共産党はマンガ・アニメの規制にカジを切ったのか

 日本共産党がアニメやマンガの表現規制に「方向転換」したのではないかと、ネットの一部で話題になっている。

togetter.com

 

 共産党は今回の総選挙政策

児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きに反対します。

と明確に言っている。それなのに、なぜこんな騒ぎになるのかといえば、ジェンダー分野で書かれている政策がこれと矛盾するのではないかという疑惑を招いているからである。

 

 結論を言っておくと、「表現の法的規制ではない」というのがぼくの受け止め。しかし、政策としての叙述の仕方として最悪のものだと思う。どこかの政権党っぽく言ってしまうと、見事に「誤解を招く」。書いた人のセンスを疑う。

 

 問題の、ジェンダー分野における共産党の該当政策はこの部分である。

―――児童ポルノは「性の商品化」の中でも最悪のものです。児童ポルノ禁止法(1999年成立。2004年、2014年改正)における児童ポルノの定義を、「児童性虐待・性的搾取描写物」と改め、性虐待・性的搾取という重大な人権侵害から、あらゆる子どもを守ることを立法趣旨として明確にし、実効性を高めることを求めます。

 

 現行法は、漫画やアニメ、ゲームなどのいわゆる「非実在児童ポルノ」については規制の対象としていませんが、日本は、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な制作国として国際的にも名指しされており、これらを適切に規制するためのより踏み込んだ対策を国連人権理事会の特別報告者などから勧告されています(2016年)。非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。

 この政策は2つの段落から成っているが、一見すると単に段落分けしているだけで同じ話題のように見える。

 

前段の「描写物」はアニメ・マンガの話ではない

 で、前半の段落にある、“児童ポルノの定義を「児童性虐待・性的搾取描写物」に改めろ”という政策のうち「描写物」という文言が、実写でなくアニメやマンガなどの虚構物を指すのではないかという心配を高めているのである。

 その説明がほとんどと言っていいほど、なんにもないもん。そりゃそういう心配を起こすよな、とぼくなど思ってしまう。

 共産党は、この「描写物」という文言を入れろとなぜ言っているのかと言えば、簡単に言えば、現在の児童ポルノ規制法における「児童ポルノ(もちろん実写)」の定義が「性欲を興奮させ刺激するもの」に限定されているんだけど、そうでないもの(性欲を興奮させ刺激するとは必ずしも言えないもの)も「児童ポルノ(もちろん実写)」の範囲に入れるべきだと主張しているのである。

 大騒ぎになって、共産党Q&Aを出したようだが、その中に

児童ポルノ」という言葉については、日本共産党は従来から、被害実態をより適切に表す「児童性虐待描写物」などに改めることを提起してきました(2014年6月17日、参院法務委員会議事録参照)。

と書いてある。けど、素っ気なく書いてあるので、わけがわからない。この政策を書いた人は説明したつもりだろうけど、「被害実態をより適切に表す『児童性虐待描写物』などに改めることを提起してきました」という文言は、よく事情を知らない人からすれば、「うん。ウチは前から児童ポルノに描写物=マンガ・アニメを入れるべきだと言ってきましたよ? 今更じゃないんですよ? だってアニメやマンガでも子どもが傷ついてるんだもん」と共産党が開き直っているように読めちゃうんだよ。そこがわかっていない書き方である。共産党に怒ってこのQ&Aを読みにきた人は、ますます怒り心頭になってしまう。

 しかし、そうではないのである。

 ここで参照されている2014年6月17日の参院法務委員会(共産党の仁比聡平参院議員)のやり取りを読めば、性欲の刺激をイメージさせる「児童ポルノ」から「児童性虐待描写物」に変え方がいいじゃねーの? と共産党が言っていた意図がすぐわかると思う。

 長いけど引用してみよう。

 大事なことなので。

 結論だけ辿りたいという人、面倒くさい人は飛ばしてもらって結構。「描写物」と共産党議員が言っているのは1箇所だ(赤字にしてある)。

 我らが「山田先生」も登場するよ!(笑)

○仁比聡平君 … そこで、本法案の保護法益についてまず確認をしたいと思うんですが、その前提として法務省刑事局長に、現行法にも定義をされています性欲を興奮させ又は刺激するものというこの法の要件は構成要件ということだと思いますが、先ほど来、これは一般人を基準に判断すべきという答弁が衆議院でもあったという紹介がありましたが、改めて、この性欲を興奮させ刺激するものという定義、そしてこれがどのように判断されるのかという基準についてお答えいただきたいと思います。

○政府参考人(林眞琴君) 今御指摘の性欲を興奮させ又は刺激するものというものでございますが、御指摘のとおり、これは一般人を基準に判断すべきものと解しております。
 その判断につきましては、個別具体的な事案の内容にはよるものの、一般論として申し上げれば、その判断要素といたしましては、性器等が描写されているか否か、あるいは動画等の場合にその児童の裸体等の描写が全体に占める割合、あるいはその児童の裸体等の描写方法、こういった諸般の事情を総合的に検討して、それを一般人に当てはめて、その基準で、性欲を興奮させ又は刺激するものに当たるかどうかを判断するものと解しております。

○仁比聡平君 そうしますと、先ほど山田議員始めとした方々の議論にもありましたけれども、一般人が性欲を興奮させ又は刺激されないものであれば、たとえそれが性的虐待あるいは性的搾取という観点から見たときに許されないものであったとしても、この構成要件には該当しないということになるわけでしょうか。

○政府参考人(林眞琴君) 性的搾取あるいは性的虐待、こういったものを防止するという法の趣旨があるわけでございますが、その中で個々具体的な刑罰を科す条文を見ますと、それぞれに例えば今の性欲を興奮させ又は刺激するというものが構成要件としてございます。したがいまして、これに当たらなければ刑罰は科せられないということになります。

○仁比聡平君 例えば、イングランドウェールズのこうした児童ポルノに関する事件の量刑について量刑諮問委員会というのがあるそうで、もちろん前提とする法制度が改正案のような趣旨かはいろいろ、国それぞれだと思いますけれども、この中でも参考とされている欧州におけるペドファイル情報ネットワークの闘いという、コパインスケールと言われている、児童ポルノと今のところ申し上げておきますけれども、この中身を分析している基準があります。この中で、例えば下着姿、水着姿などの子供を写したものだと、エロティックでも性的でもないというレベル一、暗示的なものに始まってレベル十まで、最も厳しいあるいは許し難い、そうした画像としてレベル十、こんなふうな定義が示されているわけです。子供が縛られ、拘束され、殴られ、むち打たれ、又は痛みを暗示するその他の行為を受けているところを写した写真、子供を対象とした何らかの形態の性的行為に動物が関与しているところを写した写真。これは、ウェールズにおいては、つまり量刑事情として重く見られなければならないという考え方かと思うんですけれども。
 先ほど山田議員の質問にもありましたけれども、私もこうした画像というのは吐き気がする思いだと思います。一般人がそうした画像によって性欲を興奮させ、刺激されるのかという基準でいうと、これはそれには当たらないということになりかねないわけですが、これ、一般人の性欲をということで基準とすると、そういうことになるのではありませんか。局長。

○政府参考人(林眞琴君) 今御指摘の外国のコパインスケールでございますか、こういったもので幾つかの分類があるわけでございます。これについては、詳細は承知していないわけでございますが、外国の研究者が児童ポルノをその虐待性の観点から幾つかの段階に分けた指標であろうかと思います。
 したがいまして、これがどういう形で日本の今回のこの児童ポルノ禁止法に当てはめになるのかというのは、具体的な詳細な対応関係というのはもちろんないわけでございまして、結局のところ、そういった各外国での分類のものがこの児童ポルノに該当するか否かにつきましては、こういった個別具体的な証拠関係に基づいて判断すべきでございまして、結局、そういった写真等が法の二条三項各号の要件を満たすかどうか、そういった場合には児童ポルノに該当することとなり、全ての場合にそれが児童ポルノに該当するわけではないというふうに理解しております。

○仁比聡平君 結局、性的虐待あるいは性的搾取による児童の自由や人格、あるいは身体、生命の安全が保護法益、それが保護されなければならない、ここに対する侵害を抑止しなければならない、そういう立法の意図が貫かれるのであれば、別の定め方が私は十分あり得ると思うんですね。
 御存じかどうか、インターネットアーカイブを参照しますと、インターポールが、この児童ポルノという今国際的に使われている名称はこれは不適切ではないのかと。実際に保護されるべき児童の虐待やあるいは性的搾取という、ここの実態を表していないのではないのかという批判がされています。既に二〇一一年の十月にそうした認識がインターポールのホームページに掲載をされておりまして、呼び方として、チャイルドアビューズ・イズ・ノット・ポルノグラフィー、ポルノではなく児童に対する虐待物と認識を一致させるべきではないかという趣旨が示されているわけです。
 本法をめぐっても、我が国でも児童性虐待描写物という表記を使ってはどうかという議論もあったように思うんですけれども、そうした考えを取らなかったというのはどうしてなんでしょうか。提案者。

衆議院議員遠山清彦君) 仁比委員にお答えを申し上げます。
 先ほども山田太郎委員から類似の御質問がございました。おっしゃるとおり、ポルノという言葉だけ考えますと、成人の場合はそれは認められているわけでございまして、それが対象が成人ではなくて児童になった場合に児童ポルノということでございますから、委員が御指摘のとおり、ポルノという言葉イコール性的虐待という含意がないのではないかという御指摘についてはそのとおりでございますし、恐らく、インターポールが、そういった意味でチャイルドポルノグラフィーという英語の中にはアビューズという、虐待という意義が必ずしも入っていないのではないかと、そういう趣旨からの御提言と私どもも理解をしております。
 他方で、今回、法律の名前を児童ポルノのまま、つまり十五年前の制定時のまま維持をするとした理由につきましては、既にこの児童買春と並びまして児童ポルノを、今回の本改正前にも提供罪等は既に処罰化の対象にしてきた、つまり犯罪化してきたわけでございまして、そういった意味で、児童ポルノという用語が、その字義の元々の意味を考えれば必ずしも虐待という意味を含んでいるとは言えなかったものの、この法律が制定されてから十五年間の間に社会で定着また浸透していく中で、今回の法律の三条の二にも明確に書かれておりますとおり、誰人も児童に対する性的搾取あるいは性的虐待に係る行為をしてはならないという精神の下にこの児童ポルノ禁止法が作られているという趣旨が社会に十分浸透しているという点に鑑みまして、実務者協議におきましても本法律の名前の変更は取らなかったと、こういうことでございます。

