「スペリオール」2020年10月23日号をぼーっと読む

 「ビッグコミックスペリオール」2020年10月23日号を読む。

 

 

 ぼーっと。

 一応全部読む。

 が、個人的にいま食いつきが一番あるのは、久部緑郎・河合単「らーめん再遊記」である。ラーメン経営を極めた芹沢が「お忍び」で他の小さなラーメン店のバイトに入るという設定。

 

らーめん再遊記

 今号は、味のダメな創作ラーメンを芹沢が食わされるのと、味としては結構いけるけど、経営的にそんなことをやっていていいのかということを内心で辛辣に芹沢が批評する回である。

 

 

 後者の、「中小経営者とかスタートアップにありがちな身内のお世辞と内輪ウケ」に対して芹沢が吐く毒舌がとりわけ痺れる。

 「実はすごい人がお忍びで現場に潜り込んでいる」というのは、「水戸黄門」以来のパターンなのかもしれないけど、「水戸黄門」はあまりにもパターン化してしまったし、「水戸黄門」なら水戸光圀がそこで口にすることもありきたりの、通俗道徳であって、光圀が

この女も何をヘラヘラ笑っている!?

お前の恋人の店は、このままだと潰れるんだぞ!?

とか生々しい批判をするわけでもない。

 かといって、「ぶっこみジャパニーズ」みたいな、予定調和かつ「日本文化スゲエ」(異文化ディス)的浅薄さも辟易する。

 「らーめん再遊記」における芹沢はそうではない。

 芹沢のディスを聞きたい。

 今号のような鋭い悪意をまさに読みたかったし、今後もぜひ読みたいのである。

 

ボクらはみんな生きてゆく!

 アキヤマヒデキ「ボクらはみんな生きてゆく!」も率先して読む。

 化学物質過敏症のパートナーとの生活を描いた『かびんのつま』は、正直引いたのだが、しかし、本人の主観で世界を構成するとここまで世界は汚染された凄まじい・生きにくいものなのかと、ある種の好奇心で読んでいた。

 

 

 「ボクらはみんな生きてゆく!」は、主人公が田舎での生活を始める話だが、今農作物を荒らすシカを駆除するために、免許を取得しようとしている。

 シカを撲殺しようとするがなかなか一撃で殺せずに、何度も何度も叩いてやっと死なせるという、まことにむごい様が描かれている。急所を知らない上に、非力なのである。自然に対して技術的な意味でダメさが、なんだかぼくによく似ていて他人事ではないと思った。

 今回は箱罠にかかったシカを刺殺するシーン。シロウト的な目線がとてもいい。

 

山で暮らす男

 60歳の新人という。ヤングスペリオール新人賞。

 絵柄は花輪和一を粗くしたような感じ。

 面白くはあったが、これ1作だけではなんとも言えない。もう少しこの人の作品を読んでみたい。

 

大人の青春くん

 キレイな女性より、「ムチムチした巨乳の色白… 顔ジミ目のコに… ドキドキした… なんかエロいなぁ…」と内語したのち、「オレのシュミも変わったなあ…」としみじみ酒を飲む年配男性。

 即座に「ワンチャンあると思っただけでしょ。」とツッコむ女性。

 「なんかエロいなぁ…」っていうのが、自分は単純なものにはもう飽きてしまったんだ、目が肥えて常人ではわからない萌えや審美が自分に育っちゃってるんだ的な全ての「オタク的な造形の深さ」を暗示しているようであり、それを「ワンチャンあると思っただけでしょ。」というジェンダー的なイデオロギー暴露で全部ひっくり返してしまう「身もふたもなさ」が好き。

 なんか俺自身がすっごく傷ついた。

「文化はぜいたく品」という気持ち

 日本コリア協会・福岡の「日本とコリア」240号(10月1日号)に、「これでいいのかニッポン!」というコーナーがあり、「『文化はぜいたく品』という気持ち」という一文を寄稿しました。まあ、エッセイです。

 

 コロナで文化芸術に支援することは「ぜいたく」かどうかを考えています。

 そのエッセイでは3つくらいの話題を扱っていますが、そのうちの一つは、憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の「文化」って、政府の文化施策、例えば、文化芸術基本法の第2条に定める「文化芸術を想像し、享受することが人々の生まれながらの権利」という規定の「文化」と同じだろうかということについて書いています。

 

 このことはあまり深く考えたことはありませんでしたが、静岡文化芸術大学の中村美帆・准教授が「日本国憲法第25条『文化』概念の研究―文化権(cultural right)との関連性」という論文で考究していることを知りました。

 この論文は、「法学的なアプローチ」というより「憲法成立に至る思想的、歴史的背景」に力点をおいているものです。つまり、立法過程などを詳しく探求しています。その際に、25条の立役者であった法学者・鈴木義男(社会党衆院議員)がどのような考えをしていたかにぼくは関心を持ちました。

 結局、25条の「文化」と、文化施策でいうところの「文化」の概念は重なるというのが中村准教授の結論だったわけですが。

 ぜひお読みください。

 また、同誌には今後ちょくちょく書かせていただくと思います。

シーナ・アイエンガー『選択の科学』

 今度のリモート読書会で取り上げたのは、シーナ・アイエンガー『選択の科学』(文春文庫、櫻井祐子訳)である。

 

  アイエンガーの「研究のうちで、もっとも人口に膾炙しているのが、『ジャムの研究』だ」(p.260)。ジャムのような商品は選択肢が多いほど購入率が上がるように思われるが、その思い込みを覆すのである。ぼくもこの本を読む前に、テレビで司会者が話しているのを聞いたことがある。

 

 一読した時、正直この本をどう扱っていいのか、よくわからなかった。

 「選択に関する心理学的な実験で、ジャムの研究のような面白いエピソードがたくさんある」——こういうふうにまとめてしまうこともできる。

公選職員は人口全体の平均に比べて身長は約一〇センチ高く、禿げでない確率も高いことが示されている。これは政治の世界に限ったことではない。(p.250)

