大きな枠組みに目を向けさせないようにする

 

なぜ「自分のできること」の範囲に限定するのか

 娘(中1)が「環境新聞」というのを学校の宿題で作っていて、横から眺めていた。

 温暖化について書いている。

 「結論は自分ができることを書かないといけないんだ」と言って、ムダな電気を消すとかそういうことを書いていた。

 その後授業参観で、クラスの壁に貼られた、クラスの生徒たちがそれぞれつくった「新聞」を見る機会があったが、温暖化だけでなく、ごみの減量とか、プラスチックごみの縮減とか、さまざまな環境問題についてまさに「自分ができること」で締めくくられていた。例外なく全て。徹底した指示・指導なのであろう。

 なぜ「自分のできること」の範囲に限定するのだろうか。どうして「2030年に8%という低すぎる福岡市の再生可能エネルギー普及率の戦略を引き上げる」とか「プラスチック全般に拡大生産者責任を徹底する」とか、そういう「大きな話」を書いてはいけないのだろうか。*1

 大きな社会の枠組みを変えない限り、「自分ができること」は全くムダになってしまうことがある。大きな社会の枠組みを変えることと結びつけて個人の行動を考えない限り、それはウソを教えているか、「大きな枠組みは個人ではどうしようもないもの」というあきらめを、これでもかと「教育」しているか、どちらかである。

 

自治体の審議会でも

 先日、ある共産党の議員から、自治体の環境問題の審議会の話を聞いた。

 最近出席した審議会で、その自治体の廃棄物の計画素案が出されたという。その議員が「この計画素案では、自治体のごみの総量は計画期間の最後に減らすのですか? 増やすのですか?」と聞いたら、素案を取りまとめた事務局が、それはこの素案では答えを出さず、次の案——「計画案」の方で計算をして出すのだと答えた。

 その議員は「細かい計算はそれでいいと思うけど、ごみを増やすのか減らすのかを判断もしないのでは戦略になっていない。こんなものは素案とは言えない。撤回すべきだ」と発言し、座がシーンとなってしまったという。

 この議員の言っていることは当たり前だと思う。

 大きな枠組みについて判断をしないまま、何を承認しろというのだろう。

 自治体の審議会に出される計画というのは、こういうものが多い。

 大きな方向についてはすでに決まっているか、審議会委員は事実上、口が出せない。形式的に口を出しても、ちゃぶ台返しをするほど大きな労力を払わねばならないが、数十人いる委員がみんな発言をするのにトータルで2時間ほどしかない会議では無力という他ない。結果的に大きな方向を多数決でお墨付きを与える場になっている。

 

町内会でも

 町内会でもそういうことが多い。

 初めから行政資源は限られていることにされているから、「公助」を求めることはできない前提が押し付けられている。その狭い枠の中で、どうやって住民が「助け合い」「自分のできる努力」で問題を解決していくか——まさに「自助と共助」の枠組みで思考させられるのである。その「自助と共助」に参加できないメンバーが責められるのだ。

 

 大きな枠組みを問わないという罠に警戒すべきだ。

 

“「やってる気分」になってむしろ有害”

 先日、「民主青年新聞」(2020年11月9日号)を読んでいたら、東京農工大学大学院の多羅尾光徳准教授が、気候変動や淡水の利用、生物多様性の損失などにかかわって、「プラネタリー・バウンダリー」という「人の活動による自然への働きかけがこれ以上になると回復力を越え、取り返しがつかなくなる限界」について次のように書いていた。

 

人の活動が「プラネタリー・バウンダリー」を越えないようにするにはどのような社会のしくみが必要でしょうか。SDGsを実践しましょう」のような生ぬるいスローガンでは何一つ変わりません。「やってる気分」になって社会の在り方に目を向けなくなるので、むしろ有害です。(「民主青年新聞」前掲、強調は引用者)

 

 「有害」とまで言い切る辛辣さである。

企業の自主的な行動に任せても、今の社会の在り方を問わないため、成果はさほど期待できません。(同前) 

 

 多羅尾が必要だとするしくみは2つである。

 

必要なしくみの一つは、自然を汚染・破壊したり、自然の回復力を損ねる活動を行なった人・企業に対して、自然を修復するために必要な費用や、被害を受けた人々への補償の費用を支払わせることです。これは「汚染者負担の原則」と呼ばれます。この原則を徹底すれば、人や企業は自然の汚染・破壊に伴う費用負担を避けるために、それらを防止するとりくみを行うようになります。そのほうが負担する費用が少なくてすむからです。(同前)

もう一つのしくみは、自然の回復力を維持したり高めたりする活動を行なっている人や企業に対しては、その活動に対する対価を支払うことです。(同前) 

 

 多羅尾はこのようなしくみは、「資本主義という制度の下では大変困難であると、私は思います。なぜなら、資本主義では生産手段が資本家に私有されており、生産の目的は利潤を獲得することにあるからです」とする。

 多羅尾は、

「プラネタリー・バウンダリー」を越えない社会の在り方を求めるならば、生産の仕組み(生産関係)を根本から見直す必要があるのではないでしょうか。すなわち生産手段を資本家から人々の手に移し、生産を人々の共同で民主的に管理する経済の在り方が、いずれは求められると思います。(同前) 

と結論づける。

 社会の大きな枠組みに向かわない限り、本当に問題は解決しないのだとする。それは資本主義制度にまで及ぶのだ。娘の「環境新聞」はそこまで考えねばならなかったのかもしれない。別に娘が資本主義を乗り越え社会主義を、と書かなくてもいい。問題はそういうことがいいかどうかまで思考が及ぶことなのだ。

 社会主義の可能性を考えることがイデオロギー教育なのではない。社会の大きな枠組みに目を向けさせないようにすることが、実は立派なイデオロギー教育であるということだ。

*1:例に挙げたこの2つの命題が正しいかどうかはおいておこう。