党内の自由な議論を根拠に処分されるべきではない

 立憲民主党本多平直議員の問題。

https://digital.asahi.com/articles/ASP7F3JHWP7FUTFK008.html

本多氏は5月、刑法で性行為が一律禁止される年齢(性交同意年齢)を現行の「13歳未満」から引き上げることを議論する党の「性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム(WT)」に出席。外部から招いた有識者に対し、「例えば50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることになる。それはおかしい」と発言した。

 この話は、いくつもの問題が重なっている、というか未整理のまま積み重なって議論されてしまっている。

 特に、立憲民主党によって設置された第三者機関「ハラスメント防止対策委員会」が本多議員や関係者にヒアリングしてまとめた調査報告書をぼくも読んだが、最終的に発言とその扱いをめぐる問題ではなく、「毎回、高圧的に語気を強めて意見したり、考え方を否定し、心身共に疲労した」など、本多議員によるハラスメントを問題の中心に置いている。

 もしハラスメンがあったとすればそれは処分されるべきだ。

 そしてそれ自体にはそれほど複雑な問題はない。ぼくがここで何か新たに問題を解明すべく、記事にするほどではないのである。

 しかしもともとは、「50歳と14歳が同意性交して捕まるのはおかしい」という本多議員の党内のワーキングチームでの議論が厳しい批判を呼んだもので、「党内議論として行われた言論で組織的処分を受けるべきなのか」という問題として立てられていたはずである。

 だから、ぼくは、本多議員の問題としてではなく、政党はどのように議論をすべきなのかという一般論として論じたい。

 

一般論として考える「政党内部の議論」

 今のところのぼくの考えは、政党内部の議論では自由な発言を保障すべきだ、というものだ。(境界線上の問題や、対抗意見は後で検討する。)

 政綱や綱領、理念に反する、つまりそれを変えることも含めて議論されていい。自由に議論できない集団では発展がないからである。だから、自由であるべき発言を根拠に組織的な処分、つまり罰を与えてはいけない。

 そして、それはあくまで内部議論とすべきである。

 近代政党として統一した見解を国民に示すのが責任だと思うからだ。

 党員Aは「消費税を上げるべきだ」といい、党員Bは「消費税は現状を維持すべきだ」と言い、党員Cは「消費税を下げるべきだ」と言うのでは国民はどう判断していいかわからなくなるではないか。

 これは逆にいうと、内部議論だから非公開ということになる。

 そして、非公開であるはずのものが漏れてしまうことがある。

 その場合、例えばその漏れてしまった意見・政策案に反対の一般市民(当該政党の外の人たち)は抗議や批判の声を上げることになる。これは、市民の言論活動としては健全なことである。例えば消費税減税を訴えている政党において、党内部の会議で「消費税を上げる政策に変えるべきだ」と発言したD議員がいたとして、中小業者の団体が抗議するのは当然だし「Dについては、議員を辞めさせろ」という、Dの地位にまで及んだ要求をするのは全く自然のことわりである(これは漏れてしまった=公にされてしまった以上、当該政党ではない他の政党からそういう意見が上がることも「自然」だと言える)。

 しかし、それでも党の指導部は、やはりDの処分をすべきではないだろう。

 「消費税は上げてもいい」と思っているような「レベル」の議員がいること自体が、「消費税減税」で売っているその政党のイメージダウンになることは、誰でもわかる。火消しのためにDを処分してしまいたくなる。「あ、もうDは飛ばしましたんで。もうあんなこと言うような奴は今はおりません。ビックリさせましたね。ええ、これからは大丈夫でございます」。

 だが、党の指導部は党内の言論環境の管理責任者である。「政策論議のために自由にモノを言っていいよ」と約束しながら、漏れてしまったからDを切るというのは、おかしい。むしろ漏れてしまった責任を党指導部が負わなければならないだろう。消費税減税が党のスタンスだと念を押し、理解を求めつつ、自由な政策議論をすることでよりよい環境を中小業者のためにも準備できるんだということを、市民に訴えるしかない。

 指導部がその責任を放棄してはいけない。

 ぼくがこの記事で言いたいことの基本はこれで終わりである。

 以下は反論への考察、もしくは付属的な議論。

 

政党の議論はできるだけ公開すべきという意見について

 内部議論を自由だけど非公開にするのは、政党のあり方としてこれは古臭いのではないか、という議論はありうる。

 議論は全て(もしくは出来るだけ)公開すべきであり、個々の党員・議員は党の決定に反する意見であっても一般社会で自由に言ってよい、とする組織のあり方だ。

 派閥や中央・地方での違いをわざと公開して、グラデーションの支持を得ていくという戦略をとる。その政党の中央本部は消費税を上げる政策を持っているが、地方支部は地方議会で消費税を下げる意見書に賛成したりするようなことは、普通によくある。その方が国民の意見がキメ細かく反映できるのではないかという議論はなくはないだろう。

 ただし、そのあり方になれば、なおいっそう、何かの意見を表明したことをもって、政党が個々の党員や議員を処分することはできなくなるだろう。

 そして、その政党は結局消費税を上げたいのか、下げたいのか、よくわからなくなってしまう。党の本部としては消費税を下げるということが公式政策です、とはいうものの、個々の議員がバラバラに発言していたのでは、その「公式政策」はあまり信用できなくなる。

