党内の自由な議論を根拠に処分されるべきではない

 立憲民主党本多平直議員の問題。

https://digital.asahi.com/articles/ASP7F3JHWP7FUTFK008.html

本多氏は5月、刑法で性行為が一律禁止される年齢(性交同意年齢)を現行の「13歳未満」から引き上げることを議論する党の「性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム(WT)」に出席。外部から招いた有識者に対し、「例えば50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることになる。それはおかしい」と発言した。

 この話は、いくつもの問題が重なっている、というか未整理のまま積み重なって議論されてしまっている。

 特に、立憲民主党によって設置された第三者機関「ハラスメント防止対策委員会」が本多議員や関係者にヒアリングしてまとめた調査報告書をぼくも読んだが、最終的に発言とその扱いをめぐる問題ではなく、「毎回、高圧的に語気を強めて意見したり、考え方を否定し、心身共に疲労した」など、本多議員によるハラスメントを問題の中心に置いている。

 もしハラスメンがあったとすればそれは処分されるべきだ。

 そしてそれ自体にはそれほど複雑な問題はない。ぼくがここで何か新たに問題を解明すべく、記事にするほどではないのである。

 しかしもともとは、「50歳と14歳が同意性交して捕まるのはおかしい」という本多議員の党内のワーキングチームでの議論が厳しい批判を呼んだもので、「党内議論として行われた言論で組織的処分を受けるべきなのか」という問題として立てられていたはずである。

 だから、ぼくは、本多議員の問題としてではなく、政党はどのように議論をすべきなのかという一般論として論じたい。

 

一般論として考える「政党内部の議論」

 今のところのぼくの考えは、政党内部の議論では自由な発言を保障すべきだ、というものだ。(境界線上の問題や、対抗意見は後で検討する。)

 政綱や綱領、理念に反する、つまりそれを変えることも含めて議論されていい。自由に議論できない集団では発展がないからである。だから、自由であるべき発言を根拠に組織的な処分、つまり罰を与えてはいけない。

 そして、それはあくまで内部議論とすべきである。

 近代政党として統一した見解を国民に示すのが責任だと思うからだ。

 党員Aは「消費税を上げるべきだ」といい、党員Bは「消費税は現状を維持すべきだ」と言い、党員Cは「消費税を下げるべきだ」と言うのでは国民はどう判断していいかわからなくなるではないか。

 これは逆にいうと、内部議論だから非公開ということになる。

 そして、非公開であるはずのものが漏れてしまうことがある。

 その場合、例えばその漏れてしまった意見・政策案に反対の一般市民(当該政党の外の人たち)は抗議や批判の声を上げることになる。これは、市民の言論活動としては健全なことである。例えば消費税減税を訴えている政党において、党内部の会議で「消費税を上げる政策に変えるべきだ」と発言したD議員がいたとして、中小業者の団体が抗議するのは当然だし「Dについては、議員を辞めさせろ」という、Dの地位にまで及んだ要求をするのは全く自然のことわりである(これは漏れてしまった=公にされてしまった以上、当該政党ではない他の政党からそういう意見が上がることも「自然」だと言える)。

 しかし、それでも党の指導部は、やはりDの処分をすべきではないだろう。

 「消費税は上げてもいい」と思っているような「レベル」の議員がいること自体が、「消費税減税」で売っているその政党のイメージダウンになることは、誰でもわかる。火消しのためにDを処分してしまいたくなる。「あ、もうDは飛ばしましたんで。もうあんなこと言うような奴は今はおりません。ビックリさせましたね。ええ、これからは大丈夫でございます」。

 だが、党の指導部は党内の言論環境の管理責任者である。「政策論議のために自由にモノを言っていいよ」と約束しながら、漏れてしまったからDを切るというのは、おかしい。むしろ漏れてしまった責任を党指導部が負わなければならないだろう。消費税減税が党のスタンスだと念を押し、理解を求めつつ、自由な政策議論をすることでよりよい環境を中小業者のためにも準備できるんだということを、市民に訴えるしかない。

 指導部がその責任を放棄してはいけない。

 ぼくがこの記事で言いたいことの基本はこれで終わりである。

 以下は反論への考察、もしくは付属的な議論。

 

政党の議論はできるだけ公開すべきという意見について

 内部議論を自由だけど非公開にするのは、政党のあり方としてこれは古臭いのではないか、という議論はありうる。

 議論は全て(もしくは出来るだけ)公開すべきであり、個々の党員・議員は党の決定に反する意見であっても一般社会で自由に言ってよい、とする組織のあり方だ。

 派閥や中央・地方での違いをわざと公開して、グラデーションの支持を得ていくという戦略をとる。その政党の中央本部は消費税を上げる政策を持っているが、地方支部は地方議会で消費税を下げる意見書に賛成したりするようなことは、普通によくある。その方が国民の意見がキメ細かく反映できるのではないかという議論はなくはないだろう。

