埜納タオ『保健師がきた』1

 以前、全日本民主医療機関連合会(民医連)にかかわるところで、職員の方にお話をさせてもらったことがある。

 そのときに、自分の講演をする前に、職員のみなさんのがグループごとに分かれて、いわゆる困難事例についてディスカッションをしているのを聞かせてもらったことがある。

 「困難事例」というのは、支援が困難な事例ということだ。

 ごみ屋敷などを想起してもらえばいいと思うが、複合的な要因が重なって、「行政のこの窓口につなげて、こういう制度を活用すれば救済される」という具合にはいかず、支援や解決が非常に難しいケースである。

 たとえば下記は厚生労働省のサイトに置かれている「支援困難事例の検討」という資料からの引用だ。 

https://www.pref.kanagawa.jp/documents/74504/jireia.pdf

 父親(80 代)と娘(40 代)の 2 人世帯、主たる相談者は父親。

 父親は狭心症(身障手帳 4 級)とC型肝炎で通院治療中、歩行不安定。数年前までは板金業と農業で多少の収入を得ていたが、現在は年金収入(約 5 万円/月)のみ。所有する 600 坪の田畑を人に貸し収穫米を受け取っている。持家、預貯金なし、借金なし。運転に不安が出てきたため移動の際は公共交通機関を利用している。外出時は常に娘が付き添う。
 娘は高校卒業後、祖母や母親(20 年前に死亡)の介護と家事全般を担ってきた。収入なし、就労経験なし、運転免許なし。ずっと家に居たため、他者との関わりに不安がある。頭痛・耳鳴り・めまい・腰痛・腹部膨張感等の体調不良を訴え関連各科に検査通院中。MRI結果は問題なし、現状特に病名がつくような異常は見つかっていない。年金及び国民健康保険税等の滞納なし。病院SW支援のもと、医療費はお金のある時に少しずつ支払っている。担当民生委員が時々様子を見に来てくれる。

 「生活が苦しい」との訴えがあるも、具体的なお金の話になると口をつぐんでしまう。娘は大人しく、必要な時以外はあまり話をしない。就労に少し関心を示しているが、父親の意向に沿わないことはしたくないと考えている様子。父親が○○月以降も入退院を繰り返しており、娘もずっとそれに付き添っているため、ゆっくり話をする時間をとるのが難しい。主に父親の支援担当として地域包括支援センター、娘の支援担当として保健師、世帯の生活全般の支援担当として自立相談支援機関が定期的に訪問しているが、状況確認や情報提供、傾聴に留まっている。病院SWも含め、支援者間で情報はその都度交換・共有し、連携をとっている。

 これ以外にも障害が絡んだりするケースなどが事例集として多くまとめられている。

https://www.pref.kanagawa.jp/documents/74504/jireia.pdf

 民医連関係の病院には、そういう人が患者として「どうにもならない」状態でやってくることがある。そうした場合にどうしたらいいかというのをお互いにアドバイスしあっていた。

 ぼく自身、議員などの生活相談でときどきそうしたケースを知っていたし、書籍も読んだことがあるけど、民医連関係の現場というのは、そうした生きた事例がこんなにもあるんだなあと驚いた。そして、やはり一筋縄では解決しない話が多かった。

 

 埜納タオ保健師がきた』は、新人保健師の成長物語で、エピソードごとに基本1話完結型の構成になっている。ある意味、非常にオーソドックスな形式だ。 1巻は保健師の仕事を一つ一つ紹介しながら、物語化していくような形をとっている。

 

 

 

 まず、保健師といって思い浮かぶ「新生児訪問」。ぼくも実際に保健師に会った記憶といえばまずこの仕事をあげる。

 次に地域の「健診」。

 そして、「ごみ屋敷」。

 ごみ屋敷問題は、市町村で言えば、環境部局の仕事である。本作でも主人公(保健師)たちは初めは介入できない。

 しかし、住民に質問をしていくうちに、栄養が取れていないことや、全身にダニの噛み跡があることがわかり、

健康レベルが明らかに低下=保健師が介入できる!!

と考えて関与を始める。

 主人公・三御(さんご)たちは仲間の職員たちとともに、部屋を掃除し、掃除することで住民に「快い」という感情を抱いてもらい、次の支援を受けやすいようにする。

 住民である女性は発達障害なのか? という原因探しをしたくなるが、それを優先させるのではなく、どういう生活を本人が望み、それをどうしたら支援できるかを優先させていく。

 三御たちが課題と考えたのは、女性が住む団地が古くなり「呼吸をしていない」、つまりコミュニティが機能していないと考えたことである。

 高齢化が進み、以前のような団地自治会の役割が発揮できず、「迷惑住民」を安易に排除するような形でしか「自治」を行使できない。

 三御たちは、ごみ出しなどの指示をわかりやすくしたり、回覧板を工夫したりして、女性が暮らしやすいように自治会にも協力してもらうとともに、自治会の活動を団地内カフェのような「ゆるやかな交流」を重点にしたものに切り替え、もともと女性がいた世帯を気にかけていた同じ団地の知り合いなどの援助を得やすいようにした。

 女性はカフェを手伝い、人とのつながりを取り戻し、入院していた母親が戻ってくる予定が知らされ、女性が望む「おだやかな暮らし」を実現できそうな予感で幕を閉じる。

 これは出来すぎではないか?

 安易ではないか?

 困難事例の困難さから見ればそう思うかもしれない。

 それはその通りかもしれない。

 しかし、保健師などの行政が地域の資源と連携して、解決したり支援をしていく道があるんだよ、と短く、そして希望としてそれを示していくことで、今困難に置かれている人たち、もしくはそれを支援したいがどうしたらいいかわからない人たちに、一筋の道を示す意味がありはしないだろうか。

 「保健所に相談したらいいんだろうか」「自治会を見直せばいいのかもしれない」などのように。「ごみ屋敷=排除」という短絡から少なくとも思考を一旦変えさせることができるかもしれないのである。

 1話完結でオーソドックスな物語を示そうとする本作にはそうした役割があるのかもしれない。