オカヤイヅミ『ものするひと』

 あるテレビ番組に出演したとき、自分の肩書きを「作家」と紹介されたことがある。

 事前に「肩書きは何にしましょうか?」と問われ、著作の名前を挙げて「『……を書いた紙屋高雪』ではどうでしょう」と提案したのだが、相手は「ご著書は紹介するんですけどね…」と「今ひとつ」感を隠さなかった。

 そして「作家」を提案してきたのである。

 「ライター」なども対案として出してみたけど、結局「作家」という肩書きになってテロップが出た。もちろん、最終的には承諾したわけだから、ぼくの責任なんだけど。

 おそらく名だたるタレントがいるところにゲストとして呼ぶので、「ライター」という「軽い」感じの肩書きでは「なんでコイツ呼んでんの?」的な不釣り合いさが出てしまうため、番組側がいろいろこだわったのではないかと今になって推測する。

 しかし……。

 「作家」ですか……。

 拭えない違和感。

 

 『大辞泉』にはこうある。

芸術作品の制作をする人。また、それを職業にする人。特に、小説家。

 いやいやいやいや、「芸術作品」は制作していない。小説も書いていない。

 『旺文社国語辞典』では

詩歌・小説・戯曲・絵画など、芸術作品を創作する人。特に、小説家。

とあり、やっぱり「芸術作品」だ。やってません。

 しかし、一縷の望みが『大辞林』にある。

詩や文章を書くことを職業とする人。特に、小説家。 「放送-」

 あっ、これならイケる。「文章」だもん。

 「職業」を規定している辞書とそうでない辞書があるようだが、少なくともぼくはお金を得ているので「職業」と言っていいだろう。全然メイン収入じゃないけど。

 辞書は何かのお墨付きではない、と叱られそうだが、世の中の言葉の使い方の一つの観察結果には違いない。うんうん、俺は嘘は言ってないよね。作家だ作家。とまあ、「風が吹けば桶屋が儲かる」的なアクロバティック極まる「定義の綱渡り」を使い、「作家」という船の端っこに潜り込んで密航した気分であった。

 

 肩書きに偉ぶらなさを出そうとしたり、規定の枠を越えようと意識しすぎたり、従来のイメージを拒否しようとしすぎたりして、「まちあるきアナリスト」とか「政治経済ソムリエ」とかみたいな、謎肩書きになってしまうのもどうかとは思うが、本当に新しい肩書きを用意するしかない時に「珍奇」さを避け過ぎようとするのも逆に「高二病」っぽくてアレである。

 飯の種、すなわち「ライス・ワーク」の職業上の肩書きはなんの外連味もなく紹介できるのに、こういう副業感溢れる仕事の肩書きにはどこかしら面はゆさが残る。

 

 

ものするひと 1 (ビームコミックス)

ものするひと 1 (ビームコミックス)

 

 

 オカヤイヅミ『ものするひと』の主人公スギウラは小説家である。

 小説家。

 ちゃんといい肩書きがあるじゃん、とは思うけど、純文学の新人賞を取ったほどで、締め切りがあるというわけでもなく、バイトで生計を立てているスギウラにとっては「作家」という肩書きには違和があるようだ。

 本作を批評した富永京子は「生計を立てる活動を仕事と見なす感覚は、私たちに深く根付いてもいる」*1として、スギウラの次の逡巡に注目する。

今 事件をおこしたら「東京都中野区30歳アルバイト」かな

賞をとったら? 雑誌に載ったら? 本を出したら? 生活できたら? 「職業/作家」ですか? 

 しかし、「たほいや」という辞書を使った遊びを楽しみ、ネオンの文字を見て物思いにふけってしまうその主人公の所作を、富永は本作で注目し、次のように評している。

それこそが、彼が毎日「言葉のことを考え」、「書いて読まれる仕事」をしている他ならない証左でもある。

  富永が指摘するように、本作は最後まで読んでもスギウラに明確な「作家」の自覚が訪れるわけでもなく、はっきりしたオチがあるわけでもない。

 

ものするひと 2 (ビームコミックス)

ものするひと 2 (ビームコミックス)

 

 

 作家という「普通じゃないもの」と「普通のもの」との線引きの曖昧さを「ゆるやかに揺るがす」(富永)だけなのである。

 「ものするひと」というタイトルの秀逸性はそこと関連している。

 「ものする」は、辞書(大辞林)で引けば、

文章・詩を作る

 という意味もあるが、

何らかの動作・行為や存在・状態を、それを本来表す語を用いずに遠回しにいう語

 でもあり、それは「何かの動作・行為をする」ことであったり「移動する」ことであったり「存在する」ことであったり、要はまことに茫漠としている。この言葉自体が、文章にたずさわるという特殊性(普通でなさ)と、世の中の行為全般を曖昧に指す一般性(普通さ)とを一語で体現しているのだ。

 

ものするひと 3 (ビームコミックス)

ものするひと 3 (ビームコミックス)

 

 

 だけど、「作家」などという肩書きをあやふやに持ち込んでいる、五十近いオジサンであるぼくは、この物語をゲヘヘとか思って読んでいる。

 スギウラみたいになりたいな、という欲望として。

 一つには主人公スギウラがそうした世俗的な「作家」自意識から超然としていることである。言葉にだけこだわってつい目が向いてしまうなどという姿って、カッコよすぎじゃないですか? 

 そして、もう一つは、女子大生でシロートのアイドル活動などもしている(つまり「かわいい」のである)ヨサノがそうしたスギウラに惹かれていくくだりである。自意識が全くないわけではないスギウラだが、やはり基本は俗世から距離を置いている。言葉のことを考え続ける「普通でなさ」がヨサノには魅力に映る。家に来て、スギウラを押し倒そうとしちゃうんだぜ……?

 結局は、スギウラにあこがれながらコンプレックスを抱いている、マルヒラあたりが自分の似絵にはちょうどいいだろう。まさに「スギウラみたいなものになりたいな」と思いながら、スギウラになれはしない自分がそこにいる。

 

*1:朝日新聞2019年7月8日付夕刊。

山本章子『日米地位協定』

この参院選でも日米地位協定は争点

 日米地位協定って、実は今回の参院選挙でほとんどの政党が重点公約にかかげてるんだよな。

 

自民党

米国政府と連携して事件・事故防止を徹底し、日米地位協定はあるべき姿を目指します。

https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/manifest/20190721_manifest.pdf

公明党

日米合同委員会合意に基づき運用されている凶悪犯に関する起訴前身柄拘束移転の日米地位協定明記の検討や、基地周辺自治体と基地司令官等の定期協議の開催、また日本側の基地への立ち入り権の確立などを推進し、日米地位協定のあるべき姿を不断に追求していきます。

https://www.komei.or.jp/campaign/sanin2019/_assets/pdf/manifesto2019.pdf 

立憲民主党

在日米軍基地問題については、地元の基地負担軽減を進め、日米地位協定の改定を提起します。

https://special2019.cdp-japan.jp/rikken_vision_05/

国民民主党

日米地位協定の諸外国並みの改定を目指すとともに、辺野古基地建設を見直します。

https://www.dpfp.or.jp/election2019/answer/12

日本共産党

日米地位協定を抜本改正します。

https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/06/2019-saninsen-seisaku.html

日本維新の会

普天間基地の負担軽減と日米地位協定の見直し

https://o-ishin.jp/sangiin2019/common/img/manifest2019_detail.pdf

社会民主党

米軍、米軍人・軍属に特権、免除を与え、基地周辺住民の市民生活を圧迫している日米地位協定の全面改正を求めます。

http://www5.sdp.or.jp/election_sangiin_2019 

れいわ新選組

真の独立国家を目指します〜地位協定の改定を〜

https://v.reiwa-shinsengumi.com/policy/ 

市民連合と5野党・会派の「共通政策」

日米地位協定を改定し、沖縄県民の人権を守ること。

https://shiminrengo.com/archives/2474

 

「あるべき姿をめざす」ってなんだ?