とか。

〔寝坊の常習犯がアラームのスヌーズ・ボタンを押さないための負のインセンティブとして*1〕メーカーでは、最大限の効果を得るために、自分の嫌悪する団体(アンチ・チャリティ)を登録することを推奨している。たとえば銃規制法強化の支持者なら全米ライフル協会(NRA)、クローゼットが毛皮のコートで一杯の人なら動物愛護団体(PETA)といった具合だ。(p.366)

とか。

 まあ、実際、読書会としてその部分が盛り上がらなかったといえば嘘になる。

 訳者は、この本の「あとがき」で、この中身が「白熱教室」としてNHKで放映され反響が大きかった事実をとりあげて、なぜ日本人の心をとらえたのかを3つで簡潔に提示している。

  1. 選択のもつ力へのあらためての認識。
  2. 賢明な選択をするための具体的方法論が示された。
  3. 選択は自ら切り拓くものだという気づき。

だというのである。まったくわからないわけではないけど、ぼくにはこのまとめ方はあまりピンとこなかった。

 

 それで2回目を読んでみて、あらためて思ったのは、アイエンガーが「批判」しているのは、アングロサクソン的な、素朴かつ無垢な「選択の自由」だということだった。

 「アングロサクソン的な、素朴かつ無垢な『選択の自由』」という言葉は、アイエンガーが使っているものではない。ぼくの造語である。それは何か。つまり、個人が独立して(=孤立して)なんの影響も受けずに選んだことこそ、まっさらな自由意思であり、尊いもので、しかもそれは、選択肢が多ければ多いほど、よりよい選択ができる、という考えだ。

 しかし、アイエンガーは、これを批判する。

 第2講「集団のためか、個人のためか」は、結婚について、個人の意思による恋愛結婚を尊ぶ文化集団と、集団や親が「許嫁」のようにして決めそれに従う文化集団との比較を行っている。現代日本にいるぼくらとしては、かつて日本にあったような後者のような決め方には怖気がするようであるが、アイエンガーは幸福を感じる度合いやその後の夫婦生活、相互の感情などを紹介し、必ずしも前者が普遍的で優れているわけではないことを示す。

 つまり独立した意思決定は、それを尊ぶ文化の文脈の中ではまさに尊いものなのだが、では社会が違ったり、その後の幸福感を考慮したりすれば、相対化されてしまう。

 例えば、ぼくがこの話を聞いて思ったのは、「選択できない親元で、子どもが暮らすこと」についてだった。先進国・日本にいるぼくらは、ふつう、子どもとして生まれた際に、親を選ぶことができない。どんなレベルの親に育てられるのかは、選択できないのだ。考えてみるとそれはとてもおぞましいことではないのか?

 「えっ、その子を産んだ親がずっと育てるんですか? 20年も? チェンジできない? はあ…。それはまたなんというか…大変ですな」という異文化の人がいても不思議ではない。「私たちの社会では、子どもたちは社会保育院に預けられて、貧困や暴力の心配なく、みんなで同じ条件下で育ちます。そして、科学的で専門的な保育・教育を受けるのです。はい? 無条件の愛? 愛ですか。うーん……。まあ、仏教のような宗教でも愛には否定的ですよね。迷妄や執着を生む、って。愛のように極度に偏執的なものが無条件であって、何かいいことがありますかね?」

 「結婚は親が決める」という価値観は「子育ては親が行う」という価値観とそう隔たりがあるものではない、ということだ。

 

 この問題はいくつもの問題に分かれていく分岐点にある問題で、

  • 社会や集団の中で規定される自分。「孤立した決定」というものはフェイクであって、存在しない。
  • 「とにかく自由な個人の選択」という古典的なリベラリズムは、売春や自殺の問題に見られるように、内容の良さを保証しない。
  • かといって「割礼をされるのも、その地域で暮らす人にとっては幸せなのだ」というような主張、普遍的な人権や民主主義を否定する文化相対主義に道理が果たしてあるのか。

などに発展していく。

 

 第3〜5講は「『強制』された選択」「選択を左右するもの」「選択は創られる」で、個人の自由意思に基づくはずの選択は、実は何かによって強制されていたり、思わぬものに左右されていたり、あるいは意識的に創られた風潮の中で「自発」的に従っていたりするのだという指摘である。

 選択の際に、社会や自然(人間の心理現象を含む)からの様々な制約が働いて、選択を左右する。その制約を変えようではないかといえばマルクス主義的であるが、アイエンガーはそこまでは言わない。そのような制約が働いていることをよく認識しようぜ、と言うのだ。

 ぼくがこの辺りを読んでまず思い出したのは、選挙である。選挙というものは、「個人の自由意思に基づく選択」がまっさらな形で実現されるという擬制である。しかし、実際には、様々な制約が働いての投票行動となる。

 

 第6講「豊富な選択肢は必ずしも利益にならない」は、冒頭に挙げたジャムの研究のようなケースである。

 しかし、これはアマゾンの「ロングテール」のような実感と矛盾するのではないか、と思うが、アイエンガーはこの問題を「自分が探しているものがはっきりわかっている場合」(p.277)、「ほかとはっきり区別がつく商品の場合」(p.278)のような条件付きのケースだとしている。逆にいえば「選択肢が多いほどいい」ということを完全否定しているわけではない。

 

 第7講「選択の代償」は、個人の選択があまりにも重い負荷をかけてしまう場合である。子どもの延命治療について、完全に自分で選択をしたアメリカ人と、専門家(医師)の判断を参考にして自分で選択をしたフランス人との違いを示し、前者はいつまでも選択の結果に悩む人が多いのに、後者は子どもとの時間を自分の中にきちんと仕舞い込めるなど納得している人が多い。

 ここでも個人の孤立した自由な選択は批判を受けている。

 

 そしてアイエンガーは最後に「シジフォスの神話」で締めくくる。

 巨石を頂上に上げるという苦行を永遠に課せられたシジフォスの神話を取り出したカミュを引いて、アイエンガーは人生が無数の選択というシジフォスのような業を課せられていることを示す。

もし未来がすでに決まっているなら、選択にはほとんど価値がなくなる。だが選択という複雑なツールだけを武器に、この不確実な未来に立ち向かうのは、わくわくすると同時に、怖いことでもある。(p.379)

