「私学を含めた高校までの完全無償化はできるの?」

 日本共産党議長の志位和夫が教育について語っている。

www.jcp.or.jp

 この志位のスピーチでは、共産党の大学入試論・高校入試論も触れてある。前からの政策ではあるが、知らない人は驚くかもしれない。

志位氏は、世界に例のない、基本的に全員に受験を課す、日本の高校入試制度は廃止すべきだと主張。また、大学入試は1点を争う相対評価でなく、ヨーロッパなどの資格試験制度を参考にして競争的性格を改善し、絶対評価の制度に変えようと提案しました。

 それはそれとして、他の点で、ちょっとツッコミをいくつか。

 

高校の無償化

 「高校授業料の完全無償は本当に実現できる?」について志位が答えているが、大事なのは質問者が「私学も含めた高校までの完全無償化は本当に実現できるのですか?」という「私学」のところだろう。

 この↓産経の記事では私学を無償化した場合に副作用がないか、という疑問を呈している。要するに私学も公立もどっちも無償化したら私学に流れちゃうんじゃないのか、みたいな話だ。

www.sankei.com

 質問者はそういうことをどう考えたらいいのか、という意図だったのではないだろうか。

 しかし、志位の答えは“たたかいによって実現できる”というもので、どうもピントがずれているんじゃないかと思った。

 そして、高校生の子を持つ親として、上記の産経記事で福嶋尚子・千葉工業大准教授がコメントしているように、教科書代・制服代・修学旅行代などの授業料以外の費用の高さこそ心配なのだ。

「公立高に通う生徒の場合、1年間の教育費総額のうち授業料は平均で6分の1程度。制服や定期代、修学旅行費など授業料以外の負担が大きく、無償化はほんの一部にしかならない。授業料以外の費用負担に目を向けるべきだ

 そのあたりにも志位の答えはない。

 

教員の長時間労働

 教員の長時間労働の是正について、共産党は先の2024年衆院選政策でも2018年に出した政策を詳細政策として紹介している。2018年政策が基本なのだ。2018年では4つ提案があったのが「定数増」と「残業代改革」にしぼっている。まあ、それは自公政権過半数割れした新しい政治プロセス下でのより前向きな対応という焦点化なのだろう。

 

 気になったのは、この項目の最後、「7時間労働制をめざす」という話の流れだろう、「教員は自由な時間ができたら、良い授業をするために使ってしまうのでは」という疑問に志位が次のように答えたことが紹介されている。

 自由時間を授業準備にずっと充ててしまうのではないか、という心配だ。

これは素晴らしいことだと思います。教育という営みを豊かにするためには、人類の生み出した文化的遺産、科学の到達点を深くとらえるための活動が大切になるでしょう。それは自発的な意思にもとづく自由な活動として喜びにもなるでしょう。7時間労働となれば、教育の専門家として自己を豊かにする活動を行ってもなお、自分と家族のための自由な時間も保障されることになるでしょう

 「素晴らしいことだと思います」? 目を疑ってしまった。

 あまりにナイーブな回答ではないか。

 共産党先の2024年衆院選政策で1日5〜6コマでは授業準備が非労働時間に食い込んでしまうという問題を取り上げて、

これでは授業準備などは退勤時間以降行わざるを得ず、長時間の残業が必至です。

と告発している。

 志位にしてみれば、授業準備の時間は労働時間内に保障すべきで、そのために必要な人員配置をすれば勤務中に十分な時間が確保できるはずだ。勤務時間中に十分に時間を保障した上で、それでもなお授業準備をしたいというのは自発的な意思にもとづくものだから、好きにやったらいいんじゃないか、むしろ素晴らしいことだ、と言いたいのかもしれない。

 だけどそうだろうか、というのが現場の実感だ。

 授業準備はどこまでやっても「これで完璧だ」というケリがつけられない、子どもたちに本当に理解してもらう、興味を持ってもらうために、これでいいのかと悩んだりするので晴れない気分のまま、休日に家で七転八倒する……というのがリアルなところだろう。こんなにきっぱりと分けられないはずなのだ。

