ケアの社会化

 記事は、斎藤真緒(立命館大学教授)のオンライン講座の概要を伝えるものだ。『福祉のひろば』(総合社会福祉研究所編集)2023年7月号に掲載されていた。

sosyaken.jp

 「ケアラー支援」と聞けば「あ、ヤングケアラーへの支援の話ですね?」と思ってしまう人もいるだろうけど、そうではない。

 そうではないけども、ヤングケアラー問題を考えると、ケア全体につながる問題が見えてくることも確かなのだ。

 そこでまず、この講座ではヤングケアラーの問題を入り口にしている。

 ちなみにヤングケアラーとは何かについては、以下の記事を見てほしい。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 ヤングケアラーの話を聞くと、「小さい子どもにありえないケアの仕事をさせている」というイメージがまずやってくるので、そこから「虐待」「育児放棄」というイメージに飛びやすい(そういう場合もある)。

 しかし、斎藤はそこを「安直」につなげるとケアラーの望まない支援につながってしまう危険性を指摘する。相談した少女がお前の家庭はネグレクトかもなと言われたことについて次のように書いている。

事実、彼女はその言葉を聞いて、「二度と学校の先生には相談しないと思った」と話しました。彼女は、お母さんを責めたくて相談したのではなく、お母さんも自分もふくめて支えてほしかったし、生き抜く方法を知りたかったわけです。(p.32)

 これは後で斎藤が主張する「家族まるごと支援」という視点につながっていく。

 ヤングケアラーの発見とは、むしろ困難の起点になっている大人を見つけ、その家族全体の抱えている困難を社会が支えていくことへと発展させることが一番大事なことなのだろう。

 精神疾患や障害で苦しんでいるシングルの親がいたとしよう。そこの家庭に家事をしたりする人間を派遣したとしてもそれは子どものケアラーをヘルプすることにはなるだろうが(そしてそれで十分なケースもないとは言えないだろう)、根本的な解決にはならないのではなかろうか。

 

 また、ケアを「家事」「介護」などに分解したとき、その一部を子どもが担うことは、ふつうによくある話である。「お手伝い」だ。

 その線引きについて、斎藤は少しだけ触れている。

その点では、親・保護者の見守りがあるかどうか、ほかの活動を圧迫しない範囲内にコントロールできているか、今日はやりたくないということが選択肢として保障されているか、ということが見極めのポイントだろうと思います。(p.33)

 これは行政における支援の問題を考える際に直接は必要な線引き議論だろうが、後で触れるように「社会としてケアを支える」という視点へと発展させる場合にもその支えをどの程度にするか考えるポイントとなる。

 さらに、家族によるケアが一番だという言説が、知らず知らずのうちに入り込むことがあることを斎藤は批判的に見る。「家族思いのいい子ね」「すごいね」「えらいね」などの声掛けだ。

 ただ、これは「ヤングケアラー」という角度で問題を見ている人には、なかなか出てこないだろう。むしろ「虐待」「問題家庭」としての視点の方がおきやすい。

 しかし、先ほど述べたように、ケアラー支援を、ケアラー個人への支援に終わらせてしまうような場合に、無意識に「家族がケアするもの」という視点が入り込んでいる可能性はある。社会が家族まるごと支えるという観点にまで及ばないというわけである。

 

 そして、ヤングケアラーは支援されるべきだが、大人のケアラーは支援されなくていいか? という問題へ入っていく。大人のケアラーは自己責任でどうぞ、という発想。

 

いま国は、ヤングケアラーは支援するといっていますが、ケアラー支援については明確に言及していません。しかし、介護職やダブルケアラーの問題など、いまの日本の社会では、すべての世代にとってケアと自分自身の人生を両立させることが非常にむずかしいということに目をむける必要があります。(p.34)

 例えば、自治体で「ヤングケアラー支援条例を作ろう」というのは合意できても、「ケアラー支援条例をつくろう」が果たして合意できるかどうかということだ。

 ヤングケアラー支援条例を作っている自治体はある。

www.city.warabi.saitama.jp

www1.g-reiki.net

 他方で「ケアラー支援条例」を作っている自治体もある。

www.asahi.com

www.city.kamakura.kanagawa.jp

 