 ここには、自由と必然性についての古典的なジレンマがある。

 アングロサクソン的な完全孤立の選択の自由においては、選択は偶然に満ちた個人的な行為となる。逆に、選択が自然と社会の法則で全て制約されているなら、選択は無価値になる。

 アイエンガーの本書は「選ぶというアート」が原題である。

 制約が一定ありつつも、それを認識して一つの作品のように組み立てていく、というのがアイエンガーの選択観だ。完全な自由でもなく必然や運命でもない。しかし、出来上がった作品は個人の意思に基づきながら、これしかないという必然とロジックに満ちている、というものだろう。

 これは戦後主体性論争(簡単にいえば、マルクス主義的にいえば歴史は社会発展の法則だから、放っておいていいのか、それとも個人が主体的に関わることでなんか変わるのか、という問題)の一部と重なる。ぼくがイメージするマルクス主義的な人生観に近いと思った。

 

*1:引用者注。

『こわい顔じゃ伝わらないわよ』『二月の勝者』

「勉強が全然楽しくない」と泣く

 田舎の中学校とはいえ、自分が「優等生」であったものだから、自分の物差しで子どもを測ってしまう。定期考査で平均点とか取ってくると、正直がっかりする。しかも全教科そんな具合だからなおさらがっかりする。点数亡者めと言われて仕方がないが、ぼくの心に一旦こういうシミができてしまうのは、本当にできてしまうのだから仕方がない。おくびにも出さないけど。

 コロナによる長い臨時休校の後に中学に入学した娘は猛スピードの授業と大量の宿題に音を上げ、泣いたり、学校に行かなかったり、遅刻したりしている。この9月末、今でもそうである。平均して週に1日くらいは休む。毎日遅刻して1時間目の途中くらいから行く。宿題はためにためて、それでも泣きながら、どうだろう、8割くらいはやっている。

 仲の良い友達は数人いて、同じ部活をやっている。PCでLINEをやり、YouTubeをしながら横でやりとりしている。

 しかし、娘は「学校が楽しくない」という。そして「勉強が全然楽しくない」ともいう。ときどきそう言って泣く。さっきもそう言って泣いていた。本当に「学校が楽しくない」「勉強が全然楽しくない」「この先楽しいことがあるとも思えない」というフレーズで泣いているのである。何か丸めたり要約しているのではない。

 勉強ができたぼくとしては、そして学ぶことは基本的に楽しいと思っているぼくにとって、娘が学ぶことがつらいと言って泣いていることは、本当につらい。

 先ごろ自主的な夜間中学校をやっている先生たちの話を聞き、『夜間中学へようこそ』(コミック)を読み返し、学ぶことの喜びのようなものを、涙して聞いたり読んだりしただけに、“勉強が苦痛だ”と泣き叫ぶ自分の子どもに戸惑うばかりである。

 

夜間中学へようこそ (アクションコミックス)

夜間中学へようこそ (アクションコミックス)

 

 

担任の回答にショック

 一度担任にまじめに相談したことがある。

 娘がこのように言っているのですが、何かアドバイスがありますか、と。手紙で簡単に質問していたから、電話がかかってきて、明らかに戸惑ったふうで「そうですねえ…うーん…ワーク(問題集)を少しずつ…例えば毎日1ページ…うーん…やることですかね…」と答えた。

 ちょっとショックだった。これはもう相談してもダメだと思った

 この教育条件下だから、忙しいとか、個々の子どもに手をかけている暇がないとか、そういうのはわかる。しかし、「今は時間がないし、条件がないんだけど、本当はこんなこととかあんなことをやって、勉強を楽しくしたいと思っている」とかそういう専門職としての思いが聞けたり、ひょっとしたら具体的なアドバイスが聞けたりするかと思った。だけど、返ってきたのは、本当にただ課題をやらせることしか頭になくて、ページ数と期限をつけて子どもに指示するだけで、そんなのは俺でもできるという思いしか残らなかった。

 娘は娘で、よくわからない。

 宿題の量が多いのか少ないのか、親として客観的な事実を知りたいのだが、期限と範囲を聞いても全体像を示さない。わからない。娘は「『1ページノート』(毎日自分で課題を決めてなんでもいいから埋めるノート)とワークを1ページを毎日やれば終わるんだよ」と言うのだが、主要5教科あるのに「ワークを1ページ」などというヌルい宿題を中学が出すのだろうかとぼくは不審を起こし、娘に「本当にそれだけ?」と何度も念押しするが、娘はそれしか答えないので、信用して進行を見ていたら、毎日、娘は雑に1ページノートとワークを終えて長時間PCをやっている。

 ところが定期テスト間際になって、できていない課題が莫大な借金のように残り、本人は「できていない」「間に合わない」とすすり泣くのである。やはり、宿題は実際にはもっとたくさんあったのだ。生活相談に来た困窮者に「もう他に借金はありませんか?」と聞くと、相談者は「ありません!」と断言するが、実はもっと借金を抱えていたりする。なんで言わない。あんな感じだ。

 PCを長時間しているのがいけないのか、と思って、本人と話し合って制限したが、PCが使えないからといって勉強をするわけではない。(PCをしない=勉強をする、というのではないことはわかったので、今はあまり制限をかけていないが、晩以降どうだろう毎日4〜5時間していると思う。勉強をするかどうかとは別に、体力と睡眠を奪うので、話し合って再度ルールを決めて制限をかけるようにはしたい。)

 

なんで「教えて」って言われて教えたら不機嫌になるのか

 結局娘に事情や情報は聞き出すけど、過干渉になることをぼくは恐れるので、PC規制以外は勉強について何か娘と取り決めをしたりすることはしなかった。

 娘が「これ教えて」と言えば教える。しかし不思議なもので、数学などを「教えて」というくせに、1問教えるだけで途端に不機嫌になって投げ出すのである。なんだそりゃとこっちは呆れる。しかし、中学教師経験のある友人が言うには「それは本当に教えてもらいたいんだけど、『わからない・情けない自分』がたちまち現れて、それを親にじっくり見られて心底恥ずかしいという思いがすぐに襲ってくる、っていうすごく理不尽な状況だと思いますよ」と言っていた。納得できる説明であった。

 それで英語などは、テスト前日に、まともに単語の綴りも覚えていないし、文法もでたらめであったので、「これは(点数が)一桁台になるな…」と覚悟していた。

 しかし、英語は平均点より少し悪い程度で、こっちがびっくりした。あれで? どうして…?