 ただし、そのあり方になれば、なおいっそう、何かの意見を表明したことをもって、政党が個々の党員や議員を処分することはできなくなるだろう。

 そして、その政党は結局消費税を上げたいのか、下げたいのか、よくわからなくなってしまう。党の本部としては消費税を下げるということが公式政策です、とはいうものの、個々の議員がバラバラに発言していたのでは、その「公式政策」はあまり信用できなくなる。

 

 まあ、このような政党のあり方が魅力的なのもわかる。

 現在、東京オリンピックパラリンピックの開催をめぐって自民党公明党が開催に固執していることが大きな問題になっている。まさに「固執」であって、これだけの世論があり、現実がありながら、「開催」から動こうとしない。

 そこで世論としては、反対運動や抗議運動を続けるのだが、その中でもし政権党の党内議論のようなものが可視化されて、本部の決定に逆らって「私は中止した方がいいと思っている」と言いだす議員が出て、それが見えた方が、民主主義的に健全に感じるはずだ。

 

 政党が自分の政策に反する意見をどう受け止めているか、そのことを市民にどうわかりやすく表現し可視化させるのか、という問題である。これは「政党政治が機能していない」という不信を招きかねないので、結構大きな問題だとぼくは思う。政党はこの課題にきちんと向き合う必要がある。

 現時点では、「反対意見にていねいに反論する・応える」ということでその課題に応えられるのではないか、とぼくは考えている。説明責任というやつである。

 反対意見の論点に応えることによって、本体の政策はより豊かになっていくはずである。もしくは多面的になっていくはずである。そのやりとりのプロセスを見て、国民・市民の意見の反映と熟議の深まりを感じてもらうしかない。

 消費税減税派の政党が「消費税を上げるべきだ」という意見を受けたら、財源についての考えを示すことで、政策全体が豊かになる。「消費税のような庶民増税ではなく、大企業や富裕層への課税強化をすべきだ」という政策で豊かにする。それでさらに批判が来ればそれに対応した政策に発展する…というような循環である。

 

 共産党は2010年の参院選で後退し、その時、消費税増税反対の論戦があんまりよくなかったという反省をして、

その大きな原因の一つは、「生活からいえば反対、でも…」という人々に対して、「消費税増税反対」の主張と一体に、「政治をこう変える」というわが党の国民要求にもとづく建設的な提案を押し出すことが、弱かったことにありました。

とくに菅首相の「消費税10%」発言以降の論戦は、「消費税増税反対」が前面に押し出される一方で、国民の新しい政治への探求にこたえ、展望をさししめす建設的な提案は、語ってはいたものの、事実上後景に追いやられる結果となりました。

ということで、どういう課税や財源、経済政策にすべきかというプランをそのあと打ち出したのである。

 このプランがいいかどうかは措くとして、そういう弁証法的な発展といおうか、世論を受け止めた反省の相互作用で政策を豊かにしていくというのが、今のところ近代政党が世論を可視化する道ではないだろうか。

 これはもう10年も前の話で(そこに出てくる「菅首相」は「かん首相」のことである)、今ではSNSが発達しているから、一つ一つの反対意見に即応的に、より丁寧に応えていくことは可能である。まあ、現実のツイッターが往々にして「罵詈雑言合戦」の場になって、建設的な議論にはなりにくいという批判はあろうが、やろうと思えば可能だということだ。

 

党内意見で「人を傷つける」発言はしてもいいのか?

 党内議論は非公開だとしよう。

 しかし、その党内議論で、「人を傷つける」発言はしていいのだろうか。

 「その発言は私が傷つきます」と言えばわかってもらえるというのが常識的な市民間のやり取りである。

 だが、そうならないシチュエーションが組織内といえども生じるのが事実だ。

 上司・部下の間のパワハラ

 仲の悪い同僚からの名誉毀損

 こういったことは、一般社会でも言論の自由に制限を加えられる。これに準拠するのがよかろう。その程度には制限されるのである。

 逆にいえば単に「私が傷つくから」という理由だけでは、発言を制限できないとも言える。例えば「死刑廃止という政策を採用すべきだ」という意見は、「私の親族に酷く殺された被害者がいます。『死刑をやめろ』なんて、私が傷つきます。そんな意見を言うのはやめてください」という意見で封じられるべきかといえば、封じられるべきではないからである(その人に配慮はすべきだが)。

