シーナ・アイエンガー『選択の科学』

 今度のリモート読書会で取り上げたのは、シーナ・アイエンガー『選択の科学』(文春文庫、櫻井祐子訳)である。

 

  アイエンガーの「研究のうちで、もっとも人口に膾炙しているのが、『ジャムの研究』だ」(p.260)。ジャムのような商品は選択肢が多いほど購入率が上がるように思われるが、その思い込みを覆すのである。ぼくもこの本を読む前に、テレビで司会者が話しているのを聞いたことがある。

 

 一読した時、正直この本をどう扱っていいのか、よくわからなかった。

 「選択に関する心理学的な実験で、ジャムの研究のような面白いエピソードがたくさんある」——こういうふうにまとめてしまうこともできる。

公選職員は人口全体の平均に比べて身長は約一〇センチ高く、禿げでない確率も高いことが示されている。これは政治の世界に限ったことではない。(p.250)

とか。

〔寝坊の常習犯がアラームのスヌーズ・ボタンを押さないための負のインセンティブとして*1〕メーカーでは、最大限の効果を得るために、自分の嫌悪する団体(アンチ・チャリティ)を登録することを推奨している。たとえば銃規制法強化の支持者なら全米ライフル協会(NRA)、クローゼットが毛皮のコートで一杯の人なら動物愛護団体(PETA)といった具合だ。(p.366)

とか。

 まあ、実際、読書会としてその部分が盛り上がらなかったといえば嘘になる。

 訳者は、この本の「あとがき」で、この中身が「白熱教室」としてNHKで放映され反響が大きかった事実をとりあげて、なぜ日本人の心をとらえたのかを3つで簡潔に提示している。

  1. 選択のもつ力へのあらためての認識。
  2. 賢明な選択をするための具体的方法論が示された。
  3. 選択は自ら切り拓くものだという気づき。

だというのである。まったくわからないわけではないけど、ぼくにはこのまとめ方はあまりピンとこなかった。

 

 それで2回目を読んでみて、あらためて思ったのは、アイエンガーが「批判」しているのは、アングロサクソン的な、素朴かつ無垢な「選択の自由」だということだった。

 「アングロサクソン的な、素朴かつ無垢な『選択の自由』」という言葉は、アイエンガーが使っているものではない。ぼくの造語である。それは何か。つまり、個人が独立して(=孤立して)なんの影響も受けずに選んだことこそ、まっさらな自由意思であり、尊いもので、しかもそれは、選択肢が多ければ多いほど、よりよい選択ができる、という考えだ。

 しかし、アイエンガーは、これを批判する。

 第2講「集団のためか、個人のためか」は、結婚について、個人の意思による恋愛結婚を尊ぶ文化集団と、集団や親が「許嫁」のようにして決めそれに従う文化集団との比較を行っている。現代日本にいるぼくらとしては、かつて日本にあったような後者のような決め方には怖気がするようであるが、アイエンガーは幸福を感じる度合いやその後の夫婦生活、相互の感情などを紹介し、必ずしも前者が普遍的で優れているわけではないことを示す。

 つまり独立した意思決定は、それを尊ぶ文化の文脈の中ではまさに尊いものなのだが、では社会が違ったり、その後の幸福感を考慮したりすれば、相対化されてしまう。

 例えば、ぼくがこの話を聞いて思ったのは、「選択できない親元で、子どもが暮らすこと」についてだった。先進国・日本にいるぼくらは、ふつう、子どもとして生まれた際に、親を選ぶことができない。どんなレベルの親に育てられるのかは、選択できないのだ。考えてみるとそれはとてもおぞましいことではないのか?

