松竹伸幸『シン・日本共産党宣言』

 日本共産党は党首公選をやってはどうかということが話題になっている。

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 その台風の目になっているのが松竹伸幸『シン・日本共産党宣言』(文春新書)である。「ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由」というサブタイトルの通り、党首公選を求めて党の防衛政策などの発展を訴えている。

 実は松竹の本書には、表現の自由での政策の対立をめぐり、ぼくの名前も出てきてびっくりする。

 党首公選をしたらいいではないか。これが本書についてのぼくの結論である。

 

党首公選をやったほうがいい派に変わった理由

 数年くらい前までは「やらないほうがいい」派であったが、「やったほうがいい」「やらねばならない」「やってもいいのでは」派の人たちの話を聞いてみて、いろいろ考えるうちに「やったほうがいい」派になった。

 どうしてぼくが最初は「やらないほうがいい」派だったかと言えば、この問題は上に紹介したマスコミの記事でチラホラそのニュアンスが出ているように、共産党員やその周辺、特に一生懸命やっている人や熱心なファンからすれば、「党首公選を認めることは、これまでの日本共産党の運営や指導部選出が非民主的だったという謂れのない非難を認めることになるから。しかしそんなことは全くない」という気持ちがあったからだ。

 党員にとって、一番大事なのは党の大会の決定である。

 その決定案をけっこう時間をかけていろんなところで討議し、それを数ヶ月間積み上げて決める。他の党の党大会ではまずみられない光景であり、手続きの上では確かにかなり民主的なシステムである。決まったとしても批判は会議で自由にできるし、意見を中央委員会から地元の組織までどのレベルに出していいことも規約で決まっており、実際に活用されている。(ただ不十分な点はある。これは後で述べる。)

 そうやって民主的に決めてつくった決定こそが重要なものである。そこの決定のレールの上でうまく党を運用してくれる人は、能力のあるリーダーであってほしいから、現場から代議員を出して役員を選び、その役員たちが決めた「専門家」ならまあ直接自分たちは選んでないけどお任せしますよ、というのが素直な気持ちなのである。互選に互選を重ねるなんて、別に日本の国会でも国民から選ばれた国会議員が首相選びでやってることじゃん。*1

 

 だから、「党首公選をしない現状は非民主的で専制的だ!」という非難は、党員にはあまりピンとこないだろうし、「ためにする議論」だとしか思われていない。

 ぼくは少し前までこの考え——「大事なのは党大会決定。指導部の選び方は今の選出方法で民主的だと思うぜ」派だった。そして今もある意味そうなのである。

 しかし、よく考えてみると現在民主的であると認めることと、これからそれをさらに良くしていくことは何ら矛盾するものではないという当たり前の事実に気がついた。党首公選は現在の運営を否定するのではなく、「より良く」するためのものなのである。

 現場の党員の中で頑として党首公選に反対している人の中には、このリンクが外れていない人が少なくない。党首公選を採用してしまうことはあたかも「日本共産党習近平体制と同じ独裁」という議論に屈してしまうかのように感じているのだ。その人は二項対立の罠にハマっている。ネットの喧嘩でよくみるけど、2つのグループが争っている時、一つのグループに少しでも意見すると、対立するグループへの加担であるように受け取られてしまう、アレである。

 松竹の本書では、党首公選をする3つの理由をあげている。(1)他党が実施し、国民には常識になっている(2)党員の個性が尊重され、国民には親しみが生まれる(3)党員の権利を大切にする、だ。それぞれ松竹は本書でその中身を詳しく述べている。

 この3つについて書かれた部分を読むと、松竹も不十分さは指摘するものの、現状が非民主的だとか独裁的だとか非難しているわけではなく、やはり「現状よりもさらによくするための改善策」として提案しているのである。この点はぼくと一致しているように読めた。この3つの理由は、党首公選をすべき3つの効能というべきもので、ぼくも今やったほうがいいと思える根拠と大体重なっている。

 

党首公選は必ず派閥を生むか?