○仁比聡平君 今の御答弁にありますように、改正案三条の二において児童に対する性的搾取又は性的虐待に係る行為を禁ずるのだと、抑止するのだということが現行法も含めたこの法の趣旨であるということが明確にされるのだという御答弁なのであれば、今回の案ではないんですけれども、その趣旨を明確にするという法改正や、あるいは広報、周知も含めて検討をこれからすべきではないかと申し上げておきたいと思います。〔以下略〕

 

 アニメやマンガを規制しろと微塵も言っていないことはわかると思う(この質疑の後半でCGなどの話は出てくるが、それは実写をどこまで加工して曖昧にしていくかという線引きの問題)。

 仁比議員は「子供が縛られ、拘束され、殴られ、むち打たれ、又は痛みを暗示するその他の行為を受けているところを写した写真、子供を対象とした何らかの形態の性的行為に動物が関与しているところを写した写真」を例に出しているが、“そういうものは常人からすれば「性欲を刺激しない」けど明らかに「児童ポルノ(虐待された児童が写り込んだ、規制されるべき実写物)」だよね?”と問いただしているのである。

 

 今回の共産党の上記の引用政策のうち、前半部分、つまり第一段落は、児童ポルノ(もちろん実写)」という言い方は性欲を刺激するという狭い捉え方になってしまうので、「児童性虐待・性的搾取描写物」に変えろと言っているのである

 性欲を刺激するかどうか=性道徳を乱すかどうかという問題は、権力がわいせつ性を問題するから起きてくる定義の狭さであって、そういうことじゃねーんだよ、子どもの人権が侵されてるかどうかなんだよ! という立場から、この問題を結構重要な問題として共産党は提起しているのである。

 アニメやマンガという「描写物」を規制しろと言っているわけではない。

 

 …が、そんなことがわかるようには書いてない。「なんだろう?」とか「描写物ってマンガやアニメのことだろ?」とか思っても、不思議ではない。こんな雑な書き方すんじゃねえ! 選挙で躍進したくねーのかよ?

 

 しかも、そのすぐ下の段落にアニメやマンガの性描写が現実に影響を与えるという話が書いてある。しかも、政策や話題を変えた時の記号であるダッシュ(——)がない。どう考えても上の段落の続きに見える。

 これは誤解するわ

 誤解を誘導していると言ってよい。

 

後段は法的規制ではなく、社会合意=世論形成で悪影響を減らしたいということ

 そして下の段落の構成は、こうなっている。

 “アニメやマンガは基本的に虚構物だから、実在の直接の被害者はいない。だけど、「女性を性的なモノのように見ていい」みたいな影響を与えるから、率直に言って有害だと思う。だけど法的・行政的に上から表現規制すべきではないから、関係者でよく話し合って合意をつくっていきましょう”というものだ。

 これは共産党の伝統的(?)なやり方で、*1法的・行政的規制ではなく社会運動と世論形成によって、共産党として有害だと考えているものを抑えていきたいという一つの「知恵」である。

表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。

とはそういう意味だ。

 だから、同時に、このジェンダーの分野での政策と別に、文化の分野の政策のところに

児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きに反対します。

とうたっている政策とは両立するわけである。

 もしも。

 もしも共産党が、「社会合意ができたと思うので、ひどいマンガやアニメの法的規制に踏み切ります」もしくは「ひどいマンガやアニメの法的規制へ向け社会合意を目指します」と言い出したら、それは明らかに「方向転換」だと言える。しかし今回はそのような方向には言っていない。

 

 ただ、共産党としては、例えば子どもと大人がセックスするアニメやマンガは子どもの性的なモノ化を進ませる危険があると考えているのだろう。そう主張する運動家は少なくないし、なんらかの悪影響があるという点ではぼくも認めざるを得ない。しかしその影響の排除・削減を、表現の法的規制によって達成するのではなく、言論活動によって、つまり世論づくりによって達成したいというのが、表現・言論の自由を命がけで守ってきた共産党の編み出した「知恵」である。まあ、「苦肉の策」とみる人もいるだろうが、表現の自由を守りながら、高まるジェンダー平等の流れにもきちんと応えたいという、政党として節度を持ったやり方だと思える。

 

 運動団体が、ある性的な表現についての是非を言うことを問題視する意見がある。最近も話題になった。

 デリケートな問題だから単純ではない。だけど、いきなり表現の削除を求めず、自分たちとしてどういう悪影響があるかということをきちんと伝えるなら、「アリ」だとぼくは思っている。むしろ健全な言論活動だ。

 そういう社会合意をつくるのを始めよう、と共産党は言っているのだと考える。

 

それにしても叙述が乱暴すぎる

 それにしても。

 政策の叙述としては乱暴である。乱暴すぎる。

 およそ丁寧さが足りない。

 

 この政策は国連勧告が法的規制を求めていることは現状としてあげているだけで、「よく読めば」共産党としては、日本における法的規制を求めてはいない。しかし、そこはかとなく法的規制を求めているんではないのかなと思わせてしまう。

 そして、非実在である虚構物のポルノが「現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります」という書きぶりは、あんまりだと思う。

 繰り返すが、ぼくは、ポルノにそういう影響(この記述ほどはひどくはないが、女性や若い人=子どもをすぐ性的な対象としてとらえたりモノ化したりしがちであること)があることは否定しない。人ごとではなく、ぼく自身の中に侵入している観念である。だからこの政策を起草した人はそう書いたのだろう。悪い影響をなんとかしたいから、法規制に頼らないで社会合意で…と思ったに違いない。そこはわかる。

 しかし、創作物の評価を共産党が一律にこうとらえているように読めてしまう。もし本当に創作物全体をこう評価しているのだとすれば、表現に対するあまりにも貧しい捉え方だ。少なくとも表現というものを一面的に捉えているという印象は拭えない。

 子どもが性の対象として登場するポルノは全て「子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります」というのなら、なぜ「しんぶん赤旗」は『分校の人たち』で子どもたちのセックスを描きまくっていた山本直樹という素晴らしいエロ作家を一面にドーンと載せたのだろう。説明してほしい。

 この政策の書きぶりには想像や空想が人間を解放する側面、想像や空想が文化に果たす役割については一切記述はない。そこに思いを馳せた形跡もない。

 空想で人を殺したり、想像で暴力や戦争を起こしたりする物語を紡いだり、それを読んだり、そういうグラフィックを描き・見ることが、誰かを救うかもしれないことを考えてほしい。また、ヘテロセクシュアルエロマンガボーイズラブのようなマンガが、文化の壮大な揺籃の役割を果たしていることをこの政策の書き手は知らないのか。

 本気で社会合意をつくっていこうとするなら、なぜ創作物の描き手の側の気持ちを聞かないのか・書かないのか。それをまじめに文化として捉え、リスペクトした痕跡がどこにもないのだ。「ポルノ表現は子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つける悪いもの」という一面性からだけ問題に迫り、最初から反対の意見など聞かず、相手に自分の立場をできうる限り飲み込ませようというギラつきだけがひしひしと伝わる。本当の意味での社会合意をつくる気などさらさらないんだな、と思われても仕方がない。

 

 いや、そこまで言わなくてもいい。せめて。せめて、表現の価値には踏み込まずに、しかし現実の影響については心配しているという書き方ができないのか。

 デリケートな問題であるという自覚もなく、ぶっきらぼうな叙述。炎上するわ、そら。油をかけて自分から火に飛び込んでいくスタイル。

 表現の自由を傷つけるかもしれないという大きな問題だという自覚をもって、もっときちんと分量をとった政策提言としてまとめるべきだし、マンガやアニメの表現の自由という問題にも同じように分量を割くべきだろうと思う。

 

*1:例えば2003年前後に少年事件がマスコミをにぎわせたときの共産党の提言を見るといい。https://www.jcp.or.jp/web_policy/2003/09/post-202.html  ここでは「メディアやゲームの映像などにおける暴力や性のむきだしの表現が、子どもにたいして野放しにされていることにも、多くの国民が心を痛めているが、この分野の自己規律も、わが国は国際的にきわめておくれている」という認識を示しつつ(まあ、この認識の是非はあるんですけどね)、その結論は「この分野での日本社会の異常な立ち遅れを克服し、子どもの健全な成長を保障する社会の自己規律を確立することは、急務である」「社会的道義の問題は、モラルの問題という性格からいって、上からの管理、規制、統制、押しつけを強めるという立場では、解決できないどころか、有害な作用をおよぼすだけである」と述べている。

マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

才能も努力もガチャだと思う

 親ガチャが話題であるが、才能はガチャだと思う。

 本人が努力して得たものもあるだろうけど、努力できるのも才能の一つだ。ロールズの次の意見は正しい。

努力しよう、やってみよう、そして通常の意味で称賛に値する存在になろうという意欲さえ、それ自体が恵まれた家庭や社会環境に左右される

 そして、先天的なものだけに限らず、生まれてからどんな社会資源を利用できたか、利用できる環境にあったかも重要である。生まれつきと、みんなで寄ってたかってつくったものと、わずかばかりの自分の努力が「私の才能・能力」だ。

 マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んでそういう気持ちになった。

 

