リモート読書会で更科功『若い読者に贈る美しい生物学講義』を読む。
この本は、生物学に興味を持ってもらいたくて書いた本である。タイトルには「若い読者に」と書いたけれど、正確には「自分が若いと勝手に思っている読者に」だ。好奇心さえあれば、百歳超の人にも読んで欲しいと思って、この本を書かせて頂いた。(p.5)
高校の生物で6点を取った歴史を持つ男として、「ほう、興味を持たせられるなら持たせてもらおうではないか」と思って読み始めた。
更科本人による章立て紹介は次のとおりである。
簡単に内容を紹介しておこう。まずは、生物とは何かについて考えていく(第1章および第3章〜第6章)。そのなかで、科学とはどんなものかについても考えてみよう(第2章)。生物学も科学なので、その限界についてきちんと理解しておくことが大切だからだ。それから実際の生物、たとえば私たちを含む動物や植物などの話をする(第7章〜第12章)。それから生物に共通する性質、たとえば進化や多様性について述べ(第13章〜第15章)、最後に身近な話題、たとえばがんやお酒を飲むとどうなるかについて話をする(第16章〜第19章)。(p.5-6)
二つの角度から本書に関心を抱いた。
一つは、書かれている内容について、実際に興味を覚えたことがある。
もう一つは、啓蒙書としてのわかりやすさについて。
最初の点、「書かれている内容について、実際に興味を覚えたこと」をいくつか記しておこう。
第一に、「生物とは何か」という点についてであった。
p.49に有名な「生物の定義」として満たすべき3条件が挙げられている。
(一)外界と膜で仕切られている。
(二)代謝(物質やエネルギーの流れ)を行う。
(三)自分の複製を作る。
読書会参加者によれば、高校の教科書などでは、昔は「定義」だったが、今はそこは「次の条件を備えている」みたいなふんわりした書き方になっている、とか「ウイルスは昔は明確に生物扱いしていなかったが、今は微妙な書き方に」…という趣旨の発言があった。
本書にも地球外生命体の話などが少し書かれているけども、生物についての究明が進むごとに、あるいは新しい種類が加わることで、定義が揺れ動いて豊富化されていくという様が「定義」というものの便利さと不自由さに思いをいたさせる。弁証法の議論でよくあるやつだ。悟性としての定義。
「定義」というものの意義と限界については後で少しおしゃべりしておく。
第二に興味をひかれたのは進化の「高等・下等」という問題だった。
これはよく聞く話ではあるが、あまり深く考えたことはなかった。
進化の系統図(系統樹)を書くとき、哺乳類を鳥類や爬虫類よりも右側に書くことがある。そうすると、いかにも哺乳類は鳥類や爬虫類よりもより進化した生物だというような印象を与える。
しかし更科はそのような考えを批判する。
鳥類や爬虫類の方が、哺乳類よりも陸上生活に、より適応している一面があることを尿素・尿酸の話で次のように記す。
陸上にすんでいる動物にとって、水を手に入れるのは大変なことである。だから、水はなるべく捨てたくない。それなのに、私たちは結構たくさんの尿を出して、水をたくさん捨てている。もったいない話である。一方、ニワトリやトカゲは、尿をあまり出さない。ニワトリやトカゲが、イヌみたいに大量の尿を出している姿を見た人はいないはずだ。それは、尿素を尿酸に変える能力を進化させたからである。つまり、哺乳類は両生類よりも陸上生活に適応しているが、爬虫類と鳥類は哺乳類よりもさらに陸上生活に適応しているのである。(更科Kindle版p.220)
では、鳥類や爬虫類の方がより「高等」なのかといえばそうではない。適応の仕方が違っているというだけで、そこには高等・下等の区別はない。
我々がつい「原始的な生物」と呼んでいる、太古からあまり姿が変わっていないような生物についてもそれが適応しているからそういうスタイルや姿なだけであって、高等・下等という問題ではないという。
更科はそのことを、次のようにたとえる。
