茨木保『まんが 医学の歴史』

 『理論劇画 マルクス資本論』の発刊記念の講演会が終わった。来てくれたみなさん、深く感謝。個人的には終わった後の質疑応答が刺激的だった。大喜利とは言わんけども、考える時間があまりなく次々質問されることにどう答えるか、こっちは緊張するし、相手もその当意即妙(ぼくのそうなっていなかったと思うが)を楽しむという感じになったからだ。
 質疑応答の様子はいっしょに講演をした石川先生のブログで紹介されている。興味にある方はどうぞ。

『理論劇画「資本論」』関係の講演と、今後
http://walumono.typepad.jp/blog/2009/06/post-9326.html

 

 

理論劇画 マルクス資本論

理論劇画 マルクス資本論

  • 作者:門井 文雄
  • 発売日: 2009/04/01
  • メディア: 単行本
 

 



 さて、『理論劇画 マルクス資本論』をどうしても送っておきたい人がいて、そのうちの一人から謝辞とともに、本書『まんが 医学の歴史』が送られてきたのである。著者茨木はその人の知り合いなのだという。

Dr.コトー診療所 22 (ヤングサンデーコミックス) 茨木自身は産婦人科医でもあるが、このように漫画家でもある。プロフィールをみると『Dr.コトー診療所』の監修者だという。

 本書は350ページもある大著である。
 開くとわかるが、ぼくの嫌いな「文字解説」系の解説漫画である(『理論劇画』をみてもらうとわかりますが、全然ひとのことはいえませんが)。コマにぎっしり解説文章が書かれている。大変な情報量だ。

 しかし面白く読んでしまった。1日ですべて読めた。簡単だからというより、書かれている事実が面白かったからだ。

日本医療史 ぼくは偶然にも最近、新村拓『日本医療史』(吉川弘文館)を読んでいた。なぜそんなものを読んでいたかというと、仕事とか調べものとかじゃなくて、本当にただの好奇心である。
 具体的には「前近代の医学知識はけっこうイケたのか、やっぱりヒドかったのか、その具体的な有様が知りたい」という俗な関心をにわかにもったからである。

 出産とかを経験して(無論ぼく自身が経験したのではない)、薬と器具を使わないと出て来ず、もう少しで切開をすることになっていたつれあいの様子をみるにつけ、「これ、昔なら死んでたのかなあ」とぼんやり思ったのである。
 『源氏物語』で主人公の光源氏の正妻・葵の上が出産で死ぬシーンがあるけども、読んだ当時(高校生のころ)はフーン( ´_ゝ`)くらいにしか思わなかった。しかし、よくよく考えるとお産っているのは前近代において命がけの事業だったのだなあと改めて思った次第なのだ。

 ところが『日本医療史』は制度的な側面が強く、ぼくが期待していたようなことはあまり書いてなかった。

 本書『まんが 医学の歴史』はそうではなかった。前近代の医療の状況や人体観がわりと細かく描かれていたし、近代になってからの新発見が描かれるたびに、どんな前近代的医療観を克服していったのかを克明に描いているので、まさにぼくの好奇心に応えてくれるものであった。

 医学史を学んだことのある人には常識に属することかもしれないが、ぼく自身は知らないことが多かった。新鮮。

 たとえば、ガレノス。

 医学の父・ヒポクラテスはわりと有名だが、ヒポクラテス後の古代医学を集大成したガレノス(153〜200頃)については知らなかった。そしてガレノスの絶大な権威がその後キリスト教の権威と結びつき、長く医学の進歩を妨げる障害になったというのである。〈その後、1500年間、西洋医学は、ガレノスの名の元に、凍り付くことになるのだ!〉(p.19)。

 〈「動脈の中に血液が流れている」ということを証明〉〈「声が声帯から発せられる」ということを証明〉〈「尿が腎臓で作られる」ということを発見〉(p.17)とガレノスの医学史上の功績が並んでいるのだが、逆にいえば、こんなことしかわかっていなかったのかと感じる。
 血液循環という概念がなく、脳と心(心臓)と肝(肝臓)という3つの大事な臓器から精神プネウス、生命プネウス、栄養プネウス(プネウスとは現代風にいえば「生命エネルギー」「精気(霊気)」)が流れているという考えをもっていた。

 こんなものに1500年支配されるってどうよ、とか思ってしまう。
 のちにこのタブーに挑戦していく人々の姿が描かれるのだが、基本的に解剖してあるがままに見るという態度さえあれば、もっとどうにかなったんじゃないかと思う。もちろんそれを妨げていたのが中世キリスト教の政治=宗教的呪縛だったわけだが。