 

 

 いや、上に述べたことは実は、サンデルが本書で言おうとしていることの中心軸ではない。だけど、本書を読んで、改めて能力とか才能とかいうものがどのように得たのかについて考えてみるところがあった。加えて自分が得ている所得についても。

 ぼくの社会的評価というものは考えてみると微妙で、学歴に比して収入は高くない。民間の男性サラリーマンの平均年収よりはずっと低い。社会的ポジションも高いとはいえない。同窓会などに行って「ほう、いま紙屋は〇〇をやってるんだ! へえ!」と感心され、羨ましがられ、「自慢」できるようなものでもない。職業を聞けば、どちらかといえば憐れまれるだろうか。

 他方で、自分の書いた本を世に問えたことは自分にとって望外の幸せである。

 そう見たときに、ぼくは自分の能力を肯定的に評価しているのだった。

 だから「なぜ俺はこんなに能力がないのだ」という問いは立てない。「このような能力を得られたのはなぜか」と考える。そしてそれは、この本を読んで、生まれつきと、みんなで寄ってたかってつくったものと、わずかばかりの自分の努力が「私の才能・能力」だ、とやはり思ったのであった。

 自分の能力を総括し、わりと謙虚な結論を出せたことは、実は本書を読んでの一番の収穫だったかもしれない。(くりかえし念を押しておくが、別に本書の主軸はそういうところにはない。)

 

 

本書の前半

 本書は、リモート読書会で読もうということで読んだ本である。

 本書の前半は、アメリカ社会を覆う能力主義の現状や歴史が描かれる。

 アメリカでトランプを勝利させた要因の一つとして、能力主義価値観にリベラル側も乗っかってしまっていることが挙げられている。

 能力(功績)と所得は比例するかしないかといえば、サンデルは比例しないと考えているが、世の中では比例していると思われている。高所得の人は能力があり、低所得の人は能力がなかった、というふうに見られる。

 だからアメリカのリベラルは「誰でも能力を得られる機会をつくろう」といって、教育機会の均等政策に力を入れる。

 しかし、これは裏を返せば、「貧しい環境にいるあなたは能力が低かったのだ」と言われているようなものである。能力主義以前の社会、例えば貴族しか高い地位につけない時代には「私は貴族ではないから」と考えることができたが、今はそうではない。高い地位、高い所得が得られないのは「能力が低いせいだ」とレッテルを貼られてしまうし、自分でもそう思い込まされる。

 そして、能力を生み出す源泉として大学があり、学歴偏重主義の様子が描かれる。

 

本書の後半がキモ——能力主義をどう批判するか、対案をどうするか

 後半は能力主義を批判するさまざまな哲学的立場が登場する。

 ぼくは本書のキモはこちらだと思った。(そして、サンデルの主張は、他の立場と区別して理解するのが少しわかりにくいと思うので、ぼくなりの理解をここに書きながら感想を記したい。)

 能力主義が問題があるとしても、それをどの立場からどんな角度で批判し、どういう社会対案を示すのかということが問題となるからだ。それこそが解明するに値する難問である。

 能力主義の批判者として2つのリベラリズムがある。

 第一に、自由市場リベラリズムハイエクである。

 第二に、福祉国家(平等主義)リベラリズムロールズをその代表格とする。

 これらはどちらも自由主義の枠組みを使うために、何か特定の価値観をたたえて、それを優先させるようなやり方を批判する。自由主義とは多元的社会であるから、すべての価値観は平等な立場で競い合うようにすることこそが、自由主義にとっては正義の枠組みになる。

 自由市場リベラリズムは、「能力(功績)により経済的報酬を手にいれる」という考えを擁護していそうに思えるが、そうではなく、両者は何の関係もないとする。能力ではなく、ただ需要と供給で決まった価値なのだとする。能力と所得は何も関係ない、と主張することは能力主義への批判となるが、能力のある人が何かの事情で手に入れた所得や資産は需給で決まったものだとして、手をつけないのである。解釈を施すだけで、何もしない。

 他方で、福祉国家リベラリズムは、「能力(功績)により経済的報酬を手にいれる」という考えを認める。しかし、与えられた能力は生まれつきに差があるから、それを再分配によって是正する。能力主義は「機会の平等」を前提にしているものの、実は機会は平等ではない、と福祉国家リベラリズムは批判するのである。

 サンデルは、より立ち入った批判を福祉国家リベラリズムについて行う。現代のアメリカで能力主義への批判として影響を持っているのは福祉国家リベラリズムであり、オバマなどの「進歩的」立場もこの福祉国家リベラリズムに近く、トランプを支持するような層はそれを憎んでいるからである。

 サンデルの福祉国家リベラリズム批判のポイントは3箇所ある、とぼくは読んだ。

 一つは、福祉国家リベラリズムは再分配をする根拠を持たないという点だ。

 あくまでも福祉国家リベラリズムリベラリズムの仲間だから、価値が多元的である枠組みを守ろうとするからである。

福祉国家リベラリズム*1〕コミュニティがこのお金、あるいはその一部を要求する正当な道徳的権利を持つことを立証するわけではない。…福祉国家リベラリズムは、それが必要とする連帯を形づくるのにふさわしい共同体意識を生み出せない。(サンデル本書KindleNo.2915-2942)

 そして、第二点は、再分配を受ける際には、「自分では制御できない不運」に見舞われたものに対してでなければならないという主張を福祉国家リベラリズムは行うために、「選択と責任」ということを強調するようになる。

 しかし「自分では制御できない不運」が狭くとらえられてしまえば、それは日本の「自己責任」論に近くなり、「今貧困に陥っているのは努力できる条件がありながら努力しなかったせいであり、能力・功績がなかったんですね」という能力主義にあまり対抗できなくなっていってしまう。

 第三点は、福祉国家リベラリズムが前提にしている「所得の不平等は才能の結果であり、才能には運不運がある」というテーゼは、前半がおかしいとする。

 サンデルは、才能と所得は関係ない、と断言している。

金儲けでの成功は、生来の知性には──そういうものがあるとすればの話だが──ほとんど関係がない(サンデルKindleNo.3391-3392)

 今べらぼうに金を儲けているような奴らに追いつこうとして教育の機会均等に力を入れて、それでできるというのか? ヘッジファンド・マネージャーと高校教師は知性の先天性とは何も関係ないぜ、というわけである。

 

 

サンデルのリベラリズム批判

 こうしたリベラリズムに対して、サンデルはどういう立場をとるのか。

 サンデルは、才能がガチャであることは認める。福祉国家リベラリズムと同じように能力主義的なヒエラルキーの支配には反対しているが能力を発揮させることには賛成している。しかし、才能=所得とは思っていないので、才能・能力・功績を個人が成し遂げられるような措置にはあまり関心を払わない。大学が過度の選別装置になることについては、さすがに大学解体は唱えないが、過度の意味づけを解体させるような緩和策=ある条件のもとでのくじ引きを提案する。

 サンデルが一番関心を持っているのは、エッセンシャルワークのような労働をしている人がコミュニティに不可欠の貢献をしている価値を認められるような仕組みづくりである。「エッセンシャルワークのような労働をしている人がコミュニティに不可欠の貢献をしている価値」はまさに、コミュニティが共通して持つべき善=共通善である。この枠組みを提出することは、「どの価値も優遇してはならない」という多元主義という「正義」の枠組みを絶対にしているリベラリズムにはできないことである。

 サンデルの提示する具体策は2つである。

 一つは、低賃金労働者への賃金補助である。コロナはエッセンシャルワーカーこそが低賃金であることを可視化した。コミュニティへの貢献を称揚していることを政策で示せというわけである。

 もう一つは、課税の重点を労働から、消費・金融取引(投機)に移すことである。社会のメッセージとして、労働を重視し、消費や金融はあまり役に立っていない、と発信しろということである。

 

ぼくのサンデル評価(1):教育の役割の意義と限界

 ぼくはどう思ったか。

 冒頭にも述べたように、才能はガチャだと強く思った。自分で達成できる部分の方が小さい。社会の力を得て形成された自分が持っている能力や才能は、「本当の自分のものではない」などと萎縮する必要は毫もなく、存分に発揮すればいい。しかし、その能力や才能は、自分個人の功績であるから誇りに思うのではなく、親・周囲・社会の力で得られた能力や才能で、何かしら社会に貢献できたことに満足を覚えるべきであろう。何かにたとえて言えば、他人の荷物を運ぶために、誰かから借りた自動車で、予定より早く目的地に着けて、誰かの役に立てたようなものだ。

 

 斗比主閲子が親ガチャについて記事を書いていて、その中でやはり才能や能力の問題に話が及び、

努力を過信しすぎです。

と言っていたが、まあそうだよなとぼくも思う。

topisyu.hatenablog.com

 多分、斗比主閲子以上に強く思っている。

 

 社会の力で得た才能や能力を使って、個人の資産(だけ)を増やしたり、社会に役だたぬ個人の趣味(だけ)を実現したりすることは、恥ずかしいものだ・悪いことだとまでは思わなくていいだろうが、積極的に自慢すべきことではない。あくまで個人のお楽しみ、という話なだけである。

 他方で、才能・能力と所得の結びつきは、完全にはないけども、一定あるという点は踏まえたい。ヘッジファンドのマネージャーと高校教師という対比では確かにサンデルの言うように才能・能力と所得の結びつきはあまりあるまい。しかし、例えば中卒の人と、医者になった人では、能力が所得の差になって現れることは疑いないだろう。

