大和田敢太「ハラスメント根絶のために」

 日本共産党の理論誌「前衛」の2023年6月号、7月号、8月号で上中下にわたる大型論文が載った。

 滋賀大学名誉教授である大和田敢太の「ハラスメント根絶のために——実効力ある包括的なハラスメント規制の原点」という論文である。

 ぼくはハラスメントに苦しみ、精神疾患に追い込まれている一人として、この論文を切実な気持ちで読んだ。

 

ハラスメントは個別事件ではなく組織・経営の問題

 大和田論文で重要と思われた1点目は、ハラスメントは「個別の事件」として扱うのではなく、「組織の問題」「経営的課題」すなわち構造的な問題としてとらえるという把握である(引用の典拠を示す「上」は6月号、「中」は7月号、「下」は8月号の「前衛」のページ数。強調は引用者による)。

 〔…略…〕現行のハラスメントに関する立法や政策を前提にして、その解釈や適用を試みるだけでは、ハラスメント問題の根本的な解決に到達することはできません。

 それは、現行制度の考え方やその枠内だけの解釈からすると、ハラスメントは、当事者の問題だと理解し、組織自体の問題としてハラスメント対策に取り組むことを後回しにする傾向があるからです。政党も、政策を立案したり、実現する立場からハラスメントを課題にするだけでなく組織の問題としてハラスメント問題に取り組むことは実に有意義なことです。(上p.187)

 ここに書かれている認識は実に恐ろしいことである。

 ぼくらはハラスメント問題を、必ずと言っていいほど「当事者の問題」としてとらえてしまう。というか、その組織の内部にいる人ほど、そうとしかとらえようとしないからである。逆に言えば、決して「組織の問題」にしてはいけないという力が働くからである。

 「当事者の問題」というのはどういうことかと言えば、例えば、「古い考えの、ハラスメント体質の人が、ハラスメントに敏感な人に、無思慮にハラスメントをやってしまって起こる、個別の事故」というとらえ方である。

 だから、ハラスメントを起こした個別の人を処分したり、謝らせたり、研修を受けさせたり、異動させたりして「終わり」とするのである。

 そうではなくて、組織全体がそのようなハラスメントを起こす構造・方針・現状になっていて、その組織の歪みが治らないうちは、組織のいたるところでハラスメントが起こり続ける——という「組織の問題」としての認識をもてない。むしろそのように考えることを極力拒否し、「個別の事故」だというふうに必死で落とし込もうとするのである。

 

〔…略…〕ハラスメントは当事者の個性や性格に起因する問題ではないのです。ハラスメントの原因を加害者の特異な性格や資質に帰せることは、対人関係という個人間のトラブルの問題に矮小化するものです。それは、ステレオタイプな被害者像や加害者像を作り上げることにもなり、特に、ハラスメントされる側にも攻撃されるだけの弱さや理由を抱え込んでいるといった主張を招きやすいのです。(中p.189)

 だから、「サイコパス」「マキャベリスト」「ナルシスト」といった加害者の特徴づけも、それを加害者の必要十分条件のように考えると、まさにステレオタイプな加害者像を作り上げていってしまうことになる(そのような性格の人間がハラスメントの中でも特にひどいハラスメントに起こす可能性があるにしても)。

 「個別の事故」という扱いをされたハラスメントは、ハラスメント種別ごとの定義や対策のための制度が細分化されていく。

細分化された定義と制度の結果、ハラスメントの事件は、個別紛争として扱われる傾向があり、経営的な課題として、ハラスメントを根絶するという全般的な政策課題に位置付けられることを遠ざけるという風潮さえ作り出しかねません。(下p.193)

 「進歩的組織」という看板を掲げた組織は、ふつうの企業よりもこの傾向は強くなりかねないのではないか。なぜなら、人権などを大事にする「進歩的組織」だから、構造的・経営的に組織としてそんな問題を引き起こすなどということはあり得ず、起こるとすればそれは個別の、遅れた意識の、特殊な個人による、特殊な事故に過ぎないのだ、という扱いをしがちになるからだ。

 大和田はハラスメントを個別的に捉えてしまう弊害をいくつか書いているが、そのうちの一つは、ハラスメントが構造的に起きること、すなわち連鎖し、伝播するという問題を見逃してしまうことを挙げている。

 上司の管理職が部下の中間管理職に、ノルマの未達成を叱責しながら高圧的な態度によってハラスメントをすることがあります。この中間管理職が部下の社員にノルマ達成を迫りながら、暴言によるハラスメントを行うという光景は、珍しくないのです。〔…中略…〕この連鎖しているハラスメントをバラバラに捉えては、全体像を見失います。このような連鎖するハラスメントは、業務型ハラスメントや労務管理型ハラスメントにおいて、よく見られる事例です。業務遂行と一体となっているだけに、ハラスメントの被害者が業務責任を転嫁するなかで、他者をハラスメントしている意識もなく、加害者になってしまうのです。

