それはお前が三河出身者だからだろう、と決めつける輩もいるだろうが、そんなことはない。そんなことはない、と思うんだがなあ。どうだろう。
子どもの頃、「愛知の三英傑」などとい言われる3人のうちで、最も嫌いなのが家康であった。集英社版『学習漫画 日本の歴史』をくり返し読み、「狸親父」として描かれたカゴ直利の影響を強く受けすぎたせいであろう。
「狸親父家康」観は、「忍従の人・家康」という見方とセットである。当時の子ども向けの伝記本やマンガはことごとくこのセットをぼくに叩き込んだ。きわめつけはアニメ「少年徳川家康」であろう。
このぼくの家康観に打撃を与えたのが、1983年に放映された滝田栄主演のNHK大河ドラマ「徳川家康」である。ビデオデッキを購入した我が家で初めてこれをくり返し視るという機会を得て、ビデオで何度も視るという体験をした初めての大河となった(つうか、後にも先にもそんなことをしたのは「徳川家康」しかない)。
この滝田家康は山岡荘八の『徳川家康』がベースで、「狸親父」としての家康ではなく、「平和主義者として争いを避けようとした家康」として描かれる。「誠実な政治家」なのである。これは「忍従の人・家康」という見方と相性がいい。「忍従の人」であったのに、「狸親父」になってしまうという家康観はある種の矛盾を抱えているからである。
「狸親父」という印象が拭えないぼくとしては、この家康観にはどうにも馴染めなかった。
しかしそれでもこの大河のマンガ版になった横山光輝版『徳川家康』を全巻揃えてしまったために、この山岡=横山的家康観にくり返し晒されることになった。
その家康観に同意はしなかったものの、「家康という歴史上の人物の見方は人によって大きく違うものなのだ」という洗礼を受けることになった。まあ「人によって評価や描き方が違う」というのは家康に限らないわけだが。
そこにきて、今回の大河である。
「どうする家康」というタイトルから漂うのはどちらかといえば喜劇的色彩で、まずアイフルの広告をひとは思い出すのかもしれない。
しかしぼくが思い出したのは、タクシーに乗った時にしつこく流されるタクシーアプリのCMだった。「どうする家康」というタイトルを聞いた後、くり返し竹野内豊の顔が脳裏をよぎった。
したがって、そんな「おもしろタイトル」をつけてしまった大河のオープニングはさぞ「笑点」のオープニングのようになるに違いないと思って見始めたのだが、あにはからんや、真面目きわまる壮麗な音楽で、タイトルのロゴとあわせて、一緒に見ていた娘も感心していた。
脚本を書いた古沢良太はインタビューで
「狡猾さと我慢強さで天下を手に入れた人」みたいな印象がたぶん多くの人の印象で、そうじゃなくて、波乱万丈でピンチピンチの連続の人生。彼自身の腹の括り方とか頭の良さとか、そして周りに助けられたりとか、そういうことでなんとか生き延びていった人物として描いたら、ドラマの主人公としてこれ以上ないくらいふさわしい面白い主人公。
と述べている。「ナイーブで頼りないプリンス」として一言でまとめている。
要するにぼくのような家康観を破壊しようとしている。
そして、第1回の放映分を視たぼくの感想はこれ。
赤貧の地元家臣団と完全にディスコミの新入社員的君主。
— 紙屋高雪 (@kamiyakousetsu) 2023年1月8日
義元の死に動転しまくって大高城から単独脱走。
桶狭間の頃なのにマント着ながら義元の首を掲げて「待ってろよ竹千代…俺の白兎」って熱い吐息で呟くBL信長。
自由すぎる異次元・新感覚大河。https://t.co/3onU9UMv1m#どうする家康
確かに家康の人生で、「どうするんですか、これ」というような重大な決断を迫られる局面はたくさんある。桶狭間なんかは、ぼくなどは「今川支配から解放される好機」としてしか考えていなかったが、確かにミクロで見たら、総大将が殺害されて絶体絶命の大ピンチなわけだから、「あーこれも『どうする』になるのか」と改めて気づいた。
ぼくが思いつくだけでも次のようなピンチの連続であろう。
- 三河一向一揆で家臣が次々造反。
- 三方ヶ原の戦いの敗北。
- 武田密通疑惑で築山殿と息子・信康の自害を迫られる。
- 本能寺の変の後の伊賀越え。
- 小牧・長久手の戦いでの秀吉との対決。
- 石川数正の出奔。
- 関東への国替え。
- 朝鮮出兵を断る。
- 関ヶ原の戦い。
- 大坂夏の陣で真田信繁にすぐそばまで迫られる。
…とまあ史実の上では否定されたり、真偽が不明なものも多くあろうが、いわゆるドラマでこれまで描かれてきた題材を見直してみれば、確かに「どうする!?」に事欠かない人物ではある。
「桶狭間」では完全に「決められない臆病なプリンス」だったわけだけど、ドラマの中で家康に成長があるのか、それとも結局成長せずに一貫して「決められない臆病なプリンス」だったのか、そこをどう描くかは興味深い。
以前も書いたけど(といってもはや20年近く前だよ…)、家康こそは封建革命の完成者である。司馬遼太郎は「暗い中世的日本に閉じ込めた三河の農民気質の男」として描こうとしているようだけど。
受験である娘は室町と鎌倉の違いに苦労している。二つの時代について似たような印象を持っているのだ。確かに鎌倉も室町も、地方の武家勢力の台頭を管理できている印象がない。しかし江戸幕府はそれらを管理下において安定した体制を築き上げた。