 最近、ぼくは、議員の生活相談に関わる機会を持った。生育環境のために高校を卒業できなかった人が中年になってから生活保護を受けたのだが、保護を終わらせる自立するために、高卒の資格が必要な、ある福祉資格を得たいと考えた。そこで通信制高校を短期で卒業したいとケースワーカーに相談したのだが、にべもなく断られ、「働け」と指導されたという。福祉事務所も、最終的に法律解釈として“中年になってからの高校進学はダメ”と結論づけた。一般的な話としてもひどい話だなとぼくは思ったのだが、実はその人が保護を受ける前に働いてきた職業と、その福祉資格は非常に近いもので、このケースについていえば、いよいよ高卒の資格を得させるために保護が活用されるべきだと言う強い実感を持った。本当に恒常的な自立のための手立てには保護費を使わせず、アルバイトでもなんでもいいから働けと急かして保護費をケチるという、保護行政の一番悪いところが現れたなと思った。

 そういう人にとって、「能力」と「所得」は切実に結びついている。この人は高校卒業という学歴を得ることこそ必要なことだ。

 だから、ここではサンデルにはぼくは同意しない。

 もちろん、教育に過度な期待をしすぎる昨今の貧困対策の罠には陥りたくない。福岡市の子どもの貧困対策は「学習支援」がトップにきて、高校進学率をまず問題にする。

https://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/75159/1/dai5jikeikaku_mokuhyou3.pdf?20200419175908

 大きな貧困対策の中で、教育の占める位置は、ざっくり言ってしまえば、大事なものだが、部分的なものでしかない大きな貧困対策の中で、教育の占める位置は、ざっくり言ってしまえば、大事なものだが、部分的なものでしかない。

 そのことは前に書いたことがある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 そういう意味では、サンデルに賛成する。

 

ぼくのサンデルの評価(2):学校群制度で感じた「くじ引き」の力

 大学を過度の選別装置にしないために、一定の試験条件をクリアした人についてはあとはくじ引きにしたらどうか、というサンデルの案は面白いと思う。

 何を隠そう、ぼくの行った高校は学校群制度のもとにあった。偏差値ヒエラルキーを緩和するために、高校を複数でセットにして「学校群」にして、受験生は「学校群」を受験し、くじ引きで振り分けられるのである。したがって、ぼくは「くじ引き」で自分の行く高校を決められた。もちろん「不本意」な方に行かされることになったのだが(笑)。

 今この学校群制度は無くなった。有名校進学者の数だけを競う視点からは「失敗」だったのだろうが、学校間格差を緩和する上では役に立ったのではないかと実感する。

 もちろん、これはサンデルの提唱している制度とは違う。

 しかし、「くじ引き」で学校が決まる感覚は、面白いまでに学校のブランド力を消してしまった。ぼくが行っていたA高校は当時学校群を組んでいたB高校と「同じ」という感覚が強くあった(学校群がなくなった今では受験ランク上、A高校は「凋落」し、B高校は圧倒的なブランドを誇っている)。だから、たぶんサンデルの言うようなくじを入れたら、ハーバード大であっても、「ああ、くじね…」という感覚が付きまとうようになるし、行けなかったとしても「くじに落ちただけだもんな」という感覚が生じるだろうと、予感できるのだ。

 だから、ぼくはサンデルのこの大学受験改革は面白いんじゃないかと思う(実際の是非は制度導入する際に詳細が加わり、それによって検証されるだろうが)。あくまで「多少の緩和」程度のものであるが。

 

ぼくのサンデル評価(3):根本的には共産主義の方がよくね?

 さて、最後に、サンデルの根本的な改革案である賃金補助と消費・金融課税強化について。

 賃金補助については、日本では、例えば保育士・看護師・介護職員・福祉施設職員・スクールソーシャルワーカーのようなものは公定の単価が決められており、政治がコントロールしやすい。医療・教育・福祉に従事する人たちは「エッセンシャル」でありなおかつ「専門性」を有しているから賃上げの根拠とされている。

 他方で、スーパーの店員とか清掃とか配達員のような仕事は「エッセンシャル」といえるが「専門性」がある仕事だとはなかなか言いにくい。例えば、公契約法・公契約条例のようなもので、行政が発注する仕事に関わる人の賃金を保障するという政策があるので、それによって賃上げを図ってはどうかと一瞬思ったが、それは「公的に発注する仕事でワープアをつくってはならない」というメッセージであって、サンデルの言っていることとは少し違う。サンデルは、共同体にとって不可欠の仕事だと評価して、職種は広くなり、膨大になるだろうが、そこは思い切って補助をすべきだという提言をしているのだから。

 サンデルのような政策をすることで、「政治は〇〇という職を社会に不可欠のものとして評価している」というメッセージを出すことになるから、例えばそこにスーパーのレジ打ちの仕事が入ってこなかったら「レジ打ちはエッセンシャルなのかそうでないのか」という議論が起きることになり、その議論が起きること自体が、世の中に「レジ打ちはエッセンシャルかどうか」を考えさせる契機となる。

 

 課税の方はどうか。

 これは考え方としてはあまり賛同できない。

 労働よりも投機に重く課税すべきだという点は賛成できる。他方で、消費と労働(生産)を対立させて消費に課税すべきだというのは、「消費税は逆進性云々」の話は措くとしても、あまりに労働を称揚しすぎるきらいがある。

 マルクス主義者でもあるポール・ラファルグが言うところの「怠ける権利」を否定することになるからだ。

自然の本能に復し、ブルジョワ革命の屁理屈屋が捏ねあげた、肺病やみの人間の権利などより何千倍も高貴で神聖な、怠ける権利を宣言しなければならぬ。一日三時間しか働かず、残りの昼夜は旨いものを食べ、怠けて暮らすように努めねばならない。(ポール・ラファルグ『怠ける権利』KindleNo.355-357) 

 

 サンデルの言いたいことは、「低賃金であっても社会に不可欠の労働をしているその尊厳を誰がどういう形で承認してくれるのか?」ということだろう。それを承認せず、能力がないんですね、もっと所得が欲しければ能力を身につけましょう、という能力主義の論理はトランプを招いてしまうよとサンデルは特にリベラル派に言いたかったのだろう。

 当面の政策としては、確かにサンデルの言うような賃金補助はあり得るだろうと思った。しかし、もっと根本的な考えがある。

 共産主義となり、経済が利潤のためではなく国民の必要のために使われるようになれば、ベーシックインカムなりベーシックサービスが提供され、すべての人に健康で文化的な最低限度の生活が保障される。加えて、共産主義によって労働時間の抜本的短縮による自由時間の創出が行われる。そうなると、低賃金だから尊厳がないとか、収入があるから尊厳があるとかいう感覚が乏しくなり、そのような議論自体が不要になるのではなかろうか。才能がもっと伸ばしたい人は社会資源を使って伸ばせばいいし、不要だと思う人は伸ばさなくていい。怠ける権利もある。

 結局コミュニタリアニズムを乗り越えるのはコミュニズムしかない。

 

平野啓一郎とサンデルの対談

 平野啓一郎とサンデルが対談している。本書のエッセンスを要約したものだと言える。

 例えばサンデルは本書で能力主義の積極的役割もきちんと論じているが、その立場は対談でもきちんと述べられている(平野も)。

 しかし、本書と比較すると、理解するのが難しいリベラリズム批判の部分はあまり論じられていない。

 能力主義の話の後は、リベラリズム批判の部分を飛ばして、サンデルの解決策の部分、すなわち大学改革におけるくじの導入、課税の重点について議論される。

 平野が最後に、労働者としての評価の比重をむしろ低下させるべきだと言っており、労働以外の趣味の世界などので評価がされるような社会のほうがいいのではと述べている。そして、サンデルもそこに賛意を表明している。コミュニティへの無償の奉仕などの評価がされるべきだという話だ(日本で言えばボランティア活動のようなもの)。

 

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*1:引用者注。

鈴木望『青に、ふれる。』4

 鈴木望『青に、ふれる。』は顔に大きなアザがある女子生徒(高校生)・瑠璃子と、相貌失認という表情の識別や個人の識別に障害を抱える男性教師・神田とのラブストーリー…のようなそうでないような話である。

 

 主人公の瑠璃子をはじめ、登場人物がネガティブに起きる事態を受容したり批判したりするくだりがややポリティカル・コレクトネス的な意味で「説明的」である(つまり「いい子ちゃん」的な)ような気がしていたのだが、4巻まで読み進めてきてみて、むしろ思い切ってそっちに振り切れており、それはそれで学ぶものも多いなと思い直して読者として付き合っている最中の作品である。

 例えば4巻。

 

 修学旅行に来ている瑠璃子たちは宿で女子トークになる。

 そのとき、先生が言った「悪気のない一言」についての話になる。

  • スッピンがいい、という言葉がメイクの否定に聞こえる。
  • 美人の先生が「素敵」「かなわない」というのは上から目線に聞こえる。

 瑠璃子がいう。

相手がポジティブな意味で言ってくれたのに自分がネガティブに捉えちゃうことってあるよね

 そのとき、気持ちをどう対処すればいいのか。

 顔にアザがあるという瑠璃子はそうしたケースに遭遇することが実に多い。だからそんなときの対処法について次のようにいう。

でもそんな自分を責めたりしないで イラっとしたとか モヤっとしたとか 自分の感情をまずは大事にする…でいいんじゃないかな

 ぼくは、これを聞いたときは「ええ〜? そうかなあ〜?」と思ってしまった。

 それだと自分を客観視できなくて、自分の感情の奴隷になってしまうんじゃないの? と思ったからである。

 だけど、瑠璃子は本当にいろんなことを小さい時から言われる。その例がマンガには

書かれている。

  • 女の子なのにかわいそうにね
  • どうしてレーザー治療しないの
  • 堂々としてえらいね
  • 大事なのは笑顔
  • 内面を磨く努力!!