 党首公選を批判する直球の意見としては「党首公選は必然的に分派・派閥を生み出す」というものがある。これは上述の「雰囲気としての二項対立」、なんとなく「ダメ」という意見とは違って、“根拠”を示して「弊害がある」とハッキリ述べている。

 松竹はこの点について本書で検討を加えて、自分なりの意見を書いている。

 松竹の意見は一つの見識だとは思う。

 ぼくは松竹の意見に、さらに次の点を添えたい。

 それは、「現在のような役員(中央委員、幹部会)による互選で党首を選んだって、派閥や分派ができるときにはできるんじゃないんですか?」ということである。

 古参の共産党員は労働組合の役員選挙で繰り返しみてきた光景のはずだ。組合では代議員という代理人による間接選挙が多く、同盟系だの総評系だの統一労組懇系だの、激しい票の奪い合いがあった。

 代議員や役員による互選というシステムは、現在の共産党の幹部選出と同じシステムである。もし「代議員や役員による選挙というシステムは、組合選挙を見ても分かる通り、代議員や役員を囲い込むために派閥が生じやすい。20万人以上いるメンバーによる直接投票にすべきだ」と主張する人がいたら、どう思うだろうか?

 今共産党の中でそんな分派抗争が起きていないのは、周知の事実である。なぜか。それは「分派をつくらず、分派への忠誠でなく、真理の前にのみこうべを垂れる気持ちで自由に討論しよう」という民主集中制のルール*2がよく徹底されているからであって、党首公選という直接選挙にするか、代理人による互選という間接選挙にするかという形式とはまるで関係がない

 民主集中制の精神が浸透しているなら、派閥争いは起きない。

 その精神が崩れているなら、派閥・分派闘争は起こる。

 それだけのことであって、公選か互選かという“制度”の問題ではない。

 ダメ押しでいうなら、「党首公選は必然的に分派・派閥を生み出す」という意見は、他の党の党首選挙の形に引きずられすぎている。なるほど他の党では、党の路線を党員が何ヶ月もかけて議論を積み上げるなどということはせずに、党首候補がそれぞれ政見を述べて、そのどれを選ぶかという形式をとる。そうすると、ろくに大会決定の議論もしないままに人気投票のようなことが起きて集票合戦になるかも…という不安があるのだろう。

 なら、第一歩として、党大会決定を決めた後で、幹部会の中から立候補した複数の人を党全体で選挙してはどうか。もし複数立候補がなければ、幹部会が推薦した1人の党首候補を「この人でいいですか?」と全党で信任投票をする制度からまず始めてもいい。それはそんなに難しくはないし、これならさすがに分派なんて生まれないだろ? 原理的に。

 慣れてきたら、党大会決定を決めた後に1ヶ月間ほど選挙期間をおいて、党内から自由に立候補してもらい選挙するなどの形に発展すればいいのである(選出までの1ヶ月は前任者など暫定的な指導体制で進める)。*3

 

民主集中制はどうすべきか

 このあたりの制度の試論を松竹の本書でもやっている。

 その松竹の試論において重要なのは、民主集中制についての扱いである。

 松竹は党首公選の間の規約のしばりの緩和などを提案している。読めば分かるが、松竹の意見は「民主集中制の否定」ではないことである。

 「みんなで決めてみんなで実践する」というルール自体は、別に否定されるほどではない、近代政党として当たり前の組織原則だろう(もちろん別の組織のあり方も当然ありうる)。

 問題はそこに「派閥・分派を作ってはいけない」というルールを付与していることであり、そのルールに付随して議論やお互いの連絡の取り方に細かいコードがあることだ。そのルールやコードは緩めたり、変えたりすることはできるはずだ。松竹はそれを本書で提案している。

 松竹が言いたいのは民主集中制の否定ではなく、民主集中制発展である。

 例えば『日本共産党』を書いた中北浩爾などは共産党の刷新策として、民主集中制ソ連から持ち込まれ非合法時代の名残だというふうに「根拠」づけまでやってしまい、一足飛びに「否定」してしまっている。それはちょっと上手くないのではないか。