 「えっ、その子を産んだ親がずっと育てるんですか? 20年も? チェンジできない? はあ…。それはまたなんというか…大変ですな」という異文化の人がいても不思議ではない。「私たちの社会では、子どもたちは社会保育院に預けられて、貧困や暴力の心配なく、みんなで同じ条件下で育ちます。そして、科学的で専門的な保育・教育を受けるのです。はい? 無条件の愛? 愛ですか。うーん……。まあ、仏教のような宗教でも愛には否定的ですよね。迷妄や執着を生む、って。愛のように極度に偏執的なものが無条件であって、何かいいことがありますかね?」

 「結婚は親が決める」という価値観は「子育ては親が行う」という価値観とそう隔たりがあるものではない、ということだ。

 

 この問題はいくつもの問題に分かれていく分岐点にある問題で、

  • 社会や集団の中で規定される自分。「孤立した決定」というものはフェイクであって、存在しない。
  • 「とにかく自由な個人の選択」という古典的なリベラリズムは、売春や自殺の問題に見られるように、内容の良さを保証しない。
  • かといって「割礼をされるのも、その地域で暮らす人にとっては幸せなのだ」というような主張、普遍的な人権や民主主義を否定する文化相対主義に道理が果たしてあるのか。

などに発展していく。

 

 第3〜5講は「『強制』された選択」「選択を左右するもの」「選択は創られる」で、個人の自由意思に基づくはずの選択は、実は何かによって強制されていたり、思わぬものに左右されていたり、あるいは意識的に創られた風潮の中で「自発」的に従っていたりするのだという指摘である。

 選択の際に、社会や自然(人間の心理現象を含む)からの様々な制約が働いて、選択を左右する。その制約を変えようではないかといえばマルクス主義的であるが、アイエンガーはそこまでは言わない。そのような制約が働いていることをよく認識しようぜ、と言うのだ。

 ぼくがこの辺りを読んでまず思い出したのは、選挙である。選挙というものは、「個人の自由意思に基づく選択」がまっさらな形で実現されるという擬制である。しかし、実際には、様々な制約が働いての投票行動となる。

 

 第6講「豊富な選択肢は必ずしも利益にならない」は、冒頭に挙げたジャムの研究のようなケースである。

 しかし、これはアマゾンの「ロングテール」のような実感と矛盾するのではないか、と思うが、アイエンガーはこの問題を「自分が探しているものがはっきりわかっている場合」(p.277)、「ほかとはっきり区別がつく商品の場合」(p.278)のような条件付きのケースだとしている。逆にいえば「選択肢が多いほどいい」ということを完全否定しているわけではない。

 

 第7講「選択の代償」は、個人の選択があまりにも重い負荷をかけてしまう場合である。子どもの延命治療について、完全に自分で選択をしたアメリカ人と、専門家(医師)の判断を参考にして自分で選択をしたフランス人との違いを示し、前者はいつまでも選択の結果に悩む人が多いのに、後者は子どもとの時間を自分の中にきちんと仕舞い込めるなど納得している人が多い。

 ここでも個人の孤立した自由な選択は批判を受けている。

 

 そしてアイエンガーは最後に「シジフォスの神話」で締めくくる。

 巨石を頂上に上げるという苦行を永遠に課せられたシジフォスの神話を取り出したカミュを引いて、アイエンガーは人生が無数の選択というシジフォスのような業を課せられていることを示す。

もし未来がすでに決まっているなら、選択にはほとんど価値がなくなる。だが選択という複雑なツールだけを武器に、この不確実な未来に立ち向かうのは、わくわくすると同時に、怖いことでもある。(p.379)

 ここには、自由と必然性についての古典的なジレンマがある。

 アングロサクソン的な完全孤立の選択の自由においては、選択は偶然に満ちた個人的な行為となる。逆に、選択が自然と社会の法則で全て制約されているなら、選択は無価値になる。

 アイエンガーの本書は「選ぶというアート」が原題である。

 制約が一定ありつつも、それを認識して一つの作品のように組み立てていく、というのがアイエンガーの選択観だ。完全な自由でもなく必然や運命でもない。しかし、出来上がった作品は個人の意思に基づきながら、これしかないという必然とロジックに満ちている、というものだろう。

 これは戦後主体性論争(簡単にいえば、マルクス主義的にいえば歴史は社会発展の法則だから、放っておいていいのか、それとも個人が主体的に関わることでなんか変わるのか、という問題)の一部と重なる。ぼくがイメージするマルクス主義的な人生観に近いと思った。

 

*1:引用者注。