などである。

 うん…こうして書かれると、「相手の意図を尊重する」を優先しすぎて自分の感情を抑圧してしまうといちいち振り回される気がする。本気で疲弊しそう。

 ゆえに瑠璃子はこういう考えを持つに至る。

どう受け取るか あたしが決めていいんだって ずっと自分に言い聞かせてきた…のかも

 

 しかし、これは瑠璃子の身の処し方、考え方であるように思われる。

 言った側の「そんなつもりで言ったんじゃなかったんだけど…」という問題は残る。

 白河という女性教師は、瑠璃子を評価する言葉を同僚の神田に言おうとして、「アザがあるのに」「普通に友達が多い」「でも良かった」などのワードを入れてしまい、疑問を抱かれてしまう。

 白河は素直な言葉、しかも前向きな評価の言葉を口に出しているつもりなのに、なんとなく妙な特別視をしたり、場合によっては差別的とも取れるニュアンスを生んでしまう。そのために白河は瑠璃子についての評価の言葉が紡げなくなってしまうのである。

 そしてその話を瑠璃子(青山瑠璃子)本人に伝える際に、

今まで周りに青山さんみたいな人いなかったからどうしたらいいのか…

とつぶやくのだが、言ったそばから白河は

あ 青山さんみたいな人って…

と自分の発言が瑠璃子をまたしても、奇妙な取り扱いをしているのではないかと不安になる。しかし、瑠璃子はすぐに伝える。

大丈夫です わかってます 答えてくれたことも嬉しいし 伝えてくれてありがとう…って思います

 つまりコミュニケーションしか解決策はない、ということである。

 瑠璃子が空気を読んで自分の感情を抑えていたことについてそれは孤独に陥ってくる罠であることに気づき、まずは自分が何を感じているかを自分に伝えてあげようというトレーニングをしているのだと白河に伝える。その際、白河は、

青山さんは 

強いね!

と満面の笑顔で悪気なく言う。しかし、瑠璃子はすかさず

あたし “強い”って言われるの嫌です

と述べ、白河が褒め言葉を述べてくれたことを了解していると言いつつ、自分のモヤりを素直に伝えたのである。

 白河はすぐにその意図に気づき、「あっ」と声をあげ、

伝えてくれてありがとう

と答えた。瑠璃子はうまく伝わったと明るい表情をする。

 

 面倒くせえな、と正直に言えば思う。

 リアルな自分の近所・職場を思い浮かべて「今の発言、ぼく的にはモヤりましたよ」と伝えてもトラブルの種になるだけじゃないのか? とは思う。

 また、ネット社会を見ていると、誰かのツイートとかに、「自分の素直な気持ち」を即レスしてしまうことが何かプラスになるようにも思えない。

 だけど、たぶん瑠璃子が言っているのはもう少しダメージの大きい発言についてなんだろうと思うし、ネットのような顔も見えないし、信頼関係もないような関係を想定して瑠璃子はモノを言ってるんじゃないよな、とも思う。

 これだけ感情を表現することが微細な領域まで発達している世の中では、コミュニケーションにはコストがかからざるを得ない。そう言えばネガティブに聞こえるだろうが、丁寧にコミュニケーションをすれば相応の相互理解を得られる、ということに他ならない。

 

 この問題は、ヤマシタトモコ『違国日記』8でも取りざたされていた。

 

 

 親を失った高校生(女子)・朝の親友・えみりは女性である。えみりには同性の恋人がいる。それを初めて朝に打ち明ける。えみりは、朝が行ったことも含めてこれまで自分が言われてきて傷ついたことを思い出す。

 それについて、朝は何か反論しようとするが、やめる。そしてこうつぶやく。

えみりが何で傷つくかは……

…えみりが決めるんだ

…あたしじゃなくて

 えみりは傷ついたことを伝えざるを得ない。えみりが「えみり」になるために。

 えみりは、顔を手で覆いながらつぶやく。

…あたしはただ

あたしでいたい

なりたいあたしに

なりたいだけ……

 いろいろあっても、これがフェミニズムの原点であり、そのための障害物と闘争としようという思想なのだろうとぼくは理解している。

 だけど、傷ついた自分がいて、人としての尊厳が侵されている、つまり人権が侵害されていると感じたとして、世の中ではそのすべてが自明なこととして通用するわけではない。こうかくと語弊がある。その8割くらいはたぶんまっとうな主張なんだろう。だけど2割は自明ではない。行き過ぎだったり、他の人の権利を今度は押さえつけたりする。

 だから、ぼくらが暮らす生活圏においてはコミュニケーションが必要になってくる。

 不快さを伝え、相手と議論する。相手が納得する。もしくは譲歩する。あるいは相手は折れなくても、意思を伝えたことで尊厳を守る。ないしは、自分の主張の「横柄さ」を知るときもあろう。

 だが、まずは言葉に出してコミュニケーションをしろ、というのは、やはり正しい。少なくとも生活圏においては

 

 しかし、広い社会に漕ぎ出してみれば、どうだろうか。

 「マイクロアグレッション」のようなことに、違和感や不快感を抱いたら、声を上げるべきだ、という考えはあろう。そして、基本的にぼくは、例えば女性が生きていく上での違和感や不快感は表現すべきだと思っている。

 例えば「性的に見られることの不快感」については、ずっと前からそういう意見をぼくは知らなかったわけではない。だけど、それほど過大視してこなかったから、ここ数年で大きな声としてネットや一般社会であげられるようになって、自分の過去の言動も含めて、相当な不快感を与えていたし、自分にはそういう自覚が薄かったなとは思った。

 ただ、次に、そこから進んで「保護されるべき人権・法益」のようなものとして、表現を規制したりするところまでいくのには、少なくとも現時点ではぼくは同意しない。

 「マイクロアグレッション」という言葉を使うとき、問題を提起し運動を起こす側としては「問題の所在」を明らかにする上ではとても便利な概念だとは思うのだが、そこから直ちに問題を提起した側の提起が正当化されて法律で保護されるべき利益になるわけではない。例えば「この表現は女性の尊厳を貶めるものであり、女性の人権を侵害する表現だから、この表現は撤回されるべきだ」というふうに。

 

 広い社会でコミュニケーションを取り合って相互理解に達するのは相当な困難があるから(あきらめるべきではないとは思うが)、表現や言論の自由を前提に棲み分けるしかない。*1

 

 具体的にはどうするのか。広い社会において、例えば「女性を性的な対象とだけ見るような表現は不快である」ということを、表現の規制によらずに、粘り強く伝え続ける・声をあげ続けるというのは、意味があるということだ。そういう中で人々の意識が変わってくるからであり、それが「表現の自由市場」の大切さなのだ。

 

 

 

 

*1:ゾーニングしろという意味ではない。

井上圭壯・藤原正範『日本社会福祉史』

 「○○主義について話してほしい」という珍しい依頼を若い人たちから受けた。

 資本主義とか社会主義とか科学的社会主義とか新自由主義とか、「主義」ばっかりいっぱい出てきてよくわからない、というわけである。

 ただ、よく意図を聞いてみると、基本的には資本主義と社会主義の違いがよくわからないということなので、資本主義の中に新しい社会=社会主義の萌芽が育っていく、その萌芽を見つけて育てる(社会の発展法則を見つけてそれを促進する)のが科学的社会主義である、ということを話そうと思い、資本主義の中に生まれる社会主義の芽について話そうと思った。

  • 社会保障制度
  • 労働時間の短縮
  • 経済の合理的規制

の3つが特にそうだ、というのがぼくの話の核心。

 資本主義と社会主義を全く別物だと感じている人が多かった。

 しかし今取り組んでいるいろんな運動は未来の社会のパーツを作っているようなものなのだ。そこを実感してほしかった。

 この核心は伝わったようで、学習会そのものは大変好評だった。とにかくわかりやすく最初に20分だけ話して、あとは質問を受け付けて答えるようにした。

 それでその学習会の準備のために、資本主義日本の中で社会保障がどう育ってきたかを自分なりに整理しようと思い、何冊か本を読んだ。もちろんそういうことを学習会でそのまま話すわけではない。実際この本で学んだことはほとんど学習会の中では話さなかったが、自分なりに問題を整理する上で役立ったので、メモとしてここに書いておく。

 主に、井上圭壯・藤原正範『日本社会福祉史』(勁草書房)のノートのようなものである。

 

 

 

明治初期の慈善事業

この時期は、明治初期の近代国家の形成期から明治20年代の産業革命期頃までの時期に当たる。「慈恵慈善事業」と呼ぶこともある。生活困窮者は、家族や親族、近隣や地域社会の自助努力や相互扶助によって救済すべきであること、救貧制度は国家の社会的責任において行う性格のものではなく、富裕層や篤志家等による慈恵的な事業である、などが強調された。(p.1)

 「生活困窮者は、家族や親族、近隣や地域社会の自助努力や相互扶助によって救済すべき」って、自民党の政治家の頭の中はこの頃のままなんか…。

 1874年に「恤救(じゅっきゅう)規則」が制定される。幕府・諸藩の慈恵策を天皇制国家が再編したもので1931(昭和6)年まで「わが国の唯一の公的扶助法として存続した」(p.2)。「恤」とは「あわれむこと」。

一、極貧の者独身にて廃疾に罹り産業を営む能はさる者

一、同独身にて七十年以上の者重病或は老衰して産業を営む能はさる者

一、同独身にて廃疾に罹り産業を営む能はさる者

一、同独身にて十三年以下の者

 給与米の給付による救済。救済率は1911年で0.05パーミル(救済人員で2718人)。今の生活保護の受給率は1.64パーセントだから16.4パーミル。328倍。

 地租改正やったり伊藤博文が初代首相になったりと、まだ近代的な中央集権国家を作っている最中だな。

 

産業革命期の慈善事業

明治20年代は、わが国の産業革命期に当たる。国の社会福祉に対する消極的な姿勢から、1890年12月の第1回帝国議会に、「恤救規則」に代わる救貧法案として「窮民救助法」案が提出されたものの立法化までには至らず、公的救済政策は「恤救規則」体制が続いた。この時期の特徴として、宗教家や篤志家による民間の慈善事業が児童施設を中心に広がったことが挙げられる。(p.3)