 「私が傷ついた」ということはどんな言論にでも適用されてしまうので、事実上無基準であり、それを根拠に言論を制限してはならない。

 一般社会で言論を差し止められるほどでないものは、「自由」に発言する権利があるといえよう。

 軍隊を特殊社会と描いた野間宏『真空地帯』に対して、軍隊は一般社会との地続きであることを強く意識した大西巨人神聖喜劇』で、主人公・東堂太郎は、自分に対しての上官について、さらに上の上官に向かって発言するとき敬称を省くのは、一般の会社でよその会社の人に「A専務はご出張中です」と言わないのに似ているという例を持ち出して、「軍隊内務書」を使い次のように言う。

「内務書」の「綱領」十一「兵営生活ハ軍隊成立ノ要義ト戦時ノ要求トニ基ヅキタル特殊ノ境涯ナリト雖モ社会ノ道義ト個人ノ操守トニ至リテハ軍隊ニ在ルガ為ノ趨舎ヲ異ニスルコトナシ」はここにも深くかかわっているにちがいありません

 一般社会と同じ程度に社会道義を守ってもらうのである。

 そして、それは組織内のルールとなり得るし、それに反した場合は処分の対象になることはあろう。

 *   *   *

 なお、ぼくは本多議員の意見には反対であり、性交同意年齢の引き上げに賛成する。

久坂部羊『老乱』

 80を超える父母が旅行したいと言い出したので宿の手配などした。ぼくは参加せず、父母だけが行ったのである。

 帰る日の前日になって「新幹線の切符が取れないか」と電話で依頼された。

 それを受けてぼくがネットで取ったものの、予約した新幹線の時間、号車などの確認を、電話だけで父母と行うのが一苦労だった。父母はラインやメールをきちんと扱えないので、電話一本槍なのである。

 ぼくが電話口で情報を読み上げ、父がメモをするという作業をした。

 予約条件を途中で変えてきたので、一度キャンセルした。これが事態を複雑にさせた。

 乗り換えが必要になるのだが、確認して復唱してもらうときに、父は乗り換える前の電車の到着時間をすっ飛ばす。そして、すでにキャンセルした電車の時間を混入させてきた。

 「じゃあ復唱してみて」「正解。その通りです」「違います。抜けてます」などのやりとりの末に、予約含めて電話の対応が2時間くらいかかった。

 一応伝達は終えたのだが、不安しかない。

  結局、宿にメールをしてプリントアウトしたものを父母に渡してもらうことに。二人は無事乗り換えができたようである。やれやれ…。

 いまのところ、父母は認知症であるという判定はされていないが、新しいことをインプットできないのは認知症の特徴である。その兆候は少しくらいあるかもしれないと思った。もし認知症であればやってはいけないような、プライドを傷つけかねない確認作業ばかりさせることになった。認知症を描いた久坂部羊の小説『老乱』で、主人公・幸造の息子のパートナー、すなわち「嫁」がやってしまっている対応そっくりのことを、自分がやっているような気がした。

 横で電話を聞いていたつれあいから「あんたの伝える情報には、余計な情報が多すぎる」と批判された。こっちはだいぶ情報を精選して伝えた気がしていたが、客観的に見ると相当難しいことをさせていたのかもしれない。

 

「この前、教えた両手ジャンケン。練習してくれましたか」

 曖昧にうなずくと、「じゃあ、やってください。右手がいつも勝つように」と急かす。幸造は両手を握りしめ、ジャンケンしようとするが、手が思うように動かない。

「ぜんぜんダメじゃないですか。ジャンケンの仕方、わかってます?これに勝つのは何ですか」

 嫁がグーを突き出す。恐る恐るパーを出す。なぜこんな子ども騙しのようなことをしなければならないのか。

「じゃあ、これは」

 次はパーを出す。チョキだとわかっているが、指が震えて形にならない。嫁の表情が険しくなる。早くしないと、またため息を聞かされる。そう思う間もなく、「はあーっ」と露骨なため息を浴びせられた。

 「どうしてできないかなぁ。ジャンケンくらい幼稚園の子どもでもできるのに」

久坂部羊『老乱』朝日文庫、KindleNo.2344-2351)

 

 

「人様に迷惑をかけない」ことと「尊厳」は同じか

 リモート読書会で久坂部羊の小説『老乱』を読む。

 

 

 関連して読んだ『マンガ 認知症』の感想は次の通り。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 先ほども書いたが、『老乱』は一人の男性が認知症になり、それが進行していく様子と、それをめぐる家族の様子を描いた小説である。

