高妍『隙間』

 『隙間』は、台湾の学生が沖縄の芸術系大学に短期の交換留学をしたことを描いたフィクションである。

 

 主人公は楊洋という女性だ。社会運動の中で台湾についての歴史を学ぶうちに、台湾独立の主張や、国民党政権時代に弾圧された民衆の歴史にふれ、それらを知らないまま生きてきた自分の台湾人としてのアイディンティティが揺らぎ出す。また、同性婚をめぐる国民投票で世論が分裂するのを見て、やはり「台湾人」という括りが動揺する。
 これらを台湾のすぐ隣に位置し、よく似た境遇の島としての沖縄で生活する中で、「似ているところ」と「違うところ」を強く意識するようになり、その境目を行き来することによっていっそう激しい自己同一性の揺らぎを感じるようになる。

 しかし、これらは、自分とは別の何か「社会」を学んでそうなったのではない。
 楊は仲が良く敬愛していた祖母と一緒に暮らしていた。
 祖母は留学の前に亡くなってしまう。病気でやつれていった祖母の姿や祖母の不在は、台湾にいても自分自身がいるべき場所を失ったような痛みを楊は感じていた。
 同時に、楊は高校でいじめに遭っていた。
 学校は何もしれくれないどころか、いじめる生徒たちの側をむしろかばっていたのである。「抑圧される被害者」としての自分が、かつて弾圧され虐殺された民衆に重なる。
 このように、楊自身の「居場所」「抑圧」が、台湾の歴史と重なりながら、物語は進行していくのである。「台湾人としてのアイディンティティ」とは、楊にとっては自分史なのである。

 

暴力と尊厳

 だから、ぼくが本作を読んで一番印象に残ったのは、同級生たちからのいじめに突如暴力によって抵抗するシーンだった。([05]煙草を吸えない日々、第2巻)
 識字できない祖母を侮辱され、楊は同級生を押し倒し、鼻血を流させ、首を締め上げる。
 社会運動や社会変革において暴力はよくない、というのは全くその通りで、ぼく自身の信条でもあるし、本作でも事件の後に祖母に「忘れないで 怒りじゃ何も解決できないわ」という言い方で諭される。現実社会においてはぼくは全く祖母の味方である。
 しかし、物語におけるこの暴力の爽快感はどうだろう。
 追い詰められ虐げられた者の爆発が暴力として噴出し、加虐してきた権力の息の根をまさに止めようとしているシーンに、快哉を叫び、興奮をする。
 「追い詰められ虐げられた者」は「弱々しい無力な被害者」ではないのだ!
 抵抗し、相手と闘うことのできる尊厳に満ちた存在なのだ!

 台湾に逃げてきた国民党が樹立した政権下で、あまりの暴政に台湾の民衆は立ち上がり、最終的に弾圧された事件=二二八事件がある。二二八事件はそもそも長く「なかったこと」にされ、歴史叙述が始まっても、タバコへのささいな不満が偶発的に暴発につながったかのように見なされ、「かわいそうな被害者」として描かれてきた。楊が参加した社会運動は、その事件を民衆の抵抗史として捉え直そうとしていた。
 この二二八事件の歴史認識と、楊の暴力は重なる。

 ぼくは、自分が受けたひどい暴力(ハラスメント)を思い出すときに、加害した相手に対して、想像の中で相当に凄惨で攻撃的な暴力を解放させることがある。「なかったこと」にされ、無力で尊厳を奪われた存在にされた自分が否定されるのだ。もちろんそれは一瞬だけだ。その妄想の一瞬の後に、虚脱や悔恨が襲う。

 

 

Jという存在

 この物語の中で、「J」の存在は特別である。
 Jは、初めて社会運動の現場に出かけた楊を案内し、楊をやさしく啓蒙した。「J」は運動におけるその男性のニックネームである。
 楊がやがてJに惹かれ、深間になる。
 Jには恋人がいる。しかし、Jがそのことを告げて楊を拒むことはない。Jは都合よく楊を利用しているようにも見える。楊はそのことを知りながら、Jと親密になり、沖縄に行っている間も、Jのことが頭から離れない。
 「Jには恋人がいるのに楊とつきあう」という点以外、Jは全く非の打ちどころがないほど爽やかな存在である。台湾や沖縄の歴史を語るJ。投票動向に激しく動揺する楊を落ち着かせるJ。高圧的だったり高慢だったりすることが一切ない。身近にJがいれば、きっとぼくでも強い好感を抱いたことだろう。
 Jを忘れるべきだと思って楊はJへの思いを必死で断ち切ろうとする。
 しかし、結局それはできなかった。
 Jを尊敬し、憧れ、惹かれたという歴史を消す必要はないのだ。だが、はたからみればなんともスッキリしない距離感のようにも思える。Jは糾弾もされないし、懲罰も受けないし、否定もされないからである。
 祖母の良かった頃を思い出すのと同じように、Jの良かったことを思い出として抱えていくというのはそんなに悪い選択肢だろうか、と楊は考えるに至る。
 それは複雑な気持ちで、複雑な歴史を受け入れることに似ている。

 こうして作品を眺めてきたにも関わらず、ぼくは楊のような不安定さに、不安を覚える。おそらくかつては自分もそういう誠実な不安のうちにいたはずなのだが、年をとって、早めに諦念や見切りをしてしまっているような気がする。だから、楊が沖縄で出会った友達とシスターフッドのようなものを育むシークエンスにもあまり共感できなかった。楊の定まらなさに、なんとなく苛立ちを感じてしまうのである。
 沖縄でできた楊の友達が岡崎京子リバーズ・エッジ』を持ち出しながら、この作品に救われた、と語ることへの想像のできなさと同じである。
 友達が楊に

人の不安は未来からやってくる
今の方は見落としがち

とつぶやくのは、全くその通りだと感じるが、そのことに深く共感したり教えられたりするのは、もう少し若い頃だったかもしれないと思ったりする。
 受験の絶壁の前でいたずらに遥か遠くの将来への不安を掻き立てている高校生の娘を見ていると、なぜそんな未来を見て不安を抱くのか? 今、目の前のことに集中することだろ? と苛立つのに似ている。

 

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「大陸」と「中国」

 ところで、楊が台湾の高校で「大陸」と呼んではいけない(テストでそう書いてはいけない)、「中国」と呼べ、という意味が初めはわからなかった。
 ぼくは初め、台湾政府は、正式名称は「中華民国」なのだから、「大陸」の方も実は自分の国の領土だと思っているのではないのか? それなのに、なぜ「中国」など公式に呼ばせるのか? と不思議に思ったのである。
 しかし、一番大きな錯誤は、現在では台湾政府は影には独立志向があり、自分たちを「中国」というより「台湾」だと認識しているからだということに気づいた。そして、本作の別のところで別の教師が指摘しているように、「大陸」というのは、ContinentではなくMainlandの意味であり、日本語で言えば「本土」のようなものであることに気づいた。その場合、本体が大陸側にあるということになってしまう。
 この独立した地域としての台湾という認識が、沖縄にいるときに、楊が「琉球独立」論に触れる足場にもなっている。
 社会・経済的な入り口ではなく、アイデンティティの角度から考えると台湾独立論、琉球独立論がここで登場するのはわかるし、しっくりくる。Jや祖母から離れる自分の独立と重ねているのである。