村上春樹『女のいない男たち』

 リモート読書会でやった村上春樹『女のいない男たち』。

 感想をメモっていて、それをどうにか形にしようと思ったんだけど、どうにも形にならないまま日が過ぎてしまった。だから、このまま埋もれてしまうのは少々もったいない気がして、本当にメモみたいなものだけどアップしておく。

 ぼくにとっては、村上春樹の小説はたぶん初体験。読んだとしても昔々過ぎてもう忘れてしまったからだ。

 だから、村上春樹をたくさん読んでいる人には「なんだ今更」とか思うこともあるだろうし、「いや、それは違う」と思うこともあるだろうけど。

 

 うん、文体や会話がおしゃれだね。

 こういう会話をしてみたいと思った。

 鴎外や漱石を読んだ時は「朗読をしたい」なと思ったけど、そういう「朗読をしたい」と思えるような文章ではない。でもリアルの会話はこんな感じで言いたいと思った。

 一番おしゃれだと思ったのは、いくつかの短編の返事で「もちろん」と答えるのがおしゃれだった。

  • 「ひとつ質問していいですか」「もちろん」(ドライブ・マイ・カー)
  • 「ねえ、谷村くんにちょっと相談があるんだけど。聞いてくれる?」 「もちろん」と僕は言った。そして、やれやれ、困ったことになりそうだなと思った。(イエスタディ)
  • 「キスをしたら、そのもっと先に行きたがるものよね」「普通はまあそうだけど」「あなたの場合もそうだった」「もちろん」(イエスタディ)
  • 「君はそこで何かを考えていたんだ」「もちろん」(シェエラザード
  • 「ひょっとして君は、胎内にいたときのことを思い出せるの?」「もちろん」とシェエラザードはこともなげに言った。(シェエラザード

 

 小道具的な名刺がおしゃれ。

二人組はテーブル席で、オー・メドックボルドーの一地域の名前)のボトルを飲んでいた。彼らは店に入ってくると紙袋からワインの瓶を取り出し、「コルク・フィーとして五千円払うから、これをここで飲んでかまわないか?」と言った。前例のないことだったが、断る理由もなかったので、いいですよと木野は言った。(木野)

 「持ち込み料」じゃなくて、「コルク・フィー」ってかっこよくない?

 すらっと出したいね。飲み屋とかで。

 「ここで飲んでいい? もちこ…じゃなくて、ほら、なんだっけ、アレ、なんとかフィー…持ち込んでお金…そう、そう! コルク・フィー!」とかにならないようにしたい。練習したい。

 短編「木野」に出てくるこのヤクザっぽい男たちとカミタとの絡みもおしゃれですよね。声を荒げた乱暴なセリフじゃないのに、おしゃれに粗野な感じが伝わる。オシャレな粗野。

 

 逢坂冬馬『同志少女よ敵を撃て』を読んだとき、情景描写やセリフがすごくラノベみたい、って思った。雰囲気を一生懸命作ろうとしてしているんだけど、なかなか生硬さな抜けない。『同志少女よ…』の良さはそこじゃないところなんだけど、そこではあまりうまくいってないよな、ということが、なぜだかこの村上のオシャレ感創出の成功を味わいながら感じた。

そうね、と母は優しい顔で笑った。「昔あなたが好きだった演劇のように」「うん。戦争が終わったら、必ず外交官としてドイツとソ連の仲を良くするの」(『同志少女よ敵を撃て』)

いつもあの場所へ行くと、アントーノフおじさんが薪を割る音が聞こえる。その奥さんで、小麦粉を運ぶナターリヤさんは、必ず手を振ってくれる。昔、町で調理人をしていたゲンナジーさんは獲物を上手に捌いて、肉の部位と毛皮をつくってくれる。ミハイルの妹エレーナは、その肉をあげると、お返しに、町で男の子にもらった甘いお菓子を分けてくれる。(『同志少女よ敵を撃て』)

 

 

 短編「女のいない男たち」はさっぱりわからなかった。意味不明だ。

 

 短編「ドライブ・マイ・カー」におけるドライバーの渡利みさきのぶっきらぼうさがとても良い。

 これは映画で三浦透子が演じていたぶっきらぼうさがちょうどよくハマっていた。つっけんどんではなく、実務的で必要なこと以外は喋らない感じ。それが染み出して話し始める感じが確かに好き。

「みさきは平仮名です。もし必要なら履歴書を用意しますが」、彼女は挑戦的に聞こえなくもない口調でそう言った。家福は首を振った。「今のところ履歴書までは必要ない。マニュアル・シフトは運転できるよね?」「マニュアル・シフトは好きです」と彼女は冷ややかな声で言った。まるで筋金入りの菜食主義者がレタスは食べられるかと質問されたときのように。「古い車だから、ナビもついていないけど」「必要ありません。しばらく宅配便の仕事をしていました。都内の地理は頭に入っています」「じゃあ試しにこのあたりを少し運転してくれないかな?天気が良いから屋根は開けていこう」「どこに行きますか?」  村上春樹. 女のいない男たち (Japanese Edition) (pp.18-19). Kindle 版.

「とくにありません」。彼女は眼を細め、ゆっくり息を吸い込みながらシフトダウンをした。そして言った。「この車が気に入ったから」そのあとの時間を二人は無言のうちに送った。修理工場に戻り、家福は大場を脇に呼んで「彼女を雇うことにするよ」と告げた。  村上春樹. 女のいない男たち (Japanese Edition) (p.23). Kindle 版.

 

 この短編集には、セックスってどこでも出てくる。それなのにあまり本質的じゃないように描かれるのは一体どうしてなのか。そんなことないだろ。こんなに頻繁に出てくるくせに。

セックスはあくまでその延長線上にある「もうひとつのお楽しみ」に過ぎず、それ自体が究極の目的ではない。  (Japanese Edition) (p.105). Kindle 版.

彼女たちと親密な時間を共有できなくなってしまうことかもしれない。女を失うとは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが彼女たちが提供してくれるものだった。

二人の飲み方には性行為を連想させるものがあった。

 いろんなマンガでも、結局セックスって大層なものでも本質的なものでもないように描かれることが多いんだけど、そうかなといつも思う。セックスって人生の一大事だよ。

『マンガでやさしくわかるアサーション』(『違国日記』10にも触れて)

 ある市議の応援演説をした公民館で、帰り際に貸出図書をパラパラと眺めていた。その時に見つけた本である。読みふけってしまった。

 面白そうだったので借りたかったのだが、その公民館に来られるのがいつになるかわからず、購入した次第。

 アサーションはassertionで主張、それも「自己主張」というニュアンスの英語である。そこから適切なコミュニケーションとして自分の主張を伝える技術をあらわす言葉として使われている。

 この話題はかなり前から知っていたが、あまり熱心に追ってはいなかった。まあ、今回だってこの本読んだだけなんだけど。

 だが、今自分にとってわりと切実な課題になっていたので、きっと琴線に触れたのだろう。

 自分の考えや気持ちを言わず、言いたくても自分を抑えてしまうCAの出雲三江を主人公に

 本書では、

  1. 自分の考えや気持ちを言わず、言いたくても自分を抑え、結果として相手の言うことを聞き入れてしまう「非主張的自己表現」
  2. 自分の考えや気持ちを伝えることはできるが、自分の言い分を一方的に通そうとして、言い分を相手に押しつけたり、言い放しにしたりする「攻撃的自己表現」
  3. そのどちらでもないアサーティブな自己表現(アサーション

