坂口安吾・近藤ようこ『戦争と一人の女』

類型的な戦争観への疑問が出発点

戦争と一人の女 『戦争と一人の女』は、第二次世界大戦の最末期、空襲にさいなまれる街の一軒家で、かつて水商売をしていて妾や女郎の経験もある「淫奔」な女と、それと同居する野村という男が生活をする話である。


 坂口安吾の3つの小説を原作として、近藤ようこが一つにまとめてマンガ化した作品で、どれも戦争(第二次世界大戦)が終わってすぐに発表されたものなので、戦争の語られ方が(世の中一般で)「物語」としての類型化を始める前の生々しさに特徴がある。


 近藤ようこは、その切り口の「新鮮さ」に衝撃をおぼえ、この作品に近づいている。そのことは、本書の「あとがき」を読むとわかる。


 「戦争」ってなんだろう。昭和三十二年生まれの私は教科書でも戦争についてちゃんと教わってない気がする。
 本や雑誌で垣間見た、モンペと防空頭巾の女、集団疎開している小学生の写真。あるいはテレビドラマで繰り返される、本当は戦争に反対なのに一方的に被害者になって苦しんでいる飢えた庶民。
 子どもの頃は、そんなぼんやりとしたイメージで誤摩化されていたのが、さすがに年をとってくると戦争も人間もこんなに単純じゃあるまいと思うようになった。

 つまり、悲惨で民衆が苦しんだ戦争、というイメージをいったん離脱すると、戦争には楽しいことやわくわくすることも含めて多様な側面があり、それはときには「面白い」と近藤に思わしめる要素であったことを、近藤は「発見」するのである。
 そうしたときに近藤が出会ったのが、坂口安吾の『戦争と一人の女』だった。しかもそれはGHQの検閲による削除分を元にもどして蘇った「無削除版」であり、その削除された部分こそが、戦争の多様な側面を描いていた。

さっそく読んでみると、削除された部分は「女は戦争が好きだ」とか「毎日空襲があればいい」とか、いかにも安吾らしいマジカルな言葉だった。


そしてその部分こそ当時の私の興味とぴったり重なっていたのだった。


 だからこそ、近藤は、マンガ版である本作の冒頭を

夜の空襲はすばらしい

という主人公の女の独白から初めているのだ(ただしこの一文は坂口の『戦争と一人の女』ではなく、その続編で、女の目線からみた『続戦争と一人の女』の中の一節で、この一節自体は当時からある)。


世界が劫火に焼かれることに亢奮する女

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫) 戦争のなかに、わくわくするような楽しい要素があった、というとらえ方を中心に本作(近藤版『戦争と一人の女』)を見つめ直してみると、女が、自分のこれまでの生い立ちや将来の生活に何の充実感もある生活の履歴や見通しをもっていない点がうかびあがってくる。


 女は貧しい農村から身売りされて苦界に沈められた。戦後にくるであろうはずの「平和」な生活にも何の希望も展望も見出していない。占領軍に強姦されたり、敗残兵に輪姦されたりするイメージばかりである。「みんなアイノコ生むでしょうよ」と冷たく言い放つ女の顔は、自分の人生にも、社会にも、シニカルな見通ししか持っていないことをうかがわせる。


 世界にたいして空虚さとも憎しみともとれる感情を持っている女にとって、空襲は、自分のかけがえのない世界と人生が壊される破滅ではない。逆である。むしろ自分を苦しめた世間と、自分自身を焼きつくすかもしれない「劫火」のようなもので、その焼きつくされる瞬間を一種の興奮(亢奮)をもって待望している様が繰り返し描写されている。


 女はこの亢奮を、野村とのセックスによってとらえつくそうとする。夜の空襲の「美しさ」を震えながら堪能しつつ、胸のボタンをはずし、「もっとよ!」と強く求めるのである。
 しかし、女は「不感症」である。決して満たされることはない。
 それはちょうど、女の感じている亢奮がどこへもつながっておらず、何の展望もないことを表しているかのようである。女と野村の関係が、どうにもこの戦時の一瞬に限られたはかない関係であることをお互いに予感しているコマが何度も登場する。

「どの人間だって戦争をオモチャにしていたのさ」

若者を見殺しにする国 (朝日文庫) このように書くと、まるで、女は「赤木智弘」のように戦争を待望していたように思えるかもしれない。
 が、そうではない。
 赤木智弘は、戦後の人間ではない。いま生きている若手のライターだ。一生非正規の低所得から抜けだせないという不安をベースに、「希望は、戦争。」という一文を書いた。戦争という混乱によって格差と貧困を押しつける「偽りの平和」が壊れてしまえばいい、という心情がわき起こってくると叫んだ。ただし、赤木の場合は、この主張は一種のロジックのようなもので、赤木自身が本心から戦争を望んでいるようには思えなかったけども。


 戦争の最中に生き生きしていたのは、女と野村だけではない。
 占領軍が来て女はみんな強姦されると噂していた近所の主婦連中も何やら快活であった。社長であり金まわりもよく、女と寝たこともあるカマキリというあだ名の爺さんは、空襲で人が死ぬとそこに駆けつけ、人の不幸をかぎまわっては内心喜んでいた。


 坂口は、すべての日本人が戦争を楽しんでいたんじゃないかと考えているのだ。


 野村、男は日本になぞらえられて、女は戦争になぞらえられる。セックスで二人がからみあうことは、とりもなおさず、日本が戦争を愛し、戦争から快楽をむさぼりつくそうとした(しかしかなわなかった)比喩として登場している。検閲で削除された部分で近藤がもっとも感じ入った部分の一つはそこであった。

