ニコ・ニコルソン、佐藤眞一『マンガ 認知症』

 久坂部羊『老乱』をリモート読書会で読むことになったので、それを読んだ後、本作を読み直す。以前読んだことがあったが、問題意識を持って読むと染み通り方が違うなと思った。

 『老乱』を読みたいと言ったAさんは「自分では理解できない病気・症状の人の意識が知りたいので、認知症の人の意識を書いた『老乱』を読みたかった」とその動機を語っていた。

 それならば、文学としてのそれだけでなく、もっと学問解説的に踏み込んだものを読んだ方がいいのではないかと思い、「そう言えば以前読んだな」と思い出して読み直したのである。

 

 

 まず、本書は『老乱』で印象を抱いた認知症に対する理解とすこぶる整合的だった。そして、期待通り、それを深めるものだった。したがって単に読書会のためだけでなく、ぼく自身が認知症に対する理解や認識を大いに深めた。

 

本人がなぜこういう行動に出るのか? への理解の一助として

 本書は、佐藤が研究してきた心理学が「本人がなぜこういう行動に出るのか?」ということを解明する学問であり、一見奇行に見えるその理由を知ることで「介護が楽になる鍵」(p.23)だという問題意識で書かれている。

 例えば「同じことを何度も聞いてくるのはなぜ?」という章がある。

 本書では、短期記憶・長期記憶などの記憶の仕組みが簡単に解説され、認知症は、短期記憶から長期記憶に移行するときに障害が起きてしまい、長期記憶に残らないのだと説明する。だからその場でわかったようにふるまっても、それを覚えていられないのだという。ここで認知症は「覚えられない」、老化は「思い出せない」という(ざっくりとした)違いもわかる。一般の老化は貯蔵はできるが、検索が難しくなる(だからヒントを与えて出てくるような場合はインプット自体はできていることになる)。

 そして、何度も聞いてしまうことを、うざがられたり、怒られたりすると、不安を感じてしまう。厄介なことに、不安や不快な感情は海馬・扁桃体の働きで、認知症であっても残る、というか残りやすいのだという。その不安から何度も聞くし、聞いたことが安心感につながるので、聞く行為を繰り返してしまう。逆に拒絶されるとそれが不安→精神的孤立につながっていく。

 また、デタラメな話が出てくる原因の一つに、妄想などもあるが、再構成の問題もある。

 例えば、誰かに会って聞いた話があるとしよう。記憶の情報を取り出すとき、一般の人はその話をそのまま全て取り出すのではなく、再構成をするのだという。いわば必要な部分・本質と思われる要素だけを取り出して再構成する。

 認知症はこの再構成が苦手になってしまう。

 したがって、近所の奥さんと道で会って話をしたのに、和尚さんがお墓まいりに来いと言っていたという情報になってしまう。近所の奥さんの話の中に例えば「お彼岸」「お供え」などの話題があった場合、そこから連想して勝手な再構成をしてしまうのである。

 佐藤は、ケアとコントロールと問題を取り上げて、認知症だけでなく、介護一般にも通じるとしている。相手の意図がわからない、理解不能な怪物のように思ってしまうと、指示をしてコントロールするしかなくなる。

 しかし、相手の意図や、そう思う機序(メカニズム)・理路(ロジック)がわかると、相手の意図を汲んで別のところに導いたり、受け止めたりすることができるからである。

 これは介護だけでなく、子育てにも通じることだろう。

 中2の娘は「お父さん、これどういう意味?」と言って英語の問題を聞いてくる。like にはingしか続かないと思っているので、toもあるんだよと教えてると、怒り出したり、ふてくされたり、面倒臭がったりする。こちらが教科書や辞書で解説しようとすると、無視する。しつこく聞かせようとするとキレる。

 娘は最近期末テスト前に、「英語がわからない」「間に合わない」と言って、深夜にぼくの前で泣いたことがある。中学教員を経験していた友人に話したら「そりゃまた中学女子にしては素直な姿を親の前でさらけ出しましたね…」とある意味で感心していた。

 つまり、娘は英語の理解が遅れていることに焦燥があるんだとそのとき初めて認識した。どうでもいいとは思っていないのである。

 そういう目で先ほどのlikeをめぐる「奇行」と言おうか「キレる若者現象」と言おうか、そういう行動を見てみると、「わからない自分に向き合いたくない」「親にその姿を見せたくない」「でもわからないから聞きたい」という矛盾・葛藤の中にいて、そのせいなのかなと思える。

 キレる娘に不快な思いはするけども、「こいつも苦しいんだな」ともう少し理解はできるのである。

 おそらくそれと同じであろう。

 ケアされる人の中で起きているメカニズムを理解することで、ケアするぼくの不快感は消滅はしないけども、軽減されるのである。

 

哲学的な問い

 本書は老い・認知症が矛盾のプロセスであること、その矛盾を生きる中で人間が社会的にどう成り立っているのかを突きつけることを明らかにしている。

 「矛盾のプロセス」というのは、

「老い」はプライドとの闘いです

老いて弱くなっていく情けない自分

人生を強く生き抜いてきた誇り高い自分

二つの自分の間で揺れ動き不安がつきまといます

という意味である。

 「老いて弱くなっていく情けない自分」を受容するプロセスはすでにいろんな本が出ているとは思うのだが、ぼくなどは全く心得がない。

 社会的な活動はまだ下降しているように思えない。体力は減退しているが、それは全くプライドに関わってこない(日常生活が特に不都合なく送れていることが大きいのだろう)。しかし、容姿、セックス、性欲みたいなものは減退を感じ、時々は強く意識する。すでにそのせめぎ合いは始まっているのである。

 

