光州事件を自分が小説にするとしたらどうする?
…という不遜きわまることを考えてみた。
たぶん事件の全体像を先に書いてしまう気がする。または、無意識にそのことを考えて時系列で書いてしまうんじゃないだろうか。
つまりどうしても鳥瞰——巨視的なものから入ろうとする。
だけど、本作『少年が来る』は徹底してミクロ——虫瞰である。
ぼくが一読して最初に印象に残ったのは第二章「黒い吐息」と第五章「夜の瞳」だ。
第二章は、光州事件で殺された人々が死体を軍に持ち去られ、積み上げられたのだが、その殺された人の魂の視点で書かれている。
僕たちの体は十文字状に幾重にも折り重なっていた。
僕のおなかの上に知らないおじさんの体が直角に置かれ、おじさんのおなかの上に知らない兄さんの体がまた直角に置かれたんだよ。僕の顔にその兄さんの髪が触れたんだ。その兄さんの膝裏が僕の素足に掛かったんだよ。なぜそれを全部見ることができたかというと、僕の魂が僕の死んだ体にぴったりくっついてゆらゆらしていたからなんだ。(p.59)
草虫が羽を震わせて鳴いていた。目には見えない鳥たちが高いトーンでさえずり始めた。黒い木々が風に揺れながら、葉がまぶしげにさやさやとこすれる音を立てていた。青白い太陽が昇ってきたと思ったら、猛烈な勢いで空のど真ん中に向かって突き進んでいった。茂みの後ろに積まれた僕たちの体は今、日差しを浴びて腐りだした。血がどす黒く固まった部分にウシバエとコバエの群れが飛んできて止まった。そいつらが前足をこすり、這い回り、また降りてきて止まるのを見つめながら僕は自分の体の周りでゆらゆらしていた。体の塔に君の体が挟まれていないか捜してみたかったけど、夜中にちらちらと僕をなでさすっていた魂の中に君が居たのかどうか確かめてみたかったけど、磁石でくっついたみたいに自分の体から離れることができなかった。青白い自分の顔から目が離せなかった。
そうこうして正午近くになったとき、ふと気付いたんだ。(p.63)
殺された人の人生を振り返るのではなく(いや振り返ってはいるが)、死体そのものに思いをはせる。死体がどのように奇妙に積み上げられ、どう腐っていったか、どんな種類のハエがそこをどう動いたか、それを瞬間でなく、時間を追いながら想像する。
しかも魂に何か独特の法則があるかのようにして。
魂が体からどう離れられなかったかを微細に描き、やがて体をガソリンで焼かれた後に魂がその場を離れるようになった。そこまでを描いて、魂を鎮めることができるのだと作者は思ったのだろう。
魂は存在しないし、ゆえに魂にそんな運動法則があるわけではない。
魂が死んだ後どうなるかを描いた虚構はあるけども、そこから離れた体が目の前で腐り、資材のように扱われたその現実と結びつけたものはあまり知らない。
「魂を鎮める」とはあたかも客観的な魂というものを操作しようとするかのようだけれども、実際には、殺されてしまった人のことを、その事実を知った人の心の中でどうやって想像して位置付かせるかということだ。
本書の表紙は大きなろうそくが描かれていて、本書の随所に出てくるが、それは鎮魂の象徴でもある。本書の大きなテーマの一つが鎮魂であり、殺害され死体となってしまった人を、その人の人生と結びつけながら、しかし殺されて物質となったその事実からは逃れないようにして描いた一つの結果がこの描写なのだ。
こんな描き方もあるのか、と思いながら読んだ。
あたかも憑依したかのような視点を駆使して、現実とも虚構とも、散文とも詩ともつかぬその調子がよく似ている。
もう一つ、こうの史代『この世界の片隅に』『夕凪の街 桜の国』を思い出す。
『少年が来る』はリモート読書会で扱ったのだが、こうの史代に似ていると言った人が複数いた。ぼくは逆で、こうの史代を思い出したものの、それはこうのとは違うという意味で思い出したのである。
こうのは、「我が子の死」や「パートナーの死」を描かなかった。『この世界の片隅に』では、義理の姪の死と自分の右手の喪失を描いたのは、「我が子の死」や「パートナーの死」に特権的なものがあり、体験をしていない自分がそこに踏み込むことへの意識的な謙虚さがあったからだとぼくは思っている。
ところが、ハン・ガンは、そうしたラインを踏み越えて書いている。それが悪いというのではなく、ハン・ガンの一つの決意であろうし、また石牟礼のようなある種の野蛮な熱情でもあろうと思った。あるいは、大田洋子や井伏鱒二のような原爆や戦争を直接体験をした世代の文学を思い出した。
読書会では、その違いについて、ハン・ガンと光州事件の近さ、こうの史代と原爆の遠さの違いではないかという指摘もあった。ハン・ガンはぼくと同じ年代で、光州事件のときは10歳前後だった。こうのもぼくと同じくらいの世代だが、原爆投下や空襲は自分の生まれる四半世紀前の出来事である。
こうのと同じようなものを感じた、といった人は、全体の抑制とともに、最後に希望と言えるのかどうかわからないけど、かすかな明るさをにじませる、あるいはにじませたいという点を挙げていた。
そうかな、と思った。
こうのが描くラストの明るさは、本当に明るいものだ。『この世界の片隅に』で原爆孤児が拾われるというラストは実際にあった精神養子運動を背景にしたもので、そこで社会的な善意と自主的な運動の展望がじんわりと、実に自然な感じでにじみ出ていた。
しかし、ハン・ガンが示すものはそれほどまでに明るいものではない。
作者がまずこの事件で死んだ人や、残された人をどう描くかで精神をはち切れんばかりにさせている、その余裕のなさは、とても「明るい」ラストを描けるようなものではなかったと思う。
終わりの方で、作者と事件の距離感、そしてまずあらゆる資料を全て読み込んだ後で、体験者の思いをどう引き取るかについて書かれていて、そのことがわかる。
こんな描き方があるんだな、と今は思うしかない。

