をのひなお『明日、私は誰かのカノジョ』が完結した。
本作はテレビドラマにもなったが、自分なりのコンプレックスを抱えている女性(あるいは男性)が登場し、パパ活、美容、ホスト狂い、スピリチュアルなどにハマりそれと格闘する、オムニバス形式の物語だが、顔に大きなヤケドの跡があり、「レンタル彼女」をしながら学費を稼いでいる雪の物語が主軸となっている。
最終巻17巻に、雪が母親と海辺で話すシークエンスがある。
雪は幼少時に母のせいで顔にヤケドを負い、母に捨てられた。十数年ぶりに戻ってこようとする母親に、雪は振り回され、母親を拒否できないでいる。
雪は「レンタル彼女」をして「何も考えず 演じて お金をもらって 心が平坦だと どうでもよくなるんだ」と思うようになる。「こんなに楽なんだ」と。
母親に捨てられたという自分。再度期待してまた捨てられた自分。母親という一番自分を大事にしてくれるはずの存在に何度も捨てられるほど自分は価値がないのだとかみしめさせられる瞬間を繰り返し繰り返し味わわされる。そのことに雪は耐えられない。
人(他人)も変えられない。世界も自分には優しくない。
変わるなら自分が変わるしかない。
…という決意に雪は到達する。
なんだ、そんなものは「世界は変えられない」とあきらめるただの絶望ではないか。絶望が生み出す陳腐な主観主義ではないか。と唯物論者たるぼくは思うのだが、とてもそんなお気楽な非難を加えられないほどの深刻な絶望が雪にはある。
だから、貴重な自己革命の宣言の迫力を、気圧されるような気持ち読む。
浜辺で出会った母子。雪の好きなものでも食べに行こうよなどと全く雪の決意とは程遠い能天気な提案をする母親。ところが雪は、なんで私を捨てたの? なんで何年も放置したの? この顔のヤケドの痕を見てどう思うの? などと知りたかった本質的な問いを次々発する。それを聞いて、およそその深刻さを理解しない表面的な回答に終始する母親。
母親は、逆に雪をなじる。なんでも他人のせいにしてウジウジして、私のように自分の力で生きてみれば? と自己責任論と自助をうたいあげるのだ。
雪は、
私だって 全部お母さんのせいにしている自分も
お母さんのことも 大っ嫌いだよ!!
と泣きながら、大ゴマで叫ぶ。
“なんで全部他人のせいにしているわけ? お前自身はその不幸から脱出して、幸福になるためにどんなふうに努力したんだよ?”というありがちな批判に対して、「私だって 全部お母さんのせいにしている自分」も「大っ嫌い」だと雪に述べさせるのは、確かにそう言わないと雪が全てを他人のせいにしているような存在に見えてしまうからなのだろうが、それは「ありがちな批判」をかわすための武装であって、雪は明確に自分の境遇が他人——主に母親から押し付けられたものであることを告発しているのである。そして、それで全く構わないのだ。
雪の人生は母親によって振り回されてきたのであり、母親から解放されることこそ雪にとって喫緊の課題なのだから。
だから、雪は、全部他人=母親のせいにしていいのである。
少なくとも今この瞬間は。
そして、雪は自己革命においてできる唯一の、重大な決断を下す。
すなわち、自分が主体的に母親を捨てることを宣言するのである。
でも 私は 私自身の意思で
今度は 私が
お母さんのことを捨てる
自分の意思で、自分の人生を変えるという主観主義的な、しかし重要な瞬間があり、その時に「私の人生は他人によってめちゃくちゃにされてきた」という世界像を描いても全く構わないのである。
同じように作品が完結し、ラスト付近で母親との対決を描いている作品に鈴木望『青にふれる』がある。
こちらも、主人公(青山瑠璃子、高校生)は顔に大きなアザがある。
瑠璃子がそのアザとどんなふうに付き合っていくのかを描いた物語だが、母親は特に物語の中で「悪役」的に登場してきたわけではない。しかし、ラスト近くに来て、母親がのべる言葉に瑠璃子は批判的な気持ちを吐露するようになる。
瑠璃子の母親は、雪の母親とは全く違って非常に開明的である。瑠璃子が不信感をもった会話を投げかけている時、率直に言ってぼくは「これで瑠璃子に不満を言われるの…?」とさえ思ってしまった。
最終巻7巻では、瑠璃子が行きたいと思っている大学のオープンキャンパスに、母子で旅行する。
瑠璃子の母は先進性を気取っている風ではおよそない。ぼくから見てごく自然な振る舞いをしている。
しかも母親は、自分の言い方が瑠璃子に押し付けをしているのではないのかと自己反省してみたり、自分の感情を我慢させているんじゃないかと瑠璃子に指摘されてそれも自己検討してみせるのである。
瑠璃子は旅行先で食事をしながら、母親にこう述べる。
だからこそ 正直な気持ち 言ってもらえる方が
あたしは嬉しい
母親としてよかれと思っていることが、母親自身や自分(瑠璃子)をも苦しくさせていないだろうかという提起を受けて、母親は「“瑠璃子のため”“さーちゃんのため”って思ってやってたことが間違ってたのかな…」とやはり自分を見つめ直す発言さえするのである。
そしてホテルで「女子会」と称して母子で飲み会(瑠璃子はアルコールは飲んでない)。母親は、瑠璃子のアザは生まれつきではないという話をする。生まれつきではないとすれば自分が責められるのではないかと思って怖くて話せなかったと述べる。
しかし、そうした真情を口にした後、母親は
あーやめやめ こんな話!