食欲をそそる可愛い瑞々しい小さな身体であった
戦争なんてオモチャじゃないか
俺ばかりじゃないんだ
どの人間だって戦争をオモチャにしていたのさ
もっと戦争をしゃぶってやればよかったな
もっとへとへとになるまで戦争にからみついてやればよかったな
血へどを吐いてくたばってもよかったんだ
もっとしゃぶってからみついて――
するともう戦争は可愛い小さな肢体になっていた

 「どの人間だって戦争をオモチャにしていたのさ」というフレーズは、近所の奥さん連中や、カマキリのような人間を想定している。だから、戦争が終わり灯火管制の幕を外しながら「夢のようだったわね」とつぶやく女が独白する次のセリフは、女だけの心情ではなく、もっと普遍的なものとして坂口は書いたはずで、近藤はその坂口の気持ちをクローズアップさせた。


みんな夢かもしれないが
戦争は特別あやしい
見足りない取り返しのつかない夢だった


これからまた退屈な平和な日々がくるのだ


私は退屈に堪えられない女であった
どうして人間が戦争を憎み
平和を愛さねばならないのか疑った

そんなわけねえだろ

 そんなわけはないだろう。馬鹿じゃないのか。坂口安吾は。近年の戦争研究のなかで、そういう側面を強調するむきがあるよね。マンガ研究とかにもさ。
 俺は知らないよ、体験してないよ、戦争ってものを。
 だけど、わかるよ。
 戦争っていう事態、空襲で家が人が火だるまになるっていう事態を目の当たりにしたとき、みんな必死だろうよ。必死だから、みんな一生懸命さ。「災害ユートピア」じゃないけど、そこには楽しさや団結感だって生まれるだろうよ。いやそれだけじゃなくて、焼け野原をみてすべてが浄化されていくような爽快感を味わう瞬間だってあるだろうさ。
 そういう人間が必死で生きているときの一瞬の感情を切りとって、拡大してみせて、それで普遍的な真実のように言うなってんだ。


 でもね。あれだよね。
 そういう一瞬の心情、あるいは個人の中にずっと染み付いているし感情を、デフォルメするからやっぱり文学は面白いんだし、それを絵とコマによってさらにデフォルメするマンガはもっと面白いと思うんだよね。そういう面白さだと思う。


 人間の心のなかに煌めいたり、燃え盛ったりするものがある。でもそういうものを固定的にとらえ、なおかつ普遍化してしまうことは、文学や創作の業のようなものだけども、それを人間の真実であるかのような賢しらに言うな、ということだ。そんなふうに言い立てることは、どこか子どもじみている。でも、それは面白いことは間違いない。

 

リバーズ・エッジ』によく似ている

リバーズ・エッジ 愛蔵版 この作品、近藤ようこ坂口安吾『戦争と一人の女』は、岡崎京子リバーズ・エッジ』によく似ている、と最初に読んだとき、まず思った。


 『戦争と一人の女』では、繰り返しセックスで肉体をむさぼりあう。けれども、女に肉体の悦びはない。しかし、野村は女との生活の中に、そして女の体をいじりまわすことに小さな喜びを感じていた。
 『リバーズ・エッジ』に似ているな、と思ったのは、世界から何らかの形で疎外されていると感じる主人公たちが、その生きている実感をどこかで確かめたくて、セックスにおぼれてみたり、生活の瑣事にリアルを感じてみたり、果ては空襲で命を失う瞬間に妙な生生しさを感じたりする、その様がそっくりだったからである。


 『リバーズ・エッジ』では、主人公たちが世界のリアルさと被膜を隔てられて直接向き合えない苛立ちを表明し、それをつきやぶろうとするように死体に色めきだってみたり、セックスしたりするし、「環境破壊で地球が滅びる」という大きな物語よりも同級生のモデルが食べたものを吐いているとか、同級生が真っ黒になって燃えるとか、そういう激しいリアルがどこかで進行しているという感覚がそこかしこで描かれていた。
 そして、そのリアルは、最後まで、自分で認識でき、管理できるものではない。「平坦な戦場で僕らが生き延びること」というウィリアム・ギブソンの詩を引用しながら、諦めにも似た絶望で終わる。


 他方で、『戦争と一人の女』は破滅的な空気が漂うけども、その最後の芯は明るいものが残る。

「ぼくは可愛いがったことなぞないよ
 いわばただ色餓鬼だね
 君を侮辱しむさぼっただけじゃないか
 君にそれがわからぬはずはないじゃないか」
「でも人間はそれだけのものよ
 それだけでいいのよ」


 戦争が終わって女と野村がこういうやりとりを交わすシーンがある。
 野村は内心驚愕する。

驚くべき真実を語ったのだと野村は思った
遊びがすべて
それがこの人の全身的な思想なのだ


この思想にはついていけない
高められた何かが欲しい

 この「思想」を侮蔑し「高み」のあるものを求める野村を、女は批判する。汚いものを切り捨てて高みにのぼろうとするような「思想」こそ無力で無意味ではないのか、とでもいうように。
 戦前のマルクス主義皇国史観のような「高み」の「思想」への、坂口なりの批判ではないのか、とぼくは読めた。あらゆる汚さを認めてそれを肯定するところに立たねばならんのではないかと。なんだか、さっきぼくが坂口の悪口を書いたことがここで批判されているみたいだ。
 いずれによせ、それが坂口なりの戦争総括なのではないか。その人間肯定のうちに、坂口は戦後の出発点をおこうとしている。それはまったくもって頼りないものでしかない。しかし、そこからようやく一歩をふみだせるという意味で、ほのかに結末は明るい印象をぼくらにもたらす。近藤のマンガ版の編集はそのわずかな明るさ、したたかさを感じさせるようにつくられている。