上西充子『政治と報道 報道不信の根源』

 本書は、第一に、マスコミの政治報道への違和感から出発してそれを市民による権力監視の方向で正そうとしている。第二に、マスコミとは別のジャーナリズムの姿を見せて、政治報道のオルタナティブを示している。

 

政治と報道 報道不信の根源 (扶桑社新書)

政治と報道 報道不信の根源 (扶桑社新書)

  • 作者:上西 充子
  • 発売日: 2021/02/28
  • メディア: 新書
 

 

 第一の点については、例えば「野党は反発」「与党は逃げ切り」などの表現を取り上げ、与野党の政局ゲームのように報じる姿勢を批判する。法案について国会審議で争われた中身をきちんと書いて、問題があればえぐるようにすべきだと主張する。また、マスコミの中ですでに自己変革の動きが起きていることも紹介している。

 第二の点については、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」(日曜版)が「桜を見る会」をスクープしたことを取り上げ、マスコミの記者は同会を長年知って取材もしながら何ら問題意識を持たなかった点に注目。「赤旗」がどうやってスクープをしていったのかを同紙編集長へのインタビューなどから分析する。

 

ぼくが学生時代に考えたこととのかかわりで

 本書を読んだ人の中には、ぼくが本書をこのような2点にまとめることに少し首をかしげる向きもあるかもしれない。

 だが、ぼくは、学生時代(すでに四半世紀以上昔だが)に本多勝一の懸賞論文に応募し、現代のマスコミ・ジャーナリズムをどうするかということについて拙い一文を書いたことがあるのだが、そのときマスコミに抱いていた違和感や解決の方向がまさにこの2点だったのだ。この2点に注目せずにはいられない!

 第一の問題については、特に、法案の問題点を議論している国会質問をまともに報じず(全く報じていないわけではない。ものすごく小さな扱い)、法案が通るかどうか、そのための駆け引きや与党内の雰囲気だけを伝える報道には、まさに著者・上西充子が指摘していた通りの違和感を、ぼくも長年強く抱いてきた(ちなみに選挙報道でも同様の問題を感じてきた)。しかし、ぼくが左翼であるせいでもあろう、マスコミの報道の仕方に違和感を持ちながらも、それは「当然」と思っていた。

 なぜなら、マスコミとは自らが大企業であり、他の大企業からの広告に支えられながら大企業支配の一端を担っている以上、支配的なイデオロギーを垂れ流すのは「当たり前」だと思っていたからである。いわば大手紙は全て「ブル新(ブルジョア新聞)」なのであって、いくばくかの良心的な記者がいたとしてもそれは「例外」でしかなく、マスコミの報道姿勢を「変えさせよう」「よくしよう」などというのは幻想に過ぎない、という思いが強かった。

 そして、第二の問題に関わって言えば、「赤旗」のように、直接国民に購読をしてもらい、財政も主張も全く独立するようなメディアを育てる以外に解決の方向はないと思っていた。だから本多が募集した論文にもそのように書き、「赤旗」のような形(大企業の広告に頼らず、独自の販売・集金網を作り、市民と結びつくこと)でメディアを育てるべきだという旨を加えて送ったのである。*1

 

「見切り」をつけない上西

 しかし著者・上西充子は、マスコミに対してそのような「見切り」をつけない。SNSをはじめとするインターネットや新聞などの紙媒体でマスコミ(の記者)に粘り強く批判を行い、改善の道筋を示す。

 これは、左翼的に言えば「支配階級の一翼を担っている大手マスコミを改善させるのは幻想だ」という問題だが、もう少し一般向けに言えば、「マスコミ*2は行政機関ではなく自由な言論だから、民意によってコントロールすること、『公正』化することはできない」という問題になるだろう。この思いがぼくの中にある。

