先日のぼくと斎藤美奈子さんのトークイベントの一部が、朝日新聞「好書好日」の特設サイト「じんぶん堂」で公開された。
当日の様子は、ぼくのブログでも別の角度で紹介している。

若い頃、「批評とはどういうものだろう」と思って、平凡社の『改訂新版 世界大百科事典』を読んだことがある。その項目は加藤周一が執筆していた。
批評(または批判)を意味するクリティークcritiqueの語源は、ギリシア語のクリノkrinō(判断する,裁く)に由来する。A.ラランドの《哲学辞典》によれば、批評とは,ある一つの原理または事実を評価するために検討することである。批評的精神とは、いかなる命題も、みずからその命題の価値を検討することなしにはけっして受け入れない精神である。
これはぼくが本(『正典で殴る読書術』)で書いたこととも合致する。
ヨーロッパ語では,批評という語の形容詞(たとえばフランス語のクリティークcritique)は、名詞と同じ意味のほかに、〈危機的〉という意味に用いられることが多い。この用例もまた日本語にはない。しかし、批評の機能と〈危機〉との間には事実上の関係がなくもない。〈批評的〉と〈危機的〉という日本語では二つの形容詞が、ヨーロッパ語の場合に1語によって代表されているという事実は、おそらく注意に値するであろう。要するに批評とは、(1)ある一つの原理、または事実。または命題などを検討することであり、(2)その検討は評価に関連するといえるだろう。したがって最も典型的には、(3)いったん樹立された価値の再検討としてあらわれる。そのような価値の再検討が大規模に行われる時代は、危機的時代である。
日本共産党について、あるいは日本や世界の現代について、このような〈批評的〉=〈危機的〉という把握を、ぼくの本でも行っている。
批評精神は、特定の価値の体系が危機に臨んだときに活動的となるから、批評精神の歴史とは、危機的時代の歴史であるということができる。…市民社会が世界大戦によって危機を自覚するまで、その根本的な原則に対する批評はなかった。根本的な批評は、第1次大戦とロシア革命以後に始まる。マルクス、エンゲルスは19世紀の半ばに《共産党宣言》を書いたが、ヨーロッパがその意味を理解しはじめたのは20世紀に入ってからである。現在、市民社会の原理とその基本的な価値に対する批評は、社会主義(ことにマルクス主義)において最も徹底している。
社会主義は近代の最も徹底した批判者であった。しかし加藤はその批評精神が「社会主義社会」、つまり旧ソ連・東欧、そして中国などで失われていると考えた。
社会主義社会での批評精神の歴史については詳説できない。しかし、市民社会に対しては最も徹底的な批評立場であるマルクス主義が、社会主義社会では急速に教条化し固定したために、批評的機能を著しく失っているということはいえよう。
しかし今や、その喪失は、資本主義(市民社会)のもとでの社会主義者・共産主義者たちにまで及んでいないだろうか。そのことを拙著では問いかけた。
〈批評的〉=〈危機的〉、「いったん樹立された価値の再検討」としてとらえ、渡部直己の『日本批評大全』を読んだ時にもそのような把握があったのを思い出した。
欧米語が広く共有するその多義性を活用変奏して、しばしば口にされるように、「批評」は、何事かの「危機」や「臨界」の異称として生起する。ひとつの社会や共同体や個人、しかじかの感覚や思考や表象の安定した秩序や規範が危機に陥り、ある臨界点に達しようとする。新たなもの、より良きものへむけて、その動揺の生気をこそ呼吸するもの、あるいは、進んで動揺をもたらすものが、「批評」と呼ばれる力なのだと、人はいう。その批評的=危機的(クリティカル)な力動。それがすべてとまでは断じぬにせよ、わたしもまた、久しくこの等式を重んじてきたし、いまも尊重している。したがって逆に、何事かの内閉的な安定にたいして和解的なものや、追従的・補完的なものは、別にどんな名をもとうが勝手だが、少なくとも「批評」の一語だけは無縁な代物である。(渡部前掲、河出書房新社p.637)















