『こわい顔じゃ伝わらないわよ』『二月の勝者』

「勉強が全然楽しくない」と泣く

 田舎の中学校とはいえ、自分が「優等生」であったものだから、自分の物差しで子どもを測ってしまう。定期考査で平均点とか取ってくると、正直がっかりする。しかも全教科そんな具合だからなおさらがっかりする。点数亡者めと言われて仕方がないが、ぼくの心に一旦こういうシミができてしまうのは、本当にできてしまうのだから仕方がない。おくびにも出さないけど。

 コロナによる長い臨時休校の後に中学に入学した娘は猛スピードの授業と大量の宿題に音を上げ、泣いたり、学校に行かなかったり、遅刻したりしている。この9月末、今でもそうである。平均して週に1日くらいは休む。毎日遅刻して1時間目の途中くらいから行く。宿題はためにためて、それでも泣きながら、どうだろう、8割くらいはやっている。

 仲の良い友達は数人いて、同じ部活をやっている。PCでLINEをやり、YouTubeをしながら横でやりとりしている。

 しかし、娘は「学校が楽しくない」という。そして「勉強が全然楽しくない」ともいう。ときどきそう言って泣く。さっきもそう言って泣いていた。本当に「学校が楽しくない」「勉強が全然楽しくない」「この先楽しいことがあるとも思えない」というフレーズで泣いているのである。何か丸めたり要約しているのではない。

 勉強ができたぼくとしては、そして学ぶことは基本的に楽しいと思っているぼくにとって、娘が学ぶことがつらいと言って泣いていることは、本当につらい。

 先ごろ自主的な夜間中学校をやっている先生たちの話を聞き、『夜間中学へようこそ』(コミック)を読み返し、学ぶことの喜びのようなものを、涙して聞いたり読んだりしただけに、“勉強が苦痛だ”と泣き叫ぶ自分の子どもに戸惑うばかりである。

 

夜間中学へようこそ (アクションコミックス)

夜間中学へようこそ (アクションコミックス)

 

 

担任の回答にショック

 一度担任にまじめに相談したことがある。

 娘がこのように言っているのですが、何かアドバイスがありますか、と。手紙で簡単に質問していたから、電話がかかってきて、明らかに戸惑ったふうで「そうですねえ…うーん…ワーク(問題集)を少しずつ…例えば毎日1ページ…うーん…やることですかね…」と答えた。

 ちょっとショックだった。これはもう相談してもダメだと思った

 この教育条件下だから、忙しいとか、個々の子どもに手をかけている暇がないとか、そういうのはわかる。しかし、「今は時間がないし、条件がないんだけど、本当はこんなこととかあんなことをやって、勉強を楽しくしたいと思っている」とかそういう専門職としての思いが聞けたり、ひょっとしたら具体的なアドバイスが聞けたりするかと思った。だけど、返ってきたのは、本当にただ課題をやらせることしか頭になくて、ページ数と期限をつけて子どもに指示するだけで、そんなのは俺でもできるという思いしか残らなかった。

 娘は娘で、よくわからない。

 宿題の量が多いのか少ないのか、親として客観的な事実を知りたいのだが、期限と範囲を聞いても全体像を示さない。わからない。娘は「『1ページノート』(毎日自分で課題を決めてなんでもいいから埋めるノート)とワークを1ページを毎日やれば終わるんだよ」と言うのだが、主要5教科あるのに「ワークを1ページ」などというヌルい宿題を中学が出すのだろうかとぼくは不審を起こし、娘に「本当にそれだけ?」と何度も念押しするが、娘はそれしか答えないので、信用して進行を見ていたら、毎日、娘は雑に1ページノートとワークを終えて長時間PCをやっている。

