久坂部羊『老乱』をリモート読書会で読むことになったので、それを読んだ後、本作を読み直す。以前読んだことがあったが、問題意識を持って読むと染み通り方が違うなと思った。
『老乱』を読みたいと言ったAさんは「自分では理解できない病気・症状の人の意識が知りたいので、認知症の人の意識を書いた『老乱』を読みたかった」とその動機を語っていた。
それならば、文学としてのそれだけでなく、もっと学問解説的に踏み込んだものを読んだ方がいいのではないかと思い、「そう言えば以前読んだな」と思い出して読み直したのである。
まず、本書は『老乱』で印象を抱いた認知症に対する理解とすこぶる整合的だった。そして、期待通り、それを深めるものだった。したがって単に読書会のためだけでなく、ぼく自身が認知症に対する理解や認識を大いに深めた。
本人がなぜこういう行動に出るのか? への理解の一助として
本書は、佐藤が研究してきた心理学が「本人がなぜこういう行動に出るのか?」ということを解明する学問であり、一見奇行に見えるその理由を知ることで「介護が楽になる鍵」(p.23)だという問題意識で書かれている。
例えば「同じことを何度も聞いてくるのはなぜ?」という章がある。
本書では、短期記憶・長期記憶などの記憶の仕組みが簡単に解説され、認知症は、短期記憶から長期記憶に移行するときに障害が起きてしまい、長期記憶に残らないのだと説明する。だからその場でわかったようにふるまっても、それを覚えていられないのだという。ここで認知症は「覚えられない」、老化は「思い出せない」という(ざっくりとした)違いもわかる。一般の老化は貯蔵はできるが、検索が難しくなる(だからヒントを与えて出てくるような場合はインプット自体はできていることになる)。
そして、何度も聞いてしまうことを、うざがられたり、怒られたりすると、不安を感じてしまう。厄介なことに、不安や不快な感情は海馬・扁桃体の働きで、認知症であっても残る、というか残りやすいのだという。その不安から何度も聞くし、聞いたことが安心感につながるので、聞く行為を繰り返してしまう。逆に拒絶されるとそれが不安→精神的孤立につながっていく。
また、デタラメな話が出てくる原因の一つに、妄想などもあるが、再構成の問題もある。
例えば、誰かに会って聞いた話があるとしよう。記憶の情報を取り出すとき、一般の人はその話をそのまま全て取り出すのではなく、再構成をするのだという。いわば必要な部分・本質と思われる要素だけを取り出して再構成する。
認知症はこの再構成が苦手になってしまう。
したがって、近所の奥さんと道で会って話をしたのに、和尚さんがお墓まいりに来いと言っていたという情報になってしまう。近所の奥さんの話の中に例えば「お彼岸」「お供え」などの話題があった場合、そこから連想して勝手な再構成をしてしまうのである。
佐藤は、ケアとコントロールと問題を取り上げて、認知症だけでなく、介護一般にも通じるとしている。相手の意図がわからない、理解不能な怪物のように思ってしまうと、指示をしてコントロールするしかなくなる。
しかし、相手の意図や、そう思う機序(メカニズム)・理路(ロジック)がわかると、相手の意図を汲んで別のところに導いたり、受け止めたりすることができるからである。
これは介護だけでなく、子育てにも通じることだろう。
中2の娘は「お父さん、これどういう意味?」と言って英語の問題を聞いてくる。like にはingしか続かないと思っているので、toもあるんだよと教えてると、怒り出したり、ふてくされたり、面倒臭がったりする。こちらが教科書や辞書で解説しようとすると、無視する。しつこく聞かせようとするとキレる。
娘は最近期末テスト前に、「英語がわからない」「間に合わない」と言って、深夜にぼくの前で泣いたことがある。中学教員を経験していた友人に話したら「そりゃまた中学女子にしては素直な姿を親の前でさらけ出しましたね…」とある意味で感心していた。
つまり、娘は英語の理解が遅れていることに焦燥があるんだとそのとき初めて認識した。どうでもいいとは思っていないのである。
