「変わる徳川家康像」の赤旗記事

 今日付の「しんぶん赤旗」に「変わる徳川家康像 『大河』考証者らの最新研究」という記事(清水博記者)が出ていた。ぼくら、いやぼくが知っている古い徳川家康像がどう刷新されているかという研究について、市民レベルにかみくだいた解説本を要領よく紹介してくれている記事で興味深く読んだ。

 ネット上の無料記事でその一端を紹介している記事はあるんだけど、あくまで一端。広く見渡してコンパクトに要点を示してくれるこういう記事は、助かるわ〜!

 どの部分も「へー」と思って読んだのだが、特に関心を持った点を2つだけ。

 松平家が今川から独立するきっかけについての次の記述だ。

1560年の桶狭間合戦今川義元織田信長に敗死してからも、当初は今川方として織田方に抗戦していたらしい。しかし上杉謙信の大軍が関東に侵攻。今川氏と同盟関係にあった北条氏が存亡の危機の事態となったため今川氏は家康を支援できず、織田方の攻勢の矢面に立たされた家康はついに織田信長と和睦し、今川氏から独立したとしています。

 これは大河の時代考証者の一人・柴裕之『青年家康』の中身である。

 ということはですよ? 本日夜の「どうする家康」はここらあたりの話だから、それが生かされている可能性があるわけですなー。それは楽しみの一つである。

 同じく大河の時代考証者の一人、平山優『徳川家康武田信玄』の中身の紹介。

やがて信玄は家康や信長との同盟関係を破棄して大攻勢をしかけますが、その一因として、信玄は家康と信長の関係が「対等」であることを理解できず、家康は信長に「臣従」していると最後まで「誤認」し続けたとの、興味深い見方を提示しています。

 どういう誤解なのかはあまり立ち入って書かれていないし、ぼくも平山の本を読んでいないし手元にないから推察するしかないが、アレですか、「オメー、信長の家来だろ? パシリだろ? じゃあ、信長の言ってること=お前の言ってることだよな?」的な?

 磯田道史が解説してんな。

 この時点では、信玄は今川と同盟を結んでいましたから、信玄からみた家康は、桶狭間を機に今川の手下から織田の手下に寝返った男、という認識だったと思います。最近の研究によると、信玄の手紙をみると、家康を「三河殿」とか「三河守殿」ではなく、単に「岡崎」と呼び捨てているそうです。つまり、家康を、三河の支配権を確立した、独立した国主としてはみなしていないわけです。かなり後になっても、信玄が家来にあてた手紙の中にも、「家康はもっぱら信長の意見にしたがっている人物だ」と書かれています。信玄は家康を対等の交渉相手とはみなしていませんでした。

 ここは重要な点です。信長は家康に無理難題も押しつける厄介な存在ではありますが、一貫して、家康を対等の同盟相手として扱い、家来扱いはしていないのです。信長は、家康が三河から遠州そして駿河へ勢力を伸ばすのを終始一貫して支持していました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/b280b91b7a72bb4de03b9bc6da9d07cae1e0e10d?page=4

 

 もともと、松平は今川のような戦国大名ってわけじゃなくて、それに下請け的に契約している中小領主であった、という見方は最近よく聞くようになった。そこから、「弱小戦国大名の悲哀としての人質」的な存在じゃなかったんだよ、という話になる。

 そして、今川からの独立においても、また、信玄との関係においても、家康が「中小領主」だったのかそれとも「対等な大名」だったのかということが揺れているように見える。それは上記の記事を見ると、現代のぼくらだけじゃなくて、当時の大名(信玄など)にとってもそうだったってことじゃなかろうか。

 その揺れがドラマを生んだり、従来の見方を覆す爽快感に繋がっているしているのではないか…などと記事を読みながらぼんやり思った。

 

 なお、記事で紹介されている本田隆成『徳川家康の決断』の紹介文で、

家康最大の危機だった武田信玄との合戦

とあって、あー、これが「最大の危機」なんだーと認識した。そしてその一文に続いて

家康最大の危機だった武田信玄との合戦に次ぐ危機は、豊臣秀吉が「家康成敗」の軍事侵攻を決意した1585年だったとするなど、新しい見方を示しています。

とある。「へえ〜」「ほー」と思いWikipediaの「小牧・長久手の戦い」の項を見ると、圧倒的軍事力の差をつけられていた家康は秀吉の討伐計画により壊滅する運命にあったが、大地震が起きて戦争どころじゃなくなった…的なことが書かれている。

 つまり、三方ヶ原でウンコとかそういう話じゃなくてさ、家康は滅亡レベルの危機が2回あったということで、しかも対武田戦争はその最大のもの、そして秀吉との対立はその次にあるものだという認識を示されて、ぼくとしては驚いたわけ。

 しかも、大地震という全くの偶然事によりピンチを逃れるって、個人の運命における「運」って大事だなと感じいる。「才能ある人・偉人」としての家康じゃなくて、運で生き延びたという認識。

 そういうエッジのつけ方をすると石川数正の出奔も楽しい味付けができそうですなーと期待した。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com