太田垣章子『家賃滞納という貧困』

 司法書士として家賃滞納の処理にあたってきた筆者が、18のケースを紹介している。

 

家賃滞納という貧困 (ポプラ新書)

家賃滞納という貧困 (ポプラ新書)

 

 

 230ページの本なのに200ページまで事例紹介が食い込んでくるのは、いくらなんでも多すぎないか……? とは思ったけど、個別事例の中にわかりやすく普遍性を見出そうという手法なのだろう。滞納の中にあるドラマのようなものを読み取ってしまった。

 

 忘れられないのは、大阪の生野区にある部屋の家賃を滞納し続けた20歳の男性のケースです。本人とまったく連絡が取れなくなったため、四国に住む親御さんに連絡すると、「2、3年連絡を取り合っていないが、便りがないのは良い知らせ」だと言い切り、まったく関わろうとしないのです。

 しかしその若者は、部屋の中で餓死していました。

 慣れない土地で思うような生活ができず、友達もおらず、そして親にも助けを求められずに力尽きた、そんな残酷な結果だったかもしれません。

 その後警察から連絡を受けた父親は、「金がないから大阪になんて行けない。好きに処理してくれ」と、息子の亡骸を引き取りに行くことすら渋っていました。さすがに最後は説得されて、夜行バスでなんとか来てはくれましたが、息子の亡骸を前にしてもなお、お金がかかってしまうことを最後まで愚痴っていました。(本書p.123-124)

 

 唖然というか慄然とするケースである。

 まず餓死をどう解釈すべきか。

 筆者・太田垣は「慣れない土地で思うような生活ができず、友達もおらず、そして親にも助けを求められずに力尽きた」と推測する。

 ぼくなどは「いやー、それでも餓死するかね」とちょっとだけ思ってしまう。

 大学時代、ぼくの先輩が家の中で病に倒れて動けなくなり、一週間近くして訪問して間一髪のところで発見されたことがあったが、そういう病気じゃないのか…と一瞬思ったりした。

 しかし、である。

 この若者の親の対応を見ると驚くほど淡白だ。冷たいといってもいい。また、遺体引き取りの旅費を渋ったように「親世帯も経済的に困窮」(p.124)していたようである。

 

 親に助けを求めてもどうしようもない。無駄である。という前提がそもそも「親に助けを求める」という発想にさえ至らないのかもしれない、と思ってみる。

 そして、まったく知らない土地でまわりに知り合いが誰もいなければ、言い出せずにゆっくりと衰弱していくのだろうか。ゆっくりと衰弱していくうちに、動けなくなる。そしてやがて餓死する……というようなプロセスだろうか。

 太田垣は次のようにまとめている。

 

人が頑張れる原動力は、誰かから「愛されている、必要とされている」という揺るぎない基盤ではないでしょうか。そこが欠けていると、前を向く力を生み出せないこともあるように感じてしまいます。もしかしたらなくなったこの若者には、その基盤が欠落していたのかもしれません。(p.124)

 

 「基盤」という言葉を使っているように、この若者の主観の問題ではなく、若者が客観的におかれている現実が「助けを呼ぶ行動」を奪ったと太田垣は見ているのだろう。

 こうしたケースは、短い定型的な原因分析に落とし込みにくい。「なんで助けを求めなかったの?」という具合に、「自己責任」も混ざっているので理解もされにくい。

 それでも、このケースは、ぼくたちが北九州の「おにぎり食べたい」と書いて餓死した事件や、湯浅誠の「溜め」論などを経験しているから、これらが金銭不足と人間関係の希薄さという貧困の絡み合いによって起きたことなのだとまだ理解はできる。

 

 別のケースでは、夫と離婚し子どものいる妻が「突然」100万円、10カ月分の家賃滞納を督促され、追い出しをくらった事例。

 大家は(元)夫と連絡を取り続けたが、のらりくらりとはぐらかされた上に「子どもがいる」という事実から温情的に強い態度に出られなかった。しかも妻は養育費として家賃が払われる約束になっていたためにまったく滞納に気づかなかった。「狼狽ぶりから察するに、本当に今まで滞納のことを知らなかったのは、間違いなさそうです」(p.163-164)。そして夫とは連絡が取れなくなり、強制執行となる。

 

勝手に女つくって、別れたいって言ってきたんです。私は専業主婦で、家事をして子育てもしてきました。……45歳を過ぎた私が、いきなり仕事なんてできると思いますか? 20年以上専業主婦をやってきてパソコンさえ使えないのに、親子3人で生活していけるだけの収入を得られるはずないじゃないですか! ……私は妻の役目をちゃんと果たしていましたよ。だけど浮気されたんです。じゃあ、どうすればよかったんですか。(p.166-167)

 

 そうだなと思う半面で、そのリスク(ある日突然放り出される恐れ)を背負っていたことに気づかなかったのは自分だろ、という批判も聞こえてきそうだ。離婚に際して、養育費の公正証書もつくっていない(まあそもそも連絡が取れないわけだが)。つまりここでも「自己責任」が入り込む。

 

 太田垣が紹介するケースには、このように、どこかに「自己責任」が入り込んでいる。「お前のそこにスキがあったんだろ」と言えてしまうケースがほとんどなのだ。

 だからこそ、ドラマなのである。

 そして、だからこそ、「普通の人」のケースなのである。

 メディアに登場するような被害者はそういうツッコミを入れられないように、できるだけ「きれいな被害者」が登場する。そいつが悪いんだろ、と言えない・言いにくい人を探すのである。まあそれは仕方がないとは思う。

 しかし、世の中のほとんどはどこかしらにツッコミどころがあるケースばかりなのだ。自分のこともふくめて。「自己責任」が混じらない方がおかしい。

 

 札幌餓死事件のときに私が非常に疑問に思ったことは、「お母さんがこんなにがんばっているのに、こんなにいい人なのに、ケースワーカーが申請を断った」という運動の風潮でした。
 おかしいと思ったんです。たとえそのお母さんが悪い人だって、がんばらない人だって構わないじゃないかと思いました。そんな運動のキャンペーンっていたら、絶対足元すくわれるよって思っていたら、案の定すくわれましたよね。週刊誌が母親の問題点を書いたら、いっぺんに運動がトーンダウンしました。大した問題ではなかったのですが、運動の側も「聖人君子」を求め精神主義です。(都留民子『失業しても幸せでいられる国 フランスが教えてくれること』p.68)

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/20171112/1510422731

 

