映画「かがみの孤城」を観て、そのあとに同名マンガを読む。原作小説はまだ読んでいない。(以下、ちょいネタバレあります)
マンガでは、集まった7人の事情、初めは距離を置いていた7人が次第に打ち解けていくプロセスなども丁寧に描かれている。
これに対して、映画は時間が足りないせいだろうが、そのあたりはずいぶんざっくりとしてしまっている。
しかしそうした一人ひとりの事情に代わりに、ぼくが映画で強く印象に残ったのは、「孤城」での居心地の良さである。
現実は自分を苛む様々な攻撃に満ち溢れている。つらい現実から防御された皮膜の中。その皮膜の中は安心できる人間関係だけがある。その人間関係は確かに何がしかのトラブルや軋轢を経て得られたものなんだけど、観ているぼくとしては、その安心感だけが快楽的に迫ってきて、甘美を覚えてしまった。
特に映画では、こころを「抱きしめる」シーンが2回ある。「抱きしめる」なんて、手垢のついたような「感動盛り上げ手法」と思うかもしれないが、これは映画の中で白眉というべきで、「抱きしめる」ということのケア的な役割が観るぼくに強く迫ってきた。
ああ、この城に行きてえ…。
映画は、マンガ版で読んだ時に感じたいろんな要素を犠牲にして、「孤城での居心地の良さ」に徹底してフォーカスしたんじゃないか?
っていうのは、ぼくの心が弱っているせいであろうか。
もちろん、マンガにもその位置付けはある。(下図参照)
しかし、マンガではこの設定自体を揺らがせたり、さらに深みをつけたりする。それがマンガ版の良さではあるが、逆に「居心地の良さ」としての一面性は後退する。
それにしても…そんなにぼくの心は弱っているのだろうか。
うん、間違いなく弱っている。
お前そんなに働いてないだろ? と言われたらその通りだけど、いろいろあって弱ってんだよ。そういうときに「外界から超然とした、現実の嵐から自分を守ってくれる、仲間たちとの城」っていうイメージがどんだけ快楽に響くのか、あんたにわかる?
保健室に誰もこないという一件は、「城」が現実ではないという否定、そんな甘美な城はこの世には存在しないのだという否定を一旦を行う。
しかし、世界は歴史においてつながっており、歴史は社会として存在し、我々が依拠すべき「依存」先もまた、現実の社会と歴史のつながりの中に実はあるのだ、というメッセージを放っている。
映画で、7人がどこかで交わっている様子を見せるのは、そのメッセージを強く意識させるものだ。
が…それよりも、「城」だよ。
ああいう城に行きたいんだよ。俺は。
こころの造形
マンガの方で武富智の描くグラフィック、特に主人公・こころのそれは、良くも悪くも意志的である。武富の描く描線の強さは特にそれを感じさせる。
葛藤をしたり不安に苛まれたとしても、「もがき苦しんでいる」という強さを感じるのである。
これに対して、映画の方のこころは、はかなげで、強さがない。不安や攻撃に満ちた現実世界に対して、いかにも脆弱そうな精神を持っているキャラクターを想定させる。
ぼくはマンガ『かがみの孤城』を読みながらやはり涙してしまったから、マンガはマンガで独自の良さがあるのだけど、こころの造形についてだけ言えば、映画の方が好きだ。うーん、それは「女性、かくあるべし」というジェンダーが反映しているような気もするが、それはよくわからない。そういうこころが、仲間のために立ち上がろうとするのだから、そこにギャップ萌えのようなものが生まれているんじゃなかろうか。