小学校の頃、学芸会で野口英世をやったことがある。
なんの役だったかはもう忘れたが…。
貧困から勉学によって脱出し成功するというのは近代草創期の人生のモデルである。それを教育の現場でもこのようにガッツリと教え込まれる。
「人生の成功譚」とか「人的投資の成果」という変換をしなくても、それを学習権としてとらえ直し、人が生きていく上で不可欠のものとしての学びを強調するという進歩的・左翼的文化もある。
学生時代に学費値上げ反対運動などをやった頃、ちょうど山田洋次の映画「学校」がスタートし、学びを奪われるとはどういうことなのか、みんなで観ようぜという文化運動をやったこともある。
なんども観ても感動があった。
一緒にやっていた学生の活動家たちの多くはそうだった。
だからなんども観た。
友人で、今共産党の候補者をやっている男などは、もう映画冒頭に「学校」というタイトルが出てきただけですでに涙滂沱としていて、いや、それはいくらなんでも気持ちをのせすぎだろう、と大笑いしたことがある。
だから、「学ぶ」ということは自分の中で特別な意味がある。
お金がないために学ぶ権利を奪われてしまう・もしくは厳しく制約されてしまう現在の高すぎる教育費の状況は、自分にとって政治にとりくむ上で優先順位が高いテーマだ。
学ぶことによって、人生が変わる。
本を読むことで、ここでない新しい世界が開ける。
…というようなことは、信念のようなものとして、あるいは一種の憧れ的な神話として自分の中に流れているし、それは左翼の間もそうだけど、それだけでなく、資本主義を推進する側にもあって、共通する理想として存在する。
歩きスマホの祖などと揶揄される二宮金次郎の像が日本中の学校にあるのは、いついかなるときも勉学に勤しみやがて成功した(出世し、社会も変えた)というモデルとして置かれているのだろう。
本作は、イギリスの下層階級の女の子・ミアが主人公である。
そして、そのミアが読む本が日本のアナキスト・金子文子の伝記であり、金子のおかれた状況に深く感情移入しながら(時には反発しながら)、両者の物語が交錯して進んでいく。
ミアが生きている社会の下層ぶり、貧困ぶりが随所に描写される。母子家庭で、母親はドラッグに依存している。ミアは家事だけでなく、母親のさまざまな始末とともに、幼い弟・チャーリーの面倒をみる必要がある。いわゆるヤング・ケアラーである。
この小説を読み始めて、最初に強く印象づけられたことは、本を読むような人間になれば「この世界」から脱出できる、というメッセージをミアがまわりの人たちから何度も受け取ることである。
ミアが信頼している、共同食堂のスタッフであるゾーイからは、本を読む人間になれば自分のように生活に苦労することはない、と言われる。
「たくさん本を読んで大学に行けばこのような仕事をせずにすむし、こんな団地に住まなくてもすむ。一生懸命勉強して、こことは違う世界に住む人になりなさい」
ゾーイは、本をたくさん読んだら違う世界に住む人になれると言う。「本」と「違う世界」は、繋がっている。ミアはそう直感した。そしてそう思うと、頭の中にあった固い栓がぱっと開いたような晴れやかな気持ちになった。
ミアがそうだったように、ぼくもそのメッセージをそのまんま受け取る。いやまったくその通りではないか、と。本を読むんだ、勉強するんだ、と。それによって「ここではない世界」に出ていくことができる。
だけど、そうじゃないんじゃないか、ということが本作では最後に問われる。
ここじゃない世界に行きたいと思っていたのに、世界はまだここで続いている。でも、それは前とは違っている。たぶん世界はここから、私たちがいるこの場所から変わって、こことは違う世界になるのかもしれない。(p.210)
この世界を置き去りにして脱出しろ、と勧めるのではなく、この世界を変えろ、というのがメッセージである。
本作では、ミアのまわりには、ミアを支えてくれるかもしれない人たちが登場する。だけど本作の大事なところは、それでは全然ダメだというわけではなくそういう人たちがいてくれることでミアや家族はなんとかしのいでいけるし、他方で、かといって、その人たちがいてくれればハッピーというわけでもない、このままでは支えきれない、という感触が漂っていることだ。
やっぱり社会を変えるしかないだろ、と左翼のぼくは思うのだが、そんな社会が変わる前に個人は潰れてしまう、それを必死で支えてくれる人がどうしても必要なのだ。
「子ども食堂」を全否定したり、反対に、それさえあれば大丈夫(そんな人はいないとは思うけど)という二つの立場があるけども、この作品はその間にある、結論が出ない、イライラするような中間を諦めていない。そこがいいと思う。
貧困において教育が果たす役割については、過去に記事を書いたことがある。
問題が矮小化されるので、とられる〔政府の〕対策も「学習支援」が中心になります。個々の子どもの勉強が支えられることで、教育的不利が緩和されるようなとりくみがあることの重要性を、私はまったく否定するつもりはありませんし、むしろ大事だと思っています。しかし、それは同時に、個人の頑張りに期待することになり、「勉強ができないのは子どもが悪い」という子どもの責任論に転化する危険性があることもおさえておく必要があります。/そして、求められているのは、学習支援だけではないといい続ける必要があると思います。貧困は、経済的不利・経済的資源のなさが大きな問題であり、所得保障の観点がない貧困対策は貧困対策なのかという問題なのです。そうした対策は国際的にみれば通用しません。子どもの貧困対策法ができて、勉強を教えますといっても、それだけでは子どもの学習促進法になるわけです。(松本伊智朗2015p.216)
自治体や行政は、「貧困の連鎖を断つ」という言い方で、教育によって貧困から脱出することを前面に掲げすぎて、一番大事な根本策をおろそかにしてしまうために、「抜け出せないのは勉強しないからだ」という自己責任につながっていく施策にさえなっている。
そういうことを、理屈ではなく、小説として本作は提示している。
この本はリモートの読書会で取り上げられたテキストだが、参加者の一人が「Tracy ChapmanのFast Carという曲を思い出した」と言い出してびっくりした。いや…ぼくにとって本当に久しぶりに思い出したというだけで、ここでその曲が持ち出されることは、意外なことではないのかもしれない。
Tracy ChapmanのFast Carは、『両手にトカレフ』の世界そのものだと思う。
和訳
https://after-tonight.hatenablog.com/entry/2021/07/21/232421
他方で、Tracy ChapmanのTalkin’ Bout a Revolutionはこの小説の結論的なものを代表していると思う。
和訳