 この小説を、読者であるぼくは二つの視点から読んだ。

  1. 一つは、自分が認知症になるという視点。
  2. もう一つは、家族が認知症になったらどうするかという視点。

 読書会参加者も、どちらの視点もあった感想が続いたが、印象として、1.の視点に話の重点が置かれた。

 認知症になったら人間としての尊厳が失われるのではないか、という問題である。

 『マンガ 認知症』の中で、佐藤眞一はこう述べている。

「老い」はプライドとの闘いです
老いて弱くなっていく情けない自分
人生を強く生き抜いてきた誇り高い自分
二つの自分の間で揺れ動き不安がつきまといます

 認知症は、この矛盾が劇的に表面化する。

 特に、排泄は、その最大の分岐だろう。

 前述の 『マンガ 認知症』の中で、佐藤眞一は

認知症になるのが怖いと思っている方たちも

この理由*1が大きいのではないかと

とのべ、この佐藤のセリフの周りに、

  • 子どもに迷惑をかけたくない
  • プライドを傷つけられたくない
  • シモの世話までされたらおしまいだ

というつぶやきを配置している。

 ぼくの場合は、セクハラではないのか、と思う。

 『老乱』で、認知症になる主人公・幸造が、家にきてくれるヘルパーの女性への性衝動を抑えられなくなる描写の箇所、戦慄しながら読む。

それからしばらくの間、幸造は自分が何をしているのかよくわからなくなった。頭がしびれたようになり、何かに衝き動かされるように家の中を歩きまわった。こんなことをしていいのかという思いが浮かぶが、すぐに消えてしまう。強姦や殺人に駆り立てられる人は、きっと同じようになるのだろう。自分を止められない。破滅に向かっているとわかっていながら、目の前にはまばゆい楽園が待っているように感じるのだ。(久坂部前掲No.2190-2194)

 認知症では、前頭葉の機能が障害され、抑制機能が低下する場合がある。

 性衝動を抑制していたかつての自分は失われ、性衝動のままに周りの女性にセクハラをするという心配である。

 その場合、何よりも女性が深刻な被害に遭うことが最大の問題だ。

 同時に、ぼく自身の人格への評価について考える。それが認知症に起因することであっても、「ああ、あれが本当の紙屋の姿なのね」と。

 参加者の一人、Aさんは現在知的な職業についているだけに、また、日頃自分の人生を自分で切り開いてきた自負をベースに語っているだけに、この矛盾をひどく恐れていた。

 このことにかかわって、Bさんが、自分の知り合いの話をしていた。

 Bさんの知り合い、Cさんは、夫が認知症になった。その姿をみて、Cさんは夫が亡くなった後、密かに自死を決意し、2年ほどかけて身辺を整理し、自ら死を選んだという。亡くなった日の午前中に、Cさんは自分の親しい人に渡すためのほうれん草を茹でて、冷蔵庫への収納箇所まで指示してあったという。

 このCさんの話は、あまりに衝撃的だった。

 Cさんについては個別の事情もあろうから、Cさんの死をぼくが評価することはできない。

 しかし一般的な話として、尊厳を守る」ということが「人様に迷惑をかけない」ということの裏返しとしてある、という問題を考えないわけにはいかなかった。

 

 生きるということは社会に依存して生きるということであり、人様に迷惑をどこかでかけ続けることである。完全な意味での「自立した個人」などというものは存在しない。

 そのことを社会観のベースに置く必要がある。

 

認知症の人の尊厳を具体的にどう考えるか

 しかし、認知症という(少なくともぼくにとって)新しい事態に直面してみれば、そのことはもっと具体的に考えられなければならないだろう。

 『老乱』では、幸造はいよいよ周囲の状況が判断できないほどに症状が進んでいくのだが、息子夫婦が考えを変えたことで、状況はわからないけども漠然とした安心感に包まれて生活を送ることになる。

今、自分がどこにいるのか。幸造はわからないし、わかろうとも思わない。身体が弱り、自由がきかず、何か困ったことが起こっているようだが、それもどうということはない。ただ静かに時間が流れているだけだ。(久坂部前掲No.4188-4190)

今はいやなことをされることもなく、焦ったり、がんばったり、慌てたりする必要もない。叱られたり、怒鳴られたり、ため息をつかれることもない。ただ言われるがままになっていればいい。それでいいのかどうかもわからないが、みんな笑っているから、きっといいのだろう。今はつらいことも心配も何もない。(同前No.4195-4198)

 まず、認知症になる側は、このような地点に自分の尊厳の照準を合わせればいいのではないだろうか。介護する側も、認知症になった人をこのような状態にまで持っていくことが、その人の人権を尊重するということになるのだと思いさだめることである。

