坂口安吾『堕落論』

 あと、『戦争と一人の女』と坂口の『堕落論』とのかかわりについても書いておこう。

私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾(しょういだん)に戦(おのの)きながら、狂暴な破壊に劇(はげ)しく亢奮(こうふん)していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。
(坂口『堕落論』)

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html

あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫(ほうまつ)のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。
(坂口『堕落論』)

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私は戦(おのの)きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。
(坂口『堕落論』)

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 これって、ホントに『戦争と一人の女』のテーマだよね。
 だけど、『戦争と一人の女』を『堕落論』とイコールなものとして論じてしまうと、『戦争と一人の女』は『堕落論』をお芝居にしただけみたいな扱いになってしまう。だから、ぼくは前の記事では『戦争と一人の女』、それも近藤版の印象から直接ひきだされることだけを頼りにレビューを書いてみた。
 でも、ここでは、『堕落論』の方をとりあげてみる。

 『堕落論』では、『戦争と一人の女』で印象づけられたこととまるで逆の結論を言っているようでもあるけど、重なるところもある。やはりこれはこれで独特なものだ。
 『堕落論』では、「偉大な破壊」によって人間の美しさが泡沫の幻影のように浮かび上がったことを書く。でもこういう美しさというものは、不健康なものだということを坂口は知っている。自分の姪が若くして死んだ、赤穂浪士が義士といわれて散った、そういう美しさは、本当ははかないもので、現実は存在しない、というかどうせ長続きしないものなのだ。
 現実に生きている以上、人間は泥臭くなり、汚れていく。つまり堕落していく。
 そうならないために、美しさを瞬間に固定した武士道だの天皇制だのといったヨタ話が必要になる。孔子でも釈迦でもレーニンでもいいんだけど、と坂口は言う。
 でも、こういうものは無力だし、虚しい幻影なんだよ。
 堕落して、堕落しきって、つまり虚しい幻影なんか一切排除し、汚らしい現実にまみれて、そうして初めて救いの道が、各々のなかに生まれるんだぜ。自分で見たくない現実とむきあってそれで自分の中で思想を生み出せよ──まあそういうことを坂口はいいたかったんだろう。

 ここでは、むしろ、戦火を美しく感じた自分の意識は、最終的に批判的に扱われていることがより鮮明にわかる。社会経済学者の佐伯啓思は、この坂口の一節を引用して「とても逆説的な言い方」「けっして戦争がよかったと言っているわけではない」(佐伯『現代文明論講義』ちくま新書p.189)と述べているように、戦争で人間の精神が高揚することは最終的には不健全なものとして考えられている。まあ、坂口は安易にはあれは不健康だよとか問題だよとかは言わないわけだけど。
 要は自分の頭で考えろよってことだ。

 でも『戦争と一人の女』のほうでは、もっと戦火や空襲に感じた美しさを切り取って、その感情をかなり大切なもの、っていうか、ホントに美しいものとして描いてたよね。デフォルメして。ブログでも書いたけど、そのへんが、文学あるいはマンガの面白さなんだろうと思う。
 もしあれが『堕落論』のように虚しい幻影だということの方が強調されていたら、あんなふうにはならなかっただろう。『戦争と一人の女』でも最後は、その虚しさを書いているんだけども、戦火を見て夜の空襲を眺めているときの女の高揚は、特別なものがあった。