育休が今月いっぱいでおわります
電車に乗っていたら初々しい高校生カップルが!
その初々しさがたまらんなーと思って見ていたのだが、後でつれあいに話すと、
「そんなふうに見てたら、絶対にあやしいと思われたんじゃないの?」。
ふふふ、さにあらず。
なにせ娘をつれていたから!
「そっかー。子連れだと全然あやしさがないよね」
と、つれあいも得心。 「子連れ」が、平日の昼間、いかに「安心・安全」の記号になるか、この一事をもってしてもわかろうというものである。
たとえば毎日散歩で通る小学校があるが、平日の昼間、もさっとした40に近い男がもし一人でその小学校の校庭で授業をうけている小学生をじっと見ていたら、通報の対象となること請け合いである。
しかし!
赤ちゃん連れというだけで、あら不思議。
「お前もこの学校に通うんだよー」と赤ちゃんに語る父親、というホホえましい光景に早変わり!
さて、そのような平日の昼間に子どもを連れて歩くという時代は間もなく終わろうとしている。
昨日、保育園の入所決定の通知をもらったからだ(といっても、第一希望だった保育園に発表を見に行って、入所決定であればそこでもらうのだが)。昨年の8月から約7カ月半。長いようで短く、短いようで長かった育休生活が終わる。もしこのあとに子をつくらなければ、ぼくの人生における最初で最後の育休時間ということになる。
育休期間中、なんといってもつれあいが相談相手になってくれたわけだが、さらにその上位の存在として何に頼ったかというと、「育児書」であった。子どもを産む前は、育児書に頼るなんてなんか頭でっかちの人間みたいだなあと思ってイヤだったのだが、終わってみれば一番頼りになったのが育児書であった。つまりやはり頭でっかちだったということなのだが。
育児の先輩たちなどの話は、ぼくが仕事をしている間はだいぶ入ってきたのだが、育休になると急激に接する機会が減った(むしろつれあいが職場で育児仲間から仕入れてくる情報が多くなった)。子育てサークルは結局3回ほどしか出られず、あまり親しくなれなかった。ネットのQ&Aサイトは、迷ったときだけ利用したし、訊いても必ずしもほしい回答が返ってはこなかった。
日々の指針はなんといっても育児書であった。これは育児の大先輩=姑がいた大家族時代ではなく、核家族時代の現代ではやむをえないことだと思う。ただ、育休の間、長くお世話になったのは、今回紹介する松田道雄の『育児の百科』ではない。成美堂出版の『育児あんしん大辞典』である。が、今回は、『育児の百科』についてレビューをする。
1967年初版の本なので「古っ」と思っていたが…
この本を最初に知ったのは、サイト読者からのメールですすめられたことだった。買おうと思ったのだが見つけることができず、そのまま日がすぎてしまった。
しかし、この(08年)2月に、本屋にいったら平積みされていた。
しかも、岩波文庫!
育児書の岩波文庫てw
下巻がなかったんだけど、ちょうど自分の娘が8カ月だということもあり、中巻まででとりあえずいいや、と思い、岩波文庫崇拝主義者のぼくとしては買ってしまったのである。しかも書いたのは天下の松田道雄。以前、深見じゅんの漫画の感想を書いたときに紹介したことがあるが、『恋愛なんかやめておけ』の著者である。
というか、実は松田は、本書『育児の百科』で圧倒的に認知度の高い人であって、『恋愛なんかやめておけ』で記憶しているほうが少数派なのであった。
医師であり、育児にかかわる問題での評論・啓蒙、そして市民運動などの社会的発言でもよく知られた人であった。
実は下巻がそこになかったのには「理由」があった。asahi.comが2月22日に配信した記事によると、下巻だけは「解説をつけなかったという理由で発売を延期していた」らしい。松田による「あとがき」をつければ解説をつけなくてもよいという方針のまま編集が進行したが、結局解説をつけることになったようである。
正直、1967年初版の育児書なんて、現役の育児書としてはまったく価値のないものだろうと思っていた。いや、正確には本を買う時点では初版の年はわかっていなかった。ただ、今回の文庫の表紙のデザインが、1980年の同書の「新版」のハコであることが文庫のカエシに載っていたので、「わー。古っ」と思ったのである。中巻まではどこを読んでも初版がわからず、帰ってasahi.comの記事を読んでびっくりしたのである。
つまり「昔の育児書はどんなことを書いていたのだろう」みたいな感じで「古典」を読むつもりだったのである。ちょうどアリストテレスの『動物誌』を読むみたいな(笑)。
ところがである。アマゾンの現在のレビューをみてさらにびっくり。
3月現在で40件ちかくカスタマーズレビューがついており(文庫にたいしてではなく、単行本のもの)、しかもほとんどが高い評価を与えているのである。すなわち現役の育児書としてなかなかに高い評価を得ているのである。