 ほとんどが「改定」「改正」をめざしているのに、自民党は「日米地位協定はあるべき姿を目指します」となっている。公明党にもこの文言が出てくる。

 あ……あるべき姿……?

 これについて衆院議員・本村賢太郎民進党時代に出した質問主意書で「安倍総理は、(2016年)五月二十五日に行われた日米首脳会談において、『地位協定のあるべき姿を不断に追求していきたい』と述べているが、必要であれば抜本的な見直しも行うと解釈してよいのか」と尋ねたのに対して、答弁書では、

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定(昭和三十五年条約第七号)は、合意議事録等を含んだ大きな法的な枠組みであり、政府としては、同協定について、これまで、手当てすべき事項の性格に応じて、効果的かつ機敏に対応できる最も適切な取組を通じ、一つ一つの具体的な問題に対応してきているところであり、引き続き、そのような取組を積み上げることにより、同協定のあるべき姿を不断に追求していく考えである。

 と返している。

 なんだかぼくらシロートにはわかんねー話なんだが、要するに「取組を積み上げる」こと、つまり協定を変えるのではなく、「運用の改善」でやっていくという話なのである。*1

 

 地位協定を明文で改定するのか、それとも運用改善でいくのか、が争点になる。

 

 沖縄タイムズは「不平等性が強く指摘される日米地位協定では、自民以外の全政党が改定を掲げた」という見方をした。

www.okinawatimes.co.jp

 「今の地位協定でいい」という人は自民党、改定を望む人は他の党に投票しよう。 

 

密約としての合意議事録

 昔から日本共産党がいってきたことであるし、最近では矢部宏治とか前泊博盛なんかも書いていることだけど、日弁安保条約や日米地位協定の歴史というのは、基本的に占領の、形を変えた継続なのである。条約や協定の明文では、改定によって占領の継続であることを「否定」しつつ、実際には密約や非公開の合意などによって「占領の継続」を保障するというものなのだ。

 

 本書・山本章子『日米地位協定』(中公新書)も、これに近い把握をしている。

 

日米地位協定-在日米軍と「同盟」の70年 (中公新書)

日米地位協定-在日米軍と「同盟」の70年 (中公新書)

 

 

 日本政府の言うように、日米地位協定は、すでに条文として他国並み=NATO並みになっているのかもしれない、と山本は言う。

だが、日米地位協定が「NATO並み」だという主張は、条文の文言については当てはまるが、実際の運用については当てはまらない。(「はじめに」ⅳ)

 あっ、それなら、運用改善のほうがいいんじゃないの……と思うかもしれない。しかし山本はその理由についてこう続ける。

日米安保改定の際に日米両政府が別途作成し、長らく非公開だった「日米地位協定合意議事録」では、日米行政協定と変わらずに米軍が基地外でも独自の判断で行動でき、米軍の関係者や財産を守れる旨が定められているからだ。

 日米地位協定は、条文ではなくこの合意にもとづいて運用されてきた。ここに最大の問題がある。

 日米地位協定への批判は、より対等な改定の要求へと結びついてきた。だが、二一世紀初頭まで非公開だった日米地位協定合意議事録に従って運用されてきた事実は、日米地位協定の改定によって問題は解決されないことを意味する。(同前)

  山本は、合意議事録の撤廃により、協定を明文の通りに厳格に守らせれば「不完全ではあるが協定が抱える問題の大部分は改善されるだろう」(p.211)とする。山本の提案は地位協定改正でもなく、運用改善でもなく、その「中間」のような形をとっている。

 山本は合意議事録が一種の「密約」だから、正統性を持ち得ず、国会審議もされていないので政府間合意とは言えないとしている。つまり、改定・交渉しやすいというのが山本の意見である。

 だが、「日米地位協定」とは「合意議事録等を含んだ大きな法的な枠組み」(先の質問主意書への政府答弁)だ。合意議事録の撤廃は、ほとんど協定の改定、というか協定の本質をいじることになる。山本が「協定の改定ではなく合意議事録の撤廃という形であっても、米国の同意を得ることが困難であることには変わりはない」(p.211)と認めるように、こういう角度から攻めたとしても、闘争がやりやすくなるわけではないだろう。

 

 ただ、本書を読むとよくわかるが、これまで秘密だった(現在は公開されている)合意議事録を完全に撤廃することは、確かに“本文の明文によって正体を隠し、合意議事録でこっそり付け足しをする”という地位協定の本質に触れることになってしまう。だとすれば合意議事録を撤廃することと、地位協定本体を改定することをどちらも追求すればいい。

 特に野党は内容にはあまり詳しく踏み込まずに「地位協定の改定」というのを公約しているのだから、逆に言えば、そこまで進めていくことはできる。

 

 

アメリカが引き揚げてしまうことを「恐れる」がゆえに

 本書を読むともう一つ示唆的なのは、ソ連崩壊以後、安保の意味を見失った日本の支配層が、部分改定を提起したら結局アメリカが引き揚げてしまうのではないか、ということを本当に恐れていることだ。

 そして、NATOでは改定に応じても日本については改定に応じないのは、良くも悪くも憲法9条がある限り、対等で双務的な軍事同盟など期待できないために、アメリカは地位協定の改定には応じないと山本は見ている。日米安保条約とは、軍事同盟とはいうものの、本質的には「基地協定」なのだと山本は指摘している。

同盟条約と基地協定を分離する日本の要望はすべて米国から全面的に拒絶されてきた。このため、在日米軍の撤廃はそのまま同盟関係の解消を意味し、冷戦終結後には日米同盟関係の維持について外務省の不安を著しく煽り、日米安保の再検討につながる一切の動きを自主規制させたのである。(p.172)

 最近、トランプが「安保条約やめよっかなー♪」と言ったと伝えられたが、あれが現実になることを本当に恐れているわけである。

 山本は「日米安保条約を支持する立場」(p.214)である。

 しかし、日米地位協定の現状に批判的な気持ちを持っている。

 日米安保体制を壊さずに、地位協定の見直しを図る道を模索した山本が出した結論は、地位協定本体には手をつけずに、付属している合意議事録の撤廃だった。

 しかしこれはあまりに無理筋である。

 結局、日米地位協定の改定は、安保体制(日米軍事同盟)そのものの見直しにまでいくことを覚悟して進むか、さもなくば、いまトランプが求め、安倍政権がそれに呼応しようとしている「憲法9条を改定して、アメリカとともに戦える双務的な関係に変える」ところにまで突き進むしかないのである。

 本書はどちらかの覚悟が必要であることを教えてくれる。

 

 例えば、これは先の話だが、野党連合政権ができたとして、日米地位協定の改定を提起することはできるだろう。その時、アメリカが拒むに違いない。さらに「これ以上は応じられない。さもなくばもう引き揚げる」と言い出した時に、どういう対応を取るのかという問題になってくる。

 ぼくとしては、その時にアメリカとの軍事同盟をやめていく道を説くのが左翼の役目だと思っている。まあ、今はそこまで心配する必要はないのだが(共産党の役割は、そこに見通しを持っていることだと言えるだろう)。

 だが、沖縄の苦しみの解消だとか、米軍基地をなくしていくという地元自治体の切望(例えば福岡市だって高島市長や自民党を含めてオール福岡で基地返還を推進している建前になっている)だとかに応えようとすれば、ゆくゆくはそこは避けてとおれない。

 

 日米軍事同盟を抜け出す選択肢もあるんだよ、という道を説得的に示せるかどうかが、沖縄の米軍基地問題、本土の米軍基地返還の展望を(左翼的に)切り開くことになる。

 