 エンゲルスが近代唯物論の態度を〈すなわち、現実の世界——自然および歴史——を、どんな先入見的な観念論的気まぐれもなしにそれら自然および歴史に近づく者のだれにでもあらわれるままの姿で、とらえようという決心がなされたのであり、なんらの空想的な関連においてではなく、それ自体の関連においてとらえられる事実と一致しないところの、どのような観念論的気まぐれをも、容赦することなく犠牲にしようという決心がなされたのである〉(『フォイエルバッハ論』新日本文庫版p.61〜62)と規定した意味の重要さはこの医学史を見るとよくわかる。

まんが医学の歴史 タブーへの挑戦者であり、『ファブリカ』の著者である16世紀の解剖学者・ヴェサリウスの伝記的記述は興味深い。全体が「死体解剖好き」という性癖(?)に貫かれた人物として描かれ、墓場で日夜死体を掘り起こす作業をする意欲をもとに、ガレノスの虚構をうちやぶったというふうになっている。

 やはりガレノスの権威に挑戦したフランスの外科医・パレの伝記部分でも、それ以前におこなわれていた外科的手法に興味を惹かれる。
 この時代の戦争における銃創の治療は、「化膿とは火薬の毒によっておきるものであり、消毒のために煮えたぎった油や焼きごてで焼く」というドグマで行なわれており、〈その結果ケガ人は、治るどころかますます重篤な事態におちいっていったのだ〉(本書p.47)。

 煮え油を傷口にあてるパレの様子が描かれる。それを読んで自分にやられる姿を想像してしまい、身悶えする。

 そもそも〈われわれの住む世界は、人間の目に見えない微生物に満ちている。最近は傷を化膿させ、感染症を引き起こす〉〈現代人にとっては常識的なこの事実も、150年前の人々にとっては想像を絶する突飛な考えであった〉(p.188)。いや、現代だって、一般の人は、外科手術をするさいに医師が消毒をした後、ちょっと未消毒のどこかに触ってしまっただけで消毒をやり直すなんていう超厳密さに貫かれていることだってあまり知らないんじゃないかと思う。

 それが19世紀までは〈外科医は血膿で汚れたコートを着て、使い回しの手術器具を用い、不潔な手で創部をかきまわしていた。当然ながら、術後、患者は皆手術熱におかされ、その多くが死亡した〉(同前)っていうんだから、もう泣きたくなる。
 もちろん、ぼくだって前近代においては完全に現代のような形で清潔にしていたとは思っていなかった。しかし、「せめて器具の熱湯消毒くらいはしてたんじゃねーのか」という無根拠な思い込みがあった。ホラ、『三国志』とかで華佗とかが熱湯使ってる絵があったんじゃなかったっけとか、なんか時代劇で医者が酒をプーッとか吹いて消毒してるのがあるんじゃん。つまり、なんらかの消毒概念があったように感じていたので〈血膿で汚れたコート〉〈使い回しの手術器具〉とか聞くとやっぱりショックなわけですよ。現代の無菌手術スタイルが確立されたのは1890年っていうから、まあそんなもんかもしれないけどやっぱり驚く。

 いちいち紹介しないけども、そういう一つひとつがこたえられんわけですね。だから、現代よりも前近代から近代にかけての描写の方がぼくには圧倒的に面白かったのである。

 あと、ヴェサリウスの「死体解剖好き」というエピソードでもわかるとおり、本書は医学上の偉人たちの伝記的部分でとりあげられるエピソードが楽しい。

 イギリスの外科医・ハンターは、淋病の感染経路を知るために、淋病患者の膿をランセット(両刃のメス)に塗り、それを自分の局部に突き刺すのだが、〈その結果、彼は見事に淋病に感染した〉〈しかし、同時に梅毒の症状も出現したのだ〉〈彼が実験に用いた性病患者は淋病と同時に梅毒にも感染していたのである〉(p.133)。こうした「愉快」なエピソードによって、ぼくらはハンターの「実験至上主義」の精神を具体的に知ることができるというわけである。

 あと、野口英世なんだが、ぼくがつれあいと野口英世記念館を訪れた時、野口の業績を称える立場にあるはずの同館の資料をていねいに読むだけでもけっこう「浪費癖のトンデモない生活破綻者であるうえに、医学史上重要な発見といえるものはあんまりないんじゃね?」という印象があったのだが、本書ではそれがいっそう徹底されている。彼を医学上の大発見をした偉人視するのは〈美しいウソ〉(p.259)とまで言い切っている。まあ、最後にエクスキューズめいたものを入れているのだが、どう見ても偉人不合格扱いです。本当にありがとうございました。
 つうか、少なくともお札になるような人間かね、と思わざるをえない。

 

 

※追記(2020年10月11日)

 茨木の下記の著作も面白い。

 

まんが 人体の不思議 (ちくま新書)

まんが 人体の不思議 (ちくま新書)