の3類型に分けられている。

 肝心のアサーションは、長く学ぶ技術として示されているので、ぼくがここでまとめてしまうのは僭越なのだが、本書を読んだだけで感じた「アサーション」というのは、

  • 自分が尊厳ある状態と、それにもとづく自分の気持ちを基礎にして、
  • それを表現し、
  • 相手を尊重しながら交渉して、
  • 妥協点や折り合いを見つける技術

というふうに理解した。

 「相手を尊重しながら」が難しそうで、つまり相手を操作せずに、相手の話を聞いて自分も変わることが前提となる。自分が変わるということは相手に抑圧されることの言い換えになってしまう危険性があるが、「自分の尊厳」が基礎にあれば、つまり自己肯定感があればそれは揺らがない。逆に「自分の尊厳」を相手の抑圧の上に成立させようとすると操作的になってしまうわけで、それも「自己肯定感のなさ」の裏返しだと言える。

 

 とりわけ自分の今の課題は「非主張的自己表現」である。

非主張的自己表現は、気持ちや考えを表現できないとか、しないことなので、自分の状態を知らせていないことになります。また、したとしてもひとり言のような言い方をすると、聞こえなかったり、伝わらなかったり、無視されたりする可能性があります。たとえば、三江さん本人は渋谷部長や先輩を立て、思いを大切にし、相手が不愉快にならないように自分の主張を抑えて譲ったつもりでいます。しかしそのことは伝えていないので、デートや自分の時間を犠牲にしている配慮は伝わりません。そのため、相手には、「三江さんが自分に同意してくれ、不満はない」と受け取られます。(平木典子・星井博文・サノマリナ『マンガでやさしくわかるアサーション 』、日本能率協会マネジメントセンターKindle 版pp.50-51)

 ぼくにはいま、大勢に抗して言いたいこと、どうしても変えたいことがあるのだ。「非主張的自己表現」を克服したい。

 

 

 「自分の尊厳」を出発点にしているので、これは密接に人権と関わっている。

 本書では、意見表明権としての側面を強調しながら、人権としてのアサーションを解説する。

 最近読んだヤマシタトモコ『違国日記』10で主人公の一人・高校生の田汲朝に対して、社会科の教師が自己肯定感と基本的人権の関係を説き出すのが新鮮だった。物語では、「基本的人権」「価値」「自由」というような一見生硬な言葉を使わないことを選ぶはずなのに、あえてそれを使っている。しかも、やわらかく(下図)。

ヤマシタトモコ『違国日記』10、祥伝社、Kindle149/232

 特に、『違国日記』はまるで日常の会話を動画で切り取ったような、脈絡が取りづらい「ナマ」の会話を並べている調子が続くだけに、この箇所はいい意味での違和感を覚えながら、読んでしまう。

 自分の尊厳は客観的なものである。自分の気持ちにかかわりなく本来備わっているものだが、それを感じ取り、自分のものとして守ろうとする感情は自己肯定感と密接に結びついている。しかしそれは自分だけで生まれる感情ではなく、自分を尊厳ある存在として扱おうとする家族・社会・国家の客観的状況によって左右されるに違いない。

 アサーションはその家族・社会・国家と渡り合う技術だと感じた。

 そして、それは単なる「調整術」ではない。それは紛争や摩擦がないように自分を調整=抑圧してしまう「非主張型自己表現」への道である。

映画・マンガ「かがみの孤城」

 映画「かがみの孤城」を観て、そのあとに同名マンガを読む。原作小説はまだ読んでいない。(以下、ちょいネタバレあります)

 マンガでは、集まった7人の事情、初めは距離を置いていた7人が次第に打ち解けていくプロセスなども丁寧に描かれている。

 これに対して、映画は時間が足りないせいだろうが、そのあたりはずいぶんざっくりとしてしまっている。

 しかしそうした一人ひとりの事情に代わりに、ぼくが映画で強く印象に残ったのは、「孤城」での居心地の良さである。

www.youtube.com

 現実は自分を苛む様々な攻撃に満ち溢れている。つらい現実から防御された皮膜の中。その皮膜の中は安心できる人間関係だけがある。その人間関係は確かに何がしかのトラブルや軋轢を経て得られたものなんだけど、観ているぼくとしては、その安心感だけが快楽的に迫ってきて、甘美を覚えてしまった。

 特に映画では、こころを「抱きしめる」シーンが2回ある。「抱きしめる」なんて、手垢のついたような「感動盛り上げ手法」と思うかもしれないが、これは映画の中で白眉というべきで、「抱きしめる」ということのケア的な役割が観るぼくに強く迫ってきた。

 ああ、この城に行きてえ…。

 映画は、マンガ版で読んだ時に感じたいろんな要素を犠牲にして、「孤城での居心地の良さ」に徹底してフォーカスしたんじゃないか?

 っていうのは、ぼくの心が弱っているせいであろうか。

 もちろん、マンガにもその位置付けはある。(下図参照)

辻村深月武富智かがみの孤城』1、集英社、Kindle219/225

 しかし、マンガではこの設定自体を揺らがせたり、さらに深みをつけたりする。それがマンガ版の良さではあるが、逆に「居心地の良さ」としての一面性は後退する。

 

 それにしても…そんなにぼくの心は弱っているのだろうか。

 うん、間違いなく弱っている。

 お前そんなに働いてないだろ? と言われたらその通りだけど、いろいろあって弱ってんだよ。そういうときに「外界から超然とした、現実の嵐から自分を守ってくれる、仲間たちとの城」っていうイメージがどんだけ快楽に響くのか、あんたにわかる?

 保健室に誰もこないという一件は、「城」が現実ではないという否定、そんな甘美な城はこの世には存在しないのだという否定を一旦を行う。

 しかし、世界は歴史においてつながっており、歴史は社会として存在し、我々が依拠すべき「依存」先もまた、現実の社会と歴史のつながりの中に実はあるのだ、というメッセージを放っている。

 映画で、7人がどこかで交わっている様子を見せるのは、そのメッセージを強く意識させるものだ。

 が…それよりも、「城」だよ。

 ああいう城に行きたいんだよ。俺は。

 

 

こころの造形

 マンガの方で武富智の描くグラフィック、特に主人公・こころのそれは、良くも悪くも意志的である。武富の描く描線の強さは特にそれを感じさせる。

 葛藤をしたり不安に苛まれたとしても、「もがき苦しんでいる」という強さを感じるのである。

辻村深月武富智かがみの孤城』5より

 これに対して、映画の方のこころは、はかなげで、強さがない。不安や攻撃に満ちた現実世界に対して、いかにも脆弱そうな精神を持っているキャラクターを想定させる。

 ぼくはマンガ『かがみの孤城』を読みながらやはり涙してしまったから、マンガはマンガで独自の良さがあるのだけど、こころの造形についてだけ言えば、映画の方が好きだ。うーん、それは「女性、かくあるべし」というジェンダーが反映しているような気もするが、それはよくわからない。そういうこころが、仲間のために立ち上がろうとするのだから、そこにギャップ萌えのようなものが生まれているんじゃなかろうか。

 

 

 

ハンス・ロスリングほか『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』

 リモート読書会でハンス・ロスリング 、 オーラ・ロスリング 、 アンナ・ロスリング・ロンランド『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』を読む。

 

 

  • 現在低所得国に暮らす女子の割合が初等教育を修了するでしょう?
  • 世界で最も多くの人が住んでいるのはどこでしょう?
  • 世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は過去20年でどう変わったでしょう?
  • 世界の平均寿命はおよそ何歳でしょう?
  • 15歳未満の子供は、現在世界に約20億人います。国連の予測によると、2100年に子供の数は約何人になるでしょう?

