チェ・ギュソク『沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート』

高校時代を思い出した

 韓国で軍事独裁から民主政権が初めて誕生したのは1988年の盧泰愚のときであった。そのころぼくは高校生で、すでに左翼運動にかかわっていた。だからテレビから流れてくるデモの映像とそれによって政権が変わったという話を聞いて、「うらやましいなあ〜 日本ではなんでそんなことにならないのかな〜」と身悶えしていた。同じ気持ちから60年代末の学園紛争の時代が「今(80年代末)」でないことを嘆く気持ちが強かった。もちろん、今はそんな単純なことは思わない。
 その当時の気持ちに、もそっと立ち入ってみると、民主化デモで沸騰する韓国、あるいは「多数の」学生がデモに立ち上がっている60年代末の日本と、目の前にいる「政治的無関心」にとりつかれているとしか見えない日本の高校生たちに途方もない断絶を覚えているということでもある。


 こういう気持ちの流れは、別にそのころに特有のものではない。
 今でも世の中(日本社会)には広くある感情であって、“こんなに民主主義破壊の話がじゃんじゃん出てきているのに、安倍政権が崩壊しないのはおかしい、それは日本の民主主義が成熟していないからだ、それに比べて韓国は「キャンドル革命」をやって政権を変える力を発揮した。日本は遅れている”みたいな。*1


沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート 本書チェ・ギュソク『沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート』(加藤直樹訳、ころから)は、80年の光州事件を起点にして88年の民主化にいたるまでの韓国の学生運動を、一つの家族の物語に焦点をあてて描いたマンガである。
 このマンガは高校生のころのぼくの感情、「うらやましいなあ〜 日本ではなんでそんなことにならないのかな〜」を思い出させた。
 そして、「韓国は1980年代末でこんな日本の戦前みたいな状況だったのか、遅れているな」という感想と、「やっぱり『民主主義を戦い取った国』は違うな。日本よりも進んでいる。だから『キャンドル革命』みたいなこともできるんだ」という感想と、両極端の感想が頭をよぎった(それらは自分の感想のような気もするが、すぐ「どちらもぼくはそう思わないな」とも感じた)。

家族の変化が社会の変化

 『沸点』は光州事件全斗煥による反政権運動の弾圧)をきっかけに、反政府的な学生運動にかかわると売国奴であり国賊であり一族の恥であるという意識を受け付けられ「反共少年」として育ったクォン・ヨンホとその家族が主人公となる。
 この物語のキモは、大学で学生運動にふれて進歩的な転換を起こすヨンホもさることながら、ヨンホを恥としたり、憤ったり、複雑な感情を抱いていたりした家族が次第に変わっていくということである。
 ヨンホは学生運動というラディカルな部分を代表しているが、韓国のもっとも保守的で幅広くベースになっている部分を、その家族が代表している。ヨンホの家族がどう変わっていくかを描くことは、そのまま、韓国世論が学生たちの先鋭的な運動をどう取り込んで変容したのかを示すものになっている。

ヨンホの母の変化

 特に焦点が当てられているのは、ヨンホの母(チャン・オクプン)である。
 ヨンホの母は、とにかくヨンホに「アカ*2」だけにはなってくれるなと愚直にいうしかない、「田舎のおばさん」である。ヨンホが学生運動にかかわりだしたときの恐れように既視感がある。ぼくの家族(祖父母や父母)が、ぼくが左翼運動に加わっていった時のあの恐れの顔に似ている。ヨンホの母にぼくはぼくの家族をみる。


 しかし、ヨンホの母が「家族がアカとしてあつかわれるおそろしさ」をしみこませているのには、歴史がある。ヨンホの母の母は、朝鮮戦争のとき一般市民であったにもかかわらず、「アカ」とされて連行され、帰ってこなかった。そのあと、ヨンホの母自身が「アカの子」としていじめられるのである。
 この歴史とヨンホの母の意識は、韓国民の典型的形象として描かれている。