 大人のケアラーについても支援すべきだという視点は、しかし、では主に家族が担っているケアラー個人を支えればそれでいいのか、という問題にもつながる。

 大切なのは、ケアを必要としている人も、その隣にいるケアをになっている人も、いまは具体的にケアを担っているわけではないけれどケアがつねに身近にある人も、すべてのケアにかかわる人たちを、社会全体で支えていく、問題解決の単位を家族にとどめることなく社会に広げていく、ということではないでしょうか。

 これは、ケアが必要な本人への社会的支援を補うものとしてケアラー支援があるのではない、ということにもつながります。これまでの介護者の支援は、負担軽減やレスパイトなど、どうしても要介護者を媒介とした、家族がケアを継続するための支援として語られることが多かったと思います。

 そうではなく、ケアラー個人の生活や人生に焦点をあてたケアラー支援が、要介護者本人のへの支援も徹底させたうえで、車の両輪として必要だということです。家族によるケアから、家族まるごと支援へ。これがケアラー支援の大きな狙いであるし、ポイントだと思います。(p.34-35)

 

 ケアは誰でもするものだ。定義めいたものはあるけども、まずわかりやすくイメージしてもらうために、「家事・育児・介護・看護」のようなものをケアと考えてもらうといいだろう。そのほか、このカテゴリーに一見入らないようなこと(たとえ高齢女性の話を聞くとか、中年男性の肩を揉むとか)もあるので「誰かのお世話をすること」くらいにまずは考えてもらっていいのではないだろうか。

ケアは、私たちが生まれてから死ぬまで必要不可欠なかけがえのない営みですが、いまの日本の社会では、そのほとんどを家族が担っています。ケアラーになることは、自分のからだ、時間、感情をだれかのために差し出すことであり、ケアラー自身の活動や人生に大きな影響をおよぼします。(p.30)

 つまり、家事・育児・介護・看護のようなものを支援すること。

 育児の一部は、保育園や学校が社会として担っている。介護は介護保険の形で社会が担っている。看護も医療機関がその一部を担っている。

 家事はどうだろうか。

 例えば食事は、貨幣購入を媒介にして外食・中食で社会的に一部が担われている。

 しかし、多くは家庭の無償労働によって担われている。

 もし、公営食堂のようなものがあれば、あるいは、10世帯くらいの家族で共同で食事を作って、お金を払う仕組みのようなものがあれば、どうだろうか、と思う。

 ケアの支援ははじめは「困難事例」への対処として現れる。ヤングケアラーはその一例である。

 しかし、そもそもケアは社会全体で担っていくようにすべきだ、という視点を持った人たちが持続的にそれを改良することができていけば、ケアの社会化は次第に発展していくことになるだろう。

 

 ちなみに「ケア=負担だけではない」という視点も本誌で斎藤が語っている。

 ケアはどうしても負担軽減という話だけがされるけども、ケアはそれだけではない、という主張です。

 というのも、私自身、二人の子どもを育てる母であり、長男にはダウン症があります。自分自身をふりかえって、長男が障害をもって生まれてきたことでたいへんなことももちろんありますが、それ以上に、彼らは生まれてきてくれて、私自身の人生がすごくゆたかになりました。人が平等に生きるとはどういうことかということを、つねに考えなければいけない立場になって、そのことで学ぶこともとても多いです。(p.35)

 「そんなことはないだろう。負け惜しみだろう」と思う人もいるかもしれない。ぼく自身は、障害をもった子どもがいたことはないので、斎藤の言っていることの深いところは確かにわからないかもしれない。

 ただ、子どもがいるということは、確かに負担である一方で、子どもを育てる過程でぼく自身が大きく変化し成長させられたということは間違いなくあるので、斎藤が言っていることは、そのレベルでよくわかるのである。障害をもった子であれば、ケアについても負担が軽くないだろうが、反作用として自分が教えられたり成長することも大きく深いだろうということが。

ケアというものが、私たちの社会にかならず必要で大切な活動であることを、もっと正当に評価して、ケアを真ん中において、もっとケアを大切にする社会に向かうべきではないかと、自分の実体験から強く思うことがあります。(p.35)