 

本書を読んで他に知ったこと・感じたこと

 さて、最後に、本筋とは別に、本書で知ったこと、感じたことなどについて簡単にメモしておく。

  • 第二次世界大戦後の日本では「アメリカの占領の継続という状態をいかに避けるか」ということが大きな課題であり、少なくとも保守政治家たちはその体裁や世論をずいぶん気にしていた。そして反基地闘争は実際に政治を動かした。戦後日本の骨格はこのような闘争とそれへの配慮によって出来上がっている。
  • 逆に言えば、今の日本には「別にアメリカに占領されていても、守ってくれるのならそれでいいのでは」という意識が増えてきていないか、と思った。
  • 日米合同委員会には合意を決定する権限はなく、そこで密約が生まれることはない。
  • 思いやり予算の区分について勉強になった。また、その公式の語源は、1978年6月29日の参院内閣委員会での金丸答弁だった。
  • 日米地位協定24条に照らして米軍の移転費用を日本政府が負担することは協定違反だという声があるが、これに対して、新築でない代替施設の建設は24条を逸脱しないという「大平答弁」によって24条違反でないと強弁するようになった。これは個人的に、今福岡空港の滑走路拡張で米軍の倉庫を移転する際に、そのお金を支出すべきなのはもともと誰なのかという論争が、議会で行われたのを見たので、興味を持っていた。

*1:公明党のは、すでに運用しているとされている「凶悪犯に関する起訴前身柄拘束移転」についてのみ「明記」を求めるものであるが、これを改定というかどうかは微妙である。

ヤマシタトモコ『違国日記』

 祖父母・父母・兄弟の6人で暮らしていた田舎の実家を「暮らしにくい」と思ったことはその当時なかったが、家を出て一人暮らしを続け、やがて家族を持つ身となってみて、今あの実家に戻りたいかといえば、やはりもう戻って生活する気はない。つうか、もうできんだろ。

 ぼくが実家で生活をしていた頃、父はよく遠くへトラックで出かけていたし、戻ってきても夜中までお客さんと飲みに出ていた。つまりぼくの私生活とはほとんど交わらなかった。母は父の仕事を手伝うのに忙しく、ぼくの生活態度への指導とか注意は細々としたことを機関銃のようにしてぼくに伝えたが、ほとんどそれはホワイトノイズと化していた。要するに聞き流していた。だから、ぼくが実家で生活してた頃は、父母からのうんざりすような介入がなく、「こんな家にいたくない!」などとはほとんど思うことはなかった。

 しかし、ぼくが家をいったん出て、遠くから相対するようになった両親からは、ぼくに理解できない価値観がだしぬけに突きつけられるような場面にしばしば遭遇することとなった。

 こういうことがあった。

 ある日、突然母からぼくに電話がかかってきた。全くの普通の日。平日の昼間のタイミングである。しかし電話口で母はややかしこまった口調である。何事であろうかと話を聞いてみると、お前が実家に帰るときに持ってくるお土産の「安さ」に、本当は腹わたが煮えくりかえる思いがしているという、思い詰めた電話であった。

 そのとき、よく「めんべい」の数百円程度のものを買って実家に帰っていたのであるが、そのような土産は両親への軽侮であり侮辱であり、人を人とも思っていないやり口であり、社会人失格のクズのような態度だと密かに思われていたのである。それが爆発しての電話だった。

 これまでも父母が贈り物の多さを誇り、ぼくらにもよく贈り物をしてくれているのは感謝していたが、まさかそんな気持ちを抱えていたとは夢にも思わなかった。むしろ「贈り物が多すぎて腐っちゃう」と言っていたことを真に受けて、日持ちのするものを、軽く渡すことは、両親への配慮のようなつもりでいたのだが。

 ぼくは一応謝った。次からは帰省のたびに数千円の土産物を渡すように切り替えた。しかし、ことほど左様に、両親が本当に考えている礼儀やら道徳とやらのいくつかはぼくには理解できない「違国」のものであり、その「違国」で再び暮らしたいとはまるで思わないようになっていた。

 

 実家に戻ることはもう想像もつかない。

 代わりに、自分がそこを出て、つれあいや娘と築いてきた今の家庭での、メンバー相互(夫と妻、父と子、母と子)の距離感とか、そこでのルールとか、自分たちなりにこれが最適だと思うように仕上げてきた文化なので、ここから離れることこそ、もはや到底考えられない。

 

 だけど、小学生の娘にとってはどうなのかしら。

 ぼくら夫婦は「国定哲学」を押し付けたり、強圧政治をしたりするようなことがない「寛容な民主国家」のつもりでいるのだが。

 

 もし彼女が今わが家を出て、他の家に行くようなことがあったとしたら、元のわが家の文化や価値観はなんと偏狭なものだったのかと呆れることもあるのだろうか。

 

 

 

 ヤマシタトモコ『違国日記』は、突然両親を失った中学生・朝(あさ)が小説家をしている、独身の叔母(32歳)・高代槙生(こうだい・まきお)に引き取られて暮らすことになる話である。

 朝が、突然違う文化と生活に放りこまれる様は、「違う国」=「違国」に来た人のようである。

 しかし、率直に言って、ぼくは槙生が示す共同生活の距離感はまことにすばらしいと思った。ここはユートピアですか? とさえ思う。一緒に(結婚)生活を送りたいくらいだとさえ感じた。

 槙生自身が内省的・思索的・知的である。だって、自分に湧き上がってくる欲情でさえ理知的に眺めて、それを制御しようとするんだぜ?

 自立していて、それで同居人=子ども=朝への介入にわきまえがある。自分の一言が子どもを縛ったり、のちのちまで影響を与えてしまう「呪い」になったりするのではないかと恐れている。それはとってもとっても大事なわきまえではないだろうか。

 食事などの用意について「生活ができればいい」という構わなさは、ぼくとよく似ている。特にあの、昼食!

 レンチン米に大和煮の缶詰と茹でたほうれん草(夕べの残り)を食べるなんて、お前は俺か、とさえ思った。*1

 

 

 人に生き方を押し付けないが、倫理や正義、責任についての線引きがある。子どもを誰が引き取るかなどという無遠慮な会話の中に放置しない、両親の遺体の確認を子どもにさせないなどといった線引きが。

 家族であった姉への憎しみは、特別と思えるほどのこだわりがあるのだが、それを槙生は自覚してよく飼い慣らしていると思う。だからこそ、その感情を脇に置いてその姉の娘を引き取ったのである。

 朝の友人・えみりが家族から「いずれ(誰でも)結婚するんだから」と言われたことに違和感を覚えたことを、槙生は解いてしまう。朝にとっても、えみりにとっても、その家の文化に長いこととらわれていて、それを覆せないでいるのだが、槙生の家・槙生の言葉という「違国」はそのナショナリズムを解毒してしまうのである。

 なんという開明的な君主であろうか。

 4巻で、元の恋人だった笠町とラインをしながら笑うところの表情がとてもストイックでいい。

 まさしくユートピアだと思う。

 その心地よさゆえに何度も読み返したくなる。

 

 4巻において、槙生が職業としている小説=虚構=物語というものは、「初めての違う国に連れていってくれるような……」と形容されている。それは「かくまってくれる友人」とも比喩されていて、「違国」が、槙生の人生において必要欠くべからざるものとして肯定的にとらえられていることは疑いない。

 

 

 「違国」は、現実の呪いを解き、相対化してしまう。この作品の中で積極的に素晴らしい土地として示されている。

 

砂漠

わたしにさみしく

見えた彼女の砂漠は

わたしには蜃気楼のように

まぼろしめいて遠かったが

本当は豊かで潤い

そしてほんのときどきだけ

さみしいのかもしれない

 とは4巻における朝による、槙生=「違国」イメージである。

 しかしながら、3巻ではまだ、

久しぶりの

たぶん両親をなくして

以来はじめての

おだやかな

いうなれば 幸せな夜だったように思う

わたしだけが 知らない国にいるのだと

いうような心地で眠らないのは 久々だった

 と朝の心情吐露を読んで、ぼくはびっくりしてしまった。

 えっ! 3巻だよ!? ここで「はじめて」!? おだやか!? 幸せ!? それまではそうでなかったのか!