 が、上西の取り組みを見ていると、そのような思いがあまりにも早く「見切り」をつけ過ぎた、一種の「あきらめ」になってしまっているという反省をぼく自身が迫られた。

 上西は、政治報道への批判とともに、改善された報道などを紹介した上で、

その問題意識を、「もう〇〇など、いらない」という形で表明するのではなく、問題があれば指摘し、良い取り組みは評価し、買い支えつつ変わっていくことを期待していきたい、と筆者は考えている。(本書p.161)

と述べており、それはまさにぼくのような思いへの批判であろう。

 さらに、第3部では「変わろうとする新聞」として、マスコミのなかでの自己変革の取り組みを紹介している。ぼくにとっては、これまでは大手メディアの記者の「顔」(思い・心情・活動)が具体的に見えなかっただけに、こうした人たちがどんな思いで報道を変えようとしているかがわかると、心情的に印象が変わってくる。

 特に、ここで紹介されている毎日新聞の統合デジタル取材センターの実践は、「(集まった記者たちによって書かれるデジタル用の記事の数は)月に100本から120本ぐらいですね」とか「週1回、全員集めて会議をやっています」など具体的な姿がわかり、興味深い。

 特に、

もともと、紙の新聞って、スペースに制限があるので、削られることが大前提なんです。…ところが今はデジタルなので、書けばどんな大事件が起ころうが選挙があろうが、4千字でも5千字でもいくらでも載せられる。そのため、記者は取材の成果を全部、字にすることができる。(本書p.238)

というくだりは、報道姿勢の問題ではなく、日々いろんなことが報道できるという意味で、例えば「しんぶん赤旗」などが逆に参考にすべきではないのか、と思った。

 なぜなら、「しんぶん赤旗」(日刊紙)には地方版が週何日しか載らない。しかも県ごとに版面を変える財政上のゆとりがないために例えば「西日本のページ」などといったガバガバの広さになってしまっているので、福岡県の小さな市町村のニュースなど滅多に載らなくなってしまうのだ。だから、例えば福岡市議会のニュースを読もうと思ったら、西日本新聞のような地元メディアを読むしかないのである。

 しかし、紙は無理でもデジタルで県内記事を出し続ければ、「しんぶん赤旗」読者も少なくとも情報は手に入ることになる。これはおそらく根本的な問題であり、共産党はきちんと検討したほうがいいと思う。

 

政策的立場の前にどんなジャーナリズムでも共通して取り組めること

 話を元に戻す。

 このように、上西の取り組みが、「ブル新などに期待できない」と思うぼくに反省を迫ったわけであるが、問題を少し整理してみたい。

 というのは、とはいえ、じゃあ例えば朝日新聞が「消費税は廃止すべき税制」という立場で論陣を張るだろうか。あるいは読売新聞が「原発廃止」で問題をえぐるだろうか。あるいは毎日新聞が「安保条約廃棄」という筆をとるだろうか。

 もちろん、粘り強い働きかけや、世論の動向で変わるかもしれない。

 しかし、そこは置いておこう。マスコミ各社がどういう政策的・政治的立場をとるかということを、上西は変えようとしているのではなかろう。

 上西が本書で取り組んでいる問題は、このような政策的・政治的立場よりももう一歩手前のところにある。

 例えば、「残業代ゼロ法案」では、その法案への是非の前に、調査データを不適切に取り扱っている、ということを上西は問題にしてきた。これは与党であろうが野党であろうが関係なく、いわば民主主義のルールとして共通して問題にしうることである。

 聞いたことに答えずにあたかも答えたかのように偽装する「ご飯論法」や、「答弁を訂正する」と言いながら、訂正されるべき答弁とされた後の答弁を明示しない当時の安倍首相のごまかしなどは、本来ジャーナリズムや新聞であればどのような立場であっても問題にしなければならない、と言える。

 国会の質疑を通じてそのような問題が明らかになり、報道されたとしたなら、その上で新聞各紙は、政策的な立場を決めればよい。「やはり残業代ゼロ法案は出し直すべきだな」とか「消費税増税は今やっても問題はなさそうだな」などといった具合にである。