 そういう日頃のずさんな様子を見ていると、総じて平均点を取ってきたのは、大いなる前進であり、ある種の奇跡とさえ思えるので、むしろホッとした。「あっ、けっこうがんばったな」「どうなることかと思ったけど、まあ、いいんじゃない」と伝える。

 しかし、例えば数学は圧倒的にケアレスミスが多い。そして焦っている。

 時間をかけて解かせれば、確かに解けるものが多い。ケアレスミスをなくすだけでもかなり点は上がる。優等生だったぼくは、「テストで検算をしない・見直さない」という娘の行動が理解できない。

 中学受験を描いた『二月の勝者 絶対合格の教室』3巻に出てくるあのケアレスミス、そして焦りである。

 

  

 一番できないクラスのRクラスを受け持つ主人公の塾講師・佐倉は、子どもたちが検算せずにケアレスミスにまみれて点数を大きく落としている現状を嘆く。

とにかく ケアレスミスが全然直りません。

ただ最近指導している、「できる問題をまず選んで先にやる」という作業自体はできているようです。

しかし このケアレスミスの多さは、もったいないよといつも伝えているんですが なかなか…

 

 佐倉を指導している校長(塾長)・黒木は、注意力や演習量が足りない子どもたちを、

そういうのをひっくるめて一言で言うと、「バカ」って言うんですよ。

とキツい言葉で断定する。そういう子どもには「問題を選んで優先させて解かせる」という優等生のマネをさせると時間が足りなくなって焦るから、やめさせたほうがいいとアドバイスする。問題を半分にして解かせるように佐倉に指示をする。なぜなら、「焦り」を除去して、基本の計算問題を確実に取ったほうが得点の上昇につながることを「得点が確実に上がる」という喜びで体感させたほうがいい、というのが黒木の方針なのである。「バカ」というキツい言葉を黒木が使ったのは、そういう子どもたちには、ケアレスミスをいくら口で指導してもわからない、体感させる指導の工夫が必要なのだ、ということが言いたいのだ。

 その真偽のほどはわからないのだけども。

 

指針がほしい

 ぼくは、一体娘にどの程度関与していいのか・いけないのか、よくわからない。

 PTAをやっていないせいなのか、他の親とのつながりは全くない。もっともPTAをやっていた小学校時代にも横のつながりはほとんどなく、あっても子どものディープな悩みを相談するような関係ではなかった。むしろそういう話は、保育園時代のつながりや、職場でのつながりでしていたし、今もしている。

 ただ、「あら、うちの子もそうよ」という井戸端的な共感がほしい訳ではない。そういうものが必要な場合もあるのだろうが、専門家のアドバイス、教育科学としての指針が欲しいのである。

 娘が赤ちゃんや幼児の時に育児の指針にした松田道雄『育児の百科』のような、大雑把な指針が。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

そこで尾木直樹ですよ

 そこでぼくが頼るのは、尾木直樹である。

 

 この本(『こわい顔じゃ伝わらないわよ 尾木ママの子育てアドバイス』)は「しんぶん赤旗日曜版」に連載されていた時に、時々読んでいた。自分の実感に合うことが多かったので、参考にしているのだ。

 

 尾木の教育論のポイントは「自己決定力」である。

 

子育てのポイントは、自分で決める自己決定力を子どもにつけていくことです。子どもが「どうしたらいいかな」と相談してきたとき、親は結論よりも解決策を提案して、子どもが自分で決められるようにしてほしい。「こうしたらどう?」と、いくつかの方法を提案できる力をつけることが、親として大切なんですよ。(p.32)

 

自分の気持ちを表現できるようになるためには、子どもが自分で決定する経験を積み重ねることです。/最初は小さなことでいいんです。…親は「お母さんはこう思うけれど、違うことを決めてもいいんだよ。自分でよく考えて決めるといいよ。決めたことは、お母さんも応援するからね」という姿勢でいることが大切です。/自己決定は、自分に自信がもてるようになるために大切なこと。…そうして自分に自信がもてるようになれば、ありのままの自分を親の前で出せるようになっていきます。そういう関係をつくっていけるといいですね。(p.66-67)

 

親との関係として読む

 もちろんこれは子どもにとっては自己肯定感とか責任感を育てるという話なんだけど、親との関係論であると言える。この逆は、親が管理し、決定するという状況。あるいは、学校や社会が管理し、決定するという状況でもある。

 ぼくが政治活動をやっているのは、自己決定のためである。社会というものに自分が無力であってはならないので、組織に入り、社会に働きかけている。ぼくにとって自己決定は人生の原理の中心にある。

 自分が子どもに対して望むこともそれである。

 自己決定ができるようにしたい。

 自己決定のためには、本来自己を取り巻く環境を変革しなければならない。そして環境に働きかけねばならない。そのためには環境(自然と社会)を客観的に知らねばならないし、同時に環境とコミュニケーションを取らなければならない。前者のために学習や研究があるし、後者の第一歩は自分の意見表明である。

 後者の第一歩として、親とのコミュニケーションがある(もちろん友達や先生とのそれもある)。親が何でも決めたり指示してしまうというのは論外であるとしても、そもそも親に対してモノが言えない・言いにくい・断絶しているという関係になってしまっていてはそれができない。あるいは回路があっても錆び付いていて、およそ気軽に本音が言えないというのでも困る。

 だから、娘がぼくたち親の前でホンネをさらけ出して泣いているのは、とてもいいことだと思っている。ベタベタしたり、話しかけてきてくれたり、そういう関係が濃密にあるのも悪くないと思っている。

 だけど、やはりどうしても管理したり、指示したりするメンタリティがぼくにもつれあいにもある。特に中学生にもなった子どもに、まるで小学校低学年の時と変わらない調子であれこれ指図すること自体がダメだ。自己決定どころではない。

 

