80を超える父母が旅行したいと言い出したので宿の手配などした。ぼくは参加せず、父母だけが行ったのである。
帰る日の前日になって「新幹線の切符が取れないか」と電話で依頼された。
それを受けてぼくがネットで取ったものの、予約した新幹線の時間、号車などの確認を、電話だけで父母と行うのが一苦労だった。父母はラインやメールをきちんと扱えないので、電話一本槍なのである。
ぼくが電話口で情報を読み上げ、父がメモをするという作業をした。
予約条件を途中で変えてきたので、一度キャンセルした。これが事態を複雑にさせた。
乗り換えが必要になるのだが、確認して復唱してもらうときに、父は乗り換える前の電車の到着時間をすっ飛ばす。そして、すでにキャンセルした電車の時間を混入させてきた。
「じゃあ復唱してみて」「正解。その通りです」「違います。抜けてます」などのやりとりの末に、予約含めて電話の対応が2時間くらいかかった。
一応伝達は終えたのだが、不安しかない。
結局、宿にメールをしてプリントアウトしたものを父母に渡してもらうことに。二人は無事乗り換えができたようである。やれやれ…。
いまのところ、父母は認知症であるという判定はされていないが、新しいことをインプットできないのは認知症の特徴である。その兆候は少しくらいあるかもしれないと思った。もし認知症であればやってはいけないような、プライドを傷つけかねない確認作業ばかりさせることになった。認知症を描いた久坂部羊の小説『老乱』で、主人公・幸造の息子のパートナー、すなわち「嫁」がやってしまっている対応そっくりのことを、自分がやっているような気がした。
横で電話を聞いていたつれあいから「あんたの伝える情報には、余計な情報が多すぎる」と批判された。こっちはだいぶ情報を精選して伝えた気がしていたが、客観的に見ると相当難しいことをさせていたのかもしれない。
「この前、教えた両手ジャンケン。練習してくれましたか」
曖昧にうなずくと、「じゃあ、やってください。右手がいつも勝つように」と急かす。幸造は両手を握りしめ、ジャンケンしようとするが、手が思うように動かない。
「ぜんぜんダメじゃないですか。ジャンケンの仕方、わかってます?これに勝つのは何ですか」
嫁がグーを突き出す。恐る恐るパーを出す。なぜこんな子ども騙しのようなことをしなければならないのか。
「じゃあ、これは」
次はパーを出す。チョキだとわかっているが、指が震えて形にならない。嫁の表情が険しくなる。早くしないと、またため息を聞かされる。そう思う間もなく、「はあーっ」と露骨なため息を浴びせられた。
「どうしてできないかなぁ。ジャンケンくらい幼稚園の子どもでもできるのに」
(久坂部羊『老乱』朝日文庫、KindleNo.2344-2351)
「人様に迷惑をかけない」ことと「尊厳」は同じか
リモート読書会で久坂部羊の小説『老乱』を読む。
関連して読んだ『マンガ 認知症』の感想は次の通り。
先ほども書いたが、『老乱』は一人の男性が認知症になり、それが進行していく様子と、それをめぐる家族の様子を描いた小説である。
この小説を、読者であるぼくは二つの視点から読んだ。
読書会参加者も、どちらの視点もあった感想が続いたが、印象として、1.の視点に話の重点が置かれた。
認知症になったら人間としての尊厳が失われるのではないか、という問題である。
『マンガ 認知症』の中で、佐藤眞一はこう述べている。
「老い」はプライドとの闘いです
老いて弱くなっていく情けない自分
人生を強く生き抜いてきた誇り高い自分
二つの自分の間で揺れ動き不安がつきまといます
認知症は、この矛盾が劇的に表面化する。
特に、排泄は、その最大の分岐だろう。
前述の 『マンガ 認知症』の中で、佐藤眞一は
認知症になるのが怖いと思っている方たちも
この理由*1が大きいのではないかと
とのべ、この佐藤のセリフの周りに、
- 子どもに迷惑をかけたくない
- プライドを傷つけられたくない
- シモの世話までされたらおしまいだ
というつぶやきを配置している。
ぼくの場合は、セクハラではないのか、と思う。
『老乱』で、認知症になる主人公・幸造が、家にきてくれるヘルパーの女性への性衝動を抑えられなくなる描写の箇所、戦慄しながら読む。
それからしばらくの間、幸造は自分が何をしているのかよくわからなくなった。頭がしびれたようになり、何かに衝き動かされるように家の中を歩きまわった。こんなことをしていいのかという思いが浮かぶが、すぐに消えてしまう。強姦や殺人に駆り立てられる人は、きっと同じようになるのだろう。自分を止められない。破滅に向かっているとわかっていながら、目の前にはまばゆい楽園が待っているように感じるのだ。(久坂部前掲No.2190-2194)