など13の質問が冒頭に並ぶ。正答率は非常に低いという。

 著者は“発展途上国に暮らす人々が非常に貧しいまま、いつまでたっても分断が克服されない”という世界イメージをデータに基づいて批判していくのである。

 本書をどう考えればいいのであろうか。

 本書は一種の左翼的アジテーション(ぼくのような)への批判の本のように読める。

 例えば日本における左翼の代表である日本共産党の綱領には次のようにある。

巨大に発達した生産力を制御できないという資本主義の矛盾は、現在、広範な人民諸階層の状態の悪化、貧富の格差の拡大、くりかえす不況と大量失業、国境を越えた金融投機の横行、環境条件の地球的規模での破壊、植民地支配の負の遺産の重大さ、アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの国ぐにでの貧困など、かつてない大きな規模と鋭さをもって現われている。

とりわけ、貧富の格差の世界的規模での空前の拡大、地球的規模でさまざまな災厄をもたらしつつある気候変動は、資本主義体制が二一世紀に生き残る資格を問う問題となっており、その是正・抑制を求める諸国民のたたかいは、人類の未来にとって死活的意義をもつ。

 世界の現実を「貧富の格差の拡大」として把握し、その矛盾が「アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの国ぐにでの貧困など、かつてない大きな規模と鋭さをもって現われ」「資本主義体制が二一世紀に生き残る資格を問う問題」にまでなっているとみなす。

 著者は「富めるもの」と「貧しいもの」のように分断的世界観にもとづく二項対立的な把握を批判し、世界のレベルが次第に進歩していることを簡単に理解できるよう4つのレベルに世界を分ける。第4レベルを最も豊かな国とすればほとんどの国は第2・第3レベルに住んでおり、第1レベルの最貧国に住んでいる国は非常に少ないことをあげる。

 ぼくに引き寄せてみれば、実際、ぼくの「発展途上国」に暮らす人々の生活についての解像度は低く、一括りに「貧しい人々」としてしまっていたし、実際に国ごとにどういう暮らしをしているかを確かにイメージしにくい。この点で、著者があげる4つのレベルでの世界の進歩を積極的に評価する方法は、実に簡便に世界の進歩をぼくに示してくれている。

 これは本書の重要な意義である。

 マルクスは資本主義が発展の中で次の社会を準備することを示したように、マルクス主義者であれば、旧社会で起きる進歩を、新しい社会を生み出す萌芽として積極的に評価すべきなのだ。

 ぼくはスティーブン・ピンカー『暴力の人類史』を読んだ時に、いかに人類が暴力を低減させ、進歩させてきたかを知り、まさにマルクスが見通した進歩へと世界は向かっていると深く確信した。

 現状を告発しようとするあまり、現実がいかに悲惨で、退歩と反動ばかりが起きているかのように描き出すことは、マルクス主義者の本来すべきことではない。

 別にそれは世界のことに限らない。日本においても同じだ。

 安倍政権がおこなった政治の中にさえ、進歩の芽は隠されている(保育の無償化、大学の無償化、「働き方改革」など)。

 今、若い人たちと『資本論』を読んでいるが、その第1部第13章には資本主義の悲惨な現実の中に次の社会の構成要素が生まれることを指摘してある箇所があり、不破哲三の次のような解説を読んだとき、実に問題を的確に捉えていると感じ入った。

これらの新しい諸要素は、古い社会の胎内では“ここに未来あり”といった単純明快な姿では、けっして現れてきません。実際、マルクスは、労働の転換や児童労働の問題で新しい諸要素を問題にしたとき、これらの諸要素が、現在の社会関係のもとでは、「労働者階級の絶え間のない犠牲(いけにえ)の祭典、諸労働力の際限のない浪費、および社会的無政府性の荒廃状態」など「暴れ回る」矛盾(『資本論』③八三八ページ…)や、「退廃と奴隷状態との害毒の源泉」をなす状態(同前八四三ページ…)などと結びついていることをリアルに指摘しました。/未来を展望するマルクスの「科学の目」は、この矛盾する現実のなかに、新しい社会の形成につながる諸要素を確実に見て取ったのです。(不破哲三『「資本論」全三部を読む 第三冊』新日本出版社、p.69〜70)

 本書『ファクトフルネス』は、告発にこだわるあまり、世界がどのように進歩しているかを忘れているのではないかということを気づかせてくれる点で積極的な意味を持つ。

 

 他方で、「貧富の格差の拡大」という指摘は、単に生活レベルの二層構造を意味するだけではない。そこに搾取・被搾取、収奪・被収奪という関係が隠れている場合が少なくない。ロスリングが「分断」をあまりに否定してしまえば、その本質的な問題さえも否定し、覆い隠してしまう危険がある。

 例えば第1章にブラジルの格差の問題が登場する。

世界で最も格差が大きい国のひとつであるブラジルを例にとってみよう。ブラジルでは、最も裕福な10%の人たちが、国全体の所得の41%を懐に入れている。ひどいと思わないか?いくらなんでも不公平すぎる。エリート層が、その他大勢から搾取している姿が目に浮かぶ。そしてメディアもそのイメージを助長している。トップ10%どころかトップ0・1%に注目し、超金持ちがクルーザーや馬や豪邸を見せびらかす様子を取り上げる。たしかに41%は不公平なほど高い。とはいえ、41%という数字はここ数十年で最も低い数字なのだ。グラフを見れば一目瞭然だ。(ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 』(Japanese Edition) (p.70). Kindle 版. )

 確かに進歩=改善してはいるが、問題はなくなったわけではない。

 

 第6章に、チュニジアのレンガの積み上げを途中でやめてしまっている家の話が出てくる。他の先進国(著者のいう「レベル4」の国々)の人は、それを見て、「怠け者か計画性がない」国民なんだなと思ってしまうのだという。

 しかし、貯金口座をひらけない国民にとっては現金を保管できないから、現物で価値を保存しておくのが最も賢いやり方なのだ、と著者は種明かしをする。自分が知っているパターンに落とし込んでみないようにすべきだと警告する。

 これは、遅れた現実を指摘したときに、その現実の現場にいる人からよく反論されることではある。その遅れた現実は、ある種の必要性があるから存在しているのだから、何も知らない外部の人が外部からの基準でモノを言わないでほしい、と。必要悪なんだ、という言い方をされることもある。

合理的なものこそ現実的であり、現実的なものこそ合理的である。

という、エンゲルスが紹介した有名なヘーゲルの命題(『法哲学要綱、または自然法と国家学概要』)を思い出す。目の前の現実を「合理的」と擁護する最悪の反動的命題として評判の悪かったこの命題をエンゲルスは高く評価した。