子育てでも教育でも、子どもと接するうえで大切なのは、子どもたちの表面的な現象にとらわれることではなくて、その奥に潜む心の叫びに向き合うことだと思います。心に向き合えば、必ずと言っていいほど通じ合えるのです。非行の子でもどんな子でも、これまで通じなかった子はいなかったと思っています。/学校にはいわゆる授業活動と、生活のルールづくりなどゆるやかな管理を必要とする分野がありますが、どちらにおいても、心を管理してはダメなのです。心を管理したら、その瞬間に教育ではなくなってしまう危険があります。(p.223)

 

 これは一瞬、メンタルな部分に関与しない、という意味に聞こえる。

 しかしそうではない。

子どもの「心を管理しない」という意味は、教師側の思いだけでモノゴトを見ないこと。一方的に子どもを評価しないということです。…だから、どう考えてもこの子が悪いに決まっていると思うような場面でも、いきなり頭ごなしに決めつけたり叱ったりするのではなくて、まず、“「どうしたの?」と言葉をかけましょう。”これは尾木ママのキャッチフレーズにもなっています。(p.224)

絶対に決めつけをしない、上から目線や教師目線ではなく、子どもとフラットな気持ちになって「どうしたの?」と向き合う姿勢を心がけてきたことが、もしかしたらママ的な雰囲気に繋がっているのかもしれません。(p.225)

  ここで尾木は「どうしたの?」というフレーズの重要性を出しているように、「心を管理する」というのは、一方的な関係となること、すなわち支配し指示する関係になることだとわかる。これは表面的な決めつけ、表面上の現象に振り回されるということとも裏腹である。

 『二月の勝者』の3巻で、「子どもの頃の夢」の話題を軸に、作文に書かれていることを真面目に受け取るな、という話が出てくる。

子どもは裏切ります。

言うことを真に受けてはいけません。

という露悪的な黒木の言葉は、「子どもと接するうえで大切なのは、子どもたちの表面的な現象にとらわれることではなくて、その奥に潜む心の叫びに向き合うことだと思います」という尾木の暗黒版であろう。

 つまり、子どもの本質への洞察をした上で、一方的な指示・支配の関係でなく、相互的な関係を作って自己決定を促せというのである。

 親が子どもを洞察したことは、相互的な関係においてどう生かされるのか。

 親の関わり方、つまり意見の出し方について、尾木はやや細かめのアドバイスをする。

親が自分の意見を伝えるの。/そして、意見を言ったらさっと引くことが大事です。親が正論を言って従わせようとしても、子どもはムカつき、反発するだけですから。(p.132) 

子どもの言うことが間違っていると思ったとき、「それはおかしいと思うよ」「そういう考えは、お母さんと逆だね」と指摘する。子どもが「なんでだよ〜」とつっかかってきても、言い合いはしない。子どもはいろんなへ理屈を言ってくるから、感情的にけんかになってしまいますからね。(p.152)

同時にお父さんには、必要なときに「それはおかしいと思うな」「そんなのお父さん、許さないよ」と子どもにきっぱり伝える、「壁」の役割も果たしてほしいの。/この時期は、「どうしたらいいのか」「どこまでなら許されるか」を、親への反抗という形で手探りしている状態でもあります。だからこそ親御さんには、自分の心情に基づいて毅然とした態度で立ちはだかり、子どもの成長をうながす「壁」になってほしいのです。(p.58)

 

 尾木の本は、この他にも、「ルールを取り決める」「それを破ったらどうするか」「異性との付き合いは」などの細目に話が及んでいくのだが、大事なことは尾木の教育思想をつかまえて、そこからの出ているものだという太い幹をとらえることだろう。そうしないと、細かいドグマを読んでいるような気になってしまったり、あるいは、別のページで矛盾するようなことを述べているように読めてしまったりするからだ。

 この本を読んだからと言って娘が何かすぐに変わるわけではない。

 ぼくの心にも平安が訪れるわけでもない。

 しかし、それでも何か指針がほしいのである。その指針に今のところ、尾木の本はなってくれているのだ。

 

やきそばかおるの「ラジオの歩き方」や沙村広明『波よ聞いてくれ』など

 「しんぶん赤旗」に、やきそばかおるの「ラジオの歩き方」が連載されている。21日付でその「第28歩」が掲載された。9月に来襲した台風10号で、風変わりな宮崎放送における台風情報報道を紹介していた。

 ぼくはこの宮崎放送のラジオを聴いていないので、やきそばの(って変な書き方だけど)紹介記事のみでそれを想像するだけである。

 

 深夜の台風情報といえば、環境音楽と時折の台風情報。しかし「それでは寂しいですよね」と担当の川野武文アナウンサーが述べたそうである。そこで台風情報の合間には、

今夜は音楽とトークをお届けします。停電の中で一人で聴いている人がいましたら一緒に仲間に入ってもらって、この番組で夜をこえていただけたら

 というのが川野アナの挨拶だった。

 緊迫した台風情報と、その合間に流れるトーク、掛け合い。パンダのニュース、歌謡曲や演歌の曲のエピソード付け足しなど「心が和む」(やきそば)時間に。

 さらに驚いたことには、「皆さん、お腹が空きませんか?」と言いだし、リスナーが買い込んだであろうラーメンを午前3時にみんなで食べようじゃないかと提案。

3時をまわり、台風情報を伝えると川野アナは予定通りに「ズルズルー! ズルズルー!」と美味しそうな音を響かせた。

 もう一人の外種子田結アナウンサーは、水でもラーメンが食べられるか「実験」をしていた。

この時間にラジオの前に集まったリスナーは、朝まで共に過ごす運命共同体であることを実感した。

 まことに自由である。

 「ラジオの自由」それも「深夜ラジオの自由」について思いを馳せずにはいられなかった。

 思い出したのは、沙村広明波よ聞いてくれ』である。

 

  まったくの素人である主人公・鼓田ミナレが深夜ラジオのパーソナリティになり、自由きわまる放送をする物語である。トークの自由さもさることながら、物語はさらに新興宗教による拉致事件に巻き込まれるという、展開からいえばどう考えてもあり得なさそうな「自由」っぷりがまた「ラジオの自由」のメタさを味わわせてくれる。

 

