コミック版『けいおん!』の全4巻を読了する。
『けいおん!』を知らない人のためにいっておくと、高校に入学してバンドを始めた女子高生・平沢唯を中心とする同級生3人と、下級生1人のゆるい日常をつづった4コママンガである。
アニメは第2期の第20話が「神回」と騒がれ、学園祭でのライブが終わって本当に卒業してしまうのだ、この絆の共同体が崩壊してしまうのだ、ということが5人の胸にこみあげ、部室で泣きはらしてしまう、という回だった。
コミックではこの描写はあっさり通り過ぎている。
それとは別に、ラストで同級生4人が卒業式を終えて高校生活をふりかえるときに、涙を流す。オーソドックスだけどこの演出も悪くないなと思った。
『けいおん!』には成長がないか?
さてそんな『けいおん!』であるが、2chまとめサイトの一つである「今日もやられやく」で、朝日新聞夕刊に載った伊藤遊の『けいおん!』評が酷評されていた。
朝日新聞夕刊の”みんなのマンガ学”「けいおんはストーリーがないから成長もない。」 - 今日もやられやく
http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-6950.html
その騒動をネット記事にしたのは、これ。
人気漫画「けいおん!」 「ストーリーも成長もない」のか - J-CASTニュース
http://www.j-cast.com/2010/10/22078952.html
もとの2chのスレはこの評を「アンチ評」と決めつけたうえに、「オチも成長もない日常をユートピア的に描いた本作」「ストーリーがない」「成長しない」という部分にかみついている。あるではないか、と。伊藤がとりあげたのはマンガの方であるが、この話題についてはアニメとマンガでのあまり意味のある差異を感じないので、ことわりのない限り一体のものとして考えていく。
「空気系」という把握
ストーリーがあるかないか、成長があるかないかは、「ストーリー」や「成長」の定義によってかわってくる。だからこれは一種のスコラ(神学的論争)の域になるので、ぼくはここからのアプローチはしない。
伊藤のような把握は、たとえば「サイゾー」2010年11月号の「CROSS REVIEW」に載った評者3人(宇野常寛、黒瀬陽平、中川大地)の短評に見られるように、わりと普遍的なものである(引用はいずれも「サイゾー」2010年11月号p.99)。
宇野 「無物語性」とどう向き合うか?
自己目的化した「青春」を描く(空気系)の代表作たる本作はその弱点である物語性の強化に舵を切った。その空疎さこそを逆説的に武器にするという凡庸さに落ち着くよりは意欲的でいい。
黒瀬 空気系のターニングポイント
空気系アニメの到達点である。しかし、空気系の火付け役となった『らき☆すた』が、「なんでもない日常」と「ネットにおける消費環境」を重ねあわせたのに対し、本作は日常のみにモチーフを絞ってしまった。その結果露呈したのは、「特別な非日常」が描けない、という空気系の弱点である。アニメ3期を待望する声も多いが、このまま彼女たちの日常を描くだけでは先細りになるのは明らかだ。大きく舵を切ることを期待したい。
中川 現代的「幸福」イメージの普遍性は?
性愛や闘争といった近代的ドラマツルギーの一切をあえて排除し、成熟社会における最大限の可能的「幸福」のイメージを結晶化することで、「抵抗」が失効した世界でのロックパンクの代替モデルを新たに示す達成が本作だ! という信者な皆さんの心情はわかるし否定しない。が、この2期が示すように、それは「学園」の特殊な時限性に回収されざるをえず、幸福論としての普遍性は低い。おれたちの身体の入りうる、その先の「楽園」像を、諦めずに探そうぜ!