さきには現実的であったものが、すべて発展の経過のなかで非現実的になり、その必然性、その存在権、その合理性をうしなっていく。死んでいく現実的なものに代わって、新しい、生活力のある現実性が現れてくる(エンゲルスフォイエルバッハ論』)

 現実的と思われていた現実は合理性を失ってやがて非現実性に転化する、という革命の命題にしてしまった。

 チュニジアの不合理な慣習と思しき現実も、その現実的な根拠が失われれば(誰でも簡単に貯金ができるようになるなど)現実性=合理性は失われるのである。

 

 

 第8章でキューバを「共産主義=計画経済」とみなし、他方でアメリカを「徹底した資本主義経済」として、どちらも問題があるとする記述も出てくる。

民間か、政府かという議論への答えは、ほとんどの場合、二者択一ではない。ケースバイケースだし、両方正しい。規制と自由のちょうどいいバランスを見つけることが大切だし、それは難しい。(前掲p.320)

 これは全く正しい。ぼくのような共産主義者でも、これは否定しない。共産主義とは経済に対する自覚的なコントロールであり、市場と計画のバランスを取ることそのものだ。

 だけど、読む人は「やっぱり共産主義はダメだよね」と思ってしまう。「資本主義はダメだよね」とは思わずに。

 

 非常に単純なことで、本書を読んでぼくの認識がまさに正されたというのは、人口のことだった。というか、読書会で参加者の一人から日本の高齢化について具体的に指摘されてそのことに気づいた。

 本書では次のような質問が用意されている。

現在、スウェーデンで65歳以上の人の数は、全体の20%です。10年後にこの割合はどうなっているでしょう?

A20%

B30%

C40%

(前掲p.388-38)

 答えはA。正解したスウェーデン人は1割しかいなかったという。

 日本でも高齢化率は高まっているが、やがて高止まりになる。そのことがあまりよくぼくは分かっていなかった。

 たいてい次のようなグラフを示されるので、どんどん高齢化が高まっているかのように考えていたのだが、だいたい4割で頭打ちとなるのである。

 これは本書を読んでわかった非常にシンプルな事実である。

 

 

松竹伸幸『シン・日本共産党宣言』

 日本共産党は党首公選をやってはどうかということが話題になっている。

www3.nhk.or.jp

news.yahoo.co.jp

www.sankei.com

www.yomiuri.co.jp

 その台風の目になっているのが松竹伸幸『シン・日本共産党宣言』(文春新書)である。「ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由」というサブタイトルの通り、党首公選を求めて党の防衛政策などの発展を訴えている。

 実は松竹の本書には、表現の自由での政策の対立をめぐり、ぼくの名前も出てきてびっくりする。

 党首公選をしたらいいではないか。これが本書についてのぼくの結論である。

 

党首公選をやったほうがいい派に変わった理由

 数年くらい前までは「やらないほうがいい」派であったが、「やったほうがいい」「やらねばならない」「やってもいいのでは」派の人たちの話を聞いてみて、いろいろ考えるうちに「やったほうがいい」派になった。

 どうしてぼくが最初は「やらないほうがいい」派だったかと言えば、この問題は上に紹介したマスコミの記事でチラホラそのニュアンスが出ているように、共産党員やその周辺、特に一生懸命やっている人や熱心なファンからすれば、「党首公選を認めることは、これまでの日本共産党の運営や指導部選出が非民主的だったという謂れのない非難を認めることになるから。しかしそんなことは全くない」という気持ちがあったからだ。

 党員にとって、一番大事なのは党の大会の決定である。

 その決定案をけっこう時間をかけていろんなところで討議し、それを数ヶ月間積み上げて決める。他の党の党大会ではまずみられない光景であり、手続きの上では確かにかなり民主的なシステムである。決まったとしても批判は会議で自由にできるし、意見を中央委員会から地元の組織までどのレベルに出していいことも規約で決まっており、実際に活用されている。(ただ不十分な点はある。これは後で述べる。)

 そうやって民主的に決めてつくった決定こそが重要なものである。そこの決定のレールの上でうまく党を運用してくれる人は、能力のあるリーダーであってほしいから、現場から代議員を出して役員を選び、その役員たちが決めた「専門家」ならまあ直接自分たちは選んでないけどお任せしますよ、というのが素直な気持ちなのである。互選に互選を重ねるなんて、別に日本の国会でも国民から選ばれた国会議員が首相選びでやってることじゃん。*1

 

 だから、「党首公選をしない現状は非民主的で専制的だ!」という非難は、党員にはあまりピンとこないだろうし、「ためにする議論」だとしか思われていない。

 ぼくは少し前までこの考え——「大事なのは党大会決定。指導部の選び方は今の選出方法で民主的だと思うぜ」派だった。そして今もある意味そうなのである。

 しかし、よく考えてみると現在民主的であると認めることと、これからそれをさらに良くしていくことは何ら矛盾するものではないという当たり前の事実に気がついた。党首公選は現在の運営を否定するのではなく、「より良く」するためのものなのである。

 現場の党員の中で頑として党首公選に反対している人の中には、このリンクが外れていない人が少なくない。党首公選を採用してしまうことはあたかも「日本共産党習近平体制と同じ独裁」という議論に屈してしまうかのように感じているのだ。その人は二項対立の罠にハマっている。ネットの喧嘩でよくみるけど、2つのグループが争っている時、一つのグループに少しでも意見すると、対立するグループへの加担であるように受け取られてしまう、アレである。

 松竹の本書では、党首公選をする3つの理由をあげている。(1)他党が実施し、国民には常識になっている(2)党員の個性が尊重され、国民には親しみが生まれる(3)党員の権利を大切にする、だ。それぞれ松竹は本書でその中身を詳しく述べている。

 この3つについて書かれた部分を読むと、松竹も不十分さは指摘するものの、現状が非民主的だとか独裁的だとか非難しているわけではなく、やはり「現状よりもさらによくするための改善策」として提案しているのである。この点はぼくと一致しているように読めた。この3つの理由は、党首公選をすべき3つの効能というべきもので、ぼくも今やったほうがいいと思える根拠と大体重なっている。

 

党首公選は必ず派閥を生むか?

 党首公選を批判する直球の意見としては「党首公選は必然的に分派・派閥を生み出す」というものがある。これは上述の「雰囲気としての二項対立」、なんとなく「ダメ」という意見とは違って、“根拠”を示して「弊害がある」とハッキリ述べている。

 松竹はこの点について本書で検討を加えて、自分なりの意見を書いている。

 松竹の意見は一つの見識だとは思う。

 ぼくは松竹の意見に、さらに次の点を添えたい。

 それは、「現在のような役員(中央委員、幹部会)による互選で党首を選んだって、派閥や分派ができるときにはできるんじゃないんですか?」ということである。

 古参の共産党員は労働組合の役員選挙で繰り返しみてきた光景のはずだ。組合では代議員という代理人による間接選挙が多く、同盟系だの総評系だの統一労組懇系だの、激しい票の奪い合いがあった。

 代議員や役員による互選というシステムは、現在の共産党の幹部選出と同じシステムである。もし「代議員や役員による選挙というシステムは、組合選挙を見ても分かる通り、代議員や役員を囲い込むために派閥が生じやすい。20万人以上いるメンバーによる直接投票にすべきだ」と主張する人がいたら、どう思うだろうか?