 また、仮に本当に楽しくてたまらない時に、それは休日や家でやっていいものかどうかという問題でもある。これは例えば他にも大学の研究者が、熱心に自分の研究を寝食を忘れて取り組んでしまうという問題と同じであろう。

 やりがい搾取の一形態という問題もある。

やりがい搾取の具体例

長時間労働の強要

労働者が自身の仕事に情熱を持ち、やりがいを感じていると、その熱意を利用して長時間働かせる場合。

社会保険労務士法人クラシコのサイト

 質問者が期待したのはそうした点を原理的にどう考えればいいかという視点だったはずである。志位の回答は、こうした原理的な問題に答えきれていない。*1



未来社会(共産主義)での教育

 共産主義社会では教育はどういう姿をとるのか、という質問だ。

 これはなかなかいい質問である。

 ここで答えられるべきことは、教育とは本来どのような目的を持った営為で、それに対して資本主義下ではどのように歪められているか、を簡潔に示すことだった。それがちゃんとできてるかな? という角度からチェックしてみようね!

 志位が、教育の目的を、旧教育基本法、そして新教育基本法にも引き継がれた「人格の完成」においたのは全く正しい。戦後教育がめざした進歩的なポイントを心得たものだ。

 戦前の日本の教育は国家の役に立つ人間を育てることが目的とされたが、そうした国家主義的に教育を歪めた結果が子どもを侵略戦争に送り出すような教育となったわけで、教育の目的は「人格の完成」へと変わった。

 文部省は戦後それを次のように解説している。

「人格の完成」: 個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力を、できる限り、しかも調和的に発展せしめること(「教育基本法制定の要旨」昭和22年文部省訓令)

 こうした人間の能力の発展観が、マルクス主義共産主義における人間の解放としてめざす「人間の全面発達」とよく似ていることを、志位は解説している。この点はとても重要な点だと思った。

「人間は、資本主義のもとでは、与えられた条件に左右されて、本来持っている能力の一部しか発達させられないでいますが、資本主義をのりこえた未来社会のあるべき姿としては、持っているすべての能力を全面的に発達させることをめざすのが、当然の方向になります。そして、『未来の教育』は、そうした『全面的に発達した人間をつくる』――まさに未来社会のあるべき姿にふさわしい役割をもつことになるだろうというのが、マルクスの展望でした」と力説しました。

…志位氏は教育基本法第1条が「教育の目的」として、一人ひとりの子どもたちの「人格の完成をめざす」――発達の可能性を最大限にのばすことにあるとしていると強調。

…さらに、子どもの権利条約は「教育の目的」として、「子どもの人格、才能ならびに精神的および身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること」と規定していると指摘。「人間の全面的な発展こそ教育の目的だというのは、人類共通の国際的原理として発展してきています。いま一人ひとりの子どもたちの『人格の完成』という教育の本来の目的の実現のために力をつくしているみなさんの頑張りは、未来社会における『全面的に発達した人間をつくる』という教育の役割と地つづきでつながってきます」と語りました。

 「人間の全面発達」と「人格の完成」、さらに世界的な教育目的観の流れとの関係、結びつきを語ろうとしている点は、この講演の白眉と言える。

 こうした教育の本来的な目的は、しかし、戦後の高度成長、独占資本主義下で、「経済発展にどう役に立つか」という人間観、教育観によって歪められていく。戦前は国家、戦後は経済のための人間。何かの道具としての人間のいびつな発達。戦後教育運動や民主主義的な教育学はそういうものとたたかっていくわけである。*2

 

 惜しむらくは、科学的社会主義マルクス主義)における教育の問題を語ろうとして、『資本論』の第一部第13章「機械と大工業」の話をしてしまっていることである。

志位氏は、マルクスは『資本論』(第一部、第13章、「機械と大工業」)で、「未来の教育」の役割として「全面的に発達した人間をつくる」ということを強調し、教育と生産的労働を結びつけることを重視したことを紹介。

