ストレイチー『ナイティンゲール伝』 茨木保『ナイチンゲール伝』

 佐原実波『ガクサン』で予備校講師参考書の面白さが主人公の一人から語られる。

 そこで世界史で「ざっくり歴史を要約してくれる」ような面白い講義があるのではないかと本屋でいろいろ立ち読みしてみると、『青木裕司 世界史B講義の実況中継3』が実にぼくの感性に合っていた。

 四角四面に要約してあるのはダメなのだ。

 しかも短いページにビッチリ書いてあるのも読む気が無くなる。

 その点で『青木裕司 世界史B講義の実況中継3』は語り口、ページの行間などが、まさにこれしかないというくらいぼくにフィットしていた。そのかわり、1ページあたりの進行が遅くなるので、世界史全部を網羅しようと思うと数巻にも及んでしまうといううらみがあるのだが。

 なぜ3巻かといえば、娘の「歴史総合」を読んでいてヨーロッパ近代史(19世紀前後)があやふやだったから。また、『資本論』やマルクスの本を学習したりする際に、実は自分の知識がいい加減だったりあやふやだったりすることを何度も思い知らされていたからだ。そこをざっくり整理したかったのである。

 青木裕司の本の中では、随所に岩波文庫岩波新書などがコラムで紹介されている。知的関心が広がるようにできていて素晴らしいと思った。まあ、現役の生徒たちが実際にそれでその紹介本に手を伸ばすかどうかは別だろうけど。

 『資本論』を読破した体験なども書いてある。そして、それはそのまま、大学という「膨大にある学ぶ時間をどう使うか」という手引きになっていて、ぼくのようなバブル時代の学生気質にはもう首を何度も激しくタテにふるしかないよね、というようなことが書かれている。

 

 僕は大学生のときに、1日に20ページずつ読んで、半年かけて『資本論』を全部読みました。…今まで本を読んで得た感動の中で、これは最高のものでした。…

 ついでだが、一言いっておこう。大学生活とは、読書です。本を読んで考えることをしない学生生活など“無”といっていい。

 じゃあどんな本から読むか?

 結論を言うと、その道の最高にして最大の本。

 国文学に行くのだったら、紫式部の『源氏物語』とか、夏目漱石全集とかね。

 英文学をやる人だったら、やっぱりシェークスピアかなあ。経済学だったらアダム=スミスの『諸国民の富』でもいいし、ワルラスでもメンガーでもケインズでもいいや。政治学をやるのだったら『リヴァイアサン』とかね。大著をじっくり読む時間が、君たちに少なくとも4年間は保証されているのです。大学のときに軽いものばかり読むのはダメです。すぐに役立つ本は、すぐに役立たなくなるものです。

 読むべき本を選んだら、じっくり時間をかけて読みましょう。…僕は1日20ページをノルマにして、5時半に起きて体調を整え、濃いコーヒーを飲んで、11時くらいまで『資本論』を読みました。(青木p.140)

 

 

 この本の中でリットン・ストレイチー『ナイティンゲール伝』が紹介されていた。

 

 これは読んでみたいと思った。

 そこで本屋をめぐったのがない。

 仕方なく、図書館で借りて読むことになった。

 

 

 ナイチンゲールは、子ども向け伝記のような「白衣の天使」ではないよ、というのはどこかで聞いた記憶があるのだが、具体的にどういうことであるのかはよく知らなかった。

 本書の「ナイティンゲール伝」はわずか文庫で100ページほどしかなく、実は著者ストレイチーの『著名なヴィクトリア朝人たち』というヴィクトリア朝時代の有名人の伝記をまとめた本の中の一部なのである。1918年に刊行されているので、ヴィクトリア朝が終わって20年ほどたったあとに書かれたものだ。

 ヴィクトリア時代の「偉人」の4人を取り上げているが、そこには隠れた意図があった。

通説によれば、四人は社会や国家に貢献した偉大な人物であったろう。しかし、作者は巧みな方法を用いて、隠された毒によって、通説を批判し、四人の実像を暴こうとしていた。(訳者あとがきp.193)

 現代から見れば物足りない批判でも、当時は強烈だったようだ。

『著名なヴィクトリア朝人たち』は、ヴィクトリア朝の仮面を剥いで、偉大な人たちに悪口を浴びせる本として、はげしい避難を浴びることになった。(p.194)

という。しかし、それゆえに一種の客観性を獲得し、この本は「伝記として高い評価を受け」(同前)た。

 ぼくが読んでいて、特に心に残ったのは、ナイチンゲールというのは目的遂行のためには執念ともいえる徹底性を持っていて、革命家でいうとレーニンのような政治機械を思わせた。まわりにいた、頼るべき資源となる人物を徹底的に手段として使い、目標を達成し、障害を撃破した。

 伝記的な成功譚としては面白いし、快哉を叫びたくなるが、身近にこんな人物がいてはたまったものではない。精神をやられてしまう。

 特に、陸軍大臣にまでなったシドニー・ハーバート。彼を政治上の前線に立てて、ナイティンゲールは後ろから指令を送っていた。ハーバートが体を壊しやがて死んでしまうまでこき使った。休ませてほしい、というハーバートの懇願に対して、それを罵り、休ませずに、働かせた。よく、一つの家庭を乗っ取り、支配してしまい、多くの人を殺すまで至ってしまう事件があるが、ああいう精神支配構造と似ているのではないかとさえ思い、ゾッとした。

 ハーバートは男性の大物政治家である。え、ひょっとして色恋沙汰? と思ってしまうのだが、ハーバートは妻がいたし、妻自身が熱心なナイチンゲール支持者であり、ナイチンゲール自身にはおよそ恋愛的感情に溺れてしまうような「弱さ」がない *1

