『戦争と一人の女』続論

 近藤ようこ坂口安吾『戦争と一人の女』についての感想は書いたとおりだけども、坂口の『戦争と一人の女』の原文を読んでいていろいろと思うことはあった。

  坂口の『続戦争と一人の女』には次のようなくだりが出てくる。

私はだいたい男といふものは四十ぐらゐから女に接する態度がまるで違つてしまふことを知つてゐる。その年頃になると、男はもう女に対して精神的な憧れだの夢だの慰めなど持てなくなつて、精神的なものはつまり家庭のヌカミソだけでたくさんだと考へるやうになつてゐる。そしてヌカミソだのオシメなどの臭ひの外に精神的などゝいふものは存在しないと否応なしに思ひつくやうになるのである。そして女の肉体に迷ひだす。男が本当に女に迷ひだすのはこの年頃からで、精神などは考へずに始めから肉体に迷ふから、さめることがないのである。この年頃の男達になると、女の気質も知りぬいてをり、手練手管も見ぬいてをり、なべて「女的」なものにむしろ憎しみをもつのだが、彼等の執着はもはや肉慾のみであるから、憎しみによつて執着は変らず、むしろかきたてられる場合の方が多いのだ。
 彼等は恋などゝいふ甘い考へは持つてゐない。打算と、そして肉体の取引を考へてゐるのだが、女の肉体の魅力は十年や十五年はつきない泉であるのに男の金は泉ではないから、いくらも時間のたゝないうちに一人のおいぼれ乞食をつくりだすのはわけはない。
(強調は引用者)

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42904_23099.html


 40となった自分が読んで身につまされることがある。

 いや別にどこかの女の肉体に「迷ひだ」しているわけではないのだが。
 坂口がここで「精神的なもの」といっている中には具体的な生活も入ってくるだろう。つまり、恋愛をしてお互いを尊重したり、尊重のなかで具体的な生活を編んでいくということ全体を「精神的なもの」といっているのだろうと思う。「精神的な憧れだの夢だの慰めなど」といっしょに「家庭のヌカミソ」を入れているのはそのせいだろう。

 女性に対する理想や憧れが人格の尊重となって落ち着くとき、それ
を具体化したところの結婚があり、家庭生活がある。しかし、その人格の尊重の色彩が薄らいでいけば、「ヌカミソだのオシメなどの臭ひの外に精神的などゝいふものは存在しないと否応なしに思ひつくやうになる」。

 それはもうお腹いっぱいということだ。

 お腹いっぱいだから、今から女性と「恋愛」しようなどとは思いもよらない。恋愛というのは、そこに相手に対する憧れとか理想とか尊重とか、そしてそれを具体化した生活とかが諸々含まれているのである。今からそんなクソめんどくさいことは、やりたくない、というわけだ。

 うちのつれあいに、職場の若い男とどうにかなりたいか聞いたことがあるが、「いやー、また恋愛するのかと思うと面倒くさいわー」と返ってきた。フリでなければ本心であろう。当たり前だが。
 ましてや二十代相手の「恋愛」となるともう想像すらできない。こちらからみたら、子どもである。未成年という意味ではなくて未熟だと思うようなところが目について仕方がない。逆にこちらが石頭になっていてついていけない、異文化としての衝突も高い。そんなことを本格的な「恋愛」としてやっていこうという気力も体力も夢見がちな気持ちもないのである。

 だから、もし女性が肉体だけ、肉欲だけ満たしてくれる存在であったらどんなにかいいだろうという気持ちになる。性欲だけを十分に処理し、満たし、他の人格的側面はすべて切り捨ててもよいという都合のよい存在なら。
 もちろん、女性は現実的に存在し、生活を営んでいるんだから、そんなふうに、肉便器みたいに扱うわけにはいかない。一言でいえば人格があるんだから。ゆえに、スイッチを切って、世の女性に接する。