カスタマーズレビューをみるとわかるが、親や上の世代から贈られたとか、人にすすめられた、というきっかけで読んでいる人が多い。asahi.comの記事によれば150万部をこえるベストセラーだったというから、70年代から80年代にかけて、その世代に非常に大きなインパクトをもたらした本であることがわかる。そうえいば、子育てサークルに出た時、もう引退した保育士さんの教えていたのが本書に出てくる「乳児体操」であった。
それで読んでみた。
といっても下巻はまだ入手できていないし、病気のところなどは一部とばして、というほどのものであるが。
独特の文体
まず、独特の文体である。これは、いまどきの育児書には絶対にない調子である。まあ、論より証拠、以下の引用をごらんいただきたい。
「生後15日たつと、男の子はよく乳を吐く。はじめのうちは、乳をのみすぎたのだろうと思っていたのが、乳をのんで20分ぐらいしてから、ゲボッと吐くようになる。
……乳をのみながら、口角からだらだらとこぼれるときは心配しないが、勢いよく噴水みたいにゲボッと吐くと、何か異常ではないかと思う。乳ののませ方がへたで空気をのませたからだろうと思って、のませたあと赤ちゃんを立てるようにして抱いてゲップをださせるが、それでもやっぱり乳を吐く。はじめは1日1回か2回だったのが、だんだん吐く回数がふえて、のますたびに、吐くようになる子もある。
……医者につれていくと『幽門痙攣』などといわれる。むずかしい字ばかりならんでいる、きいたことのない病気なので、母親はどぎもをぬかれる。
……母親は、べそをかいて家へかえって父親と相談する。こんな元気そうな顔をしているのに、恐ろしい病気にとりつかれたものだと、悲運をなげくことになる。だが、心配したことはない。元気のいい男の赤ちゃんは、乳を吐くものなのだ。幽門けいれんなどという名におどろいてはならぬ。誰だってものを吐くときは、幽門がけいれん的にちぢんでくれなければ、吐けない。幽門けいれんということばは、乳を吐くことをむずかしくいっただけだ」(文庫版上p.260〜261)
親が通る不安を、とおりいっぺんではなく、まさに親が味わう恐怖のエスカレーターのごとくになぞっていく。ふつうの育児書ではこうはいかない。
しかも病院でのやりとりまでちょっとユーモラスに書いている。
こうやって、そこまで親の不安についてかかなくていいだろう、と思うくらいまで書くのだが、それがむしろ文章への共感を高めるのである。「そうそう、そうなのよ!」。
たぶん、松田の文章の調子で面とむかって音声でいわれると押し付けがましさがあるので、ぼくなんかムカつくのかもしれないが、文字になると急速に高圧感が消える。むしろ知恵のある古老が諭している感じの味わいが出てくるのだ。そして自分が断定してほしいと思っている部分にだけ、松田の育児書はやってきて断定してくれる。ふつうの育児書のような猫なで声ではなく、「幽門けいれんなどという名におどろいてはならぬ」とピシッと言ってくれるのである(ちなみに手元の成美堂の育児書では“噴水のようにくり返し吐いたら病院へ”とある。念のため記しておく)。
しかも、基本は悩める親を激励するという立場をとる。
たとえば、さまざまな情報に圧迫されている親にこういって励ます。
「近所の奥さんがみにきてくれることもおおくなる。……自分が苦労したことは、ほかのお母さんにも、おなじ苦労をさせまいという善意から、いろいろと助言してくれる。親切はありがたいが、助言してもらうほうが忘れてはならないことは、赤ちゃんには個性があって、Aの赤ちゃんによかったことが、Bの赤ちゃんにもいいとはかぎらないことである。もうひとつは、自分の赤ちゃんについて、世界中の誰よりもよく知っているのは自分だと、という自負である。……ご近所の忠告ばかりきいて、主体性をなくしてしまうと、生理的な状態が病気みたいに思えてくる。人の話をきくときは、心のなかでマイペース、マイペースと唱えることだ」(同前p.257〜258)
カスタマーズレビューに「励まされた」「気持ちが楽になった」というたぐいのものが多いのもうなずける。
いまどきの育児書ももちろんさまざまな激励が書いてあるが、ここまでしみいるような文章では書いていない。ぼくがもっている育児書は、「Aくんの例」というような形であくまで押しつけをせずに書いているのだが、不安をかかえる親にはそれが淡白に聞こえるときもある。
まるで諭すような励ますような松田の文体を求めている親が、この世にはいる。
通して読むと、松田の「思想」がみえてくる育児書
本書は月齢ごとに記述されている。書いてあることが前の月といくぶんダブッていることがあるが、「百科」なのだから、通して読むものではなく、気になった月の気になった事項をひいて、そこだけ独立して読むことを想定しているのだから、当然である。
だが、前から通して読んでいくと、松田の育児にたいする明確な方針が、各分野でみえてくる。