 ストレイチーの伝記にはこうある。

 ハーバートほど利己心を持たぬ人はいなかった。驚くほどに慈悲と博愛の心に富んでいた。そして、常に渝ることなく良心的に生活のすべてを公共への奉仕のために捧げた。…

 ミス・ナイティンゲールと知り合っていなかったならば、彼の生涯はまったく違ったものになっていたろう。スキュタリへ彼女を派遣することに始まり、戦争中にますます密接なものとなった二人の結びつきは、彼女の帰国後、限りなく並はずれた友情に発展して行った。

 それは、公共の大目的に献身することで親密に結ばれた男と女の友情であった。もちろん、相互の愛が一役買っていたが、それは付随的なものにすぎなかった。二人の関係の真髄は、同じ仕事を一緒にしていることにあった。(p.63) 

 

 ミス・ナイティンゲールの最も熱心な讃美者の一人は、ミセズ・ハーバートであった。(p.64)

 シドニー・ハーバートとナイチンゲールの関係を、虎に射竦められた雄鹿とまでストレイチーは比喩している。

 公の場所で生きる上での資格として、ミス・ナイティンゲールには、一つだけ欠けているものがあった。成功した政治家が持つ権威と権力が、彼女にはなかった。どうあがいても、それは持てぬものであった。

 その権威と権力を、シドニー・ハーバートは持っていた。(p.64-65)

 彼女は彼をつかんだ。教えた。思うようにつくり上げ、吸収した。徹底的に支配した。彼は抵抗しなかった。抵抗しようとは望まなかった。

 生まれながらの彼の気質も、彼女の気質と同じ道を選んでいた。ただし、彼女の恐ろしい個性が、彼女独得の物凄い速さで、容赦なく大股に、彼を前へ前へと駆りたててしまったのである。彼をどこに駆りたてたのか? ああ! なぜミス・ナイティンゲールと知り合ってしまったのか?

 パンミュア卿〔ナイチンゲールの改革の妨害者〕がバイソン(野牛)であったとするなら、シドニー・ハーバートはもちろん雄鹿であった。森の中を跳びはねる、美しく雄々しい生き物であった。しかし、森は危険な場所であった。雄鹿の見開いた眼は、獰猛な獣にあっという間に射竦められてしまう。一瞬息を呑むと、次の瞬間には、雌の虎がふるえる尻に爪を立てていたるのだ。そうして……!(p.65) 

 ハーバートだけではない。

 このようにしてナイチンゲールにからめとられてしまった人物は他にもいる。叔母のメイやサザランド博士である。

 疲れを知らぬ弟子として、〔サザランド〕博士はついにナイティンゲールを見棄てなかったからである。休むこともできず、我慢しきれぬ時があっても、博士はとどまった。「ものの考え方が治しようがないほどだらしない」と彼女は博士のことを言ったが、そのために最後まで彼女に仕えつづけることになった。一度は確かに、休暇をとろうとしたことがあった。しかし、直ぐに呼び戻されて、二度とこの実験は繰り返されなかった。

 博士は階下にいて呼び出しを待っていた。階下に坐って、事務を処理し、手紙の返事を書き、客に面接した。階上の見えない権力者と数かぎりなくメモをやりとりした。時には、ミス・ナイティンゲールの気分がよいから、訪問客の一人と会うという言葉が降りてくることもあった。運のよい男は、階上に案内され、顫えながらカーテンの引かれた部屋に通される。もちろん、この拝謁を生涯忘れなかったろう。(p.92)

 

 この本を読み終えて、現代ではどう書かれているだろうかと思い、まず子ども向けの伝記マンガを手にした。

 『まんが人物伝 ナイチンゲール 看護に生きた戦場の天使』(KADOKAWA)。ハルヒシリーズで有名な「いとうのいぢ」がコミカライズをしている。監修はナイチンゲール看護研究所所長の金井一薫だ。

 

 

 表紙の雰囲気、サブタイトルの付け方などから、この本がナイチンゲールをどう扱おうとしているかがわかるだろう。

 ハーバートなどとの関係もソフトにではあるが、ストレイチーが描いた部分は出ている。しかし、やはり、最良のパートナーとしての美談風になっている。

 もちろん、これはこれで手際よくナイチンゲールの生涯を知る上では便利な本である。

 

 これに対して、ストレイチーのナイチンゲール観をさらに徹底させたコミックが、茨木保『ナイチンゲール伝 図説 看護覚え書とともに』(医学書院)だろう。

 茨木保については過去に取り上げたことがある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 ストレイチーの見解をさらに徹底したのが下記のコマである。

 

茨木保『ナイチンゲール伝 図説 看護覚え書とともに』(医学書院)p.79

 だが、そう聞いて、本書を「ナイチンゲール批判」と受け取るのは早計である。

 茨木のマンガを読むと、ナイチンゲールがいかにすぐれた病院改革者であるかがわかるのだ。病院の衛生や看護についての意見だけでなく、組織の内外でどのように動けば実現するのかが実にたくみ。

 下記はナイチンゲールがいかに統計の利用・視覚化をたくみに行ったかを示すコマである。

 

茨木前掲p.80

 茨木の本を読むと、彼女が著した『看護覚え書き』とあわせ、19世紀にここまでできたことに驚嘆するのである。

 しかしながら、彼女がその目的遂行のために他人を支配し、徹底的に手段として扱ってしまった側面は、リアルな負の側面として読む者に伝わる。にもかかわらず、それは19世紀の制約としてぼくは受け止めたし、この伝記マンガの率直さ・美点として感じられた。こうした側面がないほうがおかしいのだとすら思う。

*1:悩む一面はある。また、その感情の抑圧の仕方がいびつで、それはそれで別の弱さのように思われた。