 だけど、もし肉欲だけに割り切って相手をしてくれる女性がいるとすれば、確かにそれは「迷ひだす」だろう。「精神などは考へずに始めから肉体に迷ふから、さめることがないのである」。おカネで割り切るフーゾクはその一形態だろう。この小説にあるように、水商売の女性と寝るというのもその一つの形だ。そうなれば、「いくらも時間のたゝないうちに一人のおいぼれ乞食をつくりだすのはわけはない」のだろうが。
 ぼくがそれに近づかないのは、一方ではつれあいに人格が存在するので、一夫一婦制の道徳のもとで暮らす以上、そのことを無視するわけにはいかないからである。他方、フーゾクなどにいる女性も現実の女性である以上、多様な人格的側面をもった全面的な人間であることは間違いないんだから、「おカネで割り切る」というのは擬制にすぎない、ということが頭に染み付いているせいでもある。「この女性はどういう理由でここにいて、俺もふくめて、ゲロが出そうな不潔さの男の性欲を処理しているのか」という想像をするだけで、十分にハードルとなる。

 もう一つは、不倫(浮気・姦通)である。
 不倫がどうやって始まるか知らないし、たぶん多様なきっかけや動機で始まるんだろうけど、男が既婚者なら、おそらく多くは肉欲だけに割り切ったものにしているはずだ。そこでどんな会話がなされているかわからないけど、男の側からは「精神などは考へずに始めから肉体に迷ふ」だけなのだろう。しかもセックスに金銭が媒介しないから、「金は泉ではな」くても、だらだらと長く続く。
 相手が二十代の「小娘」であって、会話をはじめすべてが面倒くさくても、人格を無視し、肉体だけだと割り切ればどうということはない。どれだけ口達者に相手をもてなしても、それはすべてウソだということだ。

 なんでこんなことを書いているのかというと、40代になっても全然自分が枯れないからだ。「枯れないぞ」と自慢しているのではなくて、こんなやっかいな衝動がまだ自分の中にあって困っているということなのだ。坂口の「そして女の肉体に迷ひだす。男が本当に女に迷ひだすのはこの年頃からで、精神などは考へずに始めから肉体に迷ふから、さめることがないのである」という指摘を受けて、もし自分が相手を肉欲の対象だけだと割り切れる瞬間が来たら、そこに間違いなく迷いこむであろうと想像し、怖いなあ、ヤバいなあと思っているところだ。
 「ポルノとかはどう?」っていう意見もあるだろう。
 確かにポルノは、生身の男性を相手にしない。画像や映像として切り取られた女性は、まさに男性の性的ファンタジーのためだけに性的存在に固定化されたものだ。だけど、そこに写っている女性はやっぱり生身の女性なので、究極的にフーゾクと同じ問題が生じるよね。
 では、コミックやアニメのポルノならどうか。
 前に議論したことあるけど、「普遍的に女性をただの性的存在におとしめるものだ」という批判がある。しかし、具体的に被害をうける女性がいないという点ではやっぱり決定的に違う。たしかに女性にたいする侮蔑的な描き方だという批判はあるけども、たとえば石原慎太郎の小説が有害な影響を及ぼす小説だという批判と同じレベルのもので、生身の女性が出ているポルノとは別次元のものだと思う。まあ、この問題は引き続き考えている最中なので、ここで結論づけはしないけども。
 「じゃあ、今のところコミックやアニメのポルノでヌケばいいってことじゃん」っていうかもしれない。しかし、坂口が『戦争と一人の女』でその肉感についてくわしく書いているように、肉体に溺れ、肉体に迷いだすことはやはりそれでは代償のきかないものだ。

 「お前は何いってんだ。夫婦で解決すべきことだろ」というのは至極正論。正論すぎて、びっくりして、すわり小便してバカになるレベル。いや、まあ、その、そんなこと書いたりするわけにはいかないじゃないですかあ。