 国家による救済制度をつくろうとして失敗し、引き続き、ごくごくごくごく一部の人しか救済しない「恤救規則」での「救済」が続いたということだ。事実上、何もやっていないと言える。

 この時期は、日清・日露戦争の頃まで。都市では資本主義化が進み、農村では寄生地主制が確立。都市でのスラムの出現と、農村の窮乏化。横山源之助『日本之下層社会』もこの頃(1899年)。

 ただし、日清・日露戦争があったので軍人には「下士兵卒家族救助令」が出て、出征軍人に限り国の公的扶助が義務付けられた。

 

明治末期の感化救済事業

この時期は、日露戦争後の1905年頃から、1920年頃に成立する社会事業までの間である。明治末期、政府は、高まる社会問題や社会運動に対応するために、天皇制国家体制を強化し地域の再編によって乗り切ろうとした。感化救済事業に、社会運動の防波堤の役割を期待し、善良な国民づくりのための感化訓育を測ろうとした。それまでの民間の慈善事業は次第に国家の統制のもとに組み込まれ、国の救貧行政を代替した。(p.4)

 日露戦争で大量の死傷者も出て、いよいよ貧困は大きな社会問題となり、社会運動が起きてくるんだが、大逆事件(1911年)のように弾圧をもって迎えるわけだ。で、民間にあった慈善事業とかを国家の影響下において「感化」事業にする。現在の更生事業ではあるが名前からして、非行するような奴らの思想を直そうという姿勢が前面に出ている。「正しい」道に導き、それを慈善事業やボランティアでの助け合いでなんとかしようとしたわけだな。思想教育+地域の助け合い。

 

1908年、政府は「国費救助ノ濫費矯正方ノ件」と題する内務省地方局長通帳を発したが、貧困や社会問題に対し社会的原因を認めず、救貧政策において国費救助を抑制しようとするもので、公的救済の放棄を意味した。代わって、「隣保相扶ノ情誼」を強め、共同体での相互扶助と地方自治体に救貧責任を転嫁した。(p.5)

 うぉーい! これもどっかで見た光景だわ!

 「そいつの性根を直して、助け合わせればなんとなる!」っていうのは、日本のブルジョアジーに抜きがたい発想なのだなあ。

 

大正期の社会事業

1920年頃から社会事業の名称が一般に用いられた。1918年の米騒動は、わが国の初めての本格的な民衆運動となったばかりか、原敬内閣を成立させ、それまでの専制政治に代わって政党政治が始まるきっかけをつくった。国民は民主主義と生存権への願いを強めた。社会福祉の思想においても公的扶助義務の考えが現れた。すなわち、貧困問題を個人の責任に帰することだけではなく「社会貧」と見て。その解決には「社会的連帯責任」の必要性を認識するに至った(『社会事業』第5巻第1号、1921年)。これまでにはなかった「社会改良」「労使協調」などをうたった新しい社会事業が展開された。(p.5-6)

 やっと…。そして、米騒動という民衆運動が事態を動かしていることがわかる。

 「社会的連帯責任」というのとさっきあげた「隣保相扶ノ情誼」=「助け合い」は似ていると思うのだが、前者は貧困の責任が社会にあることを見て、その流れで社会連帯を説くのに対して、後者は徹頭徹尾自己責任のもとにあり、思想を善導するという中での助け合いなのであろう。いわばベースは「愛」=慈善である。

 この時期はいろいろ前進面が多い。

(1)工場法(1916年)

 弱点はあるけども、初めての労働者保護法である。

(2)社会事業その1:経済保護事業

 なんのことかわからないと思うけど、都市の貧困層の生活困難への対策である。具体的には公設市場、公益質屋、公営住宅だ。

 公営住宅はわかる。

 「公設市場」って何か。「食料品や日用品を廉価に供給することを目的とした施設」(p.66)。米騒動で価格が釣り上げられたことが強く意識されている。ぼくの学生時代に、京都で大学の近くに「公設市場」があった(どうも2006年に市の条例が廃止されているようだ)。

 「公益質屋」ってなんだろう。「社会福祉事業の一環として設置される非営利的な庶民金融機関。私営質屋と比較すると、低利率であること、流質期限が長いこと、公売剰余金の返還など、質置主本位の制度となっている」(小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』)。2000年に公益質屋法は廃止されている。

 このほか、失業保護として、職業紹介事業、公共土木事業が生まれた。はあ、なるほど。この頃に生まれた事業なのか。

(3)社会事業その2:乳幼児・児童・母子保健事業

 今の事業はわかるけど、この本では当時(大正期)どんな事業をやっていたのかは詳述されていない。

(4)社会事業その3:国民一般を対象とした医療保護事業

 これも大正期の記述としてはあまり他に詳しく書かれていない。

(5)方面委員制度

 「この制度は、知事が地域に住む民間の篤志家等に、その地域住民の救貧活動を委嘱するというもので、今日の民生・児童委員制度の源となった」(p.6)。「この時期に誕生した方面委員制度は特筆される」「個人の生活援助を内容とする社会事業の推進において地域委員の役割は大きいものであった」(同前)とあるように当時としては非常に重要な役割を担ったのであろう。

 やはり「地域に住む民間の篤志家等」=地元の名士に頼むのが民生委員の源流であったから、一種の名誉職的な意味がもともとあったわけだ。「顔役が面倒を見る」という感じの制度で、まあ、原始的な福祉としては機能したけど、このフレームでは今日厳しいよなと思う。あくまでも相互扶助的なもの。

 しかし、この制度の積極面がこの本では大きく評価され、行政と連携して救護される人の調査と救済方法の探求を一生懸命やっているという実をあげている。

方面委員は行政の事業を肩代わりする役割を担ったが、地域の相談活動も展開した。(p.7)

 

昭和恐慌期の社会事業

 昭和の初め(1927年頃)〜1937年頃。昭和恐慌、満州事変、日中戦争という時期。

 小作争議が高まり、無産者診療所、無産託児所なども開かれたが、弾圧。

 「恤救規則」では貧困層を全く救えずにこの体制が破綻。

 内務省の諮問機関が、対象を広げ、国・地方公共団体の公的扶助義務を明確にした「救護法」を答申するが、実現が頓挫しかかる。

1930年、全国の方面委員らが中心となって実施期成同盟会が結成され、議会への実施要望の陳情などの活動を展開し、天皇への上奏までを決意した。その甲斐もあって1932年1月から実施された。…地域において直接生活困窮者と接していた方面委員が組織的に活動を継続し、ついに政府を動かしたことは画期的なことであった。(p.8-9)

 救護人員は1931年で1.8万人、1936年には22.5万人に達した。

しかし、前年の1935年、方面委員が援助対象者として登録した数は206万人であったので、救護を必要とした人の1割しか適用を受けられなかった。(p.9)

 今生活保護は200万人だから、その10分の1。それでも「恤救」制度に比べれば大前進だなあと思う。間接的には労働運動・農民運動、そして直接的には方面委員の陳情が政府を動かした。戦前においても声をあげることで政治が変わる。

「救護法」が定めた日救護者は、「一、六十五歳以上ノ老衰者、二、十三歳以下ノ幼者、三、妊産婦、四、不具廃疾、疾病、傷痍其ノ他生活スルコト能ハザルトキ」は、本法によって救護する(第1条)としている。労働能力のある者は救貧制度より除外した。また、被救護者は選挙権が停止された。救護の種類を「生活扶助、医療、助産、生業扶助」まで拡大し、救護費は市町村の負担とし国庫が「二分ノ一以内」を補助することを定めた。(p.9)

 選挙権停止! まさに二級市民扱い…。

 しかし、こういうひどい中身を持ちながらも、歴史はまだら模様のようになって、あるいはジグザグに、時にはトンボ返りしながら前進する。そのことを如実に示すのは、次の日中戦争、太平洋戦争期になり、国民を戦争に総動員する体制の中で、逆に戦時厚生事業が整備されるという事実だ。

 

日中・太平洋戦争期の戦時厚生事業

1938年4月には「国家総動員法」が公布され、あらゆる国民生活は戦時体制へ組み込まれた。1938年7月から「社会事業法」が施行され、私設社会事業に対する公的な補助が制度化された。そこでは、私設社会事業の範囲を定め、政府が予算の許す限り補助することができることなどを規定した。「救護法」の委託施設になった場合、委託費の需給によって事業費の負担軽減にはなったものの分配額はわずかで実効性が乏しかった。同年には「国民健康保険法」も制定され、「健康保険法」の対象にならない国民を対象とした。皮肉にも、戦時下の社会事業は限定主義、劣等処遇をこえて普遍主義を採ることとなった。(p.10)

 優秀な兵士を確保し、人的資源を保護育成しようとする政府の意図が、国民皆保険社会保障整備の核をつくっていく。

 しかし「だから戦争は社会を発展させる」と結論づけるのは早計で、「予算制約をせずに強力に推進すれば社会は発展する」というのが正解である(「戦争は科学技術を発展させる」という誤りも同じ)。

 

 

 

 

 

「やってる」感だけの空手形

 …っていうタイトルのエッセイを「日本とコリア」第252号(2021年10月1日号、日本コリア協会・福岡発行)に掲載していただきました(「これでいいのかニッポン!」というコーナーです)。

 日本政府は2050年までに温室効果ガス排出実質ゼロを打ち出していますが、福岡市はそれより10年早く2040年ゼロを打ち出しています。

 これは画期的なことだと思うんです。

 問題は中身ですよね。

 本当にやれるの? やる気があるの?