 どんなにそいつが「悪い」人でも、あるいはそいつに多少の「自己責任」があっても、そこに社会の反映を見てその歪みを正すというのが、第三者のできることではないのか。

 この本が紹介する18の事例を読んでそう思う。それはまとめてみればやはり「貧困」ということになるのだろう。だからこそこのタイトル「家賃滞納という貧困」なのだ。

 

 もちろん本書は事例ばかりではなく、構造的な問題を論じ、提言を述べている部分が間に挿入されている。

 家賃は収入の3分の1と言われるが、それでは危ない、理想は4分の1以下だとのべる。18万円の収入なら4万5000円の家賃ということになる。しかしそういう物件は見当たらない。

 

その要因としては、建物の建替えでしょう。昭和40年代に建った木造アパートが老朽化のため建替えられ、高収益を生む建物に移行しています。空室となるのが怖い家主が、人気物件となることを目指して高スペックの建物を建築しているのです。(本書p.121)

 

 福岡市では単身世帯が世帯全体の半数を占めるようになり、年収300万円未満を市は「低額所得世帯」と定義しているが、これも半数を占めるようになっている。

 さらに、高齢者が増えているから、単身高齢者の年金暮らしとなると、持ち家がない場合はそもそも借りられないということになる。

 本書で紹介されている事例では、500万円も滞納してしかし高齢者であるということで追い出しもできず、ヘトヘトになって転居先を確保し、ようやく出て行ってもらったというケースがある。「この家主が『もう高齢者には部屋は貸したくない』と言っても、誰も責めることはできないと思います」(p.211)。

 

高齢者が滞納していようがいまいが、世帯主が70歳以上ともなると、賃貸物件を借りようと50件問い合わせても、了解してくれる家主は1件あるかないかです。(p.212)

 

 福岡市の高島市長が選挙の時に、“これからは土地も家も余る時代だからそんな時に公営住宅なんて新しく建てる必要なんて全然ないよ”とうそぶいていた。

 だけど、当の福岡市では、住宅セーフティネットの登録はゼロだ。

 なぜなら、家主が高齢者に家を貸したくないからである。

 だとすれば、単身の高齢者が増え、しかも年金暮らしの資力のない世帯はどうなってしまうのか。

 結局、公的な住宅をつくるか、民間を公が借り上げるかしなければ、単身の貧しい高齢者は住むところがなくなってしまう。*1

 本書を読みながらそういうことを考えた。

*1:当然だが、公的住宅にするにしても、借り上げて公的住宅にするにしても、保証がなく身寄りもないような単身高齢者でも入れるようにし、仮に不慮の死亡の際の「片付け」は公の責任で行うことが前提にすべきである。現在福岡市はNPOと連携してこの「後片付け」を機能させようとしているが、それでもセーフティネット登録はゼロなのだ。今のところ、公が責任を持つ以外に解決の道は見当たらない。

川村拓『事情を知らない転校生がグイグイくる。』

 小学校のクラスで「死神」とあだ名をつけられいじめられている西村さんを、「死神」なんて「クールでかっこいい」と思って「グイグイ」好意を寄せてくる転校生・高田くん。

 

 

 この話が面白いのは、高田くんがいじめを外在的に批判(「いじめは良くないよ」的な批判)するのではなく、いじめ側が使っているロジック(「死神」)をそのまま引き受けてしまって、価値の根本転倒(「死神ってかっこいい!」)をさせてしまうからだろう。しかも意図的・意識的にやるんじゃなくて、本気でそう思っている。

 

 いじめっ子たちが高田くんのそばにやってきて、西村なんかと遊ぶな、こっちに来いよと誘うと、高田くんは、君たちも面白そうだけど、ただの人間だからなあというと、いや西村だってただの人間じゃねーかといじめっ子たちは返す。

 高田くんはそれに不思議そうな顔でさらにこう言うのだ。

 

西村さんは 死神なんでしょ?

君たちがずっとそう言ってたじゃん(真顔)

 

 幼稚ないじめの言葉をわざわざ取り出して、さらけ出し、宝物のようにハシャギ回る高田くん。

 

 いじめをしている人たちだけでなく、くだらない相手を批判するときにもっとも痛快なのは、相手の内的な論理に飛び込んで、それを内側から批判するやり方だろう。ネットでも見るし、議会質問でもそういうのが優れていると思う(笑)。

 

 白い服を着てきた西村さんを、クラスの女子(笠原さん)が「白い服きてても死神」とからかうが、高田くんは、それは「かわいい(白い服)」上に「かっこいい(死神)」という最強のコンボでは? とある意味でロジカルに受け取る。自分(高田)は「かわいさ」にしか気づけなかったが、笠原は「かわいさ」と「かっこよさ」の二つの価値を発見できるなんてすごい! と無邪気に驚く。

 なんというロジカルな無邪気さ!

 高田くんは圧倒的に論理的である。その論理に我々は惚れ惚れとするのだろう。

 

 

 

 そして、西村さんの容姿。

 「死神」と言われるビジュアルだけあってなるほど多少クラくて陰がある。しかし、それは大人たるぼくの目から見れば、アホな「ガキ共同体」から一歩抜け出した知性を帯びたクールさなのだ。いや、まさに、高田くんの目線と同じように、ぼくらは西村さんに萌える。リアル小学生女子の父親(ぼく)が小学生女子キャラに萌えるなどどうかと思うが、しょうがねーだろ。

 「自分の価値を初めて見出してくれた男の子」という少女マンガ的なときめきを、男子として享受しながらぼくはこの物語を読む。「ムフっ! 君を理解しているのはぼくだけだからね!」みたいな。いや……それだと、フーゾクで嬢に「やさしい声」をかけるオヤジにむしろ近いのかも…。

 

 

 

共助が限界、そして負担の軽い自治会という問題

 「しんぶん赤旗日曜版」(3月3日号)で東日本大震災の災害公営住宅におけるコミュニティ特集。

 見開きの特集なのだが、随所に町内会(自治会)の負担問題と共助の限界が書かれている。

高齢者見守り 共助では限界

…しかし、見守りを強めようにも、活動の担い手がいません。

 2017年12月、入居していた25世帯に尋ねると、「運動会・夏祭り・防災訓練に参加できる」と答えたのは3世帯だけでした。

 見守り活動の負担は松谷さんに集中。民生委員なども兼任する状況です。「退院直後で衰弱している人がいて、買い物などの送迎を自ら引き受けました。自助や共助のあとに公助では間に合わない。行政や福祉の支援も同時に走り出す仕組みがほしい」