伝統の味を守り続ける老舗の和菓子店と、新作のスイーツが話題の新しい洋菓子店。どちらの売り上げが多いかとか、この先どちらが長く繁盛するかとか、そういう問いには意味がある(答えがわかるかどうかは別にして)。しかし、どちらが高等な店で、どちらが下等な店か、という問いに意味はないだろう。(更科Kindle版p.167)
これは進化の問題を考える上で、感覚的にわかりやすい比喩だと思う。
進化を「変わらなくてはいけない」という人生教訓的メッセージとして読み替えることがあるが、つどつど検証して「このままでいいじゃない?」という選択をすることも立派な進化=適応だと言える。もちろん、検証せずに漫然と同じことを繰り返していれば滅ぶわけだが。
次に、本書の「啓蒙書としてのわかりやすさ」について書いてみる。
残念ながら、「生物学初心者」のぼくにとっては、それほどわかりやすい本ではなかった。読書会参加者の中には「紙屋さんのレベルでは難しかったというだけで、例えばこれから生物学に向き合う高校生や大学生にはそれほど難しくないと思うよ?」という意見を述べる人もいた。
一理ある。
しかし、そのような若者だけでなく、ぼくのような年配者にも向けて書かれているのだからそのような人間が読んでわかりにくいと思うならやはり問題があるのではないかと思う。
具体的にどこが?
例えば第15章「遺伝のしくみ」のところだ。
私たちヒトの細胞には、核膜で包まれた核という構造がある。その核の中に、四六本の染色体が入っている。染色体はおもにタンパク質とDNAでできている。生物の遺伝情報は、このDNAという分子に書き込まれている。
タンパク質もDNAも、ひものように長い分子である。タンパク質は、アミノ酸がペプチド結合でたくさんつながったもので、DNAはヌクレオチドがホスホジエステル結合でたくさんつながったものである【図15-1】。ヌクレオチドは、糖とリン酸と塩基が結合した分子だ。糖とリン酸の部分は、DNAを構成するどのヌクレオチドでも同じだが、塩基は四種類ある。この四種類の塩基の、DNAの中での並び方が、後で述べる遺伝情報になっているのである。(p.231)
ホスホスとかヌクヌクとか、もういけない。
頭が痛い。
そもそもここで「ホスホジエステル結合」という言葉を出す必要があるのだろうか? 「ホスホジエステル結合ってなんだろう…」「難しそう…」という漠然とした不安がよぎり前に進めなくなってしまう。
「糖とリン酸の部分は、DNAを構成するどのヌクレオチドでも同じだが、塩基は四種類ある」という表現。素人であるぼくは「糖」はなんとなくイメージできるが「リン酸」というものに全く親しみがない。どんなものかわからない。読み飛ばしていい気もするがぼんやりとしたわからなさがつきまとったままになる。「前に説明したでしょ」と言われたとしても、いちいち覚えていない。説明されていない気もする。
そのような不安だらけの言葉に囲まれて、「糖とリン酸の部分は、DNAを構成するどのヌクレオチドでも同じだが」という意味が頭に入ってこない。これが「塩基は四種類ある」という文節に接続されている。この文章を最初に読んだとき、何を言っているのかわからず、文意は取れた後でも、どういうイメージなのかよくわからなかった(学習をした今ではわかるけど)。
引用文の冒頭にある「私たちヒトの細胞には、核膜で包まれた核という構造がある。その核の中に、四六本の染色体が入っている。染色体はおもにタンパク質とDNAでできている。生物の遺伝情報は、このDNAという分子に書き込まれている」も、いきなりこの文章を読んだときには、核膜・染色体・タンパク質・DNA・遺伝情報というものが物理的にどういう位置関係になっているのかが全然理解できなかった。学習をした今となっては確かにこの文章の通りだなとわかるのだが。
例えばAATCGGAという塩基配列を持つDNAを鋳型にして、TTAGCCTというDNAを作ることができる。さらにそのDNAを鋳型にすれば、最初のDNAと同じ塩基配列を持つDNAが新しく作ることもできる。(p.236)