新・韓国現代史 (岩波新書) 朝鮮戦争直前に起きた済州島事件(四・三事件)は米軍政による単独選挙反対の反乱が大々的な反共的虐殺を引き起こした事件であった。

四・三事件済州島民の昔ながらの気風を徹底的に打ちのめし、彼らの政治や社会に向き合う姿勢を大きく変えた。四・三事件がもたらした島民の心理的な屈折の問題は、しばしば「レッド・コンプレックス」と言い表されてきた。四・三事件以後の済州島では、「誰も“アカ”の悪霊から自由では」なく、「誰かが私を罠にかけてアカにしようとしている」とか、「アカが捕まえにくる」というのが、五〇〜六〇年代における精神科の患者の最も多い訴えであった(黄サンイク「医学史的側面から見た四・三」)、という。両親が罪もなく犠牲になった被害者でもそれが討伐隊の手で殺害された場合は、「暴徒」の家族として子や孫に至るまで韓国社会では日陰者扱いされた。連座制が陰に陽に幅をきかせるなかで、反共団体に身を投じたり、権力への過剰忠誠を通して「アカ呼ばわり」から逃れようとする被害者の親族も少なくなかった。(文京洙『韓国現代史』岩波新書、p.70)

 そして、済州島民が負わされたコンプレックスとそれへの負荷は、韓国民全体にのしかかる反共意識の原型となった。

民主化以前の韓国では、反共を国是とする一糸乱れぬ「国民」化こそが至上命題であった。(同前)

朝鮮戦争は、四・三事件済州島民が負った心の傷(レッド・コンプレックス)を韓国人全体にあまねく押し広げることになった。李承晩政権のみならず、韓国の歴代の権威主義体制を支えた最大のものの一つに、戦争を通じて人びとの心に根づいた冷戦的な情緒や価値観があった。朝鮮戦争中の未曾有の虐殺・テロは、消しがたいトラウマや憎悪を南北双方の住民の心に刻みこんだのである。朝鮮戦争後の韓国社会では、反共は、たんなるお仕着せのイデオロギーではなく、一種の社会倫理規範として定着し、人びとの行動様式を内側から規定する呪縛となった。それは「北の脅威」という安全保障上の言説が、人権や民主主義を含むあらゆる社会的価値の上位に置かれる社会であった。(同p.83-84)

 
 ヨンホの母(チャン・オクプン)の母が連行されて殺されたのは彼女が「保導連盟」のリストに名前があったからである。

戦争は、多くの非戦闘員を巻き込み、済州島での虐殺が朝鮮半島全域で再現される形となった。戦争が始まるやいなや犠牲となったのは、政治犯や、左派の経歴のある予備検束者、そして左派の懐柔や統制を目的につくられていた国民保導連盟のメンバーたちであった。韓国ぐんは敗走しながらも、保導連盟員を韓国のほぼ全域で虐殺した。保導連盟員として、虐殺された住民の正確な数字は明らかでないが、忠清北道だけでも連盟員一万人余りのうち三〇〇〇が殺害されている。全国で連盟員として登録されていたのは三三万人であった(韓知希「一九四九〜五〇年、国民保導連盟結成の政治的性格)。(同p.76-77)

 ぼくの家族の顔がヨンホの家族にかぶる、という旨のことを今書いたばかりだが、日本の中の反共風土とは違う、「社会倫理規範として定着し、人びとの行動様式を内側から規定する呪縛」となるほどの強烈なものが韓国の反共意識であったと言える。
 にも関わらず、民主化をへて現在のような南北の融和ムードに社会が覆われるという変化に驚かざるを得ない。


