週刊アスキーで紹介した落語マンガ
「週刊アスキー」9月27日号の「私のハマった3冊」で落語マンガ3冊を紹介しました。ウェブでこのコーナーは紹介されていくという話ですので、紹介しても構わないんじゃないかなーと思い、遠慮なく3冊をバラします。
(追記:紹介されました。2011年12月7日確認)
【私のハマった3冊】興味がなかった人でも楽しめる知的でツヤのある落語漫画
一つは、古谷三敏の『寄席芸人伝』。まあこれはいいですよね。以前紹介したこともあるので、そのURLをつけときます。基本的に落語漫画というのは、この作品を超えたかどうか、それくらい引き離されたか、というふうにはかっていいだろうと思います。
古谷三敏『寄席芸人伝』 - 紙屋研究所
二つ目は、『昭和元禄 落語心中』。元ヤクザというかチンピラだった主人公が、受刑中にきいた慰問落語ですっかり名人・有楽亭八雲に惚れ込んでしまい、弟子入りするというところから話が始まります。この漫画がいいと思ったのは、主人公の師匠になる八雲がとても艶っぽく描けていると感じたからです。まあ表紙にヤラれましたね。どうです。観てくださいよ。
うちのつれあいは「このマンガ、みんなカエルみたいな顔をしているのはなんでなのか」などと悪態をついていましたが、たぶん、ぼくにたいする嫌がらせだろうと思いますので、全然、ぜんっっぜん気にしてませんから!
三つ目は、尾瀬あきら『どうらく息子』。保育士の見習いだった主人公がたまたま聞いた寄席にすっかり魅了されて、ついに保育士の道をやめて噺家に弟子入りしてしまうという話です。『落語心中』によく似た設定ですよね。
しかし、このマンガの極端さというかすごいところは、落語という伝統芸能の世界の厳しさを徹底的にしめっぽく描いているところです。主人公の兄弟子にあたる女の前座は、噺が完成していないのに「できてます」とうっかり師匠に言ってしまい、ひっこみがつかなくなってついにウソがばれ、怒って口をきいてもらえなくなるのですが、それまでひたすら耐えて10日目にやっと師匠から「叱ってもらえる」というエピソードが出てきます。
尾瀬あきらは、これまで酒蔵といった伝統世界の厳しさをしめっぽさ全開に描いてきた漫画家ですが、本作はそれがいい方に出ています。
とはいえ、本当に息がつまるほどの厳しさです。後述の『たまちゃんハウス』とかと比べると「えーっと、本当に同じ国の話ですか?」くらいの開きがあります。『たまちゃんハウス』って基本、ユートピアなのかな。こっちの『どうらく息子』のほうが、リアリズムなんでしょうか。
というのは、前座見習いが「はい」以外のことは何一つ言えない世界として描かれ、服の畳み方が別の師匠の服のたたみ方だったということで厳しく叱られるんですね。これほど厳しい世界であるということは、これまでの落語漫画では一度として出てきたことがありません。もちろん部分的には描かれてきましたが、このマンガの前ではもうなんといいますか、ママゴトみたいなもんですよ。あまりの厳しさに「そこまで厳しくする必要ってあるのか? ただの因習じゃねーの?」という疑いすら起きてきます。尾瀬は今後こうした厳しい世界が厳しくあり続ける必要性を、もっとこう何か説得的に示す必要があると思うんですが。*1
マンガで展開される逢坂の落語論こそが魅力の核心
すでに連載は終わっているので「ちょっと前のマンガ」ということになるんですが、紹介できなかったのは逢坂みえこの『たまちゃんハウス』です。
『たまちゃんハウス』は、上方落語の巨匠・桜花亭春福の家に生まれた、落語が好きじゃない娘・珠子(女子大生)と、巨匠の3人の弟子たちの物語です。珠子は何かになろうとするけども何をしてもモノにならないコンプレックスをかかえています。弟子のうちの真ん中の噺家である春々は、生真面目でカタい感じなのですが、努力家でもあり、やがて大きく伸びるであろうと予感させるさまざまな萌芽を秘めています。娘のコンプレックスは、この春々を横目で見ていくなかで対比的に描かれます。