たとえば、いまぼくが直面している問題でいえば、「離乳食」である。
松田は不衛生になることやアレルギーの問題を指摘しつつも、基本的には神経質にならずに、「ありあわせ離乳」、つまり大人が食事をつくるさいの食材を少しばかり赤ちゃん用に工夫せよ、ということを基本においている。また、「既成品の離乳食」、すなわちベビーフードを使うことにも賛成する。
「離乳はむずかしいものだという偏見がひろがっている。お料理の専門家の、あらたに発表した離乳食献立をつくることはむずかしいかもしれないが、赤ちゃんの離乳はむずかしいものではない。育児雑誌の特集号についている離乳食は、主婦を専業にしている母親の趣味をみたすようにできているので、実用的ではない。すり鉢ですったりする料理がおおいのは、調理が趣味である母親を満足させるためである」(下巻p.65)
「よほど調理の好きな母親以外は、ああ私にはこんなものを毎日つくる根気はないと思ってしまう。そして現実にはありあわせの副食で離乳をしながら(それでよかったのだ)、いつも私は正しい離乳をしていないという劣等感にさいなまれていた。いまの既成品の離乳食をつかうようになって、母親はまったく気が楽になった」(同前p.58)
実は、2月末に本書を購入して、ぼくが一番に影響を受けたのは、この離乳食についてであった。
離乳食の作り方や方法ではなく、その「思想」を本書から感じ取ることができた。
「栄養は人生の一部である。離乳食だけのために生きるような離乳期などという呼び方は感心しない。
それよりも、外の世界をよく認識し、からだを動かすことが上手になったこの時期は『鍛練開始期』とでもいいたいくらいだ。厳寒の季節をのぞいて、せいぜい外気のなかで生活させてほしい」(同前p.43)
「裏ごしだのすり鉢だのをつかって、あまり手のかかる離乳食をつくるのに賛成しない。それだけの時間を赤ちゃんの鍛練にまわしたい」(同前p.77)
「赤ちゃんに楽しい人生を用意しようとはしないで、義務の人生をおしつける母親がおおい。はやく離乳をしなければならないという義務感にあけくれする母親である。毎日体重をはかり、何をどれだけ食べさせるかということしか、かんがえない。離乳食献立と首っぴきで、離乳食をつくり、毎日これだけは、ぜひ食べさせようと努力する。赤ちゃんが離乳食を食べてくれればよろこび、食べてくれないと悲しむ。こういう母親は、赤ちゃんに1日何カロリー食べさせたかを計算するが、赤ちゃんに今日は、どれだけ楽しい思いをさせたかということをかんがえない」(同前p.115)
ぼくとつれあいは、毎日育児の日誌をつけている。ぼくの記録は知らず知らずのうちに、離乳食の記事が多くなっていく。グラム数をはかったりする神経質なことをやるのはぼくである(つれあいはつれあいでミルクの量に当初神経質であった)。
松田はこの時期3時間くらいは赤ちゃんを外気にあてたい、とのべる。
もちろん、そのまま実行してはいないが、そういえば娘を一応毎日外には連れ出していたものの、離乳食のことを気にして、外気にあてることや鍛練するということについてはかなり軽視していたと思いあたったのである。
また、離乳食そのものについても、
「30分かかってかゆを100グラム食べさせるのは、3分で100グラムの砂糖入り牛乳をのむのより、栄養学的におとっているのをよくおぼえてほしい。たんにカロリーの点だけでなく、かゆには成長に必要な動物性タンパクがない。かゆをたくさん食べると脂肪ぶとりにはなるが、成長には役立たない」(同前p.123)
という指摘は「あっ」と思った。
動物性タンパクは、卵や魚ということになるので、それも増やしたのだが、なによりもミルクや母乳を見直した。ミルクや母乳でタンパク質は基本的にとり、離乳食ではその接種は無理しない——まさしく離乳食とは本格食への橋渡しでしかない、ということを強く感じたのである。
さて、そのように評価の高い本書であるが、やはり本書は「現役の育児書」ではなく、「古典」となるべきであるとぼくは考える。その意味で本書が岩波文庫に入り、「古典」としての仲間入りをしたのは正しい判断であったように思えた。
なぜならば、やはり育児においては最新の知見を活かすことがどうしても欠かせないと思うからである。本書を読んでいくと、1997年の育児休業法の改訂が反映されていてちょっと驚くが、実は松田自身、本書についてたえず改訂を試みてきていたようである。「『育児の百科』は六七年発刊いらい毎年改訂を続けており、そのために最近まで外国の週刊誌を含め毎月三十冊の医学雑誌に目を通していた」(京都新聞98年6月3日付)という松田の姿勢からも最新の知見をとりいれることの重要性が知れる。
ゆえに、本書は、進歩のいちじるしい分野である、「病気」についての章を削除し、そして「古典」となることで、逆に安心して長く読み継がれるべきものになるはずである。