 これはまさにぼくが共助批判として指摘してきた問題そのものであるが、同時に、これだけだと、行政や福祉と、共助がどのような責任関係にあるのかが明確になっていない。 

 行政は現場では、「みんなで一緒に」というのを宣伝文句にしてやってくる。福岡市で言えば「共働」とか「共創」とかいうスローガンだ。行政がコーディネート役になってしまうか、多少の実働の支援は得られても、自治会が元気に動かないところは手もあげられないという状況になるか、そのあたりが関の山である。

 ぼくは民生委員が実質上の素人ボランティアであった現状とあわせて、こういうものを統合したソーシャルワーカー的な人員に置き換える必要があると思う。

 いや、いるよ。今。コミュニティ・ソーシャルワーカーって。だけど、基本、コーディネートやアドバイザーなんだよね。現場でかかわりをもつ実働部隊じゃない(多少持つけど)。

 

 これは、ある人と話をした時に聞いたことではあるが、「いまICTの時代なんだから、むしろ役所については本庁に人は要らない。現場の支所とかに職員を配置するようにシフトしたほうがいいよ。むろん総量の人員も増やすほうにして」と言っていた。そう思う。

 

 あるいは、「石巻じちれん」会長、のぞみ野第二町内会長の増田敬(67)のコメントの一部。

高齢者や孤立しがちな単身世帯に何かあった時、すぐ気がつくのは隣近所の人たちです。負担が少なく誰でも参加しやすい町内会の体制づくりが大事です。

 まさにこれは「ミニマム町内会」のことだ。

 そして、岩手大学の船戸義和特任助教のコメント。

 

 ゼロからコミュニティー自治会をつくるためには、意識的にその機会をつくる支援が必要です。

 しかし、担い手不足や負担の集中により、自治会役員が疲弊する姿が見られます。自治会まかせの共助には限界があります。行政も一体になった共助の仕組みづくりが求められています。

 生活弱者の見守りのために自治会をつくるのではなく、日常的な人とのつながりやコミュニティーを継続する力を育てることです。それが結果として見守りにも役立ちます。(強調は引用者)

 

 これはまさにぼくが『どこまでやるか、町内会』で指摘した問題。日常的な人とのつながりをつくることを最小限に考えればいいのである。

 

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)
 

 

 これを引き延ばしていくと、コミュニティ・ソーシャルワーカーなどが現在とっている、「自治会の見守り体制を前提にしてそこを支援する」という考えを、本当は覆してしまうものだと思う。

 なぜなら、自治会はちょっとした人のつながりさえあればいいんだから。

 「ソーシャルワーカーが大量に配置され、それを主体となって、共助のネットワークを生かす」というようなイメージに転換しないと、それは最終的には「自治会まかせの共助」になってしまう。

 そうした「公助」を出発点にして、もし自治会の中で面白がってやってくれるような主体が育ってきたら、ソーシャルワーカーがそこにまかせていく……ような発想にしないと、自治会がつらくなるばかりだし、穴があいたままになるだろう。

 

「首都圏青年ユニオンニュースレター」で読む港湾労働者のストライキ

『花と龍』に出てくる港湾労働者

 選挙に出た時、ある推薦者の方がメールで自分の親の出身が福岡(若松)だと知らせてくれ、その中で火野葦平の小説『花と龍』を紹介していた。

 

花と龍〈上〉 (岩波現代文庫)

花と龍〈上〉 (岩波現代文庫)

 

 

 ぼくは『花と龍』は知っていたが、実際に小説を読んだことはなかったので、選挙の最中に小説を買って読んでみた。今読んでも面白い。

 主人公の玉井金五郎は、大正から昭和にかけて活躍した実在の人物(作者・火野葦平の父親)で、沖仲仕を取りまとめる下請けのリーダー(小頭)だ。荷主の積み込み・積み降ろしを、他の組と喧嘩のようにして争ってやるシーンが出てきて、それが小説の一つの「華」である。

 しかし、他方で、金五郎が、「組合」を結成して、現場の労働者として荷主に共同して対抗しようとする話が出てくる。

 「そうなんですよ。もう、その兆候が、出とるんです。現に、四五日前も、聯合組に来る筈じゃった三菱の玄洋丸の荷物炭が、八百トンも、共働組に持って行かれました。大体、働く立場の者が、仕事の奪いあいをして競争するなんて、まちがっていますよ。今でさえ安い賃銀を、また安うしたりして、結局、資本家をよろこばすだけのことです。わたしは、これまで、沖仲仕をして来て、どうして、こんなに、みんなが汗水たらして働いとるのに、生活(くらし)が楽にならんのかと、不思議でたまらなかったんです。それというのが、おたがいが馬鹿な競争をするからですよ。そのために、どうしても、組合をこしらえなくちゃならんと、思うようになりました。ところが、友田喜造の一派だけ、なんとしても、入りません」

 「困ったもんじゃのう」(火野葦平『花と龍 上巻』響林社文庫、p.291)

 そして、それを牽制・抑圧する動きがあることも描かれる。

 「ときに、玉井君」

 「はあ」

 「君は、小頭の組合を作る運動を、しよるちゅう話を聞いたが、ほんとな?」

 「ぜひ、作りたいと思いまして……」

 「ぜひ?……ぜひ、ということはないじゃろう。この間から、君に逢うたら、いっぺん、いおうと思うとったんじゃが、……どうも君の考えは、間違うとるようにある。この若松というところは、石炭あっての港、石炭あっての町、ちゅうぐらいのことは、君に説明するまでもないが、その石炭は、三菱とか、三井とか、貝島とか、麻生とか、そういう荷主さんのおかげで、食わせて貰うとるいうても、ええ。こうやって、一杯の酒の飲めるのも、そのおかげじゃ。……玉井君、そうじゃろうが?」

 「おっしゃるとおりです」

 「そしたら、われわれの恩人の、そのお得意さんを、大切にせんならんことも、当たりまえじゃないか。違うか?」

 「違いません」

 「そうすると、玉井君、君の組合を作る運動ちゅうのは、お得意さんに、弓を引くことになりゃせんか?」

 「いいえ、弓を引くというわけでは、決してありません。それは、荷主さんあっての私たちということは、充分、承知して居ります。けれども、現場で、下働きをしている仲仕さんたちの生活があんまりみじめで、こんなに貧乏なのは、やっぱり、どこかに、無理がある、それは……」