認知症では、前頭葉の機能が障害され、抑制機能が低下する場合がある。
性衝動を抑制していたかつての自分は失われ、性衝動のままに周りの女性にセクハラをするという心配である。
その場合、何よりも女性が深刻な被害に遭うことが最大の問題だ。
同時に、ぼく自身の人格への評価について考える。それが認知症に起因することであっても、「ああ、あれが本当の紙屋の姿なのね」と。
参加者の一人、Aさんは現在知的な職業についているだけに、また、日頃自分の人生を自分で切り開いてきた自負をベースに語っているだけに、この矛盾をひどく恐れていた。
このことにかかわって、Bさんが、自分の知り合いの話をしていた。
Bさんの知り合い、Cさんは、夫が認知症になった。その姿をみて、Cさんは夫が亡くなった後、密かに自死を決意し、2年ほどかけて身辺を整理し、自ら死を選んだという。亡くなった日の午前中に、Cさんは自分の親しい人に渡すためのほうれん草を茹でて、冷蔵庫への収納箇所まで指示してあったという。
このCさんの話は、あまりに衝撃的だった。
Cさんについては個別の事情もあろうから、Cさんの死をぼくが評価することはできない。
しかし一般的な話として、「尊厳を守る」ということが「人様に迷惑をかけない」ということの裏返しとしてある、という問題を考えないわけにはいかなかった。
生きるということは社会に依存して生きるということであり、人様に迷惑をどこかでかけ続けることである。完全な意味での「自立した個人」などというものは存在しない。
そのことを社会観のベースに置く必要がある。
認知症の人の尊厳を具体的にどう考えるか
しかし、認知症という(少なくともぼくにとって)新しい事態に直面してみれば、そのことはもっと具体的に考えられなければならないだろう。
『老乱』では、幸造はいよいよ周囲の状況が判断できないほどに症状が進んでいくのだが、息子夫婦が考えを変えたことで、状況はわからないけども漠然とした安心感に包まれて生活を送ることになる。
今、自分がどこにいるのか。幸造はわからないし、わかろうとも思わない。身体が弱り、自由がきかず、何か困ったことが起こっているようだが、それもどうということはない。ただ静かに時間が流れているだけだ。(久坂部前掲No.4188-4190)
今はいやなことをされることもなく、焦ったり、がんばったり、慌てたりする必要もない。叱られたり、怒鳴られたり、ため息をつかれることもない。ただ言われるがままになっていればいい。それでいいのかどうかもわからないが、みんな笑っているから、きっといいのだろう。今はつらいことも心配も何もない。(同前No.4195-4198)
まず、認知症になる側は、このような地点に自分の尊厳の照準を合わせればいいのではないだろうか。介護する側も、認知症になった人をこのような状態にまで持っていくことが、その人の人権を尊重するということになるのだと思いさだめることである。
『老乱』に出てくる和気という医師が講演でこう述べる。
さあ、ここなんです、認知症介護の一番の問題は。いいですか。介護がうまくいかない最大の原因は、ご家族が認知症を治したいと思うことなんです。(同前No.3477-3491)
健常に「治して」それを尺度に人権を考えるという罠に引っかからないようにするのだ。
読書会では「シモの世話」についても議論になった。
幸造の息子・知之もその配偶者(「嫁」)・雅美も「幸造への恩返し」というつもりで介護と「シモの世話」を考えるようになる。
これはこれで重要な発想だが、読書会参加者からは「介護する家族としてシモの世話は無理だ」「介護される側になったとしてもやはり家族にさせるのは耐えきれない」という声が上がった。
それでいいのだろう。無理に「恩返し」などと思う必要はない。
つまり、ヘルパーや施設という専門家、「社会」の手を、躊躇なく借りるのがいいのだろう。
Bさんから『恍惚の人』との比較が出た。
『恍惚の人』そのものが現代でも十分にリーダビリティの高い小説として賞賛されたが、同時に、息子である夫の役割の大きな違いがその際に注目が集まった。つまり、『恍惚の人』から『老乱』に到るまでにジェンダー平等が推進され、夫が介護に加わり、施設が利用されるようになったという社会の進歩がそこにはある。
こういう読書会の議論を聞いて、また、この小説を読んで、次第次第に認知症になった自分、家族をどう受け入れていくのか、ふさわしい観念やモデルが出来上がっていくのだろうという楽観を得た。もちろん自分自身が学んでいくことを前提としてだが。
リモート読書会、次回は平野啓一郎『本心』と決まった。
*1:排泄の処理を家族にさせるのが自分のプライドを根底から傷つけるということ。