 

 

 

 家族という共同体には、本当はこういう「違国」のような距離感やわきまえが必要なのではないか。「毒親」のような呪いができてしまう親密な空間を一旦なかったことにしたいと多くの人が思っているからこそ、この物語に憧れる人、心地よさを感じる人が少なくないのだろう。

 

*1:いつもだいたいぼくの昼は、レンチン米or夕べの残りのご飯、鯖缶、納豆、残りのサラダである。

災害で2階に逃げればそれでいいのか? 立退くべきなのか?

 先ほどNHKスペシャル「誰があなたの命を守るのか  “温暖化型豪雨”の衝撃」を見ていた。

 学んだことは多かったが、疑問もいろいろ感じた。

 避難情報を流しても住民が避難しない問題が取り上げられていた。

 この問題は以前ぼくはブログに書いたし、同趣旨のことを拙著『どこまでやるか、町内会』でも書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

(118)どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)
 

 

 ぼくは身近な市政、福岡市のとりくみを見ていて、不思議に思うことがある。避難指示を出して住民の避難率が0.17%とかそんな数字なのにそれを全く問題に感じていないことだ(2018年9月10日本会議)。

◯50番(中山郁美) …まず、豪雨時における避難、災害対策についてです。
 7月5日から6日を中心に西日本地域を襲った、これまで経験したことのない豪雨による被害は甚大なものとなりました。…
 そこでまず、今回、本市において避難準備情報、避難勧告、避難指示が発出された経緯と住民の実際の避難行動について、その人数も含めお尋ねします。…

 

◯市民局長(下川祥二) 7月5日から6日にかけての避難情報につきましては、河川の水位の状況や土砂災害の危険度情報などをもとに対象区域を指定し、7月5日の16時30分に避難準備・高齢者等避難開始を、6日の6時45分以降、順次、避難勧告を発令しております。さらに、土砂災害の発生または発生のおそれが高まった箇所については、6日の11時5分以降、順次、避難指示を発令しております。また、実際に避難所等に避難された方の人数につきましては1,179人でございます。以上でございます。

 

◯50番(中山郁美) 避難勧告に照らせば、実際の避難者はわずか0.17%と相当少なかったと言えますが、これは問題ではないか、御所見を伺います。

 

◯市民局長(下川祥二) 避難勧告及び避難指示の対象となった世帯数及び人数につきましては、避難勧告が36万7,369世帯、65万7,969人であり、避難指示が1,151世帯、3,715人となっております。避難所に避難しなかった方の中には建物の2階以上の安全な場所へ垂直避難された方も数多くいらっしゃったと考えており、約8割が共同住宅であるという本市の特徴も影響しているものと考えております。以上でございます。

 

◯50番(中山郁美) 今の認識は、避難が少なくても問題がないと言わんばかりのとんでもない答弁だと思います。そんな姿勢では住民の命は守れません。避難勧告や避難指示が発出されても、本人の判断で避難しなくてもよい、結果的に避難者がゼロでも問題ないということですか、もう一度答弁を求めます。

 

◯市民局長(下川祥二) 答弁の前に、訂正しておわびします。先ほど避難指示が、1,551世帯が正確なところを1,151世帯と申しました。おわびします。
 今回の豪雨におきましては、広島県岡山県などにおいて避難がおくれたことで被害が拡大したことを受け、国においても住民避難のあり方の検証を行うワーキンググループが設置されております。本市としましても、今回の避難に関する分析を行うとともに、国における検討状況や専門家の意見等も踏まえ、実際の避難行動に結びつけるための検討を行ってまいりたいと考えております。以上でございます。

 

 問題はないのかと正され、問題・課題があるという認識を示そうとしない。つまり、市は、「垂直避難すればよい(2階以上に逃げればよい)」「マンションが8割なのであまり問題ない」と考えているわけだ。

 ここにはけっこう大事な問題があると思う。

 結局、止むを得ない場合は2階にいればいいのか?

 マンションだから避難行動を起こさなくてもいいのか?

 

 

2階以上に逃げればいいのか? 立退くべきなのか?

 まず前者である。

 災害対策基本法には避難指示についてこう規定されている。

第六十条 災害が発生し、又は発生するおそれがある場合において、人の生命又は身体を災害から保護し、その他災害の拡大を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、避難のための立退きを勧告し、及び急を要すると認めるときは、これらの者に対し、避難のための立退きを指示することができる。

 Nスペでは避難行動を起こさずに結局家から出られなくなり、2階に避難していた広島の家族が紹介されていた。「出ろ」と言っているのである。

 しかしこういうふうにも書かれている。

第六十条3 災害が発生し、又はまさに発生しようとしている場合において、避難のための立退きを行うことによりかえつて人の生命又は身体に危険が及ぶおそれがあると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、屋内での待避その他の屋内における避難のための安全確保に関する措置(以下「屋内での待避等の安全確保措置」という。)を指示することができる。 

 どうしようもないときは外に出るより屋内の安全な場所で退避することも止むを得ない、というわけである。

 ただ、常識的にこれを読めば、まず逃げること。しかし、逃げることが逆に危険である場合は屋内に退避しろ、と考えるべきではないのか。

 福岡市(高島市政)が「災害が起きても家の中にいればいい」と考えているのは染み付いた考え方であることは、他の答弁からもわかる(2015年10月8日決算特別委員会総会)。

◯堀内委員 避難対象者3万9,979人に対して避難者は125人で、避難者は対象者の0.2~0.3%、西区だけで見ると0.02%~0.03%であり、少な過ぎると思わないか。また、市民が避難しなかった理由をどのように考えているのか。

 

△市民局長 避難者の数が少なかった理由については、住民の避難行動は、災害対策基本法では、避難所など安全な場所に移動するだけではなく、建物の構造や状況に応じて屋内や近隣の2階以上の安全な場所に移動を指示することができるようになっている。今回の台風第15号に関しては、マスコミや防災メール、広報車などにより、屋外に出ることが危険であると感じる場合は、自宅や近くのできるだけ安全な建物の2階以上に避難することを呼びかけている。また、避難指示を発令して以降、雨が小康状態となったことから、避難指示を受けた住民の多くが避難所へ移動しなかったものと考えている。

 

◯堀内委員 大事な問題であるため確認するが、災害対策本部長である市長も局長と同じ認識なのか。

 

△市長 市民局長の答弁と同様の認識である

 

◯堀内委員 これは非常に重大な認識である。災害対策基本法第60条第1項には何と書いてあるか。

 

△市民局長 災害が発生し、または発生するおそれがある場合において、人の生命または身体を災害から保護し、その他災害の拡大を防止するため特に必要があると認めるときは、市町村長は、必要と認める地域の居住者等に対し、避難のための立ち退きを勧告し及び急を要すると認めるときはこれらの者に対し避難のための立ち退きを指示することができると規定されている。

 

◯堀内委員 避難指示は立ち退きの指示であると明確に規定されている。屋内の安全な場所への避難ではない。市民が避難しなかった理由について、降雨が小康状態となったためと局長は答弁したが、避難指示は解除されていなかったのではないか。とりわけ土砂災害において避難指示は重要である。平成27年8月に内閣府が策定したガイドラインの8ページの2段落目を読み上げられたい。

 