 ところが定期テスト間際になって、できていない課題が莫大な借金のように残り、本人は「できていない」「間に合わない」とすすり泣くのである。やはり、宿題は実際にはもっとたくさんあったのだ。生活相談に来た困窮者に「もう他に借金はありませんか?」と聞くと、相談者は「ありません!」と断言するが、実はもっと借金を抱えていたりする。なんで言わない。あんな感じだ。

 PCを長時間しているのがいけないのか、と思って、本人と話し合って制限したが、PCが使えないからといって勉強をするわけではない。(PCをしない=勉強をする、というのではないことはわかったので、今はあまり制限をかけていないが、晩以降どうだろう毎日4〜5時間していると思う。勉強をするかどうかとは別に、体力と睡眠を奪うので、話し合って再度ルールを決めて制限をかけるようにはしたい。)

 

なんで「教えて」って言われて教えたら不機嫌になるのか

 結局娘に事情や情報は聞き出すけど、過干渉になることをぼくは恐れるので、PC規制以外は勉強について何か娘と取り決めをしたりすることはしなかった。

 娘が「これ教えて」と言えば教える。しかし不思議なもので、数学などを「教えて」というくせに、1問教えるだけで途端に不機嫌になって投げ出すのである。なんだそりゃとこっちは呆れる。しかし、中学教師経験のある友人が言うには「それは本当に教えてもらいたいんだけど、『わからない・情けない自分』がたちまち現れて、それを親にじっくり見られて心底恥ずかしいという思いがすぐに襲ってくる、っていうすごく理不尽な状況だと思いますよ」と言っていた。納得できる説明であった。

 それで英語などは、テスト前日に、まともに単語の綴りも覚えていないし、文法もでたらめであったので、「これは(点数が)一桁台になるな…」と覚悟していた。

 しかし、英語は平均点より少し悪い程度で、こっちがびっくりした。あれで? どうして…?

 そういう日頃のずさんな様子を見ていると、総じて平均点を取ってきたのは、大いなる前進であり、ある種の奇跡とさえ思えるので、むしろホッとした。「あっ、けっこうがんばったな」「どうなることかと思ったけど、まあ、いいんじゃない」と伝える。

 しかし、例えば数学は圧倒的にケアレスミスが多い。そして焦っている。

 時間をかけて解かせれば、確かに解けるものが多い。ケアレスミスをなくすだけでもかなり点は上がる。優等生だったぼくは、「テストで検算をしない・見直さない」という娘の行動が理解できない。

 中学受験を描いた『二月の勝者 絶対合格の教室』3巻に出てくるあのケアレスミス、そして焦りである。

 

  

 一番できないクラスのRクラスを受け持つ主人公の塾講師・佐倉は、子どもたちが検算せずにケアレスミスにまみれて点数を大きく落としている現状を嘆く。

とにかく ケアレスミスが全然直りません。

ただ最近指導している、「できる問題をまず選んで先にやる」という作業自体はできているようです。

しかし このケアレスミスの多さは、もったいないよといつも伝えているんですが なかなか…

 

 佐倉を指導している校長(塾長)・黒木は、注意力や演習量が足りない子どもたちを、

そういうのをひっくるめて一言で言うと、「バカ」って言うんですよ。

とキツい言葉で断定する。そういう子どもには「問題を選んで優先させて解かせる」という優等生のマネをさせると時間が足りなくなって焦るから、やめさせたほうがいいとアドバイスする。問題を半分にして解かせるように佐倉に指示をする。なぜなら、「焦り」を除去して、基本の計算問題を確実に取ったほうが得点の上昇につながることを「得点が確実に上がる」という喜びで体感させたほうがいい、というのが黒木の方針なのである。「バカ」というキツい言葉を黒木が使ったのは、そういう子どもたちには、ケアレスミスをいくら口で指導してもわからない、体感させる指導の工夫が必要なのだ、ということが言いたいのだ。

 その真偽のほどはわからないのだけども。

 