これもAATCGGAの後にTTAGCCTが繋がると思ってしまっていたので、なんだかさっぱりわからなかった。AATCGGAのすぐ横にTTAGCCTがドッキングしているというイメージがあれば簡単にわかる話だったのに。
「そんな初心者中の初心者を相手にしておられんよ」と言われそうだ。実際、読書会でも笑われた。さすが高校生物で100点満点中「6点」を取った猛者だけのことはある。
要するに、ぼくのようなど素人からすれば、本書への不満はこうだ。
- 図が少ない。
- もっとていねいに説明してほしい。
- 一度出した概念でも繰り返し説明してほしい。同じページへの注記でもいい。
- その後にあまり使わない概念(ホスホジエステル結合のようなもの)はできるだけ出さないでほしい。それだけで敬遠したくなる。
2.は「ちゃんとやさしい言葉で説明しておるだろう」と言われるかもしれないが、違うんだな。理系学者の啓発書にありがちなことだが、導入は思わせぶりなくらいゆったりと、たくさんの比喩、卑俗とも思えるくらいのわかりやすさをふんだんに盛り込んでいくのだが、途中から急に猛スピードで進んでいってしまう。みるみるうちに米粒のように遠くへ行ってしまう。おーい。置いていかないでくれー。
最初に見せてくれたあなたのあの「やさしさ」はどこへ行っちゃったの? とまるで別れ際のカップルみたいな気持ちになる。
結局遺伝と免疫のところは、受験用動画と参考書で補足した。
読書会の今回のファシリテーターから「まあ、結局いろいろ生物学について勉強するきっかけになってよかったですね〜♪」と言われてしまった。著者(更科)の意図通りではないかと。
う、そりゃまあその通りですけど…。
補足:定義について
「生物とは何か」を定義する話を上記で書いた。
ヘーゲルはこのような人間の思考のあり方の意義と限界を記している。その解説本(鰺坂真・有尾善繁・鈴木茂編『ヘーゲル論理学入門』有斐閣新書)から「定義」批判をご紹介する。
「定義」は、分析的方法によってえられた抽象的普遍、類のことです。特定の特殊な対象は、この類に種差をくわえていくことによって、とらえられます。したがって定義は、具体的な特殊な事物からその特殊性を捨象してえられた、ただの共通性にすぎません。だから幾何学のように、純粋に単純化された、抽象的な空間の諸規定を対象とするものには、よくあてはまります。
ところが、定義は、たとえば生命・国家などのように、多面的な諸側面からなる生きた全体をとらえるには、きわめて不十分です。というのは、対象の諸側面が豊富であればあるほど、その対象の定義も、ひとそれぞれの見解によってますますさまざまになるからです。定義という普遍的な規定は、事物の質的な差異を捨象してえられるものであり、多様なものの共通性です。定義は、現実の具体的なもののどの側面が本質的なものなのか、という規準を、どこにももってはいません。だからしばしば事物は、表面的な特徴とか指標で定義されたりします。たとえば、人間と他の動物との区別を耳たぶに求めるというようなことも、その一例です。
さらに現実の事物は、多様であるとともに、多数の不純なものとか、できの悪いものをふくんでいます。定義どおりのものは、どこにも存在していません。そのばあい、定義はその処理に苦慮し、対象があらわれるたびに定義をかえねば説明のつかないことになります。そうするとさまざまな定義がうまれ、どれが事物の真の定義かわからなくなります。逆に、さまざまなものを全部、一つの定義にふくめようとすると、定義それ自体が不明瞭なぼんやりとしたものになります。
「定義」には、このような制限性があります。(同書p.169-171)
これはまさに生物の定義をめぐって起きていることである。
多様さを捨象して、共通性という貧しい側面だけで抽象的にまとめようとする精神の表れ(悟性)が、事物を生き生きととらえずに、むしろ平板な把握に落としていってしまうことがあるのだ。