本来自分というものは

「時間」と「空間」と「他者に認められていること」で成り立ちます

ところが認知症になると

自身が抱いている自画像が崩壊していきます

認知症が進んだ人は「自分とは何者か」(=アイデンティティ

わからない不安の中で生きなくてはいけないんですよね

  これは「面倒見がいい働き者のトメちゃん」だったのに、「何もできないでしょ」「いいから座ってて」と言われてしまうことで「自分」がわからなくなっていくという意味である。人間がどうやって成り立っているのかを逆に考えさせる、哲学的な事態だと言える。

 

 時間も空間もわからなくなって、陳述記憶(文字にできる記憶)も弱くなっていく中で、不快・不安/快楽・安心というような非陳述記憶は残る。だとすれば、介護する側は、相手がなぜそういう意識を持つのかというメカニズムを知って、怒り・苛立ち・否定などをせず、笑顔の中で相手を迎え、出来るだけ肯定し、小さな役割(社会的居場所)を返報してもらい、「よくわからないけど安心してもらえる環境」で生きてもらうようにすることが、本人にとっても周囲にとっても幸せなのではないか、というのが実践的結論だと受け取った。これは『老乱』と全く同じである。

 

 本書は、認知症を知識としてわかりやすく示し、実践として無理のない、自然な結論を得られる(きれいごとにも、露悪にもブレない)本だという印象を受けた。

 

 

マンガという表現様式への佐藤の評価

 「あとがき」で佐藤は「マンガの内包する描写力に感動した」(p.273)と述べている。

 『マンガ 認知症』は、ただ私の研究を読みやすくした、というものとはまったく違うものでした。

 もちろん、ニコさんのマンガ家としての才能の力でもあるのですが、私は表現様式としてのマンガに敬意を抱いたように思います。各コマの主題に添えられている副題としての婆ル〔ニコの祖母のこと〕や母ル〔ニコの母のこと〕、その他の登場人物や動物たちまでもが、読者が主題について学習したり、考えようとするときの思考のあり方を大いに揺さぶるのです。(p.273-274)

 

 こういうふうにマンガという表現様式そのものへの敬意を示すというのは珍しいことだと思う。こういう役割分担をしたとき、マンガを「添え物程度」の扱いをする人も少なくないだろう。

 それが通り一遍の理解でないことは、佐藤自身の描かれ方についての次のような理解からもわかる。

また、登場人物として私自身があのように描かれるとは思ってもみませんでしたが、確かに私自身でした。私の友人や学生たちはみな、マンガに描かれている私と実物の私は「全然違う」と言っています。しかし、私自身は、マンガに描かれている私が、私の中に確かに存在していることを知っています。それを見抜いたニコさんは、本当にすごい人です。(p.274)

 本書は解説・取材マンガとしての可能性もまた拓いたと言える。

 

「福岡民報」2021年7月号に「マンガから見えるジェンダー」3回目

 「福岡民報」2021年7月号に「マンガから見えるジェンダー」という連載で、よしながふみきのう何食べた?』と『1限めはやる気の民法』を取り上げた。

 同性愛が日常にドラマで描かれるようになったことと、同性愛を「気持ち悪い」とする感情をどう評価するかについて書いている。

  3回連載のこれが最終回。問題があって打ち切りなのではなくて、最初から3回予定っすw

 

 

  この回の後半は以下で書いたことをベースにしている。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 ところで、よしながふみ『大奥』が完結した。

 

 

 『大奥』は江戸時代の大奥を男女逆転させた物語である。家光の時代から明治維新に至るまでが描かれている。この作品について、3日付の読売新聞では川床弥生記者による、よしなが取材記事が載った。

よしながさんはジェンダーがテーマではなく、「エンターテイメントとして描いた」と言う

ジェンダーの問題を取り上げた作品と紹介されることも多いが、それが狙いではなかった。

 ジェンダーでなければ何を描きたかったのか(だから「エンターテイメント」だっつってるだろ!)。

 よしながは「描きながら気づかされたこと」として物語の後半で取り上げられる14代・家茂と和宮の関係についてこう述べる。

恋人でも家族でも、友達でもない。子供ができない2人は養子をもらう。その関係を描くにあたっては、現実社会の機運に後押しされた部分があった。「今は人間関係に友情や恋愛といった決められた名前をつけなくてもいいという感じがある」。周囲からも「新しい」「いい関係」と評価が高かったという。「私は面白いと思って描いただけですが、いまだに結婚や出産に縛られることがあるからこそ、和宮と家茂の関係にひかれる人が多いのかもしれません」

名に縛られぬ関係——。実は当初、本作は「(将軍家をめぐる)血族の業の話になるはずだった」。しかし、いつしか「血は関係なく、志を一つにした人たちの物語になっていた」。

 作者は強い意図はせず、エンターテイメントとして描いた関係だったが心のどこかで思っていたことが「現実社会の機運に後押しされ」て描いたのだという。そして、作品の受容に、強烈にジェンダーが反映された、というわけだ。

 ぼくは2003年に榛野なな恵の『ピエタ』について取り上げたことがある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 

ピエタ』の主人公である二人の少女は、「恋人」であり「母子」であり「友人」であり「同志」である(番外編「ピエタ」より)。

 このように、社会から決められ、名づけられた関係から逃れて/逸脱して/ズレて、新しい関係を渇望する意識はずっとあった。主に女性の側から。BLが成立する社会基盤の一つ*1が、女性の側にこうした意識が強いことだ、というのが、年来のぼくの考えである。決められた関係に客観的に抑圧され、その中でそうした関係に違和感を抱き、そのことに敏感な存在(女性という性を生きる人はそういう人が少なくないのだろう)だからこそ、こうした作品が生み出されるのだろう。

