福岡市長・高島宗一郎が文・絵をかいた『アヒルちゃんの夢』を読んだ。
しかも親子で。娘は英語の部分を声に出して読んだんだぞ。最後まで。「said」を「せいど?」などと相当にトンチンカンなことを言っていたが。昨年12月に出版された本だから、福岡市民の中で親子でこの絵本を声に出して読んだおそらく初めての家庭ではないだろうか。
髙島はこれまでに2冊の本を出している。それらいずれも隅から隅まで読み込んでいるのはぼくである。おそらく市内でぼくが一番しっかり読んでいると思う。
韓国ドラマ「梨泰院クラス」で主人公のパク・セロイが宿敵・チャン・デヒの出した自伝を獄中で丹念に読み込むシーンがあるが、あれくらい読んでるわ。
さて『アヒルちゃんの夢』である。
なんか難癖をつけてやろうと思うのだが、グラフィックは悪くない。
アヒルちゃんの固定された無表情なルックスは、サンリオ・キャラクターからくまモン、そしてポプ子に至る現代的な流れをよく踏まえている(適当)。いや、まじめな話、けっこう印象深いグラフィックのキャラクターだ。悪くない。
内容はこうである。空を飛びたいと願う主人公アヒルちゃんだが、「はばたくんだ」とあさってな方向での努力を説く教師や、気合いで飛べなどと根性論をぶつアニマル浜⬜︎のような老人(老獣?)のタヌキにふりまわされる。
しかし、やがてスーパーブーなる起業家に出会い、ジェットで飛べることを教えられ、それをクラウドファウンディングで資金を集め、みんなをアジるプレゼンをすべきだというアドバイスのもと飛行を実現する。
さらに、アヒルちゃんは起業までして、お金をもうけて、飛べない動物を飛ばすというみんなの夢まで叶えてしまうのである。
なんかこう筋を要約してしまうと身もふたもない感じがするけども、娘と英文を読んでいたときは、絵もふくめて、そのわかりやすさに救われた感じで読めてしまった。
まー、でもやっぱりスーパーブーに出会ってからがご都合主義というか、そのためにイデオロギッシュになっちゃっているというか、我田引水ぶりがすごい。
アヒルちゃんは最初に「はばたくために運動をしろ」という「うんどうの先生」からのアドバイスを「真面目」に聞いてしまう。作者・髙島はそこをあとがきでこう批判している。
アヒルちゃんがうんどうの先生の言う事を「真面目に」聞いて羽をバタバタさせていても…空を飛ぶことはできなかったはずです。
しかしである。ぼくから言わせれば、(1)うんどうの先生やタヌキの知識伝授と、(2)スーパーブーのアドバイスと、どこが違うのかが、読者には伝わりにくいのである。
もともと髙島の言いたかったことは、(1)はただ言われるままに「正解」を実行するだけだったのに対して、(2)はヒントを与えてもらうだけで、そこから自分で考えて試行錯誤をするという違いがあるのかもしれないが、そのあたりがよくわからないのだ。
うんどうの先生という「アホな指導者」ではなく、スーパーブーという「いい指導者」に「巡り合った偶然」が問題を左右しているかのようだ。これでは探そうとする「正解」が違うだけで、髙島が伝えたかったであろう主体側の姿勢の違いが伝わっていかない。
思うに、ジェットスーツだの、クラウドファウンディングだの、会社を起業してお金儲けだの、イノベーションやスタートアップに問題を寄せすぎなのである。イデオロギー的な結論が前に出過ぎてしまっている印象が否めない。ここまでスタートアップに問題を寄せ過ぎてしまうと、「え? じゃあ創業メンバーが次々去っていく試練がアヒルちゃんを襲わないの?」とか「DAUが初日10万でぬか喜びして、1週間後に1桁になるとかいう心折れエピソードマダー?」みたいなツッコミが来てしまう。それなら、えい『100話で心折れるスタートアップ』を読んでもらいシビアな現実を知ってもらうのもテでは。
ま、スタートアップはおいとこうぜ。
話を元に戻す。この絵本はどうすべきだっただろうか?
