やきそばかおるの「ラジオの歩き方」や沙村広明『波よ聞いてくれ』など

 「しんぶん赤旗」に、やきそばかおるの「ラジオの歩き方」が連載されている。21日付でその「第28歩」が掲載された。9月に来襲した台風10号で、風変わりな宮崎放送における台風情報報道を紹介していた。

 ぼくはこの宮崎放送のラジオを聴いていないので、やきそばの(って変な書き方だけど)紹介記事のみでそれを想像するだけである。

 

 深夜の台風情報といえば、環境音楽と時折の台風情報。しかし「それでは寂しいですよね」と担当の川野武文アナウンサーが述べたそうである。そこで台風情報の合間には、

今夜は音楽とトークをお届けします。停電の中で一人で聴いている人がいましたら一緒に仲間に入ってもらって、この番組で夜をこえていただけたら

 というのが川野アナの挨拶だった。

 緊迫した台風情報と、その合間に流れるトーク、掛け合い。パンダのニュース、歌謡曲や演歌の曲のエピソード付け足しなど「心が和む」(やきそば)時間に。

 さらに驚いたことには、「皆さん、お腹が空きませんか?」と言いだし、リスナーが買い込んだであろうラーメンを午前3時にみんなで食べようじゃないかと提案。

3時をまわり、台風情報を伝えると川野アナは予定通りに「ズルズルー! ズルズルー!」と美味しそうな音を響かせた。

 もう一人の外種子田結アナウンサーは、水でもラーメンが食べられるか「実験」をしていた。

この時間にラジオの前に集まったリスナーは、朝まで共に過ごす運命共同体であることを実感した。

 まことに自由である。

 「ラジオの自由」それも「深夜ラジオの自由」について思いを馳せずにはいられなかった。

 思い出したのは、沙村広明波よ聞いてくれ』である。

 

  まったくの素人である主人公・鼓田ミナレが深夜ラジオのパーソナリティになり、自由きわまる放送をする物語である。トークの自由さもさることながら、物語はさらに新興宗教による拉致事件に巻き込まれるという、展開からいえばどう考えてもあり得なさそうな「自由」っぷりがまた「ラジオの自由」のメタさを味わわせてくれる。

 

 しかし、ラジオを自由だと思うのは、もう古い世代のノスタルジーかもしれないと思いなおす。

 ぼくが中学の頃、家にホームビデオのカメラがやってきて、録画したものを自分の家のテレビで観た、それだけでテレビ放送に自分が近づけたような興奮があった。実際には何も近づけていないわけだが。ラジオ放送に憧れて、テープレコーダーに自分のトークを入れてカセットに録音し番組を作ったりしたのと同じである。

 それどころか、ワープロがない時代で活字さえも自由にできなかったから、学校の職員室で漢字を拾う和文タイプライターをいたずらし、自分だけの冗談ニュースを作った。活字のくせにふざけた内容のニュースになっていて、それだけで半日は腹がよじれるくらいに笑っていられた。

 しかし、今やワープロもあるし、インターネットもあるので、自分からいくらでも自由な発信ができる。娘が聴いている「にじさんじ」などVtuberトークを聴いていると「ああ、これはぼくらの世代のラジオだな」と思ったりする。

 だから、ただ自由であるだけでは、ラジオの特性としてはもはやノスタルジーでしかない。

 そう思い直して、このやきそばかおるの記事の「自由」を再度じっくり考えてみたのだが、やはりこれは台風情報という公共放送としての強い拘束があり、その下での自由ということなのだろうと思い至った。

 台風情報のような厳格でシリアスな報道とセットを任務にしているなら、下手な工夫を住まいという官僚主義的な心の機序が発生しそうなものだ。しかし、この二人のアナウンサーは、一人で心細く聴いているリスナーのためにあえてラーメンをすすったり和ませたりという工夫をした。

 リスナーから「画期的な台風情報だ」という感想が届いたそうだが、首肯できる。

 これは放送の公共性とセットで初めて活きてくる「ラジオの自由」なのだろう。