*1:あくまで「一つ」ね。

議会での「質問」は英語でなんというか

 地方議会での「質問」を英語でなんというのだろうか。

 

質疑と質問

 先に日本語の理解を書いておくが、議会用語としての「質疑」と「質問」は少し違う。

 市町村議会の中にこのことについての解説ページを設けているところがあるが、たとえば千葉県君津市議会のホームページには次のように違いが解説されている。

質問
質問と質疑は、違うのですか。

回答
議会には、議案等を審議するだけでなく、執行機関である市を監視するという役割もあります。このため、市が行う事務に関して質問し、見解等を求めることが認められています。これを一般質問といい、本会議で行われます。

これに対し、提出された議案の疑義を提出者(市長や議員など)にただす場合など、議題となっている事件の疑義をただすことが質疑で、本会議及び委員会で行われます。

  もう一つ、埼玉県三郷市のホームページを載せておこう。

質疑と一般質問の違いはなんですか。
「質疑」とは議案等に対して、議員が疑問点を問いただすことです。「一般質問」は、議員が市政全般に関して、行政側に現状や見通しを聞くことです。

 どちらも「質問」というより「一般質問」と書いているように、正確には「議案質疑」と「一般質問」(緊急質問も含む)の違いだ。

 つまり首長の出した議案に対するものが「質疑」で、広く自治体行政一般についてのものが「質問」だと理解していい。

 しかし、この差について書いた英語の辞典は、管見にして見当たらなかった。とりあえず英訳においては同じものだと考えて話を進めていいだろう。

 

question? inquiry? interpellation?

 英語のネット辞書(研究社『新和英中辞典』)を見ると「質疑」は次の用語が書いてある。

  • a question; an inquiry
  • 〈国会での〉 an interpellation

 questionか、inquiryか、interpellationかである。

 ぼくはずっと疑いなくquestionを使っていた。日本の国会で党首討論が導入された時「Question Time」と言っていたので「ははあ、『質問』をそのままQuestionって言うんだな」と印象付けられたからである。

 

 ところが、各地の政令指定都市の議会事務局がつくっている英語版のホームページを見ると、実はいろいろな表現がしてある。

 札幌では「質疑・答弁」のところに「Question and answers」とある。

 静岡でも「question」だ。

 ところが神戸福岡では、「inquiry」となっている。

 

 「つながり(コロケーション)を日本語で探り、それを英語でどういうかを示す発信型の辞書をねらうのがこのサイトの目標」だとする「gooコロケーション辞典」では、「ぎかいでしつもんする【議会で質問する】」という見出しに「ask questions in the assembly」とある。すなわち「question」なのである。

 Weblio辞書で「inquiry」は「質問、問い合わせ、照会、調査、取り調べ、審理、研究、探究」というのが主な意味とされている。

 「interpellation」に至ってはその動詞「interpellate」を見ると「(議会で議事日程を狂わす目的で)〈大臣に〉質問する、質問して日程を妨害する」(研究社前掲)とあるし、Kindleについている英英辞典"The New Oxford American Dictionary"でも

interrupt the order of the day by demanding an explanation from (the minister concerned).〔関係閣僚からの説明を求めることにより議事日程を妨害する〕

とある。特別な慣例から生まれた言葉のようだが、まあ、少なくとも国会の話なのだろう。

 こう見てくると、やはり地方議員が「次の議会で質問します」というふうに使っているのは「Question」であり、「inquiry」は議会としての機能を表す言葉で「調査」に近いニュアンス、議会の調査権能を表している言葉ではないだろうか。

 よってぼくなりの答えは、議会の質問・質疑=Question。これである。

 

英語での表現はこんなに違う

 地方議会はぼくにとって身近な場所である。

 だからそこでのおなじみの議会用語がどう英語で表現されているかは興味がある。

 福岡市議会と札幌市議会では、議会用語の英訳は当然同じものもあるが、それでもけっこう違うから面白い。左が福岡市、右が札幌市である。

  • 請願 petitions /petitions
  • 陳情 lobbying /appeals
  • 傍聴 observing /observation
  • 意見書 opinion in writing /written opinions
  • 市議会議員 City Councilors /Assembly members
  • 議長 the Chairperson/the speaker

 議長をthe speakerと訳すのは驚いた。

 確かに「Eゲイト英和辞典」でspeaker見ると、

(the Speaker)(英米の下院の)議長(発言を求める議員はMr. Speakerと呼びかける) 

とある。だけど、日本の市議会の議長もこう表現するんかね…? 翻訳者はどういう根拠でこのように訳したのか、興味がある。

 

 「日本共産党福岡市議団」は、共産党系のJapan Press Weeklyでは

The Japanese Communist Party Fukuoka City Assembly members’ group

であるが、福岡市議会の翻訳を基準にしたら、

The Japanese Communist Party Fukuoka City Councilors

が適切なのかもしれない。

 

 こういう議会の公式サイトの翻訳は誰が責任を持ってやっているのだろうか。

 語学ができる市職員(国際部局関係の)とかがやっているのか、外注しているのか。それともかなり厳密な決裁などをしているのだろうか。だって、トンデモ英訳とかされていたら政治問題になっちゃうもんな(現に福岡市議会の常任委員会名は変えられて数年経つけど未だに同市議会の英語版ページでの紹介は古い常任委員会名のままである=2021年6月25日時点)。

 

 英語での表現はこんなに違うんだ、と思った。まあ、翻訳というものは、そもそもこんなふうにいろいろ表現できるものなのだろう。

 だが、議会用語のようなものはもうかなりかっちりと決まっているのかと思っていた。政治学などの論文で英語で書かれたものでは表記の揺れがあったら困るんじゃなかろうか。

 

 

