タイトルの通り、著者ちょめの短編集である。初出を見ると5編のうち「個人出版物」が4編だから、ほとんど同人誌からのものであろう。
軽い気持ちで読む。
2つ目の短編「21gの冒険」は、交通事故と思しき事情で亡くなってしまった27歳の女性の魂が事故現場から、やがて昇天するまでを描いている。
体が軽くなりビルの上に浮き上がったり、地面に降りていったりと自由自在だ。
巨大になったり、子どものように小さくなったりもできる。
花畑で寝そべった後、自分が収まるであろう墓を見て、最後に大気圏の終わりのあたりまで舞い上がり、宇宙なのか地球なのかわからないがあたかもそれらと一体になるかのように薄れていって消えてしまう。
「へえ…魂って死んだ後こんなふうにさまよって、溶けていってしまうんだ…」
などとしみじみしてしまう。
いや、そんなはずはないんだけどさ(笑)
でもそんなふうじゃないのかなという空想を提示して、そうかもしれないですねとつきあって想像するような楽しさがある。
家族が泣いているシーンは1コマだけ挿入されているが、本人はそれでちょっとだけ気鬱になるだけで、総じて楽しそうなのだ。
それでいてどことなく寂しい。
福岡アジア美術館で開かれている「谷川俊太郎 絵本★百貨展」を見にいった時、谷川・合田里美『ぼく』という絵本と原画が展示してあった。
解説に次のようにある。
死んでも、限りない宇宙の中でも生きている
子どもの自死をめぐるこの絵本は、構想から約2年の歳月を経て出版された。谷川さんは、自死について、直接的な理由だけではなく、もっと深い何かがあり、わからないものなのではないかと考えていた。この絵本を「より深く死を見つめることで、より良く生きる道を探る試み」と位置づけ、谷川さんは言葉、そして絵についても推敲を重ねた。透明感のある明るい絵の世界の中で「ぼく」は浮遊するように描かれる。画中にあるスノードームは「ぼく」の内面をシンボリックに表す。人は死んでも「ひいては限りない宇宙の中を生きている」。死を否定的なものと考えない谷川さんは、この絵本を明るいものにしたいと願った。「ぼく」のノートに書いてある「いきていて」という詩にその気持ちが託されている。(林綾野)
「透明感のある明るい絵の世界の中で『ぼく』は浮遊するように描かれる」とか「人は死んでも『ひいては限りない宇宙の中を生きている』」とか「死を否定的なものと考えない」とかいう文言は、本作を思い出させた。
最近、自分や自分の周りの人の死について考える機会が幾度となくあった。
久坂部羊『人はどう死ぬか』は、医師としての患者の死に向き合ってきた体験や自分の肉親の死に立ち会ってきた経験などから死について書かれた本である。死を受け入れることについて書かれた本であるといってもよい。
老衰で死ぬというのを人は理想のように思うかもしれないが、体の自由が効かなくなっていつ死ぬか、そして自我と他者の境界さえ曖昧になるような状況が長く続くことは本当に幸せだろうか。ガンで死期を告げられるのは、死と直面することにはなるけども、残りの期間をどうやって生きるかを主体的に選択し、周りとの関係も意思的に形成していけるではないか。
確かにこれを読んで、自分の生死感が少し変わってしまったようにさえ感じた。
死を恐れない方法は二つある。
一つは、死のことを考えないようにすること。
もう一つは、死と向き合い、出来るだけリアルに意識して、「死の恐怖に慣れる」という方法だ。と久坂部は言う。
先に人はどんなことにも慣れると書きましたが、恐怖も同じです。何度も繰り返し思い浮かべていると、徐々に迫力もなくなり、死のいろいろな側面を考えるうちに、さほど恐れる必要もないことがわかり、自分が幻影に振りまわされていたことも実感できて、死の恐怖が薄れてきます。
そうなれば死を見据えた人生がはじまり、死ぬべきときが来れば、従容としてそれを受け入れ、上手な最期を迎えることができるでしょう。
苦しみから目を逸らして、最後にツケを払うか、早めに苦しい思いを乗り越えて、人生をうまく仕舞うか、いずれかということです。(久坂部羊『人はどう死ぬのか』p.79 Kindle 版)
「死を否定的なものと考えない」とは自分としてはあまり深く考えたことのない境地だった。
全然悟れたわけではないけども、死についていろいろ考えることのあったマンガ、展示、新書であった。