 「どこに、無理がある?」

 「一口に、思うようにいえませんけど、結局、賃銀が安すぎると思いますのです。荷主さんと、働く者とは、持ちつ持たれつ、なるほど荷主さんあってはじめての私たちですけれど、これを逆に申しましたら、やっぱり、働く者あっての荷主さんでありますし、荷主さんだけが肥え太って、働く者が、いつもぴいぴいで痩せとるというのは、正しいこととは思われません。それで、組合を作って……」

 「荷主さんへ、喧嘩をふっかけるというのか?」

 「そんな風に、いわれますと、困りますのですが……」

 「どんな風にいうたって、同じじゃないか。どうも、君はおかしいなあ。それは危険思想ちゅうもんじゃよ。君は、社会主義者と違うか?」

 「とんでもない。私は、ただ、仲仕の立場として、実際の問題を考えているだけです」

 「君が組合を作るちゅうのを、おれが止めるわけにもいかんが、おれの共働組だけは、そんな義理知らずの組合なんかには、絶対、入らせんから、そのつもりで居ってくれ」(火野前掲書p.309-311)

 

 

「産業別」ということ

 そんな話を読んだ直後であるこの頃のこと、首都圏青年ユニオンから「ニュースレター」214号(2019年2月24日付)が届いた。

 その中に港湾労働者のストライキの話が出てくる。

 一般のネットニュースを読んでもこのストライキの理由はよくわからない。

 防衛省や依頼を受けた港運業者が沖縄港運協会に事前協議の申請をしないまま、2日に中城湾港で自衛隊車両約200台の積み込みや積み降ろしをしたとして、沖縄地区港湾労働組合協議会は4日から無期限の抗議ストライキに入ることを明らかにした。「事前協議制度の崩壊を招く事態。港湾運送秩序の維持ができなくなる」と話している。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/380589

  しかし、「ニュースレター」の記事では、「事前協議」とはどういうことか、「産業別」に交渉するとはどういうことかがちゃんと書かれている。

 まず「産業別」についてだが、企業ごとに運動するのではなく、業界団体全体(沖縄港運協会)と、労働者全体の代表である港湾労働組合が交渉を行うのである。

 

なぜこのような手順を踏むのでしょうか? それは、もし業者の自由選定が横行すれば、荷物の輸送を依頼する荷主たちは自分勝手に輸送料金の安い業者を選び、業界は輸送料金の引き下げ競争に巻き込まれるからです。そして何より事業者の価格競争の負の影響を受けるのは港の労働者です。より低い賃金で、より少ない人数で、より長い時間、より危ない荷物を運んでいく。そんな光景が事実1960年代まで港湾産業では日常になっていました。(同レターp.9)

 

 まさに『花と龍』の世界である。そして、それは今日の運送業界全体、あるいは労働者全体の世界の縮図でもある。

 

事前協議」とは何か

 そして「事前協議」。

 これについて、マスコミの記事を読んでもよくわからないし、SNS上ではいろんなことを呟く人がいる。

togetter.com

 

 知らないのだから、こう言ってしまうのも仕方のないことかもしれない。

 そこで、この記事ですよ。

 

まずこの聞きなれない事前協議とは何でしょうか? これは、港湾産業(港で積み下ろしを担う輸送業)に置いて産業別の労働協約で締結された労使交渉の仕組みです。そこでは「輸送体制並びに荷役手段の形態変化に伴い、港湾労働者の雇用と就労に影響を及ぼす事項については、あらかじめ協議する」ことが約束されています。今回の問題でいえば、防衛相が依頼した荷物は通常の定期便とは別に“臨時的”に大分県中津港から沖縄県中城港に輸送が計画されたものです。加えて荷物は装甲車やジープなどの軍事車両という特殊なものでした事前協議では、こうした臨時も含めて新規に貨物輸送の航路が計画された場合に、荷物を積み下ろす業者を港湾の労使で事前に選定し、特殊な荷物であれば輸送の安全性について事前に話し合いをした上で輸送が実行されます。(同前レター)

 

 レターの記事(「コラム すっちーの部屋」)が「今回のストライキ行動は、輸送を担う労働者に目を向ければ業者間の競争防止と安全管理という働く人にとって深刻な問題を提起していると思います」と末尾で書いていることはまことに当を得ている。

 すべての産業・分野でできるとは思わないけど、やはりこういう産業別の交渉ができれば働く人たちはかなりラクになるんじゃなかろうか。

 

 

 

 前にも同労組の「ニュースレター」は面白いと繰り返し書いてきたが、今号は特にどのページもよかった。いいところをちょっと紹介。

 

ブラック美容室エマージュ(p.2)

 ほぼすべての美容師を「業務委託」で働かせているという事実。実際には厳しい時間拘束・シフト管理があるというのに。そして、契約期間に契約解除しておきながら、契約期間中に働かなかったという理由で100万円以上の損害賠償請求。あきれるわ。

 

美容師・理容師ユニオンと技能形成(p.3)

 美容師はアシスタントを経て一人前=スタイリストになるが、この下積みともいうべきアシスタントの養成をコストとして回避しようとする店が増えているとのこと。エマージュは他の美容室でのスタイリストの技能を獲得した美容師を雇うのだという。

 ここでも業界全体をただす産業別の交渉が必要になる。

 

小田原電鉄団体交渉(p.4)

 学生アルバイトのユニオンによる交渉。制服を着替える準備時間に賃金を払えという要求に対して「制服は家で着替えてくれば良いもので、制服を現場で着ることを強要したことはない」という、のけぞる回答。

 

【争議紹介】大塚ウェルネスベンディング事件(p.5)

 大塚製薬の完全子会社。パワハラの危険を感じたBさんに対し録音機の所持を禁止と通告。こんなことをやられたらパワハラは証明できん。しかし、今後こういう会社増えてくるんじゃないかなあ。

 あと「業務指導改善書」というBさんへの些細なミスへの注意(事実と異なることや注意対象とも思えないことも含む)を何度も交付していること。解雇する根拠を積み上げているだけではないのか。

 

【争議報告】ヤマト運輸(p.6)

 告発した労働者を翌日に「雇止め」。一見、雇止めできる契約の人ならしょうがないのかなと思ってしまうけど、「翌日」というのがひどい。「そもそも休憩が取れないほど人手不足であるため『今後人員を補充していく』と団体交渉で言いながら、Hさんを雇止めにするというのは不可解です。明らかに、Hさんが団体交渉を行ったことを理由とした雇止めです」というのは全くその通りである。