 今共産党の中でそんな分派抗争が起きていないのは、周知の事実である。なぜか。それは「分派をつくらず、分派への忠誠でなく、真理の前にのみこうべを垂れる気持ちで自由に討論しよう」という民主集中制のルール*2がよく徹底されているからであって、党首公選という直接選挙にするか、代理人による互選という間接選挙にするかという形式とはまるで関係がない

 民主集中制の精神が浸透しているなら、派閥争いは起きない。

 その精神が崩れているなら、派閥・分派闘争は起こる。

 それだけのことであって、公選か互選かという“制度”の問題ではない。

 ダメ押しでいうなら、「党首公選は必然的に分派・派閥を生み出す」という意見は、他の党の党首選挙の形に引きずられすぎている。なるほど他の党では、党の路線を党員が何ヶ月もかけて議論を積み上げるなどということはせずに、党首候補がそれぞれ政見を述べて、そのどれを選ぶかという形式をとる。そうすると、ろくに大会決定の議論もしないままに人気投票のようなことが起きて集票合戦になるかも…という不安があるのだろう。

 なら、第一歩として、党大会決定を決めた後で、幹部会の中から立候補した複数の人を党全体で選挙してはどうか。もし複数立候補がなければ、幹部会が推薦した1人の党首候補を「この人でいいですか?」と全党で信任投票をする制度からまず始めてもいい。それはそんなに難しくはないし、これならさすがに分派なんて生まれないだろ? 原理的に。

 慣れてきたら、党大会決定を決めた後に1ヶ月間ほど選挙期間をおいて、党内から自由に立候補してもらい選挙するなどの形に発展すればいいのである(選出までの1ヶ月は前任者など暫定的な指導体制で進める)。*3

 

民主集中制はどうすべきか

 このあたりの制度の試論を松竹の本書でもやっている。

 その松竹の試論において重要なのは、民主集中制についての扱いである。

 松竹は党首公選の間の規約のしばりの緩和などを提案している。読めば分かるが、松竹の意見は「民主集中制の否定」ではないことである。

 「みんなで決めてみんなで実践する」というルール自体は、別に否定されるほどではない、近代政党として当たり前の組織原則だろう(もちろん別の組織のあり方も当然ありうる)。

 問題はそこに「派閥・分派を作ってはいけない」というルールを付与していることであり、そのルールに付随して議論やお互いの連絡の取り方に細かいコードがあることだ。そのルールやコードは緩めたり、変えたりすることはできるはずだ。松竹はそれを本書で提案している。

 松竹が言いたいのは民主集中制の否定ではなく、民主集中制発展である。

 例えば『日本共産党』を書いた中北浩爾などは共産党の刷新策として、民主集中制ソ連から持ち込まれ非合法時代の名残だというふうに「根拠」づけまでやってしまい、一足飛びに「否定」してしまっている。それはちょっと上手くないのではないか。

 インターネットやSNSで簡単に全国に発信ができ、連絡も取れ合う時代に、意見交換や繋がり合うやり方についてはもっと自由にしていいのではないかというのは当然の発想である。そして、当の共産党自体が、別にそのことを否定しているわけではなく、実際の運用においてかなりの自由なあり方を探求し、発展させているのである。

 

 みてきたように、松竹が提起しているのは、「党内民主主義がなかった」ではなく「党内民主主義をさらに発展させる」という立場であり、「民主集中制の否定」ではなく民主集中制の現代的発展である。

 松竹が「共産党は左の自民党をめざせ」というのは、共産党は綱領で結ばれているものの、党の中に多様な色合いがあって、それを可視化できるほうが、多くの人とつながれる、という意味だろう。

 

 志位和夫日本共産党の100年を貫く特質の一つを「自己改革」だとした。松竹の本にも出てくるがもともとそう規定したのは宮本顕治である。中北の本にもあるが、日本共産党が特異な発展を遂げたのはまさに「暴力革命」でなく議会革命路線に切り替え、ソ連・中国べったりから自主独立路線に「自己改革」してきたからである。

 だとすれば、党首公選は、自己改革という日本共産党の伝統のど真ん中ではなかろうか。

 

共産党の防衛政策をどうするか

 松竹の本のウリは、というか、松竹が党首公選を求める理由の中心は、「日本共産党の防衛政策」の改革にある。

 ぼくはつねづね、

日本共産党にとって、この「共存」期間が長いのだから、共産党はもっと積極的な「専守防衛」政策を打ち出すべきなのである。そこの努力がもっと求められる

主張してきた

 松竹の主張は簡単に言えば

「核抑止抜きの専守防衛」を共産党の基本政策とする

というものである。それはどのようなものかは本書第3章に書かれているので、実際に読んでもらうのが一番だろう。

 松竹の主張のこの点については、長くなるのでエントリを改めて論じたい。

 この対立軸の設定は、「防衛政策」つまり自衛隊政策をめぐる対立軸としては、実は今の日本共産党の考え方とそれほど大きな隔たりはないように思われる。現在の日本共産党は急迫不正の主権侵害があれば自衛隊を活用するという立場だからだ。松竹は本書で“そんなことはない、現在の共産党の活用論では不十分だ”という主張をしているし、それゆえに本書を書いているのだが。

 しかし、「専守防衛政策」として自衛隊活用論をもっとハッキリ打ち出すことで、「あ、攻められたら自衛隊を使うっていうのも共産党は選択肢として持ってるんだ」ということは伝わる。

 だから、松竹のパッケージの方がより分かりやすい。それは当面の岸田政権による大軍拡・大増税の路線と対決する上でも役に立つだろう。

 まあ、ここでは、それだけを書いておく。

 

一番の不満——組織論がない

 松竹の本書への一番の不満は、共産党の組織論がないことだ。

 松竹の専門分野、そして文春新書という商業ベースの本である以上、それは致し方ないことかもしれない。

 しかし、共産党員が現場でいま一番苦労しているのは、「党の現状は、いま抜本的な前進に転じなければ未来がなくなる危機に直面している」(「130%の党」をつくるための全党の支部・グループへの手紙)ということだ。

 その打開策として、来年1月の次の党大会までに、直近の大会で決めた党員・赤旗読者を現在の1.3倍にするという目標を必ずやろうという提起が行われた。「130%の党づくり」という方針である。志位は、この課題について「緊急で死活的」と述べている。急いでやらねば組織が死んでしまうという意味である。この方針を訴える7中総が年初に開かれ、「今回の方針の中心は4月の統一地方選挙の勝利への方針だろう」と多くの党員が思い込んでいた中で、“130%の党づくりをしないと党の未来がなくなり、それが今年の最大の任務だ”という提起があって、衝撃が走ったのである。

 これは志位もいる中央の会議で激しい議論になった。現場でも戸惑いが走った。

 現場で活動している党員は、「130%の党づくり」をどうやっていいか、そもそも可能だろうか、あるいは本当にいま共産党中央が提起しているようなやり方でいいのかというところで悩みに悩んでいるのである。