△市民局長 国が平成27年8月に策定した避難勧告等の判断・伝達マニュアル作成ガイドラインにおいては、避難勧告等が発令された場合、そのときの状況に応じてとるべき避難行動が異なることから、指定緊急避難場所や近隣の安全な場所へ移動する避難行動を立ち退き避難と呼ぶこととし、屋内にとどまる安全確保を屋内での安全確保措置と呼ぶこととする。立ち退き避難は指定緊急避難場所に移動することが原則であるが、指定緊急避難場所へ移動することがかえって命に危険を及ぼしかねないと避難者みずからが判断する場合には、緊急的な待避、近隣のより安全な場所、より安全な建物等への避難をとることとなる。さらに外出することすら危険な場合には屋内での安全確保措置、屋内でもより安全な場所への移動をとることとなると記載されている。

 

◯堀内委員 マニュアルにおいては立ち退き避難が原則であると記載されており、土砂災害においては特に立ち退きが原則であるとされている。

 

 避難者数が少なくても全く問題はない、家の中にいればいい、という考えがこのご時世の福岡市の危機管理意識の水準であるということに絶望的な気持ちすら覚える。

 しかも、市は自分たちで避難指示を出しておきながら、「当日は雨が小降りになったから避難しなかったんでしょ」と平気で答えているのである。小降りで大丈夫ならすぐ避難指示は解除すべきである。避難指示を出しっぱなしにしておいて、逃げないことになんの問題意識も感ぜず、なんという言い草なのか。「『市はちゃんと避難指示出しましたよ?』という責任逃れ」のために出しているのかとさえ思う。

 

マンション住民は逃げなくていいのか?

 もう一つ。マンションは避難しなくていいという問題はどうなのか。

 市は「住民が逃げない理由はマンションも多いからだろう」と答えているだけであるが、それを問題視している様子はない。0.17%という数字が問題であるという認識はどこにも答えられていないのである。

 

 マンションに住む人は本当に避難しなくていいなら、それはそれでよい。そうはっきりと避難情報を出すべきである。

 だがそうではあるまい。

 しかし、1階ではダメじゃないのか? あるいは2階でもダメな時は当然あるのではないのか? そのあたりの判断が常識的には必要になってくるはずである。

 本当は科学的予測が立てられる行政がそれを判断して情報を出すべきではないかと思う。2階まで浸水しそうだから、大事をとって4階までの住民を避難させるとか、そんな感じで。

 もしその情報が現時点で難しければ、仕方がない。

 ただ、災害が終わってみて、「本来事前に避難すべき住民はどれくらいであり、そのうち実際にどれくらい避難行動をしたか」を行政としては検証すべきではないのか。つまり検証のための母数を確定して、さらに分子を確認する作業が必要だろう。福岡市のこの答弁からはその姿勢が全く伝わってこない。0.17%でも0.02%でも「問題なし」としているのである。

 

 少なくとも福岡市は(1)2階以上の屋内退避でもOK、(2)マンション住民は必ずしも逃げなくてもいい、としているわけで、その問題をどう整理するのか、真剣に考えるべきだろう。

 

 「本物と偽物の違いは有事にわかる」とは高島・福岡市長の言葉なのだが、まさにその通り。高島市長自身が試されている。

 

Nスペへの違和感

 災害の時に避難行動を起こす3つの要素がビッグデータの分析から浮かび上がったと報じられていた。

  1. 避難情報
  2. 環境の異変
  3. 他者の行動/働きかけ

である。この3つのうちの2つがあると避難行動を起こすスイッチが入る人が多かったという。

 ところが、最後は子どもたちに「自分の身は自分で守ろう」と唱和させる映像が流れて番組は終わる。また、識者がこのスローガンを叫ぶところも映されていた。

 いや、1.と3.って「自分」ではないよね? 特に1.は公的な責任が大きい部分だよね?

 自分の身は自分で守るというけども、「災害で死にたい」と思っている人などまずいない。わざわざこのスローガンを子どもにまでしみこませようというのは、例えば防災情報の提供、例えば堤防の整備、例えば消防体制の整備、そういった公的責任をあいまいにするためにくりかえし教育しようとしているのではないかと思えるほどだ。

 

 「自分の身は自分で守ろう」を善意に解釈してみれば、「消防署や警察とか自衛隊とか、誰かが助けに来てくれると思っているという甘い意識を追放するためだ」という反論があるかもしれない。

 しかし、まさにNスペで問題になったのは、「誰かが来てくれる」という思い込みではなかったはずである。

 いざとなったら消防やレスキューなんか、必ずしも自分のところに来てくれないことは百も承知だろう。

 そうではなくて、自分の身は自分で守りたいとは思っているが、「まだ大丈夫」というバイアスがかかることが避難行動をとらせない問題の根源ではなかったのか。そんなところに「自分の身は自分で守ろう」などと唱和させても意味はない。公的な責任への批判意識を眠りこませるだけだ。

 避難行動を起こさせるための具体的な手立てこそ考えるべきではないのか。そしてそれこそは行政の責任で知恵を出すべきもののはずだ。

 福岡市の地域防災計画を見ても、避難誘導は行政の責任である。

避難の誘導者
避難の誘導者は原則として,市長又は福岡県知事の命を受けた職員等,警察官,海上保安官消防団員,自衛官とし,実施要員が不足する場合においては,自主防災組織要員その他地域住民に協力を求める。 なお,避難誘導に際しては誘導を行う者の安全確保に留意する。 

 避難行動を起こさせるために本当に必要なことは、もしその3つがスイッチであるとすれば、ぼくならこうする。

  1. 避難情報を確実に届ける。Nスペで問題になった災害弱者は高齢者ばかりでそういう人たちがスマホやホームページを確認するすべが弱い以上、倉敷市が始めた水位計をネットで確かめるようなやり方ではなく、もっとアナログな方式で避難情報を届ける方法を考えるべきである。
  2. 他者の行動/働きかけが促しやすいよう、町内会のハードルを下げる。町内会の組織だった避難行動ではなく、気軽な近所づきあいが必要なわけで、そのためにも町内会やPTAの仕事を減らして気軽に入って人間関係がゆるやかに広がるようにすべきである。

 

 

 

プールカードはなぜハンコでないとダメ?と質問したらクレーマーなのか

togetter.com

 このtogetterについて、話に入る前に言っておきたい。

 このまとめのタイトルが「電話してみた」になっているけど(2019年6月29日17時時点)、まとめを読めばわかる通り、この保護者は学校に「電話して」などいない。「担任から電話がかかってきたし、校長から電話がかかってきたので、質問してみた」というのが正しい。

 あたかも学校に積極的に電話して「ハンコでなくサインにせよ」と要求したかのように題名がつけられ、それをもとに「モンペ」などとコメントされている。事実と違うのである。まことに気の毒としか言いようがない。

 もちろん学校に積極的に要求すること自体が悪いわけではないし、それ自体が「モンペ」ではない(後述する)。少なくともこの保護者(ぺたぞう)はそのようなことをしていないという事実の問題である。

 

 さてその上で中身に入る。

 

ハンコでないとダメってどこかで決まってんの?

 うちの娘の小学校にもプールカードはある。そしてハンコである。サインは不可であることが明記されている。

 おとといもぼくはカードにハンコを押した。ハンコ押しておいたのに、食卓の上にカード忘れてプール入れないでやんの。

 「ハンコ押したよ。ここに置くけど、今ここでランドセルにしまわないと絶対忘れると思うよ」と警告したけど、生返事して『にじさんじ学園!』読んでやがる。見事に忘れていった。草。

 

 ぼくが小学生のときにはこのようなカードはなかった。

 文部科学省が『水泳指導の手引』というマニュアルを作っている。

www.mext.go.jp

 その第4章に「水泳指導と安全」という項目があり、保護者からの情報を集める「健康カード」の活用を推奨している。

 指導者は、健康管理上注意を必要とする者に対して、医師による検査、診断によって水泳が可であること を確かめておく必要があります。このため、児童生徒の健康状態について多面的に観察することが大切です。
(1)保護者による健康情報の活用 保護者による健康情報については、問診票や健康カード等によって把握することができます。問診票は、 体温、食欲、睡眠、活動状況などから健康の状態が分かるように、具体的な調査項目を設定します。

 健康カードの具体的な項目例が載せられ、そこに「保護者印」とあるではないか!