 インターネットやSNSで簡単に全国に発信ができ、連絡も取れ合う時代に、意見交換や繋がり合うやり方についてはもっと自由にしていいのではないかというのは当然の発想である。そして、当の共産党自体が、別にそのことを否定しているわけではなく、実際の運用においてかなりの自由なあり方を探求し、発展させているのである。

 

 みてきたように、松竹が提起しているのは、「党内民主主義がなかった」ではなく「党内民主主義をさらに発展させる」という立場であり、「民主集中制の否定」ではなく民主集中制の現代的発展である。

 松竹が「共産党は左の自民党をめざせ」というのは、共産党は綱領で結ばれているものの、党の中に多様な色合いがあって、それを可視化できるほうが、多くの人とつながれる、という意味だろう。

 

 志位和夫日本共産党の100年を貫く特質の一つを「自己改革」だとした。松竹の本にも出てくるがもともとそう規定したのは宮本顕治である。中北の本にもあるが、日本共産党が特異な発展を遂げたのはまさに「暴力革命」でなく議会革命路線に切り替え、ソ連・中国べったりから自主独立路線に「自己改革」してきたからである。

 だとすれば、党首公選は、自己改革という日本共産党の伝統のど真ん中ではなかろうか。

 

共産党の防衛政策をどうするか

 松竹の本のウリは、というか、松竹が党首公選を求める理由の中心は、「日本共産党の防衛政策」の改革にある。

 ぼくはつねづね、

日本共産党にとって、この「共存」期間が長いのだから、共産党はもっと積極的な「専守防衛」政策を打ち出すべきなのである。そこの努力がもっと求められる

主張してきた

 松竹の主張は簡単に言えば

「核抑止抜きの専守防衛」を共産党の基本政策とする

というものである。それはどのようなものかは本書第3章に書かれているので、実際に読んでもらうのが一番だろう。

 松竹の主張のこの点については、長くなるのでエントリを改めて論じたい。

 この対立軸の設定は、「防衛政策」つまり自衛隊政策をめぐる対立軸としては、実は今の日本共産党の考え方とそれほど大きな隔たりはないように思われる。現在の日本共産党は急迫不正の主権侵害があれば自衛隊を活用するという立場だからだ。松竹は本書で“そんなことはない、現在の共産党の活用論では不十分だ”という主張をしているし、それゆえに本書を書いているのだが。

 しかし、「専守防衛政策」として自衛隊活用論をもっとハッキリ打ち出すことで、「あ、攻められたら自衛隊を使うっていうのも共産党は選択肢として持ってるんだ」ということは伝わる。

 だから、松竹のパッケージの方がより分かりやすい。それは当面の岸田政権による大軍拡・大増税の路線と対決する上でも役に立つだろう。

 まあ、ここでは、それだけを書いておく。

 

一番の不満——組織論がない

 松竹の本書への一番の不満は、共産党の組織論がないことだ。

 松竹の専門分野、そして文春新書という商業ベースの本である以上、それは致し方ないことかもしれない。

 しかし、共産党員が現場でいま一番苦労しているのは、「党の現状は、いま抜本的な前進に転じなければ未来がなくなる危機に直面している」(「130%の党」をつくるための全党の支部・グループへの手紙)ということだ。

 その打開策として、来年1月の次の党大会までに、直近の大会で決めた党員・赤旗読者を現在の1.3倍にするという目標を必ずやろうという提起が行われた。「130%の党づくり」という方針である。志位は、この課題について「緊急で死活的」と述べている。急いでやらねば組織が死んでしまうという意味である。この方針を訴える7中総が年初に開かれ、「今回の方針の中心は4月の統一地方選挙の勝利への方針だろう」と多くの党員が思い込んでいた中で、“130%の党づくりをしないと党の未来がなくなり、それが今年の最大の任務だ”という提起があって、衝撃が走ったのである。

 これは志位もいる中央の会議で激しい議論になった。現場でも戸惑いが走った。

 現場で活動している党員は、「130%の党づくり」をどうやっていいか、そもそも可能だろうか、あるいは本当にいま共産党中央が提起しているようなやり方でいいのかというところで悩みに悩んでいるのである。

