街づくりの失敗が死傷者を生む可能性

 千葉県で酒に酔ったと疑われる運転のトラックが子どもの列につっこんで、死傷者が出たこの事件で、次のようなニュースが出た。

news.yahoo.co.jp

 この6日付の千葉日報の記事にはこうある。

 八街市は、全域が都市計画法による区域区分がされていない、いわゆる「非線引き自治体」。このため宅地開発の規制が緩く、バブル以降、あちらこちらでミニ開発が進んだ。住宅地が増える一方で、道路整備など交通インフラが追いつかない現状も浮き彫りになっている。

 現場近くの団地もほぼ同時期に造成が始まり、売り出された住宅地だが、本来、開発と合わせて行うべきはずの通学路の安全確保策が結果として行われていなかったことになる。

  記事の見出しが「背景にバブル期以降のまちづくり 規制緩く、ミニ開発続々 通学路の安全対策追いつかず」であるように、ここでは事故が起きた背景に迫っている。

 この種の記事が「酒を飲んで運転した」部分にのみ問題をフォーカスしがちななかで、街の造られ方という背景にまで問題を及ばせて論じられる記事はめったに見ない、というのが、ぼくの素朴な印象である。

 

 事故を「直接の被害者と加害者」のみの構図に矮小化せずに、さらに広く・大きな枠組みから問題を考えさせ、開発や街づくりのリスクにふみこむ、よい記事である。

 

 もしセットになったような報道が十分に多ければ、例えば地域で小さな開発をおこなうとき、住民側に「うーん、でもほら、そんなふうに宅地をちょこちょこ作ったら、お年寄りや子どもが歩道もない道を歩かされて事故に遭うじゃないですか」というような心配が自然に浮かび上がってくるようになるのだろう。「マンション建設」とくれば「日陰にならないか」という意識がセットになるのと同じである。

 そうなれば、対応する業者や行政からも、「大丈夫ですよ。あわせてここに歩道やガードレールを整備しますから」という回答が返ってくることになる。

 社会は健全に回ると思う。

 

 開発はメリットばかりが強調される。デメリットやコストはなかなか知らされない。知らされても、とても抽象的な計算に落とし込まれていて、わかりにくかったりする。事故や事件といった「個人的」にみえる事象が、実は社会の大きな枠組みからおこされていて、個別事件の被害者は実はその枠組みの犠牲者ではないのかという視点は、いつでもおろそかにされる。形をかえた「自己責任」論は、どこにでもひそんでいる。

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 もちろん、反論はありうる。

 「この地域の事故発生率は、実は他の地域とかわらず、特別にリスクが高いとは言えない」というような証拠を示すことだ。まちがった因果や相関と結びつけてはならないというわけである。それはそれで大事な議論である。この記事も、たとえば事故発生率のようなものまで調べて示す、さらなる「深掘り」が必要なのだろう。

 

補足(2021年7月12日)

 より詳しい記事。

www.chibanippo.co.jp