批評という行為

 11月14日に東京堂書店で開かれたぼくと斎藤美奈子さんとのトーク&サイン会に、いっぱいお運びいただきましてありがとうございます。

 斎藤さんとの「かけあい」はジャズのセッションのようだと思った。

 前にもそういう比喩で書いたことがある。それは全然別のものだったが。

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 質問をお互いに3つ用意していたので、ぼくはそれにどう答えるかをあらかじめ考えてきた。

 トークが始まって、用意されたものを答えようとしたのだが、どうも違うなと喋っているうちに思い直し、用意したものを放棄して、がぜん斎藤さんに振るようにしてしまった。斎藤さんという大家の胸を借りるつもりで、もっとセッションを楽しみたいと思い直したのである。もともと斎藤さんはそういうふうにしようぜと言ってくれていたんだしと。

 結果として、斎藤さんの“ライブ力”とでもいうべきベースの力に乗せられて、「演じさせられてしまった」みたいな感じ。

 まさに最近読んだ『BLUE GIANT MOMENTUM』6巻だな、と思った。

 サックスのコンペで、決勝に残った3人のうち、最初に演奏するノアは、設計された完璧な演奏をすることを試みようとしていた。

 それに対して、主人公の宮本大(ダイ)は、あくまでそこでライブをやろうとする。

 セッションによって相乗作用が起き、お互いに予定されていないものが引き出される。その時の、そこで生まれた勢いとノリで生まれる、その瞬間で火花が散るような時間芸術を展開するのである。

 ダイがたった1つの、しかし桁外れに長く、勢いのあるロングトーンを吹くことで、一緒に演奏していたバンドは「3年に1度できるかどうかの演奏をやらされちま」ったりするのである。

 あるいは、ダイが属する、レギュラーのバンドのベーシスト「よいどれのジョー」のように、「オレのベースに誰でも乗せちまう」(6巻p.21)的な斎藤さんの演奏に乗せられたそんなライブだった。

 


批評とは何か

 トークは終わったのだから、今さらそれに付け加えることは野暮を承知で書くけども、終わった後に、複数の人から、ぼくが斎藤さんに出した質問、「なぜ斎藤さんは批評をやっているのか? あるいは批評の意義は何か?」という問いに対して、斎藤さんの「批評とは何か」の答えが興味深く、全体として「批評という行為」を考えることに、注意を引かれた人がそれなりにいたようだ。

 その中で、斎藤さんは「文学賞というのは批評的な行為ですよね」とぼくに確認してきたが、ぼくはちょっと考えて「ある意味そうだと思います」と返した。

 なんだか自分でも歯切れが悪いなとは思ったのだが、斎藤さんから問われてすぐにうまいフレーズで返せなかった演奏みたいな感じである。用意していた原稿のせいで、自分のマンガ評論のことばかりが頭にあったのである。

 しかし、そもそも「独習指定文献」としてリスト化する行為やリストから外す行為そのものがきわめて批評的な行為ではないか。そこにすぐに思いが至らないところに、ぼくの未熟さがある。

 そして、そうして指定されてきた文献を、自由に、批評的に読もうというのが、そもそもぼくの本(『正典で殴る読書術』)の趣旨であったはずである。そちらの方には全く頭がいかなかった。硬直していたのである。

 共産党は「独習指定文献」リストという批評的な行為によって、メンバーにそれを読むように求める。しかし、メンバーはそれを批評的には読まない。読んで「知は力」にして自分の中にビルトインすべき「与えられた良書」として扱うことしか事実上許されない。そこに現在の共産党をめぐる病理がある。

 志位和夫が「赤本」「青本」を書いて、それを全党で読もう、というのはそれ自体問題はない。前にも書いたが、むしろ奨励されていいくらいだ。

 しかし、それらをたとえ組織内であっても、大いに自由に批評することが、もしできれば、そのような批評精神そのものが共産党を立て直す大きな力になるに違いないと信じる。斎藤さんから「共産党をどうしたいのか?」と聞かれたので、このことも付け加えておきたい。

 しかし、そうなっていない現状がある。

 つい先日も、ある共産党の大きな会議で、「『自由に処分できる時間』や『時短』を前に掲げたのは、選挙ではあまり噛み合わなかった」と発言した直後に、会議主催者によって「不適切発言」とされて会議が中断し、再開後、発言者が自己批判させられたという話を聞いた。しかも後日、「再教育」のために呼び出され、多人数でこんこんと詰られたのである。わずかな「自由で批評的な精神」さえも見逃さずに摘み取ろうという、党幹部の並々ならぬ決意を感じる。

 ぼくは、党幹部のいうことに反発しろ、と言いたいのではない。志位和夫が斎藤幸平との対談で述べた言葉を使えば、「自分の頭で考えよう」ということだ。

 共産党の100周年記念での志位和夫講演を、ある県の共産党組織で学習した際、その講演に沖縄の本土復帰のことが書かれていたことから、ある党幹部は、その学習会で自分の沖縄での思い出をベラベラとしゃべりだしたことがある。

 しかし、あの100周年の記念講演でなぜ沖縄の本土復帰の話が書かれていたかと言えば、それは中北浩爾『日本共産党』への批判が意識されていたからである。中北は連合政権を組むつもりなら安保条約破棄は現実的ではない、と述べている。これに対して、志位は、サンフランシスコ条約で沖縄の占領は固定されていてその本土復帰など全く「現実的」ではないと思われていたが、沖縄人民の闘争によってアメリカの対日支配を動かし、ついに本土復帰を実現させてしまった歴史を持ち出して反論したのである。それはぼくからみて、なかなか見事な、説得力のある反論だと思った。

 志位講演を批評的にとらえるというのはそういうことではないのか。

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 志位が講演で沖縄の歴史を持ち出したのは、昔話をするためではない。

 今そこで現実に問題となっている政治の課題に向き合うために、志位はそのモチーフを選び構成したのだと思う。学習会はそこをとらえて議論すべきである。ところが、その党幹部は、やくたいもない自分の沖縄での思い出話を長々と語ったのである。

 テキストに向き合い、それが現実の政治とどう切り結んでいるのか、あるいは切り結んでいないのかを自分の頭で判定することこそ、「講演の学習」なのであって、最高幹部様のお話はごもっともでございますなあと揉み手をしておいて、ろくにテキストも読まずに、講演の中で目についたワードだけを抜き取ってそれにまつわる世間話や思い出話をして時間を潰すというその「反批評」行為に、党幹部たちの精神的な退廃を見る思いがしたものである。

批評(家)がなければ文化は死ぬ

 斎藤美奈子さんは、批評がなければ文化は死ぬ、と述べていた。

 いや、もっと舌鋒鋭かった。批評家がいなければ、読者だけでは、死にますよ、と述べていた。

 そんなバカな。

 と思いたくなるが、「この作品はこのように読めるのだ」という示す存在がいることで、読者は作者は作品に新しい可能性や本質的な欠陥を見出すことができるのだ。

 左翼組織において、そのような「批評家」の不在、つまり自由な批評を行える無数のリーダーが地域にいないことが、「文化を死なせている」という現実を我々はまさに目の当たりにしているのではないだろうか。

 「赤本」「青本」を読むのが悪いのではない。批評的に読まないことこそ問題なのだ。批評的に読もうとしない「読み」を五万回やったって、何の意味もないだろう。いや、無意味どころか有害ですらある。

 今必要なのは批評的精神だ。