 

年上の高齢男性から告白されるということについて

 妻子があって60代である、ゼミの男性教授から電話で「告白」された女子大生の話。

anond.hatelabo.jp

 

 まず、これが教員と学生の非対称的な関係を利用した、強制性のあるものだとすれば、セクハラである。許されることではない。その女子大生にも、告発をするよう強く勧める。

 

 ただ本稿では、いったんそのような関係ではない仮定する。少なくとも上記では女子大生は自分と教授の関係性をそうは書いていないからだ。*1

 また、男性に妻子がいるということについても、それは不倫ということになるが、ぼくは不倫というのは、1対1の関係を約束したパートナー同士の信頼(契約)を裏切るものであるから、基本的にそのパートナーの間のものだと考える。今のところ他人がどうこう言えることではないようにぼくは考えている。故にここでは問題にしない。

 

 つまり、本稿はフラットな2人の関係、高齢の男性から若い女性への告白ということだけに話をしぼる。

 

告白する権利について

 この増田*2に対する反論記事がある。

anond.hatelabo.jp

 どんなに歳が離れていたって、あるいはどんなにキモくたって、告白する権利はあるだろう? というわけだ。

 だが、これは後者の増田にはあまり分はない。確かに男性側が「好き」と告白する権利はあるけども、それを受けた女性側が手ひどく振る権利もあるからだ。

 前者の増田は

俺には好きな女と恋する権利すらないのかって?
ないよ?

と言っているが、「恋する」を「片想いする」だとすればその権利は男性にあるだろうが、「恋を成就させる」だとすればその権利はないことになる。

 というわけでこれは簡単に片付きそうな話なのだが、例えば職場でのセクハラという問題を考えたときに「告白する権利」について考えることはとても大事だと思う。

 セクハラについてのコードが厳格になっている昨今、職場は仕事をする場所であって、「性の話をするところではない」ことになっている。つまり、職員が自分の「性的な存在として自分」を職場に持ち込むことは厳しく規制されつつあるのである。それはご近所であっても、大学のゼミであっても同じだ。「性的な存在として自分」を見せたり、持ち込んではいけないという空気は強くなっている。

 「窮屈になったなあ」という、ぼくのようなオヤジのボヤキが聞こえてきそうだが、無自覚でナイーブに性的な指向を自分に向けられ、性的に扱われ、時には強制的な力関係のもとにそれを押し付けられることに苦しんできた人がいる歴史を考えると、そうした規制の強化はやむをえないことだ。

 これじゃあ職場恋愛はできないってことだなという批判に対して、弁護士の社会学者の牟田和恵は、そんなことはない、きちんと手順を踏めばできるとしている。

 

(追記)2021年6月21日9:42

 牟田は同書で「職場恋愛三カ条」として

  1. 仕事にかこつけて誘わない
  2. しつこく誘わずスマートに
  3. 腹いせに仕返しをしない

をあげ、「これらのルールをしっかりと守るならば、職場恋愛もできないと心配する必要はありません」(p.144)と述べている。

(追記終了)

 「告白する」というのは、性的な存在であることをお互いが隠しあっていた職場や地域で、突如性的な存在である自分をカミングアウトし、誰にそれを放射しているかを明らかにする行為だ。唐突感が否めない。もちろん、本当にお互いが「いい雰囲気だった」というのはあるかもしれないが、告白者にあらかじめ「いい雰囲気」を形成する法的義務はないから、唐突に告白されることはある程度避けられない。

 手順を踏めば、告白する権利はある。

 しかし、その唐突感——突然「性的な自分」が職場とかご近所という空間に出現する違和感は今後一層強くなっていくだろう。

 だが、逆に言えばどんなに唐突であろうと、手順を踏めば、告白はできる。告白は権利なのである。

 

 告白に対して、告白を拒否する権利がある。

 どのように告白を拒否することもまた自由である。

 手ひどい振られ方をしないために「いい雰囲気」をあらかじめ醸成する努力が必要だし、「いい雰囲気ができている」と正確に感受するセンサーが必要になる。

 その際に、一番ありがちな誤解と、その真意が増田に書いてある。

あなたに愛想よく振る舞うのは、丁度あなたが上司とか目上の人に礼儀正しくするのと全く同じでそれ以上でもそれ以下でもないです。
その優しさは人と人との関係上の優しさであって、あなたのことを異性として求めているからではありません。
自分の都合の良いように解釈しないでください。
社交辞令と愛を履き違えないでください。
間違えても勘違いして告白とかしないでください。
あなたは恋愛の土俵に立ったら、一気にただの激キモ勘違い老人に降格です。絶縁です。
今まで縋り付くことのできていた最低限の優しさすら享受できなくなりますよ。

 普遍的な対人配慮や礼儀を、特定の個人への好意と勘違いすること。これである。

 ここで「あなたに愛想よく振る舞うのは、丁度あなたが上司とか目上の人に礼儀正しくするのと全く同じでそれ以上でもそれ以下でもないです」と書いているのだが、ぼくを含めて、それがわからない男が少なくないのだと思う。

 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」と言われるが、「誰かにやさしくする」ということを「特定の人に向ける好意」としてやっている男性は少なくないのだろう。

 ある種の男性にとっては、上司に礼儀正しくすることと、誰かにやさしくするのとは全く違うのだ。上司に礼儀正しくするのは「お世話になっております」という電話の定形句と同じで、「いやー、ホントに〇〇さんにはお世話になって…」と思っているわけではない。これに対して、自分の残業となる仕事の一つを引き受けてくれて愛想のいい言葉でもかけられたら、そこに特別性を感じ、「自分は好感を持たれているのだな」と思い、「好感」はやがて「好意」に勝手に置き換えられていくのである。