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 これが元凶か!

 ……と言いたいところだが、それは早とちり

 だいたい、娘の学校はこんな詳細な質問項目を記入させないし、体温なども記入させない。入れるか入れないかと簡単な理由を聞くだけである。

 つまりこのマニュアル(『手引き』)は単なる参照に過ぎないのである。

 事実、いろんな学校のプールカードがネット上に転がっているが、例えば以下はある愛知県の小学校の校長名で出されているカード記入についての保護者宛の文書では、こうある。

ご面倒ですが、授業でプールに入ることが予定されている日の朝に、各家庭で検温と健康観察を行ってください。その結果、「泳ぐ」「泳がない」のいずれかに○を付け、保護者印またはサインをして担任まで提出してください。

 どっちでもいいのである。

 ハンコか、サインかは、本当に重要ではない要素だとわかる。

 むしろ、健康状態について実質的に保護者がよく観察して子どもを送り出してくれているかどうかが学校側としては心配すべき点であり、文科省の『手引き』もうるさいようだが、そのような配慮から書かれているものである。

 学校の保健関係の先生たちのサイトでは次のような座談会がある。

www.gakkohoken.jp

並木 私が学校にいた頃なので古い話ですが、初めて家庭で検温してくるようにしたところ、いちいち学校が保護者にそこまで要求するのか、要は事件事故が起こったら学校は責任を逃れたいからだろうと突き上げられた経験がありましたが、いまは協力が得られていますか。


富永 いまはそれほど極端な方はいません。検温やプールカード使うことは当たり前になっています。子どものためにやっているということで浸透しているのではないでしょうか。


並木 いまは徹底しているということですね。


富永 徹底はしています。ただ、カードを使うにあたっての課題がありまして、保護者の判断を主としているのですが、徹底しているがためにプールカードに保護者の印やサインがないとプールに入れさせていません。そこで、児童が前日に学校に忘れてしまった場合など、連絡帳で代替したり、保護者からの電話があればまだいいですが、連絡がない場合、プールに入らせなくて後になってトラブルになる場合があります。


並木 そのようないろいろ課題もありますが、それでもおおむね保護者との連携はうまくいっているということですね。永田先生はいかがでしょうか。


永田 保護者の方は協力的ですがいろいろな考え方がおありなので、小学校のように継続してやるのは大変だと思います。中学校でのプール指導は保健体育教科の中の時間ということで限られています。生徒が授業を欠課した場合、担任、教科担任、養護教諭で判断した場合もあります。が、保護者が欠課届けを本人に持たせる場合もあり、養護教諭がすべてに関わるわけではありません。本校では毎日検温することは行っていません。

 

 責任逃れじゃなくて、本当に安全管理上大事だからお願いしているんだよ、というわけである。

 いずれにせよ、保護者の確認の形式について、学校以外のどこかで決められた、抗い難いルールがあるというわけではないのだ。決めたのは学校のはずである。

 

質問しただけだろ? 説明すればいいのに

 んでその上で、元々のツイートを見てみる。

 このツイッタラー(ぺたぞう)が不思議に思ったのは、ハンコ以外はダメというルール、なぜサインではダメなのかということである。

 ぼくも同じ。不思議に思ったもん。

 そして、その理由について、向こう(学校)からたまたま電話がかかってきたことをきっかけに質問したに過ぎない

 担任や校長は、決めた理由を説明すればいいのである。

「宿題の朗読はサインでいいのですが、プールは事と次第では命にもかかわるので、特別にしっかりと確認していただきますためにハンコにしております」

とか、

「サインは偽造が可能で、そうなるとその判別に担任が相当時間を食ってしまうので、申し訳ありませんがハンコとさせていただいております」

とか、

「サインは一見すると大人が書いたか子どもが書いたかわかりません。ハンコでも三文判などを子どもが買ってきて押せるとは思いますが、一般的にはそこまでする子どもはなかなかいないので、やはり保護者にしっかりと確認してもらっていることが即座にわかるハンコをお願いしております」

とか。

 学校や職員会議で判断した理由をそのまま話してくれればいいのである。

 その説明を担任も校長もやっていないのである

 説明をしないという点でもうダメだろうと思う。質問したのにどうして説明してくれないのだろうか。*1

 「会社でも役所でもハンコを要求される時いちいち『サインでも可能か』と聞くのかよ」という反論が返ってきそうだが、不思議なら聞いてもいいんじゃないの? 法令で決まっている場合は「法令で決まっています」と言って、自分たちの説明責任の範囲外であることを答えればいいのである(「〇〇という法律の第◯条です」と法令根拠まで示してあげられれば親切だがそこまでする必要はない)。

 

質問したり説明を求めることはクレーマーか

 質問したり説明を求めること自体がクレーマーである、という意見はどうだろうか。

 親はどこかのレストランに行くかのように自分の趣味で子どもを学校に行かせているのではない。憲法で義務を課されているがゆえに子どもを小・中学校に行かせているし、教育を受ける権利の実現のために子どもを送り出しているのである。

 その関係の中で、学校機関側が子どもの健康状態の確認について親に「カードをかけ」という仕事をさせているわけである。その方式や手順について親が質問したら、それで「モンペ」扱いされる謂れはあるまい。

 そういう奴は、アレか。会社の仕事を依頼されても、手順の質問とか絶対にしないクチか。質問したら「モンスターワーカー」とかいうのか。

 

さらに言えば

 以下は、「さらに言えば」というほどのもの。最初の「ぺたぞう」のケースを超えた話だと思って聞いてくれ。

 ぼくは教育という営為はマニュアル的な対応ではない、と思っている。一人一人の子どもの発達と成長にあわせた対応が教育のはずで、だからこそ画一的な中央統制ではなく、教育委員会は独立した行政機関なのだし、学校は一つ一つが独立した権限を持っているし、教師は専門家として広範な裁量を持っている。

 であれば、子どもも保護者も学校に質問していいし、「こうしてほしい」と積極的に要求してもいいはずだ。

 というか、そういうことをしなくて、全部質問禁止・要求禁止の画一対応マニュアルでやれ、というのは間違っている。もちろん時間の制約があるから、無限に付き合うわけには行かないが、子どもを成長させ、あわせて「親育ち」(親を教えて成長させる)をさせるのは学校教育の重要な役割の一つである。説明したり、要求に応えて変えたりすることが旺盛なほどいい、と言っても過言ではない。学校は消費者相手の「店」ではない。

 現実には学級の人数が多すぎるし、教員は仕事に追われ過ぎている。そういう中で塩対応になってしまうことはあり得るし、保護者の側も遠慮するということはあり得る。また、教育の中身そのものでないことだと判断する事項なら、教師でなく別の人員が説明してもいいとは思う。

 しかし、もともとのところを言えば、教育について保護者は学校に対して質問すべきだし、要求すべきである。それでクレーマーと言われる筋合いはない。

 

*1:ただ、これは、あくまで「ぺたぞう」からの叙述であって、ひょっとしたら実際には学校側は簡単にでも理由を説明したのかもしれない。その上で「そういう決まりですから」と言ったのかもしれない。ぼくの立論はあくまで「ぺたぞう」の話を信用すれば、という前提である。