 本書は、その悩みとどう関連しているのか。

 組織建設をどうするのかが書いていないのは、それは自分の専門外だから論じないのか。または、党首公選にもとづく自己改革があれば、あるいは防衛政策を含めて路線がより刷新されれば、共産党はもっと大きくなる思っているのか。そこのあたりはあまり明確ではない。

 活動的な党員の悩みは、ここなのだから、本当に現場の共産党員の心に響こうと思えば、そこに引き寄せない書き方は不十分ではなかろうか。

 

 

組織論をめぐる現状こそむしろ党首公選の必要性を示していないか

 ぼくは冒頭で、“党大会決定づくりには党全体がかかわって作り上げていく”と書いた。(だから、決定の実行の音頭を取る指導部や党首の決め方は、代議員の互選、その役員からの互選でいいっすよ、共産党員は考えている、と述べた。)

 実は「130%の党づくり」はすでに2020年の大会で決めていることなのである。ずっと前に自分自身で決めているにもかかわらず、その決定の実行に逡巡が生まれているというのはよく考えるとおかしな話だ。2年前の大会で、みんなで決めたはずのこの方針を、改めて提起した今年1月の第7回中央委員会総会の結語志位和夫はこう述べている。

今日の討論でも、「『130%の党』に本気で立ち向かおうとすれば、『本当にできるのか』という意見が出てくるだろう。しっかり議論していきたい」という発言が何人かからありましたけれども、その通りだと思います。…全国からの感想でもこういう声が寄せられました。「『130%の党』をつくろうという提起に、支部では『うーん』とか、『えー』という声が上がりましたが、それだけ自分事として捉え、実現の可能性が探求されているのだと思います」…「本当にできるのか」という声が出てくるのは、私は、当然だと思います。そのくらい大きな課題だと思います。

 自分たちで決めたはずの方針なのに、これほどの逡巡が生まれるのは、決定プロセスとして不十分さがあるのではないのか、という疑問が浮かぶ。

 大会決議案について細かい文言の修正は議論できても、大きな路線や方針の変更は言い出せないのではないのか、あるいは、言い出せたとしても、それを大きな路線の変更として議論する仕組みになっていないのではないか、ということだ。

大きな枠組みに目を向けさせないようにする - 紙屋研究所

 大会に向けた支部総会では、大会決議案を討論はするものの、決議案の賛否採択ではなく大会に向けた代議員の選出のみが行われる。実際、個々の党員が会議で反対意見を言う権利はあるし、討論紙で自由に論じることもできるが、全国的なキャンペーンを張って党内世論にしたり、それを対案として採択に付すような枠組みは用意されていない。

 だとすれば、やはり党首候補が複数出て、いくつかの大きなオプションを示してもらうことは有益なはずである。断片でなく、演説やビジョンの形で、一定の体系だったオプションを示すことは、政治的リーダーにしか(能力的に)できない。(もちろん、その政治的リーダーは誰でもなれる可能性があるから、松竹の言うような制度を用意して、ヒラ党員でも立候補できるようにして、大きな路線のオプションを示すべきだろう。)

 

志位に一定の信頼はあるよ

 ぼくは今の共産党志位和夫という党首と指導部に一定の信頼を持っている。だから、今の指導部のもとで、上述のような一連の改革をやればいい。

 だけど、そういう気配がないなら、誰か他の人にかわってほしい。

 かわってほしいけど、いないなら、ぼくが出てもいい。

 いや、そもそも党首公選をやらないのであれば、ぼくは出られないのだが(笑)。

 ぼくがもし党首選挙に出るのであれば、

  1. まず政策面では、上述のとおり専守防衛政策の解像度を上げる。これは松竹と、彼の関わっている「自衛隊を活かす会」と大いに連携したい。
  2. 包摂的な地域間協力についても、EAS(東アジアサミット)やAOIP(ASEANのインド太平洋構想)というだけなら岸田政権でさえ言っているのだから、現在あるEASのどこが問題で、どうのぞむのかをさらに具体化する。その上でAOIPにつなげていく。
  3. そして、表現の自由、特にジェンダーにかかわる表現については、めざすべき状況を規制ではなく言論によって実現するとともに、フィクト・セクシュアルのような多様な性のあり方を積極的に擁護する。性風俗産業についても「性風俗産業=性暴力」という規定ではなく、将来的な解消を展望し、性風俗産業の労働環境の改善などに取り組む(直接的な暴力や支配は禁止する)。
  4. 共産主義について具体的イメージで語る。共産主義社会主義については「どういう社会ですか」と言われた時、「市場経済も積極的に活用しつつ、利潤第一主義ではなく経済を社会のために役立てる社会です」として、(1)全ての国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する(2)労働時間の抜本的短縮で自由時間をふやし人間の全面発達をめざす(3)気候危機打開など経済の合理的な規制、という3点を具体的なイメージにする。この3つは現綱領で生産手段の社会化で生み出されるものとして挙げられているものである。
  5. 組織面では、組織建設に党活動の資源を最大限に傾斜させる。しかし、全国的な組織建設目標を一律に決めずに、支部で議論して積み上げていく方式に変える。
  6. 党建設とともに活動において「車の両輪」である「要求運動」を刷新する。党員・読者拡大はそれ自体の独自の追求は必要だが、党員が取り組んで楽しく、意義のある社会運動(要求運動)がセットでなければ、寄り付く人が増えて党活動に定着していくドライブの中心が存在しないことになる。選挙・党勢拡大・学習だけでは自らの社会的意義が実感できない。いろんな要求運動はあるよ。今でも。確かに。でもそういう古いタイプの要求運動ではなく、共産党自身が直接取り組んで居場所になれるような新しい要求運動が必要だ。それを全国・県・地区・支部レベルでそれぞれ探求する。
  7. 党建設がうまくいかない場合も見越して、より少ない人数で効率的にパフォーマンスができるように、組織活動でやることが多すぎたり、旧来の仕組みがそのままで維持のためのコストが膨大になっている点をリストラする。一例を上げると赤旗の日曜版はそのまま紙で維持するが、日刊紙は紙を廃止し全面デジタルにして価格を抜本的に下げ、毎日の配達をなくす。

などを掲げたい。

 特に組織建設については、新しい党員、現役や若い世代が今のスタイルや活動量を引き継げるかどうか、引き継げたとしてもそれを魅力に感じて新たに多くの若い世代が入ってこれるのかどうか、真剣に、そして本音で考えることが必要だ。

 党首公選は、風通しのいい組織へとさらに改良する、いいきっかけになるんじゃないか。

*1:うちの80を超えた父(保守系無党派)も「日本共産党は党首を選挙で選ばんのだから習近平と同じだ」と言っていたのだが、ぼくが志位和夫は互選だが選挙で選ばれていることを伝えた上で、「数ヶ月かけてみんなで分厚い大会決議案を読んで、みんなで討論して、論争誌も出して下から積み上げていく方式をとっている。そんな政党、他にある? 自民党の大会なんか、一方的に幹部が方針を話して、党歌歌って終わり。討論も採択もせず半日で終わるんだぜ? めちゃくちゃだと思わないか」と問いかけたがキョトンとしていた。父は、そういう民主的な討論や文化の片鱗も体験したことはないのだから仕方がない。

*2:民主集中制とは何かを定めた規定は日本共産党の規約第3条にある。「党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本は、つぎのとおりである。(一) 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。(二) 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。(三) すべての指導機関は、選挙によってつくられる。(四) 党内に派閥・分派はつくらない。(五) 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。」