と切り上げてしまう。
瑠璃子はもうアザのこと乗り越えたんだしね
と発言する。
ほんと今日は夢みたい…
母娘2人で旅行できて
深い会話ができて
よく乗り越えてきたよね!
私達!
と笑顔で総括する母親。
ところが、瑠璃子はそんな母親の話を聞いて、ホテルから出て行こうとする。
一人にならないと全てをぶつけてしまいそうになると不安を述べる瑠璃子に対して、母親はぶつけていいんだよというが、何も言えないのはママがそうさせちゃったかもねと先回りで反省をする。その先回りを瑠璃子は強く詰る。
「いつもあたしが話そうとするとママが先に話す! 本当は怖いから聞きなくないんでしょ!?」
「そんなこと… 怖いって何が?」
「あたしの本音が! “ママは何もわかってない”って知るのが怖いんだよ 本当はずっと怖くて逃げてる 怖がってる人には話せないよ…」
「…っ じゃあどうしたらいいの?」
「だからしばらく一人に…」
「どうせ瑠璃子は…っ こんな私が嫌だから 遠くの大学に行くんでしょ? あんたに嫌われてることくらい とっくの昔にわかってたわよ! 瑠璃子こそ私の何が…っ」
と涙を流し始める母親。
飛び出していった瑠璃子に
ごめんね 私 母親失格だった
お願い 今度こそちゃんと ママにママやらせて…!
などと抱きしめながら瑠璃子に訴えるのだが、瑠璃子は本当にわかっていないと母親に対して呆れるのである。
このやりとりは、なかなか難しいなと思って読んだ。
母親は母親としての責務から先回りして瑠璃子にかぶせてしまおうとしていたが、瑠璃子が求めていたのは、そのような役割を全ていったん解除して自分の話を聞いてもらうことだった。その上で、母親にどういう感情が生まれようともそれを直視してほしいということだったのだろう。
しかし…。
いやあ、それってめちゃくちゃ難しいことじゃないのか? って思わざるをえなかった。瑠璃子の母親は小さい時の瑠璃子を「保護する」観点から必死だったろう。青いアザをその子の人生にとって負にならないようにと思って先回りし、責任感でいっぱいいっぱいだったのではないか。
雪の時と違って、瑠璃子がそこまで母親に厳しい態度をとっている理由…というか気持ちがよくわからなかった。
「あたし…ママがつらいのはあたしのせい あたしがなんとかしなきゃって思ってた でもさ 変えられるのって自分だけなんだよね 当たり前なんだけど」
「…私は瑠璃子を 自分のいいように変えようとしてたわ」
ここで変えられるのは結局自分自身でしかない、という「自分」に帰ってくるのは、雪の時と同じである。
しかし、これができるようになるのは、子どもが大人になろうとしている時であって、子どもと親がそれぞれの役割を生きざるを得ないのは、子どもが小さい時はやむを得ないだろうとしか思えなかった。
だから
「あたしもママに期待しちゃってた」
「それはいいでしょう 子供が親に求めるのは」
「…ううん “親だから”“子供だから”許されることなんて 本当はないんじゃないかな 近い関係さだからこそ ちゃんと“違うこと”を認めるっていうか… 尊重できた方がいいんだよね」
というやりとりには、ううむ、難しいなあ、そうかなあ、それはずいぶん後になってからでないとできないんじゃないかなあ、としか思えないのである。
瑠璃子の母親はよくやっているよ…と感じてしまうぼくがいる。
だから、瑠璃子と別れた後にしばらく散歩をする瑠璃子の母親が流す涙は、喜びというよりも、苦労の涙のように思えたのである。
母親との会話の微妙さは、この種の問題を「難しく」してしまう恐れがある。ここはかなり自由に母親と瑠璃子のやり取りを批評するような気持ちで読むべきではないかと思った。
私も、有村さんや瑠璃子と同じで、怒りを出せなかったんですよ。「こういうこと言われてさ、傷ついてさ」って、ずっと周りに言えなかった。だから、怒ってくれる人がいたらすごく幸せだったなと思って描きました。
ということが伝わることがまずは大事ではなかろうかと思って読んだ。