 これが男女という差で引き起こされているかどうかは検証するしかないが、何らかの集団の間での文化の違いのような気がする。

 だから、勘違いしがちなぼくのような輩は、この言葉を壁紙にして貼っておかねばならないと思う。

 

高齢者差別なのか

 もう一つ。

 これは高齢者差別、エイジング・ハラスメントではないのか、というような批判だ。

 ある意味で当たっているが、個人の恋愛や性愛において差別は「当たり前」だ。ぼくがAさんを好きになったとして、Aさんだけを特別扱いしてAさんとだけセックスをしてAさんとだけ結婚するとすれば、Aさん以外を差別していることになる。もちろん大杉栄のように一度に3人の女と恋愛しているとなったとしても事情は変わらない。大杉は3人以外を差別しているのである。

 よしながふみ『愛すべき娘たち』に出てくる莢子という女性は、マルクス主義者であった祖父から「分け隔てなく人に接しなさい」「差別をしてはいけない」と言われて育てられたが、障害者である男性を好きになってしまう。しかし、恋愛とは究極的な意味で「分け隔て」をすることであり、差別をすることだと思いあたる。莢子が突き抜けた当惑とも言える表情を浮かべているのを見て欲しい。

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よしながふみ『愛すべき娘たち』白泉社p.131

 恋愛という差別を誰でもカジュアルにやっているわけである。

 好きなったAさん以外、例えば世間で若くて美しいと評判のBさんとの恋愛やセックスを考えることは「気持ち悪い」と思うのはぼくの権利であるし、そう表明することは権利でもあろう(もちろん、「Bさんは私の恋愛対象にはなりません」というか「Bさんと恋愛することを想像すると気持ち悪い」というかの違いはあり、後者を批判する自由ももちろんある)。

 性的な嗜好(ここでは「嗜好」でも「指向」でも同じものだと考える)は少しズレるだけで、もう全く噛み合わないことがある。同世代の人であっても、あるいは自分より若い人であっても全然アンテナに引っかからず、「性的存在としては気持ち悪い」と思うことは十分にありうるし、そう思うことは決して不当ではない。

 仮にBさんが同性愛者であったとしても事情は同じだ。「同性愛者は自分の性愛の対象ではない」という意味において、同性愛者を嫌うことは自由である。その意味で高齢者を嫌うことも自由だし、同僚の異性を嫌うことも自由である。性的指向/嗜好はとてもピンポイントだし、個人は対象を差別するのだ。

 

 最近元プロ野球選手の上原浩治の「容姿」を問題にしたコラムが批判されたが、ルッキズムについても、それを社会的評価や他のことの評価につなげるから問題になるのであって、容姿を特定個人の恋愛、性的嗜好/指向の「理由」にすることはその人の自由である。*3

 仕事における評価をルッキズムで行えば/絡めれば、それはまさに「不当な差別取扱い」となる。

 

今までは教授と学生の関係とか同じ趣味をもつ人間同士の付き合いだったけど、これからは自分のこと恋愛対象として見てほしいってことで、恋愛の土俵に立ちたいってことでおk?
ならあなたのこと人間でなく恋愛対象として評価させてもらいますけど。
あなたの愛には、誠意には、一円の価値もないです。むしろマイナス!きっっっしょ。
!!ここ重要!!
あなたが若くて美しい肉体込みで私を好きになったのと同じように、私も若くて美しい肉体を持つ異性が好きなんです。
!!!!

ひどいって?
俺には好きな女と恋する権利すらないのかって?
ないよ?
どうして自分だけ若さとか見た目の土俵に上がらないで恋愛に参加できると思ってるの?
加齢臭を放つ垂れ下がった皮膚のどこを愛せというの?俺は見た目とかじゃない?知識?経験?
じょあ私よりもずっと知識も経験もある6◯歳年相応の女と恋愛すればいいじゃん。
そういうのが自慢なんでしょ?笑
もし、あなたが20歳だった頃、6◯歳の女に告白されたらどうしてた?
セックスできた?デートできた?
嘘でも僕も好きです////とか言えた?
気持ち悪い。誰がお前なんかと!って思うくない?
どうしてパパ活とかキャバクラとか風俗が成り立ってるか知ってる?
お金を払わない限り若い女とはセックスどころか話すことすらできないくらい、恋愛対象として利用者が価値のない存在だからです。
現実と鏡を見てください。

 

 これはある種のルッキズムを含んだ高齢者差別である。

 しかし、それは、自分が誰を恋愛対象とするか、という問題に関しては根拠として成り立つし、口に出す権利があるということをこのケースは示している。

 年の差婚というのが現実にはある。しかしそれは「たまたま」そういう指向/嗜好の人がいたという、ただそれだけの話。高齢者が恋愛対象として嫌いというのも、「たまたま」そういう指向/嗜好の人がいたという、ただそれだけの話。同じである。

 

 この部分もまた印刷して壁に貼っておきたい。

 なんだか高齢化していく自分への「呪い」の言葉のようにも思えるけど、必要な自戒であり客観視だと考えた方が、いまのところはいいと思っている。

*1:もちろん書いていないからといって本人がそのような強制に苦しんでいないという決定的な証拠にはならない。

*2:匿名日記=アノニマス・ダイアリーのこと。「マス・ダ」の部分をとった隠語。

*3:「口に出すからいけない」という批判もあるが、「Cさんの顔が嫌いなので私の恋愛対象にはならない」という自由はある。むろん「失礼だ」とCさんが不愉快さを反撃する自由もあるし、無前提にそのような発言をしたとすれば配慮や品位に欠けるものだとは思うが。