*3:ちなみに、党首公選を否定する議論の中には安定した指導部を確立するためには全党選挙ではダメだというものがあるのだが、これは何をか言わんやである。このような意見こそ「一般の党員には指導部を選ぶ能力がない」とする民主主義否定の議論であり、恥ずかしくて大声では国民の前で言えない話だ。「え? なに? 大きな声でもういっぺん言ってみて?」と聞き返してあげよう。そもそも一般党員が「自分には選びきれないなあ」と思えば幹部会が推薦する人に投票すればいいし、推薦制度がないなら棄権すればいい。あらかじめ「安定した指導部は選べない」と決めつけて権利を奪うものではない。

「変わる徳川家康像」の赤旗記事

 今日付の「しんぶん赤旗」に「変わる徳川家康像 『大河』考証者らの最新研究」という記事(清水博記者)が出ていた。ぼくら、いやぼくが知っている古い徳川家康像がどう刷新されているかという研究について、市民レベルにかみくだいた解説本を要領よく紹介してくれている記事で興味深く読んだ。

 ネット上の無料記事でその一端を紹介している記事はあるんだけど、あくまで一端。広く見渡してコンパクトに要点を示してくれるこういう記事は、助かるわ〜!

 どの部分も「へー」と思って読んだのだが、特に関心を持った点を2つだけ。

 松平家が今川から独立するきっかけについての次の記述だ。

1560年の桶狭間合戦今川義元織田信長に敗死してからも、当初は今川方として織田方に抗戦していたらしい。しかし上杉謙信の大軍が関東に侵攻。今川氏と同盟関係にあった北条氏が存亡の危機の事態となったため今川氏は家康を支援できず、織田方の攻勢の矢面に立たされた家康はついに織田信長と和睦し、今川氏から独立したとしています。

 これは大河の時代考証者の一人・柴裕之『青年家康』の中身である。

 ということはですよ? 本日夜の「どうする家康」はここらあたりの話だから、それが生かされている可能性があるわけですなー。それは楽しみの一つである。

 同じく大河の時代考証者の一人、平山優『徳川家康武田信玄』の中身の紹介。

やがて信玄は家康や信長との同盟関係を破棄して大攻勢をしかけますが、その一因として、信玄は家康と信長の関係が「対等」であることを理解できず、家康は信長に「臣従」していると最後まで「誤認」し続けたとの、興味深い見方を提示しています。

 どういう誤解なのかはあまり立ち入って書かれていないし、ぼくも平山の本を読んでいないし手元にないから推察するしかないが、アレですか、「オメー、信長の家来だろ? パシリだろ? じゃあ、信長の言ってること=お前の言ってることだよな?」的な?

 磯田道史が解説してんな。

 この時点では、信玄は今川と同盟を結んでいましたから、信玄からみた家康は、桶狭間を機に今川の手下から織田の手下に寝返った男、という認識だったと思います。最近の研究によると、信玄の手紙をみると、家康を「三河殿」とか「三河守殿」ではなく、単に「岡崎」と呼び捨てているそうです。つまり、家康を、三河の支配権を確立した、独立した国主としてはみなしていないわけです。かなり後になっても、信玄が家来にあてた手紙の中にも、「家康はもっぱら信長の意見にしたがっている人物だ」と書かれています。信玄は家康を対等の交渉相手とはみなしていませんでした。

 ここは重要な点です。信長は家康に無理難題も押しつける厄介な存在ではありますが、一貫して、家康を対等の同盟相手として扱い、家来扱いはしていないのです。信長は、家康が三河から遠州そして駿河へ勢力を伸ばすのを終始一貫して支持していました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/b280b91b7a72bb4de03b9bc6da9d07cae1e0e10d?page=4

 

 もともと、松平は今川のような戦国大名ってわけじゃなくて、それに下請け的に契約している中小領主であった、という見方は最近よく聞くようになった。そこから、「弱小戦国大名の悲哀としての人質」的な存在じゃなかったんだよ、という話になる。

 そして、今川からの独立においても、また、信玄との関係においても、家康が「中小領主」だったのかそれとも「対等な大名」だったのかということが揺れているように見える。それは上記の記事を見ると、現代のぼくらだけじゃなくて、当時の大名(信玄など)にとってもそうだったってことじゃなかろうか。

 その揺れがドラマを生んだり、従来の見方を覆す爽快感に繋がっているしているのではないか…などと記事を読みながらぼんやり思った。

 

 なお、記事で紹介されている本田隆成『徳川家康の決断』の紹介文で、

家康最大の危機だった武田信玄との合戦

とあって、あー、これが「最大の危機」なんだーと認識した。そしてその一文に続いて

家康最大の危機だった武田信玄との合戦に次ぐ危機は、豊臣秀吉が「家康成敗」の軍事侵攻を決意した1585年だったとするなど、新しい見方を示しています。

とある。「へえ〜」「ほー」と思いWikipediaの「小牧・長久手の戦い」の項を見ると、圧倒的軍事力の差をつけられていた家康は秀吉の討伐計画により壊滅する運命にあったが、大地震が起きて戦争どころじゃなくなった…的なことが書かれている。

 つまり、三方ヶ原でウンコとかそういう話じゃなくてさ、家康は滅亡レベルの危機が2回あったということで、しかも対武田戦争はその最大のもの、そして秀吉との対立はその次にあるものだという認識を示されて、ぼくとしては驚いたわけ。

 しかも、大地震という全くの偶然事によりピンチを逃れるって、個人の運命における「運」って大事だなと感じいる。「才能ある人・偉人」としての家康じゃなくて、運で生き延びたという認識。

 そういうエッジのつけ方をすると石川数正の出奔も楽しい味付けができそうですなーと期待した。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

たかしまそういちろう『アヒルちゃんの夢』

 福岡市長・高島宗一郎が文・絵をかいた『アヒルちゃんの夢』を読んだ。

 

アヒルちゃんの夢

アヒルちゃんの夢

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 しかも親子で。娘は英語の部分を声に出して読んだんだぞ。最後まで。「said」を「せいど?」などと相当にトンチンカンなことを言っていたが。昨年12月に出版された本だから、福岡市民の中で親子でこの絵本を声に出して読んだおそらく初めての家庭ではないだろうか。

 髙島はこれまでに2冊の本を出している。それらいずれも隅から隅まで読み込んでいるのはぼくである。おそらく市内でぼくが一番しっかり読んでいると思う。

 韓国ドラマ「梨泰院クラス」で主人公のパク・セロイが宿敵・チャン・デヒの出した自伝を獄中で丹念に読み込むシーンがあるが、あれくらい読んでるわ。

 

 さて『アヒルちゃんの夢』である。

 なんか難癖をつけてやろうと思うのだが、グラフィックは悪くない。

 アヒルちゃんの固定された無表情なルックスは、サンリオ・キャラクターからくまモン、そしてポプ子に至る現代的な流れをよく踏まえている(適当)。いや、まじめな話、けっこう印象深いグラフィックのキャラクターだ。悪くない。