髙島が描こうとしたのは、
子どもたちには正解が1つの問題を解かせる一方で、現実の世の中には正解がないことばかりです。不確実な社会の中で自ら問いを立てる力、実現したい未来に対し、新しい技術なども使いながらさまざまなアプローチを考えてチャレンジする力、思いに共感してもらえる仲間を作るコミュニケーション力を磨く方が、1つの正解を出すことや暗記を頑張ることよりも「生きる力」につながると思うのです。(本書のあとがきより)
ということなのだろう。あなたが総合教育会議で関与しているはずの福岡市の教育はその点でどうなっているんですかと中学生の親としてはツッコミを入れたいところであるが、それはぐっと我慢して、絵本の話をしよう。物語の創作者としての髙島に問題を絞るのなら、ここに書いてある、
- 不確実な社会の中で自ら問いを立てる力
- 実現したい未来に対し、新しい技術なども使いながらさまざまなアプローチを考えてチャレンジする力
- 思いに共感してもらえる仲間を作るコミュニケーション力を磨く方
に純粋に徹して、クラウドファウンディングだの、起業だのの話はおいとくべきだった。
例えばこんな筋が考えられる。
——「鳥は羽ばたいて飛ぶものだ」という古い固定観念にとらわれていたが、そこから脱却して、グライダーやジェットスーツで飛べるのだというコペルニクス的転回をし、それに共鳴する仲間たちと力をあわせて「飛ぶ」を実現させる。
——「飛ぶ」ことによって得られた幸福を描くことで、「鳥なのに自力で羽ばたいて飛ばないのは卑怯だ」などの非難が寄せられるけども、飛ぶことで得られた幸福を知らない者の戯言ではないかとしりぞける。
…などという展開も可能では。
まあ、これは批評者としての意見。
創作の立場から言えば、実際に描いた人が一番偉いのである。ぼくは描いていない。その点で実際に物語をちゃんと描き切って発表した髙島は、実作者としては偉いといえよう。
ただ、絵本というのは本当に創るのが難しい。
先ほどぼくが書いたような「子ども向け」というナメた態度で描いた途端に子どもに見透かされる…というか、子どもの世界と目の高さに入っていけてないのである。
長谷川摂子は自分の子どもとの絵本体験を次のように記している。
次男は三歳のとき、『海べのあさ』(ロバート・マックロスキー文・絵/石井桃子訳/岩波書店)がお気に入りで、あの淡々とした日記ふうのストーリーを飽くことなく楽しんだ。通り一遍、大人の目で目を通しただけだったら、わたしはあのエッセーふうの滋味あふるる絵本を自分のものにすることができなかったに違いない。けれど、くり返し、くり返し求める幼児とつき合っているうちに、『海べのあさ』という絵本は、大人のわたしの目にもしだいしだいに鮮明になり、くっきりと純化された相貌で現れてくるようになった。例えばバックス・ハーバーへ船で買い物に行くという日常的な営みを、幼児は大人とはまったく違う感性で受けとめる。「きょうは、おとうさんとバックス・ハーバーへいく日だったのです!」という単純な言葉の輝きは幼児の心を通さないと見えてこないのだ。ジェインと一体となって海べのあさを生きる息子は、この本を、「バックス・ハーバーに行く本」と呼んでいた。もうそれだけで、この本を開くときの子どもの胸のときめきがわたしの胸に迫ってくる。最後のページ、波をけたてて走るモーター・ボートの中でジェインが手をふって叫ぶ。「うちにかえれば、とてもおいしい、ハマグリのスープが できてるのよ!」。息子はこれをジェインといっしょに大声で唱和し、「よし、決まった」という顔でにっこりほほえんだものである。この声なしに、わたしはこの絵本の終わり方の見事さを十分得心できたとはとうてい思えない。(長谷川『子どもたちと絵本』福音館書店、p.7、強調は引用者)
「空を飛ぶ」という心の動きは、それだけを微細に眺めていると、確かに心躍るものがある。もし自分の力で空を飛ぶことができたとしたら、世界がまるで違って見えるはずだ。
A view of the pyramids from the air.pic.twitter.com/ngxmSk0lkD
— Fascinating (@fasc1nate) 2022年10月28日
それを大人の目ではなく子どもの心で書く。なんと難しいことか。大人の都合で何かを説教するためではなく、その心の躍動を本当に絵本の軸にできたら、絵本は生きて動き出すのかもしれない。