「交通事故負傷者は実際には減ってない」問題が国会で質問

 交通事故負傷者は実際には減ってないのではないか、という「しんぶん赤旗」の記事を読んでその感想を書いた。*1

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 その後、共産党塩川鉄也衆院議員がこの問題を国会で取り上げて質問した(6月4日、衆院内閣委員会)。今日の「しんぶん赤旗」にはその反響を書いた記事が載っていた。

 そして塩川議員のホームページにはその質問をまとめた記事が載っていた。

www.shiokawa-tetsuya.jp

 

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(2021年6月4日 衆議院内閣委員会 日本共産党 塩川鉄也 配布資料)

 

 前回記事で青野渉弁護士のコメントを紹介したが、「横ばい」と「半減」ほどに違う。「実数が違うだけで、基本的には同じ傾向」ではないのである。これは統計の意味を無効化し、それを基礎にした国策を誤らせる。

 

 乖離が生じているのはなぜかと質問。

 警察庁高木勇人交通局長は「自賠責保険では、人身事故として警察に届出がなされなかったものでも、実際に負傷したことが確認できれば支払いを行うため」と答弁。

 私は、負傷者数の実態を反映しているのは警察の統計ではなく、自賠責の統計だと事実上認めるものだと追及。

 

 要するに実際には負傷者が出ているのに「物件事故」として扱われたものは、この負傷者統計に入ってこないということを警察庁が認めたのである。

 以下は記事にはなく、動画で確認した塩川議員が暴露した、弁護士からの聞き取り部分である。

 実態をお聞きすると、交通犯罪に詳しい弁護士、青野渉氏によりますと、「警察署の事故対応として、被害者から警察に診断書が提出されると人身事故の扱いになるが診断書が提出されなければ物件事故として扱われる」ということ、「負傷した被害者に対し『診断書を出すなら事情聴取があるので警察署に来て事情聴取に対応してもらいます』『警察で人身事故扱いにしなくても、交通事故証明書は出ますし、自動車保険は出ますよ』とか『相手を処罰したいわけではないでしょう』とか、診断書を出すとデメリットがあり、診断書を出さなくてもデメリットはないかのような説明をしている」ということであります。

と追及した。

 こうした統計の乖離をただす質問に対して、

内閣府難波健太大臣官房審議官は「指摘は承知している」

 小此木八郎国家公安委員長は、乖離が生じている背景について「把握に努めるよう警察を指導する」と検証する考えを示しました。

と答えて検証を約束したのだ。

 これは塩川議員、一本である。

 

補足(2021年6月13日 午前11時30分)

 はてなブックマークに「警察としては診断書入手できてなかったら公式に人身にできないのは当たり前では?」というコメントが比較的上位にあるのだが、別のコメントも批判しているように、実際に負傷が生じて(診断書まで持ってきて)いるのに現場でそれを出させないようにしているのが問題なのである。

 前回のエントリで紹介したが、青野弁護士が指摘するように「現に負傷者がいるのに事件を検察に送致しないのは法律違反」となる。

 質問の動画(2時間46分ごろ)を見てほしいが、塩川議員は、なぜこんなことが起きているのか、現場のそのような対応が横行しているのかを質問の中で紹介している。

www.shugiintv.go.jp

 要は、国の交通安全基本計画(第8次、2006年)に「死傷者数」の削減目標がうたいこまれ(これ自体は必要だと塩川氏は言う)、それに合わせるように2007年から乖離が始まったということだ。国の政策は統計がベースになるのでそれを大きく誤ることになってしまう。

*1:前の記事のタイトルが「交通事故は本当は減っていない?」になっているが、正確には「交通事故負傷者は本当は減っていない?」だな。

「風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつ」で思い出す筒井康隆

www.kaiseisha.co.jp

 これを読んで当然この箇所に目がいく。

風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつのだと思います。

 

 そこにこの記事。

m-dojo.hatenadiary.com

 筒井康隆の風刺・パロディ論争を思い出す(「笑いの理由」/筒井『やつあたり文化論』、新潮文庫所収)。

 最近「差別語」論争について振り返る機会があって久々に読み返していたために、記憶に残るところがあったのだ。

 

 

 筒井は風刺とパロディを区別して、パロディにおいて「原典の本質を理解していない」という批判を厳しく批判する。

なぜかというと、原典の本質を衝いているというだけでは創造性に乏しいことがあきらかで、ある程度以上の文学的価値は望めない。そこで途中から原典をはなれ、その作品独自の世界を追求したり、自分の主張をきわ立たせるために原典を利用する、などというパロディもあらわれた。パロディの自立である。(筒井前掲書KindleNo.3035-3038)

 そして筒井自身の作品について触れ、原典の本質とも細部ともかかわりなく、「むしろ遊離している」とさえ主張する。「原典の本質理解」に拘泥することを、衒学趣味、悪しき教養主義だとするのである。

 他方で、風刺についても述べる。

 筒井は、笑いにおける精神的死の典型は、大新聞社の紙面を飾る1コマ風刺マンガだとする。実際に「面白くもおかしくもない」とのべ、「時にはカリカチュアライズした似顔絵だけの漫画」などとこき下ろす。このようなものを新聞社がありがたがる理由について、笑いの中核には「現代に対する鋭い風刺」が必ずなければならないという貧しい信念が大新聞社的良識があるからだ、とした。“チャップリンの方が、マルクス兄弟よりも高級だ”という風潮をあげながらこう述べる。

なぜこういう誤解があったかというと、常識の鎧を身にまとった人間というものは、笑う際にも意味を求め、意味のある漫画しか理解できない傾向があり、これはあの事件のもじりであろうとか、なるほどあのひとは誇張すればこんな鼻をしているとか、そういった卑近な連想によってのみ笑う(筒井前掲書KindleNo.2853-2856)