 いわば、政策的立場を各社が決める前に、どんな立場のジャーナリズムであっても(読売でも産経でも)、共通して報じられること・報じるべき姿勢があるだろうというのが上西の考えではないかと思う。そのフィールドでの上西の提言であり、活動であるのだ。

 ある意味で、これは安倍政権・菅政権のように、「答弁や政治姿勢があまりにもひどい民主主主義破壊をやっている時代のマスコミ・ジャーナリズムへの向き合い方」であるとも言える。市民の意見・提言・活動によって、どんな立場の新聞社であろうともその報道の仕方を改善させていくということは、この時代であるがゆえに成り立っているのかもしれない。

 したがって、やはり政治報道のあり方を改善させるべく、意見を述べ続けていくことは、こんにち決定的に必要なことであろう。

 

 四半世紀以上前には、そうした「改善」が全く想像しにくかったという事情もある。

 1990年代初頭、一般市民がインターネットを利用できる環境など全くなかった。市民が意見を言って変えるには新聞に投書するくらいだ。さもなければ自分たちで市民運動を起こし、ビラをまいて集会をしてようやく世論として認識されて変わるというスピードだったから、新聞の表現にいちいち何か心を囚われていることは本当に「無駄」だとしか思えなかったのである。

 そこから時代が変わった、という認識を、ぼく自身が持たなくてはならないのだろう。

 

市民系のジャーナリズムが体験するダイナミズム

 第二の論点についてはまことに興味深い。

 ぼくは本多の呼びかけに応えた、当時の論文の中で、オルタナティブとして「赤旗」の報道、拡大、集金・配達の仕組みを取り上げていた。マスコミに期待できない以上、自分たちで草の根のメディアを育てる以外にはなく、その一例が「赤旗」だったのだ。

 そこでは、大手紙の報道とは全く切り離された、「我が道を往く」という活動がイメージされていた。

 ただ、ここでも時代は大きく変わっていて、「しんぶん赤旗」日曜版編集長の山本豊彦編集長は「桜を見る会」が問題化した背景に、SNSでの世論化があったことをこう述べている。

どちらかというとツイッターという市民の声が後押しをして、(毎日新聞の)デジタルが書いて、それで、今、表にあるように、やっぱりツイッターが話題になったということで、ワイドショーがやり、その間には野党が共同でやるという下支えがあって、その上で、やっと大手紙が動くと。今までの報道のやり方と、かなり違う展開をしていった。(本書p.323〜324)

田村さんの質問があるときに、ツイッターで非常に話題になった。そこある意味じゃ、本当に国民っていうのは健全っていうか、やっぱりそれが逆に今、こうマスコミを動かしているということは、非常にこう、希望があることじゃあないかなというふうに思ってます。(同p.325〜326)

  これだけオルタナティブのメディア、世論、マスコミ(そして野党共闘)が絡み合ったダイナミックな展開というのは、やはり四半世紀前には考えられなかった。その点でもぼくは以前「赤旗」のような「マスコミとは別のメディア」を育てるという問題についてもやはり自分の硬直したところを考え直す必要があると思った。

 

 第一の論点も第二の論点も、そこにはインターネット、特にSNSが絡んでいる。その条件を踏まえて、新しい事態がメディアと市民の間に起きていると考えて、冷笑的ではない、粘り強い改善の取り組み、そして、思わぬ飛躍が起きる独立系のメディアの新しい可能性を、本書を読んで思った。

 

余談

 ところで、本書にぼくの名前が3回も登場する。

 「ご飯論法」の命名者としてである。

 ホント、いつも律儀に紹介してもらってどうもすみません…。

*1:ちなみに本多勝一はその後この論文についての結果発表はいまだにない。10年ほど経ってから一度問い合わせの手紙を送ったが“もう少し待ってほしい”という返事がきたことがある。ぼくが論文を送って以後、本多も加わる「週刊金曜日」が発刊され、定期購読に支えられるシステムをとったのは、ぼくの論文の成果に違いない! とひとり悦に入っていたものである。

*2:受信料を徴収し、予決算が国会で審議されるNHKは別格だろう。