というわけで、『放浪息子』完結を祝い、巻ごと、話の区切りごとの、感想を垂れ流していく。
シーンの説明を省くので読んでない人にはちんぷんかんぷんだろうし、こういう自意識のだだ漏れぶりに耐えきれない人もいるかもしれないが、しばらく辛抱しろ。お国のためだ。
便宜上、人格を分裂させる。
※1〜6巻までの感想はこちら
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/houroumusuko.html
※15巻全体についてはこちら
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20130902/1378051706
紙屋B どうも、じゃねーよ。なんだよ、AとBって。
A Bが紙屋本体、Aがメタな自意識ということで。さっそくですが7巻から8巻の二鳥修一が平日の中学校に「女装」で登校する前まででハフハフしたところは。
B 展開はえーな。まあいいや…。そうですね、自分がハフハフするのは、安那ちゃんとにとりんがつきあうところ、つまり、にとりんが安那ちゃんに受け入れられるところがいいんですよね。
A そのプロセスが好き、っていうのは、二鳥修一という男子の目線を自分に同一化させて、芸能人である末広安那というカワイイ女子とつきあった、ということに興奮しているわけですか。
B 千葉さんににとりんが告白されて、ソファに押し倒されそうになったシーンも悶えたんですけど、「きれいな女の子に好かれたかった自分としての二鳥修一」っていうのはありますよね。女の子に好かれているにとりんが好きです。
A 「きれいな女の子」というのがミソですよね。上野千鶴子のいう、「所有している女で自分の男としてのランクを格付けする男のミソジニー」ですか。
B そんなこと言われても…。
A なにカマトトぶってんだ。つうか、修一の「女らしさ」にはもう興味がないんですか。
B たとえば、8巻で安那ちゃんがにとりんとのデートを真穂に報告しているとき、にとりんの女の服を見る目がマジだよ、と告げる描写や、「メガネ少女の休日」なんつーテーマで安那ちゃんとにとりんが出かけるときのにとりんの女装には萌えます。
A それってなんで萌えてるんですか。
B よくわかりませんけど、草食っぽい自分、中性的である自分、マッチョを否定する自分という気持ちがにとりんと重なっているような気がします。同時に、そういう性の境界にあるものに性欲を感じるというふうな。性の境界線にあると、よりはっきり「女」が意識されるんですよね。前にも述べましたけど。
A 自分で自分とセックスするわけだ。わははは。
B まあ、そんなふうな。あと全然ちがうんですけど、真穂が8巻で「あたしは自分よりかわいい彼氏なんていや」といって、映画をみている彼氏(瀬谷)の横顔をみながら「こいつ…似合いそうだなあ…」というときのセリフや表情(p.60)、すぐ次のシーンの、おじいちゃんちに行かなきゃいけないと母親に言われたときに「あーそうかめんどくせー」というセリフと表情(p.61)が、すごいリアルで好きです。中学生女子のリアルって知りませんけど、直截、あけすけ、行儀悪いというリアルを生きていて、一番このマンガの中で「現実にそのままいそう」というキャラクターが真穂ですよね。そしてその現実感の中でその直截さがかわいいと思えるんです。
A 「おかまのお姉さん」たる「ユキさん」に土居を会わせるシーンはどうですか。
B ユキさん、どんどんきれいになってますよね。
A そうですね。「ムリムリな女装」をする海老名さんとの対比で、修一の将来を待ち受ける岐路、二つの道、すなわちユキさんのように、女っぽくキレイになるか、ヒゲや骨ばった感じ丸出しの海老名さんになるか、そういう選択肢の構図を提示するために、ユキさんはどんどん美しく描写されるようになっていってる気がしますね。
B 志村貴子が、にとりんや高槻さんについて「ユキさんという大人と知り合いである子どもってスゴい」というポジションの提示を作品の中でくり返すのがなんとなく可笑しいです。確かにそうなんでしょうけど、何回もくり返されると「そこまでそう思うの?」っていぶかるようになって、果ては土居が打ちのめされるのを見るに至って、打ちのめされすぎだろうと(笑)。