 国宝・鳥獣戯画と国芳の猫、北斎漫画

筆ペンでなぞり描き 国宝・鳥獣戯画と国芳の猫、北斎漫画

 

 

 この本を使って「なぞり書き」をしたのがこちらである。

f:id:kamiyakenkyujo:20191028001321j:plain

 

 カップに描いたやつとは、全然違うわ

 なぞり描きだから当たり前だが。

 

 そして、次になぞり書きでなく横に手本を置いて描き、次に手本を見ずに描いて……ということを繰り返した。

 現在ではこれくらいを見ずに描けるようになった。

 

f:id:kamiyakenkyujo:20191028001104j:plain


 ちなみに、職場で使っている手書き手帳の端っこに書いている。仕事をしろよ。

 そして、相当に高速で描けるようになった。

 だいたい1分くらいで描いたのが下図である。

f:id:kamiyakenkyujo:20191028001132j:plain

 

 お茶目にするためにカエルの口を意図的に大口にした。

 こんなものが上達しても何の役にも立たないが、きっとどこかで鳥獣戯画を披露する機会があるはずだ。その時は、役に立つ。そんな時がくるかどうか知らんけど。

 

 娘の小6の国語教科書に高畑勲の「鳥獣戯画」についての説明文(「『鳥獣戯画』を読む」)が載っている。

 ぼくがこのウサギの絵を、家にある備忘録用のホワイトボードに落書きしていると、娘が「鳥獣戯画」について今国語で勉強していると話しかけてきて、「このウサギは投げ飛ばされて笑っている、って高畑勲は言ってたよ」などというではないか。つまり遊びで相撲をやっているのだ、と。

 

 調べてみると高畑は確かにそう言っている。

もんどりうって転がった兎の、背中や右足の線。勢いがあって、絵が止まっていない。動きがある。しかも、投げられたのに目も口も笑っている。(高畑前掲、/『国語 六 創造』光村図書所収、p.139)

 「だからもっと笑っているふうにしたい」などと言って娘はペンを取り、ウサギの顔を細工し、オノマトペを付け加えた。

 目を離して戻ってくると、ウサギの体が真っ二つになっていた。

f:id:kamiyakenkyujo:20191028004742j:plain

 「きゃ〜」じゃねえよ……。

 しかし、あれだ。

 高畑の「鳥獣戯画」について言うところの、

筆で描かれたひとつひとつの絵が、実に自然でのびのびしている。描いた人はきっと、何物にもとらわれない、自由な心をもっていたにちがいない。 (高畑前掲/『国語 六 創造』光村図書所収、p.142)

という精神を本当に広げていったら、むしろ娘のような遊び方かもしれないと思った。

 その高畑的精神を究極で体現したのが、つまり「自由でのびのび」、鳥獣戯画のキャラで遊んでしまったのが、こうの史代の『ギガタウン』であろう。

 

ギガタウン 漫符図譜

ギガタウン 漫符図譜

 

 

 鳥獣戯画に登場する動物たちが、マンガのお約束的な記号である「漫符」で遊ぶ、4コママンガだ。

 高畑は鳥獣戯画漫符的な表現があることを次のように指摘している。

まず、兎を投げ飛ばした蛙の口から線が出ているのに気がついたかな。いったいこれはなんだろう。けむりかな、それとも息かな。(高畑前掲書p.138)

  「漫符」は暗黙の記号のはずであるが、それをあえてネタとして引き摺り出し、矛盾としてあぶり出してみたり、ゲシュタルト崩壊をさせるような酷使をしたりする。

 「マンガの読み方がわからない」という、作者(こうの)の母のために描いたのだが、連載中に他界してしまう。ぼくの義母も同様のことを言っていた。解説をするという体裁を借りて、漫符というものへの批評的な行為を試みたものだ。

 

 高畑は「鳥獣戯画」の精神を「自由」だと見た。

 しかし、すでに教科書の題材として扱われ、古文書に収まった「古臭い絵柄」として見せられていては、本当の意味で「鳥獣戯画」は自由にはならないのではないか。

 この教科書がやっている、子どもたちへの課題設定は次のようなものだ。

 

絵を見て読み取ったことや感じたことを、どのように表現を工夫して書きましたか。(前掲『国語』光村図書、p.150)

 絵の批評を文字でやることも必要だけど、真に自由にするためには、娘が無意識な態度としてやったように、そしてこうのが自覚的かつ本格的に展開したように、絵そのもので遊ぶことが必要なのではないか。