 

 まあ、このような政党のあり方が魅力的なのもわかる。

 現在、東京オリンピックパラリンピックの開催をめぐって自民党公明党が開催に固執していることが大きな問題になっている。まさに「固執」であって、これだけの世論があり、現実がありながら、「開催」から動こうとしない。

 そこで世論としては、反対運動や抗議運動を続けるのだが、その中でもし政権党の党内議論のようなものが可視化されて、本部の決定に逆らって「私は中止した方がいいと思っている」と言いだす議員が出て、それが見えた方が、民主主義的に健全に感じるはずだ。

 

 政党が自分の政策に反する意見をどう受け止めているか、そのことを市民にどうわかりやすく表現し可視化させるのか、という問題である。これは「政党政治が機能していない」という不信を招きかねないので、結構大きな問題だとぼくは思う。政党はこの課題にきちんと向き合う必要がある。

 現時点では、「反対意見にていねいに反論する・応える」ということでその課題に応えられるのではないか、とぼくは考えている。説明責任というやつである。

 反対意見の論点に応えることによって、本体の政策はより豊かになっていくはずである。もしくは多面的になっていくはずである。そのやりとりのプロセスを見て、国民・市民の意見の反映と熟議の深まりを感じてもらうしかない。

 消費税減税派の政党が「消費税を上げるべきだ」という意見を受けたら、財源についての考えを示すことで、政策全体が豊かになる。「消費税のような庶民増税ではなく、大企業や富裕層への課税強化をすべきだ」という政策で豊かにする。それでさらに批判が来ればそれに対応した政策に発展する…というような循環である。

 

 共産党は2010年の参院選で後退し、その時、消費税増税反対の論戦があんまりよくなかったという反省をして、

その大きな原因の一つは、「生活からいえば反対、でも…」という人々に対して、「消費税増税反対」の主張と一体に、「政治をこう変える」というわが党の国民要求にもとづく建設的な提案を押し出すことが、弱かったことにありました。

とくに菅首相の「消費税10%」発言以降の論戦は、「消費税増税反対」が前面に押し出される一方で、国民の新しい政治への探求にこたえ、展望をさししめす建設的な提案は、語ってはいたものの、事実上後景に追いやられる結果となりました。

ということで、どういう課税や財源、経済政策にすべきかというプランをそのあと打ち出したのである。

 このプランがいいかどうかは措くとして、そういう弁証法的な発展といおうか、世論を受け止めた反省の相互作用で政策を豊かにしていくというのが、今のところ近代政党が世論を可視化する道ではないだろうか。

 これはもう10年も前の話で(そこに出てくる「菅首相」は「かん首相」のことである)、今ではSNSが発達しているから、一つ一つの反対意見に即応的に、より丁寧に応えていくことは可能である。まあ、現実のツイッターが往々にして「罵詈雑言合戦」の場になって、建設的な議論にはなりにくいという批判はあろうが、やろうと思えば可能だということだ。

 

党内意見で「人を傷つける」発言はしてもいいのか?

 党内議論は非公開だとしよう。

 しかし、その党内議論で、「人を傷つける」発言はしていいのだろうか。

 「その発言は私が傷つきます」と言えばわかってもらえるというのが常識的な市民間のやり取りである。

 だが、そうならないシチュエーションが組織内といえども生じるのが事実だ。

 上司・部下の間のパワハラ

 仲の悪い同僚からの名誉毀損

 こういったことは、一般社会でも言論の自由に制限を加えられる。これに準拠するのがよかろう。その程度には制限されるのである。

 逆にいえば単に「私が傷つくから」という理由だけでは、発言を制限できないとも言える。例えば「死刑廃止という政策を採用すべきだ」という意見は、「私の親族に酷く殺された被害者がいます。『死刑をやめろ』なんて、私が傷つきます。そんな意見を言うのはやめてください」という意見で封じられるべきかといえば、封じられるべきではないからである(その人に配慮はすべきだが)。

 「私が傷ついた」ということはどんな言論にでも適用されてしまうので、事実上無基準であり、それを根拠に言論を制限してはならない。

 一般社会で言論を差し止められるほどでないものは、「自由」に発言する権利があるといえよう。

 軍隊を特殊社会と描いた野間宏『真空地帯』に対して、軍隊は一般社会との地続きであることを強く意識した大西巨人神聖喜劇』で、主人公・東堂太郎は、自分に対しての上官について、さらに上の上官に向かって発言するとき敬称を省くのは、一般の会社でよその会社の人に「A専務はご出張中です」と言わないのに似ているという例を持ち出して、「軍隊内務書」を使い次のように言う。

「内務書」の「綱領」十一「兵営生活ハ軍隊成立ノ要義ト戦時ノ要求トニ基ヅキタル特殊ノ境涯ナリト雖モ社会ノ道義ト個人ノ操守トニ至リテハ軍隊ニ在ルガ為ノ趨舎ヲ異ニスルコトナシ」はここにも深くかかわっているにちがいありません

 一般社会と同じ程度に社会道義を守ってもらうのである。

 そして、それは組織内のルールとなり得るし、それに反した場合は処分の対象になることはあろう。

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 なお、ぼくは本多議員の意見には反対であり、性交同意年齢の引き上げに賛成する。