 本書は、その悩みとどう関連しているのか。

 組織建設をどうするのかが書いていないのは、それは自分の専門外だから論じないのか。または、党首公選にもとづく自己改革があれば、あるいは防衛政策を含めて路線がより刷新されれば、共産党はもっと大きくなる思っているのか。そこのあたりはあまり明確ではない。

 活動的な党員の悩みは、ここなのだから、本当に現場の共産党員の心に響こうと思えば、そこに引き寄せない書き方は不十分ではなかろうか。

 

 

組織論をめぐる現状こそむしろ党首公選の必要性を示していないか

 ぼくは冒頭で、“党大会決定づくりには党全体がかかわって作り上げていく”と書いた。(だから、決定の実行の音頭を取る指導部や党首の決め方は、代議員の互選、その役員からの互選でいいっすよ、共産党員は考えている、と述べた。)

 実は「130%の党づくり」はすでに2020年の大会で決めていることなのである。ずっと前に自分自身で決めているにもかかわらず、その決定の実行に逡巡が生まれているというのはよく考えるとおかしな話だ。2年前の大会で、みんなで決めたはずのこの方針を、改めて提起した今年1月の第7回中央委員会総会の結語志位和夫はこう述べている。

今日の討論でも、「『130%の党』に本気で立ち向かおうとすれば、『本当にできるのか』という意見が出てくるだろう。しっかり議論していきたい」という発言が何人かからありましたけれども、その通りだと思います。…全国からの感想でもこういう声が寄せられました。「『130%の党』をつくろうという提起に、支部では『うーん』とか、『えー』という声が上がりましたが、それだけ自分事として捉え、実現の可能性が探求されているのだと思います」…「本当にできるのか」という声が出てくるのは、私は、当然だと思います。そのくらい大きな課題だと思います。

 自分たちで決めたはずの方針なのに、これほどの逡巡が生まれるのは、決定プロセスとして不十分さがあるのではないのか、という疑問が浮かぶ。

 大会決議案について細かい文言の修正は議論できても、大きな路線や方針の変更は言い出せないのではないのか、あるいは、言い出せたとしても、それを大きな路線の変更として議論する仕組みになっていないのではないか、ということだ。

大きな枠組みに目を向けさせないようにする - 紙屋研究所

 大会に向けた支部総会では、大会決議案を討論はするものの、決議案の賛否採択ではなく大会に向けた代議員の選出のみが行われる。実際、個々の党員が会議で反対意見を言う権利はあるし、討論紙で自由に論じることもできるが、全国的なキャンペーンを張って党内世論にしたり、それを対案として採択に付すような枠組みは用意されていない。

 だとすれば、やはり党首候補が複数出て、いくつかの大きなオプションを示してもらうことは有益なはずである。断片でなく、演説やビジョンの形で、一定の体系だったオプションを示すことは、政治的リーダーにしか(能力的に)できない。(もちろん、その政治的リーダーは誰でもなれる可能性があるから、松竹の言うような制度を用意して、ヒラ党員でも立候補できるようにして、大きな路線のオプションを示すべきだろう。)

 