デービッド・アトキンソン『新・生産性立国論』

 著者アトキンソンによれば、人口減少の日本では生産性を上げる以外に未来がなく、著者はそのための3つの政策を提唱している。

 

デービッド・アトキンソン 新・生産性立国論

デービッド・アトキンソン 新・生産性立国論

 

 

 えーっと、まあ別に書いてもええやろ。この人の本は、この3つの政策を種明かししたからといって価値がなくなるようなタイプの本じゃないので。

 

  1. 企業数の削減
  2. 最低賃金の段階的な引き上げ
  3. 女性の活躍

 

である。なぜこういう政策が導かれるのかというロジックはそれこそ本書を読むといいだろう。

 

 この政策のうち1.と2.についてちょっと書く。

 左翼としてどう考えるかってことを。

 

企業を淘汰すること

 まずこの1.なんだけど、アトキンソンはホントこの点は容赦ないんだよね。

 というのは、日本はサービス業で生産性が悪くて、それは劣悪な労働条件をそのままにしている中小企業がこの分野で温存されているからだという。で、昨今中小企業数が減っているのをアトキンソンは大喜びしているのである。

国の生産性はあくまでも全体の平均ですから、生産性の低い企業が消えることによって平均値が上がります。この動きは歓迎すべきです。この動きに対してもっとも大事なことは、政府が余計なことをしないことです。(p.210)

  「余計なこと」というのは中小企業保護政策である。

 中小企業の中でもとりわけ零細な企業を守る法律、「小規模企業振興基本法」が2014年にできたけど、これなんかアトキンソンが想定する「余計なこと」の最たるものかもしれない。

 「中小企業振興条例」が今全国で抜本改定される流れがある。

 福岡市でもこれが数十年ぶりに大幅改定されたんだけど、その中には「小規模企業者への配慮」(14条)なんていう項目がある。

市は、中小企業の振興に関する施策を講じるに当たっては、経営資源の確保が特に困難であることが多い小規模企業者(法第2条第5項の小規模企業者であって,市内に事務所又は事業所を有するものをいう。)の事情に配慮するよう努めるものとする。

  アトキンソンからすれば、このような「余計なこと」=中小企業の保護が、現状の最低賃金レベルの時給しか払えず、労働法も無視した働かせ方を残し、生産性を下げ、デフレを引き起こしているではないかというわけである。こうした企業は淘汰されるべきであり、2060年には今の企業数の半分でいいと言う。

 アトキンソンは、地価を算定するために莫大な不動産物件の測量・調査を、原始的な人海戦術でやっている実態に驚く。そんなところになんで貴重な人手を割いているのだ、と。

 

最低賃金を上げること

 もう一つの最低賃金

 こちらについてアトキンソンは、人口減少なのに賃金を下げたためにデフレになったといい、生産性と非常に高い相関関係を持っているのが最低賃金だと指摘する。「最低賃金が高ければ高いほど生産性も高まるのです。その相関係数は、実に84.4%。驚異的に強い相関関係が見て取れるのです」(p.231)。「日本の生産性が低いのは最低賃金が低いから」(p.233)。

 アトキンソンによれば一人あたりのGDPが日本に近いドイツ・フランス・イギリスの場合、1人あたりの最低賃金は一人あたりのGDPの約50%にあたるという。

 その式に当てはめれば、日本が1.5%の成長をしていくとしたら、2020年に目指すべき最低賃金は1225円ということになる。

 ちなみに、最低賃金をあげたら失業が増えるのではという問題についても英国の例を出して反論している。この話題は最近韓国のことが引き合いに出されるのだが、アトキンソンはこの本を出した後、次のような記事を書いているので参考にしてほしい。

a.msn.com

 まあ、要はアトキンソンの主張は「韓国の失敗は、いっきに引き上げすぎたという、引き上げ方の問題でした」というだけなんだけどね。

 いずれにせよ、これは左翼的主張にほぼ重なる。

 

企業の淘汰と最賃引き上げの二つを左翼としてどう考えるか

 企業数の削減(事実上、中小企業の淘汰)と最低賃金の段階的引き上げ。

 一見すると、現在の日本の左翼的政策からすれば前者は受け入れがたく、後者は歓迎すべき政策のように思える。

 例えば共産党なんかは、小規模企業振興基本法にムッチャ期待をかけている。

www.jcp.or.jp

 読めば分かる通り、「成長発展」と別カテゴリーとして「持続的発展」をする存在として小規模企業をとらえている。

 企業数の削減(事実上、中小企業の淘汰)と最低賃金の段階的引き上げの関係をどう考えたらいいか? 前者は誤りで後者のみが正しいのだろうか?

 

 ぼくは、最低賃金を例えば時給1000円にして(中小業者には一定の支援を行うにせよ)、それに耐えられない中小企業には市場から退場してもらうのがいいのではないかと思う

 最低賃金を引き上げることで、一定期間後にも経済はよくなり、中小企業ももはや自分の力で賃金を引き上げる環境はできるだろう。そうやって支援を外して、それでもなお1000円を支払えない企業は淘汰されるべきではなかろうか。

 もっと言えば、最低賃金だけでなく、ブラック企業規制も同じである。つうか、労働法の厳密な適用な。

 例えば労働基準法32条な。

第三十二条 使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。
○2 使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。

 ぼくは左翼として、当然こうした法律の厳格な適用を要求する。

 「いやあ、そんなこと中小企業には無理だよ」と言う中小企業の経営者がいるだろうか? ぼくが中小企業団体を訪問して話を聞くと、たいてい「中小企業の多くはまじめに労働法を守っている」と言う。

 それならば、いいではないか。できない企業には遠慮なくつぶれてもらおう。

 労働時間を法律通りに短縮する。

 「労働法通り」の働かせ方を要求するのである

 労働者が人たるに値する最低賃金への引き上げ。ブラックな働かせ方を一掃すべく現行労働法の厳格な適用。これである。

 それをすることで、耐えられない中小企業が出てくるかもしれない。しかしそのような企業は淘汰されてしかるべきである。マーケットから退出してもらおうではないか――これは中小企業経営者も(少なくとも建前では)認めざるを得ないだろう。

 短い労働時間で、より多くの賃金を出す企業――つまり生産性の高い企業だけが生き残る権利があるのだ。

 かくてぼくら左翼的政策とアトキンソンは基本的な一致を見る。

 まあ、これは別にアトキンソンだけでなく、例えば冨山和彦(経済同友会副代表幹事)なども言っていることなんだけどね。

www.sankeibiz.jp

 ただ、左翼としてこうした政策の結果として生産性を打ち出すことはこれまであっただろうか? そこは調べていないのでよくわからないのだが。ぼくは打ち出してもいいんじゃないかと思うんだけどね。

 

 

女性の活躍とはなんじゃらほい

 ところで、アトキンソンのいう「3.女性の活躍」なんだが、これは早い話が、専業主婦がサラリーマンの夫の家計補助的な労働力として「150万円の壁」の範囲内でパートをするという働き方は「贅沢」であり、破壊しろ、というものだ。

 収入150万円までの税制上の「優遇」、専業主婦ゆえの「優遇」をやめて、働くほどトクになる制度設計にしろという話なのだ。

 アトキンソンは人口減少に対して子どもを産むことを奨励すべきなのだから、子育て、とりわけ多産に対して相当なプレミアムをつけろと主張する。結婚しても子どもをもうけることとは別だから、今や結婚=夫婦のユニットを支援する税制は古臭いのでやめろともいう。

 どんな家族形態や生き方を選択しても、「健康で文化的な最低限度の生活」ができるような社会保障は必要だと思うので、子どもをもうけないことが劣悪な生活になってしまうような社会はダメだろう。しかし、すべての人に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障した上で、子どもをつくることがコストでなく明らかなアドバンテージであるとする制度は、あり得なくないだろうか?

