リモート読書会でハンス・ロスリング 、 オーラ・ロスリング 、 アンナ・ロスリング・ロンランド『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』を読む。
- 現在低所得国に暮らす女子の割合が初等教育を修了するでしょう?
- 世界で最も多くの人が住んでいるのはどこでしょう?
- 世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は過去20年でどう変わったでしょう?
- 世界の平均寿命はおよそ何歳でしょう?
- 15歳未満の子供は、現在世界に約20億人います。国連の予測によると、2100年に子供の数は約何人になるでしょう?
など13の質問が冒頭に並ぶ。正答率は非常に低いという。
著者は“発展途上国に暮らす人々が非常に貧しいまま、いつまでたっても分断が克服されない”という世界イメージをデータに基づいて批判していくのである。
本書をどう考えればいいのであろうか。
本書は一種の左翼的アジテーション(ぼくのような)への批判の本のように読める。
例えば日本における左翼の代表である日本共産党の綱領には次のようにある。
巨大に発達した生産力を制御できないという資本主義の矛盾は、現在、広範な人民諸階層の状態の悪化、貧富の格差の拡大、くりかえす不況と大量失業、国境を越えた金融投機の横行、環境条件の地球的規模での破壊、植民地支配の負の遺産の重大さ、アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの国ぐにでの貧困など、かつてない大きな規模と鋭さをもって現われている。
とりわけ、貧富の格差の世界的規模での空前の拡大、地球的規模でさまざまな災厄をもたらしつつある気候変動は、資本主義体制が二一世紀に生き残る資格を問う問題となっており、その是正・抑制を求める諸国民のたたかいは、人類の未来にとって死活的意義をもつ。
世界の現実を「貧富の格差の拡大」として把握し、その矛盾が「アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの国ぐにでの貧困など、かつてない大きな規模と鋭さをもって現われ」「資本主義体制が二一世紀に生き残る資格を問う問題」にまでなっているとみなす。
著者は「富めるもの」と「貧しいもの」のように分断的世界観にもとづく二項対立的な把握を批判し、世界のレベルが次第に進歩していることを簡単に理解できるよう4つのレベルに世界を分ける。第4レベルを最も豊かな国とすればほとんどの国は第2・第3レベルに住んでおり、第1レベルの最貧国に住んでいる国は非常に少ないことをあげる。
ぼくに引き寄せてみれば、実際、ぼくの「発展途上国」に暮らす人々の生活についての解像度は低く、一括りに「貧しい人々」としてしまっていたし、実際に国ごとにどういう暮らしをしているかを確かにイメージしにくい。この点で、著者があげる4つのレベルでの世界の進歩を積極的に評価する方法は、実に簡便に世界の進歩をぼくに示してくれている。
これは本書の重要な意義である。
マルクスは資本主義が発展の中で次の社会を準備することを示したように、マルクス主義者であれば、旧社会で起きる進歩を、新しい社会を生み出す萌芽として積極的に評価すべきなのだ。
ぼくはスティーブン・ピンカー『暴力の人類史』を読んだ時に、いかに人類が暴力を低減させ、進歩させてきたかを知り、まさにマルクスが見通した進歩へと世界は向かっていると深く確信した。
現状を告発しようとするあまり、現実がいかに悲惨で、退歩と反動ばかりが起きているかのように描き出すことは、マルクス主義者の本来すべきことではない。
別にそれは世界のことに限らない。日本においても同じだ。
安倍政権がおこなった政治の中にさえ、進歩の芽は隠されている(保育の無償化、大学の無償化、「働き方改革」など)。
今、若い人たちと『資本論』を読んでいるが、その第1部第13章には資本主義の悲惨な現実の中に次の社会の構成要素が生まれることを指摘してある箇所があり、不破哲三の次のような解説を読んだとき、実に問題を的確に捉えていると感じ入った。
これらの新しい諸要素は、古い社会の胎内では“ここに未来あり”といった単純明快な姿では、けっして現れてきません。実際、マルクスは、労働の転換や児童労働の問題で新しい諸要素を問題にしたとき、これらの諸要素が、現在の社会関係のもとでは、「労働者階級の絶え間のない犠牲(いけにえ)の祭典、諸労働力の際限のない浪費、および社会的無政府性の荒廃状態」など「暴れ回る」矛盾(『資本論』③八三八ページ…)や、「退廃と奴隷状態との害毒の源泉」をなす状態(同前八四三ページ…)などと結びついていることをリアルに指摘しました。/未来を展望するマルクスの「科学の目」は、この矛盾する現実のなかに、新しい社会の形成につながる諸要素を確実に見て取ったのです。(不破哲三『「資本論」全三部を読む 第三冊』新日本出版社、p.69〜70)