指針がほしい

 ぼくは、一体娘にどの程度関与していいのか・いけないのか、よくわからない。

 PTAをやっていないせいなのか、他の親とのつながりは全くない。もっともPTAをやっていた小学校時代にも横のつながりはほとんどなく、あっても子どものディープな悩みを相談するような関係ではなかった。むしろそういう話は、保育園時代のつながりや、職場でのつながりでしていたし、今もしている。

 ただ、「あら、うちの子もそうよ」という井戸端的な共感がほしい訳ではない。そういうものが必要な場合もあるのだろうが、専門家のアドバイス、教育科学としての指針が欲しいのである。

 娘が赤ちゃんや幼児の時に育児の指針にした松田道雄『育児の百科』のような、大雑把な指針が。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

そこで尾木直樹ですよ

 そこでぼくが頼るのは、尾木直樹である。

 

 この本(『こわい顔じゃ伝わらないわよ 尾木ママの子育てアドバイス』)は「しんぶん赤旗日曜版」に連載されていた時に、時々読んでいた。自分の実感に合うことが多かったので、参考にしているのだ。

 

 尾木の教育論のポイントは「自己決定力」である。

 

子育てのポイントは、自分で決める自己決定力を子どもにつけていくことです。子どもが「どうしたらいいかな」と相談してきたとき、親は結論よりも解決策を提案して、子どもが自分で決められるようにしてほしい。「こうしたらどう?」と、いくつかの方法を提案できる力をつけることが、親として大切なんですよ。(p.32)

 

自分の気持ちを表現できるようになるためには、子どもが自分で決定する経験を積み重ねることです。/最初は小さなことでいいんです。…親は「お母さんはこう思うけれど、違うことを決めてもいいんだよ。自分でよく考えて決めるといいよ。決めたことは、お母さんも応援するからね」という姿勢でいることが大切です。/自己決定は、自分に自信がもてるようになるために大切なこと。…そうして自分に自信がもてるようになれば、ありのままの自分を親の前で出せるようになっていきます。そういう関係をつくっていけるといいですね。(p.66-67)

 

親との関係として読む

 もちろんこれは子どもにとっては自己肯定感とか責任感を育てるという話なんだけど、親との関係論であると言える。この逆は、親が管理し、決定するという状況。あるいは、学校や社会が管理し、決定するという状況でもある。

 ぼくが政治活動をやっているのは、自己決定のためである。社会というものに自分が無力であってはならないので、組織に入り、社会に働きかけている。ぼくにとって自己決定は人生の原理の中心にある。

 自分が子どもに対して望むこともそれである。

 自己決定ができるようにしたい。

 自己決定のためには、本来自己を取り巻く環境を変革しなければならない。そして環境に働きかけねばならない。そのためには環境(自然と社会)を客観的に知らねばならないし、同時に環境とコミュニケーションを取らなければならない。前者のために学習や研究があるし、後者の第一歩は自分の意見表明である。

 後者の第一歩として、親とのコミュニケーションがある(もちろん友達や先生とのそれもある)。親が何でも決めたり指示してしまうというのは論外であるとしても、そもそも親に対してモノが言えない・言いにくい・断絶しているという関係になってしまっていてはそれができない。あるいは回路があっても錆び付いていて、およそ気軽に本音が言えないというのでも困る。

 だから、娘がぼくたち親の前でホンネをさらけ出して泣いているのは、とてもいいことだと思っている。ベタベタしたり、話しかけてきてくれたり、そういう関係が濃密にあるのも悪くないと思っている。

 だけど、やはりどうしても管理したり、指示したりするメンタリティがぼくにもつれあいにもある。特に中学生にもなった子どもに、まるで小学校低学年の時と変わらない調子であれこれ指図すること自体がダメだ。自己決定どころではない。

 