志位に一定の信頼はあるよ

 ぼくは今の共産党志位和夫という党首と指導部に一定の信頼を持っている。だから、今の指導部のもとで、上述のような一連の改革をやればいい。

 だけど、そういう気配がないなら、誰か他の人にかわってほしい。

 かわってほしいけど、いないなら、ぼくが出てもいい。

 いや、そもそも党首公選をやらないのであれば、ぼくは出られないのだが(笑)。

 ぼくがもし党首選挙に出るのであれば、

  1. まず政策面では、上述のとおり専守防衛政策の解像度を上げる。これは松竹と、彼の関わっている「自衛隊を活かす会」と大いに連携したい。
  2. 包摂的な地域間協力についても、EAS(東アジアサミット)やAOIP(ASEANのインド太平洋構想)というだけなら岸田政権でさえ言っているのだから、現在あるEASのどこが問題で、どうのぞむのかをさらに具体化する。その上でAOIPにつなげていく。
  3. そして、表現の自由、特にジェンダーにかかわる表現については、めざすべき状況を規制ではなく言論によって実現するとともに、フィクト・セクシュアルのような多様な性のあり方を積極的に擁護する。性風俗産業についても「性風俗産業=性暴力」という規定ではなく、将来的な解消を展望し、性風俗産業の労働環境の改善などに取り組む(直接的な暴力や支配は禁止する)。
  4. 共産主義について具体的イメージで語る。共産主義社会主義については「どういう社会ですか」と言われた時、「市場経済も積極的に活用しつつ、利潤第一主義ではなく経済を社会のために役立てる社会です」として、(1)全ての国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する(2)労働時間の抜本的短縮で自由時間をふやし人間の全面発達をめざす(3)気候危機打開など経済の合理的な規制、という3点を具体的なイメージにする。この3つは現綱領で生産手段の社会化で生み出されるものとして挙げられているものである。
  5. 組織面では、組織建設に党活動の資源を最大限に傾斜させる。しかし、全国的な組織建設目標を一律に決めずに、支部で議論して積み上げていく方式に変える。
  6. 党建設とともに活動において「車の両輪」である「要求運動」を刷新する。党員・読者拡大はそれ自体の独自の追求は必要だが、党員が取り組んで楽しく、意義のある社会運動(要求運動)がセットでなければ、寄り付く人が増えて党活動に定着していくドライブの中心が存在しないことになる。選挙・党勢拡大・学習だけでは自らの社会的意義が実感できない。いろんな要求運動はあるよ。今でも。確かに。でもそういう古いタイプの要求運動ではなく、共産党自身が直接取り組んで居場所になれるような新しい要求運動が必要だ。それを全国・県・地区・支部レベルでそれぞれ探求する。
  7. 党建設がうまくいかない場合も見越して、より少ない人数で効率的にパフォーマンスができるように、組織活動でやることが多すぎたり、旧来の仕組みがそのままで維持のためのコストが膨大になっている点をリストラする。一例を上げると赤旗の日曜版はそのまま紙で維持するが、日刊紙は紙を廃止し全面デジタルにして価格を抜本的に下げ、毎日の配達をなくす。

などを掲げたい。

 特に組織建設については、新しい党員、現役や若い世代が今のスタイルや活動量を引き継げるかどうか、引き継げたとしてもそれを魅力に感じて新たに多くの若い世代が入ってこれるのかどうか、真剣に、そして本音で考えることが必要だ。

 党首公選は、風通しのいい組織へとさらに改良する、いいきっかけになるんじゃないか。

*1:うちの80を超えた父(保守系無党派)も「日本共産党は党首を選挙で選ばんのだから習近平と同じだ」と言っていたのだが、ぼくが志位和夫は互選だが選挙で選ばれていることを伝えた上で、「数ヶ月かけてみんなで分厚い大会決議案を読んで、みんなで討論して、論争誌も出して下から積み上げていく方式をとっている。そんな政党、他にある? 自民党の大会なんか、一方的に幹部が方針を話して、党歌歌って終わり。討論も採択もせず半日で終わるんだぜ? めちゃくちゃだと思わないか」と問いかけたがキョトンとしていた。父は、そういう民主的な討論や文化の片鱗も体験したことはないのだから仕方がない。

*2:民主集中制とは何かを定めた規定は日本共産党の規約第3条にある。「党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本は、つぎのとおりである。(一) 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。(二) 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。(三) すべての指導機関は、選挙によってつくられる。(四) 党内に派閥・分派はつくらない。(五) 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。」

*3:ちなみに、党首公選を否定する議論の中には安定した指導部を確立するためには全党選挙ではダメだというものがあるのだが、これは何をか言わんやである。このような意見こそ「一般の党員には指導部を選ぶ能力がない」とする民主主義否定の議論であり、恥ずかしくて大声では国民の前で言えない話だ。「え? なに? 大きな声でもういっぺん言ってみて?」と聞き返してあげよう。そもそも一般党員が「自分には選びきれないなあ」と思えば幹部会が推薦する人に投票すればいいし、推薦制度がないなら棄権すればいい。あらかじめ「安定した指導部は選べない」と決めつけて権利を奪うものではない。