 

すべての少女に衣食住と関係性を【前編】(p.7)

 家庭や学校に居場所がない10代少女たちが、買春や性風俗産業、性暴力にさらされかねないという問題。前に『最貧困女子』の書評でも書いたことだけど、警察の補導では少女たちの気持ちに寄り添えない話が出てくる。

 「何も干渉されない、しかし安全な居場所」というものがNPOのような形で運営できるといいんだが……。

 

馬塲亮治(ばばりょうじ)社労士事件(p.8)

 ある団体交渉の席でのユニオンの態度に対して会社側の社労士が訴訟を起こした事件。社労士側が、訴えのもとになった団交を第1回ではなく第2回目の団交だったと修正をかけたり、いまだに何をもって名誉毀損になったのか、士業へのどういう支障をきたしたのか明確にできなかったりと、興味深い。裁判長から社労士側が苦言を呈される場面もあったという。

 

ユニオンナビ(p.10)

 首都圏青年ユニオンに寄せられるのは「法律の基準以下で働き(働かされ)『被害にあった』という深刻な相談が多い」。2017年度は25件の案件を解決し、そのうち団体交渉で24件解決している。裁判に至らないのである。

 労働組合というツールを使うことがいかに役にたつかがわかる。

 もうすぐ統一地方選挙だけど、ブラック企業根絶条例というものを作るとすればぼくはその中身は現行法の完全遵守ということになるんじゃないかと思う。法律通りやらせるだけで生活はずいぶん違う。

前田正子『無子高齢化 出生数ゼロの恐怖』

 少子化は社会を維持できなくなる大変な問題だ、という前提さえ共有するなら、あとはどう対策(解決策)を考えるか、という話になる。

 本書・前田正子『無子高齢化 出生数ゼロの恐怖』(岩波書店)にはタイトルの通り現状を告発する部分がかなりあるが、では解決策をどうするかという問題にしぼって評してみる。

 

無子高齢化 出生数ゼロの恐怖

無子高齢化 出生数ゼロの恐怖

 

 

 

 「少子化対策」と聞いてまず「保育所整備」が頭に浮かぶ人も多かろう。

 そうした政策認識について著者(前田正子)は次のように批判する。

 

〔2000年前後の政策は――引用者注〕どれも保育整備に重点が置かれ、そのほかは各省の既存政策を並べたもので、包括的な子育て支援策が整合的・戦略的に講じられることはなかった。(本書p.73)

 

 もちろん、保育所整備は少子化対策の一環ではあるが、前田はそれを包括的政策の部分化でしかないとして批判するわけだ。

 例えば、左翼陣営で言えば友寄英隆は、労働を変えることが「『少子化』対策のカギ」とのべる。

少子化」対策のカギは、労働法制のあり方を根本的に見直して、人間的な労働と生活のあり方をめざすことです。長時間労働を是正し、最低賃金を大幅に引き上げ、安定した暮らしができる賃金を保障することです。非正規労働の労働条件を抜本的に改善することによって同じ労働をしている正規の労働者との格差をなくし、男女の賃金格差をなくすことです。(友寄『「人口減少社会」とは何か』学習の友社、p.141)

 あえて問題軸を立てる。少子化対策の中心は、保育の問題か、労働の問題か。

 前田の本書を読むと、生涯にわたって結婚しない男女が増えているという。それなのに、保育所を整備してもそれだけでは解決しないではないか、と。

 では前田は労働改革だと言うのかと思えば、必ずしもそうではない。

 前田の提言は本書第5章のタイトルにあるが「若者への就労支援と貧困対策こそ少子化対策である」ということになる。5つの提言をしているが、要は人生前半=若者への支援を強化しろということなのだ。その中で、経済的支援としての若者の貧困対策と、ロスジェネ世代への支援を強調している。

 

そもそも収入が低く、雇用が安定しない人は男女ともに結婚しにくい。(本書p.142)

 

要するに、何よりも男女ともに安定した仕事を得ること、結婚して二人で働けば出産・子育てのできる経済力、それこそが少子化対策に必要なのである。(本書p.143)

 

 友寄の解決方向に似ている部分もあるが、若者の経済支援(貧困対策)・就労支援に特化している点が違う。

 前田は「貧困対策」として何をイメージしているのだろうか。もう少し見てみる。

 

適切な職業訓練や生活支援で一人ひとりの職業能力を高めるとともに、最低賃金の引き上げなど、フルタイムで働けば自立して働けるだけの所得を保障する。(本書p.160)

 

 ぼくは(保育所整備も含めてだけど)こうした提言を間違っているとは思わない。

 だけど、あえてどこに政策重点を置くべきか、という問題で言えば、ここではないんじゃないかなと思う。「ここ」とは「職業訓練」「職業能力を高める」「フルタイムで働けば自立して働けるだけの所得」という就労支援の部分だ。

 

 この改革は最低賃金引上げは別として、いろいろな難しさがある。「職業訓練」「職業能力を高める」ことは果たして多くの若者に将来見通しを持たせるだろうか、という疑問が残るのだ。

 また、「フルタイムで働けば自立して働けるだけの所得」という点では、フルタイムが地獄のサービス残業とセットになったり、「自立して働けるだけの所得」を払わない企業がいたりする。つまり、企業サイド(あるいは労使関係)における改革を待たねばならない。労組加入率の現状からいえば、かなり時間のかかる課題ではなかろうか。

 

 巻末に常見陽平と前田の対談が載っており、そこで常見から赤木智弘の発言が紹介されている。

 

作家の赤木智弘さんと院内集会をしたときに、彼が言ったのですが、いまや仕事は「資源」なのだと。人間らしい仕事、真面目に働けば結婚でき、子どもも持てて、大学にもやれる、そういう仕事を掘り起こし、配っていくことが重要だと思います。(本書p.202)

 

 確かにそういう仕事にしていくように闘争しなければならないのだが、それは現場の労使関係にかなり依存するのではないか。だとすれば、変わるのにかなり時間がかかる。

 

 ではどうすればいいのか。

 ぼくの提案は、最低賃金を時給1500円以上に引き上げた上で、住宅費と教育費を社会保障に移転することだ(この延長線上にはベーシックインカムもある)。

 なんども書いていることだけど、正社員で年功序列の賃金体系では、年齢が上がるに従ってこの2つの費用を補填するために賃金も上がっていく。逆にいえば、非正規労働者の場合、この2つの重石が結婚して子どもをもつ展望を失わせる。