本書『ファクトフルネス』は、告発にこだわるあまり、世界がどのように進歩しているかを忘れているのではないかということを気づかせてくれる点で積極的な意味を持つ。
他方で、「貧富の格差の拡大」という指摘は、単に生活レベルの二層構造を意味するだけではない。そこに搾取・被搾取、収奪・被収奪という関係が隠れている場合が少なくない。ロスリングが「分断」をあまりに否定してしまえば、その本質的な問題さえも否定し、覆い隠してしまう危険がある。
例えば第1章にブラジルの格差の問題が登場する。
世界で最も格差が大きい国のひとつであるブラジルを例にとってみよう。ブラジルでは、最も裕福な10%の人たちが、国全体の所得の41%を懐に入れている。ひどいと思わないか?いくらなんでも不公平すぎる。エリート層が、その他大勢から搾取している姿が目に浮かぶ。そしてメディアもそのイメージを助長している。トップ10%どころかトップ0・1%に注目し、超金持ちがクルーザーや馬や豪邸を見せびらかす様子を取り上げる。たしかに41%は不公平なほど高い。とはいえ、41%という数字はここ数十年で最も低い数字なのだ。グラフを見れば一目瞭然だ。(ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド『FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 』(Japanese Edition) (p.70). Kindle 版. )
確かに進歩=改善してはいるが、問題はなくなったわけではない。
第6章に、チュニジアのレンガの積み上げを途中でやめてしまっている家の話が出てくる。他の先進国(著者のいう「レベル4」の国々)の人は、それを見て、「怠け者か計画性がない」国民なんだなと思ってしまうのだという。
しかし、貯金口座をひらけない国民にとっては現金を保管できないから、現物で価値を保存しておくのが最も賢いやり方なのだ、と著者は種明かしをする。自分が知っているパターンに落とし込んでみないようにすべきだと警告する。
これは、遅れた現実を指摘したときに、その現実の現場にいる人からよく反論されることではある。その遅れた現実は、ある種の必要性があるから存在しているのだから、何も知らない外部の人が外部からの基準でモノを言わないでほしい、と。必要悪なんだ、という言い方をされることもある。
合理的なものこそ現実的であり、現実的なものこそ合理的である。
という、エンゲルスが紹介した有名なヘーゲルの命題(『法哲学要綱、または自然法と国家学概要』)を思い出す。目の前の現実を「合理的」と擁護する最悪の反動的命題として評判の悪かったこの命題をエンゲルスは高く評価した。
さきには現実的であったものが、すべて発展の経過のなかで非現実的になり、その必然性、その存在権、その合理性をうしなっていく。死んでいく現実的なものに代わって、新しい、生活力のある現実性が現れてくる(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)
現実的と思われていた現実は合理性を失ってやがて非現実性に転化する、という革命の命題にしてしまった。
チュニジアの不合理な慣習と思しき現実も、その現実的な根拠が失われれば(誰でも簡単に貯金ができるようになるなど)現実性=合理性は失われるのである。
第8章でキューバを「共産主義=計画経済」とみなし、他方でアメリカを「徹底した資本主義経済」として、どちらも問題があるとする記述も出てくる。
民間か、政府かという議論への答えは、ほとんどの場合、二者択一ではない。ケースバイケースだし、両方正しい。規制と自由のちょうどいいバランスを見つけることが大切だし、それは難しい。(前掲p.320)
これは全く正しい。ぼくのような共産主義者でも、これは否定しない。共産主義とは経済に対する自覚的なコントロールであり、市場と計画のバランスを取ることそのものだ。
だけど、読む人は「やっぱり共産主義はダメだよね」と思ってしまう。「資本主義はダメだよね」とは思わずに。
非常に単純なことで、本書を読んでぼくの認識がまさに正されたというのは、人口のことだった。というか、読書会で参加者の一人から日本の高齢化について具体的に指摘されてそのことに気づいた。
本書では次のような質問が用意されている。
現在、スウェーデンで65歳以上の人の数は、全体の20%です。10年後にこの割合はどうなっているでしょう?
A20%
B30%
C40%
(前掲p.388-38)
答えはA。正解したスウェーデン人は1割しかいなかったという。
日本でも高齢化率は高まっているが、やがて高止まりになる。そのことがあまりよくぼくは分かっていなかった。
たいてい次のようなグラフを示されるので、どんどん高齢化が高まっているかのように考えていたのだが、だいたい4割で頭打ちとなるのである。
これは本書を読んでわかった非常にシンプルな事実である。