 「未来の教育」が「全面的に発達した人間をつくる」という点まではいいんだが、どうして「教育と生産的労働を結びつけることを重視したことを紹介」までやっちゃうのか。

 これは、マルクスが生きていた19世紀には大工業のもとで児童労働が当たり前だった時代のものである。子どもが小さいうちから工場で働かされ、なんの教育も受けられなかった、そういう時代である。

 そうした中で、工場法ができ、教育条項が入って、子どもたちは工場に通いながら学校に通うようになる(あるいは工場の中で簡単な教育を受けられるようになる)。

 「教育と生産的労働を結びつける」というのは児童労働を前提として教育を語っているようなもので、このような時代の、きわめて時代制約の大きい教育観である。むしろ相当慎重な扱いをすべき命題だ。

 マルクスは「未来の教育」として人間の全面発達をめざしたということだけ述べればいいのであって、「教育と生産的労働を結びつけること」まで紹介する必要はない。そういうことをマルクス主義が目指しているのかと思って誤解をうむだろ。資本論』勉強会あたりでは大いに話題にすればいいけど、教育懇談会で持ち出すテーゼではない

 『資本論』のこの部分を解説した不破哲三でさえ、マルクスが草案を執筆した第一インタナショナル(国際労働者協会)のジュネーブ大会の決議も紹介しながら、

私たちは、一九世紀の条件のもとでマルクスが立てたこれらの教育論を、そのまま教条にして、現代の教育論にあてはめて語る必要はありません。(不破『「資本論」全三部を読む 第三冊』p.61)

と述べているほどである。*3



森毅の講演と比較して

 この志位講演の2週間ほど前(11月9日)、全国教職員日本共産党後援会が主催して「第2回JCPエデュケーションミーティング」というのが行われた(オンライン)。共産党文教委員会責任者の藤森毅が話をして、なぜかぼくも聴く機会があった(笑)。

 現場の政策責任者である藤森の話には、こうした志位の講演のような奇妙な「隙」がない。

 科学的社会主義と教育を語っているところも、「人格の完成」については語っているが、『資本論』の大工業の話などはせず、人格の提起がカントからあって、ヘーゲルがそれを没却しようとしたけど、カントをむしろ引き継いだのがマルクスであるという角度から語っている。そしてフォイエルバッハ・テーゼで見せたマルクスの人間観から教育の方向を述べているのである。

 この角度で問題を立てたのはユニークだとは思うが、他方で、志位の「人間の全面発達」の問題が入っていないのは、いかがなものかと思った。

 そのあたりは、まあ聞いた人が比較してみてくれ。

*1:共産主義社会では労働は生きるためにやむをえず行われる賃労働から、社会の必要や自分の意欲からを自覚した生き生きした自発的労働に変わる、というマルクスの命題を、志位は無意識に感じている可能性がある。「賃労働は、奴隷労働と同じように、また農奴の労働とも同じように、一時的な、下級の〈社会的〉形態にすぎず、やがては、自発的な手、いそいそとした精神、喜びにみちた心で勤労にしたがう結合的労働に席をゆずって消滅すべき運命にあるということ、これである」(マルクス「国際労働者協会創立宣言」/『マルクス インタナショナル』新日本出版社p.19)。だがここは志位自身が7時間労働制の話をしているのだから当然資本主義下での緊急の改革の話をしていることは明らかである。

*2:こうした道具的・一面的な目的に教育を従属させる教育観を批判し、人間の全面発達を中心に据えるということは、角度を変えると、子どもそのものを中心・真ん中においた教育ということだとも言える。「将来就職して会社でがんばれる人間になるか」という尺度で子どもを改造するのではなく、目の前の子どもが何に直面し、どう成長しようとしているかを考えるという教育観である。

*3:ちなみに不破もこの叙述の後に「教育と生産的労働の結合」について触れて「マルクスのこの精神は、大いに積極的に受け継ぐ必要がある」と述べているが、それはあくまで社会のすべてのメンバーがどうしたら物質的生産に参加するかという角度からの話であって、「未来の教育」の命題として「教育と生産的労働の結合」を受けつげ、という話ではない。また、前の記事でも書いたが、そもそも「社会のすべてのメンバーが物質的生産に参加する」という社会像自体に無理がある。