松竹伸幸も「渋沢栄一ドラマなのに江戸時代の終わりを延々と描いている」に違和感

 松竹伸幸渋沢栄一を描いた大河ドラマ「青天を衝け」についての感想を書いている。

ameblo.jp

 

 「感想」というか違和感だな、これは。

 渋沢は「日本資本主義の父」と言われる。しかし、だ。(強調は引用者)

「青天を衝け」は日本資本主義の父が主人公であるにも関わらず、江戸時代の終わりを延々と描いている明治維新につながる時代である。私は明治維新だからといって心が躍るようなことはないのだが、少なくない人にとってはそうではないようだ。

 その理由は「不連続な変化」だろう。江戸時代から明治へという「不連続な変化」は、もともとの状態にしがみつく人々(新撰組とか)を描いても、新しい状態への変化を主導する人々(坂本龍馬とか)を描いても、それだけでドラマチックである。何が正しいのが誤っているかを越えて、不連続さが心を打つ。

 しかし、「青天を衝け」にはそれがあまりない。

 

 ぼくは実は「青天を衝け」を全く視聴していない。

 しかし、伝記マンガを読んで感想を書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 その中で次のように記した。

 Kindleで購入したのだが大政奉還されるのは66%読み進めようやくだった。

 第一国立銀行設立は82%。

 テンポが遅すぎるのでは…? という思いは拭えなかったのだが、その分、渋沢という男の前半生の「定まらなさ」が印象的だった。

 尊王攘夷の倒幕思想・運動に身を投じ、死を覚悟した蜂起を目論見ながら直前で計画を中止。投獄が身近に迫ってくると激しく動揺。投獄された仲間を救うためという口実もあってなのかどうなのかいまひとつ理屈が不明なのだが、一橋慶喜の家臣となり、慶喜の将軍就任と同時に打倒するはずだった幕府の一員、「幕臣」になってしまう…。という人生を数奇と考えればいいのか、見通しのなさと考えればいいのか、時代に翻弄される一個人の運命と考えればいいのか。

 なんで幕府が倒れるまでのところをこんなに長い尺でとったんだろうか? 

 

 松竹と基本的に同じ感想を抱いたのである。

 日本資本主義の父であるにも関わらず、そこではなくて江戸時代から維新にかけてを時間取りすぎなんじゃないかと。

 

 「明治維新の政治ドラマ」として描くというのは、大河ドラマとしてはたとえよくできていたとしても、すでに描いてきた分野のバリアントでしかない。

 しかし、日本資本主義の創生をもし描けたらこれは全く新しい境地ではないのか、という期待が松竹にはあったわけである。これは正しい期待である。

 正しい期待だけど、たぶん裏切られる。

  

 たぶん、維新期の政治史を中心にしたドラマで大半は終わって、資本主義草創期=数多くの会社設立に関与した時代の描写はマッハで過ぎていくよ。

 絶対。これほんと。間違いない。

「世の中興奮することたくさんあるけど、一番興奮するのは渋沢栄一のドラマが維新期の政治史を中心にしたドラマで大半終わっちゃうときだね」

「間違いないね」