 パートやアルバイトという短時間労働者であることが「悲劇」なのは、人間らしい生活を送れる賃金を得られないからであって、この二つが社会保障に移転してしまえば、短時間労働者でも「健康で文化的な最低限度の生活」に手が届く可能性がある。そうなれば、時短も一気に手に入れられるのだ。*1

 

 かなり歪んだものであるとはいえ、教育は無償化の大きな動きが始まっている。

 しかし、住宅費についてはようやく「セーフティネット」という形で部分的に始まったばかりである。公営住宅の整備(または民間住宅の借上げ)か、家賃補助(住宅手当)という形でこの動きを加速させたい。

 

 そして、その原資は、大企業や富裕層から移転させろ、というのが左翼たるぼくの意見である(この点では前田は、高齢者福祉からの移転や「一人ひとり」への負担増という形で提案しており、明確にぼくと意見が違う)。

 

 要は、労使関係に委ねられた雇用という形ではなく、政治ができる政策の形で少子化対策を急いでしなければ時間的に間に合わないのである。

 

 労働時間規制については労働基準法通り「1日8時間」を厳格に守る体制ができればかなり有効な策にはなると思う。しかし8時間で暮らせる賃金を得るためには、やはり住宅費と教育費の社会保障移転は必須だろう。

 

本としての面白さ

 さて、以上は本書の提言部分に関する評であるが、他方で、本書を書籍として眺めた場合、いろいろ情報として得るものも少なくなかった。そういう意味では読んでおいて損はない本である。

 例えば、1992年の旧労働省職業安定局による『外国人労働者受入れの現状と社会的費用』という検討文書を知らなかった。

五〇万人の外国人労働者を受け入れた場合、単身では「入り」の方が多いが、配偶者が来た場合はコストが便益の倍になる。さらに学齢期の子どもが二人いると、教育費や住居対策費が必要になり、扶養家族が増えるにつれ税収も下がるため、1年でメリットの四・七倍に当たる約一兆四〇〇〇億円ものコストが発生するという。(本書p.169)

 外国人労働者を単なる「労働力」ではなく「人間」として扱えば相応のコストがかかるということだ。当たり前であるが。

*1:解雇されやすい、つまり職が続きにくいという問題は解決されないが。

『NANA』は「多様性ある家族像を根底から否定する前近代的な家族観」か?

 「しんぶん赤旗」で中川裕美が「少女マンガとジェンダー」という連載をしている。毎回楽しみにしている。

 2月15日付は、第7回。ゼロ年代のマンガとして矢沢あいNANA』が取り上げられている。

 すでにツイッターで簡単な感想を書いた。

 

 中川の評では、主に『NANA』に関連してジェンダー上の2つの問題が指摘されている。

 一つは、「貞操主義」。

 もう一つは、「母性神話」。

 

貞操主義?

 まず前者の「貞操主義」。これは『NANA』が貞操主義だというわけではなく、むしろ『NANA』の主人公の一人である奈々がヒロインであるにも関わらず、貞操主義を打破している、もしくは貞操主義的な類型ではない、とされている。「何人もの男性と恋をし、時には性行為もする」(中川)からだ。

 

 

 貞操主義について、中川は「一人の少女(女性)は一人の少年(男性)としか恋愛をしない」という簡単な規定を与えている。

 ぼくは、この記事を読んで、果たして中川がこの貞操主義にどのような評価を持っているのかを直接読み取ることができなかった。

 ただ、「貞操主義の打破」という題名の語感(これは著者の意向とは別に編集部がつけている可能性がある)、そしてこの貞操主義の話題の後で「その一方で」として批判的な叙述が始まるので、おそらく「貞操主義の打破」はその反対物、つまり肯定的な評価を持たれているのではないか、と思った。確言はできない。ただのニュートラルな指摘だという可能性もある。

 

 その上で、いくつかの違和感について書いてみる。

 第一は、「貞操主義」の定義の不安定さだ。

 一人の恋愛対象に熱中し、やがて破綻し、そして次に新しく恋愛し、また……こういう繰り返しを「反貞操主義」といえるだろうか。その期間を見れば一人の人と誠実に向き合っている可能性もあるわけで、それを「反貞操主義」「貞操主義の打破」と果たして呼べるのか、ぼくには疑問が残る。

 

 第二に、「貞操主義」という規定がジェンダー上どのように評価されるのかがよくわからないことだ。

 「一人の少女(女性)は一人の少年(男性)としか恋愛をしない」ということを「貞操」という言葉でまとめられるであろうか。中川のいう「貞操主義」、つまり一人の対象に熱中し、そこから心を動かさないことは、なんら問題がないように思える。ぼくはこうした態度がジェンダー上どのような問題を引き起こすのかあまりよく理解できない。

 あえて言えば、一人の対象に熱中し、そこから心を動かさないことを「美徳」とする固定的な考えが生じた場合、その熱中から冷めてしまうことを「不誠実」と詰る空気が生じるかもしれない。「もう乗り換えるなんてサイテーじゃないか?」みたいな。別の言い方をすれば「一人の人を一途に思うのが良い恋愛である」という刷り込みをしてしまう恐れがあるということだ。

 いや、しかしだよ。

 どんなマンガだって、何かしら作者の価値観を読者に押し付けるものだから、何かの価値の刷り込みにはなると思うのだが。

 反対のことを考えてみればいい。「貞操主義の打破」は果たして無条件に良いことになるのか。多数の人と「不倫」をする場合は明らかに「貞操主義の打破」といえるけど、それはジェンダー上望ましいこととは必ずしも言えないような気がする。そういう行為を称揚する価値観がマンガに描かれ、それに刷り込みを受けて多数と「不倫」をする現実の行動は、その人を不幸にしかねないのではないか。

 

 第三に、作品における、奈々の「移ろいやすさ」は「貞操主義の打破」という意思的な行動としてまとめられるものではないということだ。

 「空っぽのあたしは 性懲りもなく恋をする事でしか 自分を満たせずにいた」という奈々の独白は、貞操主義の打破ではなく、ゼロ年代に猖獗を極めた「自分探し」の裏返しである。ミュージシャンを目指すもう一人の主人公・ナナとの対比で自分が「空っぽ」であることへの焦燥として恋愛に走っていることが描かれているのだから、貞操主義の裏返し、一人の恋愛対象と安定した関係が築けない「問題行動」として描かれているのではないのか。

 

「父母が揃った家庭」を「唯一無二の理想」としている?