 …というのを、書いています。

 中身はぜひ同号を読んでほしいんですが、関連してお知らせしておきますと、同じく福岡市の気候危機への対応問題で、堀内徹夫市議(共産党)が10月6日の午後1時50分から決算特別委員会総会で質問を行います。堀内市議によると新事実をもとに追及するということであり、どういうやりとりになるか、大変楽しみです。

 

 このハナシ、別の角度からいうと、自治体は「計画」をまじめにやっているのか? という問題なのです。

 自治体は、市政運営の基本を長期の視点で定める「総合計画」をはじめ、たくさんの計画を策定します。

 今回問題にした気候危機打開は、福岡市では「福岡市地球温暖化対策実行計画」というものに定められています。

 しかし、これはとてもいい加減で、今の計画は2016年に策定されていますが、それ以前の計画では福岡市で温室効果ガスを総量でいくら削減するのかさえ決めていませんでした。2016年の計画でようやく総量でどれだけを規制するのかという目標値が入ったのです。しかしそれとて、2030年度に2013年度比で28%削減、2050年度に80%削減というものでした。

 

 さらに問題なのは、目標を定めても、それを本気でやれる仕掛けになっているのだろうかという問題があります。

 この「福岡市地球温暖化対策実行計画」というのは、「福岡市環境基本計画」の部門計画、つまり下のクラスの計画でしかありません。

 じゃあ「福岡市環境基本計画」というのは最高の計画なのかといえば、これまた「福岡市基本計画」という計画の環境パートという位置付けでしかありません。下請けの下請け、みたいな感じです。

 

 気候危機対策、とりわけ温室効果ガス排出実質ゼロなんていう目標の達成は、正直生半可な決意ではできません。生活・経済全般にわたる社会システムの大改革が必要です。おおごとなわけです。2050年の達成だってなかなか厳しい。それなのに、福岡市はそれを国よりも10年早くやろうというのです。

 野心的なのは結構ですが、実際の手立てが伴わなければ何の意味もありません。

 グレタ・トゥンベリに「なんだかんだ言っているだけで何もしていない」「空虚な言葉や約束は沈黙より悪い」って言われても仕方がないのです。

www.youtube.com

 開発計画や交通計画、経済政策が変わらなければ、しかも大きく変わらなければ、およそ達成などできません。

 「達成できる」と高島宗一郎・福岡市長はおっしゃるかも知れませんが、それならそれでいいんです。達成できるという根拠や数字を市民の前に出していただき、あまたある福岡市の計画・施策すべてを、「2040年排出ゼロ」と整合的なものにできるのであれば。

 このあたりが堀内市議の質問で暴かれると思います。

 

 斎藤幸平じゃありませんが、「福岡市地球温暖化対策実行計画」って、もし本気でやろうと思ったら、それ1本だけで社会を全分野にわたって大改革する政権、ひょっとしたら社会主義政権ができてしまうんじゃないかっていうくらいスゴイものだと思います。あくまで本気やろうとしたら、ですけど。

 「温暖化対策実行計画」だけじゃありません。

 例えば、子どもの貧困対策法に基づいて市町村は「子どもの貧困対策計画」っていうのを策定することになっています(努力義務)。

www8.cao.go.jp

 

 もし本当に子どもの貧困をなくす、いや一定の削減をするための目標を掲げ、そのための施策をやったとしましょう。そうなると、地域経済全体を底上げしつつ、実際に家計への所得が増え、しかも低所得層に回るように政策を取らねばなりません。加えて、現金などの直接支援が抜本的に増やされる必要があります。実際に貧困を削減する相当大胆な社会改革となるでしょう。

 しかし実際には、「学習支援をします」「朝ごはんを提供するNPOを支援します」程度のものだけでお茶を濁されることが多いのです(いや、それ自体は大事ですよ。それしか行わないという政策レベルを問題にしています)。

 

 こんなふうに、「計画」の目標を真剣に考え、市民とともに策定し、その達成に本気で、まじめに取り組めば、実はものすごい成果が得られるはずなのですが、おおもとの国政自体がそのような構えをとっていません。その流れを受けるほとんどの自治体で、同じように“諸計画を本気でやらない病”が蔓延しているのです。

 

 「月刊ガバナンス」2021年10月号は、「コロナ禍の自治体計画」を特集しています。

 

 ここで今井照・地方自治総合研究所主任研究員が紹介していますが、自治体が策定する計画が激増しています。これは近年、福田紀彦・川崎市長が「問題」にし、国へ要望書をあげています。

https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/151337/08-kawasaki3.pdf

 

 下記は今井の論文にある表です。その増加ぶりはわかると思います。

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今井照「国法による自治体計画策定要請の現状と対処法」/「月刊ガバナンス」N0.246所収、ぎょうせい

 今井は

計画策定要請が唐突に「降ってきた」ら、できるだけ手を抜くことも選択肢としてありうる。(p.19)

と露骨に言っています。現状の枠内で考えればそうなってしまうんでしょうね。

 

 同じ号で、高崎経済大学教授の佐藤徹は「行政計画あるある」という3つの特徴を書いています。これ、けっこう「あるある」なんですよね。

第1に、総じて行政計画の参照頻度はさほど高くはない。自治体では「計画のインフレ」状態にあると言われるほど、実に多種多様な行政計画があふれている。〔…中略…〕策定後は時間の計画とともに計画の存在感が希薄になっていく。計画を所管している部署の職員でさえ、異動になってはじめて当該計画を見たという職員も少なくない。計画に対する職員の認識でさえ、このような状況であるから、お世辞にもその計画は住民にとって身近な存在だとは言い難い。(p.24)

 実際の行政では参照されていないというわけです。

 さらに、

第2に、おかしな成果指標が設定されている。

 ぼくは、福岡市の男女共同参画基本計画を見ましたが、「あらゆる年代・性別で男女共同参画意識が浸透した社会 」というのを「基本目標1」として立てているのです。「意識が浸透」という目標自体が微妙ですが、その成果指標はどうなっているかといえば、「『男性は仕事、女性は家庭』という考え方に否定的な人の割合」を現行の男性68.2%、女性76.5%から「男性80%、女性80%」に引き上げるというだけなのです。女性なんかたった3.5ポイントですよ? しかもなぜ意識調査?

 5つある目標のうち3つまでは「理解度」「認知度」など意識調査のパーセンテージをあげるという成果指標になっています。客観的な現実をなぜ変えようとしないのでしょうか。それは「やってる」感がでないからでしょう。

第3に、目標値の設定根拠があまり知られていない。

 これがまさに今回の「温暖化対策実行計画」見直しです。

 なぜ2040年にゼロ? どうやってゼロに? というあたりが不明なのです。

 

 この「月刊ガバナンス」では何人かの識者が自治体の計画をどうするかについて論文を書いているのですが、率直に言って「現実主義」の名のもとに「現状の枠内での微調整」にとどまる話ばかりでした。なるほど、計画が多すぎ、不要・不急なものがあれば、それは手をつけなかったり、統合したりすればいいとは思います。

 しかし、問題はそこじゃないと思うんですよね。

 仮に策定しなければならない計画数が減ったとしても、国の意向に沿った「ほどほど」の計画しか立てられなかったり、コンサルや原局の「作文」で終わったりしたら意味がないわけです。

 特に今回のような気候危機打開という、社会システムの大改革をやらねばならないような問題は、自治体としてどう向き合い、計画をどう策定し、実際にどう実行するのかを真剣に追求しないといけないと思うのです。

 「やってる」感だけの空手形はもう要らないのです。

 

松田舞『ひかるイン・ザ・ライト!』1

 「漫画アクション」で真っ先に読む作品の一つ。

 「歌がうまい」という中学3年生がアイドルをめざす話。

 

絵柄

 この作品に惹きつけられた第一の理由は、やっぱり絵柄。シンプルでかわいいんだよ。

 手や指がいいね。表紙もそうだけど、1巻では主人公・荻野ひかるの近所の友だち(少し上級生)で、かつ、人気アイドルグループにいた西川蘭からアイドルの世界に来ないかと誘われるシーンで示される手と、ひかるがオーディションで審査員に見せる手のカットが印象的。

 

才能をめぐる物語 自分=ぼくが重なるのか?

 第二は才能をめぐる物語だから。

 ぼくはこの物語をどういう視点で見ているのか少し不思議になる。

 先に、矛盾する要素を並べてみよう。

 ぼくはひかるを応援する立ち位置で基本的にこの作品を読んでいる。「ひかる、ガンバレ!」と。だからオーディションで受かるかどうかハラハラするし、審査の言葉をドキドキしながら「聞いて」いる。

 だけど、ひかるは全く自分とは別の存在ではない。ひかるのドキドキは自分=ぼくのことであるかのようだ。

 変だな、と思う。ひかるの家では、祖父がやっている銭湯でひかるは掃除の時に美しい歌声を響かせ、それは小さい頃から蘭をはじめ近所の人たちを魅了している。おそらく相当な才能であろうことは、オーディションの様子を見てもわかる。だけどぼくにそんな歌の才能は微塵もない。だから、いわば「天才の萌芽」に自分を重ねることなどないはずなのだ

 じゃあ、なぜひかるを自分=ぼくに重ねてしまうのだろう?

 でもひかるは踊りはそんなに上手くないんだよ。それだけじゃなくて、アイドルが必要とする武器をまだほとんど持っていない。

 だけどそれを自覚して、ひかるは少なくとも1巻では努力を始める。

 じゃあ、先天的な「才能」はなくとも後天的な「努力」ということが重なるのだろうか。

 実は、ダンスだって体幹がしっかりしていないといけないのだが、作品ではひかるの日常がそれを鍛えるという基礎を持っているかも知れないと予感させるコマやセリフがちょいちょい入る。ここでも、「自分とは違う基礎を持っている」と思ってしまう要素がある。

 だけどどうして、やっぱりひかるに自分=ぼくを重ねがちなのだろうか?