ただ、こうした珠子のコンプレックスは、「落語にまったく興味のない読者」が自分を重ねるための入口になっていてそれはそれで目をひくのですが、ぼくのように落語を聞くことがすでに好きな読者にとっては、このマンガで展開される逢坂の落語論こそが本作の魅力の核心です。
ここでぼくが「落語論」といったのは、一つは、噺一つひとつについて、逢坂がその魅力をどこに感じているのか、という解釈をめぐるものです。もう一つは、落語家春々が成長していくことを通じて、落語という伝統芸能はどこが魅力なのかということを逢坂が論じている点です。
「植木屋娘」を論ず
前者についていいますと、ぼくは落語は好きなのですが、落語そのものに明るいわけではなく、特に上方落語については不案内です。
しかし、兄が桂枝雀のファンだったこともあり、家には枝雀のレコードやテープがたくさんありました。だから聞いているものの3分の1くらいは、枝雀か米朝だったのです。しかも今みたいにメディアがいつでも大量に手に入る時代じゃないので、一つの噺をすり切れるほど聞いていました。だから、ここで逢坂がとりあげている噺の少なくない部分がぼくの幼少期にくり返し聴いていたものでした。
たとえば「植木屋娘」。
自分の家の美人娘・お光と、お寺に預けられている実は旗本の実子である伝吉を何とかしていっしょにさせようとクサい芝居をうつ植木屋の父親が滑稽なこの噺は、米朝がサゲを修正するまでは現代感覚にてらしてけっこうひどいサゲだったことを逢坂の本を読んで初めて知りました。
逢坂は、なかなか自分のオリジナルの「植木屋娘」を完成させられない春々に、珠子がアドバイスするシーンがあります。物語世界を細部まで構築するために、物語には直接出てこないシーンをどう想像するのか、ということを話しあうのです。
お光の父親が仕組んだ酒席の場で伝吉があまりお光と懇意にできなかったことを、伝吉が悩んでいるのではないか、そこで偶然出会ったお光に伝吉がデートに誘ったのではないか……と想像します。しかし、珠子はそれではお光が受動的すぎると批判し、自分なりの「お光」像を伝え、そうすること春々のなかでお光が急に生き生きしたものとして立ち上がってくる、いわゆる「キャラが立つ」という状態になっていくことが描かれています。
ぼくは枝雀が演じた「植木屋娘」を聴いて育ってきました。
そこでは本当に父親のインパクトが強く、お光や伝吉のキャラクターを想像することなどまったくなかったわけですが、逢坂の問題提起を聴いて初めて、たしかに品行方正で頭脳明晰な伝吉と箱入り娘のお光が、親の知らぬまで妊娠まで行き着くということは、尋常でないような気がしてきました。
そういう目で枝雀の「植木屋娘」をふりかえってみると、枝雀の「植木屋娘」でお光が十分な時間をとって出てくるのは母親に妊娠の相手を詰問されるシーンですが、お光は「あのぅ…」以外にはほとんど何もしゃべらず、実に言いにくそうに「……お寺の伝吉っつあん」と消え入りそうな小声で答えるくだりは、欲望に負けてしてはいけないことをしてしまったという、ちょっとばかし淫猥な感じが出てきます。
別に逢坂のすべての解釈に納得するわけではありませんが、落語ファンとしてはひとつの噺に対して、議論をたたかわせているようで楽しい感じに読めると思います。
なぜ決まりきった噺の中に面白味が生まれるのか
もう一つの、「落語という伝統芸能はどこが魅力なのか」というテーマもさまざまなところで本作では論じられます。
珠子が歌舞伎を観に行くのですが、さっぱりわかりません。いっしょに行った妙子という同年代の女性にあらすじを書いたパンフレットを渡され、それを読んでようやく理解します。