たかしま そういちろう『アヒルちゃんの夢』、エッセンシャル出版社、表紙

大川ぶくぶポプテピピック SEASON FIVE』竹書房、Kindle73/121 髙島絵本にも「ぴえん」頻出。

 内容はこうである。空を飛びたいと願う主人公アヒルちゃんだが、「はばたくんだ」とあさってな方向での努力を説く教師や、気合いで飛べなどと根性論をぶつアニマル浜⬜︎のような老人(老獣?)のタヌキにふりまわされる。

 しかし、やがてスーパーブーなる起業家に出会い、ジェットで飛べることを教えられ、それをクラウドファウンディングで資金を集め、みんなをアジるプレゼンをすべきだというアドバイスのもと飛行を実現する。

 さらに、アヒルちゃんは起業までして、お金をもうけて、飛べない動物を飛ばすというみんなの夢まで叶えてしまうのである。

 なんかこう筋を要約してしまうと身もふたもない感じがするけども、娘と英文を読んでいたときは、絵もふくめて、そのわかりやすさに救われた感じで読めてしまった。

 

 まー、でもやっぱりスーパーブーに出会ってからがご都合主義というか、そのためにイデオロギッシュになっちゃっているというか、我田引水ぶりがすごい。

 アヒルちゃんは最初に「はばたくために運動をしろ」という「うんどうの先生」からのアドバイスを「真面目」に聞いてしまう。作者・髙島はそこをあとがきでこう批判している。

ヒルちゃんがうんどうの先生の言う事を「真面目に」聞いて羽をバタバタさせていても…空を飛ぶことはできなかったはずです。

 しかしである。ぼくから言わせれば、(1)うんどうの先生やタヌキの知識伝授と、(2)スーパーブーのアドバイスと、どこが違うのかが、読者には伝わりにくいのである。

 もともと髙島の言いたかったことは、(1)はただ言われるままに「正解」を実行するだけだったのに対して、(2)はヒントを与えてもらうだけで、そこから自分で考えて試行錯誤をするという違いがあるのかもしれないが、そのあたりがよくわからないのだ。

 うんどうの先生という「アホな指導者」ではなく、スーパーブーという「いい指導者」に「巡り合った偶然」が問題を左右しているかのようだ。これでは探そうとする「正解」が違うだけで、髙島が伝えたかったであろう主体側の姿勢の違いが伝わっていかない。

 思うに、ジェットスーツだの、クラウドファウンディングだの、会社を起業してお金儲けだの、イノベーションやスタートアップに問題を寄せすぎなのである。イデオロギー的な結論が前に出過ぎてしまっている印象が否めない。ここまでスタートアップに問題を寄せ過ぎてしまうと、「え? じゃあ創業メンバーが次々去っていく試練がアヒルちゃんを襲わないの?」とか「DAUが初日10万でぬか喜びして、1週間後に1桁になるとかいう心折れエピソードマダー?」みたいなツッコミが来てしまう。それなら、えい『100話で心折れるスタートアップ』を読んでもらいシビアな現実を知ってもらうのもテでは。

 ま、スタートアップはおいとこうぜ。

 話を元に戻す。この絵本はどうすべきだっただろうか?

 髙島が描こうとしたのは、

子どもたちには正解が1つの問題を解かせる一方で、現実の世の中には正解がないことばかりです。不確実な社会の中で自ら問いを立てる力、実現したい未来に対し、新しい技術なども使いながらさまざまなアプローチを考えてチャレンジする力、思いに共感してもらえる仲間を作るコミュニケーション力を磨く方が、1つの正解を出すことや暗記を頑張ることよりも「生きる力」につながると思うのです。(本書のあとがきより)

ということなのだろう。あなたが総合教育会議で関与しているはずの福岡市の教育はその点でどうなっているんですかと中学生の親としてはツッコミを入れたいところであるが、それはぐっと我慢して、絵本の話をしよう。物語の創作者としての髙島に問題を絞るのなら、ここに書いてある、

  • 不確実な社会の中で自ら問いを立てる力
  • 実現したい未来に対し、新しい技術なども使いながらさまざまなアプローチを考えてチャレンジする力
  • 思いに共感してもらえる仲間を作るコミュニケーション力を磨く方

純粋に徹してクラウドファウンディングだの、起業だのの話はおいとくべきだった

 例えばこんな筋が考えられる。

——「鳥は羽ばたいて飛ぶものだ」という古い固定観念にとらわれていたが、そこから脱却して、グライダーやジェットスーツで飛べるのだというコペルニクス的転回をし、それに共鳴する仲間たちと力をあわせて「飛ぶ」を実現させる。

——「飛ぶ」ことによって得られた幸福を描くことで、「鳥なのに自力で羽ばたいて飛ばないのは卑怯だ」などの非難が寄せられるけども、飛ぶことで得られた幸福を知らない者の戯言ではないかとしりぞける。

…などという展開も可能では。

 まあ、これは批評者としての意見。

 創作の立場から言えば、実際に描いた人が一番偉いのである。ぼくは描いていない。その点で実際に物語をちゃんと描き切って発表した髙島は、実作者としては偉いといえよう。

 

 ただ、絵本というのは本当に創るのが難しい。

 先ほどぼくが書いたような「子ども向け」というナメた態度で描いた途端に子どもに見透かされる…というか、子どもの世界と目の高さに入っていけてないのである。

 長谷川摂子は自分の子どもとの絵本体験を次のように記している。

次男は三歳のとき、『海べのあさ』(ロバート・マックロスキー文・絵/石井桃子訳/岩波書店)がお気に入りで、あの淡々とした日記ふうのストーリーを飽くことなく楽しんだ。通り一遍、大人の目で目を通しただけだったら、わたしはあのエッセーふうの滋味あふるる絵本を自分のものにすることができなかったに違いない。けれど、くり返し、くり返し求める幼児とつき合っているうちに、『海べのあさ』という絵本は、大人のわたしの目にもしだいしだいに鮮明になり、くっきりと純化された相貌で現れてくるようになった。例えばバックス・ハーバーへ船で買い物に行くという日常的な営みを、幼児は大人とはまったく違う感性で受けとめる。「きょうは、おとうさんとバックス・ハーバーへいく日だったのです!」という単純な言葉の輝きは幼児の心を通さないと見えてこないのだ。ジェインと一体となって海べのあさを生きる息子は、この本を、「バックス・ハーバーに行く本」と呼んでいた。もうそれだけで、この本を開くときの子どもの胸のときめきがわたしの胸に迫ってくる。最後のページ、波をけたてて走るモーター・ボートの中でジェインが手をふって叫ぶ。「うちにかえれば、とてもおいしい、ハマグリのスープが できてるのよ!」。息子はこれをジェインといっしょに大声で唱和し、「よし、決まった」という顔でにっこりほほえんだものである。この声なしに、わたしはこの絵本の終わり方の見事さを十分得心できたとはとうてい思えない。(長谷川『子どもたちと絵本』福音館書店、p.7、強調は引用者)

 

 

 「空を飛ぶ」という心の動きは、それだけを微細に眺めていると、確かに心躍るものがある。もし自分の力で空を飛ぶことができたとしたら、世界がまるで違って見えるはずだ。

 

 それを大人の目ではなく子どもの心で書く。なんと難しいことか。大人の都合で何かを説教するためではなく、その心の躍動を本当に絵本の軸にできたら、絵本は生きて動き出すのかもしれない。