 『老乱』に出てくる和気という医師が講演でこう述べる。

さあ、ここなんです、認知症介護の一番の問題は。いいですか。介護がうまくいかない最大の原因は、ご家族が認知症を治したいと思うことなんです。(同前No.3477-3491)

 健常に「治して」それを尺度に人権を考えるという罠に引っかからないようにするのだ。

 読書会では「シモの世話」についても議論になった。

 幸造の息子・知之もその配偶者(「嫁」)・雅美も「幸造への恩返し」というつもりで介護と「シモの世話」を考えるようになる。

  これはこれで重要な発想だが、読書会参加者からは「介護する家族としてシモの世話は無理だ」「介護される側になったとしてもやはり家族にさせるのは耐えきれない」という声が上がった。 

 それでいいのだろう。無理に「恩返し」などと思う必要はない。

 つまり、ヘルパーや施設という専門家、「社会」の手を、躊躇なく借りるのがいいのだろう。

 Bさんから『恍惚の人』との比較が出た。

 『恍惚の人』そのものが現代でも十分にリーダビリティの高い小説として賞賛されたが、同時に、息子である夫の役割の大きな違いがその際に注目が集まった。つまり、『恍惚の人』から『老乱』に到るまでにジェンダー平等が推進され、夫が介護に加わり、施設が利用されるようになったという社会の進歩がそこにはある。

 こういう読書会の議論を聞いて、また、この小説を読んで、次第次第に認知症になった自分、家族をどう受け入れていくのか、ふさわしい観念やモデルが出来上がっていくのだろうという楽観を得た。もちろん自分自身が学んでいくことを前提としてだが。

 

 リモート読書会、次回は平野啓一郎『本心』と決まった。

*1:排泄の処理を家族にさせるのが自分のプライドを根底から傷つけるということ。

相手の雑な言い回しを心の中で噛みしめる雁須磨子の表現が好き

 先日、雁須磨子『ロジックツリー』について感想を書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 朝日新聞で南信長が同作についてレビューを書いていた。

それらを支えるのが圧倒的な会話の質と量だ。予定調和的でなく、現実の会話さながらに話が飛んだり噛み合わなかったり聞き直したり。皆まで言わぬ含みのあるセリフ回しも絶妙。

 雁の会話表現はつとに評価の高いものである。ぼくのつれあいなどは「雁須磨子の会話ってホントわかりにくよね〜」と言っている。どう考えてもdisりにしか聞こえないが、現実の会話の豊かさを削除しないために生じる「わかりにくさ」が味である、という彼女流の評価なのである。

 

 

 ぼくもまったく同意するほかないが、そのうちの一つとして、登場人物が雑な言い回しをする際に、それを聞いている別の登場人物が、そのセリフを決して口に出さずに心の中で軽く反芻するのがたまらなくおかしい。

 例えば『ロジックツリー』では下巻の211ページに主人公・螢の姉が「バクロ本」という表現をする。

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雁須磨子『ロジックツリー』下p.211、新書館

 実際には、螢の彼氏は小説家であり、螢のことをモデルに書かれた小説なので、「私小説」あたりが正しいのだが、それを雑に「バクロ本」と姉が言ってしまうわけである。一般人である姉が「私小説」というのはリアルではないし、ここは「あんたのことを書いた小説」としても物語の進行上問題はない。あえて「雑」にする必然性はどこにもないはずである。

 しかし、「バクロ本」という「雑」さにして、しかもそれを聞き手の内語で軽く反芻させることによって、例えようもないほどのおかしみが湧いてくる。あえて会話にするほど重大でもないが、完全にスルーしてしまえば、気づかれない。軽く触れるだけなのだ。そのおかしみがそのまま、リアルへと膨らんでいく。

 同じやり方は雁須磨子の他の作品でも頻繁に登場する。

 『つなぐと星座になるように』では例えばこういうコマがある。

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雁須磨子『つなぐと星座になるように』3、p.88、講談社

 無骨な男性が彼女にアクセサリーをプレゼントするために、店側に彼女のスペックを告げるシーンなのだが、男性は「女」と言ってしまう。アクセサリー店なので特に何も言わなければ女性を対象にした商品であるから徹底して不要な情報であるとも言えるし、その女性を「女」と雑に言いすてる言い回しにも「慣れてなさ」が伝わる。

 

 

 

 雑さを忍び込ませ、その雑さをもっともよい温度で目立たせ、読者に味わわせる雁のこの手法に、南のいう「(作品を)支える会話の質」の一つがある。

松竹伸幸も「渋沢栄一ドラマなのに江戸時代の終わりを延々と描いている」に違和感

 松竹伸幸渋沢栄一を描いた大河ドラマ「青天を衝け」についての感想を書いている。

ameblo.jp

 