 しかし、ラジオを自由だと思うのは、もう古い世代のノスタルジーかもしれないと思いなおす。

 ぼくが中学の頃、家にホームビデオのカメラがやってきて、録画したものを自分の家のテレビで観た、それだけでテレビ放送に自分が近づけたような興奮があった。実際には何も近づけていないわけだが。ラジオ放送に憧れて、テープレコーダーに自分のトークを入れてカセットに録音し番組を作ったりしたのと同じである。

 それどころか、ワープロがない時代で活字さえも自由にできなかったから、学校の職員室で漢字を拾う和文タイプライターをいたずらし、自分だけの冗談ニュースを作った。活字のくせにふざけた内容のニュースになっていて、それだけで半日は腹がよじれるくらいに笑っていられた。

 しかし、今やワープロもあるし、インターネットもあるので、自分からいくらでも自由な発信ができる。娘が聴いている「にじさんじ」などVtuberトークを聴いていると「ああ、これはぼくらの世代のラジオだな」と思ったりする。

 だから、ただ自由であるだけでは、ラジオの特性としてはもはやノスタルジーでしかない。

 そう思い直して、このやきそばかおるの記事の「自由」を再度じっくり考えてみたのだが、やはりこれは台風情報という公共放送としての強い拘束があり、その下での自由ということなのだろうと思い至った。

 台風情報のような厳格でシリアスな報道とセットを任務にしているなら、下手な工夫を住まいという官僚主義的な心の機序が発生しそうなものだ。しかし、この二人のアナウンサーは、一人で心細く聴いているリスナーのためにあえてラーメンをすすったり和ませたりという工夫をした。

 リスナーから「画期的な台風情報だ」という感想が届いたそうだが、首肯できる。

 これは放送の公共性とセットで初めて活きてくる「ラジオの自由」なのだろう。

 

自公政権の高支持率は野党が連立政権としての協議に入らないからではないか

安倍前首相の考えるレガシーは経済

 20日付の読売に安倍前首相のインタビューが載った。

www.yomiuri.co.jp

 

 そこで彼は自分の政権のレガシーはなんだと思うか聞かれ、こう述べている。

後世に「安倍政権の時は良かった」と生活実感として言ってもらえれば、一番うれしい。2012年の首相就任時は、「日本は下り坂になっていくのではないか」という時だった。それを「まだまだ坂の上の雲を見つめることができる」という時代に変えることができたのではないか。

 具体的に、彼はアベノミクスでデフレに立ち向かい、「400万人超の雇用を作った」ことを挙げた。また、経済を好調にしたことで消費税を2回引き上げる体力を作り、幼児教育の無償化の財源を作るという好循環を果たしたとした。これが彼の考える、「安倍政権のレガシー」というストーリーなのである。

 聞き手は「政権のレガシーを何と考えるか」と聞いていて「経済分野で」などの限定を設けていない。各種の世論調査ではどこも安倍政権の政策の中では「安保・外交」が「評価する」のトップに来ていたのであるが(経済はだいたい2番目)、彼は自分が舵をとった政治全体の中で、安保でも外交でもなく、経済が自分の一番の「売り」「セールスポイント」だと考えていたことがわかり、興味深かった。もちろん、それはある程度は予想されたことだったのだが、彼自身の口から直接の質問の答えとして述べられ、確認されたことが大事なのである。そして、それはそのまま自公政権の「売り」「セールスポイント」でもあるのだろう。

 

 そして菅政権の支持率も74%と高い。

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 自民党の支持率は47%にも達し、他方で立憲民主党は合流前と変わらない4%である。

 ある野党の国会議員が行う街頭演説を聞きに行った時、その国会議員は「菅政権が支持率が高いのは安倍政権が『やっと終わった』という国民からの意思表示だ」という趣旨のことを訴えていた。ある面でそれは当たっていなくもない。長年続いた安倍政権からの刷新感があるとは思うのだが、しかし、世論調査で最終的に安倍政権を評価する声が7割もあるのだから、安倍政権が嫌で嫌でたまらずに「ようやく新しい内閣になった!」というようなニュアンスではないはずだ。

 7割の国民が、安倍政権を評価し、それを継承するとした菅政権を評価しているのである。

 

安倍・菅政権の高支持率はオルタナティブがないから

 ぼくは安倍政権とそれを継承する政権(菅政権)を支持していない。早くそれらを倒すべきだと思っている。

 安倍自身が語るストーリーをそのまま信じる必要はないし、国民が丸ごとそれを受け入れているとも思わない。「長期的に安定し、経済も好調だった」というなんとなしの雰囲気を受け入れているのだろう。そこはあまり細かく考えず、ざっくりとらえた方がより正確になる。

 安倍政権にいろんな問題が生じても、野党のターンにならないのは、ひとえにオルタナティブ、代わりになるものが示されていないからである。

 もちろん個々の野党はそれなりに示しているし、国会でも政策提起・政策論議をやっている。「野党はモリカケ系の追及ばかりで、国会では全く政策論議をしていない」というよくある議論は事実として間違っている。

 しかし、野党は果たして単独で政権を取るつもりなのか、それとも連立・連合で政権を取るつもりなのか。これまでの国政選挙では選挙協力し、政策の合意までして有権者に示しているのだから、常識的に考えれば連立して政権を取るつもりなのだろうと思える。だとすればいくら個々の政党が政策を示したとしても、政権としてどこまで実現を約束してもらえるものなのかはさっぱり見えない。「消費税を減税する」という政策一つ取ってみても、それは連立した政権の合意になるのか・ならないのか。原発はどうするのか。廃止するのか、依存度を減らして動かすのか。*1ということは、やはり各政党の政策・構想ではなく、連立政権としての政策・構想が示されなくてはならない。

 だが、実際には連立しての政権構想は示されていない。それどころか、連立して政権をつくるという合意さえない。オルタナティブ——代わりになるものが示されていなければ、有権者は託しようがないではないか。そもそも「別のものがある」という選択肢にすらならない

 ある商店で売ってるジャムがあって、それがあまり美味しくなくても、横の別の商店ではまだイチゴと砂糖しか置いてないし、ましてやこれからジャムを作るのか作らないのかわからないし、というのでは、商品としての選択肢にならないのと同じである。消費者は「横の商店に別のジャムがある」とすら思わないだろう。