 とまあそんな具合にいろいろ考えてみたんだけど、自分に自信がある「根拠地」「基地」というものがスタート地点として自分の中にある、というのがとても大事なことではないかなと思った。ひかるの場合はそういう根拠となる「歌」の才能が「天才」に近いものなんだけど、ぼくも「自信」を持っている領域というものは確かにある(豆粒のようなものだが)。そこを根拠地にしながらも努力によって、さらに成長しようとしているひかるの姿に、「理想化されたぼく自身」あるいは「こうなりたいぼく自身」を見るのではなかろうか。ひかるが扱うテーマが抽象化され、ひかるほどは大層なもんじゃないけど、自分=ぼくのところにも「降りて」くるのである。

 

 この「ひかるとぼくが重なるか重ならないか」という話題に関連して、1点。

 アマゾンのカスタマーズレビューのトップ(2021年10月3日時点)に

これが一般の女生徒のラブコメや日常物なら問題のない絵ですけど「何の変哲もない普通の子をアイドルに仕立て上げるのはもうやめよう」と言って「特別な子」を選出するオーディションなのに主人公をはじめヒロインたちに特別感がまるでない(笑)。本作は仮にアニメやゲームに展開してもこんな地味っ子たちでは売れないでしょうなあ。

とあるのは、一理ないわけではないが、「特別な子」が自分と地続きであるということをどこかに残すべき設定にしておくべきであれば、むしろ現在のグラフィックはベストだと言えよう。

 

苛酷な世界のはずだけど

 第三は、オーディション=生存競争という環境が、ぼくたちの生きている世界の濃縮版だから。

 自分は「特別な人」になろうとするひかる。そしてそういう世界の選別のオーディションで「絶対に生き残る」と強い決意を示す。

 ほのぼのとした絵柄とは対照的に設定されている世界は苛酷だ。

 「一緒にアイドルになろう」と手を差し伸べてくれた蘭と一緒にオーディションを受ける。だけどそれは「共同」ではない。蘭からダンスを教えてもらうけど、ひかるはすぐにそれを甘えだと思って独りで乗り切ろうとする。得意にしていた銭湯で歌うことも、それを居場所とする「甘え」をすっぱりと断つ決意をしてしまう。

 自分は他と違う「特別な人」になる。

 まわりで理解を示したり、支えたりする合図を出してくれる人はいるけども、ひかるの生存競争はとても孤独である。

 ある種のスポーツマンガでも同じようなことは言えるけども、自助と自己責任の空気が強い。不安の中で、凭れかかることができるのは自分しかないということが1巻ではいつでも強調される。

 左翼のぼくが政治のステージでたたかっているものはまさにこれなのだが、だからと言って本作やそういうスポーツマンガが直ちに不快なわけではない。むしろぼくらが暮らしている世界の濃縮であり、ヒリヒリするような焦燥は世界のリアルだ。

 評価され、「特別な人」になり、そのために誰の力も借りずに、自分の才能と努力で、苛酷な生存競争を勝ち抜きたい——こう並べると「どんな新自由主義的世界観だよ」と笑い出したくなるが、そこにリアルさを感じ、自分中に沈殿している欲望をかき回され、ドキドキしているぼくがいることも確かなのだ。

 この作品は、最後まで一人の力が強調されるかも知れないし、何かリアルな共同ということが示されるかも知れない。それは楽しみにとっておこう。

 

 ぼくは久遠まこと・玉井次郎『ソープランドでボーイをしていました』を評した時、『神聖喜劇』について触れ、こう述べた。

 賃労働として賃金が保証される側面と、個人事業主的な扱いで労働法の保護が及ばない側面が同居している。
 これは、現代の労働世界の縮図であり、典型化された形象である
 ふつうはモノがいえない、ベテランとして職場の不可欠の一部となってはじめて交渉力が生じる、という世界だ。
 この職場で「労働法を守らせる」ということの言い出しにくさは、一般の企業でそのことを言い出しにくい空気とほとほとよく似ている。
 軍隊の生活を描いた大西巨人の小説『神聖喜劇』は、軍隊を一般社会から隔絶された特殊な無法地帯として描く野間宏『真空地帯』への批判を意識している。
 『神聖喜劇』の主人公・東堂太郎が、軍隊内の生活マニュアルである「軍隊内務書」の

兵営生活ハ軍隊成立ノ要素ト戦時ノ要求トニ基ヅキタル特殊ノ境涯ナリト雖モ社会ノ道義ト個人ノ操守トニ至リテハ軍隊ニ在ルガ為ニ其ノ趨舎ヲ異ニスルコトナシ

を引用し、軍隊生活と一般社会が地続きであることをしばしば強調する。
 同じことだ。
 ソープランドのボーイの「モノの言えなさ」は、ぼくらの職場での「モノの言えなさ」そのものなのである。

  同じである。この作品はアイドルを描きながら、この世界そのものなのである。

 

M・葉山のこと

 ところで作品の中で、一貫して審査員をつとめ、ひかるを論評するM・葉山の、時に冷たく、時に希望に満ちた言葉は、この作品世界では絶対の位置を与えられており、いわば神の言葉である。

 いわゆる「オネエ」言葉で語られる「神の言葉」は、アイドルの論評にニュートラルな印象をもたらし、その神々しさを一層際立たせている。

 よい。

消費税減税政権だ

 これはすごい、と素直に思う。

 歴史的な合意だ。

www.jiji.com

衆院選後に立民中心の政権が樹立された場合の共産との関わり方について、枝野氏は「消費税減税」や「安全保障法制の違憲部分の廃止」など、民間団体「市民連合」と合意した政策の実現に限定した閣外からの協力を提案志位氏は「全面的に賛同する」と応じた衆院選での選挙協力を強化していくことでも合意した。(強調は引用者)

 「市民連合」との野党共通政策が合意された9月8日の段階では、政権合意も、選挙協力合意もなく、単に各党がそれぞれ「市民連合」と確認しただけのものでしかなかった。志位和夫はこれを称して「この合意によって市民と野党の共闘の政策的な旗印が立派に立った」と言祝いだものの、逆に言えばただの「旗印」だった。極端なことを言えば、各党がそれぞれてんでバラバラに競い合ったとしても、この政策部分ではどの党も努力しているというほどのものであり、いわば「野党各党の公約の最大公約数」を意味するにすぎなかった。

 それがここにきて共産・立憲という政党間の政権合意、選挙協力合意へと明確な形をとり、共同で国民に責任を持つ約束へと変わったのである。

 

 

 他でもない、冒頭の時事通信の記事でも注目されているように、この政権は消費税減税を明確に打ち出すことになる。

 いわば「消費税減税政権」である。

 

所得、法人、資産の税制、および社会保険料負担を見直し、消費税減税を行い、富裕層の負担を強化するなど公平な税制を実現し、また低所得層や中間層への再分配を強化する。(野党共通政策より)

 この点では野党共通政策に加わらなかった国民民主も同じ旗印である。

 野党はそろって、堂々とこの旗を立てて、自民・公明と対決できる。

 

 ぼくは常々、安倍内閣をはじめ自民・公明政権の支持率が高かったのは、魅力的なオルタナティブがないせいだと言ってきて、早く野党が連合政権の合意をつくるべきだと述べてきた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 だから、政権を追及する重要性は理解するものの、政権合意がなければこの状況は根本的に打開できないと考え、合意をつくる方向で訴えもしてきたし、自身のささやかな政治活動でも努力をしてきた。

 それがついにこのような形で実ったわけである。

 画期的であるし、慶賀にたえないというしかない。

 全くもって素晴らしい。

 もちろん、こうした合意ができたから、明日からすぐ風向きが変わるというものでもあるまい。これからの地道な努力で「うん、どうもこちらの方がいいみたいだし、政権が取れそうな現実味があるぞ」と思ってもらわなければならないのだが。

 しかし、貴重な一歩を踏み出したということである。政権合意があるのとないのとでは天と地ほどの開きがある。政権合意はできたのである。

 

 

歴史上なかなか例を見ない民主主義の挑戦

 政策項目を限定しての閣外協力ということだから、

  • 共産党は閣僚にはならない。
  • 共産が協力するのも野党共通政策部分だけ。
  • それ以外の点は立憲民主がつくる政権としての決定には関与できない。
  • だが、共産党として責任を持つ野党共通政策の実現を実行する装置として、立憲民主がつくる政権はその成立に協力する。

ということになるのだろう。すごく機械的に言えば。

 国民投票法改定案とか、コロナ特措法改定案とか、そういうものでは立憲民主と共産の対応は割れた。例えば共産党にとってみれば「それはマズイよ」というようなものは手が出せないし、通ってしまうわけである。

 しかし、野党共通政策は実は幅広い。

 例えば、コロナ特措法を改定して罰則を設ける、というようなもの(もう通ってしまっているわけだが)は全く共産党は閣外でモノが言えないかというとそうでもない。

 野党共通政策には、

  • 従来の医療費削減政策を転換し、医療・公衆衛生の整備を迅速に進める。
  • 〔中略〕
  • コロナ禍による倒産、失業などの打撃を受けた人や企業を救うため、万全の財政支援を行う。

という条文がある。

 “罰則導入は、こういう条項に反するではないか”という介入をすることはできる。

 ただ、明文でないから弱いわけだが。

 …とまあそういうやりとりが考えられる。

 どうせなら、国民民主も共産と同じように「限定的な閣外協力」をやってみてはどうだろうか。

 こう考えてみると、「限定的な閣外協力」というやり方は、なかなか味のある、そして日本の歴史上はなかなか例を見ない民主主義の挑戦だということになる。

 

 どっちにしたって、「消費税は当分いじらない」と公言する「岸田政権」と「消費税減税、賛成か反対か」で大いに勝負したらいい。実に楽しみだ。*1

*1:財源問題では、共産党法人税を安倍政権前に戻すなどを掲げている。立憲民主党は、消費税減税は5年の時限なので国債でまかなう方向のようだ。ただし税制については法人税累進課税化も挙げている。そう考えると共産党との間に大きな方向では一致もあるが、違いもある。そこは議論していけばいいだろう。