坂口安吾『戦争と一人の女』『堕落論』

 リモート読書会は坂口安吾戦争と一人の女』『堕落論』。

 ファシリテーターは、以前ブログでエントリも書いたことがあるぼくである。

 参加者の一人、Aさんが事前に「『戦争と一人の女』って読み終えたけど、『なに、これ…』みたいな感じだった…。どういう感想言っていいかわかりません」と当惑しまくりだった。

 

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

  • 作者:坂口 安吾
  • 発売日: 2008/10/16
  • メディア: 文庫
 

 

 そこで、『堕落論』の方から理解するとスッキリするかもと言って説明した。

 

白痴・堕落論 坂口安吾作品集

白痴・堕落論 坂口安吾作品集

 

 

 『堕落論』の標準的な解説を、ジョン・ダワーが『敗北を抱きしめて』でやっているので、それを紹介した。

坂口安吾は、一九四六年四月に世に出した小論『堕落論』で、戦時体験は「幻影的」なものにすぎなかったと激しく批判し、これに比べると戦後社会の堕落のほうが人間的で真実に溢れていると論じた。(ダワー前掲書上、三浦洋一・高杉忠明訳、岩波書店、p.189)

この評論が衝撃的であったのは、一見してあまりに単純、正常だったからである。「健康」や「健全」という言葉は、戦時中の理論家や検閲官が非常に好んだものであるが、そういわれた実際の世界は、不健全で病的であった。逆に、退廃し不道徳であることこそが真実であり、現実であり、最高に人間的なことなのである。なによりもまず、堕落にたいして謙虚になることによってのみ、人々新たな、もっと本物の道義性について考えることができるはずである。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わねばならない」。これが沙河口の結論であった。(前掲書p.191)

個人のレベルでの真の「主体性」(真の「主観性」ないし「自律性」)に立脚した社会でなければ、国家権力による民衆教化の力にはけっして対抗できないのではないかという問題である。(同前)

 

敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人
 

  美しい虚偽としての戦争と、平凡な真実としての堕落を対比して、後者の徹底を説いた。しかしそれは本気で堕落すべきだというより、現実と肉感に即した力強い主体的な思想(自分なりの「武士道」)を取り戻すための反語のようなものである。

 坂口は政治に期待しない。政治(や世の中で喧伝されている「思想」)などは大雑把な網だから、人間の本当の心情や本当の現実をすくい取ることなどできないというのが、坂口の厳しい批判なのである。あの頃のマルクス主義なんて、そんなことを言われてもしょうがないんじゃないかな、と思える。

 この「大義としてのコミュニズム」と「いきいきした肉感としてのオタク」という分裂は、ぼくのテーマでもある。政治で語る言葉や、政治が取り扱うものが、嘘くさいものであってはならない。両者をどう統一するのかがぼくの問題意識だ。

 他方で、坂口のノベル「美しい虚偽であるところの戦争」の美しさは、単に方便・対比的にそのように言われているだけではない。「美しい」といったらホンキで「美しい」のだ。生半可な気持ちでそう言っているのではない。坂口にとっては本当に、心の底から、虜になるほど美しいのだ。

 破壊がもたらす美しさに憑かれる様を、一人の女に仮託して描いた。それが『戦争ともう一人の女』である。

 一人の女にのめり込む様。その女は不感症で、しかも「結婚」して「子どもが生まれて」「幸せになる」などといった、幸せな未来へとは一切つながっていかない、空虚な、いくらそこにのめり込んでも満たされることのない、空虚な欲望への耽溺。

 坂口は『私は海を抱きしめていたい』で同じような女に溺れる様を描いていて、あたかも自分が肉欲に溺れているのではなくもっと孤独な何かを愛しているとかどうとか書いているのだが、違うと思う。

 ホントに、肉欲に溺れているのだ。たまたまその空虚な、サバサバした、クールな女がたまらなく好きだったんだろうと思う。その女にハマったというだけの話だ。それを何かカッコつけているだけなんだ。

 坂口は女の側の視点から書いた『続戦争と一人の女』で、男は40になると恋とか愛とかいった精神的な高みをまとったものに関心がなくなり、ひたすら肉欲に溺れるという趣旨のことを書いている。現代で言えば「割り切った関係」というヤツである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 セックスだけやりまくって、そこに溺れ込んでる——それ憧れるなあとぼくは上記のエントリーで書いたけども、それが坂口的な「美しさ」なんじゃないか。たまたま坂口の溺れた女は空虚であって、あたかも戦争のようだっただけであって。

 もし坂口が書いた女が「ぼく好み」だったら、坂口の描写にもっと共感しただろうが、たまたまそうではなかった、というだけだろうとぼくは思った。

どの人間だって戦争をオモチャにしていたのさ

 というセリフは、戦争、戦争による利権、戦争がもたらす破壊などに、少なからぬ国民が淫していたではないかという批判でもある。それは戦争や破壊の「魅力」なのだ。

 近藤ようこがマンガ化するほど惹かれたのもの、こうした「戦争や破壊に魅入られるあやしい空虚さ」だったに違いない。

 

戦争と一人の女

戦争と一人の女

 

 

 というような問題提起を最初に行った。

 

 AさんもBさんも女性であったが、そのような坂口ののめり込みそのもの、あるいは坂口の子こととおぼしき『戦争と一人の女』に出てくる男性主人公の入れ込みようは全く理解できないと述べていた。

 Bさんは『堕落論』での問題提起はすごくわかる、とした上で、『戦争と一人の女』で描かれたような、そういう肉欲だけに溺れるというのはなんと貧しいことだろうかと呆れていた。生きていればもっと美しいものや、楽しいことがたくさんあるんじゃない? どうしてそんなセックスだけに溺れてんの? ということだ。そもそも男の方は生活の匂いもしないし、具体的な人間として立ち上がってこない、と批判していた。

 Aさんも「男の方は、何を職業として、どんな具体的生活をして生きているのかわからない」と述べていた。

 そうかなあと男のぼくは無邪気に思う。カラダだけ好き、性の対象とだけ見て性的な存在でしなかいという女にハマり続けるって、目も眩むほどに刺激的じゃない? 知らんけど。と思うわけだが、完全にそこにはジェンダーの壁があった。

 Aさんは、「だいたい戦争はどうしても嫌なものでしょ? じゃあ、みんな戦争が好きだったとでも言いたいわけ?」と身も蓋もない批判をする。

 ぼくは、「戦争に限らないけど、現実の悪い社会や政治というものに、誰か彼かが惹きつけられているし、批判しているような人でもそれを結局支えているという一面があるし、悪いものでも惹かれてしまうという堕落を認めないと本当の主体性なんて出てこないって坂口は言いたいのでは?」とAさんに繰り返してみた。

 

 AさんもBさんも、坂口安吾は生活感の乏しい出自と人生だったに違いあるまいという推論を述べていた。坂口がどんな生い立ちだったかは参加者は誰も知らないので、一方的な言い分になったであろうが。

 

 「坂口安吾がしょうもない作家だということはわかった」「大学時代に『俺、安吾が好きでさあ』という男性がいて、なんかカッコいいと思っていたけど、これを読んでもうビビらなくていいと思った」というのがAさんの強固な結論だった。

 

 Bさんは『戦争と一人の女』については懐疑的だったものの、『堕落論』が提起した問題については高い評価を与えていた。

 

 次回は夏目漱石吾輩は猫である』だ。