 もう一人の論点、母性神話についてはどうか。

 中川は、『NANA』という作品について

「父母が揃った家族」を唯一無二の「理想的な家族像」として描き、そこに育たなかった者を「普通ではない」とする

 との規定をしている。「理想的な家族像」とされるのは奈々の両親・実家であり、それは両親が「揃って」おり、母親は母性神話に満ちた描かれ方をしているのだという。結果として『NANA』について、

多様性のある家庭像を根底から否定する前近代的な家族観

 だと断じる。『NANA』を読んだことのあるものにとっては非常に違和感のある規定だが、ジェンダー・バイアスが隠されたものであるかもしれぬので、ぼくらの素朴な「読みの実感」からのみ出発するのは公平ではないだろう。

 中川は『NANA』においては「家庭が不和」だったキャラクターは「性格的な欠落」を抱えているとするが、別に奈々(ハチ)だって前述の通り「性格的な欠落」を抱えている。奈々は「満たされたいい子」ではないはずだ。

 そして、家庭不和の環境は、必ずしも「両親が揃っていない」ということではない。ナナは「両親が揃っていない」といえるかもしれないが、他の「親の愛を受けずに育っている」キャラクターは「家庭不和」ではあっても「両親が揃っていない」わけではないのだ。

 

むしろ多様な家族の走りではないか

 『NANA』は家庭や家族に問題を求めすぎるきらいがあるとは思うのだが、それはおいておくとしても、むしろ血縁ではない新しい絆の共同体をつくろうとするのが『NANA』の特徴であり、矢沢あい作品にしばしば見えるテーマである。

 むしろこの血縁ではない新しい絆の共同体をつくろうという作品は、「家族」の新しいあり方を示しているとさえ思う。シェアルームで始まった奈々とナナ、そして仲間たちの関係は、現代的にみれば「シェアハウス」のような友達共同体や、それこそLGBTの家族などの嚆矢のようにさえ思えるのである。

 ぼくは、とてもここから「多様性のある家庭像を根底から否定する前近代的な家族観」を見て取ることはできなかった。

 

 前の回の『星の瞳のシルエット』評でも、お嫁さん=専業主婦になるのが夢というのはジェンダー上の問題があるとする指摘を中川はしていたが、専業主婦になるという結論が作品の結論上非常に大きな反動性(ジェンダー上の問題)を引き起こす場合もあるし、全くなんの問題にもならない場合もある。それはまさしく作品によるのである。

 

星の瞳のシルエット(1)

星の瞳のシルエット(1)

 

 

 

 中川の評は、作品のコンテクストを離れて個々の要素の「刷り込みの危険」だけを過度に強調してはいまいか、という危惧を持ってぼくは読んでいる。

 

 うん、まあ、こう書くとなんかものすごくトゥリビャルな連載のように思えるが、そういうことも含めて自分があれこれ考え、議論をしたくなるので、この連載を楽しみにしているのである。もちろん、純粋に知らないことも多いので、それを学ぶこともある。

 

ファミマが子ども食堂をやることにどうも「もにょる」のはなぜか

 ファミマが子ども食堂をやるというニュースリリースをした。

www.family.co.jp

 

www.asahi.com

 

 どうも、もにょる。

 子ども食堂とは何か、をまず考えてみる。

 子ども食堂は、全国の草の根で広がっているものだから定義めいて言うことはできない。だけど、そもそもの出発点を考えたら次の二つの(どちらかの)意義は本来あるはずだ。

 

子ども食堂とは何か

 第一に、子どもの貧困に対する事業。一番狭い考えとしては、貧困のために満足な食事ができない子どもに食を提供することだ。

 しかし、本当に食事ができないような子どもだけがそこに来る確率はそれほど高くはあるまい。地域の子どもが無差別に誰でも気軽に来られる中で、ひょっとしてその一人としてそういう子どもが紛れ込んでいる場合もあるだろう。例えば毎回50食提供して、それを100回やったとして、その中に「貧困で満足な食の提供がない子ども」への提供ができたのは2回か3回だけもかしれない。2/(50×100)=0.04%である。

 ゼロかもしれない。ぼくは子ども食堂、あるいはそれに類する場所に何度か行ったことがあるが、知り合いの子どもばかりだった。毎回ではないにせよ。近所の知り合いの子どもたちと親が集まってワイワイと食事をしている。それだけである。

 だけどそれでいいではないか。

 なぜか。

 それは、親や地域住民がそうやって貧困の子どもたちのためにと思って食堂の準備をすること自体が、「貧困を考える場所」になっているからである。料理を作る合間に、あるいは、食事をしている最中に、あるいは買い物に行くとに、「そういえば〇〇さんのところの××ちゃんは、最近見ないけどどうしたのかな」「△△くんは乱暴だけど、あれはひょっとして…」と思いを馳せることがあるかもしれないし、おしゃべりの話題になるかもしれないのである。

 ただのくだらない噂話で終わるかもしれない。いや、くだらない噂話、世間話が99.79%くらいだろう。しかし、あとの0.21%の中に、貧困の発見につながるかもしれない情報が入っていたり、もしくは行政に施策を求めるアクションの源になるかもしれないのだ。膨大なムダの中に、ひとかけらのいい情報・行動の萌芽がある。

 

 そういう意味では、子ども食堂は、直接の貧困の対策ではない。「食の提供」というなら、困窮家庭を行政が指定して食を届けた方がよほどいい。あくまで地域で貧困を考えるきっかけづくりなのである。

 

 第二は、そこから広がって「地域の居場所づくり」としての意義である。

 地域住民が、地域の困っている家庭や子どもたちのために何かをすることを目的として集まり、おしゃべりや共同作業をする場所を作る。そこに子どもや高齢者がいる、というわけである。

 そこにはすでに「子どもの貧困対策」という名目がなくなっているケースもある。だとしても、みんなが集まってワイワイする場所があるといいね、というのは、コミュニティづくりにとってはプラスのものだろう。

 本来これは町内会が簡単な、できれば楽しげな共同作業をすれば事足りることだとは思う。夏祭りの準備で、あるいは団地の草むしりで、みんなが集まって、終わってお茶でも飲む、一杯やる、ということで果たせるはずである。

 まあ、それが「子ども食堂」であっても構わないはずだ。

 