そういう目で先ほどのlikeをめぐる「奇行」と言おうか「キレる若者現象」と言おうか、そういう行動を見てみると、「わからない自分に向き合いたくない」「親にその姿を見せたくない」「でもわからないから聞きたい」という矛盾・葛藤の中にいて、そのせいなのかなと思える。
キレる娘に不快な思いはするけども、「こいつも苦しいんだな」ともう少し理解はできるのである。
おそらくそれと同じであろう。
ケアされる人の中で起きているメカニズムを理解することで、ケアするぼくの不快感は消滅はしないけども、軽減されるのである。
哲学的な問い
本書は老い・認知症が矛盾のプロセスであること、その矛盾を生きる中で人間が社会的にどう成り立っているのかを突きつけることを明らかにしている。
「矛盾のプロセス」というのは、
「老い」はプライドとの闘いです
老いて弱くなっていく情けない自分
人生を強く生き抜いてきた誇り高い自分
二つの自分の間で揺れ動き不安がつきまといます
という意味である。
「老いて弱くなっていく情けない自分」を受容するプロセスはすでにいろんな本が出ているとは思うのだが、ぼくなどは全く心得がない。
社会的な活動はまだ下降しているように思えない。体力は減退しているが、それは全くプライドに関わってこない(日常生活が特に不都合なく送れていることが大きいのだろう)。しかし、容姿、セックス、性欲みたいなものは減退を感じ、時々は強く意識する。すでにそのせめぎ合いは始まっているのである。
本来自分というものは
「時間」と「空間」と「他者に認められていること」で成り立ちます
ところが認知症になると
自身が抱いている自画像が崩壊していきます
わからない不安の中で生きなくてはいけないんですよね
これは「面倒見がいい働き者のトメちゃん」だったのに、「何もできないでしょ」「いいから座ってて」と言われてしまうことで「自分」がわからなくなっていくという意味である。人間がどうやって成り立っているのかを逆に考えさせる、哲学的な事態だと言える。
時間も空間もわからなくなって、陳述記憶(文字にできる記憶)も弱くなっていく中で、不快・不安/快楽・安心というような非陳述記憶は残る。だとすれば、介護する側は、相手がなぜそういう意識を持つのかというメカニズムを知って、怒り・苛立ち・否定などをせず、笑顔の中で相手を迎え、出来るだけ肯定し、小さな役割(社会的居場所)を返報してもらい、「よくわからないけど安心してもらえる環境」で生きてもらうようにすることが、本人にとっても周囲にとっても幸せなのではないか、というのが実践的結論だと受け取った。これは『老乱』と全く同じである。
本書は、認知症を知識としてわかりやすく示し、実践として無理のない、自然な結論を得られる(きれいごとにも、露悪にもブレない)本だという印象を受けた。
マンガという表現様式への佐藤の評価
「あとがき」で佐藤は「マンガの内包する描写力に感動した」(p.273)と述べている。
『マンガ 認知症』は、ただ私の研究を読みやすくした、というものとはまったく違うものでした。
もちろん、ニコさんのマンガ家としての才能の力でもあるのですが、私は表現様式としてのマンガに敬意を抱いたように思います。各コマの主題に添えられている副題としての婆ル〔ニコの祖母のこと〕や母ル〔ニコの母のこと〕、その他の登場人物や動物たちまでもが、読者が主題について学習したり、考えようとするときの思考のあり方を大いに揺さぶるのです。(p.273-274)
こういうふうにマンガという表現様式そのものへの敬意を示すというのは珍しいことだと思う。こういう役割分担をしたとき、マンガを「添え物程度」の扱いをする人も少なくないだろう。
それが通り一遍の理解でないことは、佐藤自身の描かれ方についての次のような理解からもわかる。
また、登場人物として私自身があのように描かれるとは思ってもみませんでしたが、確かに私自身でした。私の友人や学生たちはみな、マンガに描かれている私と実物の私は「全然違う」と言っています。しかし、私自身は、マンガに描かれている私が、私の中に確かに存在していることを知っています。それを見抜いたニコさんは、本当にすごい人です。(p.274)
本書は解説・取材マンガとしての可能性もまた拓いたと言える。