 「感想」というか違和感だな、これは。

 渋沢は「日本資本主義の父」と言われる。しかし、だ。(強調は引用者)

「青天を衝け」は日本資本主義の父が主人公であるにも関わらず、江戸時代の終わりを延々と描いている明治維新につながる時代である。私は明治維新だからといって心が躍るようなことはないのだが、少なくない人にとってはそうではないようだ。

 その理由は「不連続な変化」だろう。江戸時代から明治へという「不連続な変化」は、もともとの状態にしがみつく人々(新撰組とか)を描いても、新しい状態への変化を主導する人々(坂本龍馬とか)を描いても、それだけでドラマチックである。何が正しいのが誤っているかを越えて、不連続さが心を打つ。

 しかし、「青天を衝け」にはそれがあまりない。

 

 ぼくは実は「青天を衝け」を全く視聴していない。

 しかし、伝記マンガを読んで感想を書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 その中で次のように記した。

 Kindleで購入したのだが大政奉還されるのは66%読み進めようやくだった。

 第一国立銀行設立は82%。

 テンポが遅すぎるのでは…? という思いは拭えなかったのだが、その分、渋沢という男の前半生の「定まらなさ」が印象的だった。

 尊王攘夷の倒幕思想・運動に身を投じ、死を覚悟した蜂起を目論見ながら直前で計画を中止。投獄が身近に迫ってくると激しく動揺。投獄された仲間を救うためという口実もあってなのかどうなのかいまひとつ理屈が不明なのだが、一橋慶喜の家臣となり、慶喜の将軍就任と同時に打倒するはずだった幕府の一員、「幕臣」になってしまう…。という人生を数奇と考えればいいのか、見通しのなさと考えればいいのか、時代に翻弄される一個人の運命と考えればいいのか。

 なんで幕府が倒れるまでのところをこんなに長い尺でとったんだろうか? 

 

 松竹と基本的に同じ感想を抱いたのである。

 日本資本主義の父であるにも関わらず、そこではなくて江戸時代から維新にかけてを時間取りすぎなんじゃないかと。

 

 「明治維新の政治ドラマ」として描くというのは、大河ドラマとしてはたとえよくできていたとしても、すでに描いてきた分野のバリアントでしかない。

 しかし、日本資本主義の創生をもし描けたらこれは全く新しい境地ではないのか、という期待が松竹にはあったわけである。これは正しい期待である。

 正しい期待だけど、たぶん裏切られる。

  

 たぶん、維新期の政治史を中心にしたドラマで大半は終わって、資本主義草創期=数多くの会社設立に関与した時代の描写はマッハで過ぎていくよ。

 絶対。これほんと。間違いない。

「世の中興奮することたくさんあるけど、一番興奮するのは渋沢栄一のドラマが維新期の政治史を中心にしたドラマで大半終わっちゃうときだね」

「間違いないね」

街づくりの失敗が死傷者を生む可能性

 千葉県で酒に酔ったと疑われる運転のトラックが子どもの列につっこんで、死傷者が出たこの事件で、次のようなニュースが出た。

news.yahoo.co.jp

 この6日付の千葉日報の記事にはこうある。

 八街市は、全域が都市計画法による区域区分がされていない、いわゆる「非線引き自治体」。このため宅地開発の規制が緩く、バブル以降、あちらこちらでミニ開発が進んだ。住宅地が増える一方で、道路整備など交通インフラが追いつかない現状も浮き彫りになっている。

 現場近くの団地もほぼ同時期に造成が始まり、売り出された住宅地だが、本来、開発と合わせて行うべきはずの通学路の安全確保策が結果として行われていなかったことになる。

  記事の見出しが「背景にバブル期以降のまちづくり 規制緩く、ミニ開発続々 通学路の安全対策追いつかず」であるように、ここでは事故が起きた背景に迫っている。

 この種の記事が「酒を飲んで運転した」部分にのみ問題をフォーカスしがちななかで、街の造られ方という背景にまで問題を及ばせて論じられる記事はめったに見ない、というのが、ぼくの素朴な印象である。

 

 事故を「直接の被害者と加害者」のみの構図に矮小化せずに、さらに広く・大きな枠組みから問題を考えさせ、開発や街づくりのリスクにふみこむ、よい記事である。

 