 いや、それをやると社会的にやはり「子どもを産め」というプレッシャーを助長しかねない気もする。

 ここはよく考えないといけないところなので、保留しておこう。

 

 

 というぐあいに、本書は刺激的である。

 読むべし。

 

大島智子『セッちゃん』

 誰とでも寝る「女の子」を主人公にした大島智子『セッちゃん』。

 以下ネタバレがある。

 本作を読んだとき、すぐに思い浮かべたのは、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』だった。

 そのことは他の人にもそうらしく、例えば、下記のインタビュー記事では、インタビュアー(土井伸彰)はまず『リバーズ・エッジ』との関連を聞いている。

magazine.manba.co.jp

 

本作は、岡崎京子的でありつつも、そこから離脱しようとしてもいる、ということだ。岡崎京子が捉えた1990年代以降のある種の空気──『リバーズ・エッジ』で引用されたフレーズを使えば「平坦な戦場」としての現実──が、東日本大震災によって終わってしまったことを描いているのである。

 『リバーズ・エッジ』では、地球環境問題が自分の日常とは無関係な、実感のわかないものとして示された。日常は退屈な現実なのだが、その退屈な現実の奥底には生々しいリアルが潜んでいる、あるいは退屈な現実を知らぬところで支えているのではないかという予感が岡崎にはあった。

 

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

 

 

 河原で白骨化した死体は、「生々しいリアル」への入口であり退屈な日常の裂け目だった。セックスや恋愛は「生々しいリアル」の入口のように見えて距離の短い袋小路になっている。岡崎の作品ではセックスはどんなにそれに執着してもそこから何も見えないような不毛な行為として描かれることが多い。

 主人公と親交を結ぶゲイの山田一郎を一方的に思い詰めて、やがてストーカーに近い存在となり、最後はストーキングの最中で誤って丸焼けになってしまう田島カンナの事件は、退屈な日常のすぐ裏側に生々しいリアルが転がっていることを象徴的に示している。黒焦げの死体が転がる現場を眺める登場人物の一人(吉川こずえ)の生き生きとした目を見るがいい。

 ここでは、退屈な日常と「社会問題」は完全に分裂していた。しかし、この退屈な日常の奥底にも、そして「社会問題」の根底にも、それらを共通して支えているはずの「生々しいリアル」があるのではないかという予感を岡崎は持っていた。

 

  『リバーズ・エッジ』が始まったのは1993年で、刊行されたのが1994年。

 この直後1995年に、阪神・淡路大震災が起こり、オウム事件が起きる。神戸児童殺傷事件は1997年、山一證券の破綻は1997年である。

 バブルの余韻があった「退屈な日常」の時代でも、その根底に不気味な、見えないリアルが広がっているのではないかという予感を岡崎が1994年にすでに示し得ていたのは、その先見性を物語るものだと言える。

 1996年に「新世紀エヴァンゲリオン」を見たぼくが強く印象付けられたのは、アスカやシンジたちの日常と、やがてそれが戦闘で傷つき、エヴァが暴走するという「生々しいリアル」の落差だった。

 バブル以後の社会の奥底で何かが進行している、あるいは退屈な日常の奥底では「生々しいリアル」に支えられているという不気味な予感をやはり「エヴァ」も先取りしていた。

 

 就職氷河期で大量のロスジェネが生み出され、そして2011年に東日本大震災によって原発が過酷事故を起こしたという歴史の後では、「生々しいリアル」はかなり露頭となってきたと言える。

 それを受けての『セッちゃん』である。

 

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

 

 

 登場人物の一人、あっくんは誰とも真剣に交わろうとしない。あっくんの彼女が感激している少女マンガの嘘臭さに気づきながらも、黙っている。わざわざそんな虚構性を暴く必要などないのだ。あっくんにとって世界は「あっち側」と「こっち側」に分けられている。

 「こっち側」はいわば退屈な日常であるが、それらは自分が要領よくうまくやっていける世界でもある。

 「あっち側」は自分とは断絶された向こう側、大きな物語が演じられている社会のように感じられている。

 ここまでは『リバーズ・エッジ』と似た構図がある。

 しかし、『セッちゃん』に特徴的なのは、おそらく「SEALDs」や反原発デモをモデルとしたものと思しき若い人たちのデモ(「SHIFT(シフト)」という学生団体が仕切っている)がそこに入り込んでいることだ。あっくんにとってシフトが主催するデモも、そのテロに反対するデモも、いずれも「あっち側」である。自分とは切断された物語であり、少女マンガの世界に憧れている彼女はデモに加わり「あっち側」に行ってしまう。

 デモという政治行動がこれほど身近なものとして作品に進入しているのは、まさに『リバーズ・エッジ』の時代とは異なる、3.11以後の日本の現実を示すものに違いない。そして、それにもかかわらず、主人公がそこに冷ややかな目線を向けるのも、やはりまた3.11以後の一つの実感には違いない。

 

 岡崎が空虚なものとしてくり返し描いたセックスは、『セッちゃん』においても虚しいものとして描かれる。セッちゃんが不特定の相手とくり返すセックスにはどこにも希望がない。ところが、セックス抜きでなんとなく芽生えたセッちゃんとあっくんの恋愛的感情には希望がある。恋愛がまずは自分たちの小さな世界を変える主体的行為であるかのようだ。少女マンガ顔負けの恋愛賛歌だが、あえて少女マンガを批判した上で少女マンガに再帰するのが、この作品の面白さだ。

 セッちゃんは、自分の妹にピンクの差し歯を買ってあげることにこだわっていた。何事も他人が決めてくれる世界に生きていたセッちゃんにとって、利他的に行動するという主体性に覚醒してしまった瞬間、セッちゃんは「間違えた」と感じてしまうのだ。

 だが、間違えてはいない。

 セッちゃんは、恋愛という些事、小さな「こっち側」の世界で世界に主体的な働きかけをしようとする。あっくんに会いにフィンランドに行くなんて、なんという大それた世界変革であろうか。

 

 しかし、セッちゃんは、「あっち側」から復讐される。

 ヘルシンキ空港でテロに遭い、セッちゃんはあっけなく殺されてしまうのだ。

 「あっち側」は決して「あっち側」ではない。「あっち側」は「こっち側」の端なのである。シフトによるテロが身近で起こり、その主犯があっくんの知り合いだったとしても、テロという巨大な社会現実はいまだ「あっち側」のままだった。そして、そのまんま、最後には「あっち側」によって「こっち側」が実感のわかないままに押しつぶされてしまうのである。

 2019年の現在、「あっち側」との距離感は、『リバーズ・エッジ』の頃と比べて相当近くなったと感じられる。すぐそばにあることがわかる。だけど依然として「あっち側」という膜に隔てられたままだというもどかしさが、この作品から伝わってくる。

 デモは身近にある。55ページではシフトのデモに学生たちが共感を述べている言葉が書いてあるし、シフトがテロを起こしてから学生たち自身がその反テロの座り込みを起こす。

 だけど、あっくんとセッちゃんはそこにいない。

 「それじゃない」というわけだ。

 まだそんなことを言っているのか、と左翼のぼくはつい叱り飛ばしたくなるのだが、それも一つの実感に違いない。その実感をデフォルメした作品として、本作はある。

 

 セッちゃんが「…なんですぐ変われるの?」(p.85)と疑問を呈するのは、「あっち側」と「こっち側」がシームレスでないこと、つまり自分の世界と社会の現実が完全に分断をしていることを示している。セッちゃんにとって「変わらなくてもいい」、継ぎ目なしに「あっち側」と「こっち側」を思考できる説得力ある言葉が紡げれば、左翼はもっと大きくなれるかもしれない。

 だけどそんな言葉を開発するまで待ってられないから、ぼくはとりあえず行動するわけである。