 対比的に筒井は、自らの「ドタバタ喜劇」の目指すものを、人間の意識の解放、常識の破壊、想像力の可能性の追求などとしている。

 

 今回の風刺マンガ(エリック・カールの絵本とオリンピック問題を掛け合わせる)は、まったく違う時事ネタをドッキングさせて笑いをとるという、異質な技術を掛け合わせるイノベーションとか、異質な学識を繋いでしまう文化革新とか、そういった異物を結合させる際に含まれるような爽快感が、ごく微量に味わえる手法である。もちろんそれはそれほど大そうなものではなく、日常の生活でもぼくら(というかオッサン)がよくやるものだ。

 無謀なオリンピック計画を批判しているので政治的には味方をしたいのだが、「マンガとして息ができなくなるほど腹を抱えて笑った」というほどに面白いものでもなかった。

 むしろ手慣れた常識感が筒井の新聞1コマ風刺マンガ批判を思い出させてしまう。

 そして、それを批判する言説(今井)についてもやはり筒井を思い出してしまうのであった。

夏目漱石『吾輩は猫である』

 リモート読書会は夏目漱石吾輩は猫である』だった。

 

 

 この超有名な小説、ぼくは読んだことがなかった。

 つーか、中学生、高校生時代に何度か読もうとして途中で挫折している。

 「面白くなかった」からである。

 11章あるけども、1章を終わらないうちにダメになってしまっていた。 

 

 ぼくは「自分では読みそうにない・読み終えそうにない、有名な小説」を読みたいというのがこの読書会への参加動機だったので、このセレクトは願ってもないことだった。『ペスト』などもそうである。

 そして読み終えた。

 なるほど、こういう小説であったか!

 ぼくは、とにかく「朗読すべき文章」としての心地よさに強い印象を受けた。

 例えば、次のような文章(猫のセリフ)は、リズムとしても気持ちがいいし、文章の内容としても「愚行権」の称揚になっていて小気味いい。

何のために、かくまで足繁く金田邸へ通うのかと不審を起すならその前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥かし気もなく吐呑して憚からざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声で咎め立てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草である。

 小学生の頃、ぼくは落語をラジオやテープでよく聞いたが、それと同じくらい文章で読んだ(偕成社『少年少女 名作落語』シリーズや興津要編『古典落語』)。

 やりとりが随所で「文章で読んだ時の落語」っぽい。

「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「何だって? Quid aliud est mulier nisi amiciti inimica……こりゃ君羅甸語(ラテンご)じゃないか」

「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」

 他方で、漢語や文語的な言い回しが入ってくる。

若し我を以て天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、若し天地を以て我を律すれば我は則ち陌上の塵のみ。すべからく道え、天地と我と什麼の交渉かある。

 まあ、しかしこの一文は、猫の主人(苦沙弥)が「なかなか意味深長だ」「あっぱれな見識だ」と絶賛するものの実は意味不明な手紙の一節なのだが。

 

 しかし、これは子ども、すなわち中学生が読むにはあまりにも歯ごたえがありすぎる文体ではなかろうか。

 しかも、改めて読んでわかったことだが、この作品には筋らしい筋がない。

 あえていえば登場人物の一人、寒月と金田令嬢・富子との結婚話が、か細い筋となっているのだが、そんな筋はあってないようなものだ。だから何かストーリーの面白さを頼りに読み進めるということができない仕組みになっている。読書会に参加したAさんは「自分は中学時代に読んだつもりでいたが、今回改めて読んで、どうも1章で挫折していたということがわかった」と告白した。ぼくと同じである。

 Aさんは「これは高校生…いや大学生でないと難しいかも」と言った。

 Aさんがいうには「そもそもここに出てくる登場人物は、なんだか50とか60のような年齢に思えるのだが、たかだか20代、30代、ぜんぶ私たちより年下だ。苦沙弥は漱石だろうけど、その人は無聊を囲って鬱々としていてそういう悩みは20代、30代の悩みだと思う。だからこういう小説は本当は大学生とか、20代が読むほうがいいはずだ」と言った。

 なるほどぼくが手にしたのは「子どもとおとなのための偕成社文庫」であり、全国学図書館協議会選定図書の一つとしての『猫』であった。ぼくも、この小説を中学生に読ませるというのは乱暴だと思った。自分も挫折しているし。

 ぼくなどは、「こういう時代の女性観、子ども観、用語感覚に触れさせることに激怒するような、ポリティカル・コレクトネスに目を光らせている人」がいるんじゃないかとハラハラする。ウソかホントか、「僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」などという話も出てくるし…。(参加者のBさんは「いや、この本の女性観はむしろ当時としてはずいぶんさっぱりしている。ほとんど苦にならなかった」と発言し、Aさんもこれに同調した。)

 『吾輩は猫である』をまず文体として楽しむなら、大人になってからの方がいい。

 ところが、大人になると『吾輩は猫である』は手に取らない。そういうものは、「中学生か高校生の時に読むもの」だとされているからだ。だけど、今回読んでみて、これは大人でこそわかる面白さではなかろうかという思いを強くした。特に、その文体を朗読する味わいは。

 

 中身についてはどうだろうか。

 よくこの作品は「文明批評」だなどと評される。日常が「猫」の目によって、あるいは登場人物たちによってラジカルで意地悪い批判に晒されるからだろう。先ほどあげた愚行権としての煙草などはその一つだ。この種の「批評」はこの作品に無数にあるが、例えば鏡を通じて自分の容姿を把握するということはこんなふうに書かれる。