 菅政権を支持する最大理由が「他によい人がいない」30%というのもそれを裏付ける。裏返せば、自公政権の高支持率が続くのは、野党が連立政権としての協議に入らず、ずーっとオルタナティブが示されてこないからではないか、と思う。

 

 このことは、根本的には以前書いた状況と基本的に変わっていない。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 以前、共産党志位和夫も似たようなことを言っていた。

野党の側にも努力すべき問題があると思います。日本経済新聞が選挙後行った世論調査によりますと……「安倍内閣を支持しない」と答えている人々のなかで、「政治や暮らしが変わると思えない」という回答の比重が高く、トップとなっていることです。すなわち、安倍内閣に批判や不信をもっている人々のなかでも、一票を投じても「変わると思えない」という思いから、棄権にとどまった人々が多数いる。この事実は、私たち野党にも問題を突きつけているのではないでしょうか。/こうした状況を前向きに打開するうえでも、私は、野党共闘がいま、「政治を変える」という「本気度」が……国民のみなさんに伝わるためには、安倍政権に代わる野党としての政権構想を国民に提示することが不可欠ではないでしょうか(大きな拍手)。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-08-10/2019081009_01_0.html

 

 

早く連立政権の協議をしろ

 しかし、政権が変わる・変わったこのタイミングで、野党にいよいよそれが必要なのだ。つまり、連立政権の合意へと踏み込み、実際にどんな政策にするのかという協議を始めるということである。

 もうこれに尽きる。国民がアホだとか、なんでこんなに安倍・菅の支持率が高いとか、そんなことを愚痴ったり「分析」したりする前に、まず連立政権の協議に入ることだ。それをしないうちは土俵にさえ上がったことにもならない。

 特に、その柱は経済となるだろう。安倍や自民・公明がレガシーだと思い、 それを売り・セールスポイントにしている部分にはっきりと斬り込めるならオルタナティブになりうる。

 消費税減税はその一つの大事な旗印になる。

また、枝野氏から消費税の減税や一時的に税率をゼロにすることなど踏み込んだ発言があったことについて志位氏は、日本共産党が消費税廃止を一貫した目標とし緊急に5%への減税を求めており、他の野党からも「消費税減税・ゼロ」の方向が出ていることを歓迎したいと表明。「消費税減税を野党共闘の旗印に掲げ、実現を目指していきたい」と強調しました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-09-11/2020091101_03_1.html

 しかし、それを単発の政策スローガンではなく、体系的な経済政策として仕上げ、さらにそれを国民向けにわかりやすいパッケージとして示すまでに練り上げられねばならない。それが安倍の述べた「経済の好循環」のストーリーよりも説得力を持つかどうかで試されるのだから。

 国民民主党に残った前原誠司は「共産党選挙協力する政党に加わることは、現実的な外交・安全保障、憲法論議を求める私の考えとは異なる」と述べている。前原は孤立しつつあると言われるが、前原が言わなくてもこの種のことは誰かが言っている。例えば連合の一部労組(UAゼンセン)だ。

 「現実的な外交・安保政策、憲法論議」を求めるなら求めるでいいんだけど、だったら連立政権協議に入って、「現実的な外交・安全保障、憲法論議」とやらを出してみればいいのではなかろうか。

 なるほど経済だけでなく外交・安保政策は政権を握るものにとって重要な柱だ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 共産党は連立政権では自衛隊の運用も、安保条約の発動も認めるといっているんけども、それだけでは連立政権の政策にはならない。

 むしろ国民民主党や前原は、「リベラル保守」の真骨頂と思って、その政策提起をすればいい。それで国民にも問うし、他の党にも問うのだ。共産党が同意すれば前原の念願は叶うわけだし、もしそれで共産党が孤立して出ていくならそれもまた前原の思惑通りだろう。

 連立政権の政策協議は、それぞれの党が政策を持ち寄り、妥協し、合意する場である。それぞれが「これは譲れない」と思って臨むわけで、一種の真剣勝負のような側面がある。共産党はぜひやろうと言っている。前原や国民民主党に限らず、他の党もやればいいではないか。

政策を置き去りにした枠組み論は不毛です。政策に主体性をもち、有権者の信頼を勝ち取ることが私たちの最重要課題です。枠組み論ありきでは議論が逆立ちしてしまう。

 誰あろう、これは前原自身の言葉である。「非共産」という「枠組みありき」でないなら、まずは政策に主体性を持ってはどうか。*2

 

 ただし、(1)このような協議が始まり、(2)合意された政策・構想として形になり、(3)それが国民に知られ、(4)さらに国民から信用してもらう、というプロセスを踏むにはかなり時間がかかる。それだけに、解散・総選挙は早ければ11月にあるかもしれないと言われているから、もうあまり時間は残されていない。本当に早く政権協議に入らなければ(少なくとも総選挙には)間に合わない。今始めるべきなのだ。

 

 共産党によれば、このような協議は前進しているようなのだが、別にぼくが国会にいるわけでもないし、枝野や志位に会ったわけでもないので、本当のところはよくわからない。

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 とにかく目に見える形で始まったと言えるものを示してほしい。

 野党が連立の政権協議に入らず、現実的なオルタナティブを示さないうちは、自公政権の高支持率は続く可能性が高い。

 

余談

 このように書いたからと言って、モリカケサクラに見られるような菅・自公政権の問題点の追及が意味がないとか、そんなことは毫も思わない。それは政権を監視する民主主義の大事な機能であり、絶対不可欠のものである。また、そこで明らかになった問題は自分たちが政権を担った時に解決する課題として浮かび上がってくる。どんどんやるべきだ。

 しかし、追及だけでは国民の支持が野党にこないのも事実で、国会活動の話ではなく、どうしたら支持を得られるかを考えた場合に、追及と同時に、連立政権の合意と構想の具体化がどうしても必要なのである。両方やれということだ。

*1:もちろん個々の政党の政策としては意味がある。政権を取ろうが取るまいが、その実現のために国会内外で活動していくのだから、仮に万年野党であっても、長年の働きかけで与党側がそれを取り入れていけばいいからである。