 こうした二つの意義については、すでに専門家からも似たような指摘がある。

gendai.ismedia.jp

 

 特にここであげた大西は、子ども食堂自体は「対処療法」に過ぎないとして、それを貧困そのものをなくしていく「処方箋」へのアクションの気づきに結び付けられるかどうかが、カギだという趣旨の主張をしている。全く賛成である。

 

本当に困っている子どもたちの居場所にするには

 さらに、「居場所」という場合に、「大人の居場所」ではなく「子どもたちの居場所」というふうに考えみると、相当な工夫がいる。

 以前ぼくは鈴木大介『最貧困女子』を読んだ感想を書いたことがあるが、そのときに、鈴木の主張として、本当に助けを必要としている子どもたちにとって、例えば学童保育のような場所がいかに「うざい」場所かという話を書いている。

 結局「フーゾク」にしか「居場所」や「稼ぎ口」がなくなってしまうような子どもたちのために考えられるべき「居場所」は、相当にルーズであることを意識的に設計される必要があるのだ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

なぜウザいのかを聞けばごもっともで、学童で出欠確認や連絡帳の提出があったり、放課後に行くはずになっていた学童に行かないと何をしていたのか詰問されるのが嫌だったのだという。あと「ゲームがない」。高学年にもなれば、本の読み聞かせなど、「ガキっぽいことに付き合ってらんない」という気持ちもあるし、同級生たちと遊びたくても常に低学年の子が邪魔をしてくるし、同級生も塾に通う余裕のある家庭の子は学童から遠のく。結局馬鹿馬鹿しくなって行かなくなってしまったと、この少女は言うのだ。(『最貧困女子』p.180)

 

 つまり、夜中に来ても何も言わない。ゲームをやれる。マンガばかり読んでいても、寝ていても文句を言われない。泊まれる。

 そんな「だらしのない居場所」づくり。

 それこそが必要だというのである。

 なるほどと思う。本当に貧困で苦しんでいる階層の子どもたちはそういう場所でしか発見できない可能性がある。

 子どもの医療費無料化を推進する団体と懇談した時に、貧困で口腔崩壊する子どもがいるという話になって医者が「だけど本当に支援が必要な貧困の子どもはなかなか病院にも来ない。見つけるのが大変」といっていた。

 

「ファミマ子ども食堂」に感じる「ナマあたたかさ」

 さて、ここまで来て、ようやくファミマの「子ども食堂」に戻れる。

「ファミマこども食堂」では、地域のこどもと保護者を対象に、参加者みんなで一緒に楽しく食事をするほか、ファミリーマート店舗のバックヤード探検やレジ打ちなどの体験イベントを通じて、ファミリーマートに関するご理解を深めていただく取り組みもあわせて実施します

http://www.family.co.jp/company/news_releases/2019/20190201_99.html

 

 これが「子ども食堂」かなあ…と微妙な気持ちになる。

 そして、

 

参加料金:こども(小学生以下)100円、 保護者(中学生以上)400円
プログラム:オリエンテーション/みんなとお食事(約40分)

 

 

 ファミマの客単価は640円ほどだそうだから、まあ、保護者2人と子ども1人くれば余計な在庫商品を出すことで、十分埋め合わせられる。仮に母親と子ども1人でも500円だ。ファミマの宣伝にもなるし、帰りに何か買って言ってくれれば御の字である。

biz-journal.jp

 いや……たとえ動機が「儲け」であっても、そういう利潤の刺激も生かして社会貢献する動機になるなら、それこそがソーシャルビジネスではないか。あまり目くじらをたてるのではなく、こういう取り組みをむしろ褒めて伸ばすべきではないか?

 しかし、40分で食事して、それでファミマのレジ打ちやバックヤード探検をしてどうなるんだ、ただのファミマのバイト予備軍を作るだけじゃん……

 

などと頭の中でいろいろな思いが交錯する。

 そういう意味でこの記事は「もにょる」のである。「ナマあたたかい」というか。

 

 

本当の貧困対策につなげるために

 しかし、やはりこういう取り組みも含めて、社会の機運醸成には役立っている。まあ、「がんばれ」とは言っておこう。というわけでファミマよ、がんばってほしい。そしてここで終わらず、改善していってほしい

 問題は、大西の言うように、それを本当の貧困対策につなげられるかどうかだ。

 福岡市の高島市政は典型的であるが、市独自の「子どもの貧困対策」といえばこうした子ども食堂支援か、学習支援が柱である。後者は「勉強してそこから脱出しろ」と言うことであるが、学習支援による貧困対策は常々専門家から、疑問が寄せられている。

 

子どもの貧困対策法も、子どもの貧困対策に関する大綱も、学校や教育が中心です。……やはり経済困窮にある子どもたちに支援をといっても、教育の問題、たとえば多くの子どもが進学準備のために塾に言っているもとで、塾に行けない子がいるといったことが矛盾の中心という議論がなされていることが多いと思います。それはとても大事な議論ではあるのですが、一歩間違えると危険でもあるのです。……この議論は、いわゆる子どもの自己責任論に陥りかねない危険性があるのです。……教育はある意味見返りを求める。つまり、その子が何かの成果を出さなければいけないからです。実際に、おこなっている人にはそんなつもりがなくても、たとえば、学習塾の代わりに無料塾に行くと、とりあえず高校入試に合格することを成果として出す、そのことによって来年もまた支援を続けましょうとなるようなことがあるのです。(山野良一・名寄市立大学教授、「教育偏重の子どもの貧困対策でいいのか」/「前衛」2017年8月号)

 

 ぼくも無料塾のボランティアに関わってきた身として耳の痛い話ではある。

 要するに子ども食堂にしても無料塾にしても、それは善意の第一歩ではあるが、貧困対策そのものではない、もしくは「対処療法」にとどまる。根本的に貧困をなくしていく取り組みとしては、社会保障制度充実になるが*1、とりわけ自治体の施策としては、当面の直接給付が必要である。

 例えばシングルマザーの家庭への直接の給付や、家賃補助などが有効だ。

 そういう議論に 家事 *2が切れるかどうかが大切だと思う。

 ファミマがそういう一助になってくれれば……とキレイに結びたいが、そうはならんのではないかなあとやはり「もにょる」のである。

 

 

 

 

*1:さらにぼくのような左翼から言わせてもらえば、もっともラジカルな解決は生産手段の社会化、すなわちコミュニズムの実現だけどね。

*2:ひどい誤字だった。ブコメの指摘ありがとうございます。