 最初の問い――韓国は市民革命によって民主化を戦い取った国であり、日本よりも進んでいるのか?――については、本書(『沸点』)から何か判断することができるだろうか。


 確かに、87-88年の民主化は先鋭的なデモに続く形で、根強かった反共意識を一つひとつ崩し始めるきっかけとなっていったという根底的な社会変化をもたらしていったという点では、目を見張るものがある。
 例えば日本の60年安保闘争とそれを比べてみる。確かに闘争直後には安保条約への批判意識を高め、岸内閣を退陣に追い込んだ。しかし、それは反安保の政権交代をもたらすことはなかった。
 しかし、「政権は交代しなかったが政権を打倒した」ということは、それほど「遅れた」事象なのだろうか。
 あるいは、韓国の軍事独裁ほどの強圧で臨まなかったぶん、日本の保守政権は柔軟に世論に対応して内閣を退陣させたとみることもできる。


 70年安保、つまり60年代末の学園紛争との比較ではどうか。
 学園紛争によっては政権は退陣すらしなかった。
 学生運動はその後壊滅していったではないか、と。
 しかし、これはぼくが以前に書いたように、いわゆる「全共闘新左翼」の動きに目を奪われすぎな評価である。
 60年代末の大学民主化闘争で鍛えられた流れは、やがて70年代の「革新高揚期」を準備し、日本中を「革新自治体」の中に巻き込んでいく力強い潮流を形成した。社会のところでの奥深い変化を準備した。

 〔小熊英二『1968』は〕早い話が全共闘運動に目が行き過ぎなのである。本書〔小熊『1968』〕で全共闘運動以外に同時代のものとして特別にとりあげられ、小熊の肯定的評価がにじみにでているのはベ平連くらいなものだ(リブの運動はポスト全共闘=「1970年パラダイム」として、そして連合赤軍全共闘運動の延長にあるものとして扱われている)。新左翼運動や各種党派は予備知識的に上巻で扱われているのみである。なぜ各党派に「近代的不幸」を感じて参加したかは、各党派の正史などからもっと学んでもよいはずである。

 社会全体の流れで見ると、1967年に美濃部都政ができるのを嚆矢にして全国に革新自治体が広がり、人口の過半数を制するにいたるようになる。自民党は1970年代に「与野党伯仲」=過半数割れの危機を起こし始め、共産党は40議席になり、70年代に一つの絶頂期を迎える。

 左翼運動の破産どころか、左派系の政権交代が最も現実味をおびたのが70年代の空気であった。

 革新自治体は社会福祉・反公害など、高度成長のひずみを是正することを掲げた。大学紛争も、進学率の上昇のなかでそれに対応しない大学の状況が批判されるなかでおきたものだとみなすのが妥当だとぼくは思う。だから、大学解体や自己否定のようなスローガンをかかげる全共闘が孤立し、小熊があげた各種のプレ大学紛争や東大闘争が「大学民主化」の枠組みで勝利するのはあまりに当然のことである。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/1968.html


 結論から言えば、韓国の運動の歴史を「80年代にこんな野蛮な運動やってたんだ。遅れてるなあ」と不当に低く評価する必要もないし、「日本は社会運動で政治を変えたことはない。韓国はすごい」などと自国の運動を卑下して韓国を高く評価しすぎる必要もない
 現在の運動についてだってそうだ。
 文在寅政権が「キャンドル革命」によって誕生したことは間違いないだろうが、その政策が合理的な道筋を持った左派政権がどうかまだわからないし、ひるがえって日本の、例えば「市民と野党の共闘」が実を結ぶかどうかはこれからにかかっている。

補足(2020年11月)

 光州事件を描いた映画「タクシー運転手」を見る。直截に軍部独裁の非道を描く。これも見応えのある映画である。
www.youtube.com

*1:関係ないけど、ぼくが前に「『安倍を支持する3割』についての想像」 という記事を書いた時、コメント欄とかブコメでまるでぼくがこの種の愚民観に陥っている前提で、ドヤ顔コメントしてきた人がチラホラいたんだよね。ぼくは記事中でもなんども念押ししたように、「政権支持を変えない層はどういう層か」を純粋に疑問として書いただけなのにね。

*2:韓国語では「パルゲンイ」。