『イヴの時間』

※ネタバレがあります

 

 今回は珍しくアニメの感想を。

 Yahoo!の動画サイトであるGyao!で無料公開されてきたアニメ。1話15分ほどで、6話で第一部が完結している。アンドロイド(人間型ロボット)が実用化された近未来の日本とおぼしき場所を舞台にしている(09年10月28日の時点では無料公開は1話と6話しかない)。

 

 今さらながら観た。

 面白かった。

 何が面白かったのかなーと歩きながら考えていたのだが、この作品で描かれている環境の「温度設定」が、ぼくらをとりまいている人間関係の「温度設定」にそっくりで、このアニメをぼくらが「ぼくらの物語だ」と思って観るということなんじゃなかろうかと思い至った。

 この作品では、アンドロイドは外見は本当に人間そっくりのものが多く(初期のタイプはロボット然としているが)、人間とアンドロイドを外見上区別するのは頭の上についている光っているリングだけだ(ホログラムとして空中に浮いている)。天子の頭にある光輪のように見えるので「死人」のようにも見える。そしてアンドロイドは人間の命令に対して実務的な受け答えしかしない。その無表情で無気力な外見もアンドロイドを「死人」のように見せている。

 アンドロイドを人間のように扱って親交を結んだり、セックスの相手(セクサロイド)にしてしまうような人間は「ドリ系」とよばれて蔑視されている。

 こうして書いてみるとわかると思うが、アンドロイドと人間の関係は、そのまま、お互いの心のうちをさらけださない現代のぼくらの、人間の間におけるコミュニケーションの有りようにそっくりである。

 今の日本では、のめりこんだり、トラブったり、人間関係のバランスや距離感が異常に崩れやすくなっており、そうした人間は「KY」と呼ばれたり、「ストーカー」と呼ばれたり、「モンスター」と言われたりする。モノへの過剰な依存をすることもふくめ、そうした人間関係の「崩れ」全体を、この作品では「ドリ系」という言葉に変換している。まあ「ロリ系」に語感が似ていて、蔑称としてよくできている(笑)。

 「ドリ系」というカテゴライズ、レッテルができれば、そこに落ち込むことを人はひどく恐れるようになる。アンドロイドと人間が親密な関係を結ぶことを「空気」として非難するような意識が蔓延している。

 「温度設定」というのは特にこのあたりだ。
 作品の中のテレビでは政府ではなく、民間団体である「倫理委員会」のCMが絶えず流されていてロボットと人間の過剰な接触、意識交流、依存を叩くキャンペーンが張られている。
 もし政府が苛酷にロボットと人間の親交を「弾圧」しているという設定にしたら、こういう微温的な空気感はこの作品に生まれなかっただろう。手塚治虫の時代ならそうしたかもしれない(笑)。
 法律できつくしばるほどではないが、「何となく」悪いものだという空気が流れている、この「温度」だ。
 いちおう作品の中でもロボット法という法律はあるのだが、それほど苛酷なものでもなさそうである。現代でもたとえばストーカーを規制する法律はあるが、一定の要件がなければ立件はされないものの、つきまとう行為自体は非難がましくみられている。「窓の下から愛する人を想う」なんていうのは、一昔前はロマンチックな行為だとされていたのに、今では立派な「ストーカー」だ。
 作品のなかでたとえば、新任アンドロイドの教師に対して、画面の隅の方で生徒たちがとりかこんでフザけた言葉を投げつけているシーンが挿入されている。少し「いじめ」っぽい空気がそこには流れているのである。
 まあそういうあたりが非常に「現代的」なのだ。

 主人公の高校生・リクオは自分の家で家政のために使っているアンドロイド(サミイ)が指示にないところに外出先で立ち寄っていたことに気づき、そこへ行ってみると「イヴの時間」という店名のカフェが地下にこっそりとあった。サミイはここへ寄っていたのだ。
 「イヴの時間」は「当店内では人間とロボットの区別をしません  ご来店の皆さまもご協力ください ルールを守って楽しいひと時を」というルールが入口に掲げられている。そこではアンドロイドのリングが消され、もはやだれがロボットでだれが人間かわからないようになっているのだ。
 店内の客はまだらだ。逆に言うと落ち着く。それぞれの客が、海の上の島のように点在している。それらの客はふだんは交わりはしない。しかし、ごくたまに気がむいたり、子どもがそこに介在すると話したりする。

