『マンガでやさしくわかるアサーション』(『違国日記』10にも触れて)

 ある市議の応援演説をした公民館で、帰り際に貸出図書をパラパラと眺めていた。その時に見つけた本である。読みふけってしまった。

 面白そうだったので借りたかったのだが、その公民館に来られるのがいつになるかわからず、購入した次第。

 アサーションはassertionで主張、それも「自己主張」というニュアンスの英語である。そこから適切なコミュニケーションとして自分の主張を伝える技術をあらわす言葉として使われている。

 この話題はかなり前から知っていたが、あまり熱心に追ってはいなかった。まあ、今回だってこの本読んだだけなんだけど。

 だが、今自分にとってわりと切実な課題になっていたので、きっと琴線に触れたのだろう。

 自分の考えや気持ちを言わず、言いたくても自分を抑えてしまうCAの出雲三江を主人公に

 本書では、

  1. 自分の考えや気持ちを言わず、言いたくても自分を抑え、結果として相手の言うことを聞き入れてしまう「非主張的自己表現」
  2. 自分の考えや気持ちを伝えることはできるが、自分の言い分を一方的に通そうとして、言い分を相手に押しつけたり、言い放しにしたりする「攻撃的自己表現」
  3. そのどちらでもないアサーティブな自己表現(アサーション

の3類型に分けられている。

 肝心のアサーションは、長く学ぶ技術として示されているので、ぼくがここでまとめてしまうのは僭越なのだが、本書を読んだだけで感じた「アサーション」というのは、

  • 自分が尊厳ある状態と、それにもとづく自分の気持ちを基礎にして、
  • それを表現し、
  • 相手を尊重しながら交渉して、
  • 妥協点や折り合いを見つける技術

というふうに理解した。

 「相手を尊重しながら」が難しそうで、つまり相手を操作せずに、相手の話を聞いて自分も変わることが前提となる。自分が変わるということは相手に抑圧されることの言い換えになってしまう危険性があるが、「自分の尊厳」が基礎にあれば、つまり自己肯定感があればそれは揺らがない。逆に「自分の尊厳」を相手の抑圧の上に成立させようとすると操作的になってしまうわけで、それも「自己肯定感のなさ」の裏返しだと言える。

 

 とりわけ自分の今の課題は「非主張的自己表現」である。

非主張的自己表現は、気持ちや考えを表現できないとか、しないことなので、自分の状態を知らせていないことになります。また、したとしてもひとり言のような言い方をすると、聞こえなかったり、伝わらなかったり、無視されたりする可能性があります。たとえば、三江さん本人は渋谷部長や先輩を立て、思いを大切にし、相手が不愉快にならないように自分の主張を抑えて譲ったつもりでいます。しかしそのことは伝えていないので、デートや自分の時間を犠牲にしている配慮は伝わりません。そのため、相手には、「三江さんが自分に同意してくれ、不満はない」と受け取られます。(平木典子・星井博文・サノマリナ『マンガでやさしくわかるアサーション 』、日本能率協会マネジメントセンターKindle 版pp.50-51)

 ぼくにはいま、大勢に抗して言いたいこと、どうしても変えたいことがあるのだ。「非主張的自己表現」を克服したい。

 

 

 「自分の尊厳」を出発点にしているので、これは密接に人権と関わっている。

 本書では、意見表明権としての側面を強調しながら、人権としてのアサーションを解説する。

 最近読んだヤマシタトモコ『違国日記』10で主人公の一人・高校生の田汲朝に対して、社会科の教師が自己肯定感と基本的人権の関係を説き出すのが新鮮だった。物語では、「基本的人権」「価値」「自由」というような一見生硬な言葉を使わないことを選ぶはずなのに、あえてそれを使っている。しかも、やわらかく(下図)。

ヤマシタトモコ『違国日記』10、祥伝社、Kindle149/232

 特に、『違国日記』はまるで日常の会話を動画で切り取ったような、脈絡が取りづらい「ナマ」の会話を並べている調子が続くだけに、この箇所はいい意味での違和感を覚えながら、読んでしまう。

 自分の尊厳は客観的なものである。自分の気持ちにかかわりなく本来備わっているものだが、それを感じ取り、自分のものとして守ろうとする感情は自己肯定感と密接に結びついている。しかしそれは自分だけで生まれる感情ではなく、自分を尊厳ある存在として扱おうとする家族・社会・国家の客観的状況によって左右されるに違いない。

 アサーションはその家族・社会・国家と渡り合う技術だと感じた。

 そして、それは単なる「調整術」ではない。それは紛争や摩擦がないように自分を調整=抑圧してしまう「非主張型自己表現」への道である。