 もしセットになったような報道が十分に多ければ、例えば地域で小さな開発をおこなうとき、住民側に「うーん、でもほら、そんなふうに宅地をちょこちょこ作ったら、お年寄りや子どもが歩道もない道を歩かされて事故に遭うじゃないですか」というような心配が自然に浮かび上がってくるようになるのだろう。「マンション建設」とくれば「日陰にならないか」という意識がセットになるのと同じである。

 そうなれば、対応する業者や行政からも、「大丈夫ですよ。あわせてここに歩道やガードレールを整備しますから」という回答が返ってくることになる。

 社会は健全に回ると思う。

 

 開発はメリットばかりが強調される。デメリットやコストはなかなか知らされない。知らされても、とても抽象的な計算に落とし込まれていて、わかりにくかったりする。事故や事件といった「個人的」にみえる事象が、実は社会の大きな枠組みからおこされていて、個別事件の被害者は実はその枠組みの犠牲者ではないのかという視点は、いつでもおろそかにされる。形をかえた「自己責任」論は、どこにでもひそんでいる。

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 もちろん、反論はありうる。

 「この地域の事故発生率は、実は他の地域とかわらず、特別にリスクが高いとは言えない」というような証拠を示すことだ。まちがった因果や相関と結びつけてはならないというわけである。それはそれで大事な議論である。この記事も、たとえば事故発生率のようなものまで調べて示す、さらなる「深掘り」が必要なのだろう。

 

補足(2021年7月12日)

 より詳しい記事。

www.chibanippo.co.jp

 

雁須磨子『ロジックツリー』

 8人きょうだいという大家族に育つ大瀬良螢(おおせらけい)が主人公で、高校生女子だった頃から社会人になるまでの時間軸で物語は描かれている。

 

 

 螢だけでなく、きょうだい、親戚、友人たちのエピソードが展開されていくのだが、ストーリーの主軸には螢の「人を好きになる気持ち」が置かれている。

いちばんよくないのは

自分で自分を

ごまかすこと

だな

 と幼い螢が誰かに言われている追憶的なシーンから物語が始まる。

 幼い螢は「何を言ってるんだ」という顔をする。そんなこと、あるわけないじゃないか、と。どうして自分の気持ちと違うことを言うのか、ましてや自分で本当に思っていることと別のことをそう思っていると自分に言い聞かせてしまうのか、あり得ないではないか。

 螢が誰かを好きになるけれども、それはわかりやすい姿をして当初現れてくるものではない。自分の憧れや屈折、もしくは世間体を気にしながら、自分では思わぬ姿をしてそれは現れてくる。

 螢が好きになるは、一人目は、翻訳家であり作家である親戚(琴子)の家に出入りする編集者・柚木(ゆぎ)だ。「うさんくさい笑顔」というたっぷりな不審ぶりから始まるのだが。

 螢はその気持ちを琴子に指摘されるまでの間、少なくとも物語の中で螢が「わかりやすく」だけでなく、「それとなく」であっても、柚木に好意を示すようなシーンは一切ない

誰かに会ってその誰かの事「あ 苦手だな」って思う時って

まあその人がとんでもなく嫌な奴ってわけでもなければ

自分自身のコンプレックスや憧れがそれをさせてるんだと思うのよね

とは、琴子の言葉である。螢は憧れなのにそんなことがあるのかと不思議がる。

卑屈さ?を呼び起こされそうっていうか…

うらやましさ通りこして

ねたみそねみ

とさらに琴子が解説する。

 憧れは好きという感情になるはずではないか、好きという感情が好きという感情で表現されないなんてあり得ないではないか、とは螢だ。

 まったくそんな倒錯が理解できないのである。

 螢は「幼い螢」のままなのだ。琴子が解説を続ける。

うん でもその人に

好かれる自信がない事に

瞬時に気づいてしまったら?

 

 「好かれる自信がない」と思う理由は様々ある。

 単に向こうが自分に関心が全くなさそうだという場合に防衛的にそう思うこともあるかもしれない。

 自分はダメな人間だ、という気持ちの場合ももちろんそうだろう。しかし、他にもそれはある。

 年齢差とか、地位(教師と生徒など)とか、そういう立場が違いすぎる場合。

 あるいは同性である場合もそういう感情を持ってしまうことはあるだろう。早々にあきらめるということだ。

 既婚者、ステディがいる、というのもよくあることだろう。

 

 では、そんな気持ちが覆っているにも関わらず、自分が相手を好きだと思っているのはどんなふうに確かめられるのだろうか。

 柚木の大学時代の友人でもあり、螢の尊敬すべき兄でもある畔(ほとり)は、嫌だなと思ったアート作品で、その嫌さのあまりにどうしても何度でも見てしまうものがあり、それが倒錯した好きということではないのかとアドバイスする。

