生物がずっと姿を変えないとはどういうことかを考えていて、この本を読む。
「生きた化石」と呼ばれる、昔から姿を変えていない生物についてエッセイ的(科学記事風)に取り上げている。
生物は体の設計書である遺伝子をもっています。この遺伝子に変化が起こると、生物は形を変えます。そして変化は、必ず起こります。つまり生き物は、本来、一定の姿を保つことができない存在なのです。(本書p.86-88)
これはとても大事なテーゼ。あらゆる生き物は変化している。*1
それなのに、姿(や生態)を変えない生物がいる。「生きた化石」がいる。
どういうことか。
いつも同じ変化が有利で、いつも同じ変化だけが残される状況では、生物は形を変えません。この場合、生物は絶えず変化しているのに、何度やっても同じ姿に進化する、そういう状況に陥ります。(本書p.88-89)
姿を変えないというのは、時が止まっているのではなくて、同じ姿を繰り返し選択し続けているという結果なのだ。
ところが著者は、人に飼われるようになったネコが自然界では不利な色・柄のものが増えていることを例に出して、こう書いている。
ネコの例のように、自然選択、つまり進化の力が弱まると、生物はすぐに一定の姿や形や色を保てなくなる。(本書p.89)
どういうことだろうか。
姿が変わっていく選択をしていく場合もあるだろ? 例えばゾウの祖先が姿を変えて現在のようになったことと、ネコの例えはどう違うのだろう。
著者の言いたいことはこういうことだろうか。
ネコの場合、“いろんな色や柄のものが自然選択の洗礼を受けずに、多様に生き残ってしまう”ということだ。
これまでの姿や生態のものだけが有利なので、それだけが生き残れる。そこからはみ出たものは生き残れない。
しかし、変化したものが、たまたまこれまでよりも有利だったりすると、今度はそれが従来のものを圧倒してしまう。急激に全体が変わっていく。
だから著者はダーウィンの考えを次のように要約する。
私〔ダーウィン〕の進化論が正しいのなら、急激に変わる生物もあれば、反対にまるで変わらない生物もいるはずだ、例えばシャミセンガイがそうだ(本書p.89)
つまり「急激に変わる」のと「まるで変わらない」のとは同じ進化の作用だということで、多様化してしまうのは、進化=自然選択が働いていないということになる。わかりやすく言ってしまうと、その場合の変化は環境に対応したものが多分1種類だけが選択されることになるはずだ。ネコのように多様にはならない。もちろん生存戦略を根本的に変えるような激変の場合は、多様に分岐していくのかもしれないが、ネコの場合は環境に適応もできないのにただ多様になって(人間の保護によって)生き残って増えているだけなのだ。
「まるで変わらない」というのが「生きた化石」なわけだが、ここで不思議なのは、なぜ「急激に変わる」という選択をしないのだろうか。
著者は
競争相手がいない居場所で、長い長い時間を生き延びてきた生物、それが生きた化石です。(本書p.51)
としている。
これもわかるようでわからない。
「競争相手がいない居場所」といっても、他の生物は確かにやってこないような場所についてはそうかもしれないが、まさに自分たちの種の中で従来の姿よりももっと有利な変化をするものがなぜ現れないのだろうか、ということに答えていないテーゼなのだ。
シーラカンスにおける進化が書かれているので、それで少し考えてみよう。
シーラカンスの中で、マグロのような尾びれを獲得したレベラトリクスは、海を高速で泳いで獲物を捕まえる肉食魚に進化できた。他の魚たちよりも早い変化を遂げたのだ。大量絶滅直後、「他の魚たちがぐずぐずしている間に」(本書p.47)変化したのである。
しかしすぐ絶滅してしまった。
なぜなら、その後すぐに海を支配することになったサメに破れてしまったから。
著者はこう総括する。
シーラカンスは進化して姿を変えることもできます。しかし、ライバルたちに負けてしまうので、結局、生き残ったのは以前と同じ姿のものたちでした。遺伝子は進化している。姿形を変えることもできる。しかし、姿を変えたものは負けて消えてしまう。ライバルで周りを囲まれているから、他の姿になることができない。つまり進化しているのに、いつも同じ姿に進化してしまう。(本書p.48-49)
なるほどと思う反面、これだけでは説明は不十分なような気がした。
確かに「ライバルで周りを囲まれている」ので、ライバルたちのいる「周り」に出て行った変化組はやられてしまったのだけど、なぜ「周り」に出て行かなかった従来組はライバルから逃れられたのかは本書ではわからないし、「周り」に出て行かなかった従来組の中でさらに有利な変化は起きなかったのかは、説明されない。それとも進化にifはないから、説明はされないものなのだろうか。
いや、あえて言えば、「周り」には出ないタイプのものの中で、従来のデザイン以外の姿形のものはおそらく生まれた。しかし、従来デザインを超えるほどの優れた適応はしなかったということなのだろう。ひょっとしたら1億年後にはそういうデザインが生まれるかもしれないが、数億年というスパンではその可能性は花ひらかなかったということなのだろう。それぐらい、従来型のデザインがそこへの環境の適応には優れていた、ということなのだ。何億年も過酷な自然選択をやり続けても結局従来デザインが選ばれてしまう。それぐらいすごいデザインなのである。
ここで示唆深いことは、「変化」してしまったものがたちまち絶滅してしまったということであろう。「変化」しないことが、ここでは生存戦略になっている。
本書にはカブトエビについての記述もある。
以前ぼくはカブトエビに関して、谷本雄治の本について書いたことがある。
谷本の本を読んだ時には気づかなかったのだが、本書を読んで改めて気づいたことは、
カブトエビは……定期的に干上がってしまう池や沼にだけすんでいます。(本書p.124)
ということだ。田んぼはその典型である。
こういう場所には魚のような敵がいません。水が干上がれば魚は死んでしまうからです。(同前)
もちろんカブトエビも死ぬが、カブトエビはそこを「乾燥に強い卵」という戦略で生き残るのだ。しかも、水が再びきても(これは本書には書いてないが)卵のうちの一定数(谷本の本では3割)しか孵化せず、その環境が不利だった時のために、残りは取っておかれて、またその後で水が来た時に残りのうちの一定数(3割)のみが孵化する……という「保険」もある。
水がずっとある池にはすんでいません。多分、敵やライバルが多すぎてすめないのでしょう。だとしたら、カブトエビはずっと同じ生活をしなければいけません。(本書p.128)
これが当たった戦略だったということだろう。
水がずっとある池にすめるように変化したら敵にやられてしまうのだ。
変化しない、というのは実は進化=自然選択を繰り返し続けて毎回毎回選び続けられているという黄金のパターンを獲得しているということもである。別の言い方をすれば「競争相手がいないニッチな居場所」を見つけて、そこにすっぽりとハマる最適な姿と生態を早くから獲得した、ということでもあろう。(結局、著者が言っていることと同じことに行き着いた。)
黄金パターンの戦略というのは強靭だ。
迂闊な「変化」はいかにも脆弱だ。
冒頭の問題、「生物がずっと姿を変えないとはどういうことか」についていろいろ示唆を与えてくれる本だった。