鏡は己惚れの醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念をもってこれに対する時はこれほど愚物を煽動する道具はない。昔から増上慢をもって己を害し他を損*1うた事蹟の三分の二はたしかに鏡の所作である。仏国革命の当時物好きな御医者さんが改良首きり器械を発明して飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も定めし寝覚のわるい事だろう。しかし自分に愛想の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。妍醜瞭然だ。こんな顔でよくまあ人で候と反りかえって今日まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほど尊とく見える事はない。この自覚性馬鹿の前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は昂然として吾を軽侮嘲笑しているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。主人は鏡を見て己れの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる痘痕の銘くらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心の賤しきを会得する楷梯にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。

 

 こういう観察って、今はブログに行ってしまったんじゃないかと思う。

 例えばこういうブログの文章がある。この記事のタイトルは「押し売りこそが人間」である。

このところ一軒家を買う人が増えているそうだが、セールス対策への意識が薄れていると思われる。コロナが完全になくなったら対面営業が復活するかもしれず、そこは不明瞭だが、インターネットでいろいろと調べられる時代だと、営業マンと顧客の情報格差も縮まってしまうし、コロナ禍を大きな曲がり角として営業職は荼毘に付されるのかもしれない。昭和の頃だと、「さっき刑務所から出てきた」と前口上を述べる押し売りが本当にいた。あと、新聞勧誘員(拡張団)に恫喝されるのは日常茶飯事であった。昔だとそう簡単に警察は来ない。相手が刃物を取り出したとして、それが腹部の表皮を掠める程度では甘く、内臓まで到達したらようやくお巡りさんがやってくる。穏健になった今日では、粗暴性で牙を向いてくる営業は廃れているが、営業マンは面子ををかけて向かってくるのだから、面子を潰さないように苦慮せねばならない。(以下略)

 

 アルテイシアの文章を読んでいるときにもこうした「文明批評み」を感じる(上述のブログ主とは真逆の立場だが)。

先日、性的同意をテーマにした番組の中で、26歳の女性アナウンサーが「女性がリテラシーを高く持てばいい話で、家に行かなければいいだけの話。その人とそういう関係になりたくないのであれば、2人で飲みに行かなければいい」と発言して、ネット上で批判の声が広がった。

私はその言葉の裏に「賢い女は自衛する」「(自衛できないような)バカな女は被害に遭っても仕方ない」というニュアンスを感じて、性被害者をおとしめる発言に怒りを覚えた。

同時に「おじさんウケする言動が染みついてしまったのかな」と痛々しさも感じた。

その女性アナウンサーは、サバサバ系キャラとして人気だそうだ。それ系の女性は「こいつは中身おっさんだから」と褒め言葉のように言われがちだが、それは「名誉男性」という意味である。

男社会で生き残るには「姫」になってチヤホヤされるか、「おっさん」になって同化するかの二択を迫られる。

そうやって出世した女性たちは、後輩からセクハラ相談されても「そんな大げさに騒ぐこと?」「おじさんなんて手のひらで転がせばいいのよ」と返して、困っている女子をさらに追いつめる。

「人間よ、もう止せ、こんな事は」と、我は高村光太郎顔で言いたい。男社会で女が分断されるのは、もう終わりにしようぢゃないか。(以下略)

 

 あるいは、『猫』の登場人物たちが「首縊りの力学」だなどといってくだらないことを大真面目に議論しているのは、『空想科学読本』シリーズを通り越して、日常系ギャグのマンガを思い出す。

togetter.com

 つまり、『猫』の時代には面白かった「文明批評」とか「日常をラジカルに、しかしコミカルに解体する」要素というのは、現代ではブログとかコミックに分解してしまったのではないかと思った。

 だけどこういう評価は、読書会参加者にはあまりウケがよくなかったし、『猫』が好きだという左翼活動家に話をした時も「ええー? もっと『猫』は面白いもんだよ?」と疑問を投げかけられた。

 

 漱石はこのころ鬱状態のようになってしまって、自分を客観視するという、いわば治療的なプロセスとして本作を書いた、みたいな話はよく見た気がする。

 

 結局のところ、この作品とどう向き合えばいいのだろうか。

 児童文学者の佐藤宗子偕成社文庫に解説を載せていて(子どもを対象にして)、まず「あざやかな細部」という話を書いている。

 

話の筋といったものはちっともつかめないけれど、作品のあちこちに出てきた目新しいことばや、こまやかな場面が、意外にくっきりと浮かびあがる——という人が多いのではないかと思います。(p.387)

 

心配することはありません。この『猫』と読者の向きあう姿として、それはむしろ自然な姿とみることができます。(p.388)

 

読み手の人が、自分なりの興味・関心をもってページを開く——、それでじゅうぶん作品とつきあうことができます。(p.389)

 

 ストーリーにこだわらず、気に入った場面を楽しむ。という付き合い方が奨励されている。読書会参加者は大体この点は共通していた。

 こうもある。

そして、どこか気に入った箇所を、口のなかで結構ですからつぶやいてみてください。むずかしい漢語やカタカナ表記の語がまじるから読みにくい、と思われるかもしれませんが、意外にも、声にのり、耳に親しみやすい文章であることに、おどろかされることでしょう。(p.393)

 これも先ほどぼくが文体が小気味いい、朗読して楽しい、といったことに全く合致する。読書会参加者は誰もが今回読んでみてみんな良かったといっている。正しい付き合い方をしてますね、とお墨付きをもらって安心した気分だ。

 

 そういえばBさんは、この小説について「描写がいちいち具体的で、情景がよみがえるかのように書き込まれているのがいい」と言っていた。Bさんがときどき見かける同人小説は全然具体的でなく、独りよがりな決意が語られてチューショー的に終わってしまうのだ、と愚痴っていたのが可笑しかった。

*1:※「爿+戈」、第4水準2-12-83