 それと似たようなことを柚木は直接螢に言う。

どうあっても

気持ちがそちらに向かって流れだしてしまうような

見ようと思わないのに目に飛び込んでくる……

臆病と強気がごっちゃになって

でも向こうの気持ちの開いているところを

探さずにいられないみたいな… 

 まさにそれだよ、とぼくは思う。

 まず前半。「気持ちがそちらに向かって流れだしてしまう」「見ようと思わないのに目に飛び込んでくる」。これはわかりやすい。

 そして後半。「臆病と強気がごっちゃになって」。相手は自分のことが好きなんじゃないかとと思う瞬間があって、アタックしたりアプローチしたりしようとするが、全く裏返しになって全然自分など歯牙にもかけられていないのではないかと絶望的な気持ちになる。その場合に臆病が支配してしまうので動けなくなってしまうのだが、しかし、それでも「向こうの気持ちの開いているところを探さずにいられない」のである。ある瞬間に垣間見せるものを、自分が勝手に解釈して、「それは私のことを好きだという気持ちに表れではないのか!?」などと。その根拠もない「開いているところ」=隙間を狙ってアタックしようとするがやはり臆病に支配されてしまうのである。

 だけど「好き」という気持ちを、前半部分はともかく、後半部分のように表現するのは、「好かれる自信がない」と思う時だろう。

 螢は柚木と会話をした後、柚木に向かって、こう言う。

柚木さんって兄のこと大好きですよね

私は柚木さんの事が好きなんじゃないかな

 そう話す螢の表情を見て欲しい(下図)。

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雁須磨子『ロジックツリー』下、新書館、Kindle61/235

 頬を染めて告白しているわけでもない。

 目線を合わせていないけども、それは照れているわけでもない。

 考えごとをして、その考察していることを確かめながら人に話している時の表情である。

 まさに、螢は「自分の気持ちに素直になる」ようにしてそこに到達したのではなく、ロジックの果てにそこに到達したのである。

 

 螢が好きになるもう一人は、琴子の家に「書生」として住み込み始めた、新人作家の小関だ。

 あまりにひどい出会い。そして、出会って間もないのに小関の側から唐突に受ける告白。今度は螢が混乱する番である。

 個人的に、この小関に感情移入する。小関には発達障害的な融通のきかなさがあるが、愚直で真摯なようにも見える。ぼくは螢にも好印象があるので、「こういう女性に、こんなふうに真摯に迫りたい」とつい思ってしまうわけだ。

 小関の書いた小説が少し売れる。それは螢への「ラブレター」でもあるのだが、相当に転倒し、ややこしい表現がされている。

曲がりくねってひねくれてて

「Kさん」が好きなのにふと利己主義が顔出すとことか

正直だなってなるのと

真に同情を禁じ得ない苦しさみたいのがあるよ

とは琴子のこの小説の評である。

 

 この作品の「好き」は倒錯している。

 わかりにくい。

 そのわかりにくさをロジックによって明らかにして、ラストはやはりこの感情が恋愛だったことを気持ちよく表現する。

 

 1話だけ試し読みできる。

note.com

「推古さんは男性の中継ぎではない」記事を読む

 「しんぶん赤旗」日曜版7月4日号の義江明子帝京大名誉教授、古代史)への取材記事を読む。“推古は男性天皇の中つぎで、蘇我馬子聖徳太子が主に政治を担った。”というイメージを、「女性が徹底して排除された明治時代」をはじめとする「近代以降の偏見」を排除して刷新しようとしたことを書いている(以下、引用は同記事から)。

中でも推古は、女性が即位できない「ガラスの天井」を打ち破った人物だといいます。…「…推古は優れた統率力を豪族に見せつけることで、男王の優勢を打ち破り、後の女帝らに道を開いた——これが私のジェンダー視点による読みです」

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 いや、今の視点に引き寄せすぎだろ…と初見で思わざるを得なかったが、しかし、記事に添えられた年表(上図)を見ると、

日本列島には、4世紀頃まで女性首長が3〜5割存在していたといわれています。6世紀末から8世紀後半にかけては、推古を皮切りに男女ほぼ同数の天皇が即位しました。

という状況なので、5世紀と6世紀に男王しかいないのが逆に不自然なのかな、と思えてきてしまう。

 そして、

女帝研究は困難を極めました。『日本書紀』をはじめ歴史史料が持つ政治的な意味合いをはぎ取り、日々更新される発見や研究成果を取り入れながら、「膨大に調べては数行書く」の繰り返し。

という態度には頭が下がるし、何よりもまず義江の本そのものを読んでみないことには信じる・信じないも言えないだろう、と反省した。