子育てでも教育でも、子どもと接するうえで大切なのは、子どもたちの表面的な現象にとらわれることではなくて、その奥に潜む心の叫びに向き合うことだと思います。心に向き合えば、必ずと言っていいほど通じ合えるのです。非行の子でもどんな子でも、これまで通じなかった子はいなかったと思っています。/学校にはいわゆる授業活動と、生活のルールづくりなどゆるやかな管理を必要とする分野がありますが、どちらにおいても、心を管理してはダメなのです。心を管理したら、その瞬間に教育ではなくなってしまう危険があります。(p.223)

 

 これは一瞬、メンタルな部分に関与しない、という意味に聞こえる。

 しかしそうではない。

子どもの「心を管理しない」という意味は、教師側の思いだけでモノゴトを見ないこと。一方的に子どもを評価しないということです。…だから、どう考えてもこの子が悪いに決まっていると思うような場面でも、いきなり頭ごなしに決めつけたり叱ったりするのではなくて、まず、“「どうしたの?」と言葉をかけましょう。”これは尾木ママのキャッチフレーズにもなっています。(p.224)

絶対に決めつけをしない、上から目線や教師目線ではなく、子どもとフラットな気持ちになって「どうしたの?」と向き合う姿勢を心がけてきたことが、もしかしたらママ的な雰囲気に繋がっているのかもしれません。(p.225)

  ここで尾木は「どうしたの?」というフレーズの重要性を出しているように、「心を管理する」というのは、一方的な関係となること、すなわち支配し指示する関係になることだとわかる。これは表面的な決めつけ、表面上の現象に振り回されるということとも裏腹である。

 『二月の勝者』の3巻で、「子どもの頃の夢」の話題を軸に、作文に書かれていることを真面目に受け取るな、という話が出てくる。

子どもは裏切ります。

言うことを真に受けてはいけません。

という露悪的な黒木の言葉は、「子どもと接するうえで大切なのは、子どもたちの表面的な現象にとらわれることではなくて、その奥に潜む心の叫びに向き合うことだと思います」という尾木の暗黒版であろう。

 つまり、子どもの本質への洞察をした上で、一方的な指示・支配の関係でなく、相互的な関係を作って自己決定を促せというのである。

 親が子どもを洞察したことは、相互的な関係においてどう生かされるのか。

 親の関わり方、つまり意見の出し方について、尾木はやや細かめのアドバイスをする。

親が自分の意見を伝えるの。/そして、意見を言ったらさっと引くことが大事です。親が正論を言って従わせようとしても、子どもはムカつき、反発するだけですから。(p.132) 

子どもの言うことが間違っていると思ったとき、「それはおかしいと思うよ」「そういう考えは、お母さんと逆だね」と指摘する。子どもが「なんでだよ〜」とつっかかってきても、言い合いはしない。子どもはいろんなへ理屈を言ってくるから、感情的にけんかになってしまいますからね。(p.152)

同時にお父さんには、必要なときに「それはおかしいと思うな」「そんなのお父さん、許さないよ」と子どもにきっぱり伝える、「壁」の役割も果たしてほしいの。/この時期は、「どうしたらいいのか」「どこまでなら許されるか」を、親への反抗という形で手探りしている状態でもあります。だからこそ親御さんには、自分の心情に基づいて毅然とした態度で立ちはだかり、子どもの成長をうながす「壁」になってほしいのです。(p.58)

 

 尾木の本は、この他にも、「ルールを取り決める」「それを破ったらどうするか」「異性との付き合いは」などの細目に話が及んでいくのだが、大事なことは尾木の教育思想をつかまえて、そこからの出ているものだという太い幹をとらえることだろう。そうしないと、細かいドグマを読んでいるような気になってしまったり、あるいは、別のページで矛盾するようなことを述べているように読めてしまったりするからだ。

 この本を読んだからと言って娘が何かすぐに変わるわけではない。

 ぼくの心にも平安が訪れるわけでもない。

 しかし、それでも何か指針がほしいのである。その指針に今のところ、尾木の本はなってくれているのだ。