*2:ちなみに野党はすでにこれまでの選挙で政策的な合意はいくつもしている。また、間にいる市民連合と結んだ政策合意もある。だから、野党の連立ということ自体は枠組みありきではなく、すでにある程度の政策の方向性の共有があると言える。しかし、政権の合意にはなっていないのである。

『君は放課後インソムニア』と『花野井くんと恋の病』

※ネタバレがあります。

 

『君は放課後インソムニア

 オジロマコト『君は放課後インソムニア』は、不眠症インソムニア)の男子高校生・中見丸太(なかみ・がんた)が、今は誰も使っていない学校の天体観測ドームで、やはり不眠症で同じクラスの女子高生・曲伊咲(まがり・いさき)に出逢い、天文部を再興する物語である。

 4巻のバス停のキスシーン(というかキスしているかどうかよくわからないシーン)があまりに良すぎて、なんでこんなに悶えるんだろうと思いつつ、最近の少女マンガのそれにはなんでそんなに悶えないんだろうと考えた。

 

 

 

 キス(疑惑)シーン自体ではなく、その直前、二人きりのバス停で、雨に濡れた曲(まがり)が中見に向かって、

あの日からずっと、

中見はわたしの特別なんだよ。

というコマがたまんなくて、何十回も見返しているのである。

 なんでこんなにいいんだろうということについて、いくつか仮説を立ててみる。

  1. 女子と2人きりの部活で、2人は「同病相憐れむ」的な心理を共有している。
  2. 恋人でもないのに「2人で一緒に寝る」「2人で夜に出かける」「2人で星を見て海で戯れる」…という体験を重ねていく。
  3. 「わたしのことも撮ってね。」「中見がいないとさ。眠れないから。」的な自分に向けられた女性のメッセージに「付き合ってないけど、それはきっとぼくのことが好きに違いない」という気持ちを引き起こさせて楽しい。
  4. 中見の外見(?)がぼくに近い=感情移入しやすい。

…あたりであろうか。

 恋愛の一番楽しい時間は、お互いの気持ちを確認し合う前、相手が自分に好意があるのではないかと確信する瞬間ではないか(個人の感想です)。2.と3.ということは、それが連続しているということなのだ。

 振り返って、最近の少女マンガにどうも自分がノレないのはなぜかを、まず一般論で考えてみる。

 いざ考えるとぼやっとしてしまって、ある程度読んでいるはずなのに、少女マンガのイメージがなかなか湧きづらい。気持ちが入っていないせいであろう。

 やっと考えたのは、上記4.の裏返しだけであった。

  • 男の側の外見がぼくと程遠いイケメンである。

 たぶんこれだけではないのか…。

 

『花野井くんと恋の病』

 というわけで、具体的にやはり考えてみたくなって、手元にあって2巻くらいで挫折してしまっていた、森野萌『花野井くんと恋の病』を読み進めてみた。

 

 

 

 

 まだ恋というものをしたことすらない日生(ひなせ)ほたるが、すっごいイケメンの花野井颯生(はなのい・さき)に彼女になってほしいといきなり告白され、恋愛を育んでいく物語である。

 1巻で抵抗感が大きかったのは、花野井のキャラが何を考えているのかわからない、むしろサイコっぽさが先に立ってしまい、「いねえよ、こんなやつ…」と思ってしまうからであった。2巻で、初詣に友達みんなと出かけているのに打ち解けようとしない花野井の様子に、キャラの面白みではなく、読者としていたたまれなささえ覚えた。それから1巻冒頭に出てくる「運命の人」というキーワードに、全然ついていけなさを感じた。

 何よりも花野井の造形。ぼくとなんの共通点もないイケメンなのである。

 感情移入などしようがなかった。

 

 しかしである。

 3巻以降を読んで、次第にのめり込んでいった。

 「ほたる以外には塩対応」という花野井の性格にも焦点が当てられ、人付き合いの苦手さとして描かれ、それを周囲が花野井の性格を変更させようとするのでもなく、花野井を花野井として受け入れたまま受容していこうとする。「弁当の会食」という高校生社交における花野井とほたる友人たちの努力、球技大会でほたるのためにバスケットで優勝したいという花野井の願いを叶えるために「友達にならなくてもいい」という花野井の前提を受け入れつつ事実上友達となっていくクラスの男子たちの計らいがそれである。

 「友達の中での2人」というのは少女マンガではとても大事なテーマ。これは『花野井くん』に限らず、少女マンガの良さであるなと思い直した。

 そしてキスシーン。

 1巻で押し倒したかのような形でキス寸前までいって以来、花野井は「もう、許可なくほたるちゃんには触り……ません」と誓う。絶対に触っていないかというとそんなことはないのだが、少なくとも花野井から(口への)キスはしない。

 4巻で花野井は、ほたるに、もしキスしてもよいという準備ができたら「合図」をしてほしいと頼む。

 そして5巻。雨の降る日に誰もいない特別教室でほたるは花野井の頭にキスをして、「合図」を送るのである。

 ほたるの中から(花野井が)かわいいのでもっと触れたいし、近づきたいという気持ちが自然に湧き起こってくる。その延長としてキスがあり、合意としての合図がある。「合意のある/合意のない性的な接触」というのはとても現代的なテーマだけど、なんとその「合意」が実に5巻もの時間をかけてゆっくりと花開いて実るのである。

 恋愛感情さえ知らなかったほたるが、自然に自分の中で高まってくるものを確認し、合図を送り、行動し、花野井を受け入れる描写がまことにかわいい。ほたるがキスの後に「ぷはっ」と息継ぎをするのは、単に息苦しいというよりも、ほたるの健気な精一杯さが伝わってくるのである。(だからこの本編のキス描写の後を描いた「番外編」で、何度も何度も花野井がほたるにキスをするシーンがさらによかった。)

 このキスシーンは素晴らしかった。

 その時、ぼくは決して花野井と自分を同一視をしてはいない。

 むしろこのイメケンとほたるのキスを、外側から眺めている感覚で読んでいる。そして、ほたるのかわいさに見とれているのである。

 

 とどのつまり、『君は放課後インソムニア』と『花野井くんと恋の病』は全然違った、という当たり前の結論に行き着くのである。