宇野と黒瀬の評価は逆さまであるが、どちらも『けいおん!』が「空気系」であり、それが「無物語性」、「性愛や闘争といった近代的ドラマツルギーの一切をあえて排除」しているという把握をベースにする点では共通している。「空気系」という把握にはこの認識が反映している。
この把握を短い評のなかで最もロジカルに書いているのは、中川だ。
「大きな物語の失効」という認識
ぼくは「大きな物語」の失効というポスト・モダニズムの認識について以前少しだけ書いたことがある。
伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』評 - 紙屋研究所
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tezuka-is-dead.html
そこでぼくが書いたことをふまえて再論するとすれば、「『抵抗』が失効」したと感じられるのは、近代=資本主義の代替物であるとされた「社会主義」=ソ連が解体したからであり、マルクシズムが退潮したように見えたからである。「ポスト・モダン」という把握はすべてはそこから出発してる認識だ、とぼくは考える。
現体制に抵抗して闘争し新しいユートピアをつくりだすというモデルが現実性を失ったがゆえに、そういうリアリティをもった物語をつむぎだすことは困難となり、物語のない、近代的なドラマツルギーを欠いた「空気系」が幅をきかせることになる、というわけだ。リアリティのないドラマツルギーを排除した日常の断片だけで構成されるものの中にこそもっともリアリティのあるユートピアが立ち上がる、と。
居場所としての『けいおん!』
ぼくはこの作品の評価を「ポスト・モダン」的な認識から引き出すことに、懐疑的である。
『けいおん!』のよさは、その居場所性にある。
非正規労働者の労働トラブルの解決にあたる首都圏青年ユニオンが、単に争議解決の抵抗組織という意味づけだけでなく、料理づくりや簿記の勉強、いろんなイベントをやったりして、そこに組合員が居着いていく、というのは、資本の攻撃やそれらが生み出す苛烈な競争社会、苛酷な人間関係の中で傷ついた人々が居場所を求めているからである。
首都圏青年ユニオン機関紙「ニュースレター」評 - 紙屋研究所
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/newsletter.html
雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について』評 - 紙屋研究所https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2008/09/01/000000
「イヴの時間」評 - 紙屋研究所
kamiyakenkyujo.hatenablog.com
それは左翼組織や労働組合のような場所に限らず、近年新しいコミュニティのようなものが求められているのは、まさしく居場所や共同体のような場所が必要とされているからである。
広井良典『コミュニティを問いなおす』評 - 紙屋研究所
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/community-wo-toinaosu.html
新自由主義が、中間的コミュニティを解体し、個人を原子のようにバラバラにしてむきだしで資本の暴風の前にさらすとき、その防波堤として、あるいは制御装置としてコミュニティを求めるのは、一つの流れである。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/community-wo-toinaosu.html
雨宮・萱野が『「生きづらさ」について』で書いているように、学校のなかでは、人間関係に疲れ果てる。高度なコミュニケーションスキルを「最小限の労働力水準」として求めるという資本の現代的要請が社会全体を覆い、学校もそれに浸食される。
たしかに、こうした社会情勢に「抵抗」でもって立ち向かえ、団結せよ、というメッセージはあまりに距離がありすぎる、性急にすぎる、というのは否めない。
しかし、まったりとできる、気のおけない居場所をつくりだすことは、単に、「抵抗できない人たちの逃避」だったり、「抵抗に向かうまでの前準備」ではない。そのようにして自然発生的に(もしくは意識的に)生まれてくる居場所というものは、資本主義的な、分断された個々人が競争しあう荒廃した世界にたいする最も戦闘的なオルタナティブであり、その共同体性、コミュニティこそ未来的なコミュニズムの萌芽の一つであるとさえいえるのだ。
なるほどコミック『けいおん!』4巻に出てくるような、学園生活最後のライブにむかう5人のじゃれあい、受験勉強しようと思いながらついつい遊んでしまうあの時間の楽しさは、たしかに「箱庭」的であり「時限」的なものである。
しかし、そのベースにあるのは、近代に対する批判としての居場所だ。
部室で毎日お茶をして、くだらないことをしゃべり、苦役かつ義務たる勉強=受験を友だちのジャマをしながら乗り切ってみたいではないか。
その意味で、伊藤が挙げた「ユートピア」、中川のいう「楽園」はまさにここにあるといえる。この楽園性はおそろしく強靭なものだ。
「サイゾー」の11月号では、『けいおん!』が女性・女子にもウケているという座談会や記事が載っているが、女性たちこそが作り出すのがウマい「居場所」の力が『けいおん!』には満ち満ちているからこそ、『けいおん!』はウケるのだ。