恩人のために、自分の幼い子どもの首を差し出した男(松王)が、子どもの死様を伝え聞いたときの描写が出てきます。幼い子だから、さぞ未練がましい死に際だっただろう、と斬首の様子を尋ねるのですが、
「イヤ 若君 菅秀才の御身替わりと
いい聞かしたれば
潔う首さしのべ」「アノ
逃げも隠れもいたさずにな」「……
にっこりと
……
笑ふて
……」
と伝えられます。それを聞いた男は、
「は は む… む… …はは
は…は…は…
む…む〜
は〜〜
は〜〜
む〜〜
む〜〜…は〜〜〜〜
は〜〜〜〜
は〜〜〜〜
は〜〜〜〜!」
と奇妙な笑い声の末に
「でかしおりました!!」
と大声で息子の死を賞賛するのです。それを観ていた珠子はぼろぼろと泣きます。恩人のために息子の首を差し出すという義理、すなわち公的な論理を貫くわけですが、幼い息子がその論理の前に犠牲になったときにさぞや醜態をさらしたであろうと予想していたのに、その任務を立派に果たしたと聞いて、逆に親子の情という私的な感情が一気に噴き出してしまったのです。その矛盾に満ちた悲哀がこの「型」のなかに集約的に表現されています。
終わった後に珠子は妙子と飲むのですが、そのくだりを泣きながらしゃべります。
「あんなビミョーな笑い方
あんな濃ゆすぎのオーバーアクションやのに
なんで〜〜〜〜」
妙子が答えます。
「ほんと 歌舞伎の不思議なとこですよね
表現の『型』が決まれば決まるほど
その中の『情感』が際だってくる感じ……
そういうとこ
落語と似てるかもしれませんね」
それは『寄席芸人伝』のところでぼくが書いた素朴すぎる疑問、
古典落語は流れからサゲまですでに決まっているのに、そして聴くほうもたいていはそのスジを知っているはずなのに、なぜこれほど面白いと思えるのだろうか?
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yosegeininden.html
への逢坂なりの回答だと言えます。落語そのものではなく「型」のなかで徹底的に極端な姿をとっている歌舞伎を比喩にして答えているのです。
『たまちゃんハウス』は、落語の完全初心者ではなくて、どちらかといえば、落語のプロの聞き手ではないけども、ぼくのような少しだけ心得のある人間にとって落語ってなんだろうということを議論しながら、おしゃべりしながら、すすんでいく、そういう心地よさのある作品だと思います。
『じょしらく』をWPBで書評しましたが…
そして11月14日号の「週刊プレイボーイ」で紹介したのがヤス・久米田康治『じょしらく』。もちろん楽しいマンガですが、はっきりいって、登場人物が「女性噺家たち」というだけで1グラムも落語とは関係ありません。落語を期待したあなたにとっては、完全なサギです。
他にもたとえば西炯子『兄さんと僕』も落語マンガですが、これはすべてが中途半端。読み応えがあったのは、巻末の西と柳家喬太郎との対談だけです。「師匠は『私の抱かれたい男ベスト5』に入ってますし」ってどんな対談なんですか。
ぼくは柳家喬太郎の噺と出会ったとき、たいへんなインパクトを覚えたことは前に書いたとおりなんですが、
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yosegeininden.html
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/shiobaratasuke.html
そのとき、ちょうど上司だった人が柳家三三の熱心なファンでした。その三三が、実は『どうらく息子』の監修を務めているんですね。
新作と古典という意味でも、この二人の組み合わせはぼくの人生のなかでもずっと意識されてきたものでした。なので、落語マンガのちょっとした隆盛の昨今、この組み合わせはなかなか面白いものだと思った次第です。