 ロボットと人間との間にある「へだたり」「よそよそしさ」がそのまま、現代のぼくらが感じている人間関係における緊張、コミュニケーション不全、「精神的生きづらさ」であるとすれば、この「イヴの時間」の空間や雰囲気は、そのような緊張から解放される「居場所」である。「避難場所」のようでもあり、そこから元気を補給されて日常へとむかう「基地」のようにも見える。
 「イヴの時間」のなかでニット帽をかぶってひときわ元気のよい、アキコという少女がいる。店内でそのようにふるまっている彼女であるが、リクオが自分の学校へ偶然用事をしにきた「アキコ」とおぼしきアンドロイドは、リクオには何の注意も関心も払わない、まさにロボット然として無表情に用事を果たしていった。これは、お互いに仮面をあぶりあっている人間関係の「日常」と、その緊張から解かれた「隠れ家」との関係そのものだ。

 

 以前ぼくは雨宮処凛萱野稔人『「生きづらさ」について』(光文社新書)のレビューを書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 そのなかで、精神的な生きづらさと経済的な生きづらさが複合している現代の生きづらさについてふれ、サヨク組織が「居場所」になっているということについて書いた。
 左翼の青年組織といえば政治や闘争バリバリのような方針を思い浮かべるが、意外にも最近は「人間関係」や「居場所」をキーワードにしていることについて驚きをそこでも述べた。

 最近、つきあいのある民主青年同盟(民青)の大会決議案を読ませてもらったのだが、この傾向がいっそう強まっている。
 決議案の冒頭は「前大会後のとりくみの確信——居場所を力に、願い実現へ力つくした民青同盟」というタイトルで始まる。「居場所」が最も重要なキーワードの一つとしてあがっているのだ。

 

民青同盟は、班会議〔同組織の基礎単位の会議。職場や地域や学校を単位にして数人規模であつまる——引用者注〕や「3分間スピーチ」、誕生日会、自分史交流などで、なんでも語りあい、どんなことでも一人ひとりの声にこたえて、学び、行動することを大切にしてきました。

その一つひとつの“笑顔”の裏にある不安や悩み、つぶやいた声の奥にある心の叫びを受けとめ、ありのままの自分をだせる場をつくりだし、「ここなら思ったことを話せる」「自分は一人じゃない」と、青年の連帯をきずいてきました。笑いも涙も、楽しいこともつらいことも、みんなで向きあい乗り越えて、一人ひとりの成長を支えあい、自分らしい生き方を育んできました。

ひどい働かせ方や高い学費など、“あきらめてた現実”“考えないようにしていたしんどさ”も、仲間とともに学び交流する中で、“自己責任”ではなく、“政治の責任”と気づき、力をあわせて願いの実現へ行動にふみだしてきました。

このように、民青同盟がつくってきた居場所は、青年の連帯をきずき、成長を支えあい、行動へふみだす確かな力となっています。

(「民主青年新聞」09年10月12日付、改行は引用者)

 左翼組織、政治組織の昔のありようを知っている人などからすればこうしたふみこみは「気味が悪い」と思う人がいるかもしれない。前にもそれはぼくも書いたことだが、ぼく自身もそう思っていた。
 しかし、若い人と接するにつけ、この「イヴの時間」の店の外と中での空気のちがいを一つのリアルだとみるような人間関係のことをどうしても念頭におかないわけにはいかないと最近は思うようになってきたのだ。

 民青の「紹介ビデオ」というものもあるのだが、これはびっくりするくらいに、日常の人間関係のなかで傷つくことがテーマになっている。イラク戦争への反対を口にしたら「正義の味方だね」と揶揄されたりとか、平和のことを話題にしたら変わり者だと見られたりとか、そういう話。民青の班での会議がそのような現実の人間関係の緊張からいったん解放され、再び現実へとむかっていく力になっている、というのがこのビデオの基調だ。

 「イヴの時間」の店の空気と、現実の外で構築されている「ロボットと人間の関係」の空気が、こうしたとらえ方に相似しているとぼくは思った。

 もう一度、はじめの問いに戻ろう。この作品をぼくが面白いと感じたのはまさにその「温度設定」にある、とぼくは述べた。〈ぼくらをとりまいている人間関係の「温度設定」にそっくりで、このアニメをぼくらが「ぼくらの物語だ」と思って観るということなんじゃなかろうかと思い至った〉とはこのような意味なのである。

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