 ハラスメントの加害者が実は被害者でもあり、ハラスメント被害者が加害者の立場に立ってしまうという連鎖するハラスメントの全体像を捉えるべきであり、ハラスメントを細分化して個別的な事象とすべきではないのです。(中p.193)

 ぼくも、ふだんは気の弱そうな「中間管理職」(男性)が、上からの命令で自分よりはるかに年若い女性に臨むさいに、いつもでは考えられないような高圧的な態度をとり、その若い女性からハラスメントの訴えをされた事例を身近で知っている。

 そのような事例を間近で見ると確かにハラスメントはパーソナリティではなく、組織の構造的な問題が引き起こしているのだという思いを新たにせざるを得なかった。

 

 こうしてみてくると「ハラスメントが起きた」と言われた時に、ぼくらがまず抱くイメージ、「古い体質の特殊な人が起こす特殊な不祥事」という個別性のイメージがいかに問題かがわかる。そうではなく、「そうしたハラスメントを含めた無理を強圧的に押し通す巨大な力が組織全体にかかっており、その軋み・歪みがハラスメントとして現象している」という構造的な把握こそが必要なのだ。

 そう考えると、

  • そもそも非現実的なノルマと非科学的な達成方針を組織に課しているのではないか。
  • その達成に必要な人員や予算が全く足りないのではないか。

などの根本問題が見えてくる。その解決がとうてい「個別の特殊な問題児を再教育すればいい」ということでは片付かず、組織や大もとの方針にメスを入れない限り「根絶」などできないことがわかるだろう。

 大和田は、なんとこの論文の最後には、ポール・ラファルグの『怠惰の権利』の再評価、そして水木しげる的世界観「無為徒食」「働かない自由」にまで話がおよび、そのような人間的な生き方と労働の関係の見直しという、「真の働き方改革」にまで及ぶ。近代的労働観の転換まで迫るところまで行かねば「ハラスメント根絶」はできないかもしれないのである。

 

「正当な業務」であればハラスメントにはならないのか

 大和田論文で大事だと思われた第二点目は、「正当な業務であった」という言い逃れを封じていることである。

 

 ハラスメントの意図不要ということは、目的によってハラスメントが合理化されないということです。加害者がハラスメントの意図を否定する場合、正当な目的だったと主張することがあります。「業務上の指示だった」、「善意のつもりで、叱咤激励した」、「上司としての指導を行なった」、「会社の方針に従っただけだ」などという口実ですが、その通りだとしても、ハラスメントの成立を否定できないし、ハラスメント実行者と管理職や経営者の責任は免れません。指導や研修などの業務上の意図や目的があるという理由から、ハラスメントの正当性は認められるべきではありません。(中p.194)

 これはよく「加害者の主観的な意図は関係ない」という問題として扱われる。上記で言えば「善意のつもりで、叱咤激励した」的な意識である。「そんなつもりはなかったんだけど、やりすぎちゃったかな…」的な感じだ。

 しかし、ここで書かれていることは、そこをはるかに超えている。

 特にぼくが注目したのは「業務上の指示」「会社の方針」ということでさえ、否定されていることである。

 ハラスメント行為に当たるとされた行為が、仮に会社の明文ルールに根拠を持つものだったとしても、そのことは「ハラスメントではない」という理由にならないというのである。

 ハラスメントは、多くの場合、業務の中で行われ、「業務を通じたハラスメント」です。企業における通常の業務を通じた使用者の指示が原因でハラスメントになるという「業務型ハラスメント」を「業務上の範囲内」ということで、ハラスメント規制の枠外においてはならないのです。

 このように、業務上の必要性とか、「適正な業務指示や指導」によって、ハラスメントの評価を免れるものではありません。それは、事後的に主観的な判断から主張され、結果責任を否定するものだからです。(同前)

 「私の行為は組織のルールに基づくものだから、ハラスメントではない」と平気で主張する会社・組織体の幹部が数多く存在する中で、このような解明はとても大事だ。

 

 この大和田の解明は、大和田が「パワハラ」という概念を強く批判する理由の一つにもなっている。

 大和田は、「パワーハラスメント」概念を

国際的には通用しない非科学的なもので、現在のハラスメント規制制度の混迷をもたらしている(上p.187)

と繰り返し断じている。

 パワハラ概念がなぜ「非科学的」だと大和田が主張するのか、というその論点は多岐にわたっており、その全体像は論文を読んでほしいが、ここでは、

パワハラ概念の適用は、「通常の業務」によるハラスメントを容認してしまうという弊害も無視できません。(下p.195)

という点だけに絞ってみてみる。

 「パワハラ」が成立するためには3つの要件が必要になる。

 それを被害者側が立証しなければならないという苦労が付きまとうのであるが、その要件の一つが、「業務上必要かつ相当な範囲を超えたものによる」ということだ。逆に言えば、「業務上必要かつ相当な範囲」であればオッケーということになる。

 使用者(上司)が労働者に対して、「パワー」を行使することをあたかも当然視することから、「よいパワー」(教育・指導)を是認し、その行き過ぎた「悪いパワー」(パワハラ)が悪いとするもので、業務上の必要性によるハラスメントを容認するという弊害を生み出すのです。

 こうして、上司の「パワー」自体は容認されることになり、パワハラ概念を決定した厚生労働省の検討会でも主張されたように、「よいパワハラ」と「悪いパワハラ」があり、「悪いパワハラ」だけが問題視されるのです。(同前)

 この大和田の解明は、つきつめれば権力に基づく労働者支配の根源的批判と「自由な合意に基づく対等平等な労使関係」に行き着くことになる。いわば資本主義的な労使関係の根幹に触れていくことになるだろう。

 ただ、その問題をおいとくにしたって、「正当な業務であった」=会社・組織のルール・方針・指示通りでも、それ自体はハラスメント正当化の理由にはならない、という点が現時点ではポイントとなるだろう。

伊万里大橋

ハラスメントは主観的思い込みではなく客観的な基準により定まる

 このような「パワハラ」概念批判、すなわち「正当な業務で従業員の人権を侵害することの寛容さ」への批判は、大和田が、「国際的水準」でのハラスメント定義を社会合意にすべきだという主張が根底にある。

 現在のハラスメント概念が、会社都合によって成立した日本特殊の概念であることを大和田は批判する。先ほどの「通常の業務の範囲」であれば「問題なし」とされてしまうのはその典型である。他にも例えば、今の日本では「就業環境の悪化」をパワハラの構成要件の一つとしており、逆に言えば、被害者がどういう状態に追い込まれようとも「就業環境が悪化」してなければヨシ! としてしまうのである。

 つまり、被害者の被害を中心におかず、「どうしたらパワハラにならないか」という加害者(主に会社や上司)の都合から発想され、パワハラかどうかは被害者側が四苦八苦しながら証拠集めをしなければならないのである。人権問題ではなく労務管理上の問題として扱われているというのだ。だからこそ、日本政府はハラスメントのILOの国際条約を批准せず、ハラスメントを「違法」とせずに、せいぜい会社での「対策指針」作りを義務付けるに止まっているのである。

 大和田が規範として目指すのはILO条約である。

 次のように定義されている(第1条)。

仕事の世界における「暴力及びハラスメント」とは、一回限りのものであるか反復するものであるかを問わず、身体的、心理的、性的又は経済的損害を目的とし、又はこれらの損害をもたらし、若しくはもたらすおそれのある一定の容認することができない行動及び慣行又はこれらの脅威をいい、ジェンダーに基づく暴力及びハラスメントを含む。

 「目的」性だけでなく、結果としての「損害」を包括していることに注意されたい。

 これにより、

ハラスメントの判断は、行為者の主観的思い込みではなく、客観的な状況から一般に判断できる基準によらなければならないのです。(上p.199)

と言える。*1

 

 

外部の専門家・専門組織の活用

 大和田の論文の最後には、「実効的なハラスメント規制を」として立法課題とともに、職場におけるハラスメント規制の見直しの課題が挙げられている。

 詳しくはそれを読んでほしいのだが、その中で

必要に応じて、外部専門組織や専門家を活用することも検討すべきです。(下p.199)

としている。

 ぼくからすれば、この活用は、こんな程度の扱いでいいんだろうか? という疑問でさえある。

 大和田自身が述べているように、ハラスメントは個別の紛争事件として扱われるべきものではなく、経営上の組織的・構造的な課題のはずだ。

 ハラスメントに、直接・間接に組織体のトップクラスの人間が深く関与していることは十分にありうる。

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 具体的なパワハラを指示したとか容認したとかいうレベル(直接関与)だけでなく、会社の無理な方針自体がパワハラを生む土壌になっている(間接関与)という点においても「関与」がありうるということだ。

 だとすれば、「ハラスメントを行ったのが幹部連中全体であり、しかもさらに上の幹部までがそれを容認していた」となれば、組織内でそのハラスメントを認定し正すことはまず不可能だと言える。

 その場合、やはり「外部専門組織や専門家を活用すること」は「必要に応じて」どころか絶対不可欠だと言える。

 特にそんな活用をおくびにも出していないような会社・組織体のいう「ハラスメント根絶」など、まず信用してはならないし、そんなことを続ける会社・組織体は一刻も早く滅んだほうがいいだろう。

*1:この点で、単に「被害者がそう訴えたから」という基準によっているのでもないことは、別の意味で重要と言える。あくまで「客観的な状況から一般に判断できる基準」が原則である。